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カテゴリ:【徒然】ドイツでの暮らし( 14 )

【確定】初の写真展@深大寺(12/24 - 28):Photographic Journey by Kai Alexander 2017

【写真展】*27日全日・28日1時まで開催

Photographic Journey

by Kai Alexander


深大寺 曼珠苑ギャラリー

日時:2017年12月24日(日)、25日(月)、26日(火)、27日(水)11時〜17時

*28日(木)11時〜13時も開催。


住所:調布市深大寺元町5-9-5(喫茶「曼珠苑」の斜め向かいにあります)

*「深大寺」から徒歩2分。「深大寺水車館」の西隣。
http://bit.ly/2nHmyLg


アクセス:
京王線つつじヶ丘よりバス:深大寺下車 
京王線調布駅乗車~「深大寺入り口」下車交差点東へわたり深大寺へ向かって徒歩1分
JR三鷹駅乗車~「深大寺入り口」下車戻るようにして交差点を左折深大寺へ向かって徒歩1分30秒


出展作品
  • Photographic Journey `vol. I "Venice" (ヴェネチア)
  • Picture Book "Colors of Autumn" (秋の色彩)
  • Posters "Garden"




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by africa_class | 2017-12-23 10:22 | 【徒然】ドイツでの暮らし

Thanksgivingに新書のスケルトンを終えて:「欲望という名の列車」から降りることについて

年内に原稿を提出しなければならない新書のスケルトンが終った。
奇しくも、Thanksgivingday(ドイツ語風に全部くっつけてみた)。欺瞞に満ちた「勝者」の歴史の語りが、今年も繰り返されようとしている最中に。

「歴史」は、後にしてきたものだと思いがちだ。
しかし、実際は違っている。
「失敗/過ちの歴史」はあっという間に忘れられるというのに、「栄光の歴史」は繰り返し、繰り返し蘇り続ける。だから、歴史家の仕事には終わりがない。

歴史は今の写し鏡であり、今歴史をどう見るかによって将来をも規定する。
2017年末の日本と米国を見ながらそんなことを思う。
とりわけ、Thanksgivingの今日、日本の政治家たちがおかしな伝統や歴史認識を持ち出してきたことを眺めながら。

私たちはあっさりと歴史を忘れるというのに、自分たちのご都合主義に彩られた歴史解釈は手放そうとはしない。
だから、「歴史」は繰り返す。

今日は、北米の先住民族の辿った歴史を、征服した側の白人が語り直す日だ。
被征服側となった先住民族の側の物語は、メインストリームの語りには決してならない。少しばかり「良識派」のメディアがこの白人の創り出した物語を批評する記事を出したとしても。歴史が全体としてどのようなものとして動いたのか、征服者と被征服者の間で本当のところは何が繰り広げられたのかの話はされない。あれから何世紀経とうとも。

今書いている本は、途中からなんだかおかしくなっていった。

最初は今風に書いた。
テキストとして。
教科書的な。

でも、ブラジルの先住民族のお母さんの叫ぶような声が、テキスト的な出来事や解説の行間や文字間から、ぬるっぬるっと顔を出し始めてしまい、もはや止めようとしたところで勝手に話し始めてしまった。だから、そのまま自由に語ってもらった。

時に、長いものを書いているとき、そういうことがある。
博論のときはそうだった。

寒い兵庫の山奥で確かに聴いたアフリカの森を急ぐ住民の声。
ざわめき。
悲鳴。
押し殺したため息。
凍らした心。

最後の一文を書き終えた後、どうしたのだろう?
無限の多様なうめき声を、耳にしながらも、ただ呆然と眺めるしかできなかった。
いや、そこから遠く離れなければと必死だったかもしれない。

弾けなかったピアノは今でも弾けない。
でも、少しずつこうやって書けるようになっているとしたら、それでよいのだと思う。

職業としてテキストを書かなければならなくなって、耳にしていたはずの「ざわめき」を封印してしまう技術を身につけなければと必死だったように思う。普通の人は違うのかもしれない。器用な人は行き来できるのかもしれない。でも、私は大方の想定と違って、とても不器用な人間なのだ。そして、おそらく必要以上に真面目すぎる。だから、その融合も、行き来も、折衷も難しかった。

もう自分のための論文は書かない。
つまり、「業績」にもう一本を加えるのための論文も本も書かない。

要らないからだ。
そのつもりで入った研究や大学の世界。
分かっていたことなのに、いつの間に絡めとられてしまっていた。

ベルトコンベアーのようにあれもこれも書いて、書いてといわれて。
書きたいと思わないことを、
私が書くのではなくてもよかったことを、
ただ書き散らしてしまった。

最初は練習だった。
必要不可欠な。
そして、今も必要ではあるのだろう。
本当は。能力不足だから。
でも、最後は苦痛で仕方がなかった。
魂がそこにないままだったから。
いただいたお題、そのストーリーに魂を見出せなかったから。

いちいち論文に魂なんて込めなくていいよ。
私も他人にはそういっていたかもしれない。
でないと終らないから。
終らないと皆困るから。

でも、やはり人生は一度きりだと思う。
魂を込めるものと向き合える時間が、あとどれぐらいあるのか分からない。

小さな声がつぶやく。
モウ ナニモイラナイ。

大きな声でいってみる。
モウ ナニモイラナイ。


その途端に、書きたいことが山のように溢れるのだから、自分のあまのじゃくぶりに驚いてしまう。

大学2年生のとき、北東部ブラジルの干ばつに翻弄される家族の過酷な物語を読んだ。
Vidas Secas(干ばつ暮らし/乾いた生活/グラシリアーノ・ラモス、1938年)
ポルトガル語の購読の授業の教材だったので、かなりイヤイヤ読んだ記憶がある。まさか十数年後に自分が同じようなことを若者に押し付ける側になるとは・・・思っても見なかった20歳のときのこと。

まだ辞書片手に(しかもポルトガル語・英語辞書しかなかった時代)、遅々として進まない翻訳(というか想像の何か)。でも、小説から漂う過酷な自然との闘いを繰り広げる人間のチッポケさ、なんといっても喉の乾き、皮膚の乾き、暑さ・・・そういったものが言語の違いを超えて迫ってきたのを昨日のことのように思い出せるのは不思議だ。使われていた単語、表現、文章は一切思い出さないというのに。

今日、新書のスケルトンを書きながら、私の脳裏にあった情景はそれだった。
ブラジル北東部、セラード地域の広大なる大豆畑のただ中を、ひたすら車を走らせたときに触れたあの乾いた空気。灼熱の太陽。

と同時に、目をつぶると、次の瞬間、赤茶けた道から離れて、奇妙な形をした木々の間をいくと、湿った空気が鼻の中をくすぐるのが感じられる。あの乾燥した空気から一瞬にして隔離されたかの。砂漠を歩いて歩いてオアシスに到着した瞬間の、あの感じ。砂漠をそこまで歩いたことないのに。セラードの森だ。

森の中を歩きながら、子どもたちがどの果物がどう美味しいのか一生懸命話してくれる。
突然、森の中にバレーボールのポールとネット。
なぜか恥ずかしそうに年長の子がいう。
「神父さんの提案で」
「あ、そうなんだ。確かに横にチャペルがあるね」
手作りの、柱が8本にヤシの葉っぱで編んだ屋根の簡易チャペル。その前には十字架がある。
もぞもぞ年長さんがする。

同行していた若い男性が口を開く。
「土地を奪いにいきたビジネスの奴らからコミュニティを守る為にです」
「え?」
「ここをコミュニティが大切に使って活用しているということを見せることで、一方的にブルトーザーで壊しにくくしています」

こののどかに見える森の中にも危険が迫っていた。
「若い男達がいないのに気づきましたか?」
「確かに」
「ビジネスの奴らが雇ったギャングに脅されてみな出て行かざるを得なかったんです」
「あなたは?」
「コミュニティを守るために残っています」
「だいじょうぶ?」
「毎晩寝るところは変えてます。雇われているギャングは隣町の若者たちです。カネが皆の心を狂わせてるんです」

Vida Secaとは180度異なる豊かな緑の木陰で、彼はささやくように話す。
川沿いの森の民に見送られて向かった先は、隣州の先住民族の会議であった。

果てしなく続く赤茶けた大地。
延々と続くむき出しの。
喉の乾きが辛い。
バスが止まるたびに水を買う。

先住民族会議には200人を超える周辺地域の先住民族が集っていた。
4日間毎日会議だ。
大学キャンパスに野営をし、野外テントで議論をする。
キャンパスの庭でたき火をしながら調理をしている様は「さすがブラジル」としかいいようがない。
主催者いわく。
「なんで?公共の場だから公共の目的のために使えばいいだけ」

朝から晩まで、先住民族の老若男女がマイクをもって、時にもたないまま話を続ける。

汚染された水を飲み、自分より若い人達が癌で次々亡くなっていくと訴えるおばあちゃんたち。

清廉なる水は命の源だった。
それが今人びとの命を奪う汚れたものになっていると。
森と暮らしを守らんと立ち上がった男たちが、
手足を切り取られた姿で川に投げ捨てられていると。

小さな小さなしなびたおばあちゃんが、杖で地面をつつきながら叫ぶ。
「ついに白人たちは植民地支配を完成させようとしているのだ」
足踏みをしながら。
「森を殺すことで、私たちを殺そうとしている」
ドンドン。
「水を汚すことで、私たちを殺そうとしている」
地鳴りがする。
「私たちの勇敢なる息子たちを八つ裂きにして、先住民族を根こそぎ終らせようとしている」
低いうねりのような声がする。
「おのおばあが命をかけて、あんたらから森と水と息子を守る。弓矢に毒を盛って」
足踏みが止まらない。地響きのような。

このおばあちゃん独りではなかった。
女性たちが語る悲劇と決意は、議事進行役の年配の男性たちを困らせるほどの勢いだった。

女性たちの前に無言で並ぶ政府の役人や学者たちは、皆色が白い。
南部やサンパウロの訛で話している。

先住民族担当官に女性が詰め寄る。
「あんたたちを信頼した私たちが間違いだった」
「あんたたちがやったのはなんだったのか?」
「就任してから、一度だって私たちのコミュニティにきやしない。私たちのリアリティを知ろうともしない。」
「忙しい、忙しいって、何をやってるかと思ったら・・・
あの業者とご飯を食べることじゃないか!私たちを殺しにくるあいつらと」

会場となった野外のテントには風がびゅうびゅう吹き荒れる。
森を失ったこの地では、どんな風も容赦なく打ち付けるのだ。
おばあちゃんによると「自然の叫び」なのだそうだ。
自然の叫びは止まる事を知らない。
もう誰も自然の叫びを止められないところまできてしまった。

「欲望という名の止まらぬ列車」に、私たちは乗り合わせている。
ただし、その「欲望」は1%の人びとのものである。
それ以外は今日・明日の命をかけてその列車に振り回されんとしている。

この列車に乗りたくないといっても、列車は道行く先々のすべてのものを根こそぎ網にかけて引きずり続ける。

私たちはどうやったらこの列車を止めることができるのだろうか?
もう止められないのだろうか?
止めることで、別の何かが引き起こされるのだろうか?

だとしても。
たった一個のカタマリにすぎない私が応答する。
まずは降りてみること。
たった一人にすぎないとしても。

木々のところにいく。
迷ったときはいつもそうするように。


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by africa_class | 2017-11-24 08:10 | 【徒然】ドイツでの暮らし

ゴビンダさんのマリーゴールドが思い出させてくれたこと:春がいつか必ず訪れることを信じて

寒いです。雨は降っていないのだけれど、毎朝霜が降りているため、ついに畑の周りを彩っていたマリーゴールドが凍ってしまいました。

嫌なことを思い出してしまったので、今日は畑と森の中でせっせと冬支度をしていたところです。そのとき、凍ったマリーゴールドをどうしようかと思って(種を採ろうと思ってたのに間に合わなかった)、ふと「ゴビンダさん」のことを思い出しました。

東電OL事件で、えん罪によって15年間も刑務所に入れられていたネパールのゴビンダ・プラサド・マイナリさん(51)。再審無罪確定後、初めてネパールから来日し胸中を語ったインタビュー記事が、上記のHuffpostに掲載されました。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/11/12/touden-ol-15years_a_23274952/

記事の抜粋です。

「当時のことを話し始めると、マイナリさんは目を真っ赤にした。計15年間、身柄を拘束された拘置所や刑務所で、精神安定剤や睡眠薬を手放せなくなった。支えは「自分はやっていない」という思い。面会の支援者や弁護士、家族から届く手紙にも励まされた。

 小さなことに心の安らぎを見いだした。拘置所の窓から聞こえたハトのつがいの甘い鳴き声が愛のささやきのように感じられ、妻を思った。刑務所では、運動に出るグラウンドで、マリーゴールドの花が咲いているのを見つけ、看守に見つからないように1輪摘んだ。ポケットの中に隠して房に持ち帰った。マリーゴールドはネパールの祭りで首飾りをつくる花。房の中でこっそり香りをかぎ、ひとり故郷のことを思った。」


私も子どもの時、辛いとき、野の花、あぜ道の草に癒されました。

その匂いを嗅ぎ、虫を眺め、花びらや葉っぱの様子を眺めているうちに、すーーっと嫌な気持ちが和らいでいくのを感じました。頭上に飛ぶ鳥を見ては、鳥はいいな、自由にどこにでも行けて…と羨ましく思っていました。


決して自由がなかったわけではないのです。時間も与えられていたし、物質面では不自由がなく、他人から見ると羨ましい環境にいたと思うのです。けれども、日常的な暴力と権利侵害の現場に、行く所をもたない形でいるしかなかった子どもにとって、申し訳ないけれど、家は刑務所のような空間としか思えなかった。


私が、小学校にあがるまで、家の中でほとんど言葉を発しなかったのは、そういう理由だったのですが、なんからの障害か病気だといって親がいたく心配して先生たちに相談していたことを、後になって知ったときには、唖然としたものでした。つまり、そんなに理解されていないんだと。幼稚園のときから、誕生日もクリスマスもプレゼントは要らないからお金を頂戴といって家出のためのお金を貯めていたことも、家出セットを押し入れに隠していたことも、家族に話せたのは随分後のことでした。


親は親なりに頑張っていたと思うけれど、私が感じていた現実はそういうものでした。


その後、突然家族が崩壊してしまって、ポカーンと自由な空間が出来たので、もはや家出の必要はなくなったのだけれど、それまではちょこちょこと近場で家出をしたり(誰も気づかず)、祖父母のところに逃れたり(親には遊びに行くと)をしていました。最終的には、せっかく19歳で本格的に家を出て、新しい生活を始めたというのに、またしても、しかし今度は自分の選択によって、自由な空間を失ってしまったことに、後悔し続けた二十数年でした。


チェーン(鎖)を断ち切るということは、なんと難しいことなのだろう?

自分の中の弱さに何度も打ちのめされ続けたこれまででした。


今、このことを、すべてではないものの、ある程度笑いながら家族とできるようになったことを、嬉しく思います。いろいろあったけれども、それもすべて何らかのgift(ギフト)だったのだと、今では思えることが多くなりました。


マリーゴールドを見ながら、そんなことをつらつら思い出し、考えたのでした。

自然の中にいると、本当に色々なことが頭に訪れます。

ただ手を動かしているだけだというのに、流れるように想いやコドバや考えが訪れては消えていく。


雲のように。

風が強いときは、早く流れる。

風が弱いときは、ゆっくりと。

自然に翻弄されながら、身体も思考もゆらゆら揺れる様を、真冬の寒さの中ですら感じることができて、ただただ大声で感謝したくなります。


ゴビンダさんのようにいわれのない罪の責任を負わされて15年間も牢屋に閉じ込められていたとすれば、どんなに辛いことでしょうか。選択肢がなかったとはいえ、よく我慢できたなと本当に思います。


私だったら…。

胸に迫る苦しさを開放するため、凍ったマリーゴールドのもっていたはずの香りを求めて手のひらに花びらをおいて匂いを嗅いでみたのでした。


かすかに残るマリーゴールドの香り。

甘いような、不思議な香り。


この記事を読むまで、マリーゴールドがネパールのお祭りで使われる聖なる花だと知らなかったです。


マリーゴールドというか、タゲッテ(Tagetes)として知られている。

畑のお友達。


センチュウよけになるので、大根や人参などの横に植えます。

また、アブラムシよけになり、植物を元気にしてくれるので、畑のあちこちに植えているのですが、おいしいようでナメクジ様の大好物。油断すると全部食べられるので、大きくなってから移植しなければならなず手間がかかります。


子どもの頃のことを思い出すのは骨の折れる仕事。
今日はもう十分してしまったので、前に進みましょう。
幸い温室のマリーゴールドは生き延びているので、花びらを一片拝借して、枕元に置こうと思います。写真は温室(といっても何もヒーティングはないのですが)の中のトマトと一緒に植えているマリーゴールド。

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凍ってしまったマリーゴールド。。。

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そんな寒さでも、ドイツ生まれのふだん層は2年目の冬になるのに、こんなにがんばっている。すでに沢山の種も採らせてくれ、その横から出てきた脇目から、さらに新しい芽がドンドン出てきているという健気さ。負けてられないね。

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どんなに寒い夜も冬も、ただ生き延びることが、いつかの春につながると、実感を込めて思います。

春は遠いかもしれない。
でも、かならずくる。

もし、かつての私のように閉塞感ただよう辛い状況にいる人がいれば、いつか春がくることを信じて生き延びてほしい…ただただそう思います。

4歳のとき、真っ黒な日本海の水を眺めていた私のところに、ふと訪れた「何か」もそんな一言だったのかもしれないと、あり得ないものの、そう思うときがあります。自分の中の命の輝きを、そっと抱きしめてみてください。




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by africa_class | 2017-11-15 02:25 | 【徒然】ドイツでの暮らし

解禁:自家製ヴァン・ナトゥール2017(自然派ワイン)

ワインを作るようになって3年目の冬がやってきた。
日本とドイツとその他の地域を行ったり来たりの数年なのだけれど、秋から冬にかけてのこの時期は、収穫期であることもあるし、クリスマス前ということで、ドイツに滞在することが多い。本当は、ドイツは5-6月が一番最高だということを、皆に伝えておきたいところだけれど、その話はまた今度。

この家に越してきたとき、勝手口に伸び放題のブドウの老木があって、風情はあるものの、剪定めんどくさそうだと思った自分を恥ずかしく思う。しかも、駐車場のジャリの一角に、申し訳程度に囲われた花壇から伸びている一本の老木。

肥料も水もなーんにもあげないままに最初の秋が過ぎた。
そして、大量になるブドウを眺めつつも、あの時は病気すぎてブドウを収穫しようという発想すら起こらず、家族が「ブドウがやばい。大量になってる」といっても、「鳥さんたちにあげればいい。いつも人間が食べなければと思う発想が間違っている」などと高尚なことを言い放っていた。ベットから…。

2年目の秋に、元学生たちがお手伝いにきてくれたので、「そうだワインを作ればいい」と思い付いた。ブドウを収穫してもらって、ひたすらブドウの実と枝を分けて、ボウルの中にぶち込む。そして、ブドウを素手で潰し、砂糖を入れて軽く蓋を閉める。

どぶろくづくりで培ったノウハウと『現代農業』の投稿記事を頼りに、見よう見ねで作ってみたのだけれど、なんか上手くいかない。やっぱり細部は自分の経験で培っていかなければならないのだと納得し、砂糖の配分、ぶどうの甘さ、混ぜる回数、室温などをボウルごとに変え、さらにボトルごとにラベリングして、味見をしてはノートに記すの繰り返しをした。

病気のわりに頑張ったが、そのうち面倒になってしまって、3年もののワインボトルが何個もリビングに貯蔵されたままの状態にある。

毎朝アルコール度をあげていくワインを味見するのは、そのうち辛くなって、じゃあ夜やればいいのに…夕方以降は病気のせいか起き上がれない傾向があって、味見もそのうちしなくなった。ノートも今となってはどこにいったのだろうか…という雑さ加減が、初年度の前半だった。

しかし。
恐るべし当時14歳が、母の情熱が萎え、すべてを放置していることに心を痛めたのか何なのか、ネット先生を通じてお勉強の上、こうのたまった。

「ママさあ、砂糖あかんっていつもいってたやん?」

ここはドイツ。
育ちは東京。
でも、我が家の共通語は関西弁だ。

「えっと・・・そうだけど・・・」

動揺する私。
子どもの矛盾を鋭くつくときの勝ち誇った表情、イキイキとした視線は、病気のときは辛い。

「だいじょうぶ。ママ」

勇気づけるような笑顔で語る彼。
丸顔だったはずなのに、いつの間にか父親に似て・・・

卵だ。

「砂糖入れなくてもちゃーんと発酵するんだって」
「するの?」
「するんだけど、その場合、完熟のあまいブドウじゃないといけないって」
「あまいよ、ブドウ」
「いや、ママは早く取りすぎたんだよ。もっと黒くなってから取らないと」
「黒いよ?」
「ママーーー、だいじょうぶだよ」

そうだった。
闘病中の私に、誰が教えたわけでもないのに、彼はいつもいつも同じ台詞を私にかけ続けてくれたのだった。その一言がどれほど私を救っていたのか、今になってぼんやりとしてきているのだけれど、決して忘れないために書いておかなければならない。

何年も「ママ、だいじょうぶだよ」を繰り返してくれた12-15歳までの息子よ、母は君の優しさを一生忘れないよ。そして、その間、君がすべてのことを我慢して、耐えてくれたことに、心から感謝したい。あの時、君は父親といつも衝突してて、窓ガラスがいっぱい割れたのだけど(内緒ね)、それは私にぶつけられない想いを、そんな風に解放せざるを得なかったということを、母は分かっていた。でも、どうすることもできなかった。情けなかったね・・・。親として。

話はワインだった。
ということで、14歳のワインを作ってもらうことにした。
そしてまたしても、ネット先生は、正しいということを私たちに証明してくれることになる。

私の収穫より1ヶ月も遅く収穫した彼のブドウは丸々と太り、真っ黒に光り輝いている。
「ママ、このブドウ食べれるよ。すごく甘い」
ワインの源としか考えてなかったために、一切果物としての価値を認めなかった私にとって、その一粒はやや勇気がいるものだった。でも、確かにびっくりするぐらい美味しく、普通に日本で買っていたような果物の味だったのだ。

そしてワインが飲めない彼は、せっせと私を呼んでは味見をさせ、砂糖なしでワインが出来ることを証明してくれた。そして、白ワインと赤ワインを完成させた。彼の言ったとおり、私のワインより美味しかった。

翌年から、私はビン詰めをやめて、味噌の壷を使って、砂糖なし+完熟ブドウでワインが出来ることを確認し、とにかく出来立て1週間ぐらいのものを愉しむことに戦略を切り替えた。なぜなら、しっかりとした味のオーガニック・ワイン(ヴァン・ナトゥール)が400円ぐらいで買えるヨーロッパにあって、あえて自家製で楽しみたいとしたら、発酵中のものだよねという結論に行き着いたから。

ただし、味噌樽、ボウルを総動員して作ってそのまま放置してしまって、お酢になってしまったり、酵素になってしまったものもある。お酢は調理に使い、やや出来の悪いやつは畑の活性剤に使い、酵素になったやつはどうしようかと迷って1年が経過してしまった。

で、今年は庭の木々に色々な病気が発生して、ブドウの葉っぱにもうつったのだけれど、今迄にないぐらいの量のブドウがなるわなるわ。。。確かに春先に米のとぎ汁を豆乳パックで育てた乳酸菌をあげたのだけれど、それ以外はしていない。とにかく誇張なしで100キロ以上はできているので、いま3度に分けてワインにしているところ。

で、1度目のワインが丁度できたところなので、解禁してみた。
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これは未だ発酵中(ブドウの皮も種もはいったまま)のもので、仕込んで1週間目のものの上澄みを掬ってグラスに。奥に見えているものは、息子が14歳のときに作ってくれた買い物かご(地域の伝統的工芸品)とモザンビークの農民にもらった豆を今日収穫したままに。なんで籠おいたかというと、その裏に、ツレの私物がてんこ盛りできれいじゃなかったので。

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底からかき混ぜて10分置くと、発酵が進んで泡あわが出てくる。
これが一番おいしいのです。
無濾過ワイン。
これが飲みたくて、ワインを作ってるようなもの。

あまりに美味しいのでもう3杯も飲んでしまって、仕事がまったく捗らない。
本当は、ブドウの木の写真など紹介しようと思っていたけれど、それはまた今度。

そして、ワインづくりのコツもいつかのせますね。
でも、気が向いたらブログなので…そこはすみません。
誰も教えてくれなかったけど、重要なのは、白くしぼんだ実と小さな枝を一緒に入れることです。

テーブルは、息子が15歳のときに作ってくれたオークの木のワインボトルかけ。実はこれが私の仕事机なのです。この机の下にバスクで買ったイランの手作りカーペットがあり、その上にマサイの毛布があって、その毛布の上で、ネコのお母さんであるニャーゴ様が横になっているわけです。

しかし、遅いな、17歳の調理人。。。あとは、17歳のメインディッシュだけなのです。

今日は自動車学校の日。
いつか、彼の運転する車に乗せてもらえる日がくるのかなと思ってたけど、もう目前。それも不思議です。

すでに、チキンの骨+庭のハーブ・スープと玄米は炊けており、畑の野菜もとってきた。薪ストーブだと、鍋に材料を入れてストーブトップに載せておくだけで、調理をしているという感じではなく、1分クッキングなのです。私から薪ストーブを取り上げたら、もはや調理できないかもしれない。

そうだ。御犬様のお墓にお供えをしてきました。
週末に遊びにきてくれる元ゼミ生のあなたが、気になってるといっていたので写真のせておくね。
自家製ワインとお墓があなたのお越しを待っております。
(息子から質問。「また、シャケとかカニとか背負ってくるの?」)

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あ、もどってきた。では、また。



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by africa_class | 2017-11-14 04:40 | 【徒然】ドイツでの暮らし

こっそり共有:17歳の料理(その1)

今日、日本に暮らしていたときの近所のご夫婦が、はるばる遊びに来られた。亡くなった御犬様のお骨とともに。。。

御犬様は、ドイツの出身なので、ドイツの土に還りたいだろうということで、お骨はいま、リンゴの木の下に丁重に埋まっている。

そこには、ウサギのルル様や、交通事故で轢かれていたハリネズミ2匹、ネコどもにやられたネズミ様や、モグラ様もいらっしゃって、寂しくはなかろうと思うものの、果たしてお犬様は本当にドイツに戻ってきたかったのか、どうかについて考えあぐねている。

分骨なのでいいのだが、見ず知らずの私たちやその他の動物様たちとのいきなりの遭遇である。嫌な想いをしないでもらえるよう、お花がない季節なので、ドングリと松ぼっくりを、明日お供えしようと思っている。

息子は7年ぐらい会っていないこともあり、いきなり「おっさん」が出てきたので、たいそう驚かれたが、月日が経つのはなんと早いことだろうかと改めて思った瞬間だった。

しかし、一番驚かれたのは見かけではなかった。
17歳の彼が毎日、夕食と自分の翌日のお弁当を作っていると知って、唖然とされた。日本のお母さんたちにとって、「お弁当はお母さんが作るもの」のようだ。

スミマセン・・・。
誰に謝ってるのか分からないが、とにかく謝っておいた。

ドイツの小さなこの空間に突然日本がきたので、とりあえず日本式をやっておいて外れはない・・・カナ?日本にいても日本の人らしくない私だから、どうせやってみても付け焼き刃だが。もちろん、息子は、それを見逃さない。非常に怪訝な顔をして私をみるので、急いで付け加えた。

「昨日のご飯の写真を見せてみたら!」
気まずい時にはスマホがある。
これは万国共通。
どうよ、と思いはするが。

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17歳による「ヤキトリご飯2017 Nov 12 1st dish」
・カヤクご飯(サバの薫製+人参+白ネギ+高野豆腐+椎茸)
・焼き鳥
・サツマイモのフライ
・庭の野菜
・椎茸の串焼き(肉を食べない私用)

もちろん、盛りつけも自分。
立体的に見せることを最大限に。

でも、これで終っておらず、これもついてきた。

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17歳による「ヤキトリご飯2017 Nov 12 2nd dish」
・ジャガイモ&チーズのオーブン焼き(トッピングはザクロ)

で、これで終わりではなかった。
なぜなら、母は肉を食べないから…。

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17歳による「ヤキトリご飯2017 Nov 12 3rd dish」
・ワイルドサーモンとリネンシードパウダーの「つくね」
<=これに、母が作った味噌汁がついてる。

いや、私はサバの薫製でいいといったのだけれど、とにかく「つくね風」に作るのをマスターしたいということで、おまかせしたところ、これが出てきたのが、夜11時20分のことであった。

そして、ドイツでは直接照明は少ない。間接照明が普通。しかし、夜ご飯ともなればキャンドルライトが普通。とくに、冬のこの時期は。なので、、、闇鍋のような薄暗さで見えないかもだけれど。

しかし、せっかくの土曜日の夜を情熱をもって注いでできたものを、私たちはただ胃袋に収めてしまって、なんとも申し訳ないやら有り難いやら。

あまりに嬉しいので、褒めて褒めて褒めちぎって、それでも足りないからむぎゅっとしようとすると、さすがに17歳に毛嫌いされてしまった。

さて、元ご近所さんご夫婦から聞かれた。
「息子はご飯作らないし、作っても自分の分だけ。どうしたらこういう息子になるのかしら?」
ちなみに息子さんは30代。
時々こういう質問がくるのだけど、いつも答えに戸惑う。
一応、いつもの説明をする。
つまり、

1)2歳でMy包丁をプレゼント
2)台所はオープンキッチンで、料理はいつも一緒にしていた
3)どんなに散らかしても怒らず、なるべく独りでできるように手順を一通り一緒にした
4)原材料を一緒に確認し、入手するところから重視した
5)味噌づくりも、「母は力がないから出来ない」なとど言って、彼に踏んでもらったり、潰してもらう「担当」を任せてきた
6)安全に料理ができるようになると、一品から任せた

あとは、言わなかったけど、これも重要だったかもしれない
7)冷蔵庫の中身から「何か」をひねり出す作業を一緒にできるときはした
8)買い物から一緒に参加してもらって、食材から料理を想像する作業を一緒にやって、それを料理に反映させるようにした

そして、私が料理本やクックパッドをみて調理をしないことも重要なポイントなのかもしれない。

すると、即座に聞かれたことがあった。
「いつも褒めてた?褒めて育てた?」

そう。ばっちり褒めてた。
自分でやるときはいつも褒めてたけど。
でも、後片付けができない。
だから、「その時その瞬間」ではなく、後で改めて「後片付けまで入れて料理だね」ということをさらりといってたら、そのうち、自分で工夫して後片付けしやすいようなボウル遣いなどもするようになった。

と説明すると、やっぱり褒めて育てるのって重要だよね、という話になった。
ちなみに、3人のお子さんは皆さん立派に育ってらっしゃるので、別に何か心配があるわけではなさそう。ただキッチンを任せられないのが哀しいのだそうだ。

いや、そこにはコツが。
つまり、「任せられる」のは、誰だってイヤ。
義務っぽくなるのは、母だって。
だから、「自分からしたくなる」ような環境づくりにMAXの力を注げばいいのである。

つまり?

・母や父が頑張りすぎない。
・部分的にでも、一緒にやりつつ、その部分の彼らの工夫を褒める
・彼らのタッチが料理を変えるんだという実感を感じてもらう
・そのためには、りょうりにるーるを設けない
・むしろ毎日が実験!・・・創意工夫ありのアートなんだ!
ぐらいの勢いでやる
・成果物を振り返ってニンマリできるように写真化する
・彼らの頑張りを世間に発信する
<=イマココ

といっても、17歳は別にもうそんなこといわなくても、勝手に展開しているので、彼が食にどうして拘るようになったのかの話のほうが実は彼のモチベーション的には重要なのだが、それはまた今度。

頭出ししておくと、
「ケンコウ」「カンキョウ」「チャリーン」の三点。
おそるべし17歳。

とはいえ、部屋の掃除はからっきしダメ。
荷造りもダメ。
忘れ物多し。
この間日本に戻る時、荷造りしたバックを一つ忘れたまま旅立ってしまった。
故に着替えがなくて困った、コマッタ。
そういうときだけ子どものフリをするのも、どうかと思うが。

さて。
客人が帰った後も彼のQuestは続いた。
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17歳の「日曜サラダランチ2017」 Nov. 13 1st dish
・ザワークラウト+玉ねぎスライス+庭野菜+サバの薫製+酢漬けサーディンのサラダ

サワークラウトは私が庭のキャベツ(2期目)を10月頭に浸けておいたもの。なんかそれを使ってやりたいといっていたので、ただタッパーを渡したら、こうなって出てきた。

二品目は昨夜のツクネ。
そういえば、ツクネやフィッシュケーキは、彼が毎日のようにあれやこれやで工夫している。
舞台裏もお見せしてしまおう。
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これも、リネンシードの粉とワイルドサーモンを団子にしている。
味付けはカレー風味。
といっても所謂カレー粉を使うわけではない。
自分でスパイスを調合してる(が再現不可能らしい)。



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17歳のある時の夕食2017 Nov.
・リネンシード&ワイルドサーモンのフィッシュケーキ
・サツマイモと人参と大根の茹でたもの
・庭の野菜

写真が全体的にぼやけててすみません。
このように日々がんばる17歳でした。

下でお料理の音がするのを聞きながらこっそり書いたブログ。
彼に言わないでね。

なお、うちでヤキトリが可能なのは、薪ストーブですべてクッキングしているからです。

あ、下のは庭の野菜と鱈と卵とサツマイモで作った「私風ポルトガル料理」です。
これは本当はジャガイモで作るものなのですが、息子の依頼によりサツマイモで作ってみたら、こちらの方が断然美味しいです。お試しあれ。

赤と黄色のトマトは9月末に緑のものを収穫して、段ボール+バナナで完熟させたもの。
1.5ヶ月忘れていたので、しなびてしまいましたが、美味でした。
黄色のトマトはかなり立派に出来たので、種を採っておきました。

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Bom apetite !




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by africa_class | 2017-11-13 04:37 | 【徒然】ドイツでの暮らし

最も脆弱な生き物ヒトが君臨する世界で、キャベツの黄色い葉っぱを拾い想う。

畑でキャベツの悪くなった外葉を拾って、ふと思った。
ヒトは病気になった部位を自ら枯らして落として、再生することはできない。
植物やカメレオンや魚や、その他の生き物みたいには、と。

育てるまで知らなかったのだが、キャベツは尋常ではないぐらいに強い。
去年の収穫後のカブをそのままにしたら、徐々にではあるが、順々に次のキャベツを生み続けている。それだけでも、見ててすごいなーと感動もの。

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だけど、キャベツが、今年大量にお出ましになったナメ様が元気な時期に喰い散らかしてた葉っぱを、黄色く干涸びさせて、ポローンと地面に落とし、本体を蘇らせていくのを目の当たりにさせられると、生命力というのはこういうことだなと実感せざるを得ない。

落ちた葉っぱが見事に黄色くしなびてて、それも凄い。

と思って見上げたら、そうだ。
落ち葉もそういうことだったね。

寒い冬の間、無駄な力を使わず、エネルギーをしっかり蓄えるために、葉っぱが自らの意志のように落ちて行く。
まるで、そのことによって母なる幹を守ろうとするかのように。

そして落ち葉は美しいのだけれど、見事に枯れている。
雨の多いこの地域では、枯れるというのもまた技術のいること。
毎日しとしと雨がふるのに、すべての落ち葉はやっぱり枯れている。

すべて当たり前のことなんだろうけれど、ただただ感心してしまう。
うまくできてることに。
自然の摂理に。

人間も自然と生き物の一部だというのに、そんな芸当はできない。
そんな風に制度設計されていない。
いや、皺がいくというのは、そういうことか。
それはそれで納得だ。
若い頃は瑞々しい細胞から、徐々に水分を取り去っていって、「枯らす」のだ。
やはり土に還っていくプロセスの一環として。
自分を見ながら、そんなことを考える。

でも、やはりキャベツを見ながら、それでも・・・キャベツや植物は別格だと思う。
とても追いつくことはできない。
生き物として。

悪くなったところを枯らして落とし、再生に力を集中させるような仕組みを、人間の細胞も日々・24時間、一瞬一秒やってはいるわけだけれど、目に見えるほどの力でではない。

そもそも、このヒトは、服や住居なしでは寒い冬を生き延びられない。
あらゆる意味で、自然の中で生き延びるには、悪い条件を抱えた生き物だ。

ただ一点を除き。
知性だ。

道具を生み出し、集団で助け合うことで、悪い条件を補うだけの知性を持っている動物。
もちろん、進化のプロセスでそうなったわけだけれど。
脳は「進化」した。
しかし、類人猿になって以降、身体はそれほど大きくは変わっていない。
つまり、依然として脆弱性を抱えて、生きざるを得ない生き物のままだ。
色々な生き物の皆さんの支えを得ながら。

そう、このキャベツがそうしてくれているように。

キャベツ(ザワークラウト)はドイツでは人びとのソールフードだ。
だから、ドイツで手に入れた種子はすばらしい生命力で溢れている。

日本でザワークラウトもドキが流行っているという。
身体によいと。

そう、キャベツは身体にいい。
だから食べる。
私達ヒトの身体に取り込ませていただくのだ。
キャベツの生命力を。

そうやって、私達の身体はつくられ、維持されている。
キャベツだけではない。あれも、これも。
それぞれの生き物が、それぞれなりのレジリエンスを駆使しながら、生命を生み、育て、発展させている中で、ヒトはその一番いい時期にいい場所だけいただいているのである。

私達は、悪い条件を抱えて生きざるを得ない生物だ。
深刻な限界を抱えている。
でも、だからこそ他の生き物に頼らざるを得ない生き物でもある。
多種多様の。

それぞれが内に秘めたエネルギーや工夫や生命力を、ある瞬間に奪っている。
多くの場合暴力的に。
そして、今となっては、無駄に奪っている。あるいは、ヒト様の都合にあわせて改変し続けている。その土地の自然にあわせて自ら変わっていく力を本来もっているというのに。

自らの弱さを抱きしめることなく、他の生命からの恵みに感謝を忘れ、自己都合で、奪うことにしか余念がない。

量が足りないからと行われる自然への大規模介入は、あるものを生き延びさせる一方で、他の多くを犠牲にする。その結果、他との関係で生命力を維持していた生き物が、人間と瓜二つの脆弱性を内包していく。

弱々しく多くのヒトの都合(科学的なもの)が込められた「野菜」や肉を、私達の胃袋に入れ、身体の一部とし、満足しているわけだが、実のところ、私達の生命力をさらに脆弱化している現実には気づこうとしない。

結果、弱った私達が助けを求めるのは、もちつもたれつでやってきたはずの生き物の仲間たちではない。
その仲間たちの生命力の一部だけを刈り取って、応用した「医療」であった。
その「医療」もしかし、ヒトに永遠の命は授けられない。

そうやって、生物界最強の知性をもったヒトのお陰で、それが包含する脆弱性が他の生き物に転嫁されていっている。
そして、今、私達の惑星・地球は、もう後戻りできないところまできてしまった。
自分たちの脆弱性を理由に、しかし素晴らしい知性を授かったことを、自分を含む自然のすべてのために生かそうと思いもせず。

私達は強欲で傲慢だ。
そして、私達が創り出した世界は、止まらない脆弱性のサイクルに入っている。
このソリューションは、さらなる「科学」だという。
宇宙だというヒトもいる。


辺りはもうとっぷり暗い。
キャベツの黄色い葉っぱの束を、落ち葉とともに森の中に運びながら、ふと地面をみる。
薄く白い何かがあっちこっちに点のようにあって、1秒おきに光り輝く。
ホタルのメスだ。

ホタルのメスは飛べないそうだ。
もはや寒さのために生き残っていないオスに、ここにいるよと伝えているのだという。

暗がりの中で、森の土の芳醇なる香りを嗅ぎながら、先は長くはないであろうホタルのメスの命の輝きを見つめながら、ただどめどもなく流れる涙を、どうすることもできなかった。

私達は弱き生き物だ。
だから、他のいろいろな生き物の助けを借りずにはやっていけない。
そのことを、どこまで本当の意味で、理解してきただろうか?

キャベツの葉っぱに教えられたある秋の日のことであった。

(2週間前に書こうと思ったこと)







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by africa_class | 2017-11-04 06:09 | 【徒然】ドイツでの暮らし

薪クッキングストーブと木工作品:森の木々への母と息子のパッションから

恵みの雨がしとしと。
サッカーを2日1度するTeen男子の家庭としては、晴天でないのは悲しいものだが、緑がシャキッと蘇っていくのを見るのは愉しい。昨日はこの1週間毎日しなければ…と思いながらまたしても寝込んでいたため出来なかった冬野菜の種まきをようやくした。久しぶりの雨に濡れた土の匂いは、素晴らしく心を落ち着かせてくれる。よく出来たもので、クローバーがこんもり茂っている土ほど良い香り。自然農法でよく使われるクローバーだが、マメ科故に根粒菌が窒素を固定してくれ、土壌が豊かになる。クローバーではないものの、似た葉っぱ(しかし黄色い花)をつける草があるところも同じ。これなんだろう…。

一つひとつ、すべてが勉強の毎日だ。
春も夏も1年に1度しか来ないものだから、後元気なうちに何度の春と夏を経験できるのだろう…と考えると、過ぎてしまった何度かの春と夏が切ないぐらいに愛おしい。もっと大切に、充実した春や夏を過ごせばよかった。あれも作ってみればよかった…などと考え始めるのはよそう。

はかなくも、たくましい命を今日もいただきながら、そんなことを思う。

普段は所謂「雑草」も抜き取るまではしないために、またザーサイでもレタスでも丸ごととるなんてしないために、「命を奪った」感は少ないのだが、丸ごと使うタンポポだけは、「奪った」感が拭えない。勿論、そこかしこに広がっているから「足りない」感はまったくないのだが。

そういえば、息子は家で食べる自家製レタスやキャベツとスーパーで見るそれらが同じものだと長い間思わなかったらしい。というのは、自家製のものは、丸ごととって食べたりしない。いくつかのものの外側の葉っぱを少しずつ少しずつ収穫して食べるために、お互いをリンクさせることができなかったのだ。「冷凍カット野菜」が袋に入った状態しかみたことのないアメリカの少女が、ドイツで丸ごとあったニンジンを見て驚いたように…。

自給自足をすると、同じ時期に同じ種類の作物を作ることの無駄、丸々収穫してしまうことの問題に直面する。モザンビーク北部のお母さんたちは、品種を使い分けて収穫時期をずらしているのに納得する。勿論、我々には冷凍庫と冷蔵庫、オイルにビネガーに砂糖という保存に使えるものが身近にある。でも、そんなに何でも一気にできると困ってしまう。

去年、3本の木に洋梨が2百個もなって、本当に困った。
洋梨のコンポート、洋梨のタルト、洋梨のジャム、洋梨のビューレ…あらゆるもので保存を試み、最後は地下室に貯蔵してみたが、1ヶ月もたなかった。あれは悔しかった。が、最後は洋梨のカレーを作ったのだが、これがウソみたいに化けてくれて、何も言わなかったら、「水っぽいジャガイモかウリ?」な感じ。カレーにリンゴを入れるというところから発想したのだけれど、「ものは試し」だと実感したところ。リンゴよりも洋梨の方が断然美味しかった。日本では超高級品の洋梨。しかも、日本の洋梨には農薬がついてることが多いが、完全無農薬の洋梨はとっても貴重。だけれど、一度になる…のがたまらない。しかも地上3メートル以上も上に…。

リンゴの木も古く木登りしないと届かない場所にリンゴがなる。
選定の仕方を考えれば良かったんだろうが、何せ前の住民が植えたものだからどうしようもない。なので、とりあえず消費量の多いリンゴを、色々な品種の苗を入手してみた。息子の生物の先生が農家なので、無農薬のリンゴの木がタダで手に入った。
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下草刈りを何度言ってもしてくれないので、この後自分でやったのだけれど、こっちの鎌と日本の鎌の概念が違いすぎて今でも鎌がなく、大きなハサミのようなもので草刈り…つまり効率悪し。

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で、これらのリンゴと木登りして子どもたちがとったリンゴ。右側の5つはすでに虫食いにあってた。でも大丈夫!リンゴは用途がとっても広いので、とりあえず喰われた部分だけとって、小さくしてみた。薪ストーブに火がついていたので、とりあえず条件反射で黒砂糖と煮始めた。

病気療養が1年半以上も続く私が、なんとか家の家事をこなせているとしたら、とにもかくにもこの薪ストーブのお陰。どんな料理も「切る・ぶち込む・混ぜる・放置する」…だけだからだ。後は、土鍋と土瓶、Fisslerの鍋のお陰かな。Fisslerの鍋では、本当にごく僅かな水ですべてが蒸せる。

Fisslerのステンレス鍋
https://www.fissler.jp/jp/products/pots/pot_top.html
Fisslerを使った無水調理の方法
https://www.fissler.jp/jp/cooking_tips_culinary_trends/study_of_dry/brief_study_of_dry.html

このポイントは、「美味しさ」「ビタミンを壊さない」だけでなく、無水(というが極僅かな水での)調理ということは、あっという間に調理が終わるということ。つまりエコなのだ。他の鍋では入れた野菜の上まで水を入れて煮ないと煮れない。となると入れた水を沸騰させるのに時間がかかり、その分の余分なエネルギーがかかる。

ジャガイモを丸ごと煮るのに普通の鍋でかかる20-30分が、この鍋では10分程度。ほうれん草なら完全無水で2-3分という優れもの!初期投資は高いが、我が家では20年間同じ鍋。全然古びないし、後20年は余裕でいけるだろう。これまで使った20年で計算しても年2千円。普通の鍋でかかる水代・ガス(or電気)代を考えれば、楽々元が取れる。一家に1つあれば十分。Fisslerの圧力鍋が日本では人気だが、実は我が家はステンレス鍋で全て貫徹。なので、圧力鍋を買うかステンレス鍋を買うか迷ったら、出番の多い後者をおすすめしたい。(*が、我が家は肉をまったく食べなが魚は食べる「エセベジ」なので、圧力鍋の出番がそもそもない…という特異な事情もある)

でも、やっぱり薪クッキングストーブが全ての根幹である。
なので、今日も雨な上に昨日農作業をしすぎて身体が言うことを聞かないので、ずっと前から書きたかった薪クッキングストーブの話。

前にも書いたが、ドイツでも戦後薪ストーブは部屋を温めるためだけに使われ、台所で使うなどということはまったくなくなってしまった。万一あっても、ほとんど飾り的な役割かやはり暖房と温かいお湯を常に沸かしておくためにあって、これだけで調理のすべてをこなす人はほぼいない。なので、ストーブや煙突の専門家が我が家にきては驚くのだった。
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去年の冬に台所に入れてから、冬でも、春でも、夏でも。
外が35度を超えても、調理は薪ストーブのみ。といっても、ドイツの家は外断熱で石の家なので家の中は冷蔵庫のように涼しい。なので問題なし。

しかも、ドイツのキッチンといえばIHばかり。つまり電気!!!となると、土鍋も使えないし、コトコト煮るのも難しい。焼き魚なんてもってのほか!でも、一番原がたったのはケーキやパンを電気で焼かないといけないこと!!!敷地内・外に森が広がる田舎に住んでいるのに、バイオマスを使わないなんてあり得ない。いつまでここにいるか分からないものの、とにかく心身の健康のためにも(!)薪クッキングストーブを買ってみよう。ということで買ったのがこれ。このストーブは北イタリア製。展示品を買ったので1500ユーロ(19万円)ぐらい。でも、煙突がそれを超えるのが痛い…。

が、こちらは電気代が非常に高いので(月1万円ぐらい *ただし、高く感じるのは我々が日本でOMソーラー&ガスで月2千円も払えば十分以上だったからもある)、クッキングのすべてのプロセスから電気を省くと1.5年で元がとれる計算。しかも、セントラルヒーティングを動かさなくとも1階は温まる。なので煙突代を含めても、3年で楽々元はとれるのだ。

でも薪ストーブはとにかく煙突が全て。二重構造の長く上に延びた煙突を年に2度しっかり清掃しないと、火事になるのを覚えておいて下さい。ドイツの家は石の家なので総簡単には火事にならないものの、日本は木星だし、家が密集しているので、とにかく煙突でケチらないことが何より重要。清掃は専門の業者に任せた方が良い。ドイツは法律があって、年に2度専門家に掃除してもらわないとストーブを設置できない。そもそも、煙突とストーブの監査役がいて、彼のOKが出ない限り使えないというのも凄いが、それだけのものであるとまずは理解してほしい。その大前提さえこなしてしまえば、後は愉しい薪ストーブライフ。使い方のコツはまた今度。

今日は、食べ物の話。
で、大量の虫食いリンゴをどうしたのか?
ベリーのソースと同じことだけれど、果物を煮る時重要なのが、コレ。でも、日本では知られていないことが多い。ドイツでは、わざわざケーキコーナー等にもっと細かい奴が売ってある。これは、私の自家製…というか、去年剥いて食べた後の無農薬オレンジの皮を捨てずに切って天日乾燥させたもの。
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ただの甘さを超えたさわやかな上品な味にしてくれる。
問題は、無農薬のオレンジを入手することが難しい点…。
甘夏とかはっさくとかでも良いので是非近所に木があったら、譲ってもらおう。大抵収穫せずに木にならせたままのお宅が多いので。

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で、シナモンを入れてほっておけば、薪ストーブが勝手に焦げもせずに3時間後これを作ってくれた。1日冷蔵庫に入れたので見てくれは悪いが、すっごく美味で、子どもに珍しくとっても褒められた。

■「リンゴの?」の作り方
(1)リンゴを一口サイズに切る
(2)熱湯をほんの少し鍋の底に敷いた上にリンゴと黒砂糖を入れる
(3)木べらで焦げないように軽くかき混ぜる
(4)蓋をして5−10分して水分が出てきたら、
(5)シナモンスティックを入れて一回混ぜて、蓋をしておく
(6)20分ぐらいしたら、干したオレンジの皮を入れて混ぜて蓋
(7)後は放置
<=しっかり形が残ってシャリシャリしたのが良ければ20分ぐらい加熱し後は保温調理
<=上記は途中で忘れてしまったので…3時間ぐらい加熱した状態のもの

これだけだと超甘いので、以下のものの上にちょっとのせる程度が良いと思う。
*バニラアイスクリーム
*甘くない生クリーム
*ヨーグルト
*クッキー

この「リンゴの?」の素晴らしいのは、家中甘酸っぱい素晴らしい幸せな香りに包まれること!薪ストーブでこれを作る利点は、「砂糖が焦げないこと」に尽きる。ガスでもIHでも、色々試して来たが、どんなに弱火でも鍋の中身は長時間放置すると焦げるもんだ。けっこう頻繁に混ぜないといけない。なので「完全放置」は不可能だった。

しかし、薪ストーブなら薪の大きさで火加減だけでなく、火が持つ時間を調整できる!この場合、大きい薪を一本入れて下の空気孔を少しだけしめておくと、1.5時間はことことと煮ることが可能。薪が燃え尽きても、ストーブ自体は温かいので、そこから余熱調理が1時間ほどできる。スープやソース、煮込み料理が好きなのに、無精者には、ここが最大のポイント!

ああ、薪ストーブに行き着くまで、何度鍋を焦がしたろう…。
日本は家が狭いのとキッチンがリビングだったので仕事も何もかもそこでしていたので「鍋を忘れる」ことは稀だったが、それでもゼロではなかった…。なので、煮込み料理は「保温クッカー」を使っていた。つまり、10分ガスレンジで加熱したカレーを、そのまま保温クッカー(ただの大きな魔法瓶をイメージしてくれれば)にぶち込んで6時間。

サーモス社のシャトルシェフ
http://www.thermos.jp/product/list/shuttlechef.html
これもお値段ははるが、子どもが大好きなカレーやシチューを作るには、fisslerステンレス鍋でもそれなりに時間がかかる。何より、「翌日のカレーの方が美味しい!」という皆の実感の根拠は、じっくり煮込む方が美味しいというのが理由。なので、前夜あるいは朝に5-10分程度調理して、後はシャトルシェフに入れておけば帰宅時にまだほのかに温かくて、少し温めるだけのおいしいカレーが完成する。我が家は、炊飯器もポットも電子レンジもない家なので、土鍋でご飯を炊くのだが時間がないだろうという日は朝のうちにシャトルシェフでご飯を炊いておいた。

が、これ日本から持ってくるのを忘れた…。こちらではキッチンはキッチンなのでどうしてもずっとはいられない。なにせ布団から基本的に出るのが難しい状態が続いたので、鍋を弱火にして放置…焦げた匂いで気づく、、、という恐ろしい事態が何度も生じた。なので、病気の者にはとっても向いている調理具としては、薪ストーブを超えるものはない。

日本では、シャトルシェフを使ってヨーグルトも自家製していた。長らく牛乳を使ったヨーグルトを家で作っていたが、ドイツには豆乳ヨーグルトがあって、家でも作れるんじゃないか…と狙っていた。丁度、「リンゴの?」を作った時間帯がお昼と夜の間だったため、ご飯を作るには時間が早すぎたので、みそ汁の出汁を取るのと、豆乳ヨーグルトとパン粉を作ることにした。(といっても、いずれもただぶち込み、放置…)

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これまた写真が横になっているが…。

■豆乳ヨーグルトの作り方
うちは牛乳を飲まない家なので、基本は豆乳で。
ただし、牛乳を使って、普通の市販のヨーグルトでも同じ要領で自家製ヨーグルトが作れる。まあ、日本では「ヨーグルトの素」となる粉が売っているが…。

(1)自然色品の店にある豆乳ヨーグルトを買ってくる
<=牛乳ヨーグルトでも、自然食品の店にあるものの方が菌が強いのか、作りやすい。
(2)その食べ尽くした後の容器に新しい豆乳を入れてよく振る
<=不安な人は、4分の1ぐらい残したものを活用
<=この時点でバニラ味の豆乳を入れるとバニラ味のヨーグルトに
(3)それを煮沸消毒した瓶いっぱいに詰めて振る
(4)ストーブの端っこの保温コーナーに置くだけ
(5)約7時間ぐらい放置すると、良い感じにとろとろになる
(6)ただ冷蔵庫に入れて、少し冷やすのと少しかためる
ベリーソースや上の「リンゴの?」をかけて食べると、とっても美味で上品なデザートに。

*バニラ入りの豆乳が売っていない場合は、
<=バニラビーンズを豆乳に入れて少しの間温める
*薪ストーブがない場合は、
(1)鍋に70度ぐらいのお湯を入れる
(2)その中に瓶ごと入れておく
(3)適宜熱いお湯を足して温度を保つ
(4)20分ぐらいしたらバスタオルと毛布でくるんで5時間ほど放置する
<=この時、保温クッカーがあればそれを活用

で、薪ストーブのトップには、いつも土瓶に薬草茶、お湯、そして昆布が入った水の鍋がのっている。基本和食なので、出汁にはいつも出番がある。前の日から水につけてストーブの上においておけば素晴らしい出汁が。ちなみに、昆布はやはり「日高昆布」が一番よい出汁がとれる。粘りがあるし。しかも、出汁をとった後でも、厚みがあって旨味は残っていて、これを刻んで他のものに使っても未だ美味しい。
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焼きおにぎりだって、トルティーリャ(メキシコの)だって、お好み焼きだって焼ける。しかも、真ん中のリングを取ると、直火で中華鍋も熱せる優れもの。
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けれど重要なのは、身近に里山や森があるということ。薪を買ってもいいけれど、枝ぐらいは集めたいもんだ。でも、日本中の山林は荒れ果てている状態にある。多くのご家庭で、すでに薪ストーブは使われていないし、自分で薪割りをする余力もない事も多い。荒れ放題の山林が、生物多様性を減じさせ、野生動物の食べ物を減らしてしまって、里に降りてくることも多くしている。タダで薪や枝を頂く代わりに、山の手入れをしてあげるときっと喜ばれると思うのだが。
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腐っていた木々をチェーンソーで伐った後、森の木々は元気になったし、下に生えてくるものが多様性を帯びるようになったと息子がいう。

家から200メートルのこの森にきたのは初めて。それすらなかなか出来ないような状態なので。でも、息子が、森の木を伐ったら、光がさすようになって色々な生き物が元気になってる!と興奮して話にきて、かつこの苔のような不思議な緑のぶったいとその横の植物が、どうしても気になってみてほしいという。・・・ので、ついてった。
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通れるように丸太の橋を…。しかし結局落ちたので意味ないが。
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元々鶏とウサギ小屋だった納屋は、現在森の薪でいーーーーぱい。この後さらに2人の男達はがんばった。こういうのはさすがに私にはまったく無理だ。
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森の中で朽ちたり腐った木々は薪になるだけでなく、息子の木工の材料にも。そして出てくるおがくずが、薪クッキングストーブの着火の材料になる。使い捨ての着火マンなんて要らない。マッチがあれば。

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森の木で器を製作中。
やりたいの分かるけど、注文の品…未だだったよね…。
かなり言い訳していたが、やっと半年前の注文の品である棚を完成させた。
スケッチブックの手書きの「へ?」というものしか見ていなかっただけに、出て来たものをみてそれなりに驚いた。

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上にも棚を付けてと言われたので、自然食品の店のスペースをみて、柱などをよける形でスペースを活用した方が良いなと思った息子は、以下のようなデザインに。前よりずっといい。

で、この棚皆に喜ばれ、250ユーロでお買い上げ頂いた!
今迄で一番沢山のお金を払ってもらった。あまりに嬉しかったのか、さっき一枚ずつ数えて一人ニヤニヤ…していたが、130ユーロはすぐに父に没収…の憂き目をみた。借金ね。私への300ユーロは…この棚の上におく商品をなんとか終わらせるところから。しかし、棚が出来た途端に満足感があるのか、途端に器の作業が止まった。
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なお、このアクロバティックな棚、納品したらぴったりはまったそうな。
測ってもいないんだけど、ちゃんと頭に焼き付けたから…と。
あかんやろ、それ。。。。
結果オーライすぎる。
人生そんな甘いもんちゃいまっせ、にいさん。

そういうところが修行が足りなすぎる…正直なところ、ちゃんとした修行をしてほしい。でも、こういうのも本人の自覚に任せるしかないと思っている。

というのも、私はピアノで辛い想いをしたからだ。
高度成長期、女の子はピアノを習うものという呪縛が母世代にあったようで、とにかくピアノを姉妹全員が習わされた。田舎だったもので、ピアノのあるお宅に、都会からピアノの先生が通うというスタイルで、一人30分ずつしかレッスンの時間がない。しかも、その先生はやたら厳しく、間違えると手を叩くのだ。まだ10才にもなっていないのに、間違えると叩かれる。この恐怖でピアノが弾けなくなってしまった。しかも、先生は誰一人ピアニストになれそうにない田舎の私たちに、それはそれは英才教育をしようとした。何度も何度も基礎を叩き込んで、それが終わるまで次に進めない。曲に親しむことができないまま、機械的に指が正確に動く迄何度も何度も同じところをさせた。なので3年生になる頃には相当弾けたが、嫌で嫌で仕方なくて姉がやめるついでに私もやめた。

母は怒ってピアノに鍵をかけ、その鍵をどこかへやってしまった。
家が貧しかった母はどんなに欲しくてもピアノを買ってもらえなかった。だから、授業の終わった音楽教室で独学でピアノを覚えた人だった。だから、私を身ごもって高校の体育の教師を続けられなくなったため、辞める時の退職金で、念願のピアノを買った。それだけに、母は傷ついたのかもしれない。「もうピアノなんか弾かなくてもいい!」そう怒って、鍵を隠した。

何年か経って、たまたま家の裏に声楽とピアノの先生が引っ越して来た。そこから聞こえる音色に、ある時雷にうたれたようにピアノが弾きたくなった。プロになれるわけもないし、なりたいわけもないから、ただ自分が弾きたい音楽を弾けるようになりたい…。そう思ったのだ。しかし、ピアノの鍵はないし、母はもう絶対ピアノは習わしてくれないという。

そのお宅には可愛い3才の娘さんと産まれたばかりの赤ちゃんがいた。特に、上の娘さんは私になついている。ひらめいた・・・(そう当時からひらめいたのです)。子守りとピアノのレッスンを交換したらいいんじゃない?親に相談もせずに、先生のところに直談判に行った。中学校1年生のころのことだった。今考えるとええ度胸しとんな〜という気がするが、実は先生も困っていたのだ。レッスンの間、誰も子どもたちの面倒をみてくれないので、ピアノの部屋に子どもたちをおいてレッスンで集中できない。かといって中学1年生に頼むか?というのもあるが、何故か先生は任せてくれた。それを大学に入ってブラジルに行くまで続けた。6年間になる。

結局、ピアニストになるような技巧も才能もない私だが、自分の弾きたい曲を弾くという願いはかなえることができた。その経験があって、息子に「基本をおさえてからやってほしい」という想いを持ちつつも、「奏でたい音を奏でられることが原動力と持続力なんではないか」と思って、余口を挟まないように努力している。ただ、作品の出来上がりについては、消費者としてまったく容赦なく批評するが…。どうすればよくなるかについては、本人の自覚を待つのみ。辛いが…。

一応、紙に色々デザインは書いているのだが。偉いアバウト…。
デザインブックというか、スケッチブックは家具や器やなんやらのデザインだらけ。最近は、「時計が作りたい」と言い出した…。
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で、死ぬほど沢山の時計のデザインを描いていらっしゃる。ついに、おじいちゃんの懐中時計まで分解してしまった…。

彼の愛読雑誌がこれ。
建築・家具の雑誌。高いので買ってあげられない…ので、売り上げからせっせと買っている。確かに、広告に時計がよく出ているものの…そこ?しかも今?やっと専用の売り場が出来たのに?!
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「家具」というと、2年前ウサギを家の中で飼うために作った小屋が最初だった。
そして、去年引っ越してから最初の作品はこれだった。半分壊れた日乾し煉瓦を集めて来て、納屋に捨てられていた防水シートをハサミでジョキジョキして作った小さな池。この中に小さなコイがいる。
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そこから木工へどんどん向かっていったのは、木々に囲まれていたことが大きいと思う。

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木への愛は半端じゃない…と本当の意味で理解したのは、彼のカメラのデータをもらった時だった。なんせこのこぶの写真が何十枚とある。
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こんな風に、違った種類の木の板の表情だけでも200枚は撮っている。
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で、あのコブはこうなった。
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やっぱりパッションが必要だ。
自分の心のど真ん中に。
あなたのパッションは?

声をかけても振り向けないほど没頭してしまう「何か」を、大切にできるといいですね。



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by africa_class | 2015-09-04 07:14 | 【徒然】ドイツでの暮らし

桜島噴火の一報に接し、ドイツでブラックベリーのソースを煮ながら考えたこと:人間の傲慢さと自然への畏敬の念について

祖父は幼少の頃、桜島の大噴火によって故郷を追われた。
突然の火砕流が屋敷を襲い、お手伝いの方におぶわれて小舟に乗って、父母の安否も知らぬまま逃げたという。丁度100年前の出来事。その後も灰はつもり続け、屋敷の門構え、敷地にあった神社の柱のてっぺんが10センチほどにょきっと出ているだけだ。一家はすべてを失い、桜島に戻ることなく、曾祖父が教師をやって食いつないだ。

曾祖母の一家に婿養子として入った曾祖父は、薩摩武士の家系の人で、当然ながらもはや武士では食べていけず、教養をかわれて海を渡って桜島に婿に行った。地域あっての暮らしだった曾祖母の一家。曾祖父のようなどこでも使える技能を持った人が家族にいなければ、鹿児島市での避難生活でもっと苦しんだろう。
(なお、薩摩による奄美大島を含む琉球の支配の問題については、いつか書きたい。サトウキビのプランテーションを薩摩藩が強いた結果、多くの人々が餓えで亡くなった。このことは、凄く多重にも深い問題を含んでいる)

生前、祖父と一度だけ桜島に行った。
なかなか行きたがらなかったので、皆で説得して。
子どもたちははしゃいで噴火跡をみたがったのに、祖父は黙って遠くを見つめるばかりだった。祖父にとっては、素晴らしい故郷、我が家。それが一瞬にして火砕流に呑み込まれ、のんびりとした自然豊かな暮らしが、避難一家となっての生活に切り替わった。祖父が口癖のように、「噴火さえなければ…」をいっていた。

最後に桜島に行ったのは、祖父の妹、大おばちゃんが未だ元気だった5年前のことだ。東日本大震災が起こる1年前に、なぜか息子を連れて桜島に行こう、そう思った。祖父の言葉を一番聞いてきた大おばさんが元気なうちに…そう思って。屋敷跡の前にはお墓が広がっていた。しかし、墓石は倒れたり、傾いたりで、避難が地域にもたらしたインパクトは暮らしだけでなく、歴史の継承であるのだとつくづく感じた。

あの海に面した素晴らしい温泉宿だった古里は廃業したらしい。噴火の影響もあるが、日本どこでも田舎が消滅しつつあることが、本当に気がかりだ。急速に廃れて行く日本の田舎と、相次ぐ火山の噴火、そして地震。突発的な大雨の影響も大きい。そしてこれは日本だけの現象ではない。今迄以上に人災と天災の間を生きて行く私たちとして、どのように自分たちの今迄「当たり前」にしてきたことを問い直し、新しい「当たり前」の価値を紡いでいくべきか、そんなことを考える毎日だ。

いつか日本の田舎に戻る。
その時まで精進しなければ。

とはいえ、肝心な自分の体調が思わしくなく、低空飛行ならではの視点で。でも、これはこれで、とても残念なことであるが、同時にすごくよいことだと思っている。なにしろ人間は過度に活動しすぎる。特に私は…。農でもそうだ。ついがんばってしまう。自然に任せるべきところまで踏み込んで、もっと早く、もっと大きく、もっと多く、もっと人様にとって美味しく、奇麗であれ、と自然に要求する。そのことがより加速度を増し要求度を上げた商品としての食を消費者に求めさせ、それが生産者を追いつめ、やりきれなくなって担い手を失っている。結局、工場のような生産方式が、このような「お客様」の要求を満たすには効率がよい、となる。かくして、私たちは自分たちの命を育む食のすべてを、ビジネスに委ねようとしているのだった。

(この全体をFood Regime論が明らかにしているが、これもまたいつか紹介する。)

だから、今の日本や世界の状況に疑問を持つのであれば、自分の「食」(そしてエネルギー源)からなんとかしなければならないのだが、そう書いた瞬間に、ある種の「しんどさ」を感じる人もいるかもしれない。なにせ日本の人たちは、頑張り屋だから、溢れる情報のいずれもが、「がんばろう!」のねじり鉢巻をしない限り手がでないような…そんな圧倒的な様子を醸し出している。

でも、私がいってるのは、たった一つのパセリの鉢から始まる物語なのだ。

そこから窓辺にプランターを置いて葉もの野菜を育てるのはどうだろう?苗のまま買って来たプチトマトでもいい。調子にのって、ベランダにゴーヤを這わせてもいい。さらに調子にのって、玄米を水につけて数日後出た芽を使ってバケツ稲を育ててもいい。

家に花や観葉植物を飾るように、食べ物を育て、愛で、食せばよいのだ。

ただし、自然の中にいない植物は当然弱い。
ここをクリアーするには、ある程度の頑張りが必要。
ただ、レタス系、ゴーヤ、パセリも虫に強い。
そういうものを選ぶということも重要。

実は、私のハーブの暮らしは東京でのアパート暮らしから始まり(関西に帰省の度に鉢を持ち帰った)、ついに小さいものの土地のある家を持った時にどんどんエスカレートした。あれもこれも試したくてうずうずして、草木灰と竹灰を作るために子どもたちに穴掘り競争してもらい深く掘った穴で燃やして煙が出過ぎたり、あんな猫の額のような土地でようやったわ…というぐらいあれもこれもした。有機農業の色々な手法を試して、その度に手応えがあって、結構な満足感があった。

土地が狭いとどうしても、それぐらいやらないとロスが大きいので、過干渉になる。これは、子どもの数が少なくなった現在の日本のご家庭と同じか?我が家も子ども独りなので、かなり気をつけたつもりだが過干渉になっていたかもしれない。

努力はそれなりの結果を出す。
しかし、前にも書いたが、そら豆を育てていて、アブラムシとの闘いを繰り広げ(牛乳、コーヒーの出がらし、ニンニク、灰)、ある時一切合切を止めた時に、自然と大丈夫になった時に、ある種の境地に達したのであった。もしかして…私やりすぎてた?

もちろん、自然農法も知っていた。
でも、本当の意味で、それを心の真ん中で理解したのは、病気になったことが大きかったと思う。また、自然農法のためには、ある程度の土地の広さと、環境(木々たち)が必要なことも、あったと思う。東京の真ん中で、やはり自然農法を実践するには、なかなか難しいものがある。やれることはやってみた。粘土団子、藁を活用すること、前の作物が咲いている最中に次の種を撒く事。でも、言葉で学び、一部取り入れながらも、本当の意味では心の中でストーンと落ちるところまでは至らなかった。

福岡正信さんの「わら一本の革命」は、世界中に影響を与えた本だ。
http://i-yo.jp/
福岡さんの軌跡
https://www.youtube.com/watch?v=aBtaRJvvsK0
世界に大きな影響を与え、何言語にもなっている
https://www.youtube.com/watch?v=XSKSxLHMv9k
木村さんの「奇跡のリンゴ」の方が、今の人たちには知られているかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=avFe15j_Gv8

去年の春にこの家に来て、田舎故にとんでもなく広い敷地を前に、「がんばって家族の食料を生産しなければ」という想いに駆られたものの、今より症状が悪く、思えば思うほど畑に出られない毎日だった。とりあえずコンパニオンプランツ同士を撒いて、藁をかぶせておいて、後は水やりも含め天に任せた日々。

でも、自然は勝手に循環を導いていった。
つい先日までトレーラーハウスがあった場所に撒かれた森の土、藁、刈り取った草、種…いつの間にか、苗を攻撃しようときた虫達を食べるてんとう虫やありがきて、その虫達を食べるカマキリやカエルがきて、そのうち花が咲いたら鉢達がきて、そして毎日少しずつ美味しい収穫物を食卓に提供し、そして種になって、でも種採りをして春に撒くつもりが、あまりに体調悪く、そのままにしながら、冬がきた。ことのほか寒い冬で、何度も雪がつもり、霜がおり、凍結した…のに、春がきたら勝手に芽吹いた。芽吹いたものを収穫しながら放置して日本に戻って帰国したら、今度は次の収穫を準備してくれていた。

泥だんごと一緒。
種は芽吹きたいところで芽吹くものだ。
芽吹きたいときに。

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去年、道ばたにこぼれたルッコラの種が、勝手に芽吹いた様子。
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まったく別の場所で去年収穫したザーサイが、芝生のど真ん中に作ったハーブガーデンの中に出現した様子。

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で、これらを収穫した。
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コンポストの土が十分熟してなかったので、そこらにあった穴に放り込んでおいたら、どうやらジャガイモの芽が勝手にジャガイモの苗に…。それに薪ストーブの灰をかけている。右横はあきのげし。これぐらいの状態は、そのままサラダにしたり、みそ汁の具材にする。タンポポの葉と比べ、癖がなくて食べやすい。

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ここは、去年からまったく種まきしなかった一角。ここ1週間の雨で、ネギに、ルッコラ、わさび菜、タンポポ、おそらくラディッシュが芽吹いている様子。

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ちょっと写真が悪いが、ネギ・ルッコラ・ニンジン・タマゴ・キノコ・イワシの缶詰で作ったサラダ。ネギとルッコラとイワシの缶詰は相性がすごぶるよい。で、このネギも今年はまったく植えてないので、冬を越したもの。それだからか、みじん切りにするにはあまりに涙が止まらないほどの刺激で、タマネギを超えるほど・・・なので、みじん切りにできなかった状態。

でも、これらが可能だったのは、種が固定種・在来種だから。
F1ではこういうわけにいかない。
一番重要な命の源である「たね」。
これが、今遺伝子組み換えやなにゃらによって、規制されようとしている。(けど、今日は未だ復調してないので<だからブログなんか書いてる>いずれ・・・元気になった時に。いつかわらかんけど)私たちは、土のこと、水のことばかり気にしてるけど、本当は種がすごく重要ということ…をいつか書きたい。そして、今グローバルなビジネス戦略によって、それが脅かされて、決定的なところまできていることも。

自然に畏敬の念を感じるのは、これだけではなかった。
あまりにトゲだらけの蔦に覆われた敷地の果ての森に、沢山の倒れた木があって、薪にするために家族総出で斧を持って森を切り開きにいった。茨の道というのだろうか…。が、この「厄介なトゲの蔦」の正体がやっと分かった。
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なんと、ブラックベリーの一種、ブロンベリ(「棘の灌木」)だった…。去年、これが「邪魔」でとにかく見つけては刈ってしまったので、畑にも庭にも実はならなかったのだ。なんと愚かな!!!私の魔の手を逃れた森の奥で、とんでもなく大量に実を付けていた…。
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ざっと2キロは収穫できた。125グラムで2.99ユーロなので、すごい!
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豆乳とアイスでスムージーを。添えたのはローズゼラニウムの葉っぱ。香りが素晴らしく、気持ちを盛り上げてくれる。
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ベリーを摘んだ後は、枝を収穫。この枝を薪ストーブで燃やし、ベリージャムを作る。薪ストーブは間接的に温めるのでジャム作りには本当にうってつけ。焦げないし、忘れても、薪を入れなければ勝手にストーブが止まる。じわじわ煮出すので、本当に相性がいい。
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で、出来上がり。
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あ、横だがまあいっか。ヨハネスベリーとブラックベリーのソース。それぞれ黒砂糖と去年のビオオレンジの皮を干したものを煮出したもの。バラは、いま旬だけれど、体調が悪くて蒸留できないので、もう少し元気になったらローズウォーターを作る為に乾燥させている。

ということで、家族全員、あちこち傷だらけだけれど、自然の恵みに感謝感激の毎日。
本当は池に大量の魚が育っており、これを食べるのであればさらにエンゲル係数が減らせるが、ついでに大量の草が出るのでヤギを飼ってチーズでも作れば…そこまでは、やめておこう。

人間の(私の)無知なる介入が、いかに多くの可能性を閉ざしてきたのか…反省しきりの今日この頃。


草一本、人間が作ってるのではない。
自然が作っているのだ。

(by 福岡正信)


追伸:
私の自然農やその他の試行錯誤は個人的なものであって、援助どうこうの「あるべき姿」だとまったく思っておらず、それぞれの農民が考え自らの方向性を決めていくものだと思っていますので、あしからず。とはいえ、アフリカの農民らの営みから学んだことはあまりに多いことは、またの機会。







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by africa_class | 2015-08-28 00:36 | 【徒然】ドイツでの暮らし

12才でキャンドル作家、14才で木工作家になった息子から、「好きこそものの上手なれ」

先日15才(中3)になった息子の最新作(末尾)。
別にシュタイナー学校に行っているからといわけではない。
お友達の多くは、ネットゲームに嵌っている。

ただ、前から大好きだった木工に本格的に目覚めたきっかけは、クリスマスバザーに学校に木工のアーティストが来て、木ろくろを体験して、実際に木工の作品がどんどん売れるのを目の当たりにしたから。関西人なもんで、「売れる」ということは、彼の中で非常に大切。

この半年で3500ユーロ(50万円)ぐらいは売ったが、ほとんど大型機械と材料代に消え、未だ借金が3万円ぐらい残っている。しかし、さらに大型の機械がほしいそうだ(まずは300ユーロ、5万円弱返してね)。今日は彼に最後の2枚の写真を掲載するように頼まれただけだったんだけど、彼の作品の変遷を紹介してしまおう。

まず12才の時にキャンドルを製作し始めて、それを販売し始めた。
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一緒に作っていた友人とキャンドルを作って、地元の自然食品の店2つで販売したのだけれど、こういうの二人だと上手くいかない。ましてや当時小学校6年生!結局、息子がほとんどを製作し、上手くなってしまった。だと二人ではやれない…なので開店休業中。ごめんなさい。
http://kidscandle.exblog.jp/

せっかくキャンドル専用の小屋もあるのに、キャンドルを置く台を木で作りたくなった。
2013年春、こんな風に作ってみた。
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でも物足りない。
森に転がっている腐った木を使って作りたいといった。
2013年クリスマス、小さな木ろくろをパパにプレゼントでもらって、作り始めた。

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そして、朽ちた木への愛は続き、ボウルはとにかくよく売れた。
(しかも材料代ただ!)
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が、ロクロを回すのに飽きたのか、雨ざらしになっていた板で家具を作り始めた。板をじーーーと見て、何を思ったのか、ワインラックをデザインした。

そして、このデザインと雨ざらし感を気に入った26才の青年が購入してくれた。彼のアパートの壁。ドイツはレンタルの家・アパートでも、平気で壁に穴があけられる。というのも、入居時に全員が壁をはったり塗り直すから。それにしても、彼の写真ぶれとんな…。

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この青年は続けて、テーブルを注文してくれた。
地元の製材所にいった。桜の木の肌があまりに奇麗で、テーブルにしかしたくない、と。ちょっと割れ目があったんで、見よう見まねで…蝶ちぎりを入れてみた。

彼の技術はすべて日本から買ってきた本とYoutube。じっといくつも動画をみて、納得いくまでみて、それからそれを試してみる。当然、失敗が多い。練習してから本番に向かうことができない子どもなもんで、失敗を積み重ね、今では少し学んだ…と思いたい。

右奥の窪みは、私のアイディアで、他の作品で彫刻刀で削ったもの。そもそも、夜はパンしか食べないドイツ人。せめて盛り上がるお皿を、と思って、チーズやハムやスモークサーモン、プチトマトやキュウリを載せるオブジェを製作してクリスマス商品として売ってみたら、これが結構売れた。その応用編として、青年は、この窪みをこのテーブルにもほしい、と。
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この後も家具に燃えに燃えたが、家具って売るのが難しい。ギャラリーがあるわけでも、Web販売しているわけでもないから。要請に従い、パンフレットを作ってあげたが、本人的にはWebがないと嫌らしい。ふーん、勝手にせい。

自然食品の店で売ってくれるので小物の方が売りやすい。
なので、結局作っては途中で放り投げる感じの家具が、家のあちこちに…。まあ、大変な田舎なのでスペースはあるんで、いいけど。いつか完成させてね。

せっかく、自然食品の店が、彼の作品コーナーを正式に作ってくれるというので、その棚の注文が入った。なのに、なんか気乗りしない。というか、斬新すぎるデザインをしたはいいが、強度の問題で壁にぶち当たったまま、解決できず、毎年恒例のアフリカに行ってしまった。その残骸は今でもリビングに放置されている…。
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彼の愛する野生動物たちの写真。本人曰く、人間より動植物の方が好き、だという。そういう彼が撮る猛獣たちは、どこかかわいい。が、どうやって撮ったの、これ?と思っていたら、いつの間にか、さらに借金してズームレンズを買っていた。だから、早く棚完成させなきゃ、息子よ。

そういえば、アフリカに出発する直前、5月のこと。急に色のついた作品を作りたがるようになった。春に日本に帰った私が、染色の本を買い込んできたのをみて、「色」に目覚めた。春なので、庭中がいろ、色、彩で、ぱっと明るくなったからか。で、花びらを集めた。しゃくなげの赤は特に気に入ったらしい。
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で、染めてみた。その前に、染色の本を読んで、他の作業も必要だと分かり、試行錯誤の結果、定着をよくするために、栗の実の皮を集めて煮出した液体に豆乳を加えたものに漬けてからやった。豆乳は牛乳だった方が良かったと思う。なのでかなり淡い色になった。ただ、桜の木のボウルには桜色が良いかもしれない。もう一度染め直して、それからウォルナッツオイルがいいかな。

でも、こういう色好きな人もいるかな。
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本人のイメージは、もっと鮮やかな色だったようで、これまでの自然(食用)オイルを離れて、色鮮やかなオイルを使いたがった。ほっておいたら、いつの間にか自分で注文した英国の塗料が届いた…。いや、父親がしたのだろう。化学物質過敏症の私が反対するのを知っているので。

色が先かデザインが先か聞くのを忘れたが、アフリカの土鍋がモチーフと思われる。彼の中には、日本・アジア・アフリカ・ヨーロッパの不思議なものたち(現代に限らない)のフォルムが、何層にも蓄積している。

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土台にあるのは、その前に嵌っていた家具作りの一貫で製作したベンチ。実は、このベンチ…何を思ったのか、ある日トップに葉の彫刻が表れた。本人曰く、「いつも思ってたんだけど、ただのツルツルとかの表面ってつまらんやん」。ああ、、、そうよね。でも、ベンチって、座るもんやん???どうせやるんやったら、テーブルにしてーな…は呑み込んだ。自由な発想って、とにかく大事。この歳になると特にそう思う。もはや、そんな自由さ、枯渇してるもんで。

でも、ベンチに彫刻してる間あったら、棚完成させてよ…で小物作って売ってよ…でないと借金かえってこんやん(ついでに利子つけてね!)と思いつつも、これも呑み込み、本人に任せる、まかせる。

同じ系列の塗料で、黒だけで塗ってみた作品。とっても渋い、素敵なものが出来た。これは、彼が尊敬して止まない私の長年の友人・モザンビークの建築家にお土産として持参したらしい(私は行ってないんで)。谷崎の陰影礼賛をポルトガル語に訳したほどだから、彼は大喜びしてくれたそうな。

ただ、この写真…ぶれるね。今迄私が撮っていた写真を初めて自分で撮るようになった。が、どうもピンぼけする。その上、ライティングがダメらしい…。で、今度は商品撮影の本を日本で買って来て、ああだこうだ言い始めた。特別なスクリーンだとか白いライトが買いたいと言い張るが、他のもので代用できるはずとここは譲らないでおいた。なんせ借金返してね、まず。

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とにかく、本人はWebを作りたい。
が、買ったWeb製作のためのソフトが全て日本語。マニュアルも日本語…。読めない。漫画以外の日本語は…。ふりがな打ってないし。でも、根性でなんかやってる。最初は手伝って!!!と毎日拝まれたが、超音痴の私には無理と悟ってくれたのか(obviousか)、自力でなんとかがんばっている。とにかく、かっこいい写真がほしい。が、銀行にカネはゼロ…棚を作らないので作品が載せられず、作品が売れないから、カネもない。悪循環!なのに、Webと撮影に嵌っている…。

ようやく悪循環に気づいたのか、白い画用紙を使って、あれやこれや試し始めた…。なんか写真上手くなってきたから、今度はもっと本格的な、機能的なボウルではなく、アーティなボウルが作りたくなった…そうな。で、塗料ではなく、柿渋のような、でももっと濃くでる方法は…と色々検索しているうちに出会ったのが、「アンモニア」。

ここまで来ると、もはや結果しかつき合えない。
で、以下の写真をメールで送ってきて、「ブログに載せといて」…とのことなので、載せてみました。なんか、凄い高度なことになっている…。


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どこまで進化するのか、彼は。
好きこそものの上手なれ。
読めない日本語も、なんか読んでしまうところは、やはり卒論指導と一緒で「目的」がはっきりしていた方が、後は手段として割り切ってがんばれるものだ。

それが手段を目的化すると、まっったくつまらない。
そんなことを息子で実証してどうするんだ、、、と思うが、まあそのうち彼が反論するでしょう。
ひとまず、以上どうぞ、ご覧あれ。

そうそう、こんなことばっかりやってるわけではなく、ちゃんと毎日学校にも、週3回サッカーも通っています。が、友達と遊ぶ時間、ネットゲームをする時間なんかはないねえ。まあ、こんな趣味の15才、ドイツといえどもいるわけではないので、話題がまったくあわない。日本にいても同じだったろうけれど、本人は当初それを気に病んでいたものの、今となっては忙しすぎてそれどころではない感じ。まあ、時々お友達とお泊り企画をやっているんで、まあほっておいてもいいかな。

それより、卒業生にこのArtセンスはどこからきたの?と質問された。それはずばり、小さい頃から「ほんまもんごっこ」をしていたのです。

雑誌や本、写真集、博物館に美術館、町や森を散歩しても、海に行っても、いつもどれ(何)がどういいのか/悪いのか、彼と一緒に語り合ってた。同じ風景でも、時間が違って、太陽の光の加減が違っていたらもっとこうだよね、ここの感じがもう少しこうだったらどうだっただろう…などと、二人の会話の「ごちそう」部分は、いつもそこだった。勿論、彼が「いい」と思うものと、私が「いい」と思うものは、いつも一緒だったわけではなく、そのポイントも違っている。だけど、それぞれの「いい」と思うポイントの理由を尋ねあうのが、凄く重要だったんだな、と今ふりかえって思う。

その時、所謂西洋っぽいものを見る事は少なかったかもしれない。もっと自然なもの、根源的なもの、素朴なもの、そういうものにとても惹かれていたのだけれど、その後日本の伝統的な手の込んだものや骨董に嵌り始めて、もう少し彼も私も惹かれるものの範囲が広がったように思う。今、ヨーロッパにいるから、こちらのデザインも大分興味がわいて来たよう。

でも、根っこの部分では、シンプルなものへの愛が濃いようだ。本人曰く、「ママ、今時代はミニマリスティックなデザインがいいんだから」と。じゃあ、君の部屋をミニマリスティックな感じになるように片付けてよ。というと、どこぞやに消える息子であった。

さらに、子どもの頃ずっとテレビがなかったもんで、彼は沢山の絵を描いていたし、牛乳パック等の不要品で色々作ってたし、毛糸で編み物もしていたし、泥だんごで恐竜を作ったり。頭の中のイメージを、そのまま手で作り出す…そういう時間を沢山過ごした。

ドイツに5年生の時に来たばかりのときは、アルファベットも読めず、高校に入る直前で勉強も大変で、かつマンモス公立校で辛かったと思う。でも、秋に移ったシュタイナー学校は、そういう彼が積み重ねて来たアートを中心に据えたプログラムで、彼は自分の居場所を見つけ、自由に羽ばたいていった。・・・羽ばたきすぎて、先生と喧嘩しすぎて、学校に呼び出されること多しだが。

まあ、まだ15才。
すべてを辞めて、別の道に行ったっていい。
それにしたって、ある程度勉強は…必要だよね。
がんばれ、15才。

部屋掃除してね。

===
そうだ。
私と息子の会話は、大体2才ぐらいから現在まであまり変わっていないことについては、留意点かもしれない。政治の話も、社会問題も、とにかく彼と話してきた。勿論、話の深さや表現の仕方は年々変わって行ったが。なぜ2才かというと、その頃から彼が「どうして?」を連発するので、一つ一つお互いに「どうして」を言い合っていったら、普通に社会問題や政治問題に行き着いていったからだったのだ。

どうして、皆電車に乗ると携帯ばかりみるの?
どうして、アフリカの子どものお洋服は破れているの?
どうして、新宿に段ボール敷いて寝ている人がいるの?
どうして、コンビニの電気は明るいの?
どうして、農薬のついた食べ物は安いの?
どうして、ドイツの空港では皆タバコすってるの?

子どもの「どうして?」はするどい。
「どうしてでもいいじゃん」「いつか分かるよ」と答えれば楽かもしれない。でも、子どもの「どうして」にきちんと向き合うと、すごく勉強になる。こちらも「どうして?」と聞くと、さらに素晴らしい深い会話となるのだ。

大抵の親や周りの大人達は、「こんな小さい子と何話してんの?」という顔をしたし、口にも出した。けれども、息子以外のお友達で試してみても同じだったが(そして最近、教え子の3才の息子さんに試してみても同じ結果だったが)、子どもたちは2−3才ぐらいから「なぜか」を語ることができるのだ。そして、その「なぜ」はとっても独創的で、本質的で、素晴らしいことが多い。とにかく、目から鱗が落ちる事多々。

ただ、こちらが、「なぜ」に関する勝手な「正解」を押しつけ(る姿勢すらみせ)さえしなければ。重要なのは、こちらが答えを知っていて、あっちが知らない…という前提を決して持ち込まないこと。その時点で、純粋な子どもたちは親や大人が想定する答えを探り、それにあわせた「正解」を口にしようとがんばってしまう。あるいは、反抗期なら、その真逆を身体いっぱい表現しようとする。そのどちらもが子どもらしい反応であり、それ自体を否定するわけではないが、大人としてもう少し違ったリアクションがあり得ることを頭の隅にでもおいておいてほしい。

子どもには、すごく早くから色々なことを見抜き、自分で考える力がある。ただ、それを言語として表現して外に伝えるのが、とても難しい。だから、彼らの言葉や何やらの表現を待たず、こちらの答えを即座に押し付け続けると、子どもたちも「そういうものかな」という思考停止に流れていってしまう。だから、「どうして?」という何気ない一言、そしてそれへの彼らなりの表現をじっくり待ち、どんな答えも否定しないで耳を傾けることが凄く重要。大抵、「どうして?」の後にも、「どうして?」が続いていくが、子どもの思考というのは長続きしないし、飽きてしまう事も多いので、「今日はここまでで、今度また聞かせてね」と伝えておくと、実はその子はその後も何らかの形でずっと考え続けていることが多い。

子どもたちのそんな粘り強さを、面倒くさがって「はいおしまい」としないで、持続的に発展していく方向にベクトルを向けられないものか。子守り代わりにテレビやDSや携帯ゲームやIpadを与えている限り、そこは難しく、彼らが知的楽しみを自分中に見いだせるようにするには、親や大人達もまた、自分の中の知的楽しみを、子どもとともに発見していかねばならない。

その意味で、子どもに教えるどころか、教わること多しなのだ。




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by africa_class | 2015-08-17 04:02 | 【徒然】ドイツでの暮らし

突然、東京外国語大学を辞める、ということ。

気づいたら最後の投稿から1年が経過していた…ようだ。

そして、3月31日で大学を辞めた。
あまりに突然な決断だったので、自分でもビックリしている。
3月に入っていきなり決めて、なんとか滑り込みで2014年度で東京外国語大学を後にした。
あまりに病気が治らないので、これは原因を絶つしかないと年末に思い至ったのだが、あまりに体調が悪く、辞める事自体がストレスすぎて、ある日「辞める!」との衝動に突き動かされるまで、とてもじゃないけれど無理だった。

それにしても、ゼミ生、卒業生ら延べ50人近くのヘルプがなければ、今でも研究室を片付けていたかもしれない…心からダンケ!正直、1年ぶりに研究室の扉を開けた時、目眩がして、どうしようか…と倒れそうになったほどだったが、あの「研究室」がもうないというのも、不思議な感覚だ。

「ゼミのお父さん」こと「マコンデのお面」が睨みを利かせていた、ありとあらゆる魔物の棲む空間!

モロッコで買った香木や、ザンジバルの海の塩の塊や、ボスニアの破裂した後の地雷や、ポルトガル植民地時代のコインや、海の底で眠っていた近世のビーズのネックレスや、子どもたちの写真や、ルースファーストのポスターや、息子の描いた数々の絵や、奈良の山奥の寺で撮った写真や、早くに亡くなってしまった尊敬する先生のお連れ合いのお手紙や、ゼミ生たちが記念に贈ってくれたお茶のセットや、世界のあらゆるお茶やコーヒーの、不思議な匂いのする空間。

「あれ」はもうないのだ。
でも、しっかり私の中に焼き付いている。
2004年から2015年まで存在した、自分と自分の歩んだ道が詰まった空間。

今でも懐かしいのは、実は2015年その時点の最後の姿ではなく、2004年に着任したてのある昼の様子。
自分の山ほどの資料が棚に納まり、世界中のものがそこかしこに陳列され、大きな青いソファーで寝転がって、授業の合間に昼寝していた(!)あの春のことだった。広い窓からは、桜と調布飛行場が見えて、なんとのどかなんだろ・・・と感激したものだった。着任早々は誰もドアをノックせず、勝手に入ってくることもなく、なんといい気分だったろう。自分の「城」ができたみたいで、凄く嬉しかった。が、それも10日間しか続かず・・・だった。そして、その10日間以降は、あまり思い出したくないことの方が多い日々だった。

ポルトガル語教員として着任したはずの私が、何故か大学院でその時始まった英語で紛争や平和構築を外国人の院生に教えるコースの担当とされ、新設コース故の無理難題と混乱を、結果として、一切合財引き受けてしまった。そもそも、紛争と平和構築の専門家がポルトガル語教員の新任の私しかいないところで、そんなコース始めるなんておかしなことだったのだが、「カネほしさ」というのだろうか。あの時、そして今も、大学というところは、キャッチーで新しくみえる何かをしなくてはならない「競争的事業主体」に成り変わってしまった。(その後、コースには専門家の先生たちを苦闘の末そろえることができたのでもう大丈夫だが)。

それだけでも、てんやわんやなのに、そして語学教員としての授業コマ・ノルマの多さにも辟易していたのに(なんと合計週9コマ!)、「競争的経費」という名の「文科省大学飴と鞭計画」のメンバーとして、あれもこれものプロジェクトに入れられてしまった。エクセルとパワポが使えて、NGOをしていた・・・というだけで。でも、日系ブラジル人をはじめとする日本の外国人児童の学習補助ほど、外大と外大生が社会に貢献できる事業はなかったので、これもまたよしとしよう。

今だから書けるが、着任して1年経過して「事件」が発生した後、毎日大学を辞めたいと思って働いてきた。だけど、始めたことはやり遂げる、しかも大きく成長させて、バトンを託す人を見つける/育ててから抜ける・・・のが信条だった私には、「辞める」という選択肢は限りなくなかった。自己否定に繋がるような気がしたからだ。結果的に、続けて、バトンたっちまで、いずれのプロジェクトもコースもやってしまったが故に、「あの人が被害者のはずがない」「鉄のように強い女だ」「ほら元気じゃないか」とかいって、組織的いじめがずーーと続く結果となった。

今となっては、そんな環境で、そんな気持ちを抱えながら、どうやって10年も過ごしたのか検討もつかない。病気になって分かったのは、最後はやはり自分の心と身体を優先すべきなのだ、ということ。倒れてしまったら、死んでしまったら、元も子もない。<=気づくの遅すぎ…。

ということで研究室。
「あれがない」ということは、この先に道が拓けていくのだ。
そのことは、断捨離的に、なんともいえない潔さと、嬉しさを感じる。

それにしても、石の上にも3年というが、実に11年。
気づいたら、着任した2004年4月から、11年の歳月が経っていた。自分でもよく頑張ったと褒めてあげたい。(駄目?)

大学の書類には、「次の職場」というのを書く欄があって、当然普通は定年退職でない限り(といっても最近は再雇用という制度もあるそうだが)、「次の大学」を見つけてから辞めるもんだ。
そして正直にいってしまえば、この間、色々な日本の大学から有り難いお誘いを受けて来た。年収は軽く3倍にも(!)なるポスト、教授ポスト、コース長等…有り難いにもほどがある。

相談したら、息子がいった。
「ママ〜今迄貧乏しすぎた〜!数年働いて辞めればいいじゃん!」

いや息子よ。
生き延びるためのカネのために一生懸命働くのは仕方ない。でも、カネ儲けのために働くなんて!(カネ儲けのために働くのであれば、わざわざ20年以上もNGOとかNPOとかいくつも作ってないわい!)

「だから僕はお小遣い1ユーロもないんじゃないか!だから僕自分で木工作品作って売ってるんじゃない!」
「おお素晴らしい〜。その調子、その調子。」
15才になる息子は、がくっと肩を落として、今日も注文された机を自然食品のお店のお兄ちゃんに売りに行った。しめて150ユーロなり。が、息子としては、10万円ぐらいほしいそうだ。カネがほしいというより、自分の作ったものの価値をもっとちゃんと認めてほしいそうなのだ・・・。

自分の人生の道を早く切り拓くって、素晴らしいことだ。
ひと事のように聞こえるかもしれないが、親は子どもに「やってあげること」を減らして「本人がやれること」を増やす後押しをする…が、「親育て・子育ての基本」だと考えている私には、これは重要なポイントだ。大学での教育も、たいした事はしなかったが、それだけは出来たと思う。無責任に聞こえるかもしれないが、よくある「放任主義」とこれは違う。

最初に彼ら、彼女らが考える場(時間・空間)を創造する。
ここから出てくる問いや想いに耳を傾ける。
自分で答えを導いていくのを待つ。
時に、一緒に考える。
そして、一歩を踏み出すのを励ます。見守る。
時にそっと、時にどん、と押す。
こけたら手を差し伸べる。
でも、こけるまで我慢する。
こけたところで一緒に考える。
また立上がるまで一緒にそこにいる。
立上がったら、見守る。
一歩でも半歩でも前に踏み出すまで…。
でも、せっかちなもんで、つい口を出し、手を出し、前を歩いてしまった。。。修行が足りん!

話は脇に逸れたが、カネのために大学で働いたことはなかった。
カネのためなら民間に行けばいい。
外資かなんかのマネージメントで働けばいいだけ。
なにも日本で一番給料の安い大学に行く必要はなかったのだ〜。
しかも、独立行政法人化後ゆえに、月5万円も約束より低い給料となった(博論が終わらず半年着任をのばした私が悪かったのだが)。5万円x12万円x10年間=600万円!
あこぎな話でんな〜。すまん。

そんなカネあったら、市民活動に投じていたものを、とつい思うのだ。有り難いことに、共働き世帯だったため、給料の半分以上は市民活動に消えた11年でもあった。おっと、それは内緒だった。家族には!(今でもこれは内緒話で、自分の休暇には大盤振る舞いが、普段はケチな連れには決していえないことだ)

でも、2004年4月のあの春、私は日本の大学で役に立ちたいと願い、学びたいと願った。
そして、この11年間、一度もそのことを後悔したこともなければ、一瞬たりとも気を緩めて仕事をしたこともなかった。つまり、私はとても、とても、大学での仕事にやりがいを感じ、言葉に言い尽くせないほど幸せだった。

何が幸せって、そこに学生たちがいた。
はにかみと懐疑心の向こうにある、キラキラした瞳の、世界に出て行かんとする若者たちとの出会い。
素直すぎて危うい、疑うことを未だ理解していない、大人になりきれない、磨けば(鍛えれば)光る原石のような。
優しくて、優しさ故に、遠慮してしまって、もはや自分の意見が何かすら見失った、迷い子のような。
人の役にたちたくて、でも行動を起すことに慎重な。
でも、時にするどい切り返しを、ばんばんしてくる熱いあの子たち。
お互いに頼ることを学び、一生の仲間を自分たちでつくっていった。

東京外国語大学に「アフリカ」という大陸がなかった時代に、
一ポルトガル語教員にすぎなかった私とともに、
「アフリカ」の名前を刻み込んだ先駆者たち。

大学に着任した時、一階のガレリアに世界地図の模型があった。
今でも覚えているけれど、それにはアジアと南北アメリカとヨーロッパと中東だけがあった。
そして、アフリカの位置にアフリカがなかったのだ!

「アフリカなんて就職できない人を増やしてどうするんだ?」
「外大の偏差値が下がる」
「フランス語がおかしくなる」

教授会で普通に行われる糾弾の度に、この私でもめげそうになったが、ある時から反論しないことにした。
なぜなら、これら先生たちの学生自身が、アフリカに出会い、変わっていき、これら先生たちの心を揺り動かしてしまったから。学生たちは、大いにすてきに暴れた。昼休みにゲリラ的にイベントをやったり、学内展示がつまんなかった外語祭で、物販からパフォーマンスから、講演会まで、あらゆることに取り組んだ。
大学の中だけでなく、外にも出て行った。

そして、アフリカを学ぶ場がなかった東京で、「アフリカここにあり!」というほどの実績を積み重ねていった。
2004年時点で、「可哀想なアフリカ」だったのが、彼らの活躍のお陰で、「なんか面白い?アフリカ」、「アフリカ本当に知らなくていいの?」に変わっていった。それが、大学を動かしたのだ。

2013年、東京外国語大学にアフリカコースが出来た。
15人定員のコースで、「学部のアフリカの社会科学のコース」としては日本で初であった。
英語圏アフリカとフランス語圏アフリカの先生たちも着任した。
もう思い残すことはなかった。
なのにすぐに離れる決意をしなかったから病気になったのかもしれない。
(ちなみに、何故ポルトガル語教員がアフリカ?!と疑問に思っているあなた様。世界で最も多い数のポルトガル語を公用語とする国がある地域は、アフリカですよ!実に5カ国。)

東京外国語大学で、彼女・彼らと過ごした濃厚で充実した11年間を、30代から40代半ばという人生の中でも重要な時期を過ごしたあの一時代を、決して忘れることはないだろう。(といっても5足のわらじを履いていたので、他の活動も含めてのことではあるが...これはもうやらないけど。わらじは二つでいい。人間には足は二つしかないから。その当たり前も気づけてよかった。)

2008年だったか9年だったかに、「日経ウーマン」という雑誌のインタビューを受けた時、「大学には10年しかいるつもりがなくって、「次」を考えたい」といった時、インタビューをしてくれた人がとても驚いたのに、正直私の方が驚いたのを昨日のことのように覚えている。私にとって、それはごく自然なことだったから。あまりに驚いたからか、それを記事の最後の台詞としてくれた。

人生10年置きに見直してる。
たった4回分しかしていないけれど、10才、20-24はモラトリアム、24才、34才、44才、それぞれで、それまでの10年を見直して、生き方を見つめ直して、次の展開を考えてきた。だって、人生は一度きりだから。しかも、60才まで後15年しかない!・・・としたら、もっと自分の中の可能性の幅をもっと試して、色々なことに挑戦したいじゃない?

まだ出会っていない「自分」に、出会ってみたいと思う。

自分はこういう人間で、この仕事をして、これまでこうだったから、これかもこうだよね・・・という生き方は楽かもしれないけれど、それで墓に入る時に自分の人生を振り返った時、それでいいの?というと、私は「違う!」と思ってしまうたちだったのだ。

だから、あえて自己点検のためもあり、10年おきという期限を区切って、考えることにしてきた。毎日を猛スピードで生きてきたこともあって、一旦立ち止まることが余儀なくされる時間を、どうやっても確保する仕組みにしておこうと考えたというのもある。

とはいえ、11年。
なので、予定から1年余分になってしまった。
少し欲が出てしまったのだ。
未だやり残したことがあるんじゃないか…そう思ってしまった。
できたてホヤホヤのなコースのスムーズな出だしを、見届けたいという欲が出てしまったのだ。
でも、それもまた人生。
あの時、投げ出さなくてよかったとも思う。

また、大学の仕事というのは、若い学生との継続的な仕事であるが故に、途中でいきなり辞めるということは、他大学に行くのであっても難しい。他の先生には難しくないのかもしれないが、「実験的教育(自分を含め)」を志してきた以上、ポーンといなくなるということもできなかった。背中を押したのは、意外にも「病気」だった。

だから、今となっては「病気」にもすごく感謝している。
「病気さん」が私のところに訪れてくれなければ、私は今でも東京外国語大学にいたかもしれない(ひー)!
惰性によって…。

また、残してしまう学生たちに、やはり「申し訳ない」という気持ちには打ち勝つことができなかった。
でも、よく考えたら、「私がいなきゃいけない」というのは私の勝手な思い込みで、私がいないことによって彼らが得たものも多かったはずだったのだ。否、そちらの方がきっと大きかった!

病気になった理由は、まさに大学の「お陰」であるが、今となってはそれについても感謝している。30代から40代初めの「学習」としては、それはそれで良かったと思う。つまり、「日本の古い組織というのは組織のためにあるのであり、その組織の上に立つものはいつの間にかその論理にがんじがらめになる。たとえ、かつて「素晴らしい研究者」であった人でも」ということ。そして、大学といえでも、「お役所」的組織に、限りなくなってしまった現在の哀しい姿を、外大の一員としてではなく、外から眺められることに、心から感謝している。
あのままいたらもっと腐っていたかもしれない。
自分の弱さもあって。

日本はどこに行こうとしているんだろう。
日本の大人たちはどこに行こうとしているのだろう。

サバティカルの半年間と病気の1年間、日本の外にいたこともあって、そのことをずっと考えてきた。
こういう日がくると思っていた。

だから、アフリカの紛争と平和論の授業だというのに、2006年からは、日中戦争における民衆の動員の手法や尖閣諸島の問題を具体的に学生たちにワークしてもらい、何回もの授業を潰して内在する危うさを表面化させ、それを赤裸裸な形で目の前において、皆で議論し、「戦争に民衆を向かわせるシステムのからくり」を理解してもらったのだった。

学生たちのレポートは素晴らしい出来だった。「外大」故に、日本のことを知らず、受験故に「日本の現代史」を十分学習してこなかった若者たちだ。自分で調べ、書いた、日本の過去…それを互いに添削コメントし、チーム内で発表し、「いかにすれば民衆は最も効果的に戦争に動員できるのか?」という恐怖のテーマでチームの考えをまとめていった。その上で、「どうすればこのような動員に抗うことができるのか?」を話し合い、提案してもらった。それを、皆の前で、模造紙に書いた結論を示しながら、次々と発表するチームの学生たち。「遠いアフリカ」から「遠い日本の過去」を学び、「今・自分の立ち位置」を考える…そんなおかしな授業に、真剣に、毎年取り組んだ学生たち。あの授業は、私の中で実は一番好きな授業だった。

そして、仲間達と勝手に編み出したルカサという手を使った「暴力空間」を創出し、それを「平和化」するワーク。尖閣問題をやった時に、皆が自分の中のナショナリズムの強さに驚き、立場をスイッチした時に、相手国の人の気持ちに気づき、それを可視化し、ガレリアに1週間展示した。あれも、私の中では手応えを感じた授業であり、ああいう参加型学習が1.5時間の細切れでしかできないことが非常に残念だった。

いずれにせよ、私が若い頃をのほほーんと過ごせた日本とは劇的に違うものになっていく・・・そんな予感があった2006年ぐらいから、こういうことを延々と学生たちとしていたのだ。おかしな、オカシナ、奇想天外な、、、そんなセンセーと授業に、よくついてきてくれた学生がいたもんだ。まあ、外大なんで、私もある種の「異文化経験」だったのだろう。

そして、2011年3月11日の大地震とそれに伴った原発事故。
人びとの自覚が強まるが故に、権力側はそれを押さえ込もうとあらゆる手を打ってくるだろう…そう気づいた。だからこそ、あれやこれやの活動に今迄以上に身を投じていたのもそのためだった。

しかし、2015年5月の現在、このドイツで思うことは、日本が踏み込んではならぬ泥濘に、ついにどっぷりと足を踏み入れてしまって、皆その事実を理解しているのに、足を取られてしまって身動きできない状況にいるということを、自分の無力感とともに見つめている。

今自分ができることは何なのか?
少なくとも、日本のどこぞやの大学に戻って、また別の10年をすることではない。
日本にこだわるからこそ、今日本にいてはいけない、とも思う。
やることはやった。
できることもやった。
しかし、私の力を沢山のことが超えていた。

今、私は日本から遠く離れた場所で、もう一度日本の過去と今と未来を、真摯に考えなければならない時期にいると感じている。

その日がくるであろうことはずっと分かっていたものの、こんな風にくるとは思っていなかった。
色々な学会で重要な役回りにきて、色々なことができるだけの実績や経験も積んで来たはず・・・の40才半ば。でも、突然病気になり、起き上がることも、思考をまとめることも、そもそも本をまともに読むこともできなくなってしまい、大学の研究室に足を踏み入れることも、大学の校舎に近づく事もできなくなった時、私は一旦すべてを捨てるという選択肢しか、持てなくなったのだ。

そして、それがなんと素晴らしくよかったことか〜!
といっても、性格上、全部を一気に気持ち良く捨てることができない私は、専門家の先生たちや同僚たちや学生たちや仲間達の厳しくも温かい励ましを受けて、2年近く一見無駄な時間をのたうちまわりながら、しかしようやく一歩踏み出すことができたのだった。それもこれも、家族と皆のお陰である。

基本的に関西人的厳しいコメントで有名な舩田家の人びとが、この1年間は何もいわなかったのは奇跡だったのかもしれないが、救われた。連れや子どもは苦しかったろうが、耐えてくれた。大学の同僚や学生や活動の仲間達にはすごくすごく迷惑をかけたが、信じられないほど広い心で協力してくれた。

病になって、本当の仲間の素晴らしさを、専門家のありがたさを、そして自分の中に残っていた大切な力のことを、本当の意味で知ることになった。この経験を、40代半ばにできたことを、感謝してもしきれない。

「次」をワクワクするような気持ちで眺めている。
未だ十分体力も気力も知力も戻ってきていないので、一歩ずつ、時に数歩戻っていくだろうけれど、今唯一無二の自分の人生を、毎日感謝しながら生きている実感を手にしている喜びを、どうやって伝えれば良いだろうか?

雨降って地固まる。
苦しんだ分だけ豊かさを知ったような気もする。
苦しみの中でも人は種を撒き続けるものなのだ。

若い頃は苦しまないのが幸せだと思っていた。
今は違う。

苦しみと幸せは隣り合わせで、それでいいんだ。
人生は思った以上にもっと芳醇なものであって、自分ももっと肥やせるはずなのだ。
今の自分に満足してしまうのであれば、NEXTはないから。

でも、自分の幸せは自分の手の中にあることも事実。
苦しみは人を停止させる。
でも、だからこそ、きっと学びが大きいのだ。

いつかそのことをもっと上手いやり方で伝えられる日がくればいいな、と思う。
今はすべてに感謝の毎日を過ごしている。

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by africa_class | 2015-05-22 04:53 | 【徒然】ドイツでの暮らし