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カテゴリ:【記録】講演・研究会・原稿( 63 )

再録「3・11後の私、私たち~We are the Fukushima」(日本平和学会ニューズレータ2011年)

こちらも再録しておきます。最初のドラフトを書いたのが去年の6月。
今改めて読み直して、もう10か月経ったにもかかわらず、事態が
改善していないことを、怒りと無力感をもって感じます。
 ただし、最後に期待として書いたお母さんたちの運動については、
避難したお母さんたち自身の運動、福島に残るお母さんたちの運動、
全国のこれらの避難家族を受け入れるお母さんたち、給食や瓦礫
問題に立ち上がったお母さんたちの運動・・・・など、多様性と広がり
を持ちつつあります。つまり、当初私が思った以上に、お母さんたち
は、変わりつつあるんじゃないか・・・ということです。ただ、お母さん
たちにも疲れが見え始めています。横のつながりの重要性をますま
す感じています。
 そして、「専門家」たちの動きが、これらお母さんたちの動きに比べ
れば、非常に遅いことに時にいらだちを覚えざるをえません。が、
気にしない!
 今からでも「遅くない」です。むしろ、皆が疲れてきつつあるので、
「遅れてきた元気な皆さん」はどこでもウェルカム!どうぞ、今から
でも仲間になってください~。

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平和研究あれこれ
日本平和学会ニューズレター2011年第19巻第4号、22-23頁
「3・11後の私、私たち~We are the Fukushima」
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「どうしてあなたは、福島の子どもたちのことにそんなに一生懸命なのですか?」
4月23日、「福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト」のニーズ調査と関係機関訪問を終え、郡山駅で新幹線に乗る直前、地元NGOの方にそう聞かれた。その時、あまりに驚いてきちんと答えられなかったこの問いについて、今でも考え続けている。
 確かに私は、「アフリカ地域研究者」で、「アフリカの紛争」を専門とし、「東京外国語大学」という福島とは関係のなさそうなところで仕事をする関西人である。しかし、私にとって、今この問題に取り組むのは、ごく当たり前のこと。むしろ、「関係ない」といわれると不思議に思ってしまう。
 まず私は、事故を起こした福島第一原発の電力を、東京電力から買ってきた。次に私は、20年間有権者として、自公政権や民主党政権の原発推進体制を支えてきた。彼らに一票も入れなかったとしても、一市民としてそのような政治が変えられなかったという点で、支えたも同然であった。そして、私は原発に反対しながらも、十分な取り組みをしてこなかった。何より、私は広島原爆投下の日に生まれたのであった。だからこそ、平和のために生きようと、活動し、研究してきたのではなかったか。しかし、原発の問題を平和の問題として十分に考えることをしてはこなかった。そして、日本中に原発が増えていく中、ただそれを眺めていただけだった。たとえ、署名や募金活動に協力したとしても。
 結局、私は今回の原発事故発生の構造部分に、消費者・有権者・市民として実質的に何もしてこなかったことによって、深く関与してきたのである。私にも責任がある。福島原発事故は「私たちの問題」でもある。むしろ、私たちのものであったはずの問題を他地域の人びとに押しつけ続けてきた結果が、この事故であった。
また、私は「子どもは社会の宝」をモットーに、これを実践してきたつもりであった。自分の子どもであろうと、人の子どもであろうと、福島の子どもであろうと、アフリカの子どもであろうと、子どもたちは「私たちの宝」であることに変わりはない。
 アフリカの村のお母さんは、自分の子どもがどこで何を食べたか知らないことが多い。「共食(きょうしょく)」の文化がそうさせるのである。実は、私もそうやって大きくなった。両親・両祖父母が共働きの我が家の夕ご飯は8時であった。いつもお腹をすかせていた私たち姉妹は、親戚でもない隣のおばちゃんの家に勝手に上がり込み、ご飯をもらい、いつの間にか炬燵で眠り惚ける毎日だった。近所のおネエちゃんの家に押しかけては遊んでもらい、毎週のように銭湯に連れていってもらってもいた。私たち三姉妹は、京都のとある漁村の「宝」として、大人たちに包み込まれるように育った。そして、それは特別なことでもなんでもなかった。今になって私たちの面倒をみてくれていた人たちが経済的には貧しい家庭の人たちだったと知ったが、彼らは当たり前に私たちを預かり、食べさせてくれたのである。
 しかし、そのようなコミュニティは現在の日本に、どの程度残っているだろうか。私たちは、自分や親せき以外の子どもに、どれぐらい頻繁にご飯を食べさせているだろうか。いつから私たちは、自分の子どもでない子は「ヨソの子」として扱い、自分の子どもばかりを大切にすることが当たり前の社会に暮らすようになってしまったのだろうか。
 今、福島とその周辺の子どもたちが、私たちの無力ゆえに、私たちの目の前で、危険に晒されている。誰よりももろく、尊いはずの子どもたちの健康と命。それを守ることができる政府も、医者も、専門家も、メディアも、何もしない。何もしないどころか、子どもたちに大人より緩い「基準」を与えて平気でいる。
 1990年代初頭以来、日本政府は、「人間の安全保障」を「ウリ」として世界に広めよう…と何十億円ものお金を世界にばらまいてきた。今、その日本は、子どもたちの安全を保障するどころか、奪い続けている。子どもの安全と引き換えに、メンツやカネや既存構造の存続を優先する様は、戦時中の日本と同じではないか。一人ひとりの命よりも国家が優先される時代は終わったと誰もが思っていた。しかし、実際のところ、そうではなかった。私たちの弱さが、それを許してきた。
 2011年3月11日直後にはっきりしたのは、日本という国が、65年を経てなお戦時中の体制から脱却できていないということであった。そんな体制を温存してきてしまった私たちもまた、結果として子どもたちを危険に晒している。しかし、自分たちの無力を嘆く余裕はもはやない。私たちは、今変えないとしたら、この社会を一体いつ変えるのだろうか。いつまで政府のせいにし続けるのだろうか。いつまで自分たちの無力をただ嘆き続けるのだろうか。
 福島のお母さんたちは、この四面楚歌の状況下で今日も闘っている。国家が守らない、社会が守らない子どもたちを、自分が守るしかないという決意でもって、闘っている。政府のいう「安全」宣言を受容するお父さんが多いこともあり、お母さんは子どもたちの安全を守る最後の砦になってしまっている。しかし、人類が経験したことのない未曾有の危機の中で、一人のお母さんにどこまで何が出来るだろうか。お母さんがどんなに望んでも、親戚が県外にいる、経済的に余裕がある、インターネットへのアクセスがあるなどの条件が整わない場合、子どもたちを守る術も限られている。
 そして、せっかく逃げてもなお、自分を責め続けるお母さんたちがいる。あるいは、逃げないことで自分を責めるお母さんたちもいる。しかし、責められるべきはお母さんたちではない。そもそも、「社会の宝」を守る判断を一人ひとりのお母さんたちに押しつけていること自体が問題なのである。だからこそ、お母さんたちの闘いが、福島に残るという選択肢、あるいは出て行くという選択肢の中のものであろうとも、私は徹底的に寄り添いたいと思う。「社会の宝」を必死で守っているお母さんたちに、「ありがとう」と伝えたい。
 しかし、この闘いの真っただ中で、私は静かな運動の胎動を感じてもいる。今、全国各地で、小さな、小さな運動が生まれつつある。それらは、あまりに小さく、組織化されてはいないものの、生活の場から湧き出ている。その担い手は、これまで市民活動を担ってきたNGO関係者、宗教関係者、生協関係者ではなく、「ママ」であることを前面に出してはばからない女性たちなのである。デモなど行ったこともなかった女性が、デモを企画して大勢の人たちを動かしている。NGOなど参加したことなどなかった女性たちが、全国各地で福島からの子どもの疎開プログラムを立ち上げている。女性たちは、PTAの枠組みを越えて、学校運営に口を挟み、市議会を動かし、市長を動かしている。動かない国の政策をしり目に、「ママ」たちは、人びとを、地方行政を、動かし始めている。その運動の根本には、当事者意識と連帯と共感がある。この国を変えるためには、このような市井の人びとの動きこそ決定的に重要な意味を持つであろう。
 国に、専門家に、地方政府に、親族に、義父・義母に、夫に、逆らって福島を後にしてきたお母さんたちの決意。あるいは、福島に留まる決意をして、住民同士連帯し、少しでも危険を取り除こうと奮闘するお母さんたちの努力に、私は未来をみる。このような一人ひとりのお母さんの勇気が、私たちを変える。もはや、自分の責任の問題を超え、私はこの問題に関わることによって、日々勇気をもらっている。だから、今日も福島の子どもたちのことを一生懸命やる。自分のこととして。
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by africa_class | 2012-04-01 15:20 | 【記録】講演・研究会・原稿

再録「アフリカは『国際社会』に含まれないのか?」(日本国際政治学会ニューズレター)

今関西の実家にいます。子どもたちが遊びに行ったので、以下
のイベントを視聴しながらブログ更新中。途中で止まっていた
各種原稿の再録・整理を続けさせてくださいませ~。
■緊急市民自治講座「震災がれき広域処理を考える」
http://www.ustream.tv/channel/iwj-okayama1#utm_campaign=ss-post-backlink&utm_source=8481406&utm_medium=social

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『巻頭言~アフリカは「国際社会」に含まれないのか?
~人びとの「熱狂」から考える~』
『JAIR Newsletter(日本国際政治学会ニューズレター)』
125号2010年9月日本国際政治学会、1-2頁
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今、アフリカ・ルワンダにいる。昨夕訪ねた「ジェノサイドの丘」に吹く冷たい風が、この1週間聞き取った人びとの話に、妙なリアリティを与えて迫ってくる。数日前には、比較研究のため滞在していたモザンビークで、食料価格高騰に端を発した若者の暴動が死傷者を出しているという。
暴力を拡大し、暴力の中で高まる人びとの「熱狂」。このアフリカの市井の人びとの「熱狂」に対して、国際政治学はどうアプローチしてきただろうか。中でも、「国際社会」を研究の射程に入れてきた本学会の会員は、このような「熱狂」をどう見つめ、どう分析し、どう解説するだろうか。「向こう側」の人びとの心情の吐露として?「国際社会」が対処しなければならない困った出来事として?「国際社会」のミッションを妨害するものとして?あるいは「先進諸国」によって構成される「国際社会」の活動対象として?
確かに、「国際社会」は、「世界の困り事」に一致団結して取り組む「責任ある母体」として、それらの平和化に頭を悩ませ、人びとの「熱狂」に途方に暮れ、対処を試みてきた。最近では、「保護する責任(R2P)」も提唱されている。そのような「国際社会」の中に、アフリカを位置づける人はほとんどいないだろう。むしろ、アフリカは「国際社会」の枠外に配置され、対象化されてきた。しかし、問いたい。このような「熱狂」に、「国際社会」はすでに関与してきたのではなかったか、と。となれば、「国際社会」という世界大の社会からアフリカやその人びとが排除される論理は何か、と。
 ルワンダでの1994年のジェノサイドも、16年に及んだモザンビークの武力紛争も、お互いに対する殺戮であったように見えて、実際にはその時代の国際関係の中でのみ起りえたことであり、武器や通信機器の供与に始まり軍事訓練に至るまで、諸外国の関与なしには、暴力の組織化と続行は不可能であった。またすでに明らかな通り、これらの暴力を、植民地化、そして冷戦のただ中で進行した脱植民地化プロセスに位置づけることなく理解することはできない。したがって、アフリカの人びとの「熱狂」もまた、重層的で複雑に絡み合う国際関係と世界史的動態の中で説明されなければならないはずである。
 しかし、アフリカは「国際社会」に含まれるどころか、それに対置され、「国際社会」の統合性と主体性を支える役目を負ってきた。ここアフリカでよく囁かれるように、「国際社会が国際社会であるためには、『アフリカ』が必要なのだ」。アフリカの人びとの「熱狂」もまた同様に。
 そもそも、現在の我々は、人びとの「熱狂」を、「遅れた地域」に特有なもの、民族(「部族」)的なもの、あるいは一国内のものとして捉える傾向にある。しかし、このような「熱狂」を、「国際社会=先進諸国」の我々も経験してきたのではなかろうか。しかも、それは一国的なものに留まらなかった。かつての日本での「熱狂」ですら、当時の国際関係の中で生じたことであった。それは歴史上の出来事で、現在は起り得ないと断言できるだろうか。では、9・11直後の合衆国で見られたあの「熱狂」は?
 21世紀を迎えた現在、アフリカの農村や街角で生み出される人びとの「熱狂」もまた、世界大の関係性の中に位置づけないのであれば、十分な分析が得られるとはいい難い状況が生まれている。逆に、我々が世界に実存するはずの一地域を客体化し続けるのであれば、もはや世界の全体像を把握することは不可能となりつつある。それがたとえアフリカの市井の人びとの「熱狂」であろうとも、「国際社会」がすでに内包するものとして、我々と同じ地平に位置づけるとき、国際関係の理解に新しい地平が切り拓かれるだろう。このことは、「国際社会」⇔アフリカ地域、国外⇔国内、国際⇔地域に分断されてきた、我々の学問にも、大きな刺激をもたらすに違いない。
 我々が無意識的に排除してきたアフリカを「国際社会」の一部として取り入れることは、今まで知っているつもりであった世界とその歴史を、新しい光の中で捉え直す機会を与えることになろう。さらには、「彼らの熱狂」が、我々自身に潜む「熱狂」の危険に気づきをもたらし、何度呟いても十分すぎることのない「Never again」という一言を立ち上らせ、過去から学ぶことができるはずの生物としての人間の原点を、我々のもとに再び取り戻させてくれるのではないだろうか。 (東京外国語大学大学院)
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by africa_class | 2012-04-01 15:09 | 【記録】講演・研究会・原稿

一挙掲載月刊『英語教育』連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」(その1)

今日はかなり原稿が捗らなかった日なんですが、共著本『現代アフリカ
と国際関係』の担当章の骨子は出来たので、ヨシとしなければなりませ
ん。そして今、今年度の研究成果をとりまとめ中・・・がしかし、あんなに
書き散らしたのに、コラムや巻頭言・・・ばっかりでした。研究成果には
到底なりませんね~。でも一般に向けた発信が2011年は何より重要
だったので、これもヨシとしておこう。(あっ、英語本先月出版したのでし
た・・すでに遠い昔・・・のよう。)
 すでに「斑(まだら)脳」状態なので、今年1年間書き散らしたものを、
このブログでも一挙投稿しておきます。(すでに紹介したものもあるの
ですが、すみません。記録ということで一挙に再掲しておきます)
 まずは、去年1年間追い立てられた連載コラムの紹介。文字通り、
ドイツに、アフリカに、追いかけてきた・・原稿。
 全国の英語の先生(中高大)が読む月刊誌『英語教育』(大修館)の
「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」というコラムなんですが、
丁度1年が終わったので、全部掲載できます(最新号でなければ掲載
OKということなので)。
 そして、このコラム。書店や編集者の予想を裏切り(!)、読者アンケ
ートで好きなコーナーの上位に選ばれたそうです~。(英語の先生たち
への「挑戦状」として書いたので<今明かす!>、何故かは不明です
が・・・あまりに突拍子もなかったからかも。。。)
 なお、紙面に掲載されたものはワードでないので、提出原稿です。校
正が十分入っていない文章であることを予めお伝えしておきます。本物
については、次のサイトをご覧の上バックナンバーをご注文下さい。
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『英語教育』2011年1月~2012年1月
連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」

http://www.eigokyoikunews.com/store/eigokyoiku.html
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舩田クラーセンさやか(国連PKO活動等に参加後、2004年より東京外国語大学でアフリカについて教える。英語・ポルトガル語・スペイン語・関西弁、そして怪しいドイツ語・マクア語を話す。)
 
■第一回アフリカの中の英語
この新コーナーのタイトルを見て、皆さんが最初に思い浮かべるのは何だろう。「英語の中のアフリカ」といえば、英語に取り入れられるようになったアフリカ起源の言葉や表現の紹介となろうか。例えば、なぜか日本語だと思われがちな、Okra(オクラ)など?では、「アフリカの中の英語」は? 
おそらく、本誌の読者の多くが首をかしげていることだろう。そもそも、アフリカ人の話している「あれ」は、「英語」なのか…ピジン英語に違いない、と?なにせ日本から「遠いアフリカ」である。英語の達人の皆さんであろうとも、アフリカ21カ国の公用語が英語だという事実をご存じないかもしれない。しかし、世界で最も多く英語を公用語とする国が集まっている地域、それはまさしくアフリカなのである。
「そんなことを言っても、実際そんなに使われてないんでしょ?」とのご指摘は、当っていて、その実そうでもない。確かに、人口の6割が農村に暮らす多くのアフリカ諸国では、公用語と指定されていても英語が普及しているとは言い難い状況にある。しかし、あなどることなかれ。公用語が英語ということは、街で見かける標識、お役所の書類から国営放送や新聞、高校や大学での教育言語まで、すべて英語なのである。つまり、都市に居る限り、英語は他の国と同様、普通に使われている。
 ということで、本連載では、これまでナゾに包まれてきた「アフリカの中の英語」を、徐々に明らかにしていきたい。ただし、「そんなことを知って何の役に立つんだ」という方もいるだろう。そんな皆さんに是非お伝えしたい。それは今、世界のビジネスシーンあるいは国際会議の最前線で話される「英語」は、もはや日本で学ぶような米国か英国の英語ではないということを。名古屋で開催された世界生き物会議(COP10)で見られたように、「途上国」出身者が、それぞれの訛りのそれぞれの英語で堂々と演説するのが当たり前の時代なのだ。「英語のグローバル言語化」が進んだ結果、英語の多様性が進み、国際交渉の現場では多様な英語は日々の現実。どんな訛りであっても、その人が言わんとしていることを正確に掴むことこそ、求められている。その観点からすると、「アフリカの英語は英語じゃない」などとは恥ずかしくていえない21世紀である。
 では、「アフリカの英語」って?これについては、次回以降をお楽しみに!

■第二回 英語留学先としてのアフリカ
最近、英語留学先のひとつとして、アフリカ大陸を選ぶ学生が出てきていることをご存じだろうか。依然、数としては少ないものの、文科省の発表では、アメリカへの留学が減る一方、アジア・アフリカ方面への留学が増えているという。留学以外にも、企業やNGOへのインターンシップという形態でのための渡航を希望する学生も増えている。私のゼミ生も、ケニア、ウガンダ、ルワンダといった英語圏、エチオピアやモザンビークといった非英語圏で活躍中(あるいは活躍予定)である。
 長年アフリカにかかわってきたこの私にさえ、数年前には想像できなかった事態である。しかも、アフリカは物価が高く、決して「安上がり」というわけでもない。休学してまで行くとなると、卒業が遅れてしまう。それでもでは、なぜ学生はアフリカを目指すのか?
 それは、社会がもはや「英語だけ」ができるだけの学生を求めてはいないからである。世界は急速に変貌を遂げ、「欧米諸国&日本=勝ち組」vs「途上国=負け組」という構造ではなくなりつつあるのを、若い人たちは敏感に感じている。新興諸国市場への進出に焦る日本企業にとって、英語力は勿論のこと、サバイバル能力や交渉力を有した学生は即戦力として重要である重宝される。日本と同じ豊かな欧米各国への英語留学では、自己変革を余儀なくされるような経験に結びつきづらい。だから、学生はアフリカへ向かうのである。
アフリカ留学には、もうひとつ積極的な意味があると私は考えている。それは、「英語至上完璧主義」からの脱却である。おそらく、受験での挫折が影響しているのだろうが、私の周りには「英語が苦手」という若者が非常に多い。しかし、実際はみな結構英語が出来るのである。思いきって使ってみれば、あっという間に上達しそうなのに、知識はあるのに、使いもせず苦手だと思いこんでいるのである。もったいない。
 そんな呪縛から解き放たれるには、アフリカはとても良い所である。アフリカ人の大半が、バイリンガルどころか、4つ以上、人によっては8つもの言語を操るマルチリンガル。なんといっても、1500もの言語が話される大陸である。このようなスケールで考えると、日本でよく聞く「英語好き」か「英語嫌い」かなんて、なんと小さなことか。の狭さがはっきり見えるのではないだろうか?最終目標を「英語を極めること」に持っていくから、コンプレックスになるそこに行き着けないと駄目という気分になる。3つぐらいの言語の習得を目標としたら、「英語ぐらい」という気分にもなろうというものというノリも可能。そうなればシメたもの。呪縛から解き放たれ、もっと楽しい英語学習も可能かもしれない。
 ということで、若者よ、来たれアフリカへ。

■第三回インビクタス」~3・11後の日本に捧げる詩
今号の草稿を準備したのは、去年末のことだった。3・11が日本を襲うことになるとは夢にも思わなかった時期。そして今、日本が未曾有の危機に直面する中、これを書いている。日本の「インビクタス」たちのために。
インビクタス(invictus)は、「負けざる者」の意味。結核によって障害を負い、大きな挫折と苦しみを抱えながらも、詩の創造によって自らを奮い立たせ、多くの人を力づけた19世紀末の詩人William Ernest Henleyの詩に後から付けられたタイトルである。
 なぜ、これが「アフリカの中の英語」かと言えば、この言葉を現代に蘇らせた人物こそ、南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領だからだ。マンデラは反アパルトヘイト運動の指導者として、27年もの間、監獄に収容された。しかし、この詩を胸に、希望と不屈の精神を決して失わなかったという。そして、1994年、全人種参加の総選挙によって、大統領に就任する。「囚人から大統領へ」…不可能を可能にしたその秘密が、この詩であった。
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul 
(…) I am the master of my fate 
I am the captain of my soul.
神に感謝しよう
負けざる魂を授かったことを
我が運命を決めるのは我なり
わが魂を征するのは我なり (抜粋)
 この詩がさらに世界的に有名になったのは、去年公開されたクリント・イーストウッドの映画『インビクタス~負けざる者たち』による。映画では、黒人を抑圧し、自分を監獄に閉じ込めた白人たちを許し、人種間対立を乗り越えるため尽力したマンデラの姿が描かれている。
 運命に逆らうことはできないようにみえる。失ったものは元に戻らないかもしれない。しかし、「わが魂」は自分だけのもの。「その後」を決めるのは我々自身。
 3・11の前よりももっといい日本に。それこそ、マンデラから学ぶべきインビクタスの心と思う。We are the masters of our own fate.

■第四回 3・11後にアフリカからの届いたメッセージ
今回の震災後、世界中から安否確認や哀悼、そして励ましのメッセージを頂いたが、一番多くのメッセージを送ってくれたのがアフリカの人々だった。私にはそれは驚きだった。というのも、私の普段関わっている人の多くがインターネットへのアクセスを持たないからである。そんな友人たちが、震災発生後すぐにインターネットカフェに向かってくれたのだ。い、メッセージを送ってくれた。しかも、震災発生から3日以内に。
 メッセージは、カメルーン、ブルンディ、モザンビーク、ベナン、ルワンダ、ケニア、南アフリカ、ザンビアなどの国々からで、その多くが英語で書かれていた。半分は英語を公用語としない国々である。メッセージを一人でも多くの日本人に届けようとるため、英語で書いてくれた。
 これらアフリカからのメッセージにはある種の共通した特徴がみられる。「がんばろう」ではなく、必ず「心はそばにあるよ」という共感や「連帯」が表明されている点である。
 今まで、私は、研究や市民活動を通じて、アフリカの人々が苦難に直面したときに見せる思いやりや連帯を、目の当たりにしてきた。アフリカの歌の多重性のように、相手の心のひだに寄り添う人たちの優しさに羨ましさを感じ、力をあわせて苦境に立ち向かう連帯の姿に勇気づけられてきた。
 奴隷貿易、植民地支配、戦争、飢餓、貧困…そんな過酷な毎日を生き抜いてきた人々だからこそのしなやかな知恵(強さ?)。だから、「平和ボケ」の現代ニッポンで育ってきた私が、その仲間に入ることはあり得なかった。そばでそれを見せてもらって感激するだけだった。
 しかし、3・11を経て、アフリカから送られてきたメッセージを読み、私たちは今、彼らに仲間として招き入れられているのだと感じている。象徴的には、ベナンの友人ギュスターブのメッセージがある。
 「あなた方の歩む道のりを照らす力になりたいと望んでいます。そのことを是非記憶に留めてください。」
私たちは、今までアフリカに対して、何かを教える立場にあると思い込んできた。しかし、この複合的危機と苦難に直面して、私たちの歩む道のりを照らす進むべき道を示す力を持つのは、アフリカの人たちなんじゃないか…そんな風にも思えてくる。
 人は一人では生きられない。一国だけでも存在できない。我々は、結局のところ、他者に、社会に、世界に、大きな自然に生かされているのだ、と痛感する毎日である。
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by africa_class | 2012-03-28 21:24 | 【記録】講演・研究会・原稿

学術報告:「紛争後の亀裂社会における地域開発の課題~モザンビークとルワンダの事例を中心として」

手前味噌ですが。もう来週に迫ったので再掲載しておきます。
なお報告会といっても、一般に広くというよりも、学術的な議論の
場となる点について予めご了承ください。(したがって情報収集の
ための参加はご遠慮くださいませ)

=============
関係者の皆さま

2009年度より3年間の予定で取り組んできた研究課題「紛争後の亀裂社会における地域開発の課題~モザンビークとルワンダの事例を中心として」 (科学研究補助金若手A 研究代表:舩田クラーセンさやか)の最終報告会を開催したいと思います。本研究課題には、研究協力者や研究補助者など多 くの皆さんの協力を頂きながら現地調査を実施し、研究を深めてまいりました。まだ十分な検討が必要な段階ではありますが、これまでの調査並びに研 究成果を報告し、専門家の皆さんからご意見を頂くとともに、議論を深めたいと考えています。

■最終報告会「紛争後の亀裂社会における地域開発の課題~モザンビークとルワンダの事例を中心として」
■日時:3月21日(水)16時~18時半
■場所:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナールーム
(住所:東京都文京区本郷2-14-10 TEL:03-5805-3254 )
■アクセス:本郷通り上壱岐坂上交差点前ビル。
東京メトロ丸ノ内線: 本郷三丁目駅(M21) 2番出口下車徒歩3分
都営地下鉄大江戸線: 本郷三丁目駅(E08) 5番出口下車徒歩4分
都営地下鉄三田線: 水道橋駅(I11) A1出口下車徒歩6分
JR線: 御茶ノ水駅 お茶の水橋口下車徒歩7分
場所が大変わかりづらくなっていますので、下記のURLから地図をダウンロードしてお越しください。
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html
(東京外国語大学本郷サテライト地図)
■式次第
1.研究報告
(1)本研究についての概要説明
(2)モザンビークにおける現地調査報告
 (舩田クラーセンさやか 東京外国語大学大学院総合国際学研究院)
(3)ルワンダにおける現地調査報告:女性/ジェンダーの視点から
 (八尋絵美 東京外国語大学大学院修士課程在籍)
(4)モザンビーク・ルワンダの比較報告:舩田クラーセンさやか
2.ディスカッサント
3.質疑応答
■ディスカッサント
・武内進一 JICA研究所 上席研究員
・米川正子 宇都宮大学 特任准教授
・朴明淑 東京外国語大学大学院修士課程在籍)
・岩崎健幸 日本アフリカ学会会員
■お申込みの上直接会場にお越しください。
お申し込み&問い合わせ先
メール:africa.seminar<@>gmail.com
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by africa_class | 2012-03-17 11:39 | 【記録】講演・研究会・原稿

報告会「紛争後の亀裂社会における地域開発の課題~モザンビークとルワンダの事例」(3月21日)

このブログではありとあらゆるネタを扱っているので、一体私は何
をやっている人なのか・・・と疑問を持ってくださっている方もいるよ
うですが、研究上の専門はこれです。(たぶん・・・もはや何をもっ
て「専門」というのかすら分からなくなってきたので。)私にとって
は、結局すべてが同じ程度に重要で、皆さんが思っているほどバ
ラバラではないからです。「お前は誰だ?」といわれれば、「それは
私です」・・・としか答えようがない今日この頃。
 さて真面目に。以下ご案内差し上げます。がしかし、ブログをみ
て分かるとおり、3・11後の1年は、これまで何足もの草鞋を履い
て生きてきた私にとっても大きな試練の一年でした。勿論、被災地
の皆さん、福島そして周辺地域の皆さんとはくらべものにはなりま
せんが。力不足で必ずしも、「最終」報告にはなりそうにないです
が、その点はどうぞご了承ください。
===========================
2009年度より3年間の予定で取り組んできた研究課題「紛争後の亀裂社会における地域開発の課題~モザンビークとルワンダの事例を中心として」 (科学研究補助金若手A 研究代表:舩田クラーセンさやか)の最終報告会を開催したいと思います。
 本研究課題には、研究協力者や研究補助者など多 くの皆さんの協力を頂きながら現地調査を実施し、研究を深めてまいりました。まだ十分な検討が必要な段階ではありますが、これまでの調査並びに研 究成果を報告し、専門家の皆さんからご意見を頂くとともに、議論を深めたいと考えています。
 詳細は下記の通りとなっております。ご関心のある方はお申込みの上、直接会場にお越しください(お返事はしませんのでよろしくお願いいたしま す)。
■最終報告会「紛争後の亀裂社会における地域開発の課題~モザンビークとルワンダの事例を中心として」
■日時:3月21日(水)16時~18時半
■場所:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナールーム
(住所:東京都文京区本郷2-14-10 TEL:03-5805-3254 )
■アクセス:本郷通り上壱岐坂上交差点前ビル。
東京メトロ丸ノ内線: 本郷三丁目駅(M21) 2番出口下車徒歩3分
都営地下鉄大江戸線: 本郷三丁目駅(E08) 5番出口下車徒歩4分
都営地下鉄三田線: 水道橋駅(I11) A1出口下車徒歩6分
JR線: 御茶ノ水駅 お茶の水橋口下車徒歩7分
場所が大変わかりづらくなっていますので、下記のURLから地図をダウンロードしてお越しください。
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html
(東京外国語大学本郷サテライト地図)
■式次第
1.研究報告
(1)本研究についての概要説明
(2)モザンビークにおける現地調査報告
 (以上舩田クラーセンさやか 東京外国語大学大学院
     総合国際学研究院准教授)
(3)ルワンダにおける現地調査報告:女性/ジェンダーの視点から
 (八尋絵美 東京外国語大学大学院修士課程在籍)
(4)モザンビーク・ルワンダの比較報告:舩田クラーセンさやか
2.ディスカッサントによるコメント
3.質疑応答
■ディスカッサント
・岩崎健幸 日本アフリカ学会会員
・武内進一 JICA研究所 上級研究員
・米川正子 宇都宮大学 特任准教授
■お申込みの上直接会場にお越しください。
お申し込み&問い合わせ先メール
:africa.seminar<@>gmail.com
*<>を削除の上ご送信ください。(締切:3月14日(水)まで)

15年通っているモザンビークの調査地の皆さんと
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当時学生の亮くんと子どもの海が写ってますね。
もはや家族と同然の皆さんです。
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ルワンダの調査地の女性たちの踊り。
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エンジンが故障して村人総出で丘に車を押し上げ、そのあと押して
くれています。ほんとうに、助かりました!2010年モザンビークで。
いつも自分でオフロード(といえば聞こえがいいのですが要は泥・砂・
赤土道)を四駆トラックを借りて調査地に向かいます。去年は
1500キロ。一昨年は2000キロ・・・踏破?いつまでこれやるのか・・・
やれるのか・・・。そういえば今月もまたモザンビークの村です。。。
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村では村長や伝統的権威の女性の家の中庭に泊まります。
トイレ・沐浴は当然こんな感じで。これも20年近くやると当
たり前ですが。
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by africa_class | 2012-02-09 22:08 | 【記録】講演・研究会・原稿

日本国際政治学会、無事発表終了。

一昨日はアブディン、昨日は私の発表が無事終わりました。
とってもよいコメントや討議ができて、久しぶりに、学問の醍醐味を
感じました。今休憩時間さぼり中なんで、また会場に戻ります・・。
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by africa_class | 2011-11-13 11:07 | 【記録】講演・研究会・原稿

日本国際政治学会で発表します(11月12日土9時~)

今日は、明日の学会発表に向けてアブディンの練習を。私も練習したかったのですが、みなの論文指導があり、結局無理に・・・先生の宿命だね。
 記録のため、発表の詳細をはりつけておきます。また、アフリカ関連のものも掲載しておきます。プログラムだけで十数ページなんで、さがすのも一苦労・・。
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日本国際政治学会2011年度研究大会共通論題・部会プログラム
つくば国際会議場
11月11日(金)午後の部会 13:00~15:30
■部会1 平和構築と国際秩序理論 [中ホール200]
司会 山田哲也(南山大学)
・五十嵐元道(北海道大学大学院)
「トラスティーシップの系譜学―人道主義と帝国」
・篠田英朗(広島大学)
「立憲主義と国家主権―平和構築における法の支配アプローチの分析」
・遠藤 貢(東京大学)
「『崩壊国家(破綻国家)』と国際秩序」
討論 大芝 亮(一橋大学)
■ 部会4 世界金融危機と平和構築のグローバル政治(自由論題部会)
司会 清水耕介(龍谷大学)
・杉之原真子(上智大学)
「世界金融危機後の国際政策協調―グローバル・レベルと地域レベル」
・神江沙蘭(明治大学)
Politics and Responses to the 2008 Global Financial Crisis:
Germany’s Dilemma in the European Union”
・古澤嘉朗(関西外国語大学)
「平和構築における警察改革のジレンマ―ケニアの警察活動の構造に着目して
・モハメド・オマル・アブディン(東京外国語大学大学院)
“Peace Agreements as Means of Political Exclusion: An
Analysis of thePolitical Context of the Sudanese Peace
Agreements”
討論 櫻井公人(立教大学) /山根達郎(大阪大学)

11月12日(土)
午前の部会 9:30~12:00
■部会8 紛争後の国家建設と民主的統治 [101]
司会 武内進一(JICA研究所)
・舩田=クラーセン・さやか(東京外国語大学)
「戦後モザンビークにおける国家統治と民主化」
・ 荒井悦代(アジア経済研究所)
「紛争終結後のスリランカ―和解なしの国家建設は可能か?」
・ 山田裕史(東京大学)
「国連暫定統治後のカンボジアにおける民主化と平和構築の再検討」
討論 稲田十一(専修大学)/ 古沢希代子(東京女子大学)

11月13日(日)
午後の部会 14:00~16:30
■部会12 移行期正義の国際比較 [101]
司会 月村太郎(同志社大学)
・大串和雄(東京大学)
「移行期正義と人権侵害被害者―ラテンアメリカの経験から」
・望月康恵(関西学院大学)
「移行期正義における不処罰の意義と課題―アフリカの事例より」
・ 山田満(早稲田大学)
「東ティモールにおける移行期の正義―SSR問題を中心として」
討論 土佐弘之(神戸大学)/片柳真理(JICA研究所)

日本国際政治学会2011年度研究大会分科会プログラム
11月12日(土)13時半から15時10分
C-3 アフリカ 責任者 遠藤貢(東京大学) [202B]
テーマ 自由論題
司会 遠藤貢(東京大学)
・高井亮佑(早稲田大学)
「アフリカにおける民主化と法の支配―ガーナ共和国の事例から」
・ 増古剛久(一橋大学)
「アフリカの角と米ソ冷戦―1977年のオガデン紛争を事例として」
討論 阪本拓人(東京大学)
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by africa_class | 2011-11-10 17:20 | 【記録】講演・研究会・原稿

愛媛大学、日本平和学会(広島修道大学)での報告終了

人生で最も忙しかった1週間が終わりかけています、ようやく。
一昨日は愛媛大学で報告、昨日は広島修道大学で以下の発表をしまし
た。今日は、米川正子さん、ルワンダの佐々木和之さんの研究報告です。
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日本平和学会2011年度秋季研究集会
世界構造の揺らぎ~「アラブの春」を超えて~
「アラブの春」とサハラ以南アフリカ
~比較と関係性の視点から~
東京外国語大学
大学院総合国際学研究院
舩田クラーセン さやか
キーワード:中東、北アフリカ、サハラ以南アフリカ、冷戦、構造調整
1.はじめに
 本報告は、2010年末から現在まで続く「アラブの春」とサハラ以南アフリカの関係について、後者に力点をおいて検討するものである。まず報告者は、「アラブの春」の舞台であるチュニジア、エジプト、リビアの地理的条件について検討する。その上で、冷戦後におけるこれら地域と外部世界(特に西側諸国)との関係について、サハラ以南アフリカとの対比で説明を試みる。次に、「アラブの春」にサハラ以南アフリカが与えた影響について可能性という点から考察する。最後に、「アラブの春」が今後サハラ以南アフリカに及ぼす影響について検討する。
 以上の作業を通じて、同じアフリカ大陸上にありながら、まったく異なる地域として取り上げられてきた北アフリカとサハラ以南アフリカの関係について考察したいと考える。ただし、かなりの部分が問題提起に留まることを予め述べておきたい。

2.「アラブの春」はどこで起きたのか?
本部会の議題設定が、既に「アラブの春」と表現されていることにも象徴されるが、2011年1月以降のチュニジア、エジプト、リビアといった北アフリカ地域における政治変動は、「アラブ世界」の出来事として受け止められている。現在、この動きがシリアやバハレーンに飛び火していることからも、この設定は妥当であろう。
しかしながら、サハラ砂漠に分断されているとはいえ、アフリカ大陸上にある北アフリカの政変を「アラブ」の枠組みでのみ検討することは、認識の限界を招かないだろうか。特に、この地域を「中東」と表記し続けてきた日本においては、このことはより意識される必要があると考える。
チュニジアでの政変は、当初から日本の多くの報道で、「中東政変」と報道された。現在でも、「中東政変」という検索に、チュニジア、リビアの政治変動に関する記事がラインナップされる一方、「北アフリカ政変」の検索では個人のブログにしか行きつかない現実がある。
そもそも「中東(the Middle East)」とは何だろうか?誰にとっての「東の真中」なのだろうか。「中東」という言葉が最初に現れたのは、1850年代英国領インドであったと言われている。同地の総督府において、インドから西の地域(特に、イランやアフガニスタン)を言い表すために使用されていた。これを、20世紀初頭の米国海軍戦略家Alfred Thayer Mahanが、ペルシャ湾を中心とする「アラビア(半島)からインドまでの地域」と定義し、その戦略的重要性を訴え有名になった。その後、戦間期に英国軍がエジプトにMiddle East Commandを設置すると、「中東」領域は地中海沿岸地域を含む形で一気に拡大する。ただし、Foreign Affairs誌上でRoderic Davisonが述べているように、冷戦下において中東の重要性は増したものの、「誰も中東がどこを指すのか分からず」、研究者も政府も合意に至っていなかった(Roderic 1960)。しかし、スエズ危機に直面したアイゼンハワー政権としては、何らかの定義をする必要に迫られ、国務長官John Foster Dullesによる次の定義が受け入れられていった。つまり、「(中東とは、)リビアを西端に、パキスタンを東端に、トルコを北端に、アラビア半島を南端とする領域」であり、「これにスーダンとエチオピアが追加される」としたのである。現在、ブリタニカ百科事典(英国出版)では、「モロッコからアラビア半島とイランまでの地域を含む」と定義されている。
以上から、「中東」が英米の軍事戦略上の地域概念であり、軍事的な危機への対応に伴って拡大していった概念であることが分かる。北アフリカ地域もまた、英米にとっての軍事上の重要性の強度によって、それが含む範囲が増減してきた。英国からどうみても「南」にあるモロッコやアルジェリア、チュニジアが「東」に含まれることからも、「中東」は地理的というより地政学的なものであることは明らかであろう。そして、日本を基点とすると西方にあるにもかかわらず、この地域を「中東」と呼び続けることに示されている通り、日本がこの地域をみる視点は欧米追従のままである。
カイロ大学のHassan Hanafiは、以上の視点を「古典的なオリエンタリズム」に基づいたものであると批判し、同地域を「アラブ世界」と呼ぶべきと強調しているが、当然ともいえる指摘であり、本部会企画の真髄もそこにあろう。しかしながら、この地域を「アラブ世界の一部」とする意義(アラビア語を媒体とする情報の拡散や団体間連携の重要性)を理解しつつも、報告者はある疑問を頭から拭い去ることができない。つまりそれは、「北アフリカ」という地理的条件がこの変動に与える影響はなかったのだろうか、という疑問である。
 歴史的にみると、北アフリカ諸国は、「アラブ・ナショナリズム」と「アフリカ・ナショナリズム(パンアフリカニズム)」の両方に深く関与し、戦略的に使い分けてきた。前者の方に常に軸足があったとはいえ、後者への関与はアフリカ大陸内政治を見る限り無視しえぬほど大きなものであった。国連決議を無視して西サハラを植民地支配するモロッコはさておき、いずれの国もアフリカ統一機構(OAU)、そして現在のアフリカ連合(AU)に加盟している。アフリカ全土解放を掲げるOAUにおいて、エジプトやアルジェリア、リビアが果たした役割は大きく、1960年代から70年代、これらの国々にとって「アフリカ・ナショナリズム」もまた重要なアジェンダの一つであった。その後、「アフリカ・ナショナリズム」はサハラ以南アフリカ諸国においても下火になった概念であったが、ここ数年OAU結成時に提唱された「アフリカ合衆国(The United States of Africa)」に最も熱心だったのが、リビアのカダフィー(カッザーフィー)大佐であった。
「アラブの春」をアフリカ大陸上で起きたものとして位置づけ直すことによって見えてくるものについての深い分析は、今後の研究を待ちつつ、本報告ではいくつかの点について検討を試みる。

3.大陸最後の長期独裁としての北アフリカ地域~冷戦構造からの遅れた解放
北アフリカ地域で民衆蜂起のあからさまなターゲットになった「独裁と腐敗」であるが、これまではサハラ以南アフリカの十八番のように考えられてきた。世界で最も腐敗した独裁者のトップ3に、ザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツ元大統領が必ず挙げられてきたことにも象徴される。実際、東西冷戦下の援助合戦によって漁夫の利を得たサハラ以南アフリカ諸国には、独立当初の多党制から一党制への変更を行った国が多く、1980年代末の時点で48カ国の3分の2が一党体制下にあった(武内2005)。
しかし、1980年代後半からの東側諸国の弱体化は、サハラ以南アフリカ内の親ソ政権に打撃を与えるとともに、親米政権の戦略的地位を低下させた。さらには、経済危機への対応と称して、IMF/世銀による構造調整(経済自由化政策)の導入が行われ、多くの国で急激な予算削減や民営化が断行され、大きな混乱が生じた。その結果、それまで外部からの援助に頼る形で支配体制を築いてきた多くの政権の基盤は揺らぎ、あちこちで暴動が起きるきっかけとなった。また、「冷戦の勝者」となった欧米諸国によって、追加援助の条件として民主化が押しつけられたため、いずれの政権も多党制選挙の導入を余儀なくされ、1995年までにほとんどの国が多党制に移行した。この変動は、日本ではほとんど注目されることがなかったが、「アラブの春」と同様に劇的で社会に大きな影響を及ぼしたものとなった。
もちろん、これらの国々において多党制がどの程度定着しているかという点については疑問が残る。このような急激な変化が、ルワンダ虐殺をはじめとしてサハラ以南アフリカ各国で政治的危機を引き起こしたことは記憶に新しい。また、石油などの豊富な資源を有する赤道ギニアやガボンでは、体制に変化はもたらされなかった。また、制度上は多党制を導入しても、アンゴラやモザンビーク、タンザニアのように独立から現在まで、何十年にわたって同じ政権が支配を続けるケースもある。それでも、あらゆる意味で「北アフリカより遅れている」と考えられてきたサハラ以南アフリカにおいて、一党支配体制が20年近く前に崩壊し、体制変動が起きているという点は、注目に値する。
 この違いは、どこから来ているのであろうか。この点について、報告者は、内政に基づくものというより(その重要性は否定しないものの)、対外的な関係に基づくものと考える。冷戦崩壊後、西側諸国にとってサハラ以南アフリカの戦略的重要性は減少したものの、北アフリカや中東地域の重要性は減らず、後者の地域の混乱や親米政権の権力喪失を西側諸国が望まなかったことに起因すると考えるのである。冷戦直後に湾岸戦争が起こったことも多いに影響しているが、北アフリカ・中東地域が置かれた状況はある意味で冷戦期と変わらず、これらの地域は冷戦構造から解放されない「残された地域」の一つであったということもできるだろう。

3.サハラ以南が与えた影響?~「アラブの春」前史としての民衆暴動
以上のように、サハラ以南の体制変動は一足先(20年以上前)にやってきた。外在的な部分も大きかったものの、試行錯誤ながら、政権交代を経験した国も多く、市民社会の前進などが見受けられた(舩田クラーセン2010)。しかし、2005年ごろからこれらの国で、選挙をめぐる権力側による暴力などが散見されるようになり、権力にしがみつこうとする政権側と野党側の衝突が繰り返されてきた。構造調整以降、厳しくなった援助国の監視があるにもかかわらず、なぜこのようなことが起こるのかについては、2000年代半ばから活発化した中国の影響が大きい。反賄賂条約に縛られるOECD加盟国や国連反汚職決議(2000年)に従う必要のある国際機関をしり目に、相手国の体制を問わない中国のサハラ以南アフリカ進出は、これらの国々の腐敗構造を解消するどころか悪化させた。中国の登場は、2008年9月のリーマンショックの影響もあり、欧米各国政府や企業を慌てさせ、サハラ以南アフリカを援助対象としてではなく「Next Market」たる投資先と捉えなおす動きを加速させた。また、資源の供給国であった中国やインドの消費国化は、世界全体の資源の希少化をもたらし、「資源大陸」アフリカへの進出合戦を招いたのである。
その結果、21世紀最後の20年間、実質成長率(年平均一人当り)が―1.1%から0.2%の間を推移していたサハラ以南アフリカに、突如として経済ブームが生じた。資源国の中には20から30%の成長率を記録する国が現れる一方、多くの国で10%近くの成長率が続いている。しかし、このような経済ブームは、「Wabenzi(ベンツ人)」の言葉が象徴するように、「ベンツを乗りまわす富裕層(利権を手にする政権関係者やその仲間)」を生み出す一方、マジョリティを占める貧困者を豊かにしたわけではなかった。目に余るほどの富の一極集中と貧富の格差の増大は、一般の民衆、中でも都市住民の不満を膨らまし続ける結果となった。この時期には、教育に熱心な援助機関の取り組みもあり、サハラ以南アフリカにおいても、初等教育の無償化が進むなど、何らかの教育を受けた若者の数は増えていた。しかし、教育を受けたらよい就職先が見つかるという淡い期待は裏切られる一方、農村での暮らしをネガティブなものとして捉える若者の風潮もあり、都市に滞留する若者が社会問題にもなっていた。
そんな中、2007から2008年に起きた食糧価格の高騰は、一部の国で暴動に発展する。暴動が起きた世界19カ国中、実に5カ国をサハラ以南アフリカ諸国(ケニア、ブルキナ・ファソ、カメルーン、コートジボワール、モーリタニア)が占めたが、これは単に食糧が足りないことへの民衆の不満を意味したわけではなかった。国の富を売り渡すことで私腹を肥やす腐敗した政権関係者への怒りがその背後にあったのである。食糧価格に絡む暴動そのものは小規模なものとして抑え込まれたものの、その後のこれら5カ国の展開を検討すると、2007/08年がある種の画期であったことが分かる。その代表例がケニアであり、長年にわたって安定した政治ゆえに多くの投資を呼び込んできた同国で、選挙に際した暴力が大規模殺戮に至ったことは世界を驚かせた。この政治暴力の主な原因は、政権側の不正や警察や民兵を使った組織的な暴力であったが、政権側も野党側も動員の対象としたのが都市の不満層であった。現在は両者の権力分有によって表面上の平穏を取り戻しているが、安定にはほど遠い現状にある。
また、16年もの間戦争状態にあったものの、1992年の和平合意以来政治的安定と経済成長が高い評価を得てきたモザンビークの首都マプートで、2010年9月、死傷者が出る暴動が発生し3日間にわたって首都機能が麻痺したことは記憶に新しい。2011年夏、現地の市民社会組織の代表はこう述べている。
「チュニジアの政変よりも早い段階で、民衆による激しい政権批判が街頭で行われた国。それはモザンビークである。」
実際、この暴動を扇動したのは、都市に暮らす若者の不満層であり、その際に使われたのは携帯電話の特にSMS機能であった。携帯を持ち、文字が読めるという点で、教育を受ける機会がなかった絶対的貧困層ではない点に注意が必要であろう。
このような経済成長の影で生じつつある格差。硬直した政治体制。食糧価格の高騰。教育を受けた若者層の失業。携帯などの新しいコミュニケーションツール。これらには、「アラブの春」と類似している点が多々ある。もちろん、以上をもってサハラ以南アフリカが北アフリカの政治変動に影響を与えたとはいえない。しかし、「アラブの春」前史として、このような動きがあったことは念頭に置いておくべきであろう。

4.サハラ以南アフリカに及ぼす影響
サハラ以南アフリカが北アフリカに及ぼす影響以上に、北アフリカがサハラ以南アフリカに及ぼす影響の方が大きいであろうという推測はおそらく正しいであろう。先に紹介したモザンビークの市民社会組織は、今夏突如として議会を通過した反汚職法案を例にとり、次のように述べている。
「チュニジア、エジプトの政変の後は、サハラ以南アフリカのいずれの政権も民衆の声を無視することはできなくなった。」
実際、形の上での多党制導入の一方で、1987年以来独裁体制を継続させてきたブルキナ・ファソで本年3月から軍事クーデターや暴動が発生している。他方で、ジンバブエのように、「アラブの春」に関する勉強会がムガベ政権によって弾圧される事態も起きている。
「アラブの春」が、サハラ以南アフリカに残るいくつかの独裁体制を打倒するための希望となるのか、あるいはそれを警戒した各国政権がより強権化を進めることになるのかは、「アラブの春」自体の今後とサハラ以南アフリカの民衆の力量にかかってくるであろう。

5.おわりに
以上、「アラブの春」を、北アフリカとサハラ以南アフリカとの対比から検討を加えてきた。両地域の同時代的な相互関係の実証については、より詳細なる検討が不可欠であり、これについては今後の機会に譲りたい。

参考文献
・Hassan Hanafi (1998), The Middle East, in Whose World?, in Bjorn Olav Utvik & Kunt S. Vikor, The Middle East in a Globalized World, C. Hurst & Co. Ltd.
・Roderic H. Davison (1960), Where is the Middle East, Foreign Affairs 38 (4), 665-675.
・酒井啓子(編)(2011)『<アラブ大変動>を読むー民衆革命の行方』東京外国語大学出版会.
・武内進一(2005)「冷戦後アフリカにおける政治変動―政治的自由化と紛争」『国際政治』140号.
・舩田クラーセンさやか(2010)「変貌するアフリカ市民社会と日本の私たち」峯陽一、武内進一、笹岡雄一(編)『アフリカから学ぶ』有斐閣.
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by africa_class | 2011-10-30 09:58 | 【記録】講演・研究会・原稿

本日、品川区市民大学教養講座で講演会

お察しのとおり、体調を崩し、かつ仕事と活動に追われてました。
幸い今日は副調気味です。原稿もあれ以上は戻って来ず、大きな
仕事を一つやっつけ(多分終わったはず)、ちょっと気楽になった
ところですが、そうでした。今日は講演会があるのでした。
そのあと、新潟への移動を開始し、週末は日本平和学会のため
新潟です。
 その際、「福島乳幼児妊産婦支援プロジェクト」の新潟県内での
アクションを話し合い、ついにもっとも多い数の妊産婦・乳幼児が
避難中の新潟県の調査を開始します・・・。

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品川区 区民大学教養講座
アフリカ~決して遠くない世界のお話し~
演題:「アフリカへのまなざし~現地の人々の視点を大切に」
講師:舩田クラーセンさやか
日時:6月3日(金)19時~21時
場所:品川区中小企業センター2回 大講習室
(JR京阪東北線・りんかい大井町駅徒歩8分)
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by africa_class | 2011-06-03 10:45 | 【記録】講演・研究会・原稿

リビアと篠山、グローバル化への呼応?

深大寺に戻ってきた。ふ~。今朝はまだ、里山のてっぺんに登って、改修の進むほれ込んだ茅葺の古民家を眺めていた。便利な世の中に。

帰りの飛行機で新聞を開くと、リビアが内戦状態に。あのリビアが。変化のうねりの大きさを実感。リビアは遠いと思うなかれ。今回の研究会のテーマは、「アフリカの内発的発展を兵庫県篠山から考える」ということ。

ご一緒した内発的発展論を最初に唱えた研究者の一人である西川潤先生(早稲田大学名誉教授)が、今篠山で起きていることは、「グローバリゼーションへのローカルからの応答であって、単に呑み込まれているわけでもアンチではない。グローバルからローカルへの方向だけでなく、ローカルが都市に挑戦している。これを可能としているのもグローバルでもある。そこが、70年代の右肩上がりの成長神話へのアンチテーゼとして出てきた初期段階の内発的発展の議論との違いがある」とおっしゃっていたことと、非常に関係していると思う。

グローバリゼーションは、資本主義・帝国主義と同様、支配・被支配、抑圧・被抑圧の関係を創りだしたり強調するものだと考えられることも多かった。確かに、権力を持っている側のグローバル連携の方が早く、強固なもので、構造の強化に役立ってきた。「強い者が勝つ」言説や経済社会政治が世界化してきて、どこの国も大変な状態になっている。

と同時に、グローバル化を逆手に取った国境を越えた連携も進んできたことは事実。西川先生らの提唱する「連帯経済」の概念もしかり。「もう一つの世界は可能だ」の運動もしかり。

私たちもアフリカの市民社会とインターネット(メール、スカイプ、電話会議)などを駆使して、政策提言を一緒に行ってきた。その経験から、去年のアフリカ学会で、アフリカの民主化の議論があった際、私はあえて手を挙げて質問をした。

「携帯やインターネットが果たし得る役割は検討されていますか?」と。
報告者の方の答えはネガティブだった。

でも、モザンビークの去年の暴動は不特定多数に向けた携帯メール発信が発端であり、拡大要因だった。そして、今回の北アフリカの現象も。

もちろん、携帯もネットもツールにすぎない。動かすのは人間であり、それに呼応するのも人間である。でも、それらが重要な果たしたのは事実であり、これについてはまずは受け止めなければならない。民衆をこれほど動かしたのであれば、悪い目的への煽動にも使われる(使われている)ということでもあるから・・・・。怖い!

やったよね、アフリカ平和紛争論の中で。日中戦争にどうやって一般民衆も動員されていったかについて、それぞれ考えたことを思い出しましょう。レポートでは「今は昔」というニュアンスで書かれていましたが、本当にそうだろうか・・・というところから考えてみましょう。

ということで、爆笑問題とのコミュニケーション力の話を深めるはずが・・またまた今度に。
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by africa_class | 2011-02-22 22:37 | 【記録】講演・研究会・原稿