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カテゴリ:【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて( 8 )

大学1年生向けの本:執筆秘話(その1)

家族が来襲し忙しい。
昨日はトマトになんとか支柱を立てた…。私がいない間に勝手にトマトの横にキュウリを植えるという不思議をされてしまったので、キュウリをなんとかせねばならぬ・・・。トマトと共に植えるべきは(コンパニオンプランツ)、ニラ、バジル、パセリだと伝えたのに・・・大きく葉っぱを広げたキュウリのせいでパセリも枯れ枯れ。

3月に外大を辞めた。その理由は色々あって既に書いた。
http://afriqclass.exblog.jp/21252293/
書いてないことの一つに、教室に留まらない、国内に留まらないもっと広い層の学生と色々したいなあ、と感じるようになったこともあった。勿論、外大の教員をやりながらも不可能ではないけれど、目の前の学生に全力投球してしまう私としては、物理的にそういうシチュエーションから自分を切り離すことは必然だった。

なので、今、日本の大学1年生向けに本を書いている。
ずっと前に着手して、卒業生が出る度に「いつかその本を贈呈するね」と約束して早8年が経過。本腰を入れたいと思うのようになった。が、他に既に出版社が決まっている学術書や一般書があって、それをやらないでやってる場合か・・と良心の呵責もある。ブログ書いてる場合じゃないが・・・学術はやっぱもっと気合いと良い体調が必要。これを万一みてる関係者・・・すまん。気持ちが向かないと、やっぱりなかなか一事が万事片付けられない(言い訳だけど)。なお、「大学1年生向け本」は未だ出版社を探してないから、関心があればご連絡を。

私が作ろうとしている大学1年生向けの本は、「大学で学ぶ」のは何故なのか、それはということはどういうことなのか、その先に何を見据え、何をどうしておくべきなのか・・・についてのもの。誰もなかなか教えてくれないテクニカルな部分も、何故そうなのかも含めて紹介しようと思っている。なので、「スピリット(精神)」「メンタル(心)」「アプローチ(心構えを含む)」「アクション(行動)」「レヴュー(振り返り)」があって、「自分と社会/歴史との関係性(連続性)」を重視したものとなっている。

このような本を作ろうと思った背景を少し紹介しておく。それは、日本以外の国々での大学(院)教育や研究・学術の位置づけに触れてきたことと関係している。

例えば、今ヨーロッパのある国の大学院生たちが私のレクチャーを企画してくれている。音頭をとってくれているのがブラジル人の博士課程の学生だというのも嬉しい。2年前に英語やポルトガル語で論文を発表するようになってから、世界の色々な国の若者から沢山の問い合わせがくるようになった。中には厳しいコメントもあるが、彼女・彼らのそういう率直さが凄く嬉しい。しかし、下手な英語・ポルトガル語での執筆を支えてくれているのも、ボランティアでプルーフリードしてくれる若者たちだ。そういう風にコレクティブに学術論文が「つくれる」のも素晴らしい。自分の書いたものが「社会のもの」になる感覚は、日本の学術界の要望に応えて書き散らした論文や原稿では得られなかったものだ。勿論、そこで先輩たちに鍛えてもらったから今日がある。

忘れもしない、1999年…初めてアジア研究所の依頼で書いた論文の酷さ…。日本語は支離滅裂で論理的一貫性は欠落し、とにかく何がいいたいのか分からない…。せっかく機会をもらったのに、たった2ページが書けない。。。穴があったら入りたい程のものを、研究所の皆さんが本当に丁寧にコメントくれ、修正案を示して下さった。中にはほとんど同い年の研究者もいて、正直自分の出来なさ加減がショックだった。彼は今でも理路整然として素晴らしい論文を書く。皆さまのお陰で一応学術論文のイロハに従って書けるようになったものの、言いたい事は山ほどあるのに、短いものにまとめる能力がないのは、相変わらずだ…。成長しないんだね、私。

でも、現場が好きで実務(国連PKO)からこの業界に入り、学者になるつもりが全くなかった私としては、そして修士までディシプリン教育をまったく受けられなかった外大出の私としては、こういう先輩たちの支援と励ましがなければ、とてもじゃないけれど研究者として人を教えるなどという立場には立てなかった。だから、日本の学術界の、特にアフリカ学会の、こういうコレクティブに仲間を育てるスタイルは本当に重要だし、今後も続けられるべきものである。

が、この年齢になって、記憶から消したりたいパーツを思い起こしてみれば、実際はもっと前に沢山の人に沢山のことを教わっていた事実にふと突き当たった。あまりにも拒否感が強すぎて完全に忘れ去っていた多くの出来事…。本当は、「ゼロ」なんかではなく、本当に多くの人びとに多くのことを教えてもらっていた。このような「自動記憶抹消」とそれを思い出すことの苦痛といった衝動から逃れるのにも、実に20年近くの歳月が必要だったのだね。

実は、先日書いたブログに出てくる「お父さん」は米国のとある国立大学の現代史の教授で、私は彼の同僚である中南米現代史の先生と、20才の若さで何故か共同研究をしていたのだ。そのきっかけは何だったかすら記憶にないが、私が日本人で英語とスペイン語とポルトガル語を「(怪しくも)話せて」、その前年にメキシコに行って、次にブラジルに留学に行くと聞きつけて、ペルーのフジモリ大統領の伝記を書いていた彼が、もう一人の社会学者との3人での共同研究と本の企画を持ってきたのだった。要は日本語が読める人が必要だったんだね。

あんまり気乗りしないままに(その後も同様、だって学者になるつもりがまるでなかった)、「でも約束したから」という理由と出版社の契約書にサインしてしまったからというだけの理由で、何年か共同研究し、学部の卒業論文をそのテーマで書いて、それを英語にして、その時期に日本に急速に流入していた日系人の調査をして、で本が出来た(The Japanese in Latin America, Illinois University Press)。が、まるで学問のイロハを分かっちゃいなかったし、あまりに中途半端な感じだったので、イリノイ大学からくる印税の小切手を一度も換金しないで現在に至ってしまった。

あの最中は自覚がなかったが(そして今の今まで)、でも、今振り返るとこの経験は凄く自分の中に根をおろしていたことに驚く。

彼は、アメリカの公文書館に行っては1990年初頭に50年ルール(通常30年ルール)で開示され始めた、本来は厳しく開示が限定されていた軍や警察の資料を、山というほど入手して、片っ端から読んでいた。そもそも大学2年生の私にはその意味がよく分からず、彼の知的興奮と眼鏡の奥で光り輝く好奇心を眺めながら、現場であるラテンアメリカでの現地調査を重視しない彼を批判的な目でみていた。でも、彼は在米のペルーから連れてこられて収容された日系人へのインタビューを開始していて、もう一人の共著者である社会学者と地道にインタビューを積み重ねていた。その際に聞き取った調査票の束を前に、彼は途方に暮れていて、取ってきたもののデータ整理できない自分を嘆いていた。「彼はこの本を完成させないと准教授から教授になれないんだよ・・・彼が少しでも怠け者の自分を乗り越えたら素晴らしい学者になるのに」、とお父さんはおっしゃっていた。

確かに彼は「(学問に)怠け癖」がある人だった。3人の子どもたちと遊ぶのが何より好きで、遊びといっても走る・泳ぐ・飛ぶ・・・だった。そして、よく子どもたちに本を読んでいた。そのまま寝てしまうことも多々あった「よきお父さん」であった。

でも、彼はマラソン選手だった。
そして、彼は学問の社会的意味に拘った。
だから、自分の昇進よりも(つまり本を書くよりも)、もっとがんばったのは、自分の学術的なリサーチの成果を社会運動に提供することだった。アメリカにおいて、日系人の収容はよく知られているが、ベルー等の南米にいた日系人が米国に連れて来られて収容所に入れられていた事実は当時知られていなかった。

今でこそNHKでもドキュメンタリーが放映され、以下のように当時の事を語るインタビューが視聴できる。
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/624/
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/profiles/32/

でも、当時はそういう状況ではなく、彼の研究もまた補償運動の皆さんと二人三脚であった。微力ながら、私もお手伝いしたりした。1999年にビル・クリントン大統領が謝罪をして補償を約束するまで、現代史を共に生きる歴史家として、彼が果たした役割は大きかった・・・と、今頃になって思う。

しかし、ブラジルにスラムでの貧困の問題をスラムの中から考え・研究するために行きたかった私としては、なんともコミットするほどに心が動かなかったのである。歴史アプローチよりも、社会学的アプローチに関心があり、究極的には過去のことではなくアクチュアルな平和と暴力の関係に切り込みたかった。アメリカ社会に関心がなさすぎたせいもあったかもしれない。冷戦が終焉するしないのあの時期、中南米からみたアメリカは「介入者」として見えたし、まだ「唯一の大国」としてブイブイいわしていたころで、「ああ、やだな・・・」と思ってしまう何かが蔓延していた。なにせ、1989年夏、18才の大学1年生夏に独りで向かった先がインド、そして当時は第三世界とよんで間違いのないスペインとポルトガルだった・・・という始末。

彼があれほどのこだわりと粘りを見せたのは、彼自身がアイルランド移民二世だったこともあるという。自分の問題意識に根ざした研究は、すぐには花を咲かせず、社会運動に没頭したとしても、必ずいつの日が大輪を咲かせる日がくるもんだ、ということも彼から学んだと思う。

賛成できないことが大半のアメリカであるが、底力のように凄いところは、色々なものを呑み込みながら、プロとコン(賛成と反対)がぶつかりあうことをよしとして、物事を前進させようという気概がある点である。だから、見せてもらって公開文書には、ばっちり個人名も残っているし、その人が在職中にとっていたメモ用紙までそのままファイルに残されている。というか、ファイルごと残っているのだった。軍とか警察とか、安全保障関係のものほど、きちんと整理されて公開されている(隠されているのもあるだろうが、かなりの程度30年、50年ルールを過ぎたものは公開)のである。そして、それらの記録の詳細を知らなくても、司書の人に相談すれば凄くがんばって色々リストを出し、資料を出してくれる。そういう経験を、大学2年生程度の私が出来た事自体、感謝してもしきれない。

実はそれから18年ほどが経過した4年前に、ワシントン郊外の米国アーカイブに行って冷戦期の米国の対世界戦略とアフリカ政策関連の文書を調べている時、もう退職した先生が会いに来てくれた。私は自分の本を渡しながら、先生との共同研究がいかに私に大きな影響を与えたのか、あの時は自覚がなさすぎて、ただ世界の現場に行きたい一心で十分感謝できなかったけれど、今日ここに自分があるのは先生のお陰だとすごく強調したら、先生ときたら、「でも僕のお陰というより、君は息をせずに25メートルのプールが往復できたからね。つまり、我慢強いから」・・・だった。

先生には、先生の子どもたちと私のあの競争が凄まじい印象だったらしい。私も未だ若く、そういうことにこだわりをもってた・・・。でも、私が息をせずに長時間潜れる理由は別にあった。幼子の私が海に身投げしようと考えた理由とも絡むがそこはさておき。あの子たちももはや家庭をもって各地で活躍している。でも、先生は照れくさかったんだと思う。先生のこういうひょうひょうとした、利己心の薄い、故に「怠け者」なところは、心底尊敬する。先生は、アンデスの山々が似合う先生だった。

もう一つ先生との共同研究で学んだのは、当時日本では未だワープロ全盛期にあって、「インターネット?メール?それなに?」の時代に、メールでやりとりしながら共同研究を進めるということが当たり前のものだった点だ。そして、先生が米国中南米歴史学会のメーリスで、ある学説やある新刊本について、コメントを書くと他の人たちがそれをさらにコメントして、一つの学説が、遠隔で、でもリアルタイムでどんどん鍛えられていくのを、目にしたことも刺激的だった。(と同時に意味が分からなかった。どうして、一つのメールを全員が読めるのか・・・どうして今書いたメールがどこでも後でも見れるのか・・・など。説明されても一向に分からなかった。。。)

今ドキの学生なら驚かないだろうが、なにせ当時「ポケベル」の時代。ポケベルに「カイシャ」と出ると、公衆電話に走って会社に電話した時代なのだ!携帯なんて自動車用のものしかない時代。その原理がどうしても理解できない私は、先生が、何故パソコンを常に立ち上げていて(これもワープロ世代には驚きだった)、そこに入ってくるメールを気にして仕事をしていたのか・・・横目で眺めていた。正直、そんな箱の中、顔が見えない相手とのやりとりに時間使ってる場合かよーーー天気いいから子どもたちとプール行きたい・・・の心境だった。思えば、彼との年の差は20才以上。子どもたちとは6才だった…。しかも相手は博士で、准教授。こっちはただの英語もろくに出来ないアジア人の日本の学部生だった。なのに、本当に一点の曇りもなく、対等に接してくれた。アメリカには時々そういう人がいる。公平な人びとが。

他方、お母さんとプロテスタントの教会にいって、哀れな東洋人(赤子的)と扱われた時には心底腹が立ったし(まあそれぐらい英語が出来なかったから仕方ないのだろうが)、「白人として哀れな有色人種には優しく接しなければならない」という押しつけのようなものを嗅ぎ取って嫌気がさした。聖書を学ぼうの会も、正直辛かった。日本の植民地支配はあからさまな人種差別に基づいたものであったことが多いが、20世紀後半のヨーロッパのそれは時にそれが家父長的な様相を身にまとっていた。キリスト教の普及という正当化の論理が使われていたこともあろうが。どちらがどうではなく、そういうものの根っこにある人種差別意識というのは、私の中で強い印象を与えた。

その経験から、米国の人種差別とブラジルのそれの違いについて意識するようになっていった。アフリカンビートへの関心から、おのずとアフリカンアメリカンの歴史に、そして北東部ブラジルのコミュニティに、しまいにアフリカまで辿り着いたのだが、これらすべては偶然ではなかったように思う。アフリカに行くつもりがこれっぽっちもなかった私が、ブラジルで学んだポルトガル語のお陰で、国連の仕事でアフリカ(モザンビーク)に行けたことは、偶然であったが今思えば必然だったのかもしれない。

だから若い頃に、「自分はこうだ」とか「これが好きだ」「これしか興味がない、したくない」という考え方はしない方が、可能性が広がって、自分のちっぽけな脳みそでは思いもよらなかったような機会に恵まれると思う。

抹消していた記憶が戻ってくると、洪水のようだ。
あの夏、先生の家の芝生に水を撒いた後の青々しい匂いとか、プールで飛び散った水滴がキラキラと輝いた感じとか、あの3人の子どもたちの歓声とか、昨日のことのように思い出す。なのに、どの子の名前も、その顔も思い出せない…。

あの共同研究の中で、私は「論争」というものを学んだ。
全ての事柄には論争があるのだということを。
そして、それは決して悪いことではなく、多様な角度で眺め、多角的に議論することで、物事は前進していくのだということを。それに慣れるのは容易ではなかった。日本人にとって「和をもて尊しとなす」のが当たり前である以上、相手が間違っていると思っても、おかしいと思っても、それはのみこんでしまうのが美徳であった。若い女性ともなれば、なおさらのことであった。

しかし、クリティカルな目線、実証に基づいた議論は、それが誰であれ当然のこととして受け入れられる世界に、少しばかりの間であるが、浸ることができ、そのことの重要性と可能性の一端を垣間みることができた。そこがカクテルパーティであろうとも、招かれた知人宅のバーベキューの場であろうとも、「あなたはどう思う?」「どうして?」・・・そう聞いてくれる大人達に、どれぐらい考え・語る機会をもらったことだろう。

でも、彼はあれやこれや「教え」たりしなかった。ただ一緒に執筆していただけだった。私の書くものにまったく口を出さず、「ブラジル・日本担当」というだけが決まり事だった。最初は戸惑った。何から手をつけていいかもわからず、膨大な参考文献リストの海の中で溺れそうだった。でも、英語文献で書かれていることと、日本語文献で書かれていることのギャップに気づいた私は、英語文献ではほとんど書かれていない明治期の日本の移民史にはまっていった。今から思うと、英語文献の世界で「自分だけができること」を追求した結果だったかもしれない。

明治の日本人がどうやって外に目を向けて海を渡っていったのか?また、冷戦終了直後の「国際化」を叫ぶ日本にあって、若者として、一人一人のライフヒストリーや声に心惹かれたというのもあった。国会図書館には膨大な量の資料があって。移民文庫については資料室があった。全体の閲覧室の無味乾燥な雰囲気と比べ、その空間が居心地良かったというのもある。休みになると関西から出ていって、朝から閉館までひたすら資料を読んだ。外務省に移住課があって、そこの皆さんにもインタビューに行き、資料を借り、日系人協会でもやはり同様だった。

私が最も惹き付けられたのは、これら「戦前移民」たちの手記や俳句や和歌であり、送り出した側(日本政府関係者)の会議の議事録であった。そして、英語文献をよみながら、そして彼と議論しながら、戦前の日系移民が新大陸への他からの移民と決定的に違っていたことについて思い至ったのであった。
つまり、「出稼ぎ」という言葉に示されている戦略である。

米国や中南米側からみたときに、「移民(移住者)Migrants」と一括りにされてしまう彼らが、実は「いつかは日本に帰るつもりの出稼ぎ者/人(sojourners)」であったこと、その結果ホスト国と日本と自分たちとの関係が、他の国や地域からの移民と著しく違う点であったこと、そして、そのことが第二次世界大戦直前から最中、そしてその後に及ぼした影響の大きさ・・・これらは日本人であればある程度推測できることが、英語の学術界では十分に理解されていないことが私には逆に驚きだった。

そこから私の関心はブラジルで生じた「勝ち組」「負け組」の衝突に向かって行った。この現象を、英語世界の人たちに分かる形で提示したい・・・と思ったのである。(大学の卒業論文は結局これをポルトガル語で書いたものであった。しかし、その100ページを超える大作も、引っ越しの際にどこぞやに行ってしまい、もはや幻のものとなってしまった…)。

また、日本向けには、初期の南米出稼ぎ者が、必ずしも困窮した人たちがいったわけではなく新天地で自分を試したいという野望を持った人たちが多かったことなどを突き止め、先行研究を引用しながら、一人一人の環境や想いを歴史的動態に繋げようと試みた。私が稚拙な英語で送るそれらのレポートを、彼は丹念に読んでは質問を返してくれた。それに基づいてさらにリサーチを進めていった結果、当初の予定とは大幅に逸脱する章立てとなってしまった。

結果、当初3人で書いていたこの本が2人の本となっていった。何故ならもう一人は南米をフィールドとする社会学者で、日本の歴史なんか興味ないのに本がどんどんそっちの方向に行くのに耐えられなかったからだ。出版社からも、日本の部分が長過ぎるとクレームがきたのに、彼は「ある歴史条件の中で、人が海外に向かい、滞在者となった後、移民になっていくプロセス」への私のこだわりにつき合ってくれた。本の表紙の写真を彼が提案してくれたときに、そのこだわりをいかに彼が共感し、共有してくれていたのか分かって、すごく感動したことを覚えている。

学部を終え、大学院に通いながら1年ほど追加で調査・執筆して、私の役目を終え、私はこれで一生学問と関わることもないな、という確信とともに、そして当時のパートナーに指輪を返し、戦争を終えたばかりのモザンビークに旅立った。その後も、本の最終化のプロセスであれやこれやがあったのだけれど、そのパートナーとのあれやこれやのもめた時期でもあったため、一切合切を記憶から抹消してしまっていた。。。今思えば、若かったなー。そこまで一生懸命忘れようとする必要はなかったのに、と。

でも、以上の色々を今日まで忘れてしまっていた理由には、本当の意味では自分のものに出来ていなかったことだったからということもあると思う。見よう見まねで、ただ流れに身を任せ、本を書いた。もはや恥ずかしくて読み直すことすらできない本を・・・。この本は、そのほとんどを担った彼のお陰で米国の学術本の選書トップ50に選ばれ表彰され、未だに米国中南米史学会から招待がくる。でも、それは本当の意味では私の実力ではないし、内実を伴ったものではなかった。その申し訳なさから、4年前まで彼に連絡を取ることすらできなかった。

人生というのは予期しない曲がり角を準備してくれるものだ。
モザンビークからかえった24才の私は、国連の次の仕事に行くか迷っていたのだけれど、自分のどうしようもない英語能力や専門知識の欠如をなんとかせねばんと考え、米国の大学院に行ってなんか学位ぐらいは取っておいた方がよいかな、などと考えていた。まあ、よくあるパターンの発想だ。それで修士論文を英語で書いておいた方がよいなということで、これまたどうしようもない英語でつらつら書いて出した途端に、阪神淡路大震災にあったのだった。

続きはまた今度・・・。
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by africa_class | 2015-07-30 21:52 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

【基礎ゼミ:大学で学ぶこと~技術編(1)】授業発表レジュメの作り方

*この記事凄く読まれているようなのですが、11月にこれをアップした後、1年生の作成したレジュメをみたら、趣旨が伝わっていなかったようなので、緑のバーにした部分を加筆しました。また、「分からなかったこと&調べたこと」と「問い」の順番を変えました。(2013年4月29日)

*1年生向けの本を来年には作りたいと思っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~
今年後期から外大では1年生向けの基礎ゼミが始まりました。担当して、色々気づきが多く、皆さんとも共有したかったのですが、あれやこれやで出来ずじまい。レジュメから入ったわけではないのですが、手元にデジタル化できているのはこれだけなので、とりあえず送っておきます。またシリーズにしますので、よろしく。
 以下、あくまでも私の考えるレジュメ。色々バリエーションはあるかと思いますが、参考まで。適宜自由にお使いください。(役に立ったかどうか、是非フィードバックを)

========================
レジュメ(resume)の書き方(舩田クラーセン2012年11月6日バージョン)
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発表する場の詳細

文献のタイトル
発表日
自分の名前

■著者紹介 
どこの誰、何学、何研究、過去の著作

■掲載されている出版物(本・新聞・ジャーナル)の紹介
どこのどのような誰が編者、共著者はどのような人たち、何の目的で出版されたのか

■文献の狙いと手法
(「はじめに」等に書かれていればそこで説明)

■内容 
(*基本的に文献の構成に沿った章・節・項の見出し)
(*見出しの次に、箇条書きで内容を数行で示す)

1.小見出し 
(1)さらに小さな小見出し
(2)さらに小さな小見出し

2.小見出し
(1)さらに小さな小見出し
(2)さらに小さな小見出し

3.小見出し
(1)さらに小さな小見出し
(2)さらに小さな小見出し

■分からなかったこと&調べたこと
a.――――――
<=調べたこと(参考文献の著者名・出版年・ページまで示す)
b.----------------------
<=調べたこと(参考文献の著者名・出版年・ページまで示す)

議論のための問い
(勉強不足で分からなかったことではない!)
読んだ上で浮かんだ問い。皆と議論したいポイント
・======
・======

■感想
「ためになった」「勉強になった」ではなく、自分の研究やビジョン、考え等にどのような貢献があったのか、なかったのかを書く。読んだ上で、次にやりたいこと、やるべくことを書く。

■参考文献一覧
【単著の場合】
著者、出版年、タイトル、出版社
【共著の場合】
著者、出版年、タイトル、編者名、本のタイトル、ページ、出版社
【ジャーナルの場合】
著者、出版年、タイトル、ジャーナル名、巻号、ページ、出版社
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by africa_class | 2012-11-09 11:35 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

期末試験問題&回答「一国」を世界的、地域的構造と主体で把握する重要性=日本の新聞政治部の課題

今日は大学二次入試前期日程。今年の1年生の去年の今頃の姿
だと思うと、なんだか愛おしくなり、心の中で「がんばれ!」とつぶや
いていました。が、全員は合格できないんだよね・・・。
 さて、アフリカ平和・紛争論の振り返りをしたいと思って2週間経過。
ごめんなさい。自分の専門ということもあり、また今年は特に実験的
授業であったこともあり、もう少し寝かしていいかな?4年生には個別
にレポートと期末試験返却日程のお知らせメールしておきました。こ
こまでして返却したい理由。それは、皆力作だったから。そして、私の
添削・コメントも力作だからです(つまり真っ赤)。在校生は4月の月・
4限の最初の授業(115教室)の前後に返却します。
 ということで、明日(もう今日)はモザンビークに行きますが、答案用
紙を持っていくわけにいかないので、出発前に地域基礎の皆さんの
書いてくれたことをベースにお返事しておきます。来年度から地域基
礎は担当しないので、質問と答えを書いておきます。テストはポルト
ガル語の授業(来年の2年生の授業)で返却します。関係ない人も
「腕試し」にどうぞ~。
 なお、何度もいいますが、私はありとあらゆることを教えさせられて
おり、後期は外部も含め10コマでした・・・。学生でもついていけない
数です。中級ポルトガル語から上級、アフリカ地域研究に、国際関係
とアフリカ、平和と紛争、ポルトガル・アフリカ地域基礎に、国際ボラン
ティア論まで・・。確実に、3人別々の教師が教えるべきところです・・。
学生数は通年で延約600人・・・。今年はこれに福島の活動やらなん
やらで、正直なところ10月―11月はほぼ危機的状態にありました。
 という愚痴はこの辺までにして、試験問題でした。

1.ヨーロッパがアフリカ分割に至る背景にあった当時のヨーロッパ
社会の状況

←ヨーロッパでの資本主義経済の広がり、1870年の不況から社会
 主義への警戒、ナショナリズムの利用と帝国主義・・・>アフリカ分
 割の話をしたつもりだったけど・・・あてずっぽうな感じの答案多かっ
 たです~。
2.19世紀半ばまでにモザンビーク北部に出現していた社会の特徴
←奴隷・火器サイクル、奴隷交易による首長への権力集中やイスラ
ーム化、首長連合形成による民族形成の可能性。
(なぜか20世紀のこと書いている人が続出・・・)
3.ポルトガル植民地支配の基本的性格が1920年代後半から40年
代にかけて変化する契機

←確かにサラザール政権が誕生したことが影響するのだけどその背景
 は???戦間期の不況。それから綿花輸入による対外債務超過。
 第二次世界大戦の勃発による物資不足による本国紡績業の活気と
 原材料不足。そして奴隷交易・制反対のような「国を超えた運動・
圧力(ただしこれは英帝国主義の欺瞞でもあるのですが)」が大戦勃発
によりなくなったこと・・・だったよね?
 (なぜか1960年代のことを書いた人も多く・・)
4.アフリカの人びとの抵抗のあり方について印象に残ったこと、その
理由

←大半の人が、「一次抵抗(暴力抵抗)」が無理だった後に民衆が日常
 的に実践した「消極的抵抗(日常的抵抗)」について取り上げました
 ね。特に、強制栽培させられた「綿花の種を煮る」という抵抗手法に
 感銘を受けていましたね。これは、皆がさんざん自分たちなりに抵抗
 手段を考えたものの、これについては思い付かなかったからでもある
 でしょう。参加型学習の面白さを、この瞬間感じてくれたかな?
←みんなの考えた「抵抗」の中に、「スト」「ボイコット」「自殺」「自傷行
 為」がありました。逆に、色々考えさせられた提案でした。これについ
 ては、「アフリカ平和・紛争論」で取り上げた「抵抗」についても共通す
 る点があるので、アフリカから帰ってきたらまとめて書きます。
←また、「歌・踊り」の重要性に感激していた人も多かったですね。
 ブラジルの元黒人奴隷の人たちや子孫をみればそれは分かることで
 もあるのですが、「文化・アイデンティティを失わない(尊厳を失わな
 い)ということを通じての抵抗」は、世界中で試みられたことです。
  日本のヤマトはこの意識が薄いのでこれが分かりづらいことでしょ
 うが・・・。日本の少数民族は文化を否定され、捨てさせられてきた歴
 史を有するので、ヤマト以外の人にも共通するかもしれません。(ただ
 し、関西人にはこれかなり強いのではないかと・・・関東在住の関西
 人として思います。関西弁下手やけど・・・)
5.南部アフリカのポルトガル領の解放が遅れた理由(「アフリカの年」
の1960年から遅れること15年)

←ポルトガル本国の政治・経済体制、冷戦状況・南部アフリカの状況
 (白人入植者の存在・資源・資本主義)と南アを守るための緩衝地
 としての役割、解放運動主体育成の遅れ・・・だったよね?
  ポルトガルのことしか書いてないのはNGです。当時の世界的状況
 と南部アフリカの地域的状況を念頭におかなくては。
6.新聞分析や授業を通して考えたこと
 一番面白かったのが6.なのですが、これは明日・・・多分。力尽きまし
た。それにしても、「地域基礎」。「ポルトガルだけ」とか「ブラジルだけ」
とか、そういう一国史的な発想の歴史教育は、皆にとって何にも役に
立たないよね。世界史的、地域的変動の中で考えてこそ意味がある。
また、「ナポレオン」とか「~王」にばかりフォーカス当てても仕方ない。
(私が大学生の頃はそうでした。高校教科書のノリ・・・。)
主体は重要だけど、名を遺した人ばかりに焦点を当てると、構造を見
過ごしてしまう。
 歴史だけでなく、現在の世の中の動きも同様。新聞・テレビはどうし
ても、名前を持った人たちの動きを追って、その人たちを中心に物語
を組み立てる(例:~首相は・・・大臣は・・・オザワ先生は・・・・など)。
けれども、彼らが構造から受けている制約の大きさはすごいもの。個
人の責任に還元していくことは重要ですが、それらの個人を取り巻
く構造まで把握し、その動態を描き出し、声なき大多数の空気までを
感じて初めて、全体が描けるのではないか・・・そう思います。
(そうそう、現在のハシモト報道フィーバーもそう)
 ですので、各新聞社の「政治部」は、個々人の政治家を追い、彼ら
の一挙一動を事細かに伝える(逆に言うと操り人形になる)のではな
く、構造を暴いてほしいです。そしてその構造がどのように変化して
いっているのか、どのような影響を及ぼしうるのか半歩も十歩も百歩
も先を行って予見して、警鐘を鳴らしてほしい・・・。今のままの報道
の在り方では、単なる情報の垂れ流し。相変わらず「個々人の権力
者」や「与野党のやり取り」といった「政局」の話ばかり。選挙が近づ
いてくると余計そう。
 政治家たちに「政局ばかりやってないで国のことを考えろ」という
社説多いのですが、では新聞の1~3面はどうなんでしょうか?
政局の話ばかりでは?いっそ政局報道を全面的にやめてみて、
構造把握・分析、今後のための多様な層の議論ばかりを載せて
みたらどうでしょう。日本や若者のためにはその方が意味がある
と思います。(どうせ権力者たちは子ども・若者・女性の生活改善
や未来に関心がないので)
 詳細はまた余裕があるときに!
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by africa_class | 2012-02-26 00:48 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

学生の考える抵抗(対植民地支配)

1年生を中心とした授業、2-3年を中心とした授業で、それぞれ「抵抗」に
ついて考えてもらっている。
この「地域基礎」では、19世紀末のヨーロッパ列強による「アフリカ分割に
対してアフリカの人々はどのような抵抗をしようとしたのか、そのことはど
のような結果をもたらしたのか。武装抵抗が不可能になった後に、人々は
どのような抵抗を試みたのかを、グループに分かれて考えてもらった。
a0133563_20185479.jpg

なかなかよく考えています。
ただ、当時の時代状況では、「うち首」になりそうな抵抗が結構ある。
表立った抵抗ができないからこその抵抗・・・これを、TOレンジャーたちは、
「日常抵抗」と呼んだわけだけれど、その多様性と難しさを理解してもらえ
たかな?
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by africa_class | 2010-12-21 20:20 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

新聞の役割についてグループワーク

今、名古屋にいます。授業の後、仕事に没頭して片付けてから、9時
の新幹線に。禁煙席なので、女性も多いけれど、基本おじさんだらけ。
気にせず、夕食のお弁当とビールを楽しむ。隣のおじさんたちはお茶。
最近、こういうこと多い・・・のは、気のせい?
 後期の「社会科学を学ぶ」のテーマは新聞。前期は高校の教科書を
徹底解剖したけれど、後期は新聞について考えてもらった。各人、新聞
を2紙選び、さらに同じテーマの国内・国際記事を選んで、比較分析し
た後、参考文献や資料をもとに、「新聞の役割」について考えてもらった。
2人1組のペアーも、後期ともなればとってもスムーズ。
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なかなか面白い分析が続く。レポート提出後だけに、内容も充実。
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皆の発表を並べて傾向・共通点などを分析。それをさらに黒板に表し
て、私の方から分析・コメントをしてみました。
毎年伝えているけれど、皆に是非考えてもらいたいのは、
「客観」「中立」「偏向」「主観」・・・についてです。
新聞を読む前、皆大体「新聞は客観的で偏向がなく、幅広いことを
多角的に報じるべき・・・と考えます。でも、その場合の「客観」「偏向」は
誰が定めたものだろうか?という疑問が重要。
 欧米の多くの新聞は、それぞれ視点・主張がクリア―です。そのよし
あしはさておき、「新聞=中立であるべき」といえばいうほど、日本社会
のような場所では、「強者」「権力」の情報の垂れ流しにつながりかねな
いことは、歴史が証明したとおり。「小さきもの、弱き者の側に立つ」新聞
があっていいじゃないか、とも思う。
 皆さんに一番考え、目指してもらいたいと思うのは、「impartiality」。
日本語の「中立」はneutralityに近いものだと思うけれど、私がより重要
に思うのは、impartialityの方。つまり、公正さや公平さ。例えば、年上
で身体の大きく威圧的なA君とB君が喧嘩をしていて、C先生が仲介する
とき、「neutral」にやるならA君とB君をまったく同列にしかること。
「impartial」に対応するなら、A君とB君の力の格差を念頭において、対
応する。というイメージかな。生徒同士のけんかとなると、あまり力の格差
がイメージしにくいかも。例えば、職場のハラスメントを考えれば、分かり
すいかも。
 この二つの言葉の差こそ、国連PKOに参加する際の研修で学んだこと。
実際、ほとんどの人がただ聞き流していたポイントだけれど、現場で判断
に迷ったときに、この違いを意識することが非常に役立った。毎年地域基
礎の授業で紹介するポイントだけれど、ポルトガル語・スペイン語の学生
以外に説明したことがなかったことに気づいたんで、説明しておきました。
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by africa_class | 2010-12-14 00:55 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

世界史教科書分析(1)

今年もやります。高校の世界史をアフリカを視点に分析するグループワーク。

今年は分析基準まで自分たちで設定することにしました。
(1)質的評価、(2)量的評価
にわけて、さらに
①絶対評価、②相対評価
の基準をそれぞれ考えてもらいました。
その結果は次のとおり・・・まだまだ修行が必要ですが、来週に続きを。
(詳しくは、Moreを見てください)

中には、とっても面白い評価基準を設定したチームもありました。
しかし、今年はポルトガル語専攻の学生ばかり・・・ダメじゃないけれど、
せっかく大学の授業だから言語も地域基礎も、同じメンツばかりじゃ
刺激がない。どうしてかなと思ったら、今年はスペイン語の1年生は
専攻語がこの時間にあったのですね。(去年は4割スペイン語でした)

来年2年生になったらとってね。

More
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by africa_class | 2010-04-21 12:19 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

大学で社会科学を学ぶ(後半編)

地域基礎の授業は、ポルトガル語とスペイン語を専攻する学生に
これらの言語が話されている地域の基礎を教えれば良い・・・はず
が、今年から前期・後期の担当をすることになったので、前からや
りたいと思っていた「1年ゼミ的授業」を取り入れてみた。
 本学の学生は、高校から受験、受験から語学づけの2年間を経
て、二十歳になって成人したというのに、「クリティカル・シンキン
グ」の意味が分からない状態に陥ったままゼミの門を叩くことにな
る。皆、とても素直なのだが、ひとつのテーマを多様な角度から検
討・分析し、自分の意見をまとめるということが非常に苦手。よって、
就職活動でも非常に苦労する。(特に昨今の状況の中では)
 そこで、前期は3つの授業をつぶして、大学で社会科学を学ぶこ
との基礎を、高校の歴史と地理の教科書批評を通じて行った。
まずは一人ずつが分析し、次にグループで分析し、グループで発
表を行った後、教科書批判を行っている学術的な論文を読んで、
さらに個々人で分析を行ってもらった。その際には、自分たちの
分析との共通性や違いを見出してもらい、自分たちの視角の限界
をまずは確認してもらった。
 後期はさすがに3つの授業をつぶせないので、今新聞批評を行っ
てもらっている。お互いトライアルなので、まず頑張ってみよう。

■ステップ1:毎日新聞の社説比較の「社説ウォッチング」を読み、
新聞が各紙異なった立場に立ち、異なった論調で同じテーマにつ
いて書いていることを確認。
■ステップ2:同じテーマの新聞記事を異なった2紙から切り抜い
てスクラップ。
■ステップ3:スクラップを元に、新聞批評を行う。
(1)量的分析①面積②5W1Hに関する表作成③結果分析
(2)質的分析①誰が書いているか(書名、支局、地位、性別)
②依拠している情報源②どこに立って書いている記事か?
④読者の視点から見て役立つ記事か⑤と⑥は自分の分析
枠組みによる分析
(3)以上の結果から分析。最終的には日本の新聞についての批
評を行う。(どこが評価でき、どこが評価できないか、それはなぜ
か、どう改善するべきかの自分の見解を交える)

しかし、成績は厳しくつけるから単位をとるために履修しようという
人はやめましょうと言ったのに、例年の2倍の数の人が履修して
いるのは、やはりこういう「大学で学ぶことの基本のき」の授業が
足りないからだろうか。うーーん。悩ましい。個人の努力ではなん
ともしがたい・・・。
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by africa_class | 2009-10-14 12:17 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

試験は22日ではなく24日に

地域基礎「ポルトガル・アフリカ研究」(水2限)の試験について
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受講生の皆さんに聞いてみました。試験は22日がいい?24日がいい?
2名を除き、全員が24日ということなので、24日(金)に期末試験を決行。
(なぜ水曜日の授業が金曜日かというと、振り替え授業だからです!)
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by africa_class | 2009-07-19 15:40 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて