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(その2)大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今。

ということで昨日の続き。
先に(その1)を読んでね。
http://afriqclass.exblog.jp/21484478/

といっても、ハーブ畑に大量に生い茂ったあらゆる草との今朝の格闘で、今実は疲れ果てている…。いなかった1ヶ月の間に野菜たちも化け物とかしていて、本当はもっと早くに秋野菜を植えなきゃなのにまずは夏野菜とお友達の草たちからなんとかしなきゃ・・・でもしんどい・・・で、ここまで来てしまった。農には、お天気・人手、心身ともの健康と時間が必要だということをつくづく感じる毎日。

しかし、放置がよろしかったのか、野菜も草も、そもそも植えてあった木々も、今は花真っ盛り。天国のように色とりどりの庭。見るだけなら、素晴らしい色合い。絵に描きたいほど。一年のごく僅かな出棺だけのこの眺めを堪能したい。けれども、油断すると種をまき散らすのでまた来年大変なことになる・・・が、今はこの花々に、ハチがぶんぶん、モンシロチョウもぶんぶん。切るに切れない。
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せっかくだから、前から挑戦したかった養蜂を来年はやってみよう。ラベンダー、アジサイ、ディル、アザミ、シロツメクサ、コンフリー・・・の花の蜜を吸ったハチの蜜って、どんな味がするのかな?という興味から。

「ハチ」というと、子どもの頃は怖かった。家でも学校でもすごく脅されていたし。でも、ハチに囲まれて暮らしてわかったことは、ハチもまた彼らの感性と論理があって、こちらが彼らの邪魔をしない&しないオーラを出しておけば、ほっておいてくれるということ。「邪魔しないオーラ」って何?・・・というと、「気を消す」感じ?ぶーんと飛んで来ても、何もせず、ただ気を消す。動きたければ、そーーーと引く感じ。すると、ハチもすっといなくなる。このあうんの呼吸を呑み込むと、ハチさんが群がっている花も少しだけお裾分けさせてもらえる。

またしても、続きのはずが前に進んでないわい。

で、1年以上前に何を書いていたか?・・・というと、日本平和学会に頼まれて『平和研究(早稲田大学出版会)』というジャーナルを編集していた。それは、『平和の主体論』という特集号になったのだけれど、そこに後書きを書かなければならなかった。だから、ナチス時代のドイツで形成された全体主義の問題について、今の日本と重ね合わせた文章を書いた。ハンナ・アーレントを引用しながら。「後書き」は、こう始まる。

 「東日本大震災とその後の東京電力福島第一原発事故から3年が経過した。そんな2013年末、小さな映画館で公開された映画が評判を呼び、異例のロングランとなった。「ハンナ・アーレント」と題されたその映画を、2013年の日本社会が欲した理由は何だったのだろうか。
 ハンナ・アーレントHannah Arendtは、ユダヤ系ドイツ人として生まれ、ナチス・ドイツの迫害から逃れ、アメリカで「全体主義の起源」をはじめとする多くの著書を記した政治哲学者である。
 全体主義体制は、第二次世界大戦あるいは東西冷戦の終焉にいおって、一部を除き「終わったもの」として久しく受け止められてきた。1990年代以降の世界における複数政党制民主主義の急速な拡散、移動手段や通信技術の発達による多様な情報へのアクセスの拡大ーーこのような時代に再び全体主義について考える必然性はどこにあるのだろうか」。

日本平和学会(編)『平和研究ー平和の主体論』早稲田大学出版会
http://www.waseda-up.co.jp/series03/post-711.html
(表紙の写真は、2014年2月にNGO・外務省定期協議会・ODA政策協議会で沖縄に行った際に、沖縄の高江で撮ったもの。モザンビーク農民の土地を奪われる苦しみと不安を、沖縄の人びとはよく理解してくれた。苦悩というのは他者の痛みへの共感と連帯の土台になりうるものなのだ、と改めて尊敬を込めて感じた)

この本が出てすぐ、その「後書き」が、現実に生じたことを先取りしていたため、このブログに駄文を書いていたのであった。そして、布団の中で書いたそれは、誤操作で見事消えてしまった…。でも、それでよかったのかもしれない。物事にはそういう思いがけない出来事があって、それぞれに「意味」があると思う。

で、1年前何故その駄文を書いていたのか?
それは、外務省JICAとNGOの「対話」の記録から、政府側が個人の氏名・肩書きを削除してきたと聞いたからだった。この対話は公開のもので、それまで記録は記名入りで掲載されていた。それが去年5月に突然、名前が消されて、「外務省」とか「JICA」とかの書き方にされていたと聞き、「あっ」と思ったからだった。

この記録をめぐっては、当日全く発言されてもいないことが事後的に書き加えられたり、当日言ったにもかかわらず(そして逐語議事録が提供されているにもかかわらず)「記憶にないから」と削除されることもあるという。さらには、NGO側の発言箇所にまで、丁寧にも、直接修正を加えてくれるというから厄介だ。一般には、こういうことは「記録の改ざん」とされかねないが、これらの機関ではどうもそうではないらしい・・・。違うと思いたいが、あまりに日常化しているということだろうか?こういう細かい芸当が得意な者ほど組織内で重宝され、評価が高いのも、税金で彼らのサラリーを支えている側としては「?」が大きい。

当日発言したことは、後で変更可能で、そもそも誰が話したかすら分からないようにできる・・・税金で支えられている援助事業の公開の話し合いの場で求めること自体が、一般市民には謎だ。透明性を高め、説明責任を果たすのは義務であり、責任であり、「市民の要求によること」でも「追加的なこと」でもないはずなのに?

つまり、自分の発言に個人として責任を持たない、持ちたくない、ということだと受け止めるしかないのだが、他に何か理由があるだろうか。でも、これも一度でも組織に生きたことのある者なら、きっと理解できる論理だろう。つまり、彼らだって可哀想なんだ。

彼らの論理では、このような問題事業を、好きで担当しているわけではない。たまたまそういう役目が回って来ただけで、運悪く担当になって、自分の名前が記録に残るのは迷惑だ。そもそも発言だって、個人の発言というわけではなく、組織のためにしぶしぶやってることだ。なのに、自分の発言としてもらっても困るし、自分の将来にも関わる、そいうことのようだ。これに同情する気持ちがないわけではない。渦中の栗をあえて拾った人もいるし、改善しようと努力している人たちが何人もいるのも知っている。そして、その人たちの努力に率直に敬意を払いたい。でも、だからこそ、名前を伏せるなんてことはあってはいけないと思う。名前を載せるのも憚れるような、そんな「問題事業」を始めたのは誰なのか、どの組織だったのか? 皆が自分の名前を隠して歩く限り、本当の意味で良くはできない。今良くできなとしても、教訓として未来に学ぶ時に、これでは学びようがない。

実際、政府の公開文書からはある種の人たちの名前がごっそり消されている。本当に丁寧にすべてのページから削除されているのだ。その人たちの名前を探して黒く塗るだけでも大変な作業である。これもまた税金である。そんなことをする理由は何なのか?「個人に不利益がある」ということを主張するが、名前が隠されなければならないほどまずいことをしてきたのもそれら本人ではないのだろうか。

そして、このような「自己の責任放棄」こそが、現在のあらゆる日本の問題に通じている以上、個人として同情はするがそれをよしとはできない。また、このような無責任体質によって、現地で人びとが苦しい目にあっているのなら、なおさらである。(それについては、今度は外務省・JICAですらなく、モザンビーク政府の「オーナーシップ」の責任にされている…!)

もう一点興味深いことは、1年前、個人名が削除されるようになっただけでなく、外務省やJICAの個人が良心に基づいて行った率直な発言は、事後的に組織的に削除されたことであった。つまり、個人の発言は許されておらず、組織の方向性に合致した言葉だけを話し、記録に載せることだけが許されるということのようである。

つまり、任期の2−3年がすぎたら、別の者に任務が置き換えられる以上、そこに個性など挟んではいけないのだ。つまり、「置き換え可能な塊」として存在しなければならない。

でも、本当はそうじゃないはずだ。
人は誰だって自分らしく働きたいし、貢献もしたい。
にもかかわらず、「名前を消す」「発言を消す」ことを主張するということは、そういうことを意味する。相手があることなのに、自分は匿名性に隠れる。時間が経ったら次に向かうだけ…人びとの暮らしは続いていくというのに。

この一切合財を最初知った時、何かの手違いかなんかかと思った。しかし、結局「記名を無記名に」するために、何ヶ月も政府側が粘り続けた様子をみて、彼らにとって自分の名前が記録に残るか否かがそんなに重要なことなのだ・・・・ということを、心底驚いたが、理解した、そして、これは、ある特異な例外的なケースではなく、2014年の現実ーー悪化する日本の統治体制の現実ーーとして、ある種の合点がいった。

そして、私が思い出したのが、『平和研究』に書いていたハンナ・アーレントの「自己の無用化」、つまり「誰でもない者による支配」の話であった。

そのシンクロさ加減に、さすがに心臓がぎゅーーーと締め付けられる想いだ。当の本人たちはそんな風にはみていないと思うけれど。2013年全般に問題なかったことが、2014年には重視されていく。この転換というのは、例えば2013年末に秘密保護法が成立し、その後原発最稼働し、安全保障関連法案提出までの流れを歴史的背景として眺めるならば、さほど違和感がないことなのかもしれない。

そして、これは外務省やJICAだけの話では当然ない(そしてこれらの組織の全員がというわけでもないことは、明白だろうが一応記しておく)。これらは、単なる一例にすぎず、広く日本に蔓延している問題なのだ。ここが一番の味噌である。詳細は上述の「後書き」に書いたのだけれど、ここでも少し(大いに?)披露したい。

**

アーレントは、「独裁体制のもとでの個人の責任」で、「なぜ服従したのか」ではなく「なぜ支持したのか」こそが問われなければならず、一人前の大人が公的生活の中で命令に「服従する」ということは組織や権威や法律を「支持した」事を意味し、「人間という地位に固有の尊厳と名誉を放棄した行為である」と断定する。そして、これらの「人間としての尊厳と名誉を取り戻す」ためには、まずは「服従」と「支持」の違いを考えなければならない、と主張する。

つまり、「仕方なく」「組織がそう求めるから」「上が命じるから(命じないから)」という言い訳に対し、「一人前の大人の人間としては不名誉で自己の尊厳を放棄した言い訳にすぎない」ことを痛烈に批判する。そして、結局それは「服従」ではなく、「支持なのだ」と結論づける。つまり、「自分の意志や意図ではないしぶしぶの受け身の行為(=服従)」と本人が認識しようとも、それは組織や全体の中で「積極的な支持」にすぎず、個としての責任が問われることなのだといっているのである。

確かに、消極的な行為であろうと、積極的な行為であろうとも、「従った行為」の果てにはその体制が支えられ、揺るがないという結果のみが立ち現れる。戦後多くのドイツ人は、自分たちも犠牲者であったと強調し、ホロコーストについて問われれば「知らなかった」「何も悪いことしなかった」「直接は何もしていない」・・・ということも多かった。しかし、まさにこの「積極的に支持はしなかった、ただそこにいて従ったにすぎない"one of them"の束」こそが、あのような政治社会体制を可能としていたのである。

そこに目を向けないのであれば、いつまでも自分の責任はないことになり、良心の呵責もないだろう。何より、自分は特定の個人として何もしなかったのでもなく、命令に従ったのではなく、あくまでも圧倒的多数の一人(One of them)にすぎなかったのだらから・・・との論理が可能である。そもそも、もっと責任のあるエライやつらがいたし、奴らの責任は明白だ。その影で奴らはいい目にもあった。皆それが誰か知っている(ヒトラーやその他)。一方、庶民にすぎない、「組織の歯車」にすぎなかった役人の私の名前は、どこにも書かれていない。直接殺戮の現場にいた収容所の看守だったわけでもない、と。

私のドイツの家族もこう口を揃えた。
「いつも気の毒に思っていた。私たちは差別なんて決してしなかったし、密告もしなかった」、と。「じゃあ、助けようとしたの?体制に抵抗しようとしたの?」という問いには、「そんなことは不可能だった」と。「不可能になる前に何かしなかったの?」という問いには、「分からなかった。急に一気にナチスが社会を国家を乗っ取ったから」と。これは、日本の多くの人の感覚と同じだろう。

これをアーレントは「自己の無用化」と読んだ。
「自分が行ったこと(行わないこと)と、その結果は無関係」という多くの人がもっている感覚。「私ぐらい…」「私なんて…」の一言に象徴される。これが庶民レベルで展開する問題もそうであるが、官僚レベルで行われることの影響は深く重い。彼女は、これを「誰でもない者による支配」と呼んだ。

自分を「自己のない=誰でもない者(Nobody)」が、国家や社会の制度部分を担い・回すことによって総体として現れる支配構造、それが全体主義であった。

善良なる市民感情、あるいは「仕事をしているだけだ」との想いをもった官僚感情を前に、それでもハンナ・アーレントは「人としての責任」を問い続けた。そうしない限り、再び全体主義は他者を破滅させるために蘇ると見破っていたからだ。彼女は、マッカーシズムに荒れる米国社会と、ソ連の国家体制、そして何より大虐殺を経験したはずのユダヤ人が作りつつあったイスラエル国家の体制を見ながら、これらの著作を書いた。アーレントは、人間は繰り返し過ちを犯すだろうという確信を持っていたから、筆を緩めず、彼女の考える書くべきことを書くべき手法で書き続けた。仲間からも厳しすぎると非難されても、なんらかの配慮で書くべきことの表現と中身を妥協することで、彼女の考える真理から遠ざけられてしまうことを畏れた。彼女は、まさに筆一本で闘っていたからだ。

アーレントが非難を受けた理由は、ホロコーストが悪の権化のような狂った憎むべき個人によってではなく、「凡庸なる(普通の)個人」によって行われたことを主張したからであった。あのような想像を絶する人類史上まれに見る犯罪が、「凡庸なる悪」という言葉で総括された時に、ホロコーストのサバイバーやその遺族の衝撃は大きかった。さらには、ユダヤ人協会の一部の者が自らの安全のために、体制に協力していたということを指摘したときには、その反発たるや凄まじいものがあった。

しかし、アーレントは、自らの理解、言葉、主張を変えなかった。なぜなら、本質は、人間とその社会の持っている傾向の問題にあって、この理解に行き着かない限り、犠牲者の名の下に(「ユダヤ人だから」)、あるいは「解放者」の名の下に(アメリカ)…今度は次の全体主義が準備されてしまうことが見通せたからであった。

この「誰でもない者(名前のない/伏せられた者)による支配」の根っこにある元凶を、彼女はあぜんとするほど平易なあっけない言葉で示した。つまり、「思考停止」である。

「思考停止」という言葉は、若者の間で長らく流行った言葉だった。
だから、日本ではあどけないニュアンスがある。
しかし、アーレントのいう「思考停止」はもっと根源的なものがある。人間が人間である理由は、人間には思考が可能だからだ・・・という前提において、「思考停止した者」とは「人間の尊厳と名誉を放棄した者」になる。

アーレントの結論はこうだ。
この「思考停止した凡庸なる人」こそが、世界最大の悪であるホロコーストを可能にした。
つまり、思考停止は悪なのだ。「自称普通の人びと」のそのような思考停止こそが、世界最悪の「悪」を招く。

きっと多くの人にはあまりにものあっけなさに、な〜んだ、と思うかもしれない。しかし、アーレントの話はもっと奥行きがあるのだ。

「人間」が「思考停止する」とどうなるかというと、「交換可能な塊」にすぎなくなる。もはや名前のある特定のあなたという人間でなくてもよくなる。労働力であり、官僚であり、全体の中の機能だけが重要となる。となると、「複数制」が否定され、一人が倒れても次が準備されればよく、あなたでなくても別の人でもいい。組織は続き、体制は続いていく。それもこれも、「名のあるあなた」は、「思考を停止し人としての尊厳を捨てて体制を温存させている=支持しているから」である。そして、この体制には、「よそ者」が生み出され、「全体」が優先さsれるが故に排除が目的化する。ナチスドイツの場合は、ユダヤ人や共産主義者等がその対象となった。これらの完全排除が全体の保全のために目的化される。

このプロセスを、アーレントの教え子であるヤング=ブルーエルは次のように説明する。
「全体主義は政治(的空間?)を破壊する統治形態であり、語り・行為する人間を組織的に排除し、最初にある集団を選別して彼らの人間性そのものを攻撃し、そこからすべての集団に同じような手を伸ばす」という(2008)。

つまり、体制にとって、自らの頭で考え、声を上げ、能動的に行為する主体を、ある種のレッテル貼りでその存在自体を排除してしまえば、社会を押さえ込むことができるというのである。

人間に与えられた自分の頭で考える・・・ことに目覚めた人びとが、「交換可能な塊」から脱し、自分の尊厳と名誉と責任において自分の名前で語り始めた時、そこに全体主義が破れる可能性が芽生えるものの、圧倒的多数の「思考停止の交換可能な塊となった人びと」がこれらを「よそ者」とレッテル貼りして完全排除をしていくことで、体制は加速度的に出来上がっていく。

日本においては、立上がる人びとを「左翼」「過激」「プロ市民」「中国からカネをもらっている」等と呼んで。

しかし、この話はそこで終わらない。
なぜなら、「他人事」として傍観していた「凡庸なる人びと」「統治側にいる誰でもない者=官僚」のところにも、全体主義の支配は及んでいくからだ。自分らしいことが、一つずつできなくなっていく・・・そんな不自由な社会が、いつの間にか自分を蝕んでいく。それでも、体制が崩壊するまでは安全だろうと思うかもしれない。しかし、全体主義が行う「よそ者」としてのレッテル貼りは、いつどこで自分や自分の家族に牙を剥くか分からないのだ。今日は統治の側にいる自分が、いつか逆転することすらあり得る。全体主義とは、個々の人間の幸福など目的にしない以上、明日は「我が身」かもしれないのだ。

名前を失い塊となり思考停止することを厭わない人たちが、国の統治を行い、同様なる凡庸な人びとが、これを支持する限りにおいては、犠牲となる人びとを生み出すことを必然とし、人類最悪の犯罪すら可能とするのだ。そして、これは遠い昔の話ではなく、今目の前で進行していることだと考えるのは、私だけだろうか?

エルサレムでアイヒマンは、体制や組織が下した決定を歯車として役割を果たしただけで自分の意志ではなかった以上、自分の責任ではなく、自分が個人としてさばかれるのはおかしいと主張した。彼は、自分の昇進ばかりを気にして、ただ粛々と仕事をこなした。その結果が、大量のユダヤ人の収容所への輸送であった。

それに対して、アーレントは、そのような言い訳をするアイヒマンについて、「(人間)主体としての自己放棄」こそがまさに「全体主義を生み出した悪」なのだと説明した。

映画「ハンナ・アーレント」の最後のシーンに、彼女が学生たちの呼びかけたことがある。

自分自身で思考する。
それが人間を強くする、ということ。
思考の営みは職業的思想家のものではなく、全ての人びとが日々必要とするものであり、他方そうやって得られた思考で関わるべきは「自分」ではなく「世界」に対してである、ということ。

だから、私は、2015年7月の暑い夏に、日本の大学生たちが、「思考停止」を脱して自分たちの頭で考え、「自己無用化、塊化」を避けて、自分の名前を堂々と語り、すべての可視化できる記録に残しながら、自らの言葉で語ったことを、賞賛せずにはいられないのだ。

彼らが失うものがないから・・・などという批判は無用だ。
今の学生がどこまで就職の不安を抱えて生活しているか、大人達はしりもしないから。
今の大学が、学生の活動にどこまで口を挟んでくるかも、知りもしないから。

私たちは、ただ、過去の歴史と、歴史の葛藤から紡ぎ出された豊かな著作と、若い人たちの躍動的抵抗から、頭を垂れて学ぶべきときなのだ。

全体を恐れ、その中に埋没し、隠れている場合じゃない。
今、このクリティカルモーメントにおいて、日本の「人としての尊厳を持つ唯一無比のあなた」が問われている。

「あなた」は、「置き換え可能な塊」なんかじゃない。
「あなた」は、「思考停止」なのかしていない。
自分だってNGOのように自由に発言し、行動したいと考えているのも知っている。
本当は、「あなた」は、素晴らしい独立した考えの持ち主で、自己保身や自己承認のためだけに働いているんじゃなくて、一人の人間として物事を変革できる「力」を持っていることを、私は知っている。
そして、苦しい想いを日々重ねている事も知っている。
行き場のない怒りを抱えているのも知っている。
その少しでも、表に出すことが、今必要なんじゃないのかな?


1年も経ったのに、この話を再び書こうと思った理由は、学生のスピーチだけでない。立教の声明を読んでのことだった。
「「戦争」とは決して抽象的なものではありません。具体的な名前をもった若者たちが戦場で向かい合い、殺し殺されることを意味します。そして、子どもたちを含む多くの戦争犠牲者を生み出し、いのちの尊厳を踏みにじるものです。1945 年までの戦争への反省の上に立って戦後日本が国是としてきた平和主義に逆行し、日本に戦争への道を開く安全保障 関連法案の可決に、私たちは強く抗議し、法案の即時廃案を要求します。 」

ノーベル賞学者の益川教授がこう述べている。
日経:物理学者・益川敏英氏「学問より人類愛せ」(戦争と私)
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO89240270T10C15A7000000/
「虫も殺せないような人が平気で人を殺せるようになってしまうのが戦争だ。組織の中で動いてしまう。だから恐ろしい」 「科学者は放っておいたら自分の研究室で研究している方が面白い。本人にそのつもりがなくても、自分が開発した技術が戦闘機に使われるようなことも起こりうる。それに気付いたら科学者は社会に報告すべきなんでしょうね。でも普通はしない。だから集会や社会に連れ出したらいいんだ。すると、平和が危ういということはすぐに分かるんだから」

学者や科学者だけではない。
援助を含めた政策立案者も遂行者も同じだ。
自分机や会議室の中にある世界で物事を想定している限り。

ここに書きたかった本質が表されている。
国家の政策は、一人一人の生命と幸福と財産を操るほど力を持ちうるものだというのに、その想定される対象には名前と顔がない「女性」「若者」「農民」「貧困者」を対象とする。それを司る側もまたトップ以外は名前なき役人・軍人らの塊によって遂行される。行為自体が、被害を招きかねない複雑なプロセスは軽視され、「戦争(殺し合いにかかわらず)」、「援助(政治を伴うものであるにもかかわらず)」と抽象的に表現される。

だから、決定とプロセスを主権者・主体の側に戻していくしか、方法はないのだと思う。
先人たちの屍と犠牲の上の民主主義の時代に暮らすというのは、そういことなのだ。
私たちは、名前を伏せるどころか、名前を取り戻すところから始めなくてはならないのだ。そんなことを考えた夏の夜長だった。

ハンナ・アーレントについては、以下の参考文献。
矢野久美子『ハンナ・アーレント』中央公論新社。
映画については、以下のオフィシャルサイト。
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/


*なお、ここに書いてあることを本当の意味で理解したら、そんなことはあり得ないはずであるものの、過去に起きた出来事が懸念されるので(あえてここで何が起きたかは書かないものの)、念のため書いておくのですが、この内容を「悪用」しないようにしてください。物事には多様な見方があって、そこに論争があって、そして社会は発展していくものなのです。

おやすみなさい!
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by africa_class | 2015-07-27 00:21 | 【考】民主主義、社会運動と民衆
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