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畑のカエルに感謝し青ネギの花を食す日、命の循環の一部として生きてみること。

なんだか反響があったようだが、今は農繁期で、あれやこれやであっという間に時間が経った。

この時期は、一日畑に行かないと、違った様子になるというぐらい、自然の命の力はすごい。元はコンテナハウスがあった跡地に、森の土を入れて藁を撒いて、草を刈っては撒いて、色々なものを植えていたら、ミミズが顔を出し、ナメクジが現れ、芋虫やアブラムシがきたと思ったら、てんとう虫が飛んできて、あっと思ったら巨大ナメクジが衝撃的に現れ、今は畑を回るたびに、ガサガサ・・・と何かが逃げる音。よくみたら、カエルちゃんであった。

刈草マルチをしているので、あんまり水やりに神経質にならなくてもいいのだけれど、カエルのことが気になって、井戸水を撒きに行く。

森の朽ち果てた木々を薪割りをして、冬に選定した木々の枝を集め、3食毎日薪ストーブで調理をして半年。森の朽ちた木々の息子の気に入ったものは、彼の木工作品に変身するが、気を削って出てくるおがくずは、着火用の火種となり、その灰は畑の栄養分となり、余すところがない。当然ながら、ここでも生ゴミはコンポストとなり、愛猫ピーさまの落とし物とともに堆肥となっていく。命の循環に感謝して、日々を過ごしている。

深大寺にいたときから思っていたけれど、自然の循環というのはすごいものだ。一つの種をまくと、その成長に伴って次の生き物がやってきて、その生き物を目指して別の命がやってきて、つまり食物連鎖というのか、小宇宙というのか、小さな畑にいても、それを目の当たりにすることができる。農薬を使ってある生き物だけを「守ろう」という考え方の限界を目の当たりにする。

かつて、そら豆にあまりにアブラムシが群がるからせっせと自然農薬をつくって撒いていたが、実際はてんとう虫がきてくれるのが一番効果があって、自然環境を多様化して自然農薬も我慢すると、いつの間にか沢山のてんとう虫がやってくるということに気づくまで3年かかった。

あ、一点伝えておかなければ。自然農薬といっても、殺すためにあるわけではなく、虫さんたちにしばらくどいてもらうため、あるいは近づかないでおいてもらうためのもの、と考えて頂ければ。

庭は、キッチンの目の前にあって、引き戸でそのままベランダから行けたということもあって、キッチンの排水(勿論洗剤など使わず)は、すべて庭に返していた。生ゴミはコンポストに。コンポストの場所を少しずつ変えて、東京の住宅街だというのに、そして元はじゃりだらけの駐車場だったというのに、森の中にいるような匂いのふわふわな土ができた。あの土ではなんでも良く育ち、育ちすぎていない夏の間は、アマゾンのジャングルよりジャングルらしいほどで、カマなしには玄関に辿り着くのもやっとなほど…。そこまで土と生態系を豊かにするプロセスが何より大事なのだ、と気づいた頃に大地震と原発事故が起こった。

昨冬の間育ててた室内のトマトが、ある時アブラムシの大群にやられて(あるいはアブラムシが温かさ故に異様に繁殖し)、さすがに室内なんで天敵がいないため牛乳の残りを薄めてスプレーしたりしていた。でも、結局は春先に外に出したら途端に解決。でも、室内にも、アブラムシに気づいた途端、てんとう虫が一匹うろうろしていたので、彼らの嗅覚(?)というか察知能力はすごいものだ。これって、どんなに隠しても甘いものを家族が見つけてしまうことのようなものか。

それにしても、冬とか春先にトマトを食べようなんて思ったのがいけなかった。
やはり旬のものは旬に食べる・・・という法則。つまり、自然のサイクルで生きているものを食べる、自然にあわせて栽培するのが一番なのだと、実感した。そうは分かっているものの、サラダにやっぱりトマトほし〜と言われると、そしてスーパーで6つが3ユーロのオーガニックトマトを買うのを見ると、そんなん自分で作るわいと思ってしまうのであった。

でも、やはり季節を外して作るものは弱い。
室内でわざわざ作るのであれば、上に書いたような問題も出る。

しかし、これは作り手側の問題ではなく、食べたい側、消費者側の問題の方が大きいと最近は思う。どうしても不足する時に高くなるので作る側はそれにあわせることになる。それに、消費者は年がら年中店にトマトが並んでいてそれで当たり前。日本で作れなければ、どこかから運べば良いと・・・その方が結局安いなどという矛盾。

だから、私は日本の日々食べる人たちに、「消費者」という意識を捨ててもらって、少しでも「作り手」の側にきてほしいと思う。この際、ベランダ鉢植えでもいい。食卓の一つのハーブの鉢でもいい。何か育てて、それを食べてみてほしいのだ。そうすれば、自然の移り変わりの中で、植物を頂くということの意味と手応えが得られると思うから。そこから、何を、どうして、どう食べるのか・・・にいくには、未だ距離が大きいかな。

息子たちの「年がら年中トマト愛」に直面して、そして毎日霜が降りる冬のドイツで、そして円安ユーロ高の、さらに先行きが見えない人生計画の中で、これは抜本的に意識を変えてもらわねばならん、そのためには自分から・・・と思ったのであった。

とはいえ、なかなか回復しないもんで、子どもの頃からはまっていた薬草図鑑の世界に迷い込んだということもあった。原発事故前の深大寺では、相当色々なものに手を出しており、近所の子どもたちを動員して、野川沿いの野草を摘んだりしていたものだったけれど、今から思うとあれは序の口だった。

とにかく、冬寒しのドイツの庭で、何か食べるものがないか・・・週に1度の買い物の外出だってままならない(体調的に)のに、家族の食事を準備しなければならない状態にあったというのもある。ショッピングリストを渡しても、その通りには買ってもらえないし、やっぱり「3ユーロトマト!」がかごに入ってしまうのであった。

庭の「雑草」、いえ「野草」に目がいったのは、これらの理由から。野菜の薄まった緑に対して、野草の緑の濃さを見比べてほしい。この緑の濃さこそが、強さであり、生命の力強さなのだと、今年の冬はことさらに思った。そして、野草たちは、我が家の食卓の救世主であった。ずいぶんと毎日お世話になった。

野草茶、野草カレーなんて序の口。野草天ぷらも、それがオオバコだったり、ウツボ草であったりしても、ごく普通。我が家では、タンポポの葉の炒め物、あきのげしのサラダ、紅花の葉っぱのお味噌汁、タンポポの根っこのきんぴら、オオバコの種のふりかけ、オオバコのお好み焼き、イラクサのピザ・・・どこまでやるんじゃ、というぐらい特に畑に野菜が不足する冬場は重宝し、色々チャレンジした。ただし、野草は冬よりも、春から夏が一番生命力に溢れ、本来の食べごろ(旬)であるが。

それにしても、そんな料理を有り難く食べてくれる14才はなかなかおらんだろう。親が親なら、子も子である。今日は、畑の青ネギとダイコンが放置しているうちに花を咲かせたので、それらとルッコラのサラダを実に美味しそうに食べてくれた。最初は「本当にこの花食べていいの?」と懐疑的だったが、チャレンジ精神旺盛故につい食べてしまってくれた。よしよし。今日も騙されたな。実は私も初めてとは伝えていない!

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(ダイコンの花、ダイコンの葉っぱ、ルッコラ、青ネギの花に、去冬に作ったタラゴン・ヴィネガー&バジルオイル、黒オリーブ、軽く干したニンジン、擂った黒ごまを添えて)

ちなみに、ネギの花は大変愛らしく、しかもむちゃくちゃ美味しい。これ発見。何事にもチャレンジが重要。我が家では、根野菜は必ず干してから(30分でも)使うが、これも食べ物の滋養を高めるので、おすすめ。太陽の恵みというのは、限界がないもので、これを深大寺の時のようにお湯に使えていない現状が哀しい。(OMソーラーシステムを入れていた。つまり、空気と水を太陽熱で温めていて、太陽力だけで1年の半分以上はお風呂に入れたのだ。)

ちなみにOMソーラーシステムは、入れるとなると150万円ぐらいかかるが、10年以内で確実に元が取れる。というのも、日本の住民が一番熱源を使うのは「風呂のお湯」であるから!これが、半年以上太陽熱で賄えれば、そして暖房費もシステムで激減させられれば、月1万円程度の余分な負担は10年で確実に元が取れる。その後は、「儲け」ばかり〜。ちなみに、我が家は、電気代は2000円を超えた事はほとんどなく、ガス代は1000円程度。しめて3000円〜程度だった。冬もそう。初期投資にかかるカネをどうするかの問題はある。でも短期と中期、長期で、考えるべし。
http://omsolar.jp/

自然って面倒じゃないですか?
よくそうもいわれる。
そういう部分もあれば、そうじゃない部分もある。

例えば、庭の野草や野菜を食べるのであれば、その日その場で新鮮なものを摘んでこれるし、買いに行く手間も冷蔵庫も使う必要がない。大量に出来たのであれば、乾かしたり、油や酢に漬けたり、冷凍したりしておけば、料理にひと味付け加えるときや、何もないときにさっと彩り・香り・栄養を加えることができる。

生ゴミも自然に返せば、臭い水分たっぷりの生ゴミを保存したり、蠅がたかったり、ましてやそれをお金を出して回収してもらったり、燃やされるところまで運んで、焼却して二酸化炭素と窒素を排出したり(!)、しなくても済む。歩いて数歩のコンポストにいく手間と、ゴミとして出すのと、実はそれほど違わない。違うとしたら、「意識」と「慣れ」の問題なのだと思う。

薪ストーブでクッキングも同様。慣れるまでの時間を過ぎてみれば、薪の形態(針葉樹林か広葉樹林か、太いか細いか)、枝の形態、おがくずの形態(粉か大きめか)・・・等で大体の火加減はできる。しかも、トップだけで4つの鍋が置けて、なおオーブンでパンやケーキも同時に焼ける。同じ熱源(一本の薪)で、どこまでも効率がよいし、さらに部屋全体もあったまるのである。どうして我々は、薪ストーブを調理器具から切り離してしまったのだろうか。(ドイツの場合)

今や、薪ストーブはただの暖房器具。誰もこれで調理などしていない。そもそもクッキングストーブでドイツのメーカーのものはほぼ不存在。我が家のストーブも北イタリア製。なぜなら、イタリアは住宅が外断熱ではない分、冬は寒い。そこで各部屋に薪ストーブがあることも。で、ピザを焼くこともあり、薪ストーブはアパートでも自然と食卓にあるそうだ。ちなみに、日本と違って凄く安い。が、煙突が高い…ドイツ事情。

薪ストーブで調理していると聴くと、大抵の人が「どうせ少しだけでしょ?」と思っているかもしれないけれど、家は一日中ストーブがついていて、そこで何かしらやっている。といっても、調理に使わない時は、灰の中でじっくり堅い広葉樹を燃やすので、寝る前に1本入れて朝までついていることもある。

キッチンの主役に躍り出た薪ストーブでは、コーヒーのお湯を沸かしていることもあれば、フットバス用のハーブや薬草茶を煮出していることもあれば、じっくり遠赤外線効果で昆布から出しを2日かけて取っていることもある。野菜スープは切った野菜と干した野菜を入れた鍋を、ただストーブの上においておけば、いつの間にか出来ている。ご飯も同じ。土鍋をおいておけばいい。まな板も網なども、ストーブの端っこで乾かすし、ふきんもストーブの取手でいつも乾かせるので、ぱりっとしている。こんな優れもの、どうして誰も使わないのだろう。

特に、森に囲まれている日本の農村で、どうしてオール電化のIHクッキングなどという馬鹿げたものが導入されていくのか、実家にいくたびに絶望的な気持ちになる。あらゆる意味で、「里山」の仕組みは理にかなっていた。国土の7割を森林で覆われる日本を外から眺めると、もっと色々な可能性があるように見えるのだが、その「可能性」を実践に変えていくだけの人材すら、奪われた近年だった。外を見た若い人にこそ、日本の農村で面白いことができると思うのは、甘いだろうか。

世界的に見ても、そして自然エネルギーで消費電力の3割を生み出すドイツから見ても、日本は素晴らしく豊かな自然の恵みを、まったく無視しているどころか、ますます外から来た、あるいは危険を冒して作られる高い熱源に頼ろうとしている。しかも、暮らしの中で、自分の手の届く範囲に、自分の使うエネルギー源を持つとしたら、色々なことが自分の手の中に戻ってくる。これまで電力会社に払っていたお金、電力会社が行っている沢山の不正、外で木々の中で過ごす気持ち良さ、炎を見つめることで身体を芯まで温めてもらうおかげで得られる治癒力、家中が薪になるがその落ち着く香り、燃やすと出てくる香ばしさ、ストーブの周りの会話。ただIHで調理していて、これほどの会話は生まれないし、一人で調理するはめになる。

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何よりIHは人間が使うただの道具で終わってしまう。他方、停電したり故障したりすると途端にお手上げ。料理という命をつなぐ家族団らんの源すら、自分でコントロールできなくなる。つまり、道具のはずが、その道具に食をコントロールされているということなのだ。

薪ストーブでの調理は、もちつもたれつの共同作業。その関係はストーブと調理者に留まらず、庭や森の木々達。木々を取り巻く環境。その木々のお裾分けに預かる我々。薪を割る斧と人。このような「関係」を取り戻すことが、「食」と「エネルギー」の可能性なのだと常々思ってきたが、今クッキングストーブを手にして、自分の中でのミッシングリンクが解けた気がしている。

汗をかくが、自分たちの手元に自分たちの生を育むために必要不可欠なものたちを取り戻していく。足りない部分は他に委ね、助け合い・・・なんてことはない。世界各地で人間がやってきたことだった。

「奪わないと生き延びれない」というマインドを、大きな帝国は繰り返し臣民たちに押し付けてくる。「奪わないで生き延びる方法はないのか」を考えさせないように、仕組みができ、教育と広報ができている。食とエネルギーは、自分たちの日々必要不可欠とするもの故に、このように統制されてしまった臣民には、根幹の問題である。故に、「パンのためには他者への暴力は許される」とばかりの、為政者たちの宣伝に、煽動されてしまうのであった。

「ひとつの命への暴力は、すべての命へとつながる。こうして、わたしたちは、この世界の暴力から、ひとり無縁でいることはできない。(『ガンディー 魂の言葉』)」

歴史はそうやって悲劇を繰り返してきた。
だから、食とエネルギーを自分の手に負える範囲に取り戻していくことは、単なる「エコな私に酔いしれる」ためではなく、本当の意味で、自立した自分・社会を取り戻していくために必要不可欠なステップなのかもしれないと考えている。これは何も、自分の敷地内に畑がなくてはならない・・・ということではない。今、日本は空き地・空き家だらけ。課題こそ、工夫を生み出し、考えてもいなかったような次の創造を生み出す、はずなのだ。

ちなみに、我が家の斧は隣の家のおじいちゃんに借りたものだ。
あえて買わない。
おじいちゃんに借りるということで、森の恵みに感謝する薪割り活動への連帯が生まれる。
おいしいクロアチアのガーリックももらえる。
時に、ワインも飲ませてもらえる。
あれ?もらってばかり?

斧が我が家にやってきた理由。
何度いっても、自分の敷地にある膨大な朽ちた木々を薪にしてくれなかった連れが、隣家の実は84才のおじいさまが、毎日元気に薪割りをやっているのを目の当たりにして、そして製材所から薪を買っているということを(家に木がいっぱい横たわってるのに!)呆れられたのを受けて、俄然やる気になってくれた。今では、毎日健康のため薪割りにいそしんでいるのはいいが、満足度が高いのか、それしかやってくれないという問題もある。

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そういえば、芝刈り機も借りっ放しだ・・。
広大な芝生は去年は手動でがんばったものの、今年は春に誰もいなかったこともあり、ほとんど「アフリカの草原サバンナ」状態。つまり、くさぼーぼー。手動ではまったく前に進まず、お隣の軽油芝刈り機の登場。登場といっても、そもそも隣の人が年の半年はクロアチアにトレーラーハウスで行くので、不在時に庭の芝刈りのお手伝いバイトを請け負った息子が、勝手に隣の芝刈りを持参してやっているのだが。ちゃっかり、こちらの家の分のお駄賃も稼ごうとするので、喝を入れておいた。というか、隣にもらうからいいやん!そもそも誰の庭やねん。

本当は他に書きたかったことがあったのに、、、、、、、。
今日は、息子が学校の一大イベント、「演劇」で「蠅の王(Lord of the Flies)」(ウィリアム・ゴールディング)をやってきました。震災・原発事故があって、ドイツにきて早4年。なぜかクラスのリーダーとしてこの劇を仕切り、誰もやりたくない最も台詞の多い悪役を引き受け、見事に「蠅の王」を「え?それ地?」というほど狂気迫る感じで演じたそうな。(「そうな」というのは、未だそこまで体調が回復していないため私は参観できなかった。。。彼の父親とお友達への聞き取りより。今度DVDでじっくり観るのだ)

「環境が人を育てる」というのも一理あるし、「やっぱり本人の意思」というのも一理ある。
自らの意思ではなく、状況の中で、泣く泣くドイツにきた息子が、こんな風に、しっかりとクラスや学校、社会の中で役割を果たしながら、成長していくのが嬉しい。実際は、心の中に秘めた想いや沢山の傷もあるのだと思う瞬間も時にあるが、それでも前に前に一歩ずつ進んでいく若い力をみると、私もがんばろう…という気持ちになる。教えるより教えられることの多い子育てであある。(相変わらず、サッカーのバッグに臭い靴下を溜め込んだままである点は、まだまだ甘いが)

日本の人たちは、すぐ「語学は?」とか「文化的に?」という質問をするのだけれど、問題はそこではなかった。息子をみてて本当にそう思う。むしろ、新しい状況の中で、自分としてどう生きていこうとするのか、その「姿勢」の部分だったと思う。彼は、辛さの中でも、「日本を離れて、ドイツにある自分」というのを、自分なりのやり方で積極的に活かそうとした。その姿勢こそが一番大事であり、かつ他人が教えることも、やってあげることもできないこと。ただ見守り、応援し、共に嘆き、耳を傾ける。それぐらいしかできない。その歯痒さの中で、子は自ら成長し、親もそのことにより成長させていただく。

そういえば3年前にこういう投稿を書いていたようだ。改めて読み返すと本当に感慨深い。
http://afriqclass.exblog.jp/13063647/
息子の魂の鳥は、ずっと私とともに暮らしてきたのだけれど、今は有り難いことに皆が一緒にいる。2011年のあの独り静かな家で泣きながらお風呂に入り、ご飯を食べた日々は、もう終わったのだ。あの時はまだ母恋しだった息子も、今では「うるせーくそばばあ」の毎日。でも、それが嬉しい。成長だから。

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息子の初期の頃(去年)の作品
森で見つけた朽ちた丸太の中の「かたち」を表現したそう。

何はともあれ、「姿勢」こそ、すべての鍵なのだけれど、自分すらままならない1年以上だったから。私が人様に何かいえることなんて何もない。だけれど、自然の豊かさに身を委ねて生きていると思うのは、「姿勢」もまた、日々の命への感謝の中から生まれてくる者なのかもしれない、と思う。

自分を生かせてくれている自然と環境、他の生き物、人びとに、感謝するからこそ、もっと頑張らねばと思うし、自然の本来の生命力に触れることにより、自分の伸びていくべき方向性を教えてもらうことができる。いつかは朽ちる自分の命が、何にバトンタッチされていくのか、どうされていくのか、そんなことを考える上で、農薬なき畑の命の循環から学ぶべき点はあまりに多い。

今年もまた試行錯誤の初夏である。
そして、ほとんど寝て過ごした去年よりも、自然もまた勢いがあるように見えるのは、自分の目の錯覚だろうか。

*ちなみに、絶対自然農薬も駄目といっているわけではなくって(そういうドグマチックなのは嫌い)、使わないでみたら見えてくるもの、気づくことについて、書いてみました。生業として農で生きている皆さまに、私が何か言える立場・経験はまるでなしです!
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by africa_class | 2015-05-30 07:22 | 【食・農・エネルギー】

突然、東京外国語大学を辞める、ということ。

気づいたら最後の投稿から1年が経過していた…ようだ。

そして、3月31日で大学を辞めた。
あまりに突然な決断だったので、自分でもビックリしている。
3月に入っていきなり決めて、なんとか滑り込みで2014年度で東京外国語大学を後にした。
あまりに病気が治らないので、これは原因を絶つしかないと年末に思い至ったのだが、あまりに体調が悪く、辞める事自体がストレスすぎて、ある日「辞める!」との衝動に突き動かされるまで、とてもじゃないけれど無理だった。

それにしても、ゼミ生、卒業生ら延べ50人近くのヘルプがなければ、今でも研究室を片付けていたかもしれない…心からダンケ!正直、1年ぶりに研究室の扉を開けた時、目眩がして、どうしようか…と倒れそうになったほどだったが、あの「研究室」がもうないというのも、不思議な感覚だ。

「ゼミのお父さん」こと「マコンデのお面」が睨みを利かせていた、ありとあらゆる魔物の棲む空間!

モロッコで買った香木や、ザンジバルの海の塩の塊や、ボスニアの破裂した後の地雷や、ポルトガル植民地時代のコインや、海の底で眠っていた近世のビーズのネックレスや、子どもたちの写真や、ルースファーストのポスターや、息子の描いた数々の絵や、奈良の山奥の寺で撮った写真や、早くに亡くなってしまった尊敬する先生のお連れ合いのお手紙や、ゼミ生たちが記念に贈ってくれたお茶のセットや、世界のあらゆるお茶やコーヒーの、不思議な匂いのする空間。

「あれ」はもうないのだ。
でも、しっかり私の中に焼き付いている。
2004年から2015年まで存在した、自分と自分の歩んだ道が詰まった空間。

今でも懐かしいのは、実は2015年その時点の最後の姿ではなく、2004年に着任したてのある昼の様子。
自分の山ほどの資料が棚に納まり、世界中のものがそこかしこに陳列され、大きな青いソファーで寝転がって、授業の合間に昼寝していた(!)あの春のことだった。広い窓からは、桜と調布飛行場が見えて、なんとのどかなんだろ・・・と感激したものだった。着任早々は誰もドアをノックせず、勝手に入ってくることもなく、なんといい気分だったろう。自分の「城」ができたみたいで、凄く嬉しかった。が、それも10日間しか続かず・・・だった。そして、その10日間以降は、あまり思い出したくないことの方が多い日々だった。

ポルトガル語教員として着任したはずの私が、何故か大学院でその時始まった英語で紛争や平和構築を外国人の院生に教えるコースの担当とされ、新設コース故の無理難題と混乱を、結果として、一切合財引き受けてしまった。そもそも、紛争と平和構築の専門家がポルトガル語教員の新任の私しかいないところで、そんなコース始めるなんておかしなことだったのだが、「カネほしさ」というのだろうか。あの時、そして今も、大学というところは、キャッチーで新しくみえる何かをしなくてはならない「競争的事業主体」に成り変わってしまった。(その後、コースには専門家の先生たちを苦闘の末そろえることができたのでもう大丈夫だが)。

それだけでも、てんやわんやなのに、そして語学教員としての授業コマ・ノルマの多さにも辟易していたのに(なんと合計週9コマ!)、「競争的経費」という名の「文科省大学飴と鞭計画」のメンバーとして、あれもこれものプロジェクトに入れられてしまった。エクセルとパワポが使えて、NGOをしていた・・・というだけで。でも、日系ブラジル人をはじめとする日本の外国人児童の学習補助ほど、外大と外大生が社会に貢献できる事業はなかったので、これもまたよしとしよう。

今だから書けるが、着任して1年経過して「事件」が発生した後、毎日大学を辞めたいと思って働いてきた。だけど、始めたことはやり遂げる、しかも大きく成長させて、バトンを託す人を見つける/育ててから抜ける・・・のが信条だった私には、「辞める」という選択肢は限りなくなかった。自己否定に繋がるような気がしたからだ。結果的に、続けて、バトンたっちまで、いずれのプロジェクトもコースもやってしまったが故に、「あの人が被害者のはずがない」「鉄のように強い女だ」「ほら元気じゃないか」とかいって、組織的いじめがずーーと続く結果となった。

今となっては、そんな環境で、そんな気持ちを抱えながら、どうやって10年も過ごしたのか検討もつかない。病気になって分かったのは、最後はやはり自分の心と身体を優先すべきなのだ、ということ。倒れてしまったら、死んでしまったら、元も子もない。<=気づくの遅すぎ…。

ということで研究室。
「あれがない」ということは、この先に道が拓けていくのだ。
そのことは、断捨離的に、なんともいえない潔さと、嬉しさを感じる。

それにしても、石の上にも3年というが、実に11年。
気づいたら、着任した2004年4月から、11年の歳月が経っていた。自分でもよく頑張ったと褒めてあげたい。(駄目?)

大学の書類には、「次の職場」というのを書く欄があって、当然普通は定年退職でない限り(といっても最近は再雇用という制度もあるそうだが)、「次の大学」を見つけてから辞めるもんだ。
そして正直にいってしまえば、この間、色々な日本の大学から有り難いお誘いを受けて来た。年収は軽く3倍にも(!)なるポスト、教授ポスト、コース長等…有り難いにもほどがある。

相談したら、息子がいった。
「ママ〜今迄貧乏しすぎた〜!数年働いて辞めればいいじゃん!」

いや息子よ。
生き延びるためのカネのために一生懸命働くのは仕方ない。でも、カネ儲けのために働くなんて!(カネ儲けのために働くのであれば、わざわざ20年以上もNGOとかNPOとかいくつも作ってないわい!)

「だから僕はお小遣い1ユーロもないんじゃないか!だから僕自分で木工作品作って売ってるんじゃない!」
「おお素晴らしい〜。その調子、その調子。」
15才になる息子は、がくっと肩を落として、今日も注文された机を自然食品のお店のお兄ちゃんに売りに行った。しめて150ユーロなり。が、息子としては、10万円ぐらいほしいそうだ。カネがほしいというより、自分の作ったものの価値をもっとちゃんと認めてほしいそうなのだ・・・。

自分の人生の道を早く切り拓くって、素晴らしいことだ。
ひと事のように聞こえるかもしれないが、親は子どもに「やってあげること」を減らして「本人がやれること」を増やす後押しをする…が、「親育て・子育ての基本」だと考えている私には、これは重要なポイントだ。大学での教育も、たいした事はしなかったが、それだけは出来たと思う。無責任に聞こえるかもしれないが、よくある「放任主義」とこれは違う。

最初に彼ら、彼女らが考える場(時間・空間)を創造する。
ここから出てくる問いや想いに耳を傾ける。
自分で答えを導いていくのを待つ。
時に、一緒に考える。
そして、一歩を踏み出すのを励ます。見守る。
時にそっと、時にどん、と押す。
こけたら手を差し伸べる。
でも、こけるまで我慢する。
こけたところで一緒に考える。
また立上がるまで一緒にそこにいる。
立上がったら、見守る。
一歩でも半歩でも前に踏み出すまで…。
でも、せっかちなもんで、つい口を出し、手を出し、前を歩いてしまった。。。修行が足りん!

話は脇に逸れたが、カネのために大学で働いたことはなかった。
カネのためなら民間に行けばいい。
外資かなんかのマネージメントで働けばいいだけ。
なにも日本で一番給料の安い大学に行く必要はなかったのだ〜。
しかも、独立行政法人化後ゆえに、月5万円も約束より低い給料となった(博論が終わらず半年着任をのばした私が悪かったのだが)。5万円x12万円x10年間=600万円!
あこぎな話でんな〜。すまん。

そんなカネあったら、市民活動に投じていたものを、とつい思うのだ。有り難いことに、共働き世帯だったため、給料の半分以上は市民活動に消えた11年でもあった。おっと、それは内緒だった。家族には!(今でもこれは内緒話で、自分の休暇には大盤振る舞いが、普段はケチな連れには決していえないことだ)

でも、2004年4月のあの春、私は日本の大学で役に立ちたいと願い、学びたいと願った。
そして、この11年間、一度もそのことを後悔したこともなければ、一瞬たりとも気を緩めて仕事をしたこともなかった。つまり、私はとても、とても、大学での仕事にやりがいを感じ、言葉に言い尽くせないほど幸せだった。

何が幸せって、そこに学生たちがいた。
はにかみと懐疑心の向こうにある、キラキラした瞳の、世界に出て行かんとする若者たちとの出会い。
素直すぎて危うい、疑うことを未だ理解していない、大人になりきれない、磨けば(鍛えれば)光る原石のような。
優しくて、優しさ故に、遠慮してしまって、もはや自分の意見が何かすら見失った、迷い子のような。
人の役にたちたくて、でも行動を起すことに慎重な。
でも、時にするどい切り返しを、ばんばんしてくる熱いあの子たち。
お互いに頼ることを学び、一生の仲間を自分たちでつくっていった。

東京外国語大学に「アフリカ」という大陸がなかった時代に、
一ポルトガル語教員にすぎなかった私とともに、
「アフリカ」の名前を刻み込んだ先駆者たち。

大学に着任した時、一階のガレリアに世界地図の模型があった。
今でも覚えているけれど、それにはアジアと南北アメリカとヨーロッパと中東だけがあった。
そして、アフリカの位置にアフリカがなかったのだ!

「アフリカなんて就職できない人を増やしてどうするんだ?」
「外大の偏差値が下がる」
「フランス語がおかしくなる」

教授会で普通に行われる糾弾の度に、この私でもめげそうになったが、ある時から反論しないことにした。
なぜなら、これら先生たちの学生自身が、アフリカに出会い、変わっていき、これら先生たちの心を揺り動かしてしまったから。学生たちは、大いにすてきに暴れた。昼休みにゲリラ的にイベントをやったり、学内展示がつまんなかった外語祭で、物販からパフォーマンスから、講演会まで、あらゆることに取り組んだ。
大学の中だけでなく、外にも出て行った。

そして、アフリカを学ぶ場がなかった東京で、「アフリカここにあり!」というほどの実績を積み重ねていった。
2004年時点で、「可哀想なアフリカ」だったのが、彼らの活躍のお陰で、「なんか面白い?アフリカ」、「アフリカ本当に知らなくていいの?」に変わっていった。それが、大学を動かしたのだ。

2013年、東京外国語大学にアフリカコースが出来た。
15人定員のコースで、「学部のアフリカの社会科学のコース」としては日本で初であった。
英語圏アフリカとフランス語圏アフリカの先生たちも着任した。
もう思い残すことはなかった。
なのにすぐに離れる決意をしなかったから病気になったのかもしれない。
(ちなみに、何故ポルトガル語教員がアフリカ?!と疑問に思っているあなた様。世界で最も多い数のポルトガル語を公用語とする国がある地域は、アフリカですよ!実に5カ国。)

東京外国語大学で、彼女・彼らと過ごした濃厚で充実した11年間を、30代から40代半ばという人生の中でも重要な時期を過ごしたあの一時代を、決して忘れることはないだろう。(といっても5足のわらじを履いていたので、他の活動も含めてのことではあるが...これはもうやらないけど。わらじは二つでいい。人間には足は二つしかないから。その当たり前も気づけてよかった。)

2008年だったか9年だったかに、「日経ウーマン」という雑誌のインタビューを受けた時、「大学には10年しかいるつもりがなくって、「次」を考えたい」といった時、インタビューをしてくれた人がとても驚いたのに、正直私の方が驚いたのを昨日のことのように覚えている。私にとって、それはごく自然なことだったから。あまりに驚いたからか、それを記事の最後の台詞としてくれた。

人生10年置きに見直してる。
たった4回分しかしていないけれど、10才、20-24はモラトリアム、24才、34才、44才、それぞれで、それまでの10年を見直して、生き方を見つめ直して、次の展開を考えてきた。だって、人生は一度きりだから。しかも、60才まで後15年しかない!・・・としたら、もっと自分の中の可能性の幅をもっと試して、色々なことに挑戦したいじゃない?

まだ出会っていない「自分」に、出会ってみたいと思う。

自分はこういう人間で、この仕事をして、これまでこうだったから、これかもこうだよね・・・という生き方は楽かもしれないけれど、それで墓に入る時に自分の人生を振り返った時、それでいいの?というと、私は「違う!」と思ってしまうたちだったのだ。

だから、あえて自己点検のためもあり、10年おきという期限を区切って、考えることにしてきた。毎日を猛スピードで生きてきたこともあって、一旦立ち止まることが余儀なくされる時間を、どうやっても確保する仕組みにしておこうと考えたというのもある。

とはいえ、11年。
なので、予定から1年余分になってしまった。
少し欲が出てしまったのだ。
未だやり残したことがあるんじゃないか…そう思ってしまった。
できたてホヤホヤのなコースのスムーズな出だしを、見届けたいという欲が出てしまったのだ。
でも、それもまた人生。
あの時、投げ出さなくてよかったとも思う。

また、大学の仕事というのは、若い学生との継続的な仕事であるが故に、途中でいきなり辞めるということは、他大学に行くのであっても難しい。他の先生には難しくないのかもしれないが、「実験的教育(自分を含め)」を志してきた以上、ポーンといなくなるということもできなかった。背中を押したのは、意外にも「病気」だった。

だから、今となっては「病気」にもすごく感謝している。
「病気さん」が私のところに訪れてくれなければ、私は今でも東京外国語大学にいたかもしれない(ひー)!
惰性によって…。

また、残してしまう学生たちに、やはり「申し訳ない」という気持ちには打ち勝つことができなかった。
でも、よく考えたら、「私がいなきゃいけない」というのは私の勝手な思い込みで、私がいないことによって彼らが得たものも多かったはずだったのだ。否、そちらの方がきっと大きかった!

病気になった理由は、まさに大学の「お陰」であるが、今となってはそれについても感謝している。30代から40代初めの「学習」としては、それはそれで良かったと思う。つまり、「日本の古い組織というのは組織のためにあるのであり、その組織の上に立つものはいつの間にかその論理にがんじがらめになる。たとえ、かつて「素晴らしい研究者」であった人でも」ということ。そして、大学といえでも、「お役所」的組織に、限りなくなってしまった現在の哀しい姿を、外大の一員としてではなく、外から眺められることに、心から感謝している。
あのままいたらもっと腐っていたかもしれない。
自分の弱さもあって。

日本はどこに行こうとしているんだろう。
日本の大人たちはどこに行こうとしているのだろう。

サバティカルの半年間と病気の1年間、日本の外にいたこともあって、そのことをずっと考えてきた。
こういう日がくると思っていた。

だから、アフリカの紛争と平和論の授業だというのに、2006年からは、日中戦争における民衆の動員の手法や尖閣諸島の問題を具体的に学生たちにワークしてもらい、何回もの授業を潰して内在する危うさを表面化させ、それを赤裸裸な形で目の前において、皆で議論し、「戦争に民衆を向かわせるシステムのからくり」を理解してもらったのだった。

学生たちのレポートは素晴らしい出来だった。「外大」故に、日本のことを知らず、受験故に「日本の現代史」を十分学習してこなかった若者たちだ。自分で調べ、書いた、日本の過去…それを互いに添削コメントし、チーム内で発表し、「いかにすれば民衆は最も効果的に戦争に動員できるのか?」という恐怖のテーマでチームの考えをまとめていった。その上で、「どうすればこのような動員に抗うことができるのか?」を話し合い、提案してもらった。それを、皆の前で、模造紙に書いた結論を示しながら、次々と発表するチームの学生たち。「遠いアフリカ」から「遠い日本の過去」を学び、「今・自分の立ち位置」を考える…そんなおかしな授業に、真剣に、毎年取り組んだ学生たち。あの授業は、私の中で実は一番好きな授業だった。

そして、仲間達と勝手に編み出したルカサという手を使った「暴力空間」を創出し、それを「平和化」するワーク。尖閣問題をやった時に、皆が自分の中のナショナリズムの強さに驚き、立場をスイッチした時に、相手国の人の気持ちに気づき、それを可視化し、ガレリアに1週間展示した。あれも、私の中では手応えを感じた授業であり、ああいう参加型学習が1.5時間の細切れでしかできないことが非常に残念だった。

いずれにせよ、私が若い頃をのほほーんと過ごせた日本とは劇的に違うものになっていく・・・そんな予感があった2006年ぐらいから、こういうことを延々と学生たちとしていたのだ。おかしな、オカシナ、奇想天外な、、、そんなセンセーと授業に、よくついてきてくれた学生がいたもんだ。まあ、外大なんで、私もある種の「異文化経験」だったのだろう。

そして、2011年3月11日の大地震とそれに伴った原発事故。
人びとの自覚が強まるが故に、権力側はそれを押さえ込もうとあらゆる手を打ってくるだろう…そう気づいた。だからこそ、あれやこれやの活動に今迄以上に身を投じていたのもそのためだった。

しかし、2015年5月の現在、このドイツで思うことは、日本が踏み込んではならぬ泥濘に、ついにどっぷりと足を踏み入れてしまって、皆その事実を理解しているのに、足を取られてしまって身動きできない状況にいるということを、自分の無力感とともに見つめている。

今自分ができることは何なのか?
少なくとも、日本のどこぞやの大学に戻って、また別の10年をすることではない。
日本にこだわるからこそ、今日本にいてはいけない、とも思う。
やることはやった。
できることもやった。
しかし、私の力を沢山のことが超えていた。

今、私は日本から遠く離れた場所で、もう一度日本の過去と今と未来を、真摯に考えなければならない時期にいると感じている。

その日がくるであろうことはずっと分かっていたものの、こんな風にくるとは思っていなかった。
色々な学会で重要な役回りにきて、色々なことができるだけの実績や経験も積んで来たはず・・・の40才半ば。でも、突然病気になり、起き上がることも、思考をまとめることも、そもそも本をまともに読むこともできなくなってしまい、大学の研究室に足を踏み入れることも、大学の校舎に近づく事もできなくなった時、私は一旦すべてを捨てるという選択肢しか、持てなくなったのだ。

そして、それがなんと素晴らしくよかったことか〜!
といっても、性格上、全部を一気に気持ち良く捨てることができない私は、専門家の先生たちや同僚たちや学生たちや仲間達の厳しくも温かい励ましを受けて、2年近く一見無駄な時間をのたうちまわりながら、しかしようやく一歩踏み出すことができたのだった。それもこれも、家族と皆のお陰である。

基本的に関西人的厳しいコメントで有名な舩田家の人びとが、この1年間は何もいわなかったのは奇跡だったのかもしれないが、救われた。連れや子どもは苦しかったろうが、耐えてくれた。大学の同僚や学生や活動の仲間達にはすごくすごく迷惑をかけたが、信じられないほど広い心で協力してくれた。

病になって、本当の仲間の素晴らしさを、専門家のありがたさを、そして自分の中に残っていた大切な力のことを、本当の意味で知ることになった。この経験を、40代半ばにできたことを、感謝してもしきれない。

「次」をワクワクするような気持ちで眺めている。
未だ十分体力も気力も知力も戻ってきていないので、一歩ずつ、時に数歩戻っていくだろうけれど、今唯一無二の自分の人生を、毎日感謝しながら生きている実感を手にしている喜びを、どうやって伝えれば良いだろうか?

雨降って地固まる。
苦しんだ分だけ豊かさを知ったような気もする。
苦しみの中でも人は種を撒き続けるものなのだ。

若い頃は苦しまないのが幸せだと思っていた。
今は違う。

苦しみと幸せは隣り合わせで、それでいいんだ。
人生は思った以上にもっと芳醇なものであって、自分ももっと肥やせるはずなのだ。
今の自分に満足してしまうのであれば、NEXTはないから。

でも、自分の幸せは自分の手の中にあることも事実。
苦しみは人を停止させる。
でも、だからこそ、きっと学びが大きいのだ。

いつかそのことをもっと上手いやり方で伝えられる日がくればいいな、と思う。
今はすべてに感謝の毎日を過ごしている。

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by africa_class | 2015-05-22 04:53 | 【徒然】ドイツでの暮らし