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援助とKAIZEN:プロサバンナで何故セラード開発が問題にされるかの一考察を通して

続き。これで終わりです。ちょっと前にTWにちらりと書いたカイゼンKAIZENの話をするのにとても良い案件なので事例として取り上げます。

また同日に書いた以下の順にお読みの上、この投稿を読まれる方が分かりやすいと思います。
■「モザンビーク市民社会2組織がプロサバンナ批判声明と外務省・JICAの現地社会理解のギャップに関する考察」
http://afriqclass.exblog.jp/17210917/
■「プロサバンナについての外務省との第一回意見交換会・議案書(全文)」
http://afriqclass.exblog.jp/17211715/
■これらのプロサバンナについての投稿はすべて以下の引き出しに。
http://afriqclass.exblog.jp/i38


1. 何故プロサバンナを批判するときに市民社会はブラジル・セラードの話をするのか?
2. KAIZENカイゼンとは何か?~「あるのは成功だけ」を考察する


1. 何故プロサバンナを批判するときに市民社会はブラジル・セラードの話をするのか?
なぜ、繰り返しモザンビークで行われるプロサバンナを語る時にブラジル・セラードの話になるのか?それは簡単。

JICAも日本政府もモザンビーク政府も、「セラードの成功」がプロサバンナのベースだといっているからです。ずっとそうやって宣伝してきました。そして今日の外務省のプレゼンも半分がセラード開発の成功に関するものでした。なのに、「違いも大きい」と指摘する苦しい展開でしたねえ・・・。段々現地のことが分かれば分かるほど違いに気づかれたのでしょう。なんか順序が限りなく逆だと思うのですが・・・。

アフリカはアフリカです。
 ブラジルではありません。
モザンビーク北部はモザンビーク北部です。
 セラードではりません。
ナンプーラ州はナンプーラ州です。
 ミナス・ジェライス州ではありません。
モナポはモナポであり、同じ州にあってもマレマと違います。
 パラカトゥやアルトパラナイバではありません。
マレマでも道路沿いと道路沿いでない所は違います。
各郡内でも集落によって違います。
なんといっても、この地域は反政府勢力が強いところです。
村長と呼ばれる人も2名いることが多々です。

つまり、「セラード」を大上段に構えることそのものが、オカシナことなのです。
まず誤解と混乱を生み出します。

なぜモザンビーク北部を語るのに、何故ブラジル・セラードが語られなければならないのか?
それは驕りがあるからです。
そして、モザンビーク北部を知らないからです。
モザンビーク北部に生きる人びとのことも、日々の努力も知らないからです。
知らないで、巨大プロジェクトを立ち上げた。
机上のデザインだけで。
BIGな人たちのBIGな野心、功名心。
でも現場を知らない。
今あわてて知るために沢山の税金が投入されています。
本末転倒な帳尻合わせのために。

アフリカでJICAは30年以上の農村開発事業を行ってきました。
「農業」開発ではなく「農村」開発です。
そこに単位当たり収量の話ばかりする農業生産性一本主義とは異なるミソがあるのです。これは昨日も前回も津山さんが指摘した点です。「小農の食料」を考えるのであれば、「単位当たり収量」「農業」だけみてもダメ、ダメなだけでなく彼らの日々の努力を台無しにすることにあるでしょう。

このことを、JICAでもコンサルでも研究者でも、「アフリカの農『村』開発」に関わってきた人々なら知っているはずです。だから、「セラードをモデルに」と打ち上げられる事業に、よく彼らが同意しているな・・・と不思議に思うのです。今皆さんが、アフリカ農民のために立ち上がらないとしたら、現場でやる小さな努力の一つ一つは、今後10年以内に無駄になっていくでしょう。それぐらい市場経済の圧力は凄まじいことは、現場で感じられませんか?アフリカ農民と共に歩んできた皆さん、農民の権利を守る術は外堀がうまっていっています。それは単にグローバル化、企業行為、当該国政府だけでなく、世銀の行動指針や、それを主導した日本政府、我々の政府、そして今回のプロサバンナみたいな事業によって、推進されていくのです。それでいいのでしょうか?

今回、相手にしているのはアフリカのモザンビークの最も小農の活動が盛んな北部です。なぜ、その人びとの貧困・食料・農業・未来の話を、ブラジルをメインにやってきた人たちがするのか?なぜアグリビジネスが農民より先にパートナーになっているのか?なぜブラジルのアグリビジネスの先兵対として、日本の援助が使われなければならないのか?JICAは誰の権利と利益を守りたいのか?JICAにモザンビーク北部に知見がないとしても、例えばタンザニアやザンビアの小農と非常に似通った生活がいとなまれています。両国の農村開発については、JICAや日本の専門家にそれなりの蓄積があるはずです。

なぜ彼らの経験から立ち上げられず(それでも問題が残るとしても)、ブラジル・セラードなのか?ブラジルしか知らない人たちが常に前に出てくるのか?これは、アフリカ農村開発に関わってきた日本の市民社会の側からの疑問でもあります。

さて、もう少し深い分析をしましょう。
さっきの吉田昌夫先生の議定書の最後の部分からヒントを得たいと思います。原文は先の投稿を。
http://afriqclass.exblog.jp/17211715/
「現地の農民組織をはじめとする市民社会の危惧の背景には、同事業がまさに「手本」とするブラジルのセラード開発の「負の遺産」があります。日本ではセラードの成功面ばかりが宣伝されますが、「アグリビジネスとしての成功」の陰で、依然ブラジル国民の三分の一(5400万人)が栄養不良状態にあります(IBGE2010)。また「不毛で無人の大地を農地に変貌した」とされますが、先住民が土地を失い、得た仕事も「半奴隷的労働」と呼ばれる非正規のものが多く、食料不足に陥り、激しい土地闘争 が繰り広げられたことについて、また遺伝子組み換え種(GMO)が圧倒したことについて、モザンビークではよく知られています 。これらの点について、JICAが言及することはありませんが、このような現象について認識はあるでしょうか。どのように理解され、同じ事が繰り返されないための方策をどう考えているのでしょうか。 」

まさにその点にこそ、ブラジル、モザンビーク、世界の市民社会の不安があるのですが、どうやらこの点に関して、話がかみ合わないので、今日の議論を題材に正面から取り上げてみましょう。

なお、依拠するのはブラジル人研究者たちの研究蓄積で、その一覧は次の通り(Pessoa(1988); Mendonça(2009);Inocêncio (2010);Clementes & Fernandes (2012)。詳細は前の投稿を探してください~。

(なお、必ず最後の地図をご覧ください。80年代JICAがセラード事業を開始して数年後に対象州であるミナス・ジェライス州で起きた土地紛争の地図です。当時の現地の新聞に掲載されたものです。)

今日、JICA「セラード実施者&プロサバンナ立案者」の本郷さんは、「セラードは成功した。その証拠は自分の本にすべて書いた。本を読んでどこが問題か指摘すべき」とされましたが、その言葉・表現そのものに問題がすべて埋め込まれているなあ・・・人の無意識とは恐ろしいなあ~と変に納得してしまいました。前回、明治学院大学での公開講演会の際も、同じことをおっしゃっていました。

でも、今日私が最後のまとめで申し上げた通り、そしてご著書購入・読ませていただいていますが、この間問題にされていることは、「JICAや本郷さんたちの本や主張に書かれていないこと」についてなのです。

●森林破壊の負の影響について。
●軍事独裁政権の只中で合意され、調印され、実施されたこと。
●だからこそ、セラード地域に元々暮らしていた住民、しかも先住民や奴隷由来の元々脆弱性を抱え、権力によって周縁化されやすい人びとから土地を奪い、彼らが食べていけなくなり、「半奴隷労働」を余儀なくし、流出したこと。
●これに立ち向かうために、1981年2000を超える農家が立ち上がって、その後土地紛争が頻発したこと。その数、軍事独裁の抑圧下にもかかわらず83年に56件、85年に63件もの数に。
●世界最大の農業生産輸出国となったブラジルで、今日でも依然国民の3分の1が栄養不良なこと。その数5,400万人。

これらを、ブラジルやモザンビークの市民社会、世界、学術関係者も問題視しているのですが、そのことについてどうお考えなのかな~と思うほどに、「成功したんです。私の本に書いています」と繰り返される。なのでますます迷宮入りに。。。

では、なぜこれらの人びとは、マクロ的な「躍進」に比して、以上を問題にするか?これをやっぱり、丁寧に書いておいた方がよさそうですね。

それは、これらの人びとが、数字・アグリビジネスを相手にしているのではないからです。

彼らが心を砕いているのは、「セラード開発の対象となった地域の住民、とりわけ脆弱性を抱え周縁化されやすい人々<貧農・小農/先住民・奴隷由来の人々>」になのです。

圧倒的な権力関係の中で(軍事政権下)、抑圧され数少ない権利を剥奪された人びとにこそ、自分のポジションを置こうという研究者の意気込みと気概を、私はこれらの人たちの著作から感じます。特に、1988年という軍事政権から民政への移行期で、マダマダ政府に批判的な事を述べることが難しかった時代に、現地調査とインタビュー(入植者も先住民も含む)を積み重ねて、超大作博士論文にまとめ、政府と日本自慢の政策(セラード開発)に真正面から挑戦したVera Lucia Pessoaの凄さに、私は心から深い感動を覚えたのでした。その3年後に、同地をのほほーんと留学していた私・・・。恥ずかしい。

Pessoa, Vera Lúcia Salazar (1988), Acção do Estado e as Transformação Agrárias no Cerrado das Zonas de Paracatu e Alto Paranaíba; MG, dissertaion submitted to the Universidade Estadual Paulista.
http://www.lagea.ig.ufu.br/biblioteca/teses/docentes/tese_pessoa_v_l_s.pdf
<=ポルトガル語ですが一読の価値あり。

本来、研究者はこうでなくてはなりません。「御用学者」であってはいけないのです。「弱い側の声に耳を澄ませる」・・・これを社会で誰かがやらないとしたら、それを身分がある程度守られている大学人や研究者がしないとしたら、メディアがしないとしたら、誰がやるのでしょうか?権力構造がどんどん強められる方向で、弱いモノは「自己責任」「怠惰」というレッテル貼りで権利を奪われ続ける社会と世界・・・・にこれ以上加担していいのでしょうか?福島原発事故が発生して、そのことが露呈し、問われてきました。そこから日本の我々が今学ばないとしたら、いつ学ぶのでしょうか?

権力と既得権益は人びとを犠牲にします。その現実を直視せず、「長きに巻かれる」「事なかれ主義で生き延びる」「批判は怖い・みっともない」・・・という論理が社会全体以前に研究者やNGOやメディアに蔓延したら、「いつか来た道」になるでしょう。

でも、そもそも、以上のように「弱きものに寄り添う」ことは、本来開発援助の「当たり前」ではなかったの????という疑問もわきます。私の母を含め、多くの納税者は「可哀想な人を助ける」ために援助は使われていると思いこんでいます。そしてそう思い込ませるような広報をよく見かけます

残念ながら、冷戦期はそうではありませんでした。先日の立教大学でのセミナーでもはっきりした通り。90年代に反省があり、「人間中心の開発」「人間の安全保障」などと言われた時代もありましたが、昨今の「経済成長至上主義」の言説の中で、どこかに葬り去られたご様子で・・・。

一応、「新JICA」のミッションにかろうじて「弱い立場」という言葉は残ってはいますが、「新JICAは、社会的に弱い立場にある人々をさまざまな脅威から保護するために、社会・組織の能力強化と、人々自身の脅威に対処する力の向上を支援します。」
http://www.jica.go.jp/about/vision/index.html

何せビジョンが「すべての人々が恩恵を受ける、ダイナミックな開発を進めます」・・・・つまり、「ごく一部の裕福層だって『すべての人びと』だから支援対象になる」という論理なのでしょうか?「小農とアグリビジネスの共存」もこの一環のような気がしてならないのは、私だけ?JBICとくっついたからなんでしょうかねえ・・・。

この地図をしっかり見て下さい。目に焼き付けましょう。
ブラジル・セラードでJICAのセラード開発が実施された数年後から起こり始めた、先住民らの土地闘争の件数を示したものです。Folha de São Paulo(朝日新聞みたいなもの)の記事の一部です。点で表されているのが、土地を奪われた人びとの土地闘争を示しています。軍事独裁政権のまっただ中での、これらの命がけの抗議運動(50-60件)・・・・その数2000農家を超えたネットワーク・・・点と地図の向こうに、また「大成功援助」のスローガンの向こう側に、このような人びとの存在や想いや命や生活があったことを、私たちは忘れるべきではないと思います。海の向こうで起こったこのような出来事を、皆さんが知らないとしたら、それはJICAや日本政府だけでなく、メディアや私たち研究者の怠慢です。この場を借りて自分の力不足を、私がお世話になったミナスジェライス州の皆さんにお詫びしたいと思います。
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なお、既にモザンビーク北部では、ブラジルの鉱山企業の進出に対して激しい住民抗議が起きています。この鉱山会社にも、日本のナカラ回廊プロジェクトは関与しています。その原型は、「セラード開発の両輪の輪といわれた大カラジャス計画」にあります。「軍事独裁政権下のブラジル中部内陸メガ農業開発+大鉱山開発=モザンビーク北部内陸」の奇妙な符号を、見逃してはいけないのです。(これについてはまた今度)

2. KAIZENカイゼンとは何か?~「あるのは成功だけ」を考察する
しかし、冒頭の本郷さんのご主張「成功しかない。その根拠は自著にある」には論理的にいって3点の問題があると考えられます。(学生の皆さんはこれ以上は読まず、ちょと立ち止まって考えてみましょう。リテラシーチェック)

(1)10歩譲って「ある側面で成功した」からといって、「問題がない」とはいえない。故に、「問題は何か」について実施者として認識し、必要に応じて「過去の痛い教訓」として学習する必要があるが、「問題は一つもない」という理解を押し通すことは「過去からの教訓→現在・未来へのより良い行動」の機会ゼロにしてしまう。
(2)「JICAミッションの「社会的に弱い立場にある人びとの様々な脅威からの保護」という観点からみると、援助が引き起こした「脅威」を再検証する必要があると思われる。しかし、「成功一辺倒」のまま。
(3)事業実施者が、実施した案件について、「成功」と評価するものを、「根拠」とするのは・・・・・・・まあこれ以上書くまでもないでしょう。

私は、家業からも(カイゼン経営コンサルティング)、日本の製造業の「強み」はカイゼンマインドだと思ってきました。とはいえ、専門家らによるとカイゼンやってるといえるのは全日本の5%ぐらいの会社だけで、しかもこれらの会社の中でも、製造現場ではカイゼンがされていても、経営陣がカイゼンマインドを持てず、自分の昇進や組織の論理によって、失敗を隠す傾向が多いと聞いてきました。製造現場でのカイゼンに極めて優れていたトヨタの北米での大失態は、まさにこれを象徴していると言われてきました。またカイゼン・コンサルタントは家の中ではカイゼンにほど遠い存在だそうです。本当に~。

もはや英語KAIZENになったこのカイゼン。一体なんでしょうか?
DNAともマインドとも文化とか精神とも呼ばれます。
「学習する組織 Learning Organisation」にも通じるものです。

私の理解では、その要はたった一つ。
「失敗から学ぶ」
それ以上でなく、それ以下でもない。
「人は過ちを犯す・・・その前提で仕組化する」

これを製造現場でどう実践するのか?
トヨタのラインでは、何か問題が起こるとブザーが鳴ります。
その時、必ずラインは止まります。どんな忙しくても、納期間近でも止めます。
ブザーが鳴ったところに、「問題分析チーム」的な人たちが駆けつけます。

そして問題を起こした人を外し、問題を讃えます!
問題を起こした人はそれを責められません。
と同時に、問題分析チームには入れないし、影響を及ぼせません。
なぜなら、問題を起こした当事者は、それを認めることが難しいからです。

その「感情」こそが、真に問題を分析し、二度と同じ問題が発生しないように予防するという、カイゼンの肝にとって邪魔なものであり、阻害要因です。だから、「問題を起こした人を責めない」「その代り問題原因発見に最大限に協力せねばならず、かつチームは徹底的に多角度から問題を追及します」。

なぜ問題を讃えるのか?
問題がない社会も仕組も人もおらず、特に人間は過ちを犯す生き物だからです。となれば、問題が今ここでこういう形で起こったために、将来のもっと大きな問題を回避できた、ありがとう!となるのです。

この根底には、二つの一見相反する精神があると思います。
(1)問題は起こるモノだ。
(2)だが問題をゼロにする究極の探究を続けるんだ。

つまり、
■「問題をゼロにする」というビジョンを皆が目指すこと
■そのために問題から学ぶことを仕組化すること
■ゼロポイントがあり得ないとしても、それを続けていくこと意味(「継続は力なり」)

それが、カイゼンなのです。


あ、無料で教えてしまった・・・。(これ高いんです)
今、日本のあらゆる組織に必要なのは以上のことです。
せっかく日本で始まり、世界に誇れるものとして普及したカイゼン。

そのインパクトが対象地域や国の人びとに大きな援助だからこそ、採り入れてほしい。
というのは夢物語かな?
でも、結局繰り返し・・・なんですよね。
「継続は力なり」
諦めるのは簡単なので、皆さんの中のカイゼンDNAが目覚める、あるいは創造されることを祈りつつ・・・。
by africa_class | 2013-01-25 21:04 | 土地争奪・プロサバンナ問題
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