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日本の「アフリカ権威主義政治化」現象?〜森友学園問題からの一考察(その1)

お待たせしました。一応「専門」なので、もう少しまとめてからと思っていたらあっという間に時間が経過。
大学を辞める直前にやっていた研究が、「民主選挙下のアフリカの(独裁)権威主義体制の研究」でした。日本国際政治学会にも論文を掲載していただいていたところで、次はモザンビークとルワンダを比較政治学的にアプローチしようと思っていたところ、色々なことが起こったといこともあるし、世界的にはすでに沢山の方が研究されていることもあり(私でなくていいやん)、止めてしまったところでした。

しかし、現代アフリカ政治学のバックグラウンドが今の日本政治の分析に役立つ(かも)時代がくるとは・・・予感あがったものの、思ったより早くきたな・・・というのが正直なところの感想です。

が、まだ日本については(も)勉強不足なので、あくまでも「森友学園問題」で明らかになった情報を、「現代アフリカの独裁・権威主義体制の研究」を踏まえて、考えたことをいくつか記します。ということで、あくまでも私としてこう解釈したという程度の試論的なものなので、頭の体操的にご笑覧いただく程度でお願いします。

で、長い説明が苦手…という方は「まとめ」を作成してくださった方がいらっしゃるので、そちらをどうぞ。
https://togetter.com/li/1092200

多分、先にTwitterに書いたことを貼付けておいて、その上で何故そう考えたのかを説明していくことにします。140文字x何回かの投稿なので、読みづらくてすみません。

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舩田クラーセンさやか@sayakafc
2017-03-19 16:48:12
ちなみに、一連の出来事を踏まえると、これは典型的なネポティズム(縁故主義)。アフリカの独裁/権威主義国によくあった/る政治手法です。つまり権力を握る者(大統領夫人含む)が自分の近辺の者に次々に便宜を図る<=未だこの用語が使われないのが疑問。

↓で、アフリカの国々のネポティズム(縁故主義)はバッドガバナンス(悪い統治)の根幹問題として、西側援助国(日本も)も糾弾。政権交代を前提とする民主化支援(野党支援)に援助を出してたのは、これが背景です。長期政権は腐敗しネポティズムが蔓延るからと。<=今の日本の政権に符合しません?

↓ルワンダ大虐殺の社会背景にはヘイト的国民運動が。これを奨励したのがフトゥ至上主義の与党。危険は「内なる敵(少数トゥチ)」とその同盟者(周辺諸国)からと煽動。世銀IMFによる緊縮財政で暮らしが悪化した民衆の不満を吸収。が、真の狙い=「民主化による政権崩壊回避」←似てますよね。

↓#森友学園 問題で分かったのは、政・官・財・教育・宗教・地域を巻き込んだ「上から下までの一大運動」が既に展開されていたということ。森友=籠池問題だと本質を見失う。この「運動」は、冗談の様だが「戦前戦中社会の復活運動」であり、改憲を頂点に着々と進んでた。運動にとり教育は肝だった。

↓だから収賄的な便宜供与問題だと思込むと見誤る。「トップからボトムまでの戦前回帰運動」として展開され、関わることで縁故者になれ、ネポティズム/縁故主義故に、様々な便宜が図られる。ルワンダ虐殺時に形成された新家産(親分=子分)国家体制に酷似。繋がった人間関係の網が持ち場で運動遂行。

↓「運動」である以上「思想」と「敵」は肝。必ずしも金銭授受の必要なし。ただ「仲間意識=縁故」とそれへの「恩・従」は不可欠で、この体制が「パトロン=クライアント/親分=子分関係」と呼ばれる由縁。親分にくっつけば怖いものなし。後「自分(国と言換え)の為に死ねる子分教育」が必要に=森友

今の日本の現象を説明できるもう一つの政治学用語があります。「公式野党」です。「競争制/選挙制権威主義」の国によくあるのですが、「野党なのに(の機能を使い)大統領や与党の補完的な役割を果たす政党」。どの党と言いませんが!
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さて、大前提としてお伝えしておきたいのは、「アフリカ=独裁」という訳ではありません。
また「未開=独裁」でもありません。

サハラ以南アフリカの古い社会では、むしろ「民主的な意思決定=コンセンサスビルディング」を重視する政治体制を取っていたケースがほとんどです(勿論例外もあります)。それが、16世紀以降のヨーロッパ世界の進出による奴隷貿易を経て、王政に移行していったり、巨大な権力をもった王が出現したことについては忘れてはならないでしょう。ここら辺のプロセスは、近刊本でも少し触れますが、『アフリカ学入門』第一部第一章を見ていただければ。

また、独立後のアフリカ諸国の「独裁」(一党支配であれ軍事独裁であれ)は、植民地支配と冷戦構造下においてなされた植民地からの独立という文脈で敷かれた体制であり、「植民地国家=白人独裁」とある種の親和性がありました。

さらにお伝えしておかねばならないのは、現在のアフリカ諸国が、この冷戦期(90年代まで)の独立国家体制を現在引き継いでいるという訳でもないということです。

冷戦後の90年代には、アフリカでも「民主化」の圧力が内外から高まり、ほとんどの国で複数政党制に基づく民主的な選挙が導入され、多くの国で政権交代が実現していきます。以来、アフリカ諸国の大半が、民主選挙制度を導入しています。

90年代以来、日本を含む西側諸国は、これを「民主化支援」「ガバナンス支援」と呼び、資金を出して応援してきました。アフリカ諸国自身も、「民主化とガバナンス改善」は、貧困撲滅に不可欠だとして、互いの評価を行ったり、大統領が憲法に反して再選を果たそうという時には「賢人会」を派遣するなど、様々な努力を行ってきました。

世紀の変わり目、2001年にアフリカ諸国の重債務が帳消しされたり、貧困半減を掲げたミレニアム開発目標が世界各国に合意され、進められるようになった背景には、以上のような「自浄努力」があってのことでした。

私は、この時期のアフリカの「民主化・ガバナンス改善・貧困削減」などに、アフリカの政府や市民社会、世界の機関や市民社会とともに関わりました。多くの国が、暴力的な紛争や対立、虐殺などを経ての平和構築の中での民主化の試みということで、すごく前向きなエネルギーに満ちあふれていました。とにかく、市民社会と女性が元気でした。

しかし、2007年ぐらいから急速に時計の針が逆回転していくようになりました。

この背景には、債務が帳消しされ、大型援助が相次ぐ中、地下資源が集中し若者人口の多いアフリカが、「地球上最後のフロンティア」としてアフリカが注目されるようになったことと関係しています。リーマンショック後の世界で行き場を失った世界のマネーがアフリカに集まったこともありますが、中国やインドの進出とそれに負けじと進出を始めた日本や西側諸国、その他諸々の国や民間のアクターたちの流入が、アフリカ政府のガバナンスを一気に悪化させていきました。

「公平で民主的なガバナンスによる健全な発展」という青写真は、あっという間に「資源投資をテコにした経済成長による貧困削減」という日本政府が大好きな青写真に取って変わられて、援助・投資合戦がアフリカ大陸中で繰り広げられました。せっかく帳消しされた債務が、再び急増していき、日本のバブルの時のように、口約束だけで次々に巨額の資金が貸し付けられるという状況が各国で進んでいきます。

そして、地下資源、農地、鉄道、港湾設備、水・・・もう国家の資源・利権で売れるものは何でも、各国エリートらによって、国内外の資本に売られていきました。マジックワードは「民営化」。90年代以降のプロセスが、加速度的に極まったのがこの時期でもあり、そのプロセスで、大統領と政権与党が、権限・権力の集中を強めていきました。

あれほど「民主的ガバナンス支援」に熱心だった欧州諸国も、リーマンショック後の経済低迷に直面する中、自国の投資に有利な条件を確保しようと、ガバナンスを重視しなくなりました。この時期、欧州各政府や委員会などに、この方針転換の問題を指摘しましたが、皆モゴモゴいうようになりました。

そして、当初は民主的に選ばれたはずの野党やその指導者、あるいは何度かの競争選挙も勝ち抜いてきた比較的ガバナンスのよかった政権与党関係者(家族を含む)が、次々に「政治家=起業家」として経済活動のあらゆるシーンをコントロールするようになっていきました。

ただ注意しなければならないのは、この現象は冷戦期の独裁と違っている点です。
というのは、どの国も、一応は複数政党制に基づく民主選挙をしなければならない。
そして選挙監視団もくるので、一応は選挙不正はバレない程度に抑えなければならない。
しかし、汚職への国民の不満は明らかなので、選挙に負けないようにしなければならない。

つまり、競争的な選挙の下で、自分たちの利権を守り抜く体制を構築する必要に迫られたのです。
そこでとられた手法には様々なものがありました。

ここで詳しく書く余裕がないのですが、この体制を政治学上の概念・用語として次の様に呼びます。
Competitive/Electoral Authoritarianism=「競争的/選挙権威主義」という体制です。
この中で日本でも参照できる面白い現象として、以下のものがあります。
1) 不平等な競争の土俵
2) 公式野党
3) メディアの操作

分かり易いので2)から。
2)は、「政府公認野党」というか、表面上は「野党」で「連立政権」には参加しないものの、実際の機能としては「政府パートナー野党」(御用野党)として動きます。彼らが共通の敵とするのが、「本当の野党」で、この野党の躍進を阻むためであればいくらでも手を組みます。ただし、表面上は対立しているように見せかけるので、手を組む際には、かなり隠された形で行われることが多いです。

1) 最後の部分と関わる点ですが、与党が「公式野党」との連携を重視するのが選挙制度や議会運用という、競争の現場(討論や選挙自体)ではなく、その前の条件づくりの部分です。与党の権限と「野党」の賛同を得て作られた与党再選に有利な制度の構築によって、「本物の野党」が政権奪取鵜するのを難しくするのです。

3) これはいう迄もないですよね。選挙の前にはお金が飛び交います。「本物のメディア」は鞭によって懲らしめます。例えば、国家の権限を使って、ラジオ局や新聞社の閉鎖、発刊停止、裁判などあらゆる手法が取られます。あるいは、取るぞとの脅しがかけられます。

飛ぶ交うお金としては賄賂もありますが、読者数が少ないアフリカの新聞では広告収入が大変重要になってきます。その中に、政府の広報、政府系機関や企業の広告などがあります。この撤退をちらつかせたり、あるいは増やしたりということでコントロールがなされます。

いずれも、一見すると、制度上は法を守っているように見えるので、批判が難しくなります。上手い政権ほど、正面衝突を避けて、これらの手法を駆使して、長期権威主義体制を構築していきます。東南アジアの国々が参照されることが多いです。

私の日本国際政治学会の論文は、ゲブーザ政権の二期目(2004年〜2009年)を、この理論を使って分析したものでした。

さて。以上を読んで、なんか日本と似ている・・・と思いませんでしたか?
「競争的権威主義」こそ、「戦前・戦中回帰の現代バージョン」と言えるかもしれません。

ただし、私の2012年時点のモザンビーク政治分析には、本当はやりたかったもものの出来なかった点が残りましたす。それは、「競争的権威主義」の行き着く先でした。勿論、研究というものは起こってからしかできないものです。しかし、私は研究だけをしているわけではありません。予防原則に基づいて、政策提言という観点から警鐘を鳴らしたいと思って活動をしてきました。

特に、日本が巨大なドナー・投資家としてアフリカ、特にモザンビークに大きな影響を及ぼすようになった今はなおさらです。私が注目したのは、都市・農村を含む上から下までの「大政翼賛体制の構築」の進展でした。これは、モザンビークの文脈では、一党支配時(あるいは共産主義時代)にも試みられたものでしたが、ゲブーザ二期目には、その時代よりも上手く機能するようになったように見えました。この理由が、投資や援助、権限や昇進を使った「褒美」によるものです。(共産主義の時代は「鞭」に力点があった)

一応ここまでは、現象としては分析に入れたものの、そこから更に関心がルワンダの政治にいってしまったので、少し深みが欠けたまま現在に至ります。

また、この後2013年4月にモザンビークで武力衝突が再燃するので、「競争的権威主義体制の限界」についてもう少し書き込まないといけないな・・・と思ったまま現在にいたります。この作業は、今後やっていこうと思っています。

で、日本の話はどこ?森友はどこだーーー?
という方々には申し訳ない限りの長い前段。失礼。

さて。「競争的権威主義」がどんなにバッチリ以上の3点セットを上手くやろうとしても、このようにやりたい放題で汚職腐敗が蔓延していくと、人々の不満は高まります。その不満は思いがけないところから噴出していきます。そして「本物の野党」を利する結果となってしまうことがあり得ます。

(例えば、モザンビークの例では、「公式野党」として操ってきたRENAMOが、突如「本物の野党」のような動きをしてしまって、制御できなくなった・・・という問題が生じました。)

そのリスクこそ、政権与党の防ぎたい最大のものです。
で、いくつかの方法が取られます。

さて、この先はモザンビークの話というよりも、ナチス・ドイツ、サラザールやフランコ政権下のポルトガルとスペイン、戦前・戦中の日本、虐殺直前のルワンダ、そして現在のいくつかのアフリカの国々で進行している出来事を参考にした話です。

ただし、繰り返しになりますが、時代は回帰しているようにみえて、大前提が違っている点に注目しなければなりません。それは、「独裁・全体主義」がフリーハンドで出来た時代と異なり、冷戦後90年代以降の世界では、たとえ「アフリカ」でも、「競争的選挙」が大前提となっているという点です。

その意味で、日本で今着々と進む「運動」もまた、それが大前提となってのことなのです。

「競争的民主主義下における権威主義体制の構築」を真に目指すとしたら・・・つまり、「競争的選挙が何度あっても与党が政権の座に留まり続けるにはどうしたら良いのか?」という問いに応えようとするのなら、重要なことは何だろうかというのが、ここから先のお話です。

そして、事例は日本以外のところから引っ張ってきています。

さて。その点において、「本物の野党」あるいは「本物の野党になりうる勢力」潰しは最大のものです。

これは、諜報組織やコンサルティング企業(軍事・諜報・情報・PR<広告代理店>)を使ってやられることが多いのですが、最近分かってきた手法の一つに「co-optation」や内偵者の活用というのがあります。アフリカの多くの政権が、英国やイスラエルの諜報組織やその関係者が作った企業と契約を結んで、盗聴やら何やらの活動を行っていることが、BBCやアルジャジーラによって暴露されています。

この際には、「野党」だけでなく、潜在的に野党になりうる市民社会組織も含みます。
有名な事例としては、南アフリカANC政権が、イスラエルの企業を使って、かつての反アパルトヘイト運動の同志であり現グリーンピース・インターナショナルのクミ・ナイドゥーの通信を傍受していた事件があります。なお、これがバレたのは、イスラエルの元諜報組織のトップが内部対立の末に、全部バラしてしまったしたからです・・・。

(日本で進むあらゆる法制度も、この方向で進められているものと考えて良いかと思います。)

そして、もう一つ同時並行的にやられることが、日本でも戦前・戦中でみられた全国津々浦々、あらゆる組織に入り込んだ「全体主義的体制」の構築です。これは「上からの運動に呼応する下からの運動」として全国的なものとして行われていきます。

これが効果的に進展するには、「共通の敵」と「共通の宗教のような信仰」が必要となります。

20世紀が「ナショナリズムの世紀」であったように、「国家主導型大衆運動」には「ナショナリズム」がつきものでした。そのナショナリズムは、狭い意味の「民族主義」が活用されます。つまり、「我が民族は選ばれし特別な民族」であるという賞賛から始まって、それが「傷つけられている/脅かされる可能性がある」という物語が多用されます。

勿論、経済がよい時、未来に希望が持てる時にはこれは効果がありません。
これが効果をもってくるのは民衆に不満が高まる時です。

そして、その時こそ、「競争的権威主義体制」を牛耳る政権与党にとって危険な瞬間です。
なぜなら、甘い汁を沢山吸って、国家を私物化して、色々な手法を駆使して国民の目を欺いてきたことが、もしかしてバレてしまう危険が高まる時期だからです。あるいは一気に不満の矛先に自分に向かっていく可能性が高まるからです。

そして、「競争的」であろうとなかろうと、古今東西老若男女の「権威主義者」たちは、政権を失うことを異様に怖れます。

それは、自分たちが手を染めてしまったあらゆる汚い手段を熟知しているからです。
政権を失ってしまったら報復されるかもしれない。
あるいは何でも思い通りになるパワーを手放せないという禁断症状故かもしれません。
しかも、これらの為政者らと手を組んでやりたいようにやってきた仲間達も、これが心底怖いです。
なので、強力なスクラムを組んできます。

(話は若干逸れますが、カネや利権、あるいはこのような権力を手放す怖れを抱いた多種多様の人々の集まりの方が、理想のために集まる多種多様な人々の集まりより、結合力は強いです。なので、「野党(連立)がふがいない」と見えるのは、本物志向の野党であればあるほど、理念先行になってしまって合意できないからです。)

高い教育を受けた(多くは外国に通じた)経済・行政のエリートらが御用大衆運動を完全にバカにしながらも、旗ふり役になったり、資金を投じるのは、これらとの同盟が、「競争的権威主義」を継続させるためには不可欠だからです。この「エリート」と「浮かばれない大衆」の結合は、非常に重要な点です。

(今ニュースを見ていても、どうしてエリート財務官僚とあの大阪のおっちゃんたちが繋がるのか分からないかもしれませんが、ここは肝だったりするのです。

でも、あの一家の反乱に見られたように、エリートは本当の意味では大衆を信用していません。というか、お互いをも本当には信用していませんが、金と利権と保身といった共通の守るべき価値があるので結合できるし、お互い弱みを握り合っているのでそう簡単には裏切れない。)

なので、いつ寝返るか分からない民衆の不満の矛先を、国内体制から逸らすため、常日頃から「共通の敵」に向けておく必要があります。そのために手っ取り早いのは、「内なる敵」の存在です。

「内なる敵」、「スケープゴート」は、全体主義や権威主義体制においてほとんど常に現れてきます。

それは、ある人種、ある民族、ある宗教・・とにかく、その国・その社会でマイノリティで、マジョリティの深層心理の中で優越感を刺激する一方、忌み嫌われる何かの要素があればいいのです。あるいは、歴史的には対立がなかったところに、対立の物語を作り出すことでも構いませんが、これらのマイノリティの逆襲もそれなりに怖いので、これらの人々が圧倒的に不利な条件というのが必要です。つまり、国政参加権を持たないとか、圧倒的に数が少ないとか、見た目が違うとか。

さて。
しかし「内なる敵」だけでも不十分です。
特に、政権にとっての危機の時代(経済が悪くて民衆の不満が根強い)には、「内なる敵」につながった「外部の敵」の存在が重要になってきます。「内なる敵」が連れてくる「外部の敵」の物語。これは、相当なインパクトがあります。興味深いことに、ドイツでも、ルワンダでも、日本でも、近隣諸国との関係でこれは利用されました。その際には、歴史的な物語が大々的に使われます。

特に、「国体」「国家」「国民」「国土」が危ないという物語は、かなり効果があります。

その他、「運動」の要にいる人達にとって、利権と優越感(差別意識)は「甘い汁」として機能します。
ここに、ネポティズム(縁故主義)が登場してきます。
そして、パトロン=クライアント関係(親分=子分関係)も。
そして、この説明は力つきたので、又今度・・・・すみません。

一点だけ補足しなければ。
以上のように「アメ」だけでは、不十分だという点です。

法制度の改変や実際の介入によって政治組織や社会組織を鞭で圧迫したとしても、あるいはネポティズムで国の隅々まで同盟者を子分として配置しようとも、個々人の「批判的精神」「自立した個」もまたある日火を吹き、瞬く間に民衆の不満を吸収して政権を打倒してしまう可能性を秘めています。

拡散はメディアのコントロールである程度可能ですが、内面までコントロールしないと安泰とはいえません。なので、内面に浸透するツールが重要になってきます。宗教や信仰、教育です。

したがって、独裁・権威主義体制は、一人ひとりが個として確立しないような、体制の「臣民」として従順なる僕としてしか存在しえないような教育を必要とします。そして、それは個別のある学校の点としての教育であっては効果がありません。全国的な「体制」とならないと意味がないのです。

権力を絶対に失いたくない権力者は、小さな穴すら怖れます。
小さな穴を防ぎきるためには、大きな毛布ですっぽりとそれを覆う必要があるのです。
これが、法制度・警察・教育なのです。
教育なしには貫徹できない。
洗脳に近いことをイメージしてもらえば、大体それで良いかと。

今の大人達をここから従順にするのは無理なので、次世代から始めなければならない。「洗脳」である以上、早ければ早いほど良いわけで、最終的な到達点としては権力側に批判意識をもたず、同化でき、命令にどこまでも従い、いざとなったら自己犠牲してまで体制を支えられる若者が必要となります。

これは、実は「外の敵」に対抗するためではありません。
そのように見せかけて、実際は国内の自らの体制を守る為です。
そして、「内なる敵」も実は単なるイメージのためのものであって、そもそも彼らは政権の脅威ではありません。数が少なすぎ、大多数と違いすぎて力を持ち得ないからです。

本当の敵は、政権奪取しうる「本物の野党(とその可能性をもった勢力)」なのです。

さてさて。
長くなりました。

で、森友でした。
森友があからさまに示してくれた現象は、以上のような「競争的権威主義」と「危機時の独裁・全体主義体制」で採られた手法が相当程度、日本の中で進捗してきたということでした。

これを単なる「収賄」とか「お友達利権」とかの軽い言葉で済ませるのはあまりにナイーブでしょう。あるいは、そういう風に済ませてしまいたい人達がいるのでしょうが、実際はもっと根深く・広い現象として捉えられるべきです。

つまり、2017年の日本では、すでに深刻な形で、以上の恐ろしい社会体制への移行プロセスを邁進してきたということです。すでに、ボタンのスイッチは押されており、上から下までの運動として、これが全国津々浦々で進んでいるということです。

ここには政官財+教育+宗教+メディア+地域社会が密接な繋がりを築いていっている。そして、まだこの運動は、数としてはマジョリティを構成していないものの、国家権力・権限・資源と結びつく形で、「メリット」が大きいために、見かけ以上の力を発揮し続けています。そのことが、社会不安と不況の時代に、大きな魅力となって、大多数の迷える若者や大衆を動員していく可能性が大いに高まっている。

官僚や財界の皆さんは、このような運動を心ではバカにしながらも、利用することのメリットが大きいのでおつきあいして、自分の利権を貪っている状態にあります。でも、運動が崩壊したら真っ先に逃げるのはこの方々でしょう。そして、もう一点注目したいのは、この運動が男性中心に展開しているという点です。

続きは今度。
by africa_class | 2017-03-23 01:24 | 【考】民主主義、社会運動と民衆
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