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経済至上主義に飼い慣らされる私たちと水俣、セラード開発、原発事故、プロサバンナ問題…を超えて。

先程改訂が終わった『アフリカと内発的発展』のある章の「おわりに」を転載します。特に、最後のパラグラフを、アフリカや援助関係者以外の皆さんに読んでほしいと思っています。これは私たちの、私たちの社会の問題だと思うからです。4月に出版予定です。お楽しみに。

3月28日2時半~5時半まで、先般『国際開発研究』(国際開発学会ジャーナル)に巻頭論文を出された小倉充夫先生と共に、書評会に挑みます。先生の論文は以下の原稿を書いた後に読んだのですが、期せずして同じようなことを考えていたことに(まったくレベルは違うのですが)、驚きました。原文を読んでほしいですが、なかなか入手難しいと思うので、以下紹介ブログです。

◆援助・開発関係者が読むべき論考:「開発社会学の軌跡と地平」(小倉充夫)「開発/発展」をめぐって
http://afriqclass.exblog.jp/17202555/

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おわりに

ここまで、プロサバンナ事業にみられる言説の推移と背景分析、そして内発的発展論に視座をおき考察を行ってきた。その結果、同事業における多くの問題が、事業の成立過程や背景、つまり政治・外交・宣伝プロジェクトとして進められ、現場の人びと(小農)やそのニーズから立ち上げられたものではなかったことに起因していることが明らかになった。「広大な未使用地」「低生産性」「貧困」「食料不足」といった外部者が規定する不足ばかりが、マクロ・データや写真 に依拠して想定され、根本原因の詳細な検討も当事者との相談もないままに、先に「農業投資」「企業参入」「モデル」という処方箋が示された。そして、このようなアプローチの起源に、同事業がモデルとする軍事独裁政権下のブラジルで開始され、地元住民から土地と生活手段を奪い周縁化を余儀なくしたセラード開発事業の「負の遺産」があったことも明らかになった。

もちろん、モザンビーク北部そして人びとの日々の生活に、少なからぬ課題があることは事実である。何もせず、現状のままで良いというわけではない。しかし、「外からの解決」を前提とする前に念頭におきたいのは、モザンビーク北部が最も政権中枢から遠く、最も役人と援助機関に嫌われ、したがって最も自律的に人びとが生活を営んできた地域であるという歴史的事実である。北部の小農こそ、モザンビークの食料や海外輸出向け農産物の大部分を生み出し、国の戦後復興に貢献してきたのであるが、それはJICAによって「粗放で低生産」と否定される手法によってであった。食料危機に陥ったジンバブエやマラウイの危機を緩和したのも、このようなモザンビークの小農たちの生産する食料によってであった。しかし、このような農民の営みや努力はまったく言及されず、「新しいモデル」と「大企業の参入」が不可欠と断定されている。

長年にわたって援助関係者は、「ないもの(ニーズ)」を発見し、その処方箋を描くことによって開発事業を立案してきた。しかし、そのアプローチは1990年代後半には反省を余儀なくされ、「あるもの(livelihood)」への注目の重要性が認識されるようになった。このような転換をもたらしたのが、国内的には水俣学であり内発的発展論、国際的には1995年の社会開発フォーラムであった。しかし、冷戦後世界の市場経済化は、日本を含むあらゆる人びとの認識に影響を及ぼし、現在では経済成長至上主義を促進することだけが貧困削減と食料安全保障の処方箋だとの認識が一般化しつつある。

アフリカにおいて、農業投資という名の下に起きている急激な変化は、世界経済の一体化の最終局面としてアフリカの辺境の空間と住民の組み込みである。これは19世紀末に始まった経済至上主義の全面・極大化のプロセスが、植民地支配、反植民地主義運動による解放と独立、冷戦下での新植民地主義と独裁、ポスト冷戦期の民主化と大量援助の時代を経て、「貧困解消の処方箋」として主流化しつつある現実を示している。このような中、アフリカの民衆の内発性や主権とは何を意味するのか。このような時代を生きる農村の人びとの未来のため、開発・援助事業はどうあるべきだったのだろうか。

そもそもモザンビークに対する日本の農業支援の歴史は輝かしいものではなかった。独立後の激しい戦時中の1985年、「食糧増産援助」の名の下に農薬・化学肥料援助で幕を開け、使われない農薬の蓄積と汚染が2000年に発覚するまで続けられた。同援助は、日本のメーカーや商社のための還流型援助として悪名が高く、市民による運動の成果として、最終的に目的と対象を明確にする「貧困農民支援」に衣替えした 。その後、細々と米生産の支援がなされていたが、次に日本が大々的に打ち出したのがこのプロサバンナ事業であった。これに、モザンビークの市民社会、研究者、他ドナーは、「なぜ日本は過ちを繰り返すのか」と疑問を投げかけている(インタビュー,2011年9月;2012年7-9月)。

この点について参考になるのが、アフリカにおけるインド企業による土地収奪について研究するインド・ネルー大学ジャヤティ・ゴシ(Jayati Ghosi)教授(経済学)の次の一言である。

「インドでは到底許されない広大な土地や水資源の取得が、アフリカでは可能になっている。インドで出来ない理由は、農民や市民が黙っていないから。(略)これは国際連帯の話ではない。インド企業はアフリカで新植民地主義者のように振る舞っている。このように振る舞うことがアフリカで出来たのであれば、インドでも出来るであろう 。」

これが日本であったら、プロサバンナ事業の立案から形成までのプロセスは可能だったろうか。可能ではなかったろうと思う一方で、「(インドの)農民や市民は黙っていないだろう」と断言できない現実がある。むしろ、彼女の最後の問い「このようなことをアフリカで出来たのであれば、日本でも出来るのではないか」に、思い当たるところがある。

「右肩上がりの経済成長」がすべてを解決するとの処方箋が相も変わらず描かれ続け、自らの権利が浸食される一方であるにも拘わらず、民衆自身がそのことへの十分な自覚も対処もない日本である。あれほどまでの原発事故が起こってなお、この国の為政者そして資本や企業は、被災当事者に寄り添うことなく反省もなく、利己的な利益を守ることに必死である。それに抗うべき民衆は、経済至上主義に飼い慣らされる一方である。

我々の社会の鏡が日本の援助なのであり、援助もまた我々の社会の在り方を炙り出しているといえる。だから何度も何度も、日本でも日本外、ブラジルでも、モザンビークでも繰り返すのである。

しかし、このような世界構造と国内構造、認識枠組みの中でも、やはり希望を見出したいと思う。内発的発展の概念が、水俣で当事者自身によって育まれたように。軍事独裁下にも拘わらず、セラードの土地なし農民たちが立ち上がったように。権威主義体制に近い今のモザンビークで、市民社会が立ち上がりつつあるように。そして、放射能汚染から子どもを守ろうとする家族や市民、脱/反原発を訴えて全国各地で立ち上がった市民のように。危機の中から主権意識と連帯が育まれ、社会が変わることを。」
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by africa_class | 2013-03-10 23:15 | 【考】土地争奪・プロサバンナ/マトピバ
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