ブログトップ

Lifestyle&平和&アフリカ&教育&Others

afriqclass.exblog.jp

【弔い】義父故クラーセン・アレキサンダー(98歳)の20世紀と、21世紀日本の私たち

今朝、ドイツの義父クラーセン・アレキサンダーが亡くなった。98歳だった。
 アレックスは、第一次世界大戦の最中1916年6月24日にドイツのアーヘン市の近くの村で生まれた。3人男兄弟の末っ子だった。「小人」と呼ばれた少年は、早くからその知性を認められるものの、彼が育った時代は、第一次大戦後の激しい不況とインフレのドイツ。よい教育を受け、よい就職をすることなど叶わなかった。
 それでもアレックスは、勉学に励み、ドイツ語の他に、フランス語、ギリシャ語、ラテン語をマスターし、ピアノを嗜む青年に育っていた。しかし、高校を卒業しようともアレックスに職業の選択しはなかった。当時ドイツには未来がなく、国境の向こう側のオランダの散髪屋に奉公に出されたのであった。だからオランダ語も出来る。
 アレックスは、几帳面な性格が買われて散髪屋でせっせと働いたが、散髪屋の下っ端として、また外国人として食べていくのもまた大変な時代であった。ドイツに戻ったアレックスは、「食べていくため」に、職業軍人の道を目指す。字が綺麗で、数学が得意な彼は、すぐに物流の担当を任された。最初の結婚もして、娘が一人誕生した。そんな最中、ドイツではナチスが台頭し、軍もナチスの支配下に入っていった。
 アレックスは、ナチスを「野蛮で何もわかってない奴ら」だと思ったという。しかし、軍の組織で上の命令は絶対である・・・と当時は考えていた。ドイツはどんどん戦争に傾斜していき、ついにアレックスたちはソ連まで遠征に出されることになった。帰ってこられないだろう…そう思って一度戻った故郷では、最初の妻が結核で亡くなり、娘は自分の母に預けられていた。そして、ソ連に向かった彼らを待ち受けていたのは、無謀な戦いと、極寒の収容所での捕虜生活であった。
 アレックスは故郷に戻るまでの8年間、ソ連の収容所で過ごしたという。そこでは多くの仲間たちが、寒さと、飢えと、病気で次々と亡くなっていった。アレックスが生残った理由。それは、彼が早食いだったからだ、と本人はいう。その後の長い年月を、彼は相も変わらず「早食いアレックス」として生きつづけた。特に、スープを食べる速さは尋常ではなく、食べているそばから片足は次のお代わりのために外に飛び出しているほどだった。そして、彼がオランダで褒められたその床屋術によって、ソ連兵の司令官に気に入られたことも彼が生き延びた理由だったという。「僕は、スープの早食いと、ハサミ術によって、生き延びたのだ」と、何度聞いたセリフだったろう。
 帰国したアレックスは、既に思春期を迎えていた娘との同居は断念し、村の若い女性と結婚する。それがマリアだった。マリアの家は農家で、アレックス曰く、「食べ物が豊富にあったから」だという。それぐらい、戦後のドイツも日本と同様に飢えがひどかった。戦時中を思い返して二人は言う。「ナチスなんて奴らにこの国を渡したのが間違いの下だった。あの可哀想な人たちを、私たちは助けることはできなかった」と。
 以上、私の拙いドイツ語で聴いたアレックスの話だった。
 アレックスは戦争そのものの話はしないまま永眠した。テレビで戦争のシーンが出てくると決まって静かに部屋を出て行った。私が机の上に戦争関連の資料を広げていると、そっと目を逸らしながらいったものだった。「君は本当に勉強熱心だ。頑張れ。応援してるよ。」と。
 13年前、初めて出会ったアレックスは、当時85歳。当時巨大な妊婦だった私のために、せっせと料理をつくり、後片付けをし、「7つ星ホテル!」と言われるのを喜んでくれた。「軍で覚えたんだ... けれど、こういう風に役立って嬉しい」そういって、孫の誕生を心待ちにしてくれた。
 息子が生まれた時、ファーストネームはなかなか決まらなかったものの、ミドルネームは生まれる前から決まっていた。勿論、アレキサンダーだった。義父は密かにこれを喜び、初めて出会う孫を、「プティ・アレックス」などと呼んでいた。
 毎年何度のクリスマスを一緒に過ごせるだろう・・・そう思いながら過ごしたクリスマス。13回目のクリスマスが後1か月の所まできていたというのに。つい1か月前、一緒に買い物をし、御皿洗いをし、ゴミ捨てをしてくれてたアレックスだったのに。窓から一生懸命手を振ってくれたあの姿が最期だったのだとは。
 「生まれ変わったら必ず結婚を申し込む」といってくれたアレックスは、本当にそうしてくれるのだろうか?

 私が何人かとか、ドイツ語が下手だとか、そんなことに全く構わない人だった。人を人として、家族を家族として、一生懸命受け入れ、愛してくれた。頑固で偏屈で、余所の人が来たら子どもでも、部屋に逃げ隠れる人だったけれど、私と私の母のことは、昔からの家族のように気を許してくれていた。
 13年だけの、毎年数度の出会いだったけれど、私にとって、クラーセン・アレキサンダーは本当のお父さんだった。だから、息子のこともあるけれど、私はこの「クラーセン」という名前を手放せないのだ。彼らが本当の両親だと、心の底から思っているから。そして、彼らもそれについて一点の曇りもないやり方で接してくれたから。そんな父を失ってしまった今日という日を、私は一生忘れない。
 訃報を聞いてから、ずっと灯している大きなロウソク、彼の大好きだった白ワイン(息子によると赤じゃダメだという)をお供えし、彼が大好きだったのにお金がなくて買えなかったピアノをひたすら弾いて、そして誰も書いたことのない彼の人生の一端を皆に知ってもらいながら、私なりの弔いとしたいと思う。そして、彼が、ここ2年突然はまった日本食の数々を作ってはお供えしたいと思う。

 私のドイツ語の未熟さ故に突っ込んだ話が出来なかったのが、今でも悔やまれるものの、彼が人生を通して、そしてあのような20世紀を一通り体験してきて、一番私たちに伝えたいと考えていたこと。それは、権力を信じるな・・・ということだった。ナショナリズムも、ファシズムも、結局は人びとを幸せになんかしなかった。むしろ、犠牲にしただけだった。耳障りのよい為政者の言葉のどれだって、本当に実現したことがなかったばかりか、それによって多くの人たちを犠牲に駆り立てた。時に、自らの主体性を伴って。時に、何もしないという無作為の作為によって。ホロコーストは起こったのだった。彼は戦後、すべてのものを疑って生き続けた。権威を疑い、ただ祝うことすら拒否したほどであった。それらはすべて空しい、と。

 彼の訃報を耳にしてから、私の中では、ある種の確信のようなものが芽生えている。それは、20世紀を繰り返しちゃいけないということ。人が犠牲になるシステムを当然だと思ってはいけない、という教訓を忘れないこと。人類が、そのような諦めではなく、もっと大きなビジョンに向かって歩かねばならない、でなければあの20世紀の犠牲は何だったのか、と。でも、あの20世紀を忘れて、今日本では犠牲を犠牲とも思わず、自分さえよければの傲慢が生まれつつある。

 そう思って連続ツイートしたのでした。クラーセン・アレキサンダーから学んだこと、それを私なりに「今」どう理解し、どう行動し、どう伝えるのか・・・を考えて。以下、再録しておきます。

先にこちらをお読みください。リツイートした上で以下が来るので。
→http://afriqclass.exblog.jp/16701475
 ロシアンルーレットのように「自分の番」にならなきゃいいや今のままの生活で…と思っている人に→この権利はく奪状態の国・社会において「私の番もあなたの番」も既に来てる。今顕著でないだけ。原発事故被害者の皆さんの苦悩を見れば明らか。「普通に生きる」ことすら簡単に奪われ、取り戻せない。
 
 23歳の時、私は世界で最も過酷な状況下にいる人びとの側から考えることを決め戦後直後のモザンビークに向かいました。以来、徹底して人びとを犠牲にする主体、構造や仕組みを研究してきました。そして20年近くを経て、この「豊かな日本」でそれが出現している実態を日々目の当たりにしています。
 
 皆さんがアフリカについて指摘する全ての「負」が、21世紀初頭の日本で発現しています:①汚職に塗れた政府(政治家・官僚)と利害関係者らの暗躍。②衆目の面前で進む子どもたちの被害(被ばく)。③立ち上がった市民への警察の不当逮捕等の暴力的弾圧。④それを報じないメディア…どうですか?
 
 「可哀想なアフリカの子たち」のためにボランティアに行きたい皆さんですが、日本の市民として皆さんは何をしていますか?「アフリカ紛争後の国づくりを応援」という皆さんですが、311後の日本で何をしていますか?大げさなことでなくていい。何か一つでもやってますか?そういうこと考えてる?
 
 考えることから、知ることから、語り合うことから始めよう。何も遅くない。このまま「自分の番にならない=他の人の番」でルーレットが進むことをただ祈りながら生きるなんて、セコイ考えは止めよう。どうせ自分の番は来てる。新しい社会を築いていかなきゃいけない。できるよ。あなた、が気づけば。
 
 私には、今の日本社会は「底の抜けた状態」に見える。大義もなければ、倫理もない。上に立つ強い人たちが率先して、利己主義に走り、ルールを腐らせ、言葉を嘘と言い逃れで汚し、人びとを助け合いと連帯の民主的な市民社会にではなく、利害衝突する群れの集まりに導こうと。日本や世界の戦前と似てる。
 
 この「上/権力」の作為に対し、民衆は悪状態の責任を「上」にぶつけるのではなく、「下」の者同士でぶつけ合う。隣のあの人みたいにならなければ良い…と。生保額が最低賃金より高ければ、賃金を上げろ!と発想せず。これこそ「上」の思う壺。さらに「外の敵」を登場させれば効果的に民衆統制容易。

 弔いのツイート。人生をナショナリズムとファシズムと戦争に翻弄された98歳の故クラーセン・アレキサンダーへの。彼が生きた20世紀の人を犠牲にするシステムが今日本で堂々復活してるのを目の当たりにして。ホロコーストはナチスが起こしたが、それを支えたのは何もしない「普通の市民」だった。

 お父さん、本当にありがとう。心の底から感謝しています。沢山の優しさと愛と忍耐を、ありがとう。お疲れ様。そして、ゆっくり休んでください。また会う日まで。
[PR]
by africa_class | 2012-11-03 23:43 | 【考】民主主義、社会運動と民衆
<< 【基礎ゼミ:大学で学ぶこと~技... 【公開セミナー:JICA援助・... >>