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カテゴリ:【記録】原稿・論文( 16 )

「超えられない壁」を持つ幸せについて

トランプ当選から大統領就任まで書いていなかったとは。
そして気づいたら2017年になっていた。
もはや新年の挨拶というわけにもいかないので、今年もよろしくお願いいたします。
それだって、あまりに?

年末年始と、例の本の原稿を粗稿から最終稿にするのに、本当に手間取ってしまった。病気になってから、一個ずつしか片付けられない人になってしまって、とにかく全てに時間が厖大にかかる。同時にやろうとすると混乱が襲ってくる。そういうぐちゃぐちゃの糸を、一本ずつ深呼吸しながらほぐしていくのだけれど、それがどうしてもほぐれない時もある。

ということで、140文字なら軽く書けても、ブログ一つを書こうとしても、それなりに気合と勢いが必要なために、「書こうかな」と思っても戸惑いのまま数週間があっという間に経ってしまうということが続いている。

まあ、家族がチョロチョロしていたらブログなんて書く気分じゃないというのもあるが。

本当は、新書の原稿と、翻訳の仕事を片付けないといけないのだけれど、まったく気分が乗らないので、しかも家族がいないこともあり、ブログを開いてみた。なんか書けそう?

<と書いてアップしないうちに、家族が戻ってきてしまった。「しまった」というのはないだろうが、色々事情があり、やはり「しまった」なのである。>

そもそも皆さんに「書けた!」と報告したはずの学術本の原稿…。これを最終稿にするのに、あれから数ヶ月かけてしまったのでした。

どうしてかというと、これを書くのであれば、あれもこれもちゃんと読み返さなければと思っていた本がどうしても気になって、それが講じて、私の思考(という偉そうなものではなく、試行錯誤)は、ついに1899年に遡ってしまったからでした。

この年号をいうと、アレね・・・だと思うのですが、そしておそらくイマどき?・・・となってしまうかもしれませんが、あれらの古典に潜り込んで、ああでもなく、こうでもなく考えに考えたわけです。なのに、結局のところ最後は注に入れただけで終わってしまった、という無惨な結果に。まあ、予想はしていたものの(力不足すぎて)。

もうこの本の完成を3年も待ってくれている恩師が、あれからさらに数ヶ月・・・最終稿を待たせたものだから、呆れ果てたと見えて、まあ締切がある訳でもないから、と。

これはやや信号灯った感のあるお返事で、さらに焦る。

でも、先生にはその時点では1899年問題のことは伝えていなかった。1899年から1920年代までがどうしても、すごく重要なのに、蓄積がなさすぎ、勉強不足すぎて、とにかくのたうちまわった。光が差し込んで朧げながらみ見えたものが、かすんでいく。その繰り返しで、ついに悪夢まで見るようになったので、とりあえず手放した。注にぶち込んで。

脱稿。ついに提出。
が、返事がこない。
やっぱり、あかんかった?
学生の頃からの繰り返しだが、こういう不安を感じられるのも、自分が教師という仕事を一度してしまうと、とても新鮮で有り難いことだと気づかされる。

無謀にも、最終の章では、本全体がターゲットとする19世紀末から70年代までのアフリカ史に、冷戦後を付け加えて今起きていることの現象を歴史的に振り返えってみようとした。しかし、そのためには、19世紀末を真正面から取り組み直さないと出来ない・・・のであった。

なぜ19世紀末?
それは、暮らしと活動経由で行き着いてしまった「食と農の問題」に研究でも関わるようになったことと大いに関係している。

当然、これまでだって戦争と暴力の起源を19世紀末以降の世界史・地域史に求めてきた以上、「食と農の問題」であろうと何であろうと、そこにいつも立ち返るのだけれど、最近は歴史を前提にしないとしても、やはり19世紀末の問いとそれを乗り越えようとして試行錯誤された思想の数々は、もっと参考にした方が良いと思うに至ったりました。

これらの思考の軌跡(今となっては「理論」と呼ばれる)を参照しつつ、また19世紀末から現在までの展開を考えていくとして、その際に私なりの関心事である「国家」「暴力」「民衆/小農」の光を当てていくと、何が起こるか?

それは、もう凄まじく深く広い世界が立ち現れるわけです。探究心がどうもおさえきれないほどわき起こってくるのに、これに挑むだけの能力・気力・時間があるかといわれたら、即座に回答できる。

「ない」。
ここに足を踏み入れたら、出てこれないだろうな。
でも、入ってしまおうか。

と、うろうろしているうちにお正月が過ぎて、断念=>注という情けなさなのでした。

でも、去年の半分は実は、アフリカではなく、日本の19世紀末を眺めていた。ようやく一巡したのだと思っている。

日本から南米に行って、南米からアフリカに行き、ヨーロッパを問い、そして今アジアに向かい、日本を問うという展開に。いつかこの日がくると思っていたのだけれど(それがどうしてかは思い出せない)、学術が私を導いたのではなく、先祖のある物語と、ブラジルの先住民族やアフリカ系の人びとの悲鳴によってであったということは、意外であり、予想もしていなかったことなのですが、とにかくそういうことだった。

二十歳の頃をすごしたブラジルに、日系ブラジル人の調査で一度行って以来、ずっと帰っていなかった。あの寂しさと愛をたっぷり抱えた人びとのところから脱出しないと、「人生は終わってしまう!」と真剣に思ったから。だから二度と戻らない決意だった。でも、人生とは不思議なもので、まったく違う理由でブラジルを再訪し、先住民族の年老いた女性の一言で、我に返ったのでした。

「私はブラジルを知らなかった」と。
今でも十分には知らないのだけれど。
ただ、彼女の一言を聞いた瞬間、世界史の波のようなものに、ざぶんと頭から浸かってしまったような、そんな「気づき」が押し寄せてきたのでした。

そう。それは、「支配」に関することの。
人類が「支配する側・される側」に分かれて、それが「独立」で終わらなかったことの。
そしてこの21世紀初頭の今にこそ、「支配」が強まるという逆説的な現実の。
「支配される側」の声が、吹けば飛ぶ木の葉のようにかきけされていく暴風雨の吹き荒れる空気感の。
「支配する側」の自覚的な、無自覚的な、鉄のような揺るぎのなさの。
あざけりと、救世主のような奢り。
あるいは、世界で犠牲を生み出してなお魅力に満ちた「開発のロマン」に酔いしれて?

「トランプ前後」の世界では、「旧支配者」側のコロニアリズムが急速に進んでいて、だからこそこれをどう捉えて、どう投げ返すのかという点が、ますます重要になってきたと感じている。

それが、沖縄の辺野古の人びと、アフリカの小農、ブラジルの先住民族、アメリカのパイプライン反対の先住民族、いずれの人の闘っている根っこにある問題は、まさにこの「歴史的な支配・被支配」が作り出してきた構造からディスコースのすべてまでを含む。

そんなこんなを考えていたら、先生から「読んだよ」のメール。
しかも、意外なことに、先生もまた、同じ時代に行き着いていたようで、同じ本を手にとって色々と考えていたという。といっても、レベルがまるで違う「色々と考える」な訳ですが。

そして私が日本に置き忘れて引用できなかったある著者の四巻本に取りかかっている、と。私は一巻もののことだったんですが、先生。ああ、恩師がいるというのは、なんと幸せなことなんだろう。決して乗り越えられない高いそびえ立つ壁が前にあるということの幸せを噛み締めた瞬間だった。そして、この幸福感に安住していてはいけないのだろうけれど。

それにしても冬のある季節に暮らすことのメリットを切実に感じた冬だった。去年から畑面積を広げたこともあって、春・夏・秋は本当に忙しかったから、この極寒の冬は有り難かった。依然として池は凍っているけれど、もう木々の莟が膨らんできた。マイナス5度以下が続いても、春が近づけば、木々の莟はちゃんと膨らむという自然の摂理に、ただただ感動する毎日です。

なんか支離滅裂の文章になりましたが、まあご勘弁を。
またーーー次は、意外とすぐ書けるかも?
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by africa_class | 2017-02-03 08:39 | 【記録】原稿・論文

近刊本の草稿を終えて(「アフリカの解放と今」について)

すごくご無沙汰してしまいました・・・。
あれから移動が続き、さらに書けない原稿をいくつも抱えて、長めの文字を気軽に書くことが憚れてしまって、ずーーーと放置してしまいました。

(一点、重要な点を書き忘れていたので加筆します。「アフリカの小農」についてです)

原稿は未だ終わっていません…。
出版社に約束した締切を3度踏み倒していますが(陳謝)、一応草稿は終わったので、後は最終化のみとなりました。なにせ、学術的な執筆は3年ぶりのこととあって、本当にもだえ苦しみました。

しかも、10年前に手放したはずの博士論文のテーマを、「アフリカ」「南部アフリカ」「アフリカの人民/民衆/人びと/小農」そして、当時はまったく持てていなかったいくつかの理論の中に位置づけながら改めて、幅広い層の読者に書き下ろす…というのは、最初想定した以上に難しいことでした。

博論は、モザンビークの歴史(戦争と平和)に関するものでした。
当時は楽観すべき政治経済社会状況でしたが(2006年)、私の中では歴史の流れを見て懸念せざるを得ない点が多々あり、その意味で悲観的予測に基づいて書きました。書いた後、当時の某首相に渡した時に、「もっと未来のことを書いてほしい」と言われました。私もその時そう思う一方で、未来はいつも歴史の延長上にしか立ち現れないとも思っていました。

なので、新しい本は、「アフリカの植民地解放と現在」に関するもので、最後の章は、【独立という名の平和と繁栄はきたのか?】に焦点をあてています。これは、アフリカに限らず、日本のことも念頭において書きました。

2016年11月現在、残念ながら十年前の悲観的予測のほとんどすべてがあたってしまいました。途中、何度もそうならないで済むかもしれない「分岐点」のようなものがありましたが、そのすべてが悪い方に突破されていきました。

この感覚は今の日本についても同様です。
いつか書いたことですが、2008年頃より東京外大での「アフリカ平和・紛争論」の授業で、日中戦争の特に「民衆動員」を取り上げていたのは、まさに同じような「歴史の継続」と「悲観的予測」に基づくものでした。

本全体は、共著者のお力が大きいのですが、冷戦構造、アフリカ、ヨーロッパ、アジア・ラテンアメリカをまたぐ、壮大なるものになっています。私の担当した3つの章については、博論で触れながらも、十分に深めることができなかった点が中心となります。

担当したのは、アフリカ、南部アフリカ、モザンビークです。
いずれも植民地化・脱植民地化プロセス、そして冷戦を論じました。
今回は、かなり国連やOAUも焦点化しました。
そして、独立から40年近くが経った現在の状況を見据え、解放運動の指導者と小農の関係にも重点をおきました。それは、依然として、サハラ以南アフリカ(南アを除く)の多くの国々の圧倒的多数の人びとが、モザンビークと同様に、農村部で「小農」と分類される人びとだからです。

博論の後に取り組みながらも、どこにも発表できなかった史料分析も今回はできました。やりたかったこと全てではないですが、アメリカ、英国、ポルトガルのアーカイブズで得た史料を新たに使うことができました。また、さらに10年が経過してオープンになった史料やそれらに基づく最新の研究も少しは参照することができたと思っています。

そして、一番苦しんだモザンビークの章は…1980年代末に起きた「主権の危機」(IMF/世銀の構造調整計画の前身となるプログラムの受容)とその後に焦点をあてて、論じました。この点については、気になりながらも、今まで発表した本や論文で十分に触れることができなかった点です。現在、モザンビークで起きていることの源流がそこにあると思っています。そして、残念ながら、日本もこれらの「起きていること」と無縁ではない状態にあります。これは、博論執筆時とは大きく異なる点かと思います。

この本を書く約束をしたのは3年前のことだったと思います。
未だ病気が悪化する前で、その時はすぐに書けるような気がしていました。
有り難い話だったのに、そして申し訳ないことに、その「すぐ書ける」故に気持ちの中で新しさがなかったように思います。

病気の間中、書けないことが申し訳ない…と思いながら、10年後の今書くとしたら、「アフリカの人びとの解放と独立」について私はどう書くべきなのだろうか…という問いを悶々と考え続けることができました。そして、3年前より、2年前より、1年前より、今だから、「こう書かかれるべき」という思いが具体化されて、なんとか一つの章にまとまりました。

その意味で、共著者には多大なるご迷惑をおかけし、未だかけている状態ですが、私の中では、過去と現在、未来を繋いでくれる、非常に大切な仕事になったように思えています。すべてを一旦捨てたからこそ、切り拓けた気もしています。ようやく、様々な自分の分散してきた思考やテーマやアプローチや行動が、一つのものになる第一歩とできたように思います。

床に臥せって「浪費」したかに見えた厖大な時間と日々…3年近く…が、いかに豊かな実りのために不可欠なものであったのか、少し分かってきました。色々な機能障害(特に、記憶障害)との闘いが続いていますが、忘却もまた必要だったのだろうと思うようにしています。

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長野で有機農家をされているフォロワーさんに頂いた花豆が花を咲かせました。
おばあさまの代から大切に受け継いできた豆(つまり100年の時を命のバトンのリレーをしてきた…)だそうで、丁度100年の世界を振り返った書き物を一つ終えた(草稿だが)私には、なんとも感慨深いものがありました。

今、息子が新しいブログを作成してくれています。
当面、並行すると思いますが、引き続きよろしくお願いします。

この先、3つの国際学会で発表があり、しかも英語・ポルトガル語・日本語…なのですが、どの論文も終えてないので(涙)、もう破れかぶれになりかけていますが、ほどほどに頑張ります。

3章の理論の部分を明確にするためにも、これらの学会発表が不可欠で、集中砲火を受けること覚悟で、発表してきます・・・。

所謂「紛争後平和構築」の研究から離れたことを心の底から嬉しく思っているのですが、10年ほど、「民主化」なども、それを念頭において研究してきたために、今取り組みたいことの理論的基盤を獲得するには、未だ未だ時間がかかり、かつとっても難しい…です。
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by africa_class | 2016-11-07 01:12 | 【記録】原稿・論文

拙稿「ネルソン・マンデラの時代」(『現代思想』2月13日発売)で書いたこと

しばらくぶりです。ドクターストップがかかり、カメのようにノロい状態です。なんとか1年生から5年生までの卒業や進級に絡むことも目前、ゼミ合宿も終え、今季を無事に乗り切る(というのか?!)一歩手前まできたら、さすがに糸が切れたようで。

来週発売の『現代思想ーネルソン・マンデラ特集』(2月13日発売)2014年3月号の紹介をしておきます。(各種ネット書店では予約販売中のようです)

沢山の南アフリカ研究者や関係者が書く中、私なんぞが出る幕ではないのと、あまりにもの体調と忙しさだったのでお断りしようと思っていたのですが、依頼してくれたのが授業を熱心に取ってくれていた卒業生というこもあって、思い切って頑張りました。

時まさしく都知事選の真っただ中。この間の市民社会やメディアの在り方、権力の側の動きをみるにつけ、アフリカの解放闘争と戦争の研究を通じて学んできたことの一端を紹介したいと切に思うようになりました。詳しいことは勿論、来週発売の『現代思想』をお買いもとめいただく一方、少しだけ書いたことを紹介しておきます。(なお校閲前の原稿なので日本語がおかしいです・・・)

また右側バナーでも紹介している『ネルソン・マンデラー私自身との対話』を是非あわせてご一読ください。私の本の英訳をしてくれた長田雅子さんの日本語訳です。分厚いですがすらすら読めるマジックだ~。

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『現代思想ーネルソン・マンデラ特集』(2014年3月号)
「ネルソン・マンデラの時代とモザンビークと南アフリカの解放闘争」
舩田クラーセンさやか
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ネルソン・「マディバ」・マンデラ元大統領は、モザンビーク人にとって、隣の国の元大統領を超えた意味を持っていた。そのため、マンデラの訃報は、モザンビーク社会にも深い悲しみをもって迎えられた。新聞各紙は一面でこのニュースを取り上げ、葬儀の模様も各紙のソーシャル・ネットワーク(SNS)ツール上で、リアルタイムで取り上げられるなど、関心の高さを窺わせた。しかし、モザンビークの人びとが、彼をここまで尊敬する背景には、南アフリカとモザンビークの同時代的な歴史が関わっていた。

本稿では、ネルソン・マンデラの自伝『ネルソン・マンデラ――私自身との対話』(2012年、原著は2010年)、そして拙書『モザンビーク解放闘争』(2007年)などに基づきながら、彼が活躍した第二次世界大戦後から現在までの、同時代の南アフリカとモザンビークの関係性をふり返る。そのことによって、彼が生きた時代、彼の役割を全アフリカ、あるいは全世界的な意義の中に浮かび上がらせることができればと考える。

本稿では、まず同時代を生きモザンビークと南アフリカの解放運動指導者であり初代大統領と結婚したグラッサ・マシェル(Graça Machel)の紹介を行い導入とする。次に、南アフリカの反アパルトヘイト運動のモザンビーク解放闘争への影響を示す。そして、二つの闘争が運命共同体となって展開していく様子を明らかにする。その結果、アパルトヘイト政権の軍事介入を含む攻撃を受け、他大な犠牲を出すことになった独立前後のモンビークの状況を示す。その上で、アパルヘイト体制や冷戦構造の崩壊から、1994年に両国の人びとが共に新しい時代を歩み始めたことを紹介する。これを受けて、このような歴史的展開において、重要な役割を果たした南アフリカの指導者マンデラとモザンビークの指導者マシェルーーつまりグラサの夫たちーーの共通点と相違点を検討することで、同時代の二国間の闘争の実態を浮き彫りにする。最後に、西側諸国の一員として冷戦期を過ごした日本の関与について批判的に検討を加えるとともに、マンデラの訃報を受けて、一人の人間としての生き方について考えることを共有する。

はじめに
1. モザンビークと南アの二人の大統領と結婚したグラッサ
2. 南アフリカの反アパルトヘイト運動のモザンビーク解放闘争への影響
3. 運命共同体となったモザンビークの解放闘争と南アの反アパルトヘイト運動
4. アパルトヘイトの犠牲になるモザンビーク
5.1994年:南アフリカでの初の黒人政権樹立とモザンビークの初の複数政党制選挙
6. マンデラ元大統領とマシェル元大統領の相違点と共通点
おわりに

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6. マンデラ元大統領とマシェル元大統領の相違点と共通点(抜粋)
グラサにとって、マンデラと再婚した理由はパーソナルなものだろう。しかし、両国の歴史をふり返った時に、見出されるマンデラとマシェルの共通点と相違点は、両国の闘争の共通点と相違点を浮き彫りにする。
(・・・)
1968年に暗殺された初代書記長エドゥアルド・モンドラーネ(Eduardo Mondlane)亡き後のFRELIMOを束ね、闘争を勝利に導いたマシェルは共産主義者であった。一方のマンデラは共産主義者ではないと否定してきたが、その思想的共通性と違いはどのように理解されるべきであろうか。

両者共に、高い理想を持った自分に厳しく稀有なリーダーシップの持ち主だった。アフリカの伝統、抵抗のヒーローらを賞賛しながら現代の闘いを進める手法も類似していた。また、闘争の手段としての暴力を許容する戦術家であった。自己犠牲を厭わず、利権を嫌い、率先して自らの模範を示した。

他方、大きな違いといえば、キリスト教徒(カソリック)であったものの、後に弾圧するところまで至るマシェルとキリスト教を手放さずその中に解放の論理と為政者への攻撃の論理を見出していくマンデラの違いは大きかった。闘争への理解のない者を容赦なく再教育キャンプ送りにしたマシェルの革命は路線と、「元の敵」を受けいれる寛容を説いたマンデラの姿勢は、とりわけ大きな違いだったといえる。

しかし、ここで思い出したいのは、マシェルとマンデラが直面した闘い、あるいはANCとFRELIMOの闘いは、その暴力の密度において大きく異なっていたことである。もちろん、どちらの闘争が苦しいものであったのかをここで論じるものではない。しかし、1964年から10年間に及ぶ国土の半分近くを巻き込んだ植民地解放戦争、16年間に及ぶ全土に拡大し国民の3分の1が故郷を追われ100万人を失った独立後の紛争において、その指導者であり軍事司令官としてマシェルが直面した課題は、抜き差しならぬものであった。1962年から90年までの27年間を牢獄での暮らしを余儀なくされたマンデラであったが、日々生きるか死ぬかの只中の国民と共に何をどう判断するのかについて、マシェルが抱えた困難を、今なら彼がどうふり返るのかを知ることはできない。マシェルにとって、「誰が敵なのか」を見破ることの意味は、個人的なものを超えていた。軍事部門を立ち上げ、初代司令官となったマンデラではあったが、すぐに監獄に収監されたことが彼の認識にどのように影響を及ぼしたのか、及ぼさなかったのかもまた、知ることはでいない。

それでも、日本ではあまり知られていないことであるが、マンデラが最後まで武闘闘争を放棄しなかったことは、その寛容さ故に付きまとう「非暴力主義者」とのレッテル貼りからも、十分認識しなければならない。「暴力が手段として使われるか否かは、支配者が暴力を放棄するかどうかによる」との前提は、ANC内でマンデラが、FRELIMO内でマシェルやモンドラーネが主張したことであった(マンデラ, 2013; 舩田クラーセン, 2007)。他方、マシェルが、「真の敵」であるアパルトヘイト政権と妥協して不可侵条約を結び、非公式ではあったものの「真の巨大な敵」である米国に自ら出向いたことに示される、その柔軟性を記憶に留める必要もある。つまり、両者は、「人びとの解放」というより高い目標のためなら、自らの主義主張やメンツを捨て、最適な手法を選ぶだけのプラグマティズムと柔軟性を持った戦術家であったという点である。

また、「人びとの解放」に込めた想いが、単に「アフリカ人/黒人が指導者になればいい」という考えに基づかないものであった点も重要な共通点であろう。これは、ANCとFRELIMOの共通点でもあるが、「人種主義の打倒」は植民地支配やアパルトヘイト体制が崩壊すれば終わるのではなく、マシェルにとっては「人による人の搾取とその構造の一掃(舩田, 1997)」、マンデラにとって「人種や信条に関係なく、すべての南アフリカ人が平等、平和、調和のうちに暮らす民主的な南アフリカ(マンデラ, 2012)」といった社会変革を伴わなければ意味がなかった。

そのためには、両者は、国民の意識の向上や覚醒がなければ、本当の意味での社会変革は不可能であることを熟知し、闘争の長期化に覚悟があった。これは、両者が共に中国共産党あるいは毛沢東の「耐久戦」の概念や、アルジェリア戦争における政治教育の重要性に感銘を受けていることにも示されている(舩田クラーセン, 2007; マンデラ, 2012)。

アフリカの多くの独立の父が利権と腐敗に手を染めていく中、これらの二人が死を含めた自己犠牲を厭わず、人びとの中に入り、人びとに奉仕する稀有なリーダーであろうとしたことは、その結果発生した多くの過ちの一方で記録に残されるべき点である。興味深いことに、グラッサに限らず、両者が愛した女性らは自律した同志ともいる女性たちだった。(・・・)マンデラもマシェルも、「女性の解放」をスローガンとして闘争の中心に置いただけでなく、私生活でもそれを実践していた点に、「アフリカの解放」の理解の深さと覚悟が見て取れる。(・・・)

おわりに
このように相違点もあるが共通点も多い2つの国の元指導者と、彼らが生きた時代をふり返ることで、日本でほとんど知られることのない南部アフリカの現代史を示そうとした。日本は西側諸国の一員として、解放を求める南アフリカやモザンビークの人びとの側ではなく、それを抑圧する南アフリカのアパルトヘイト政権やNATO加盟国のポルトガル政府を支え続けたことを忘れてはならない。特に、南アフリカとの関係においては、国連決議で経済制裁が合意されている最中の1987年から、日本の同国との貿易総額は世界一となった。そのことは、モザンビークの紛争を長引かせることにもつながった。ANCは1960年に非合法化されており、日本ではテロ組織として認識すらされていたのである。

去年末、マンデラ元大統領の訃報に触れて功績を讃え、豊富な天然資源目当てにモザンビークを訪問するという日本の為政者や企業関係者、そして日本市民は、このような歴史的背景を忘れてはならない。 

最後に、筆者が忘れられない光景を紹介する。モザンビークのマプート空港でのこと。マンデラが滑走路に降り立つのに気付いた。空港ビルまでたった30メートルの距離なのに、一歩一歩がとても重く、歩き通すのに10分もかかった。しかし、彼は送迎車や車いすに乗ろうとせず、むしろ出迎えたグラサを支えるかのように腕を組んで背筋をしっかりと歩いていた。当時園児だった息子は、マンデラが誰かも知らないままに、その姿に魅せられ、「あの人はすごい人でしょ?」を連発し、彼のことを簡単に説明すると感激のあまり大きく手を振った。それに対して、マンデラは立ち止まり、息子に向かってあの闘争の握りこぶしを突き上げてくれたのである。横ではグラッサが優しく微笑み、息子に手を振ってくれた。

たとえそれが幼児でも、人を一人の人格として敬うあの姿勢に、自分の胸に手を当て、自分はそうしてきただろうかと問うた日を昨日のように思い浮かべる。年配者としての優しさを分け与えるのは容易である。しかし、彼は幼児ですら自らと同等のものとして受け止め、その魂に語りかけるという人であった。そして、何歳になろうとも傲慢さを捨て、自分を鍛えるということにおいて、休むことを知らない人であった。

モザンビーク人のSNSの多くが「安らかに休んで下さい」と括られていた。マディバに休んでもらうには、私達自身が彼の教えてくれた多くのことを学び続け、伝えていくしかないだろう。

(詳細は『現代思想』を)

*ちなみに、私は武装闘争の支持者ではありません。ここで一番重要なポイントは「暴力的な構造」があるという現実の直視であり、その「暴力的な構造」を支える民衆である私たちがいるということです。それを変革するには、「暴力的な構造を支える私たち」がまずはその構造を自覚し、意識的に変える覚悟を持ち、実際に行動によって変えていく必要こそがあったというのが個人としては一番言いたい事です。

*他方、あの時代のモザンビークや南アフリカにおいて、彼らがとった手法や手段を、私は「いい悪い」という立場にないとも思っています。その構造を押し付けてきたのは我々自身であるから。なので、私の研究もこのような原稿も、まずは構造がどうであり、運動や指導者はどう変遷していったのかを掴み、それを皆さんに提示し、共に考えることだと思っています。
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by africa_class | 2014-02-07 13:16 | 【記録】原稿・論文

日本人がアフリカ研究することの意味。空気読めるけど読まず、自由に書き続ける今日的意義

とにもかくにも、この3週間は卒論と採点、学年度末の授業のことと、メディアに追いかけまくられる日々と、報告書や論文の完成で、体調が悪いことを差し引いても、ちょっと「ない」状態が続きました。多分一息つけるまで後数歩・・・となりましたが、締切を伸ばしただけの原稿が後4本・・・。むりだ・・・が、もう延期無理ですよね?!出版目前のマンデラ元大統領追悼本のみ先にやります。やっぱり教え子がいつの間にか編集者になって連絡くれると、断れないもんで。
 子どもの頃、「売れっ子作家になって締切に追われる姿」を夢想しましたが、「なんかちゃう」上に、カネにまったくならん。投入する努力に対して、割の合わない言論生活。これで食べていくことは無理ですね~。

でも、そんなもんなのでしょう。
むしろ、「書きたい事を書ける喜び」
そして、「それを読んでくれる人がどこかにいてくれる喜び」
に感謝しています。

そういうことはカネにならない。
だから自由なんだ、と今更ながらしみじみ有難く感じています。

この間ありとあらゆる圧力や嫌がらせもありましたが、カネや名声、業界のために生きてきたわけでなく、生きていくわけでもない以上、結局のところ気にせず書き続けることができました。

学生にいつもいっていますが、「空気は読めた方がいいけれど、あえて読まないことも重要」なのです。私は、前からそれを実践してきましたが、ますますそう思います。若者にはやや高度なので、日本の大人の皆さん、ぜひ積極的に「空気をよめるが、よまん」を実践してください。そうすれば、社会や組織が風通しがよくなり、続く若者が深呼吸できるスペースが広がります。自分のために「よまん」のではないのです。

私、どうしても誤解されがちな損な性格なんでしょうが、「自分のためにやっていること」ほとんどありません。勿論、「他人の為にやってやってる」という傲慢さは問題です。まわりまわって「自分のため」になるもんですが。だから犠牲とも思っていませんが。「自分のために生きる」んであれば、もっとのんびり楽しく生きてるし、そもそも権力や権力構造と闘ったりしませんし。専門家然、先生然として生きた方が、金銭的にも名声とか肩書きとか、得るものが多いわけです。

好き好んでではないですが、他に立ち上がる人がいなければ、やはり不正義を前に知らぬふりをして生きることは、一度きりの人生において、私がしたい生き方ではありません。「器用に世渡り上手」に生きれないわけではないですが、そうやって現状や現在の構造を支え続けて人生を終わるのは、私のしたい生き方ではないのです。他人から「バカやなあーーアイツ」でいいんです。なので、葬式では、アメリカ南部の黒人霊歌を楽しく歌ってて送ってください。そして、皆の生き方や社会の在り方の問題、夢やビジョンを語り合って、見知らぬ人や旧知の人と出会い、連帯を紡ぎ出す場にしてくれればいいのです。

と、何故かゼミ生の結婚式続きだったので、そんなことを卒業生に伝えました。会の仕切はユーリちゃん、会計はトモミちゃん、ロジがエミちゃんと決まっています。まあ、長生きするんで皆も元気で長生きね。

結局、一番息苦しい人達のために、率先して上の人が頑張らないと、権力:パワーというものはいつも虎視眈々と自由を狭め、仕舞に奪おうと狙っているものです。それが、国家であれ、社会であれ、組織であれ、大学であれ。うるさい奴は抹消・・・の方が楽なんです。だったら、皆でうるさくなろう!?

「独立して或る」ということが、いかにも難しい昨今の日本や世界で、言論の自由を守るために、それが出来るはずの大学にいる皆さんは、もっとそのことに自覚的であってほしいと思います。社会は、ただ大学で授業したり入試するために皆さんを支えているのではなく、学会という狭いサークルで発表したりその組織運営に専念することだけでもなく、皆さんの暮らすもっと広い社会への不断で普段の不動の寄与にこそ期待をしているのだ、と。

でも、日本の大学も、合議制や教授会権限をはく奪する動きが加速化しており、また全体として「空気読む」場となってしまい、もはや言論の自由の砦ではなくなりつつあるのは事実だと思います。でも、いえだからこそ、頑張りどころなんだと思います。

そもそも、アフリカの大学も研究所も、すごい圧力の中言論の自由を守ろうと命がけの先生たちがいる。モザンビークもそう。私達、そのことを忘れているかもしれない。

その意味で、インターネットの時代は本当に有難い。
こうやって、書いた瞬間にネットに掲載され、見ず知らずの人達に読んでもらえる。急ぎ書いている駄文なので、いつもしかし・・・ごめんなさいーーー状態なのですが。そこはご愛嬌。

プロサバンナの報告書に感激してくれたマスコミの方や同業者から、出版を強く勧めていただいたのですが、私のモットーは「情報と知識と分析は社会に属する」ですので、日本の出版物がネット上になかなか掲載されない現実に歯がゆさを感じており、やはり誰でも自由にアクセスできて、自由にいつでもダウンロードして読めることに重点を置きたいと思うのです。

●だから私の博論の英語版はケーブタウンの出版社が22ドルでソフトカバーに、そしてただでダウンロード可能にしてくれました!でも、これも日本の出版社の協力あってこそ。
http://www.africanminds.co.za/?dd-product=the-origins-of-war-in-mozambique-a-history-of-unity-and-division

●そして、今回のProSAVAN市民社会報告
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立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点に掲載中
2014/01/15 
「ProSAVANA市民社会報告2013ー現地調査に基づく提言【暫定版】」
http://www.arsvi.com/i/ProSAVANA_findings_cso_tentative.pdf
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他方、紙の本や冊子になっている意味はすごくあると思うし、紙の新聞大好きです。なので、基礎のテキストや資料はネットからダウンロードでき、教科書的なものや手元においておきたいもの、あるいはプレミアムをつけたものを紙で提供できればと思っています。

今本の構想いろいろあるのですが、4年前から着手している『モザンビークを知る●章』すら終わらせていないので、順番に・・・・。体調が万全であればなんとかなった多くのことを、諦めるか、延期するしかなく、忸怩たる思いです。その最中に、色々入ってくるので、リスケに次ぐリスケ。編集者さん、、、、執筆者の皆さん。。。。すみません。

さて、日本人の私が何故日本にいてアフリカ研究や教育や調査や発表を行うのか・・・私は丁度20年前にモザンビークでの国連活動から帰国して考えたのはそういう問いでした。今でもこれに疑問がないわけではありません。特に、アフリカ人の若者の教育を10年携わって来て思うのは、「日本の者としての私のポジションの自覚をどこに持ち・置くのか」なしに、あまりに甘い・・・と。

これを学会や同僚や色々な人に投げかけてきたんですが、皆どこか「他人事」でした。無理もありません。日本とアフリカの関係があまりに希薄で、アフリカ社会への影響が目に見えない以上、「何をそんなに気負って」という理解が当たり前だったんです。が、その時もそれからも、本当は日本の影響は決して小さくありませんでした。2000年にモザンビークの援助で許与して大量在庫になった農薬の問題に関わってから、それを如実に感じてきました。

そして、今、安倍首相の訪問で、いよいよ、日本のアフリカ研究者や関係者は、自らの立ち位置を問い直す機会が訪れていると思います。

私は、自分の研究者としての技能を、それが未だ未熟なものであるという自覚のうえで、しかし、モザンビークの農民と民衆の現在と未来のために役立てる覚悟で日々を送るようになりました。博士論文を書いていたとき、それを日本語や英語の本にしているときも同様でしたが、途中、日本社会にアフリカを広める活動、あるいは業界に頼まれた論文をコナスことに必死になってしまい、初心を少しばかり忘れていたように思います。

私は、これらの仕事を、日本の非モザンビーク・アフリカ人として、やろうと奮闘しています。その点において、私の中で、不十分ではあるものの心に残った仕事は、原発事故と水俣のことを踏まえて、ブラジルのセラード開発とモザンビークのプロサバンナについて書いた以下のものとなりました。

モザンビークの研究所から原稿依頼を受けた時、私は初めて、自分が何故研究者となろうとしたのか・・・の意義を理解しました。実務の世界に飛び込んでいた私が、世界構造や国家と現場の人びとの声や暮らしの相克を他者が分かるように示すことこそが使命と思って学術世界にきたものの、それが出来ている実感がなかっただけに、20年を経て、ようやく「その時」が来たのだな、と思ったわけです。

それは私の議論が正しいということではなく、モザンビークや世界、日本について自らが調べ、書いてきたことを、モザンビーク社会で参照し、議論してもらうこと・・・(それが正しくても間違っていても)に貢献できるところまで来たことについてです。それは、しんどいことでもあります。自分の一言一句が、当事者にどう受け止められているのか・・・研究者同士以上に厳しく問われるからです。でも、そのようなクリティカル・レヴューに基づくクリティカル・ディスカッションこそが、互いの思考を鍛えますし、オープンに物事を徹底的に議論してよくするきっかけを作りますし、何より、それこそが「学問の意義」なのです。

当たり障りのない二番煎じのことを言ったり、書いたりすることが学問なら、それは不要です。火中の栗を拾わないのであれば、社会に研究者が貢献できる幅は狭いです。勿論、リアクティブになれということではなく。わたしも20年深い谷底に潜って、それから今言論をやっているわけで、あと少ししたらまた潜ることになると思います。自己検証が必要ですし。

そして、私に論文を書くように勧めてくれ、掲載してくれた研究所の所長は、今、独裁化一歩手前のモザンビークの国家権力との闘いを繰り広げています。脅迫も日々続いています。そして、もう一つの研究所の方では、論文を掲載するかどうかに当たって、止めるように政府から強い圧力があったと聞いています。

それでも、これらの研究所も研究員たちも、そしてその周囲の市民らも、身体をはって私の論文を訳し、校正し、記載してくれました。「学問とは、ポレミカルイシューに材料を提供するものだ」と。同時代にこの「生きづらい時代」を生きる、しかし前よりも今よりも少しでもよい社会を・・・との想いで頑張るモザンビークの、世界の、日本の研究者、市民社会、農民の皆に、日々学ぶばかりです。

この間、かつでは農薬問題、それからTICADパス問題、そして今回のプロサバンナ事業・・・へのアドボカシー活動で、失うものも多かったのでしょうが、ただ研究者然として遠巻きに見ていたとしたら得られない数々の仲間、そして深い批判的な理解を、自問自答の毎日を得ることができたことに、心より感謝しています。

何よりも、私は「愛」と「信頼」の社会的意味を、再び学んだのだと思います。いつの間にか、独りよがりで生きていたかもしれない・・・・勝ち馬に乗って・・・・自分に急ブレーキをかけ、社会や国家や強い者に虐げられる側に徹底して寄り添う苦悩と喜びに、ヒトが「人=つまり支えあって生きる」意味、ウブンドゥの精神を、ただの軽いノリのタスケアイではなく、もっと深く、辛く、広がりのある連帯を、知るようになりました。

これが愛であり、哀しみであり、希望であり、絶望であるのだと、生物と人類の長い歴史とこれからの、根っこの部分なのだと、そう思うようになりました。

これからもよろしく。

●古いものは英国のOpen Univ.のサイトにまとめてくれています。
http://www.open.ac.uk/technology/mozambique/
1番目の論文"Analysis of the Discurse and the Background of ProSAVANA"
http://www.open.ac.uk/technology/mozambique/sites/www.open.ac.uk.technology.mozambique/files/files/ProSavana%20Analysis%20based%20on%20Japanese%20source%20%28FUNADA2013%29.pdf
2番目の論文”Fukushima, ProSAVNA, Ruth First"
http://farmlandgrab.org/uploads/attachment/Fukushima%20ProSAVANA%20Ruth%20First%20%28IR%20Final22July2013%29.pdf
これは、モザンビークのIESE研究所の依頼で書いた論文の英語版で、ポルトガル語は以下のサイトに3本に分けて掲載中。
http://www.iese.ac.mz/?__target__=publications_ideias

●最新のものはモザンビークの研究所(Observatorio de Meio Rural)に英語とポルトガル語で掲載中。
http://omrmz.org/
"Post-Fukushima Anatomy of Studies on ProSAVANA"
mrmz.org/index.php/95-publicacoes/observador-rural/168-observador-rural-nr-12-post-fukushima-anatomy-of-studies-on-prosavana-focusing-on-natalia-fingermann-s-myths-behind-prosavana

あとは、プロサバンナに関するポータルはこちらに一括あります。
http://farmlandgrab.org/cat/show/827

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以下が、モザンビークの研究所のエディターが書いたこの論文の紹介です。
これまた長い論文ですが、渾身の力作です。
(が、途中古いファイルと入れ替わっていて今調整中ですが)
ぜひ、ご一読下さい。

東電福島第一原発事故と水俣病の話をどのように参考にしたのか・・・2000年の農薬問題と、自分が留学していたブラジル・セラード地域のこと、そして20年間通い続けたモザンビーク北部でのプロサバンナや土地収奪をどう見ているのか・・・色々思考してみました。

"Post-Fukushima Anatomy of Studies on ProSAVANA"
By Sayaka Funada-Classen

Documento de Trabalho
Observador Rural
Numero 12 Dezembro 2013

Women rice farmers association, Mozambique. (Photo courtesy of IFDC)
This text is part of a debate about ProSAVANA and deals mainly with the article “The myths behind the ProSavana” (“Os mitos por trás do ProSavana”) written by Natalia Fingermann, published by the Instituto de Estudos Sociais e Económicos (IESE), series IDeIAS, Nº 49, on 29 May 2013. The reader can access this article from IESE's webpage.

The text we now publish in the Observador Nº 12 do OMR is more than just a debate between the two authors. Based on a detailed analysis of the ProSavana documents and on field research, Sayaka Funada-Classen deals with several areas, such as:

The evolution of the philosophy and speeches about the ProSavana.
The positions of the three involved parties (the governments of Mozambique, Brazil and Japan).
The possible incoherence and incompatibilities for implementing fundamental aspects of underlying the ProSavana.
The aspects to take care and alerts for precaution that should be considered when implementing the project.


Sayaka Funada-Classen also analyses the possible relations of the ProSavana and other mega-projects being implemented in the area of the Nacala corridor.
Due to the importance of the theme, the OMR publishes this text as a contribution to the important debate about the ProSavana. Although the project is at the final stages of preparation, the author calls for the principle of "precaution approach" that enables to foresee future damages, considering also similar case-studies (comparative method).

Click here to download - Post-Fukushima Anatomy of Studies on ProSAVANA: Focusing on Natalia Fingermann’s "Myths behind ProSAVANA" (PDF)

(Em portugues)

Dr. Sayaka Funada-Classen is currently an Associate Professor at Tokyo University of Foreign Studies (TUFS) and has been working and doing research in Northern Mozambique since 1994. She has been chairperson of Needs Response Project for Fukushima’s Pregnant Women and Infant Children (FnnnP), since April 2011.

Her previous works on ProSAVANA: “Analysis of the discourse and background of the ProSAVANA programme in Mozambique – focusing on Japan’s role – and “Análise do Discurso e dos Antecedentes do Programa ProSAVANA em Moçambique – enfoque no papel do Japão – are available at http://farmlandgrab.org/post/view/21574 in English, and http://farmlandgrab.org/post/view/21802 in Portuguese. - See more at: http://farmlandgrab.org/post/view/23049-post-fukushima-anatomy-of-studies-on-prosavana-focusing-on-natalia-fingermanns-myths-behind-prosavana#sthash.WwkixBXh.dpuf
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by africa_class | 2014-01-24 15:15 | 【記録】原稿・論文

安倍総理が訪問する「アフリカの光と影ーモザンビークを中心に」

今日から安倍晋三総理が中東アフリカ諸国を訪問。
アフリカはモザンビーク、エチオピア、コートジボワール。
資源、中国けん制、国連安保理の理事国入りのための票目当てと・・・。

安倍首相、中東アフリカ歴訪へ 資源確保狙う
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140109/plc14010907520003-n1.htm?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

安倍首相がアフリカへ 国連安保理入りへ票固め
http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/08/shinzo-abe-non-permanent-security-council-japan_n_4563105.html?ncid=edlinkusaolp00000003

いずれにせよ、「何かと引き換え」であることは間違いない。
故に、「手土産」を持参される。

人材育成施設:エチオピアに1号…首相歴訪合意へ
http://mainichi.jp/select/news/20140109k0000m010087000c.html
次は、モザンビーク向けの何かが発表されるだろう。
現地新聞の報道では、「インフラ、農業、教育」の分野の協力の文書締結といわれている。

しかし、かつて『外交』に書いたけど、日本の「見返り外交」がアフリカにおいて成功したことはなかった。その理由は単純明快。アフリカ諸国にとって、「日本とだけ仲良くする」理由は何もないから。

「『ODA見返り論』からの脱却を」『外交』「国際援助の新戦略:アフリカ」2012年3月12号
http://afriqclass.exblog.jp/14976062/

あるアフリカ大使がそっと囁いた。
「どうして日本の政府関係者って、『中国か日本かみたいな選択がそもそもあると思いこんでるんだろうね』」と。
その心は、「両方と付き合うにきまってるじゃないか」。
そして、「中国と日本が競争しあってくれるのは大いに結構。選択肢が増えるし、条件もよくなる。でもだからといって、我々の外交や政策において『どちらか一方のみを選択』なんてことは、そもそもあり得ない」、と。

かなりの本音。
でも、これでもまだ建前。
本当のところ、アフリカにおいて、日本が中国と同じレベルで競争することがいかに不可能か、両国の現状、世界情勢を勘案し、アフリカと長年付き合って来れば容易に分かること。(だから中国がいいといっているわけではない)。が、これはこれで一大テーマなのでこの点についてはまた今度。

今アフリカで起きていること、モザンビークで起きていることは、世界と連動している。この日本社会の変化とも。そのことに思いを巡らせて書いたのが、先月(2013年12月)に出たばかりの「神奈川大学評論」最新号の原稿。一部だけ紹介しておくので、是非最新号の「アフリカ特集」を手に取っていただきたい。豪華執筆者らによる沢山の面白い原稿が集まっています。

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『神奈川大学評論』第76号「特集 アフリカの光と影」
2013年12月発行
http://www.kanagawa-u.ac.jp/publication/criticalessay/
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「アフリカの開発と経済~モザンビークから」
アフリカの今と日本の私たち:天然資源と食、そして援助


舩田クラーセンさやか
(東京外国語大学大学院 准教授)

1. はじめに

「光が強いほど影が濃くなる」
自然の当然の摂理であるものの、「言い得て妙」と最近感じることが多い。

今、世界で最も脚光を浴びる地域である一方、依然多くの問題を抱えるアフリカ。なかでも、モザンビークは空前の投資ブームを迎え、来年1月には安倍晋三首相が日本の総理大臣として初めてモザンビークを訪問する。

今、アフリカで何が起きているのだろうか。本稿では、「アフリカの今」を、「光と影」の両方を踏まえ、日本との関係を軸に検討する。事例として取り上げるのは、今日本で最も注目を集めるアフリカの国・モザンビークである。

2.「成長しないアフリカ」から「世界の成長株のアフリカ」へ
(1)急速に経済成長するアフリカ

アフリカ(本稿ではサハラ以南アフリカ)が「成長しない大陸」と呼ばれて久しい。実際、統計(一人当たりGDP)をみてみると、アフリカ経済が成長しない間に、他の「途上国」地域(ラテンアメリカ、中東北アフリカ、東南アジア)が「追い抜」いて行く様子が顕著である。現在でも、講演会で聴衆に聞くと「アフリカ=貧しい」以外のイメージが出てこないことも多い。

しかし、2002年来、アフリカの実質GDP成長率は、世界水準を超え続けている(IMF, 2009)。この傾向は、2008年9月のリーマンショック以降も続いており、毎年10%近くのGDPを記録し続ける国も多い。GDPがマイナス基調か1%以下が続く「成長しなくなった日本」からは、驚くべきことであろう。アフリカといっても、サハラ以南だけでも49か国ありこれらを一括りで論じるべきではないが、傾向としていえることは、高い成長率を示す国の多くが天然資源の豊っかな国である。

(略)

(2)アフリカを必要とする日本

このように急激に重要度を増すアフリカを狙い、日本企業は「多様で豊富な資源の輸入元としてのアフリカ」と並び「最後の巨大市場としてのアフリカ」にも目を向け始めている。しかし、統計をみて明らかなように、輸出入のいずれにおいても「日本の出遅れ感」は否めない。JETROの各種の統計が示すように、2003年以降に急増するアフリカの輸入の多くがEU諸国からのものとなっており、伸びが顕著な取引は中国やアフリカ諸国同士のものとなっている(JETRO, 2010)。

特に、中国の対アフリカ輸入総額の伸びは留まるところを知らず、この傾向は外交・経済において中国をライバル視する日本の官民にとって「脅威」と捉えられている。

実際、2013年6月に横浜で開催されたTICAD V(第5回アフリカ開発会議)の表のキャッチフレーズは「躍動のアフリカと手を携えて」であったが、真の狙いとして「中国に対抗したアフリカ首脳の取り込み」があったことが報道等でも確認することができる。なかでも最も注目されたのが、モザンビークであった。

(略)

3.日本の官民の脚光を集めるモザンビーク~エネルギー・食料危機
(1)資源開発と二国間投資協定

 これを象徴する出来事がTICAD V初日の6月1日、日本・モザンビークとの間で提携された二国間投資協定(「投資の相互の自由化,促進及び保護に関する日本国政府とモザンビーク共和国政府との間の協定」」であった。

外務省がその意義を強調するように、これは「(サハラ以南アフリカ諸国)との間で初めて署名された投資協定」であり、モザンビークで「世界最大規模の天然ガス田が発見されるとともにアフリカ最大といわれる石炭資源が存在」し、同国が「我が国民間企業による開発が進んでいる資源国」だから締結したという(外務省サイト)。

実際、新日鉄住金は、ブラジル企業のヴァレ(Vale)社や多国籍企業リオ・ティント(Rio Tinto)社が操業する同国中北部テテ州で石炭の採掘権を獲得している。一方、三井物産は米国アナダルコ(Anadarko)社と組み、同国北端インド洋沖に発見された世界最大級の天然ガス田の権益を獲得している(日経新聞2012年5月16日)。

(略)

日本が、モザンビークの天然ガスに大きく注目する理由は、東日本大震災の影響も大きい。元々、日本の海外へのエネルギー源依存度は、96%(原発を除くと84%)であった。2011年の原発事故の発生は、日本にエネルギー源の多角化を求めさせ、アフリカへの関心を高めさせることとなった。

(2)日本向け農作物の生産地としての注目

 日本の官民にとってのモザンビークの魅力は「天然資源」に留まらない。石油や資源価格の高騰だけでなく、2008年に穀物価格が急上昇したことは、食料自給率(カロリーベース)が4割にすぎない日本にとって深刻な危機をもたらした。特に、100%近い量を輸入に頼るトウモロコシと大豆、そして8割を超える小麦の安定的供給は、「国民生活の安定に不可欠」として、外務省や自民党内に「対策室(本部)」が立ち上げられるほどであった(NHK, 2010)。この危機の中で、政府関係者が注目したのがブラジル、そしてモザンビークであった。

(略)

食料価格の高騰を受け、世界的にアフリカへの農業投資が注目される2009年9月、日本・ブラジル・モザンビークの三か国は、「世界の食料安定供給のため使われていない広大な未耕地を有効活用するため」、プロサバンナ事業を行うことを合意する(調印文書)。

これをJICA World(2010年)は、「ブラジルと協力してモザンビークで大豆生産を援助」と発表し、事業の主眼が大豆などの輸出作物にあることが強調されていた。紙幅の関係で詳細を紹介できないが、本事業の形成過程を検討した結果、同事業の狙いが、①国際的プレゼンス向上、②日本への大豆、③モザンビークやブラジルとの連携の強化が目的だったことを明らかにしている(舩田クラーセン, 2013)。

4. モザンビークにおける貧困と格差、狙われる土地、そして政治暴力
(1)広がる格差と社会不満

 世界でも日本でも、眩いばかりのスポットライトを集めるモザンビークである。しかし、光の下に生み出されている影は、濃く、そして光をも陰らせるようになりつつある。

TICAD Vの二か月前の2013年4月、モザンビークを国連人権委員会の「絶対的貧困報告者」のセプルヴェダが訪問した。彼女は調査を終え帰国する際の記者会見で、「2011年だけで34億米ドル(261新事業と97既存事業)の投資があり、同国は世界で最も早く成長する10か国の一か国となっている」が、貧困者の数は増えてさえおり、「モザンビークの幅広い層の人びとが、過去20年間得てきた利益が公平に分配されるべきと感じていること」を強調した(Sepúlveda, 2013)。

今年の国連開発計画(UNDP)『人間開発報告書2013』も驚くべき結果を発表している。つまり、世界(187か国)で最も人間開発上問題のある国の第二位(185位)としてモザンビークがリストアップされているのである。

2008/9年のモザンビークの貧困率は54.7%であり、2002/3年の54.1%から増えるなど貧困削減は停滞し、貧困人口も990万人から1千170万人に増加している(MDGレポート2010)。貧富の格差を示す数値として開発されたGINI係数は、民衆の不満から社会の不安につながりやすいとされる0.4を超えている(統計によっては0.45)。

さらに注目すべきは、2008年以降にみられる民主化の明確な後退である。2010年、FreedomHouseなどは同国を「選挙民主政」のリストから外し、「アノクラシー国」として掲載している。さらに、ゲブーザ大統領の二期目(2009年)以降、政権全体のガバナンスは悪化の一途を辿り、不透明な投資案件が次から次へと明らかになっているほか、住民の生活を犠牲にした資源開発、それを批判する住民や市民社会への弾圧などが社会不満を高めている。

なお、ゲブーザ大統領とその家族の国家資源を活用した蓄財ぶりは、「Mr Guebusiness」と揶揄されるほど国際的にも知られるほどとなっている(Mail&Guardian, 2012年1月6日)。

この結果、首都マプートでは、2010年9月に住民らの暴動が発生し、3日間にわたって首都機能が停止した。10人が死傷したこの暴動の原因は、直接的には食料価格高騰への貧困層の不満とされているが、根底には現政権やその周辺への強い不満があった。

その直後に起きた北アフリカ地域での「アラブの春」は日本でも有名であるが、その前にサハラ以南アフリカ各国で、広がりゆく貧富の格差や不正に対する民衆の不満が爆発的に広がっていったのである。ただし、モザンビークの場合、民衆の不満は都市部だけのものではなかった。

(2)農民の手から次々に収奪される土地

独立直後の1977年から16年間の武力紛争で百万人もの死者を出したモザンビークでは、人びとは1992年来の和平と安定を大切に生きてきた。全土が焦土と化した国を建てなおしてきたのはこのような人びとの弛まぬ努力であった。しかし、ゲブーザ政権の二期目以降の急速な海外投資の流入は、ごく一部の権力中枢の懐を多いに潤したが、大多数者を置き去りにしただけでなく、彼らの命と暮らしすらも犠牲にし始める結果となっている。

(略)

ランドグラッビングについては・・・・なかでも、モザンビークは世界5位に位置づけられ、216万ヘクタールが取引されている。なお、日本の全農地面積は456万ヘクタールで、モザンビークではその二分の一近くの土地が数年で投資家の手に渡ったことになる。世界銀行はこの現象について「ガバナンスの脆弱な国で起きている」と総括している(World Bank, 2010)。

 これらの多くの土地は、①鉱物資源開発、②バイオ燃料作物、③植林プランテーション、④大規模輸出用作物栽培のために、タダ同然の金額で外国企業に譲渡されている。このプロセスについて、モザンビークを事例として検討する。

新日鉄住金が進出する「アフリカ最大の石炭埋蔵量」を誇るテテ州、特に進出先のモアティーゼ郡には、多くの外資が進出し、地域の大半が鉱区に呑みこまれている様子が分かる(Human Rights Watch, 2013)。ヴァレ社では、2000家族の移転がなされ、これに抗議する住民らの運動は、今年6月には同社の石炭輸送路封鎖に至り、同社は操業一時停止に追い込まれた(Reuters, 2013年5月23日)。これに対し、警察が暴力的な介入を行う等予断を許さない状態が続いている。

三井物産が進出するインド洋沖の近くのカーボデルガード州パルマ市でも、住民との間で衝突が起きているが、その調査を実施しようとした研究者が警察に拘留されるなどの事態も生じている(Terra Vivaサイト)。

(略)

(3)小農らによるプロサバンナ事業への反発と強権化への抵抗
 このような流れの中で、「日本の耕地面積の3倍もの熱帯サバンナが広がるモザンビーク」への、援助と投資を組み合わせたプロサバンナ事業が華々しく打ち上げられたが、これに対し現地小農らの強い反発が表明された。

モザンビーク最大の農民組織(2,200組織の連合)であり、小農の権利を擁護するために1987年に結成されたUNACは、2012年10月11日にプロサバンナ事業に対し抗議声明を発表する(UNACサイト)。その後、この抗議にはモザンビーク社会を代表する女性・宗教・農民・開発NGOなど23団体が合流し、ついにTICAD V直前の2013年5月28日。「プロサバンナ事業の緊急停止」を求める公開書簡が、日本・ブラジル・モザンビークの首脳(首相・大統領)に宛てて発表される(Farmlandgrabサイト)。

これは、独立から38年間もの間同一政党が権力を握るモザンビークにおいて歴史的に例のない事態であり、先述の通り強権化しつつあるゲブーザ政権に対する社会の最初の明確な抗議として記されることとなった。

(略)

プロサバンナ事業は、日本では援助事業として捉えられがちであるが、モザンビーク社会では、現政権の二期目を象徴する「国民不在」「投資偏重」の「国民の権利を犠牲にしてでも私利を追求する国政」の象徴的事例として広く理解されてきた。

実際、ゲブーザ大統領のファミリー企業はブラジル企業と組み、同事業対象地(ザンベジア州グルエ郡)にて3000ヘクタールもの土地を取得し大豆生産に乗り出している。この土地を耕していた200を超える農民が得たものは、1ヘクタール当たり1600円程度の「補償金」であった(筆者の現地調査)。

このように、「農民不在の大規模農業開発事業」は、援助の問題を超え、モザンビーク政府の非民主的な政策形成、投資偏重の開発戦略の証左として現地社会では受け止められているのである。

現在、JICA等の日本政府関係者らは、「プロサバンナ事業=小農支援であり、土地収奪を行わない」と強調するが、農民らに抗議されるまで同事業と連携して立ち上げられることになっていたナカラ・ファンドは、同じ対象地(ナカラ回廊)で「30万ヘクタールの土地確保」を打ち上げ世界から投資を集めようとしている。

同事業の立案形成から現在まで主導権を握り続ける日本政府にとって、当初の想定を超える事態が次々に生じている。しかし、現地市民社会が求めるように、事業の中断も抜本的な見直しもできない理由として、日本政府関係者は非公式の声として次のように語っている。

「事業を中断したり見直すということは、他の投資案件でも中国の進出を許すことになる」。

これは、本年10月21日にモザンビーク国軍が最大野党党首の拠点を軍事攻撃し、22日に同党が和平合意を破棄するという政治・軍事的危機に対し、20を超える援助国の中で唯一日本、そして投資国の中でも中国が、ゲブーザ政権に対し声明を発表していないことに象徴されている。

一方で、モザンーク市民社会は国内各都市で大規模な平和マーチを実施し、政権への批判を強めている。

5.おわりに
以上、モザンビークの事例を通じて、「アフリカの光と影」の現在、そして日本との関係――とりわけ私たちの暮らしに不可欠な「食」「エネルギー」との関係――を明らかにしようと試みた。

「光」が全体を照らさず、ごく一部だけ輝かせ、闇を深めている様子は、アフリカだけのものではない。

ここ日本でも急速に貧富の格差が拡大し、「子どもの貧困」がOECDに加盟する先進国35カ国中9番目に高いとの結果が発表されている(UNICEF, 2012)。しかし、日本の一人当たりGDPはこれらの中で4番目に高いのである。つまり、豊かさは子どもに還元されていないことになる。

日本が今アフリカに対して行う援助や投資のアプローチの根本に、自国内での不平等の格差を「経済成長さえすれば」という論理で放置してきた昨今の現実が横たわっている。

モザンビークをはじめとする、アフリカの民衆の苦悩に日本も関わっている現実を知る一方で、彼女ら・彼らの苦闘から日本が学ぶべき時代が到来している。今鋭く問われているのは、3・11後の私たちがここ日本でどのような暮らしを紡いでいきたいのか、共にどのような世界を構築していきたいのかなのである。
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by africa_class | 2014-01-09 09:09 | 【記録】原稿・論文

【近刊紹介』『国際政治~特集:紛争後の国家建設』&Fukushima, ProSAVANA…が、研究の転換点につき

長いノマッド(遊牧民)生活も一旦終了。毎月出国している状況はさすがに辛い。一か所に数か月まとめていられるのは本当にありがたい・・・と思う今日この頃。依然、アフリカに持って行ったスーツケースとヨーロッパに持って行ったスーツケースが並べられたままではあるものの・・・。

さて、忘れる前に自分の記録用にやっている最新出版物の記録を貼り付けておきます。デジタルの時代に、紙で出版されるものの有難さの一方で、いつどこで何を書いたのかだんだん記憶が定かでなくなってくるので。

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■舩田クラーセンさやか(2013)「モザンビークにおける民主化の後退と平和構築の課題」『国際政治:紛争後の国家建設』(日本国際政治学会編)、174号、54-68頁。

■Funada-Classen, Sayaka (2013), "Fukushima, ProSAVANA and Ruth First: Examining Natalia Fingermann's 'Myths behind the ProSAVANA", 国際関係論叢 第2巻・第2号、85-114頁。

*後2つ近刊ですが、取り急ぎ。
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(と書き始めて単に新刊紹介のつもりが、読み返すと、研究者としての次の旅路の話になってしまいました。なのでタイトルも変更。いいのか、こんなこと書いて・・・と思うものの、もはや。)

しかし、本業の紛争後の平和構築・・・にじっくりと手がつけられなくなって2年半。震災・原発事故、そしてプロサバンナの・・・・ですが、実はそれでよかったと今思い始めてます。当初は、知っている人は知っている通り、2011年から現在にかけて、「モザンビークとルワンダの平和構築の比較」と「アフリカ暴力、平和とジェンダー」を切り口に、英語で本を書くつもりでした。後者は共同研究を準備していたところでした。集ってくれた仲間の皆さん、すみません・・・。そして個人の研究テーマとしては、「アフリカと1958年」という本を書こうと思っていました。

それらは依然としてとてつもなく、答えもなく、重要なテーマであるものの、「今の私」である必然性のないテーマだと感じるようになりました。これは、重要ではないということではなく、頭脳が一個で手が二本で身体が1つで、24時間しかどんなに頑張ってもない人間という生き物である時の順序としてという意味です。

10年後とか、20年後でもいいかも。あるいは来年別のことを書いてるかも。やっぱりあのテーマをやる!と。その時は笑って下さい。でも今年退職した師匠と7月にすごく長い時間話して、彼が大学卒業論文で取り上げたテーマに40年後また取り組みたくなった・・といって文献を読んでいる話を目を輝かせてしてくださった瞬間に、私もそれでいいと踏ん切りがつきました。先生、ありがとうございます。いつまでも尊敬する大きな大きな先生、小倉充夫先生です。

そんな風に思う日がこんなに早く来るとは思ってもいませんでした。いや、良く考えたら「早くない」ですね。いつも自分がいつの間にかこんな歳になったのに驚いてしまう。22歳からこのテーマで、モザンビーク、パレスチナ、ユーゴスラビアに行って、そしてこのテーマで私なりに20年近く研究してきたのだから。人生あっという間というのはその通りで・・・。

いずれにせよ、前から思って、心がけてはいたのですが、上手くいかなかった。「国際関係」や「国際政治経済」を人びとの「暮らし」のレベルとの関係で再検討し直す・・・・・これを真正面からやる時がきたと感じています。逆に、世界はそれだけ、目に見えて密接に結びついて変動する時代に入ったといえるでしょうか。もはや、どんなアフリカの村の出来事も、世界中に張り巡らされつつあるシステムから逃れることができない・・・・他方、そのようなシステムに抗う普通の人びとの動態が、「小さな小石」の意味が大きくなる瞬間がある。

巨象の足の裏にたった一つ刺さった棘だとしても、それはそれで意味があることがある。(象を例えたのは息子的にまずかったかも・・ごめん)

その綱引きのようなPower & Contestationについて、「一人一人の暮らし(特に生命)」と「グローバルなシステムと国家権力」の相互性と相克・・・をディスコース(言説)分析と構造分析を踏まえてやりつつ、一人一人の「声」を浮き彫りにできないものか・・・そんなアクロバティックなことを考え始めているのです。

まあ、もう国際関係学では理論的にはやられているし、現代史研究では、以上は当然過ぎるぐらいと当然のことなのですが、もっとそれを「土地」とか「農」とか「食」とかの切り口で、アフリカと私たちの生活を舞台に何かできないものか・・・それこそが、私の「平和構築論」になっていく予感があるのです。そこには、気候変動やエネルギー問題も含まれています。

さらに、「援助という名のコロニアリズム」という斜めの切り口も挟み込みながら・・・・。こんな風に、ブログに次の研究アイディアの構想を書くのはバカだと思うのだけれど、バカであることはどうせ周知の事実なんで、お許しを。ちなみに、関西人にとって「アホ」は許容範囲。「バカ」は超えているので、私が「バカ」という時には、相当気合のはいた「アホ」だと思ってくださってOKです。

脱線しました。いつもだけど。
これは、私が「研究界の住民」ではなく、あるいは市民社会の一員だからというだけでなく、あるいはそれぞれのアイデンティティを「生活者としての自分」を加える形で、でもそれぞれバラバラに生きてきたところを、2011年3月11日後融合させようと試行錯誤してきた結果でもあるといます。つまり、「ひと」になったのですね。

「知」は身体から切り離されるべきでなく、「社会」からも切り離されず、「過去と未来」からも切り離されない。「この場」だけからも切り離されず、「世界」から切り離されない。制約を受けながらも、有る時大きく羽ばたくこともあり、でもその羽ばたきが人びとを破壊に導くことがある。そんな超越と制約の間の限りなく主体性があるようにみえてない世界の中で、人が人として、愚かで可能性のある生き物として、どう生きるのか・・・そんなことをツラツラ考えているのです。

自分の衝動として、未熟なままで「次」に行かねばならない自分に腹が立ちます。全然、まったく、20代のころにこの錚々たるメンバーから学び始めた時からちっとも進化がなかった自分に。あの時よりもスキルがアップしたとしても(20年ですから・・・)、まったくダメじゃないか。そんな風に思う今日この頃。

でも、私はきっといつか師匠のように「やり残した気持ちがある」もののところに戻ってくると思います。なので、やり残したままにさせて下さい。

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とはいえ、手元に届いた『国際政治』を読み始めて、激しく後悔しているのは事実として。。。ちょっと、この錚々たるメンバーの中に私の原稿があってよいはずかない。

この日本政治学会の投稿募集にあわせて書いたのだけれど・・・
http://jair.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/committee/no174recruit.pdf

正直なところきりこみが全く足りなかった・・。もっとやりたい分析があったのだけれど、不十分だった。でも、実の所今農民たちと共に活動をし、調査をしながら、思っても見なかった視点で政治をみることが出来ている自分を発見している。「民主化の課題」を「主権の問題」だと前から頭で分かっていたけれど、こんなにハートにずしりと来る形で理解できたのは、活動のお蔭。とはいえ、この論文は2年前の学会報告をベースとしているので、最後以外はそれが活かせていない。まったく!!!!

(津田時代と同様、「今後の課題BOX」にぶち込ませていただき・・・)

でも、私の以外はすごくすごく面白いので、是非どうぞ。
学会ジャーナルとはいえ夕斐閣から購入できます。
http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641299641

武内さんのLiterature Reviewもいつもながら冴えわたってる。
新しい同僚の篠田さんの論文も素晴らしく面白い。
前の同僚の酒井さんの論文の深みに、自分のろんぶんがかぎりなく薄っぺらい・・・ごめんなさい。次(相当先になりますが)頑張ります。

==目次==================
「序論 紛争後の国家建設」(武内進一)
「国際社会の歴史的展開の視点から見た平和構築と国家建設」(篠田英朗)
「紛争後の国家建設の死角と国際社会の課題」(西川由紀子)
「国家建設と非国家主体─ケニアのコミュニティ宣言が示唆する国家像」(古澤嘉朗)
「モザンビークにおける民主化の後退と平和構築の課題─2009年選挙を中心に」(舩田クラーセンさやか)
「紛争と選挙,アイデンティティの相互連関─戦後イラクの国家建設過程」(酒井啓子)
「二元化するイラクの石油産業─クルディスタン地域の石油と国外アクターの役割」(吉岡明子)
「ボスニア・ヘルツェゴビナにおける所有関係と国家建設」(片柳真理)
「ローカル・オーナーシップと国際社会による関与の正当性─マケドニアにおける国家建設を事例として」(中内政貴)
「同盟と国家建設─NATOとアフガニスタン」(岩間陽子)
「反乱軍の組織と内戦後の和平期間」(大林一広)//独立論文1本
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by africa_class | 2013-10-01 22:51 | 【記録】原稿・論文

冒頭だけ紹介:「『ODA見返り論』からの脱却を」『外交』「国際援助の新戦略:アフリカ」2012年3月12号

暴風雨ですね・・。
少し体調が悪い上に、家に閉じ込めている四匹の子豚たちがうるさ過ぎ
て仕事に専念できないので、この1年の論文・原稿の整理・掲載の最後
をやっておきます。現在、販売中の雑誌『外交』の論文なので、冒頭だけ
紹介しておきます。全文は、『外交』最新号でお読みください~。
http://www.gaiko-web.jp/
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『外交』「国際援助の新戦略:アフリカ」2012年3月12号
「『ODA見返り論』からの脱却を」 128~133頁
舩田クラーセンさやか(東京外国語大学)
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戦争終結20年、活気あふれるモザンビーク
今、この原稿をアフリカのモザンビークで書いている。同国で最も僻地とされる北部4州1700キロを駆け抜けたが、道中目にした光景に今でも驚いている。道路は依然大部分が舗装されていないものの、どんな僻地にも携帯電話のアンテナが建ち並び、真新しいガソリンスタンドが完成し、農作物や商品をいっぱいに積んだ自転車を漕ぐ男たちが道路に溢れる。
 一方筆者がゼミ合宿で毎年通う日本の中山間部。訪れる度に、路線バスが廃止され、小学校が廃校になり、畑は放棄され、中心街の商店のシャッターは下りたまま。道行く人は、腰の曲がったおばあさんの姿ばかり。まさに対照的といっていいほどの光景である。しかし、モザンビークがいつもこんな風に活気溢れる国だったわけではない。
 筆者がこの国を初めて訪れたのは1994年。16年に亘った世界でも類を見ないほどの醜い戦争直後のことであった。百万人が死に、人口の実に三分の一が難民・避難民となり、大量の武器と子ども兵を残した戦争の爪痕は深刻で、地雷によって道路網は寸断、学校や病院の大半が破壊され、商店は空っぽ、人びとは痩せこけ、その表情には不安がありありと浮かんでいた。
 あれから18年。あの時筆者が出会ったモザンビークは、もはやここにはない。この国は見違えるほどに復興を果たし、世界に模範として称賛されるまでに変貌を遂げた。特にここ数年、国内各地でボーキサイト、天然ガス、石炭などが確認され、これらの天然資源や広大な農地を狙った外国企業の進出ラッシュが相次いでいる。

依然深刻な社会的課題と経済成長の裏で広がる格差
ただし早合点してもいけない。モザンビークは依然世界最貧国の一つであり、GDP比で182カ国中122位、貧困者(一日一ドル以下で生活する人)は国民の6割を占める。2015年までの達成が国際公約となっている国連ミレニアム開発目標(MDGs)については、幼児や妊産婦の死亡率も依然高く、HIV/エイズの感染率は判明しているだけで15歳~49歳人口の1割を超え、最大10万人近くがエイズで死亡している。人口が2千万人程度のこの国にとって、そのインパクトは非常に大きいものがある。
 安全な飲料水へのアクセスがある人口割合も農村部では29%に留まっており、経済成長の恩恵が人びとの生活向上に還元されていないことが分かる。人口の大多数を占める農村住民の暮らしは依然厳しく、天候や親の健康状態次第で、子どもたちは飢え、女の子たちが身売りをしなければならない現実に変わりはない。表面上の経済成長の一方で、社会課題の解消にはほど遠い状態にあることが分かる。
 経済成長に伴って生じつつある問題も深刻である。海外からの投資ブームの影で、利権を有するごく一部の「持てる者」と大多数の「持たざる者」の格差は急速に拡大している。さらに、投資に絡む腐敗や権力の濫用、選挙不正の結果、社会全体の不満は高まり、独立以来同一政権下で安定を保ってきたこの国でも、2010年には失業中の若者による大規模暴動が首都で発生し、都市機能が麻痺した他、死傷者が多数出ている。
(続きは原文を)
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by africa_class | 2012-04-03 16:14 | 【記録】原稿・論文

一挙掲載月刊『英語教育』連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」(その3)

今、BBCのメルトダウンの内側 Part3
福島第一原発周辺の避難者らが、SPEEDIの予測が公表されていな
かったため、より線量の高いところへ向かって行ったことについて・・・。
http://onodekita.sblo.jp/article/54621673.html
本当に悔しい。本当に、本当に悔しい。

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『英語教育』2011年1月~2012年1月
連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」
http://www.eigokyoikunews.com/store/eigokyoiku.html
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*文字数が多くて実際はかなり削った原稿ですが、原文のまま掲載
します。特に、最終回に実は大学の新しいコースについて紹介してた
のですが、紙幅の関係で次の部分を結局削除したでした。後1週間
でこれらの16名(1名増員)が入学です!!!!祝合格!
「東京外国語大学でも、今年4月から、アフリカ地域教育に力を入れた定員15名の学群が設置される。新入生15名は、まずは1年間徹底的に英語を身につけつつ、フランス語・ポルトガル語・アラビア語の中から一言語を選択し第二言語として学ぶ。そして、二年次からは、英語と第二言語を身につけ、さらに教養言語としてスワヒリ語をかじることになる。南部アフリカ共同体(SADC)に加盟するアフリカ12か国の大使たちによる英語での連続レクチャーも計画されており、まさに「生のアフリカの中の英語」に触れる機会となる。」

■第十回 サファリでサファリする?
本コラムもだいぶ終わりに近づいてきた。気づいたら、これまで「アフリカの中の英語」についてばかり書いてしまったて、「英語の中のアフリカ」について、ほとんど触れることができないまま! なので、今回は、「英語の中のアフリカ」について取り上げてみたい。
 と書いたまではよかったものの、なかなか思い付かない…。たまたま南アフリカ在住の「英語の達人」が家に泊まっていたので聞いてみた。「やっぱりSafariじゃない?」思わず膝を打った。そう、日本語にもなっている「サファリ」。英語でも、アフリカの国定公園などに行って、テント(といってもラグジュリアスで本格的なもの)に宿泊しながら、広大なサバンナの風景と野生動物の観察をすること全体を「サファリに行く(I go onto Safari)」という。でも、多くの人はSafariという言葉の由来は知らないだろう。
 Safariの元々の意味は、タンザニア・ケニア・ウガンダの3か国の公用語の一つとなっているスワヒリ語(Swahili)で「旅」のこと。当然ながら、野生動物がいようといまいと、移動すること自体がSafari。なので、現地で、「I go onto Safari」というと、「サファリでサファリする」というニュアンスになってしまう。では、スワヒリ語で我々の意図する「サファリ」をなんといえばいいのか? 
 それが、サファリにあたる言葉はないのだ!
 そもそも、アフリカの人びと人たちは、野生動物と共に生きてきた。お祭りの季節が近づいてくると、成人男性たちは連れだって、祭りの「御馳走」である野生動物を捕りに森に行く。数日間森を彷徨って、帰ってくるのは1週間後ということも。棒に逆さになってぶら下がって現れるインパラやガゼルを見て、思わず「可哀想」と口にしたくなるけれど、村の人びとにとっては重要なタンパク源。のしたがってで、野生動物をわざわざ「見に行く」という発想自体がない。
 では、アフリカの人びとにとっての「旅」は? それはやはり、冠婚葬祭で親族などに会いに行く際の移動だろう。かつては家族全員で正装して何十キロの道のりをテクテク歩いていたが、今ではミニバスにスシ詰になっての移動。これこそ、アフリカ的「サファリ」。
 なので、 なので、「サファリ」という言葉言葉はアフリカから来ているとしても、その概念はあくまでもアフリカの外から来たもの。

■第十一回 アフリカで野生動物を「見る」こと
前号では、英語にもなっている「サファリsafari」の意味を、アフリカの人びとの側から考えてみた。本号はその続編。
 「サファリ」と名のついた動物園もあるように、日本で「アフリカ」というと「野生動物」。ドイツでも事情は同じ。だからで、やっぱりそう。日本と同様に、テレビでしょっちゅう野生動物の番組をやっている。なので、私の調査についてきたドイツ人の「ツレ」が初めて私の調査についてきたときは、初めてのアフリカ(!)ということもあり、大興奮。赤茶けたアフリカの大地をヒッチハイクしたトラックを乗り継いで行くこと計2日間。ようやく着いた私の調査地の村がは、国立自然保護区に比較的近かったからだ。こともあり、。期待を高めた彼ツレは、地元の人たちに訊ねた。
 「どこに行けば野生動物が見られますか?せっかくアフリカに来たんですから!のに見ないで帰ったら、家族に笑われるんで!」
 すると、みな一様に怪訝な表情。
 「アフリカ=野生動物」と思い込んでいた彼は戸惑った。
 「ライオン、もしかして見たことないんですか?」
 皆が顔を見合わせた。そして、悲しそうな顔をした。その瞬間、私は悟って止めようとしたものの、時すでに遅し…。
 「『ライオンを見たことがある』なら人たちは、もうこの世にいないよよ。」
 そう。私が毎年調査に行く村のお年寄りたちは、3度の大きな戦争を経験し、戦争の度に、どの戦争の際にも、住民は村や家を捨てて、森の中に逃げなければならなかった。しかし、そこは野生動物たちのテリトリー。つまり、ライオンの棲家。結局、せっかく戦争から逃れても、ライオンに食べられてしまった子供やお年寄りは少なくなかったのであるある。
 申し訳なさそうに頷いたツレ。しかし、そこで彼の質問は終わらなかった。
 「確かに、ライオンは危ないですよね。すみません。でも、ゾウなら…。」
 再び顔を見合わせる村人たち。一方、項垂れる私。この地域一帯では、畑や食料貯蔵庫のサトウキビや穀物、野菜の味を覚えてしまったゾウたちが、毎年村を襲いにくるのであった。そのため子どもたちがは学校にも行かず、畑の見張り番をさせられることも多い。
 つまり、アフリカの自然が豊かな地域の人びとにとっての暮らしでは、「野生動物に遭遇する=危険信号」なのである。
 あれから12年。さすがに、彼も最近はそんな質問をしなくなったものの、代わりに今度はその息子がは双眼鏡でを片手に、まだ諦めずサバンナの向こうを凝視している。やっぱり、カエルの子はカエル。息子の将来の夢は、サッカー選手か自然保護区のranger(自然保護官)。調べてみたら、この言葉元々はドイツ語の「猟兵」の意味だそうな。納得。

■第十二回(最終回) アフリカへの誘い
本コラムも最終回となった。1年間おつきあいいただいた連載を始めた1年前と比べ、新聞等でもアフリカの話題が多くなってきた。また、東京外国語大学でも、今年4月から、アフリカ地域教育に力を入れた定員15名の学群が設置される。新入生15名は、まずは1年間徹底的に英語を身につけつつ、フランス語・ポルトガル語・アラビア語の中から一言語を選択し第二言語として学ぶ。そして、二年次からは、英語と第二言語を身につけ、さらに教養言語としてスワヒリ語をかじることになる。南部アフリカ共同体(SADC)に加盟するアフリカ12か国の大使たちによる英語での連続レクチャーも計画されており、まさに「生のアフリカの中の英語」に触れる機会となる。
 受験生に戻ることができない皆さんには、是非アフリカを一度訪ねていただきたい。「百聞は一見にしかず」がアフリカほど当てはまる地域は地球上に存在しないのではと思うほど、アフリカのイメージと現実はかけ離れている。このコラムでもたくさんのことを紹介したが、やはり一度は、実際にアフリカの大地に抱かれ、直接にアフリカの人びとと触れ合っていただきたいと思う。
 そして英語の達人たる皆さんには、是非アフリカの音楽CD、映画、文学作品に触れていただきたい。日本にいながらにしてアフリカのものが手に入る時代になった。中でもあえてお勧めするならば、映画『Amandla!』を挙げたい。ミュージカルの映画版であるが、アパルトヘイト下の南アフリカで、人びとが諦めることなく、不屈の精神と音楽と連帯の力で抵抗を続けた様子がドキュメンタリータッチで描かれている。ネルソン・マンデラの実際のスピーチも聞ける上に、音楽も素晴らしい。
 文学作品については、本コラムでも紹介したナイジェリア英語文学の系譜を引くチママンダ・ンゴジ・アディチェのHalf of a Yellow Sun(翻訳本『半分のぼ登った黄色い太陽』)をお勧めしたい。1977年生まれの若い女性作家であるが、同書はOrange Prize for Fictionを、2003年に発表されたPurple Hibiscus はBest First Book Awardと Commonwealth Writers’ Prizeを受賞している。ナイジェリアの現地の言語に由来する言葉も多く、最初は読み進めるのが少し大変かもしれない。しかし、後半にかけての躍動、複数のパーソナリティーの物語が大きな戦争という物語に結実していく様は、感動的である。人間の弱さと可能性を痛切に感じる一冊。
 また、アフリカについてもっと知りたい、学びたいという方は、筆者の編書『アフリカ学入門』(2010年、明石書店)をご参照あれ。
 この連載中に、アフリカ、ドイツとの往復を何度も繰り返した。世界を何周かして思うのは、やはり日本にアフリカ的刺激と包容力が不可欠な時代が到来しているということ。世界のどの地域よりも、今の日本には停滞感、諦めが漂っている。これを脱するヒントは「危機の先進地」ぜひ、アフリカにこそあり。ぜひ、アフリカへ。へ。
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by africa_class | 2012-03-28 21:56 | 【記録】原稿・論文

一挙掲載月刊『英語教育』連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」(その2)

このコラムの冒頭は
http://afriqclass.exblog.jp/12662684/

ちなみに、ブログ更新の時間がもったいないので、前から全部
観たかったBBCの「メルトダウンの内側(Inside the
Meltdown)」シリーズを聴きながらです。今Part2。
http://onodekita.sblo.jp/article/54621673.html
が、い番組過ぎて・・・しっかり観ました。本当にお勧めします。

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『英語教育』2011年1月~2012年1月
連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」
http://www.eigokyoikunews.com/store/eigokyoiku.html
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■第六回 公用語を英語に変えたルワンダ
2008年に公用語に英語を加えたルワンダ。ついに2009年には、フランス語圏アフリカとは決別するかのように、コモンウェルス(英連邦)に加盟を果たしている。しかし、何故ルワンダは公用語に英語を加え、英語化しようとしているのだろうか?これについては、ルワンダこのようなルワンダの英語公用語化は、この国で発生した二つの虐殺が関わっている。
 ルワンダには、フツ(約88割八十数%)、ツチ(約1割)(十数%)、トワ(数%)の3つの民族集団が暮らすとされるが、いずれもルワンダ語を話し、集団間の婚姻も進むんでいた。しかし、ベルギーの植民地支配期に、これら集団のカテゴリー化と集団間の格差や分断が生み出され、る。そして、1950年代末の独立移行期に、フツ・とツチの間での暴力が激しさを増した結果、ツチ約2万人が殺害され、20万人が難民となって国外に流出した。
 この一次虐殺の際に多くのツチ難民が逃げた先が隣国ウガンダであった。ウガンダは元英国統治領で公用語は英語。また、英国領東アフリカ地域の学問の中心地であったため、教育に熱心な国として知られる。このウガンダで教育を受けた難民やその子どもたちが、ルワンダへの帰還を目指して立ち上げたのが反(ルワンダ)政府勢力・ルワンダ愛国戦線(RPF)であった。
 1990年、RPF軍は、ウガンダ政府の後押しを受けて武装蜂起し、ルワンダ北部に侵攻を開始する。この危機に対して、フツを中心とするルワンダ政府は、国内的な(特にフツの)結束を獲得するために、国内外のツチをすべてを敵として、その虐殺を組織的にその虐殺に着手したのであった。その結果、1994年にRPF軍がルワンダを制圧するまでの間に、50万人とも100万人ともいわれる数のツチが虐殺された。
 虐殺後に政権を奪取したRPFの幹部はウガンダで教育を受けたために、フランス語が得意ではなく話せず、なかった。そのため、公用語に英語を加えた。わけであるが、さらにフランス語の放逐には別の理由もあった。それは、フランスが虐殺を行った興した旧政権を支援していたことや、虐殺発生についてRPF側にも非があったとフランス政府が総括したことに対する反発である。でもあった。
 国民の間のコミュニケーションはもう一つの公用語ルワンダ語を通じて行われるので問題はないが、英語が出来ない大半の国内で暮らしてきた人びと(その多くがフツ)にとって不利な状況が生まれていることは間違いない。「たかが言語、されど言語」…ルワンダの前途が多難であることは間違いない。
 しかし、国内で暮らしてきた大半の人々は英語ができず、不利な状況に立たされている。虐殺という悲しい歴史は、こんなところにも爪痕を残しているのだ。

■第七回 アフリカ発英文学
私が勤める大学でも、「『アフリカの英語』は『英語』?」と真顔で尋ねる人がいる。本コラムの読者であれば、既にそのような問い自体が成立しないことを御承知のことと思いたいところ。いやいやまだ説得されていないぞ…という方のために、昨今の「英文学」事情について取り上げたい。
 「英語」が「英国という国の言語」から、「英帝国の共通語」であった時代が過ぎ、「英語」という名前の一言語に過ぎなくなって久しい。ただし、グローバル化やインターネットの発達から「世界の共通言語」として脱皮しつつある現在、「英文学」もまた、「英国の文学」だった時代から、「英語で書かれた文学」を指すようになっている。最近のブッカー賞で、英国人以外のアジア・アフリカ出身者の受賞が相次いでいることからも、それは明らかであろう。
 今回紹介したいのはナイジェリア文学である。同国は多くの文学者を生み出してきた。中でも、1986年にノーベル文学賞を受賞したWole Soynika(ショインカ)はあまりにも有名であろう。しかし、今回紹介したいのは、Chinua Achebe(チヌア・アチェベ)である。 1980年代以降、英文学界で重要な位置を占めるポストコロニアル文学/批評において、アチェベが果たした役割はあまりに大きいからである。著書Things Fall Apart(邦題『崩れゆく絆―アフリカの悲劇的叙事詩』)は世界で一千万部以上売れ、英国や米国の小説百選にも選ばれているが、英文学界、あるいは世界文学界への彼の貢献は文学作品に留まらない。
 植民地時代のナイジェリアで生まれ教育を受けたアチェベは、それまでまったく問題にされてこなかった英国文学の根底にある帝国主義・人種差別主義観を鋭くえぐり出す批評を発表し、世界に注目されるようになる。中でも、19世紀末の英国作家ジョセフ・コンラッドのHeart of Darkness(『闇の奥』)の批評は、現在でもポストコロニアル理論において「古典」となっており、英米を中心に世界中の大学で繰り返し読まれている。
 英国文学は、日本でも広く読まれてきた。英国から輸入した学問とともに、文学もまた、日本の近代化において多くの知識人に影響を与え、重要な役割を担ってきた。私たちのアフリカあるいは非ヨーロッパ世界を見る目に、刷りこまれてきた帝国主義・人種差別観を乗り越えるには、私たちもアフリカ文学を必要としているのではないだろうか。

■第八回 英語に生命と活力を与えるアフリカ?
前号では、英文学界においてだけでなく、ポストコロニアル批評においても重要な役割を果たしてきたナイジェリアの文豪チヌア・アチェベを紹介した。今回は、英語の発展へのアフリカ文学の貢献について。アチェベは、1964年にこう書いている。
 「私は英語がアフリカの体験の重みを背負うことは可能だと思っている。しかも、それは、先祖の土地との接触を充分に保ちながらも、新しいアフリカの環境に見合うように変更された新しい英語となるに違いない」
 同様に、同じ時代のアフリカ人作家ガブリエル・オカラは次のように述べている。
 「生きている言語は生物と同様に発展するのであり、英語は死語ではない。アメリカ英語、西インド英語、オーストラリア英語、カナダ英語、ニュージランド英語等が存在するのだ。これらすべては、それぞれの地域の文化を反映しつつ、英語に生命と活力を付け加えている。」
 現在の英文学界でのアジア・アフリカ出身の作家たちの活躍を考えると、なるほとと思える指摘である。そして、これが1960年代という解放直後のアフリカの作家たちの意志表明である点に注目したい。支配され、言語を押しつけられる側から、この言語を飼い馴らし、それを白人たちには不可能な形で豊かにすることで、「主従関係」を覆そうとする主体的な意図が感じられる。そして、実際にこれらの作家たちは、それを成し遂げたのであった。フランス植民地でも、セダール・サンゴールが詩によって、本国知識人たちを脱帽させている。
 しかし、これに対して、ケニア人作家・大学教授のグギ・ワ・ジオンゴは、次のように異議を唱えた。
 「なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにするために自分の母語を絞り出す仕事にそこまで脅迫されなければならないのか。」
 そして、1977年、当時すでに国際的な英文学作家だったジオンゴは、突如として英語での創作活動を放棄し、ケニアの一民族語にすぎないギクユ語での創作活動を開始する。なぜだったのか。
 今、ポルトガル語を公用語とするモザンビークにいる。そして、アフリカ人学生のポルトガルで書かれた詩の朗読を聞きながら、ジオンゴの問いの重さを噛みしめている。なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにしなければならないのか、と。

■第九回 英語を捨てたグギ・ワ・ジオンゴ
世界的な英文作家のだったグギ・ワ・ジオンゴ(ケニア出身、大学教授)は、1977年にケニアのギクユ語で農民とともに舞台劇『したい時に結婚するわ(Ngaahika Ndeenda)』を創作する。独立後の政治指導者たちが腐敗していく様子を痛烈に皮肉る一方、農民が結束して権力と闘う様子を歌や踊りで表現した作品であった。農民から「遠い」英語ではなく、誰もが理解し、しかも民族独特の哲学や倫理を深く宿したギクユ語での劇は、またたく間に評判を呼んだ。それは、この劇が「一民族語のプロモーション」を超え、文化活動を通じての政治参加という新しい社会運動の可能性を示した巻き起こしたからであった。
 「権力者の言語=英語」を使わなくても、生活の言語を使って政治参加し、政治的な意志表明が出来る。『したい時に結婚するわ』は、誰もが政治に参加できる道を切り拓いたのである。だからこそ、危機感を持ったケニア政府は、民衆を扇動した罪で政治犯としてジオンゴを最高治安刑務所にぶち込んだのであった。この刑務所の独房の中で、ジオンゴは英語での創作を止める決意をする。ジオンゴは語る。
 「白人の言葉を学んだ者はだれもが、いなか者である大多数の者とその粗野な言葉を軽蔑し始める。選び取った言葉の思考方法と価値観を身につけることによって、彼は自分の母語の価値観から、すなわち大衆の言葉から疎外されるのである。つまり、言葉とは、民衆によって造られる価値観を、時代を越えて運び伝えるものなのである。」
 あれから35年以上が過ぎてなお、70年代のジオンゴの問題提起はアフリカ中では有効な意味を持ったままである。確かに、公用語である英語や他の西洋フランス語、ポルトガル諸語を使いこなす人の数も増えた。ヨーロッパの「本国」作家以上に活躍するアフリカ人も増えている。しかし、圧倒的多数の民衆にとって、依然これらの言語は「権力者の言語」のままである。勿論もちろん、同じ国の中に十も二十もの民族語がある現状において、これらの「公用語」の果たすべき役割は大きい。その前提でしかし、ジオンゴのいうように、「われわれの言語の再発見と奪還を求める声」に耳を傾ける必要がある。
 そして、それはアフリカに留まらない。日本でも、「方言」、「少数言語」の地位と役割を考える上で有効な視点なのである。「なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにしなければならないのか」「なぜトルストイがしたように国民文学を創造できないのか」というジオンゴの問いは、問われ続けなければならないだろう。
 そして、グローバル化した現在の世界における英語の地位上昇もまた、国際関係内での権力関係を反映している。現在の日本においても、ジオンゴの問いは日本でも有効なのではないだろうか。
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by africa_class | 2012-03-28 21:46 | 【記録】原稿・論文

『アフリカ学入門』の書評(AJF斉藤龍一郎さん)

日本アフリカ学会の学会誌が送られてきました。何気に開いたら、
『アフリカ学入門』の書評がありました。せっかくたくさん書いてくださ
ったのですが、学会員の眼にしか触れないので、執筆者の斉藤さん
にお願いしてファイルを送ってもらいました。是非ご一読を!
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舩田クラーセンさやか編
『アフリカ学入門─ポップカルチャーから政治経済まで─』
明石書店、2010年、364頁、¥2,500
斉藤龍一郎(アフリカ日本協議会)
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 サブ・タイトルの通り、アフリカの政治経済を考えるための視点を提示する論考やアフリカでの国際機関の活動紹介から始まり、アフリカのポップ音楽の解説、伝統と現代的感覚を活かしたティンガティンガの紹介、さらにはアフリカ諸国の大学や専門学校への留学の手引きまでと、実に幅広い内容が盛り込まれている本である。執筆者も、アフリカ研究者だけでなく、アフリカでの起業経験をもつ者、日系企業の社員として活躍し、その後ターボ・ムベキ前南ア大統領の顧問を務めた者、マサイと結婚しアフリカへの草の根スタディツアーを主催している者といった広がりがみられる。南アフリカ共和国でサッカー・ワールドカップが開催され、「アフリカの年」から50年にあたるという、アフリカがさまざまな形で話題に上った2010年という時期にタイミング良く出版されたこともあって、本書は、アフリカに関するまとまった本を読むのは初めてという層にも広く読まれたのだろう、出版からまだ日が浅いのにすでに重刷されている。
 評者は、20数年前、ケニアの小説家グギ・ワ・ジオンゴの作品、そして反アパルトヘイト運動と出会ったことをきっかけにアフリカに関心を持つようになった。その後、1993年の東京アフリカ開発会議(TICAD:現在は「アフリカ開発会議」と呼ばれる)に向け、NGOや研究者などの呼びかけで開かれたアフリカ・シンポジウムに触れて、1994年にアフリカ日本協議会(AJF)の会員となり、2000年からは事務局長として会の運営にも関わるようになった。その間、アフリカに関心を持ち続けてきたが、アフリカの歴史・地理・社会、アフリカに関わる人々の姿、日本との関わりなどに関する系統的な知識や情報がなかなか得られなくてもどかしい思いを持ってきた。本書は、評者のような、アフリカに関心を持ちつつもどこからどのようにして情報を得たらよいのかがわからないと感じている人たちにとって、非常に参考になる本である。
 編者の舩田さんは、日本とアフリカの市民社会の協力関係の構築・強化を求める立場から2003年の第3回TICADに関わり、同じ問題意識を持つ大林稔さんを代表とするTICAD市民社会フォーラム(TCSF)を立ち上げ、副代表として、NGOのみならず国連機関、アフリカ外交団、外務省、JICA、研究機関など、アフリカに関わる活動・事業を行うさまざまな団体や機関、そして個人への働きかけを行ってきた。そうした取り組みの一つとして、TCSFが2005年から2007年にかけて東京と神戸で開催した「アフリカ学講座」の講義録が、本書のベースとなっている。
 まず、そうしたTCSFの活動を通して、その単なる活動紹介ではなく、むしろアフリカの直面する「問題群」を歴史的、社会的かつ系統的に理解するための手がかりを提示する本書のような優れた著作が生み出されたことに注目したい。
前置きがやや長くなったが、本書の概略を紹介する。
冒頭の「アフリカ学への誘い」で、編者の舩田さんは、TICADに関するメディア報道、日本のアフリカ政策の動きを紹介しつつ、大学でアフリカについて教えた際の学生たちの反応等から、アフリカに関する系統的・継続的な情報提供が不充分であることを指摘している。
「第Ⅰ部 アフリカを学ぶ」では、大林稔さんが入門概論Ⅰ・Ⅱ(歴史と現在)、高橋基樹さんが貧困・開発論、武内進一さんが紛争論、吉田昌夫さんが食料安全保障論、山田肖子さんが教育論、勝間靖さんが保健・環境衛生論、富永智津子さんがジェンダー論、そして鈴木裕之さんが文化論をそれぞれ分担執筆している。
「第Ⅱ部 アフリカに接近する」は、青木澄夫さんの日本-アフリカ交流史を冒頭に置き、JICA・NGO・国連機関によるアフリカ協力の紹介、「あなたの周りの「アフリカ」探し」と題された日本のなかのアフリカ紹介、そして日本でアフリカについて学ぶことのできる大学や機関の紹介を収録している。
最後の「第Ⅲ部 アフリカで学ぶ、働く、根を下ろす」では、アフリカ留学の勧め、アフリカで働くさまざまな人々の経歴・経験の紹介、そしてアフリカで結婚して暮らすことを選んだ人の体験記等、アフリカへのさまざまな関わり方が紹介されている。
第Ⅰ部の執筆者たちは、TCSF「アフリカ学講座」をはじめとするさまざまな場面での質疑を踏まえて、整理された基本的な考え方を簡明に記述している。アフリカに関する質問を受けることの多い評者にとっては、まずこれを読んで下さい、と言える手堅い内容となっている。
第Ⅱ部第4章「あなたの周りの「アフリカ」探し」では、これまであまり注目されてこなかった在日アフリカ人コミュニティの直面する課題が紹介されており、実に興味深い。
また、評者の近辺にもアフリカに関わるビジネスへの関心を持っている人が増えており、第Ⅲ部に収録された南アフリカ共和国在北海道名誉領事の宮司さん、元ケニアナッツ社社長の佐藤さんの経験はたいへん参考になった。これらの人々の記述をきっかけに、ビジネスを通してアフリカに関わった人々の経験や知見を共有し、さらには検討の対象としていくこともアフリカ研究のテーマのひとつとして重要だろう。
ところで、本書は、単にNGO活動を一つの基盤として編み出されたというだけでなく、アフリカに関心を抱く者、特に評者のようなNGO関係者やその活動に興味を持つ者にとって重要な意味合いをもつ。
第一に、本書はアフリカを捉える視点の地平を広げる可能性を秘めている。特定の「問題」に触れてアフリカに関わろうとするNGO関係者は、その「問題」のみを通してアフリカを見てしまいがちである。違った視点から「問題」を見ることが必要と思っても、具体的な材料がないと、なかなかそれができない。本書の各章ごとの著者紹介、アフリカ出身者によるコラム、そしてさまざまな形でアフリカに関わっている人々の取り組みの紹介によって、それまで考えたこともなかったアフリカとの関わり方や見方を知るNGO活動家はけっして少なくないだろう。評者は、ともすれば「私ががんばってアフリカの人びとを救うんだ」と考えがちなNGO活動家には、第Ⅰ部第3章の著者紹介にある「アフリカを救うのではなく、その苦悩を理解しつつ、アフリカの人びとが自らの道を選び取り、歩んでいくことを支えたい」という表明に注目してもらいたいし、そのために同章だけでなく高橋さんの著書『開発と国家─アフリカ政治経済学序論─』もぜひ読んで欲しいと思っている。
 また、章末の参考文献・ウェブサイト案内ではDVDやビデオなども豊富に紹介されており、NGOがアフリカに関わるさまざまなテーマで学習会や講演会等を開催する際にたいへん役立つものと思われる。さらに、第3部で紹介されているアフリカの大学等への留学に関する情報も、アフリカに関心をもつ学生や若者たちの相談に日々向かい合っているNGOの運営者にとって非常に参考になろう。
 NGOの活動はどうしても点の活動になる。アフリカは、緯度で言えば北は日本の本州から、南はオーストラリア大陸よりもさらに南のタスマニア島にまでいたる、実に広大な大陸とその周辺の島嶼から構成されている。しかし、NGO活動家は、その広大なアフリカのごく限られた、まさに点的な地域でしか活動していない。そうしたNGO活動家にとって、本書第Ⅰ部最初の2章で提示されている「アフリカ」概念に触れることは、大きな意義がある。残念ながら、現在の日本の学校教育では、アフリカには54を数える国家があること、そして国ごとに、また地域ごとに固有の歴史があり、独自の社会制度・慣習を育んできたこと、にもかかわらず「一つのアフリカ」が語られる歴史的背景はたしかに存在し、そのことがアフリカ各国の社会や歴史に大きな影響を及ぼしてきたこと等を学ぶ機会はごく限られている。アフリカが直面する「問題」をよりよく理解するためには、まず歴史について考える必要があり、そのことを意識づける上で、大林さんの2つの章は、本書のなかで特に重要な意味合いをもつようにみえる。
 これからアフリカについて学ぼうとしている人々、NGOの活動を通してアフリカに関わっている人々は、アフリカが直面する「問題群」を個々バラバラの「問題」ではなく「問題群」として総合的に扱おうとしている本書を通読し、「問題群」を総合的にとらえる視点に馴染んでほしい。インターネットの普及もあって、事項事典的な「問題」解説に触れる機会はたしかに増えた。そうした「問題」解説では、ともすれば「問題」は他の「問題」と短絡的に並置・比較され、そのうちのいずれの「問題」に対して優先的に取り組むべきかといった相反的・競合的なテーマとして扱われやすい。総合的に扱うためには、それだけの準備が必要であり、またそれに見合う方法も必要であって、本書は、そうしたアフリカに関わる「問題群」を総合的に捉えるための準備に資する絶好の入門書となっている。
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by africa_class | 2011-05-29 08:43 | 【記録】原稿・論文