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Lifestyle&平和&アフリカ&教育&Others

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突然、東京外国語大学を辞める、ということ。

気づいたら最後の投稿から1年が経過していた…ようだ。

そして、3月31日で大学を辞めた。
あまりに突然な決断だったので、自分でもビックリしている。
3月に入っていきなり決めて、なんとか滑り込みで2014年度で東京外国語大学を後にした。
あまりに病気が治らないので、これは原因を絶つしかないと年末に思い至ったのだが、あまりに体調が悪く、辞める事自体がストレスすぎて、ある日「辞める!」との衝動に突き動かされるまで、とてもじゃないけれど無理だった。

それにしても、ゼミ生、卒業生ら延べ50人近くのヘルプがなければ、今でも研究室を片付けていたかもしれない…心からダンケ!正直、1年ぶりに研究室の扉を開けた時、目眩がして、どうしようか…と倒れそうになったほどだったが、あの「研究室」がもうないというのも、不思議な感覚だ。

「ゼミのお父さん」こと「マコンデのお面」が睨みを利かせていた、ありとあらゆる魔物の棲む空間!

モロッコで買った香木や、ザンジバルの海の塩の塊や、ボスニアの破裂した後の地雷や、ポルトガル植民地時代のコインや、海の底で眠っていた近世のビーズのネックレスや、子どもたちの写真や、ルースファーストのポスターや、息子の描いた数々の絵や、奈良の山奥の寺で撮った写真や、早くに亡くなってしまった尊敬する先生のお連れ合いのお手紙や、ゼミ生たちが記念に贈ってくれたお茶のセットや、世界のあらゆるお茶やコーヒーの、不思議な匂いのする空間。

「あれ」はもうないのだ。
でも、しっかり私の中に焼き付いている。
2004年から2015年まで存在した、自分と自分の歩んだ道が詰まった空間。

今でも懐かしいのは、実は2015年その時点の最後の姿ではなく、2004年に着任したてのある昼の様子。
自分の山ほどの資料が棚に納まり、世界中のものがそこかしこに陳列され、大きな青いソファーで寝転がって、授業の合間に昼寝していた(!)あの春のことだった。広い窓からは、桜と調布飛行場が見えて、なんとのどかなんだろ・・・と感激したものだった。着任早々は誰もドアをノックせず、勝手に入ってくることもなく、なんといい気分だったろう。自分の「城」ができたみたいで、凄く嬉しかった。が、それも10日間しか続かず・・・だった。そして、その10日間以降は、あまり思い出したくないことの方が多い日々だった。

ポルトガル語教員として着任したはずの私が、何故か大学院でその時始まった英語で紛争や平和構築を外国人の院生に教えるコースの担当とされ、新設コース故の無理難題と混乱を、結果として、一切合財引き受けてしまった。そもそも、紛争と平和構築の専門家がポルトガル語教員の新任の私しかいないところで、そんなコース始めるなんておかしなことだったのだが、「カネほしさ」というのだろうか。あの時、そして今も、大学というところは、キャッチーで新しくみえる何かをしなくてはならない「競争的事業主体」に成り変わってしまった。(その後、コースには専門家の先生たちを苦闘の末そろえることができたのでもう大丈夫だが)。

それだけでも、てんやわんやなのに、そして語学教員としての授業コマ・ノルマの多さにも辟易していたのに(なんと合計週9コマ!)、「競争的経費」という名の「文科省大学飴と鞭計画」のメンバーとして、あれもこれものプロジェクトに入れられてしまった。エクセルとパワポが使えて、NGOをしていた・・・というだけで。でも、日系ブラジル人をはじめとする日本の外国人児童の学習補助ほど、外大と外大生が社会に貢献できる事業はなかったので、これもまたよしとしよう。

今だから書けるが、着任して1年経過して「事件」が発生した後、毎日大学を辞めたいと思って働いてきた。だけど、始めたことはやり遂げる、しかも大きく成長させて、バトンを託す人を見つける/育ててから抜ける・・・のが信条だった私には、「辞める」という選択肢は限りなくなかった。自己否定に繋がるような気がしたからだ。結果的に、続けて、バトンたっちまで、いずれのプロジェクトもコースもやってしまったが故に、「あの人が被害者のはずがない」「鉄のように強い女だ」「ほら元気じゃないか」とかいって、組織的いじめがずーーと続く結果となった。

今となっては、そんな環境で、そんな気持ちを抱えながら、どうやって10年も過ごしたのか検討もつかない。病気になって分かったのは、最後はやはり自分の心と身体を優先すべきなのだ、ということ。倒れてしまったら、死んでしまったら、元も子もない。<=気づくの遅すぎ…。

ということで研究室。
「あれがない」ということは、この先に道が拓けていくのだ。
そのことは、断捨離的に、なんともいえない潔さと、嬉しさを感じる。

それにしても、石の上にも3年というが、実に11年。
気づいたら、着任した2004年4月から、11年の歳月が経っていた。自分でもよく頑張ったと褒めてあげたい。(駄目?)

大学の書類には、「次の職場」というのを書く欄があって、当然普通は定年退職でない限り(といっても最近は再雇用という制度もあるそうだが)、「次の大学」を見つけてから辞めるもんだ。
そして正直にいってしまえば、この間、色々な日本の大学から有り難いお誘いを受けて来た。年収は軽く3倍にも(!)なるポスト、教授ポスト、コース長等…有り難いにもほどがある。

相談したら、息子がいった。
「ママ〜今迄貧乏しすぎた〜!数年働いて辞めればいいじゃん!」

いや息子よ。
生き延びるためのカネのために一生懸命働くのは仕方ない。でも、カネ儲けのために働くなんて!(カネ儲けのために働くのであれば、わざわざ20年以上もNGOとかNPOとかいくつも作ってないわい!)

「だから僕はお小遣い1ユーロもないんじゃないか!だから僕自分で木工作品作って売ってるんじゃない!」
「おお素晴らしい〜。その調子、その調子。」
15才になる息子は、がくっと肩を落として、今日も注文された机を自然食品のお店のお兄ちゃんに売りに行った。しめて150ユーロなり。が、息子としては、10万円ぐらいほしいそうだ。カネがほしいというより、自分の作ったものの価値をもっとちゃんと認めてほしいそうなのだ・・・。

自分の人生の道を早く切り拓くって、素晴らしいことだ。
ひと事のように聞こえるかもしれないが、親は子どもに「やってあげること」を減らして「本人がやれること」を増やす後押しをする…が、「親育て・子育ての基本」だと考えている私には、これは重要なポイントだ。大学での教育も、たいした事はしなかったが、それだけは出来たと思う。無責任に聞こえるかもしれないが、よくある「放任主義」とこれは違う。

最初に彼ら、彼女らが考える場(時間・空間)を創造する。
ここから出てくる問いや想いに耳を傾ける。
自分で答えを導いていくのを待つ。
時に、一緒に考える。
そして、一歩を踏み出すのを励ます。見守る。
時にそっと、時にどん、と押す。
こけたら手を差し伸べる。
でも、こけるまで我慢する。
こけたところで一緒に考える。
また立上がるまで一緒にそこにいる。
立上がったら、見守る。
一歩でも半歩でも前に踏み出すまで…。
でも、せっかちなもんで、つい口を出し、手を出し、前を歩いてしまった。。。修行が足りん!

話は脇に逸れたが、カネのために大学で働いたことはなかった。
カネのためなら民間に行けばいい。
外資かなんかのマネージメントで働けばいいだけ。
なにも日本で一番給料の安い大学に行く必要はなかったのだ〜。
しかも、独立行政法人化後ゆえに、月5万円も約束より低い給料となった(博論が終わらず半年着任をのばした私が悪かったのだが)。5万円x12万円x10年間=600万円!
あこぎな話でんな〜。すまん。

そんなカネあったら、市民活動に投じていたものを、とつい思うのだ。有り難いことに、共働き世帯だったため、給料の半分以上は市民活動に消えた11年でもあった。おっと、それは内緒だった。家族には!(今でもこれは内緒話で、自分の休暇には大盤振る舞いが、普段はケチな連れには決していえないことだ)

でも、2004年4月のあの春、私は日本の大学で役に立ちたいと願い、学びたいと願った。
そして、この11年間、一度もそのことを後悔したこともなければ、一瞬たりとも気を緩めて仕事をしたこともなかった。つまり、私はとても、とても、大学での仕事にやりがいを感じ、言葉に言い尽くせないほど幸せだった。

何が幸せって、そこに学生たちがいた。
はにかみと懐疑心の向こうにある、キラキラした瞳の、世界に出て行かんとする若者たちとの出会い。
素直すぎて危うい、疑うことを未だ理解していない、大人になりきれない、磨けば(鍛えれば)光る原石のような。
優しくて、優しさ故に、遠慮してしまって、もはや自分の意見が何かすら見失った、迷い子のような。
人の役にたちたくて、でも行動を起すことに慎重な。
でも、時にするどい切り返しを、ばんばんしてくる熱いあの子たち。
お互いに頼ることを学び、一生の仲間を自分たちでつくっていった。

東京外国語大学に「アフリカ」という大陸がなかった時代に、
一ポルトガル語教員にすぎなかった私とともに、
「アフリカ」の名前を刻み込んだ先駆者たち。

大学に着任した時、一階のガレリアに世界地図の模型があった。
今でも覚えているけれど、それにはアジアと南北アメリカとヨーロッパと中東だけがあった。
そして、アフリカの位置にアフリカがなかったのだ!

「アフリカなんて就職できない人を増やしてどうするんだ?」
「外大の偏差値が下がる」
「フランス語がおかしくなる」

教授会で普通に行われる糾弾の度に、この私でもめげそうになったが、ある時から反論しないことにした。
なぜなら、これら先生たちの学生自身が、アフリカに出会い、変わっていき、これら先生たちの心を揺り動かしてしまったから。学生たちは、大いにすてきに暴れた。昼休みにゲリラ的にイベントをやったり、学内展示がつまんなかった外語祭で、物販からパフォーマンスから、講演会まで、あらゆることに取り組んだ。
大学の中だけでなく、外にも出て行った。

そして、アフリカを学ぶ場がなかった東京で、「アフリカここにあり!」というほどの実績を積み重ねていった。
2004年時点で、「可哀想なアフリカ」だったのが、彼らの活躍のお陰で、「なんか面白い?アフリカ」、「アフリカ本当に知らなくていいの?」に変わっていった。それが、大学を動かしたのだ。

2013年、東京外国語大学にアフリカコースが出来た。
15人定員のコースで、「学部のアフリカの社会科学のコース」としては日本で初であった。
英語圏アフリカとフランス語圏アフリカの先生たちも着任した。
もう思い残すことはなかった。
なのにすぐに離れる決意をしなかったから病気になったのかもしれない。
(ちなみに、何故ポルトガル語教員がアフリカ?!と疑問に思っているあなた様。世界で最も多い数のポルトガル語を公用語とする国がある地域は、アフリカですよ!実に5カ国。)

東京外国語大学で、彼女・彼らと過ごした濃厚で充実した11年間を、30代から40代半ばという人生の中でも重要な時期を過ごしたあの一時代を、決して忘れることはないだろう。(といっても5足のわらじを履いていたので、他の活動も含めてのことではあるが...これはもうやらないけど。わらじは二つでいい。人間には足は二つしかないから。その当たり前も気づけてよかった。)

2008年だったか9年だったかに、「日経ウーマン」という雑誌のインタビューを受けた時、「大学には10年しかいるつもりがなくって、「次」を考えたい」といった時、インタビューをしてくれた人がとても驚いたのに、正直私の方が驚いたのを昨日のことのように覚えている。私にとって、それはごく自然なことだったから。あまりに驚いたからか、それを記事の最後の台詞としてくれた。

人生10年置きに見直してる。
たった4回分しかしていないけれど、10才、20-24はモラトリアム、24才、34才、44才、それぞれで、それまでの10年を見直して、生き方を見つめ直して、次の展開を考えてきた。だって、人生は一度きりだから。しかも、60才まで後15年しかない!・・・としたら、もっと自分の中の可能性の幅をもっと試して、色々なことに挑戦したいじゃない?

まだ出会っていない「自分」に、出会ってみたいと思う。

自分はこういう人間で、この仕事をして、これまでこうだったから、これかもこうだよね・・・という生き方は楽かもしれないけれど、それで墓に入る時に自分の人生を振り返った時、それでいいの?というと、私は「違う!」と思ってしまうたちだったのだ。

だから、あえて自己点検のためもあり、10年おきという期限を区切って、考えることにしてきた。毎日を猛スピードで生きてきたこともあって、一旦立ち止まることが余儀なくされる時間を、どうやっても確保する仕組みにしておこうと考えたというのもある。

とはいえ、11年。
なので、予定から1年余分になってしまった。
少し欲が出てしまったのだ。
未だやり残したことがあるんじゃないか…そう思ってしまった。
できたてホヤホヤのなコースのスムーズな出だしを、見届けたいという欲が出てしまったのだ。
でも、それもまた人生。
あの時、投げ出さなくてよかったとも思う。

また、大学の仕事というのは、若い学生との継続的な仕事であるが故に、途中でいきなり辞めるということは、他大学に行くのであっても難しい。他の先生には難しくないのかもしれないが、「実験的教育(自分を含め)」を志してきた以上、ポーンといなくなるということもできなかった。背中を押したのは、意外にも「病気」だった。

だから、今となっては「病気」にもすごく感謝している。
「病気さん」が私のところに訪れてくれなければ、私は今でも東京外国語大学にいたかもしれない(ひー)!
惰性によって…。

また、残してしまう学生たちに、やはり「申し訳ない」という気持ちには打ち勝つことができなかった。
でも、よく考えたら、「私がいなきゃいけない」というのは私の勝手な思い込みで、私がいないことによって彼らが得たものも多かったはずだったのだ。否、そちらの方がきっと大きかった!

病気になった理由は、まさに大学の「お陰」であるが、今となってはそれについても感謝している。30代から40代初めの「学習」としては、それはそれで良かったと思う。つまり、「日本の古い組織というのは組織のためにあるのであり、その組織の上に立つものはいつの間にかその論理にがんじがらめになる。たとえ、かつて「素晴らしい研究者」であった人でも」ということ。そして、大学といえでも、「お役所」的組織に、限りなくなってしまった現在の哀しい姿を、外大の一員としてではなく、外から眺められることに、心から感謝している。
あのままいたらもっと腐っていたかもしれない。
自分の弱さもあって。

日本はどこに行こうとしているんだろう。
日本の大人たちはどこに行こうとしているのだろう。

サバティカルの半年間と病気の1年間、日本の外にいたこともあって、そのことをずっと考えてきた。
こういう日がくると思っていた。

だから、アフリカの紛争と平和論の授業だというのに、2006年からは、日中戦争における民衆の動員の手法や尖閣諸島の問題を具体的に学生たちにワークしてもらい、何回もの授業を潰して内在する危うさを表面化させ、それを赤裸裸な形で目の前において、皆で議論し、「戦争に民衆を向かわせるシステムのからくり」を理解してもらったのだった。

学生たちのレポートは素晴らしい出来だった。「外大」故に、日本のことを知らず、受験故に「日本の現代史」を十分学習してこなかった若者たちだ。自分で調べ、書いた、日本の過去…それを互いに添削コメントし、チーム内で発表し、「いかにすれば民衆は最も効果的に戦争に動員できるのか?」という恐怖のテーマでチームの考えをまとめていった。その上で、「どうすればこのような動員に抗うことができるのか?」を話し合い、提案してもらった。それを、皆の前で、模造紙に書いた結論を示しながら、次々と発表するチームの学生たち。「遠いアフリカ」から「遠い日本の過去」を学び、「今・自分の立ち位置」を考える…そんなおかしな授業に、真剣に、毎年取り組んだ学生たち。あの授業は、私の中で実は一番好きな授業だった。

そして、仲間達と勝手に編み出したルカサという手を使った「暴力空間」を創出し、それを「平和化」するワーク。尖閣問題をやった時に、皆が自分の中のナショナリズムの強さに驚き、立場をスイッチした時に、相手国の人の気持ちに気づき、それを可視化し、ガレリアに1週間展示した。あれも、私の中では手応えを感じた授業であり、ああいう参加型学習が1.5時間の細切れでしかできないことが非常に残念だった。

いずれにせよ、私が若い頃をのほほーんと過ごせた日本とは劇的に違うものになっていく・・・そんな予感があった2006年ぐらいから、こういうことを延々と学生たちとしていたのだ。おかしな、オカシナ、奇想天外な、、、そんなセンセーと授業に、よくついてきてくれた学生がいたもんだ。まあ、外大なんで、私もある種の「異文化経験」だったのだろう。

そして、2011年3月11日の大地震とそれに伴った原発事故。
人びとの自覚が強まるが故に、権力側はそれを押さえ込もうとあらゆる手を打ってくるだろう…そう気づいた。だからこそ、あれやこれやの活動に今迄以上に身を投じていたのもそのためだった。

しかし、2015年5月の現在、このドイツで思うことは、日本が踏み込んではならぬ泥濘に、ついにどっぷりと足を踏み入れてしまって、皆その事実を理解しているのに、足を取られてしまって身動きできない状況にいるということを、自分の無力感とともに見つめている。

今自分ができることは何なのか?
少なくとも、日本のどこぞやの大学に戻って、また別の10年をすることではない。
日本にこだわるからこそ、今日本にいてはいけない、とも思う。
やることはやった。
できることもやった。
しかし、私の力を沢山のことが超えていた。

今、私は日本から遠く離れた場所で、もう一度日本の過去と今と未来を、真摯に考えなければならない時期にいると感じている。

その日がくるであろうことはずっと分かっていたものの、こんな風にくるとは思っていなかった。
色々な学会で重要な役回りにきて、色々なことができるだけの実績や経験も積んで来たはず・・・の40才半ば。でも、突然病気になり、起き上がることも、思考をまとめることも、そもそも本をまともに読むこともできなくなってしまい、大学の研究室に足を踏み入れることも、大学の校舎に近づく事もできなくなった時、私は一旦すべてを捨てるという選択肢しか、持てなくなったのだ。

そして、それがなんと素晴らしくよかったことか〜!
といっても、性格上、全部を一気に気持ち良く捨てることができない私は、専門家の先生たちや同僚たちや学生たちや仲間達の厳しくも温かい励ましを受けて、2年近く一見無駄な時間をのたうちまわりながら、しかしようやく一歩踏み出すことができたのだった。それもこれも、家族と皆のお陰である。

基本的に関西人的厳しいコメントで有名な舩田家の人びとが、この1年間は何もいわなかったのは奇跡だったのかもしれないが、救われた。連れや子どもは苦しかったろうが、耐えてくれた。大学の同僚や学生や活動の仲間達にはすごくすごく迷惑をかけたが、信じられないほど広い心で協力してくれた。

病になって、本当の仲間の素晴らしさを、専門家のありがたさを、そして自分の中に残っていた大切な力のことを、本当の意味で知ることになった。この経験を、40代半ばにできたことを、感謝してもしきれない。

「次」をワクワクするような気持ちで眺めている。
未だ十分体力も気力も知力も戻ってきていないので、一歩ずつ、時に数歩戻っていくだろうけれど、今唯一無二の自分の人生を、毎日感謝しながら生きている実感を手にしている喜びを、どうやって伝えれば良いだろうか?

雨降って地固まる。
苦しんだ分だけ豊かさを知ったような気もする。
苦しみの中でも人は種を撒き続けるものなのだ。

若い頃は苦しまないのが幸せだと思っていた。
今は違う。

苦しみと幸せは隣り合わせで、それでいいんだ。
人生は思った以上にもっと芳醇なものであって、自分ももっと肥やせるはずなのだ。
今の自分に満足してしまうのであれば、NEXTはないから。

でも、自分の幸せは自分の手の中にあることも事実。
苦しみは人を停止させる。
でも、だからこそ、きっと学びが大きいのだ。

いつかそのことをもっと上手いやり方で伝えられる日がくればいいな、と思う。
今はすべてに感謝の毎日を過ごしている。

突然、東京外国語大学を辞める、ということ。_a0133563_383357.jpg

by africa_class | 2015-05-22 04:53 | 【徒然】ドイツでの暮らし
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