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南部アフリカ研究会フィナーレ会合報告

随分遅くなりましたが、2月25日に開催された研究会の議事要旨が
完成したので貼り付けておきます。具体的な議論については、「More」
をクリックして、詳細を読んでくださいませ。
 これで1997年に仲間たちとつくった最初の研究会が本当にクローズ
することになります。安堵の一方、とってもさびしい気もします。が、「お
わりもはじまりの一歩」という心構えで、いきたいと思います。今後は、
京大の南部アフリカ地域研究会へバトンタッチ!
http://areainfo.asafas.kyoto-u.ac.jp/nanbu/gaiyou.html
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南部アフリカ研究会 フィナーレ会合
「南部アフリカ地域と私~これまでとこれから」
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南部アフリカ研究会は、南部アフリカ地域をフィールドとして研究を行う
若手研究者や大学院生により1990年代後半に立ちあげられました。
以来、年数回の定 例会の開催とメーリングリストを通じた情報交換を
軸として活動し、若手の発表の場の確保や南部アフリカ地域研究の振
興に役割を果たしてきましたが、 2007年6月に活動を休止するに至り、
今回、下記の要領で「フィナーレ会合」を開催いたしました。
■日時:2010年2月25日(木)17時~19時半(19時半~懇親会)
■会場:東京外国語大学 本郷サテライト(東京都文京区本郷2-14-10)
■式次第:
1. 基調発表(小倉充夫氏 津田塾大学)
「南部アフリカ地域と私~『南部アフリカ社会の百年』」
2. コメント(島田周平氏 京都大学)
3. 議論
4. お知らせ
 (1)会計報告
 (2)林晃史氏に寄贈いただいた南部アフリカ文庫の津田塾大学図書館での公開について
■参加者:26名

議事要旨
1.基調発表「南部アフリカ地域と私~『南部アフリカ社会の百年』」
(小倉充夫氏 津田塾大学)
<「More]をクリックしてください。>



Ⅰ 『南部アフリカ社会の百年』概要
序章 ザンビア農村社会と国際関係―課題と方法―
ペタウケ農村、ザンビア(北ローデシア)、南部アフリカという異なる次元の地域間の重層的関係性、これらの地域を取り巻く国際的関係性と歴史的変遷
南部アフリカ農村(ンセンガ人農村社会)にとっての植民地支配、独立と冷戦、市場経済化の意味を問う
方法としての国際社会学
 西欧市民社会と国民国家を対象としてきた社会学の問い直し 
 社会の問題を国際的関係性の中で把握する(研究様式としての国際社会学)
第1章 植民地期の労働移動と地域社会
 チクンダ人、ポルトガル人、ンゴニ人、イギリス人による侵略の歴史
 植民地行政の下で村長が首長に、そして首長国の形成
 労働力供給地という客観的条件と人々の対応
  県レベル行政官の記録 古老からの聴き取り
第2章独立後の労働移動と地域社会
 出稼ぎ還流型(セミ・プロレタリアート)
  近代部門における労働力再生産費の削減
  それを可能にした農村共同体と農業・土地制度
 出身村への帰還の回避と共同体規範・呪術への恐れ
 農村・農村間移動
第3章経済改革と農村社会
 1 構造調整と農業生産
  トウモロコシ・落花生の作付面積・収穫とその変化
構造調整の影響 世帯収入源の多様化による生計維持
 2 国境の村
  越境耕作、越境交易
 3 ペタウケ・ボマの定住者
  都市・農村間移動から地方都市へ
 4 地方市場における商工業従事者と農村社会
  兼業化、副業による市場経済の展開
  顧客・事業主の農民的性格、地方都市における「伝統的」規範
 5 格差と公正および社会規範
  相互扶助とその危機
  異議申し立てとしての「呪術の園」
第4章民主化と民族間関係(省略)
終章 農村社会の新たな百年
 アフリカ分割・ヴェルサイユ体制と文明化
 冷戦体制と近代化、ポスト冷戦体制と民主化・市場経済化
 資源国への投資 エンクレーヴ・労働節約的

Ⅱ 「南部アフリカ社会の百年」まで
国際関係学科・大学院総合演習の学際性(専門諸科学の問い直し)
 学問分野の不均等発展による利点
1987~1993、1994~2006 調査

Ⅲ 「南部アフリカ社会の百年」から(第4章の展開)
1 南部アフリカ国家と民族
  多言語話者からなる多言語国家の形成
  話し言葉(母語)と書き言葉(外国語)の乖離  階層化と「アフリカ問題」
2 ムガベ独裁体制成立をどうとらえるか
  独立後に見られる一般的傾向? ムガベの「本質」?
  読書好きの少年、優秀な教師、血塗られたマルキスト、漸進的共存路線の政治家・・・
  何がムガベを変えたのか

Ⅳ 対象の括り方
 林報告(「南部アフリカ地域概念の変遷」)(2003年7月12日)
客観的構造・外発的枠組に対する主体的な関係の束・内発的枠組
  生活世界としての関係の総体 外発的枠組の内発的枠組への転化
歴史的に作られてきたどの関係性に注目するのか
境界の設定(支配と抵抗のせめぎ合い)

2.コメントと質疑応答(島田周平氏 京都大学)
小倉先生が以前に出版された『発展と開発の社会学』は、伝統的な社会学の難しさと従属理論が同居していた。社会学を抜け出そうとしながらもまだ達成されていない感があったが、今回の本は、地域を見るが、その地域はすでに国際社会につながっているということが全編で述べられている。つまり、ついに社会学を出られたのかな、と感じた。現在の京都大学でもアジア経済研究所でも他分野が混在していて、自分の専門を守れない。自分が非常に大事にしているものが、他の人から見ると、何故そんなにこだわるのか理解できない。それが垣間見られて面白かった。その前提で三点質問したい。

質問1
社会学から解き放たれて素直な目で見るようになってから見えてきたと思われるのが呪術のもつ意味の重要性ではないか。これは今までの小倉先生にはなかった指摘であると思う。南部アフリカのmigrationは循環型が多いと言われていたが、その循環に影響を与えていた要素として、資本主義的要素に加え、呪術といったものも出稼ぎ者にとって大きな要因となっているという指摘である。新興宗教もおそらくこのことと無関係ではないと考えるが、なぜ呪術がそれほど重く扱われるようになったのかという点について小倉さんの意見をお聞きしたい。 
応答1(呪術について、人びとの対応はなぜ呪術でなくてはならなかったのか)
  わからない。先行研究の中では、呪術が語られている。私は、呪術が変化への対応(リアクション)として用いられている、例えば貧困格差、アパルトヘイトなどへのリアクションと読みとった。実際に迫害を受ける、ではなく、受けるかもしれないという恐れから。  なぜある変化に対するリアクションが別の物ではなかったのか、今後勉強していきたい。  チェワ・ンセンガ達は、ザンビアの中では呪術を使う人たちとして有名なので、彼らの事例から一般化するのは言い過ぎかもしれない。
質問2
大塚史学などでも問題にされている局地的市場圏の議論に照らし合わせると、今日の発表で指摘された、新しい循環型migration(田舎には戻りたくない、でも大都市にももういれない)による地方都市への帰還者の集積が、何か新しい形の地方都市の萌芽と見られないか。つまり、資本と技術を兼ね備えた帰還者が蓄積されているわけで、そこにかつての局地的市場圏とは違うものに、新しい形の地方市場圏が生まれる可能性があるのではないかという点に関して意見をお聞きしたい。
応答2
まさに同じ考え。新しい地方都市として発展できるのではないか。西欧から導かれた経験・一般化はアフリカでは通用しないということはよくいわれるが、諸関係が数百年前のヨーロッパと現代のアフリカでは違うのは当たり前で、そういったことを踏まえると、ヨーロッパ型でないから発展できないというのはバカな話で違った可能性がある。
質問3
カウンダさんの統治について、彼の政治が外発的な関係で保たれたということもあるが、国内的に自分の出身地である東部に強い利益誘導をしようといった意識が他のアフリカ諸国の指導者に比べ少なく、国全体の統治者としての意識が高かったのではないか。外部条件の変動への対応で手一杯だったためかもしれないが、内政へと向かうエネルギーが少なかったことが、13年もの平安が続いた要因の一つではないか。彼の政治のやり方をもう少し検証する必要があるのでは?
応答3
  私もそういうつもりで、従来書いてきた。カウンダ時代の統治の特徴ということで、外的な脅威というものもあるが、それだけではない。多元的な要素がある。人間的な要素からいくと、父親がチェワだが育ったのは別の地域・言語で、民族を超えた存在だったこと、他にも様々な要素があって統治期間が長かった。権威主義ながら多極共存というところが、他のアフリカ諸国とは違った点。

その他の参加者のコメントや質問とそれへの応答
終章Ⅲを読むと、僕は部族主義者だから、小倉先生でもわかってもらえないのかと思ってしまう。自分なら「多言語話者」ではなく「他部族者」とする。言語だけじゃないから。部族であるからこそ現代の国家に生きることができない。p.34 「植民地の独立とは民族国家の主権の回復(を意味したわけではない)」もともとないのになぜ「民族国家」という言葉がでてくるのか?
p.34 引用部分はそういうことを意図したわけではない。こういうものを書くときは民族の定義を書くべきで、それが不十分だったかと思う。ネイションという用語はどうしても国民国家と不可分である。民族というものは確固とした実体というわけではないが、民族の主体的側面を重視したいので、研究者のような第三者が勝手に境界を決める場合があるエスニック・グループという概念は避けた。

言葉の整理をしたい。というのは、未だに部族・nationを理解できないからだ。むしろ、すべてnationにすればいいのでは。Nationには二つの意味があると思う。国家元首によって国内の中に作られた1つのnationと、国内にいる様々なnation(部族)。もう一点はコメントだが、現代政治学の問題点として、アフリカ国家を類型化しようという動きがある。これについてどう思われるか。
民族・国民という二つの意味を含めて使っている。Ethnicは懐疑的なので使わない。nationにはどうしても国民国家という不可分の意味がある。民族というものは確固とした実物というわけではなく、民族が主体的で独立したものとして使われることもあれば、学者が勝手に境界を決める場合もある。いちいち使いわけをしないために統一した。
類型化に対しては私もそう思う。不勉強なのをそのせいにもしているが。
私は歴史が専門なので、その観点から質問をしたい。南部アフリカ史の時期区分であるが、この本では、①植民地支配前、②植民地支配期、③独立、④80年代、⑤ポスト冷戦期と区分されているようだが、先生が意図されている人びとの生活観がこのようなものだと了承されてこのように区分されているのか?また、1、2章では地域社会と書かれているが、3章では農村社会とされているが。概念的には後者だと思うが、なぜ説明概念を変えたのか。
この時代区分がどうよう根拠でなされているのかはっきりしていない、ということに対して私は十分反論することはできない。植民地時代、独立・冷戦時代、冷戦後の急速なグローバル化といったものが重要なポイントとしてあるのでは。(場合によってこれらは重なる場合もある。)
書き手の都合で、地域社会というときはンセンガが住んでいるボマも含む地域全体、農村社会は、そうした中で、農業・農民・村レベルで検討している場合に使った。地域社会は村を避けていく場合。厳密に考えると、そこの使い訳をもっと明確すれば良かった。
グローバル化・市場経済化・民主化とかこれから先どうなるのだろうかと10年程前は心配していた。しかし、本の中にも出ているように、村の中でエンジンポンプを使い始めるとか、センターピボットの灌漑(グーグルで見た)の数が急速に増えるなどの現象がある。何かすごい力を感じさせるものがある。歴史は繰り返すとおっしゃっているが、鉱物資源をめぐっての投資など今までとは違う新しい発展が起こっているのではないか。そういったことを考えると、ンセンガは今後どうなっていくのか?
グローバリゼーションによる影響の良い面があるのではということについて、この本が対象とした地域ではネガティブな側面が多い。消費地から離れている、構造調整によって集荷がなくなったという点にそれは表れている。だからといって構造調整=ネガティブではなく、もちろん地域差がある。女性の現金収入あるいは労働の対価として、酒造りは非常に重要な役割を果たしている。
国際政治学会誌の中で書評を書かせていただいており、今日はそこで書けなかった点を先取りして質問させていただく。私は南アフリカの年金について研究しているが、本の中で、ザンビア、ンセンガの暮らしている社会は、世界の中でも、南部アフリカの中でも、ザンビアの中でも「周辺の中でもさらに周辺」とされているが、「ザンビアは社会保障がなくて、土地を持ち続けたり、地方都市にいながらも農村での活動を続けているのが戦略となっている」というようなことが本の中で書かれていた。世銀が農村で年金を配布して貧困削減につなげるというのが戦略の主流となっているが、そういったものはンセンガの生活面にどのような影響を与えているのか。または全く与えていないのか。
ザンビアに年金がないわけではないが、公務員の一部などに限られている。そのため私が対象とした人びとはこのような国家の保障からもれている。国家による保障を、家族による絆によって代替しているといえる。そういう意味では、国による絆がうまく機能していないために、家族という共同体が決定的に重要といえる。村落における相互扶助が、日本ほどではないにしても弱体化しており、なおかつ国家による保障がないという意味で、二重の危機。
ジンバブエに住んでいたことがあり、移民について、マラウイ系が多くてザンビア系が少ない印象を受けた。何か理由はあるか。
マラウイよりはザンビアの人たちの方が状況が良いのでは。短期的な問題。
吉国先生の本を読めば歴史的なものも含めて書いてある。

3.「南部アフリカ地域と私」というテーマでの自由発言
僕は今、西アフリカの現代史を見ていて、「西アフリカ」という枠組みで地域研究の蓄積が十分でないなと実感している。その意味で、南部アフリカは特別。アパルトヘイトやジンバブエもあるし、「闘ったアフリカ」で一つのスクール(学派)が確立している。仏語圏西アフリカではそういった一つのスクールはない。闘った南部アフリカに対して、西アフリカは今何をやっているのか。一つの憧れがある。
最近気になっていることに、ココア農園における児童労働がある。今アフリカでは15歳以下の人口が過半数を占めている。子どもは可能性なのか、一つの時限爆弾なのか。行ったことある人、実感として子どもは多かったのかなぁとか。
スーダンの紛争について研究している。南北紛争は終わったものの、混沌とした状態が依然として続いている。南部アフリカを見ていると羨ましいが、何か理由があるのか。それとも停滞しているだけなのか、いつも疑問をもっている。
南部アフリカを研究したいという学生に言うのは、どこの国を扱うにしても、最初に南アを勉強してくれということ。法律の徹底性とかそういうのは、西アフリカにはない。独立闘争といっても、かなりシステマチックにやらないと成功しない。ナイジェリアにしてもそう。
コートジボワールの宣伝。ウフェボワニ大統領が、アパルトヘイト時代に南アの飛行機がアビジャンに着くのを許してしまうということがあった。でも「国際社会」は、ウフェボワニ平和賞というのを設けている。第一回の受賞者はデクラークとマンデラ。
更ながら、南アしか見てないということがいかに狭いのか実感している。他の国に興味がないわけではないが、なかなか勉強する時間がない。しかも南アの特定地域の特定イシュー。南アは一国だけ見ているだけではだめで、南部アフリカ、そして国際社会全体という重層性の視点が必要。来年からはアジア経済研究所の南部アフリカ研究会の長となるので、これから勉強頑張ります。
専門は科学史で、自然科学と社会科学を融合させたようなもの。北京に興味があり、中国のアフリカ研究者の研究書を中国で読んだこともある。東アジアに住んでいて、アフリカに興味を持っている研究者たちの交流がない、というのを感じている。東アジアの地域研究とアフリカの地域研究をどうやって有機的に結びつけるかと考えている間に、中国が急速にアフリカに近づいて行って、距離を縮めている。2006年にアフリカの首脳が中国にどっとやってきて(先生の本の中に書かれてあったが)、その時はネットがつながらなくなった。
反省として、南アをずっとやってきて、それを地域の中で位置づけるという力が弱いことを感じた。今後のヒントとしては、白人の地域の女性が作った反アパルトヘイト組織の活動を見ているが、それを地域の中で位置づけようとするとき、かなり限られた地域・ネットワークでやってきており、地域的な展開もなく閉ざされた環境でやっていた。(アフリカ人同士はネットワークがあった。)英語話者・キリスト教というつながりはあるが、重層的にみるためには、地域の重要性を改めて感じた。
小倉先生の発表の最後の部分のムガベ独裁体制について。ムガベ個人とその革命時代・取り巻きなど、彼が倒れた後どのように語れるのか。その時代から連綿とつくられてきた主体性の束。自分もそれに関わっていけたらというのが私と南部アフリカ地域。
小倉先生と同じ世代の人間としてしゃべらせてほしい。私世代にとっては、南部アフリカというのは遠いものだった。ある日突然南アフリカについて研究してほしいとふられたが、自分の動機づけ・研究の方向性について苦労した。イギリスの児童労働に興味があった。社会政策の問題として社会統制に関する論文を見てようやくつながった。今私たちがここ(日本)でどういう問題を抱えていて、それを自分の問題として解決する糸口を見つけていくのが大事。その問題意識が本の序章にも出ている。アフリカに興味があっていくことから始める若い人が多いが、私たちの世代にはアフリカは遠いもので、自分の問題として引きつけることが重要。
モザンビーク研究のきっかけとなったのが、高校生のときにテレビで日本からのPKO派遣が取り上げられていたこと。日本で生まれ、日本に育ち、「国が生まれる」という経験をしていないために、モザンビークの第二の国づくりに惹かれた。ベルリンの壁崩壊で、楽観的に見ていたのが、そうでもなさそう、グローバル化の波にさらされているアフリカが今後どんな発展を遂げるのか、という関心から今に至る。現地でも、日本から来てなぜモザンビークなんだといわれる。英語圏の研究者に大きな影響を受ける。アジア研究(世界の中におけるアジアの位置づけ)なども参考にできると思う。
最後に、南部アフリカ研究会立ち上げの経緯を紹介しておきたい。私がアフリカ学会に顔を出し始めたのは96年。学会発表では、15分しか時間がなくて若手には物足りない。ということで、自分たちで発表できる場を作ろうと考えた。重鎮ばかりが並ぶ場では委縮してしまうということで、最初は若手の研究会として、97年に発足。その後、「自称若手」の皆さんに参加を呼び掛けて、広がりをもった。そして、南部アフリカ地域を考えるシリーズなども行った。最後を迎えてこんなにたくさんの方たちに来ていただいた。この10年ぐらいは、南部アフリカ地域自体も様々な転換を迎え、南部アフリカ地域を一地域として研究する意味も変わってきた。今後も変わって行くであろうし、この研究会がなくなっても、引き続きこの地域を考えていく機会があれば。
京大で学生が南部アフリカ研究会を作って、年に何回か内輪で発表会やっている。今後は、是非そちらにも参加してほしい。
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by africa_class | 2010-05-07 18:55 | 【記録】講演・研究会・原稿
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