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再び戦争に向かっていくモザンビークと日本の私たち

悲しすぎて、立ち上がれない。
UNCHR(国連難民高等弁務官事務所)は、ついにモザンビーク北部テテ州からの難民の流出を発表した。

2016年1月15日
「マラウイに到着するモザンビーク人の数が急増」
http://www.unhcr.org/5698dbff6.html

マラウィのムワンザ郡に、続々と難民が到着しその登録者数は1297人で2分3は女性と子どもたち。そして、900人が難民登録を待っており、さらにマラウイのより南方に400人近くの難民が到着しているという。そして、これはFRELIMO政府と最大野党RENAMOの間の紛争で生じているとされるが、このブリーフィングの記事に「未確認情報」としてではあるが、家を焼かれた難民らの証言として、政府軍関係者がレナモを匿っていると考えられた人びとを襲っていると書かれている。去年半ばより難民が到着し始めたが、ここにきて加速化した。


実際2015年半ばの時点で、2000人の難民申請者が確認されている。http://www.unhcr.org/pages/49e485806.html


政府軍関係者の襲撃については、Voice of Americaでも報じられている。去年の7月に始まった戦闘で700名以上がマラウイに逃げていたが、難民によるとミリシア(民兵)らによる大量殺戮から逃れているという。そして、新たに設置された難民キャンプに既に2500名が収容されているが、難民らはFRELIMO政府の兵士らがレナモ兵を匿っていると疑う親戚の家々を焼き討ちし親戚を殺していると話している。

2016年1月11日
「モザンビークの難民がマラウイに逃げている」

http://www.voanews.com/content/mozambique-refugees-flee-to-malawi/3139815.html

Refugees are entering daily at the newly established Kapise ll camp in Malawi's Mwanza district. It is home to more than 2,500 refugees. Refugees tell stories about people they believe are FRELIMO government fighters torching their houses and killing their relatives on suspicion of hosting RENAMO fighters. Flora Emberson is one of them.


かと思ったら、1月20日、RENAMO事務局長(国会議員)の暗殺未遂の一報が飛び込んできた。突然、武装集団に襲撃され、現在も重傷で護衛官は殺害されたという…。RENAMOのスポークスパーソンは、政府による「国家テロ」と批判。国家人権委員会は、これを強く抗議し、原因究明と武力紛争への影響を懸念する声明を出している。

http://www.dw.com/pt/secret%C3%A1rio-geral-da-renamo-manuel-bissopo-baleado-no-centro-de-mo%C3%A7ambique/a-18994319


1992年の和平合意から24年。

せっかく平和が訪れ、雨季の今は農民たちが種まきに忙しい時期。

1977年からの戦争で、160万人もの難民が近隣諸国に逃れ、マラウイは最も激しい戦闘が行われたモザンビーク北部に囲まれていたこともあり、小さな国ながら多くのモザンビーク人難民を受け入れた。私が、1994年に国連PKOの政治・選挙部門のスタッフとして赴任した時、丁度マラウィからニアサ州に難民が自力で帰還しているところに出会った。

UNHCRやIOMの手続きを待てば、帰還セット(鍬・バケツ・種・食料)がもらえるというのに、この家族(といっても30名ぐらい)は何ももらうこともせず、とにかく一刻も早く故郷に戻りたいと、移動を開始していたのだった。粥のような薄まったトウモロコシの粉を溶かしたものをすすりながら、「自分たちは農民だ。「難民」じゃない。故郷に戻ったらすぐに種を撒いて自分の手で作った新鮮な食べ物を食べるのだ」と語っていた。もう10年近くも逃げていた人びとの、心の底からの叫びのような声だった。

その後、UNHCRやIOMのトラックで奇麗な服を来てバケツを持って現れた人たちとて、同じことを語っていた。戦時中に延び放題になっていたボサボサの葦のような草を刈り、それを寝泊まりする小屋や貯蔵庫やトイレに仕立て上げ、あっという間に広大な畑にしていった人たち。戦争と暴力への償いや、正義や、報復や、そういうものを求める被害者が多い中で、モザンビークの人びとは「忘却する」という選択をした。

「あれは戦争だった」「戦争が悪いのだ」

そういうことで、コミュニティ内部の対立、経験した凄まじい暴力、餓えに苦しみ、失った命・手・足・・・そのようなものすべてを「忘れる」ことで乗り越えようとした人たち。日々の生活の再建への努力が、それを手伝った。

いい悪いではなく、彼ら・彼女らがそういう選択をしたこと、国としてもそうだったことを、モザンビークを知っている人なら腑に落ちてしまうかもしれない。かといって、本当に「忘れられたのか」といえば、決してそうではなかった。そのことは、十数年経っても決して人びとの心の中から去ることはなかった。

まだ戦後間もない時、マラウイ方面から大きな炎が上がったことを、地域の人びとが教えてくれた。

10年近くモザンビークの難民を受け入れてきた難民キャンプが焼却されたのだという。マラウィの論理からすると、「消毒」のようなニュアンスがあったようで、それはそれで失礼なことだという意見が出されもしたが、モザンビークの元難民たちにとって、それは退路が経たれたような、だからこそ前に向かって歩んでいかなければならない・・・というメッセージのような、仕切り直しの何かを意味したという。


それから24年目を向かえようとする今、20年以上の時を経てマラウィに出来たモザンビークからの難民のための難民キャンプを再開せざるを得ない状態がうまれたという。モザンビークで最も重要な人権・平和活動家であるアリス・マボタ弁護士も急遽ジュネーブに呼ばれ、現在国連で議論をしているところである。

そして、これらのことはどれぐらい日本の関係者、日本の人びとに知られているのだろう。

このブログでも、新聞記事でも、テレビ番組でも、このような事態になる危険性を何度口にしただろう。しかし、それは無駄だった。

モザンビークの貧富の格差は社会的不正義としてではなく、「開発・経済成長がススメば農民も豊かになるから不満も減る」というフレリモ政府側の主張に対し、地下資源と援助への賛同ほしさに、お墨付きを与え続け、前のめりにガンガン投資・援助を注入し続けている。あるいは、目をつぶっているというよりは、積極的にこのような「開発軍事独裁」の道を支援している節すらあるといっては言い過ぎだろうか?


勿論、レナモの襲撃やこのような挑発は許されるものではない。

しかし、モザンビーク政府がこの間やっていることは、平和と民主主義への確かな歩みを、逆行させることであるばかりか、モザンビークの人びとが10年の歳月をかけて勝ち取った独立を通して目指したことすら否定するようなことである。つまり、モザンビークの人びとの主権の回復と土地へのアクセスの保証である。

テテの地図を見ればわかる。

何百万人ものの小農が暮らすこの州面積の大半が石炭の鉱区として多種多様な企業にコンセッションが与えられている。小農は非自発的移転を余儀なくされ、補償はわずかばかり。立派な家が立てられた住民も、結局は耕せる農地が奪われ、鍬も入らないような石ころだらけの「代替農地」を前に、飢える一方である。

ナカラ回廊沿い地域では、2009年に日本・ブラジル・モザンビークの3カ国が構想し奨励した通り、国際アグリビジネスがリ大挙詰めかけ、食用だけでなく飼料・油のための安価な大豆の大量生産のために、広大な土地を次々に奪っている。植林プランテーションのために政府から何十万ヘクタールの使用を許可されていた企業などは、その一部を大豆生産に切り替えている。すでにナカラ回廊沿い地域の何千農民家族が土地を追われ、餓えに直面しているが、これが「ナカラ回廊開発」の行き着く先であった。

「プロサバンナ」に関しては、モザンビーク農民連合の頑張りも有り、3カ国市民社会や国際社会の関与もあって、公式には「小農支援」に転じたことになっているが、あの2009年の構想、2012年10月まで推進されてきた「肥沃な土地・豊富な水・安価な労働力があり、未だ化学肥料の多用や連作による障害・農薬汚染による害虫の耐性が出て来ていない、ナカラ回廊地域に海外投資を入れ、ブラジル・セラードの経験を大いに活用して、大豆・穀物の一大産地にして、日本の支援で改善されるナカラ回廊&港に新たに設置する穀物ターミナルを使って、世界中の市場に供給する」というプログラムは、モザンビーク政府や投資家らにしっかりと継承され、まさにその通りになっている。

有り余っていたはずの未開墾地…がないことは、ようやくJICAも認めたが、今度は小農らが土地不足と森林伐採の主犯だと名指しするマスタープランで、とにかく緑の革命が不可欠でそのためには民間企業とのWIN-WINが必須とされ、民間企業の進出と契約栽培が日本の援助でやはり支援されなければならないという論理が展開される。

しかし、既に民間企業もまた、国際社会における土地収奪への厳しい視線を意識して、「小農との契約栽培」や「外部資材の支援」という名目で、アフリカ中の内陸部の肥沃な土地の地域に入り込んでおり、まずはドナー諸国や国際機関の資金援助を得て活動しつつ、いつの間にか「企業活動の安定のため」と称して大規模な農地の摂取を開始するというパターンが顕在化している。「安くで作って高くで売る」が基本の穀物企業であれば、当然すぎるほど当然な動きであるが、これを前のめりで「小農支援」と称して支援する日本の援助は、確信犯でないのであれば、ナイーブなのか脇が甘いとしかいいようがない。

そして今、権力者として甘い汁を吸うようになった者たちのGREEDのために、国民の圧倒的多数であり、FRELIMOの存在理由であり権力基盤であったはずの小農の犠牲が生まれている。ついに、ナンプーラ州知事は、農民がプロサバンナによる土地収奪に怯えているが心配無用。なぜなら、同州には80万ヘクタールもの未開墾地があるのだ・・・と宣言するに至った。
日本の援助の現実を踏まえずにイケイケドンドンの時代の空気とともに、進められ宣伝しまくられたアイディアは、こうして当事者である日本の援助者らが手を引いた後も、「止まらぬ歯車」として前に前に進められ、2012年10月にUNACが声明で懸念した通りの、「土地収奪・土地なしコミュニティの出現・農薬と化学肥料の汚染」として何より「土地と環境の守護者である農民の主権の剥奪と対話からの排除」が行われる結果となっている。

問題が発生するまでは、「日本の手柄」として繰り返し、広く喧伝されてきたこの援助も、今となっては「受益国政府のオーナーシップ」の影に隠れて、「日本はあくまでも側面支援」を強調する。故に、その責任は、現在も日本の援助関係者は認めておらず、誰がどう果たすのかも明らかではない。どうせ被援助国の「一義的責任」なのだ。


日本が世界に誇るトヨタ生産方式。

私はトヨタの回し者というわけではないし、トヨタという企業のすべてに賛同しているわけではない。しかし、その「生産方式」で言われていることには、沢山のヒントがあると思うのだ。

いつぞやか書いたが、その肝はカンバンではない。

(なぜカンバン方式ばかりが世間に知られ、賞賛されたのか全く意味が分からない。「見える化」のお陰だろうか)

原資現物現場でもない。

むりむらむだでもない。

いや、それらのどれもが重要だが、「改善は永遠なり」なのだと思う。

つまり、到達点がないのだ。

不良品の割合をどこ迄減らすかという「リスクマネージメント」の概念に対して、トヨタは「ゼロを目指す」といって憚らない。その心は、「改善は永遠であり、継続は力」だからだ。終わりなき努力に対して、「0.5ぐらいは仕方ないんじゃないか」という設定自体が間違いなのだ。

つまり理想を大いに皆で掲げ、そこに限りなく近づくことを共通の目標とする。駄目だったら、駄目な理由を考えることが重要。でも、最初から「0.5でいい」と設定すると、駄目だった理由も基準が「0.5から」になりかねない。「0」の理想にひっぱってもらうことが、時に重要なのだ。

勿論、それはしんどい。

労働者にそれを求めるのも、酷ではある。そこに問題が生じる。

しかし、同時にここには「ある組織の学習」のヒントも含まれていると思う。

特に、問題が発生した時、「自分で判断しない」という標語の含蓄は深く広い。また、根本原因を解明するための別チームが駆けつけてくるというのも、示唆するところが大いにある。

なぜなら。

失敗を侵した人には、本当の意味でルートコーズを見極めることができないからだ。自分で判断してしまう。その際には、当然ながら「失敗を認めたくない」という心理が働く。自分は客観だといくら言い張っても、本当の意味でトータル&根本原因をみることはできない。だから、第三者のチームが駆けつける必要がある。

日本の援助機関だけではない。あらゆる組織で、「失敗が認められない」「失敗の当事者が依然として仕切り続けている」場面はないだろうか?政治だってそうだ。原発だってそうだ。そして、良く振り返ってみれば、これはまさに戦前にっぽんと同じなのだった。

戦後70年経ったというのに、戦前に回帰している日本の我々。

モザンビークが戦後24年で、戦争時に戻ろうとしているからといって驚いてはいけないのかもしれない一方で、日本の今は自分でまいた種である一方、モザンビークの現状は我々にも大いに責任がある以上、やはり見過ごしてはならないのだと思う。


だから、「改善は永遠なり」…その一言を、組織のトップたちが、静かに一人、自問自答の思いを込めて呟くだけでもいい。大きく深呼吸をして。そして目の前に拓けてくる景色は、どんなものだろうか?

少なくとも、今の自らの姿ではないのではないだろうか。


かくいう私も、それが不可欠である。

そんなこんなの土曜日の夜。


後日談…

尊敬する人から記事を教えてもらった。

「英国の政治家にとって、アフリカへの援助は我々の理想主義と寛容の賞賛されるべきエンブレムとなった。しかし、もし我々の資金が、本当は助けるべき人たちに害を与えているとしたらどうさろう?」

"The refugee who took on the British government:

For British politicians, foreign aid to Africa has become a cherished emblem of our idealism and generosity. But what happens when our funds harm those they are meant to help?"

http://www.theguardian.com/world/2016/jan/12/ethiopian-refugee-who-took-on-the-british-government

美しい物語のような出だし。流れるような英文が、人びとの物語を紡いでいく。しかし、その紡いでいく物語は、あまりに悲劇の度合いを深めて行く。どこまで悲劇は続くんだ。苦しい。息が詰まるような、理不尽で、許し難い物語。上からの開発計画が、どのようにして人びとの日常を奪っていき、命を奪っていったのか。長老やお父さんたちはどのように、先祖代々の土地と暮らしを守ろうとしたのか。そして、どのように破れ死んでいったのか。残された人たちは、どんな思いで何千キロを歩いて難民キャンプまで辿り着いていったのか。


20年前の話ではないのだ。

我々の「今」の話。


今となっては難民キャンプに「難民」として集うエチオピア南部の人びとの、まだ5年も経過していない物語。なのに、どれほどのものを彼ら・彼女らは、失ってしまったのだろう。故郷で、何十年、何百年と受け継いできた、多くの知恵、命、暮らし・・・それらをもう取り戻すことはできない。戦争による暴力ではない。災害による喪失でもない。「援助者」らに支えられたある開発独裁国家の開発計画によって故郷を追われた人びとの喪失。


そして、これを調査した米国と英国の援助機関(USAID、DFID)は、その調査レポートを隠蔽し続けた。英国議会の介入にもかかわらず。そして、ある日こっそりとDFIDの図書館頁に掲載されたかと思ったら、また消されていた。。。


この記事を教えてくれた人が、私のこの投稿を読んでいたのかどうかは分からない。でも、あまりにも符号する数々のことに、読み進めるのが苦しくなるほどだった。そして、記事の途中のまとめの一言が胸に突き刺さる。


Too big to fail....

失敗するには大きすぎる。


人の、コミュニティの、過去と今と未来における命・暮らしを壊してもなお、援助機関にとってはそれは「失敗」ではないのだ。本当の「失敗」とは、彼らがそれを組織として認めてしまった時に初めて発生する。だから、「失敗」を「失敗」として認めない限り、組織としては失敗ではないのだ。だから、証拠は隠さなければならない。。。その一方で、「成功」は大々的に宣伝されなければならない。


記事を読んで思ったこと。

勿論、利権や様々な連動する問題や関係があるのだろう。

だから、失敗を認められない。

認めたら、大変なことになる…。


しかし、私は思う。

本当は違う、と。

大きすぎるから失敗が認められないのではない。


はっきりしている。

Too small to fail.
(Too small to accept own failure.)
むしろ、ちっちゃすぎるんだ。

人も
組織も

そのことに、気づけるかどうかなのだ。




by africa_class | 2016-01-24 06:43 | 【情報提供】モザンビーク
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