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愛媛大学、日本平和学会(広島修道大学)での報告終了

人生で最も忙しかった1週間が終わりかけています、ようやく。
一昨日は愛媛大学で報告、昨日は広島修道大学で以下の発表をしまし
た。今日は、米川正子さん、ルワンダの佐々木和之さんの研究報告です。
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日本平和学会2011年度秋季研究集会
世界構造の揺らぎ~「アラブの春」を超えて~
「アラブの春」とサハラ以南アフリカ
~比較と関係性の視点から~
東京外国語大学
大学院総合国際学研究院
舩田クラーセン さやか
キーワード:中東、北アフリカ、サハラ以南アフリカ、冷戦、構造調整
1.はじめに
 本報告は、2010年末から現在まで続く「アラブの春」とサハラ以南アフリカの関係について、後者に力点をおいて検討するものである。まず報告者は、「アラブの春」の舞台であるチュニジア、エジプト、リビアの地理的条件について検討する。その上で、冷戦後におけるこれら地域と外部世界(特に西側諸国)との関係について、サハラ以南アフリカとの対比で説明を試みる。次に、「アラブの春」にサハラ以南アフリカが与えた影響について可能性という点から考察する。最後に、「アラブの春」が今後サハラ以南アフリカに及ぼす影響について検討する。
 以上の作業を通じて、同じアフリカ大陸上にありながら、まったく異なる地域として取り上げられてきた北アフリカとサハラ以南アフリカの関係について考察したいと考える。ただし、かなりの部分が問題提起に留まることを予め述べておきたい。

2.「アラブの春」はどこで起きたのか?
本部会の議題設定が、既に「アラブの春」と表現されていることにも象徴されるが、2011年1月以降のチュニジア、エジプト、リビアといった北アフリカ地域における政治変動は、「アラブ世界」の出来事として受け止められている。現在、この動きがシリアやバハレーンに飛び火していることからも、この設定は妥当であろう。
しかしながら、サハラ砂漠に分断されているとはいえ、アフリカ大陸上にある北アフリカの政変を「アラブ」の枠組みでのみ検討することは、認識の限界を招かないだろうか。特に、この地域を「中東」と表記し続けてきた日本においては、このことはより意識される必要があると考える。
チュニジアでの政変は、当初から日本の多くの報道で、「中東政変」と報道された。現在でも、「中東政変」という検索に、チュニジア、リビアの政治変動に関する記事がラインナップされる一方、「北アフリカ政変」の検索では個人のブログにしか行きつかない現実がある。
そもそも「中東(the Middle East)」とは何だろうか?誰にとっての「東の真中」なのだろうか。「中東」という言葉が最初に現れたのは、1850年代英国領インドであったと言われている。同地の総督府において、インドから西の地域(特に、イランやアフガニスタン)を言い表すために使用されていた。これを、20世紀初頭の米国海軍戦略家Alfred Thayer Mahanが、ペルシャ湾を中心とする「アラビア(半島)からインドまでの地域」と定義し、その戦略的重要性を訴え有名になった。その後、戦間期に英国軍がエジプトにMiddle East Commandを設置すると、「中東」領域は地中海沿岸地域を含む形で一気に拡大する。ただし、Foreign Affairs誌上でRoderic Davisonが述べているように、冷戦下において中東の重要性は増したものの、「誰も中東がどこを指すのか分からず」、研究者も政府も合意に至っていなかった(Roderic 1960)。しかし、スエズ危機に直面したアイゼンハワー政権としては、何らかの定義をする必要に迫られ、国務長官John Foster Dullesによる次の定義が受け入れられていった。つまり、「(中東とは、)リビアを西端に、パキスタンを東端に、トルコを北端に、アラビア半島を南端とする領域」であり、「これにスーダンとエチオピアが追加される」としたのである。現在、ブリタニカ百科事典(英国出版)では、「モロッコからアラビア半島とイランまでの地域を含む」と定義されている。
以上から、「中東」が英米の軍事戦略上の地域概念であり、軍事的な危機への対応に伴って拡大していった概念であることが分かる。北アフリカ地域もまた、英米にとっての軍事上の重要性の強度によって、それが含む範囲が増減してきた。英国からどうみても「南」にあるモロッコやアルジェリア、チュニジアが「東」に含まれることからも、「中東」は地理的というより地政学的なものであることは明らかであろう。そして、日本を基点とすると西方にあるにもかかわらず、この地域を「中東」と呼び続けることに示されている通り、日本がこの地域をみる視点は欧米追従のままである。
カイロ大学のHassan Hanafiは、以上の視点を「古典的なオリエンタリズム」に基づいたものであると批判し、同地域を「アラブ世界」と呼ぶべきと強調しているが、当然ともいえる指摘であり、本部会企画の真髄もそこにあろう。しかしながら、この地域を「アラブ世界の一部」とする意義(アラビア語を媒体とする情報の拡散や団体間連携の重要性)を理解しつつも、報告者はある疑問を頭から拭い去ることができない。つまりそれは、「北アフリカ」という地理的条件がこの変動に与える影響はなかったのだろうか、という疑問である。
 歴史的にみると、北アフリカ諸国は、「アラブ・ナショナリズム」と「アフリカ・ナショナリズム(パンアフリカニズム)」の両方に深く関与し、戦略的に使い分けてきた。前者の方に常に軸足があったとはいえ、後者への関与はアフリカ大陸内政治を見る限り無視しえぬほど大きなものであった。国連決議を無視して西サハラを植民地支配するモロッコはさておき、いずれの国もアフリカ統一機構(OAU)、そして現在のアフリカ連合(AU)に加盟している。アフリカ全土解放を掲げるOAUにおいて、エジプトやアルジェリア、リビアが果たした役割は大きく、1960年代から70年代、これらの国々にとって「アフリカ・ナショナリズム」もまた重要なアジェンダの一つであった。その後、「アフリカ・ナショナリズム」はサハラ以南アフリカ諸国においても下火になった概念であったが、ここ数年OAU結成時に提唱された「アフリカ合衆国(The United States of Africa)」に最も熱心だったのが、リビアのカダフィー(カッザーフィー)大佐であった。
「アラブの春」をアフリカ大陸上で起きたものとして位置づけ直すことによって見えてくるものについての深い分析は、今後の研究を待ちつつ、本報告ではいくつかの点について検討を試みる。

3.大陸最後の長期独裁としての北アフリカ地域~冷戦構造からの遅れた解放
北アフリカ地域で民衆蜂起のあからさまなターゲットになった「独裁と腐敗」であるが、これまではサハラ以南アフリカの十八番のように考えられてきた。世界で最も腐敗した独裁者のトップ3に、ザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツ元大統領が必ず挙げられてきたことにも象徴される。実際、東西冷戦下の援助合戦によって漁夫の利を得たサハラ以南アフリカ諸国には、独立当初の多党制から一党制への変更を行った国が多く、1980年代末の時点で48カ国の3分の2が一党体制下にあった(武内2005)。
しかし、1980年代後半からの東側諸国の弱体化は、サハラ以南アフリカ内の親ソ政権に打撃を与えるとともに、親米政権の戦略的地位を低下させた。さらには、経済危機への対応と称して、IMF/世銀による構造調整(経済自由化政策)の導入が行われ、多くの国で急激な予算削減や民営化が断行され、大きな混乱が生じた。その結果、それまで外部からの援助に頼る形で支配体制を築いてきた多くの政権の基盤は揺らぎ、あちこちで暴動が起きるきっかけとなった。また、「冷戦の勝者」となった欧米諸国によって、追加援助の条件として民主化が押しつけられたため、いずれの政権も多党制選挙の導入を余儀なくされ、1995年までにほとんどの国が多党制に移行した。この変動は、日本ではほとんど注目されることがなかったが、「アラブの春」と同様に劇的で社会に大きな影響を及ぼしたものとなった。
もちろん、これらの国々において多党制がどの程度定着しているかという点については疑問が残る。このような急激な変化が、ルワンダ虐殺をはじめとしてサハラ以南アフリカ各国で政治的危機を引き起こしたことは記憶に新しい。また、石油などの豊富な資源を有する赤道ギニアやガボンでは、体制に変化はもたらされなかった。また、制度上は多党制を導入しても、アンゴラやモザンビーク、タンザニアのように独立から現在まで、何十年にわたって同じ政権が支配を続けるケースもある。それでも、あらゆる意味で「北アフリカより遅れている」と考えられてきたサハラ以南アフリカにおいて、一党支配体制が20年近く前に崩壊し、体制変動が起きているという点は、注目に値する。
 この違いは、どこから来ているのであろうか。この点について、報告者は、内政に基づくものというより(その重要性は否定しないものの)、対外的な関係に基づくものと考える。冷戦崩壊後、西側諸国にとってサハラ以南アフリカの戦略的重要性は減少したものの、北アフリカや中東地域の重要性は減らず、後者の地域の混乱や親米政権の権力喪失を西側諸国が望まなかったことに起因すると考えるのである。冷戦直後に湾岸戦争が起こったことも多いに影響しているが、北アフリカ・中東地域が置かれた状況はある意味で冷戦期と変わらず、これらの地域は冷戦構造から解放されない「残された地域」の一つであったということもできるだろう。

3.サハラ以南が与えた影響?~「アラブの春」前史としての民衆暴動
以上のように、サハラ以南の体制変動は一足先(20年以上前)にやってきた。外在的な部分も大きかったものの、試行錯誤ながら、政権交代を経験した国も多く、市民社会の前進などが見受けられた(舩田クラーセン2010)。しかし、2005年ごろからこれらの国で、選挙をめぐる権力側による暴力などが散見されるようになり、権力にしがみつこうとする政権側と野党側の衝突が繰り返されてきた。構造調整以降、厳しくなった援助国の監視があるにもかかわらず、なぜこのようなことが起こるのかについては、2000年代半ばから活発化した中国の影響が大きい。反賄賂条約に縛られるOECD加盟国や国連反汚職決議(2000年)に従う必要のある国際機関をしり目に、相手国の体制を問わない中国のサハラ以南アフリカ進出は、これらの国々の腐敗構造を解消するどころか悪化させた。中国の登場は、2008年9月のリーマンショックの影響もあり、欧米各国政府や企業を慌てさせ、サハラ以南アフリカを援助対象としてではなく「Next Market」たる投資先と捉えなおす動きを加速させた。また、資源の供給国であった中国やインドの消費国化は、世界全体の資源の希少化をもたらし、「資源大陸」アフリカへの進出合戦を招いたのである。
その結果、21世紀最後の20年間、実質成長率(年平均一人当り)が―1.1%から0.2%の間を推移していたサハラ以南アフリカに、突如として経済ブームが生じた。資源国の中には20から30%の成長率を記録する国が現れる一方、多くの国で10%近くの成長率が続いている。しかし、このような経済ブームは、「Wabenzi(ベンツ人)」の言葉が象徴するように、「ベンツを乗りまわす富裕層(利権を手にする政権関係者やその仲間)」を生み出す一方、マジョリティを占める貧困者を豊かにしたわけではなかった。目に余るほどの富の一極集中と貧富の格差の増大は、一般の民衆、中でも都市住民の不満を膨らまし続ける結果となった。この時期には、教育に熱心な援助機関の取り組みもあり、サハラ以南アフリカにおいても、初等教育の無償化が進むなど、何らかの教育を受けた若者の数は増えていた。しかし、教育を受けたらよい就職先が見つかるという淡い期待は裏切られる一方、農村での暮らしをネガティブなものとして捉える若者の風潮もあり、都市に滞留する若者が社会問題にもなっていた。
そんな中、2007から2008年に起きた食糧価格の高騰は、一部の国で暴動に発展する。暴動が起きた世界19カ国中、実に5カ国をサハラ以南アフリカ諸国(ケニア、ブルキナ・ファソ、カメルーン、コートジボワール、モーリタニア)が占めたが、これは単に食糧が足りないことへの民衆の不満を意味したわけではなかった。国の富を売り渡すことで私腹を肥やす腐敗した政権関係者への怒りがその背後にあったのである。食糧価格に絡む暴動そのものは小規模なものとして抑え込まれたものの、その後のこれら5カ国の展開を検討すると、2007/08年がある種の画期であったことが分かる。その代表例がケニアであり、長年にわたって安定した政治ゆえに多くの投資を呼び込んできた同国で、選挙に際した暴力が大規模殺戮に至ったことは世界を驚かせた。この政治暴力の主な原因は、政権側の不正や警察や民兵を使った組織的な暴力であったが、政権側も野党側も動員の対象としたのが都市の不満層であった。現在は両者の権力分有によって表面上の平穏を取り戻しているが、安定にはほど遠い現状にある。
また、16年もの間戦争状態にあったものの、1992年の和平合意以来政治的安定と経済成長が高い評価を得てきたモザンビークの首都マプートで、2010年9月、死傷者が出る暴動が発生し3日間にわたって首都機能が麻痺したことは記憶に新しい。2011年夏、現地の市民社会組織の代表はこう述べている。
「チュニジアの政変よりも早い段階で、民衆による激しい政権批判が街頭で行われた国。それはモザンビークである。」
実際、この暴動を扇動したのは、都市に暮らす若者の不満層であり、その際に使われたのは携帯電話の特にSMS機能であった。携帯を持ち、文字が読めるという点で、教育を受ける機会がなかった絶対的貧困層ではない点に注意が必要であろう。
このような経済成長の影で生じつつある格差。硬直した政治体制。食糧価格の高騰。教育を受けた若者層の失業。携帯などの新しいコミュニケーションツール。これらには、「アラブの春」と類似している点が多々ある。もちろん、以上をもってサハラ以南アフリカが北アフリカの政治変動に影響を与えたとはいえない。しかし、「アラブの春」前史として、このような動きがあったことは念頭に置いておくべきであろう。

4.サハラ以南アフリカに及ぼす影響
サハラ以南アフリカが北アフリカに及ぼす影響以上に、北アフリカがサハラ以南アフリカに及ぼす影響の方が大きいであろうという推測はおそらく正しいであろう。先に紹介したモザンビークの市民社会組織は、今夏突如として議会を通過した反汚職法案を例にとり、次のように述べている。
「チュニジア、エジプトの政変の後は、サハラ以南アフリカのいずれの政権も民衆の声を無視することはできなくなった。」
実際、形の上での多党制導入の一方で、1987年以来独裁体制を継続させてきたブルキナ・ファソで本年3月から軍事クーデターや暴動が発生している。他方で、ジンバブエのように、「アラブの春」に関する勉強会がムガベ政権によって弾圧される事態も起きている。
「アラブの春」が、サハラ以南アフリカに残るいくつかの独裁体制を打倒するための希望となるのか、あるいはそれを警戒した各国政権がより強権化を進めることになるのかは、「アラブの春」自体の今後とサハラ以南アフリカの民衆の力量にかかってくるであろう。

5.おわりに
以上、「アラブの春」を、北アフリカとサハラ以南アフリカとの対比から検討を加えてきた。両地域の同時代的な相互関係の実証については、より詳細なる検討が不可欠であり、これについては今後の機会に譲りたい。

参考文献
・Hassan Hanafi (1998), The Middle East, in Whose World?, in Bjorn Olav Utvik & Kunt S. Vikor, The Middle East in a Globalized World, C. Hurst & Co. Ltd.
・Roderic H. Davison (1960), Where is the Middle East, Foreign Affairs 38 (4), 665-675.
・酒井啓子(編)(2011)『<アラブ大変動>を読むー民衆革命の行方』東京外国語大学出版会.
・武内進一(2005)「冷戦後アフリカにおける政治変動―政治的自由化と紛争」『国際政治』140号.
・舩田クラーセンさやか(2010)「変貌するアフリカ市民社会と日本の私たち」峯陽一、武内進一、笹岡雄一(編)『アフリカから学ぶ』有斐閣.
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by africa_class | 2011-10-30 09:58 | 【記録】講演・研究会・原稿
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