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大学1年生向けの本:執筆秘話(その1)

家族が来襲し忙しい。
昨日はトマトになんとか支柱を立てた…。私がいない間に勝手にトマトの横にキュウリを植えるという不思議をされてしまったので、キュウリをなんとかせねばならぬ・・・。トマトと共に植えるべきは(コンパニオンプランツ)、ニラ、バジル、パセリだと伝えたのに・・・大きく葉っぱを広げたキュウリのせいでパセリも枯れ枯れ。

3月に外大を辞めた。その理由は色々あって既に書いた。
http://afriqclass.exblog.jp/21252293/
書いてないことの一つに、教室に留まらない、国内に留まらないもっと広い層の学生と色々したいなあ、と感じるようになったこともあった。勿論、外大の教員をやりながらも不可能ではないけれど、目の前の学生に全力投球してしまう私としては、物理的にそういうシチュエーションから自分を切り離すことは必然だった。

なので、今、日本の大学1年生向けに本を書いている。
ずっと前に着手して、卒業生が出る度に「いつかその本を贈呈するね」と約束して早8年が経過。本腰を入れたいと思うのようになった。が、他に既に出版社が決まっている学術書や一般書があって、それをやらないでやってる場合か・・と良心の呵責もある。ブログ書いてる場合じゃないが・・・学術はやっぱもっと気合いと良い体調が必要。これを万一みてる関係者・・・すまん。気持ちが向かないと、やっぱりなかなか一事が万事片付けられない(言い訳だけど)。なお、「大学1年生向け本」は未だ出版社を探してないから、関心があればご連絡を。

私が作ろうとしている大学1年生向けの本は、「大学で学ぶ」のは何故なのか、それはということはどういうことなのか、その先に何を見据え、何をどうしておくべきなのか・・・についてのもの。誰もなかなか教えてくれないテクニカルな部分も、何故そうなのかも含めて紹介しようと思っている。なので、「スピリット(精神)」「メンタル(心)」「アプローチ(心構えを含む)」「アクション(行動)」「レヴュー(振り返り)」があって、「自分と社会/歴史との関係性(連続性)」を重視したものとなっている。

このような本を作ろうと思った背景を少し紹介しておく。それは、日本以外の国々での大学(院)教育や研究・学術の位置づけに触れてきたことと関係している。

例えば、今ヨーロッパのある国の大学院生たちが私のレクチャーを企画してくれている。音頭をとってくれているのがブラジル人の博士課程の学生だというのも嬉しい。2年前に英語やポルトガル語で論文を発表するようになってから、世界の色々な国の若者から沢山の問い合わせがくるようになった。中には厳しいコメントもあるが、彼女・彼らのそういう率直さが凄く嬉しい。しかし、下手な英語・ポルトガル語での執筆を支えてくれているのも、ボランティアでプルーフリードしてくれる若者たちだ。そういう風にコレクティブに学術論文が「つくれる」のも素晴らしい。自分の書いたものが「社会のもの」になる感覚は、日本の学術界の要望に応えて書き散らした論文や原稿では得られなかったものだ。勿論、そこで先輩たちに鍛えてもらったから今日がある。

忘れもしない、1999年…初めてアジア研究所の依頼で書いた論文の酷さ…。日本語は支離滅裂で論理的一貫性は欠落し、とにかく何がいいたいのか分からない…。せっかく機会をもらったのに、たった2ページが書けない。。。穴があったら入りたい程のものを、研究所の皆さんが本当に丁寧にコメントくれ、修正案を示して下さった。中にはほとんど同い年の研究者もいて、正直自分の出来なさ加減がショックだった。彼は今でも理路整然として素晴らしい論文を書く。皆さまのお陰で一応学術論文のイロハに従って書けるようになったものの、言いたい事は山ほどあるのに、短いものにまとめる能力がないのは、相変わらずだ…。成長しないんだね、私。

でも、現場が好きで実務(国連PKO)からこの業界に入り、学者になるつもりが全くなかった私としては、そして修士までディシプリン教育をまったく受けられなかった外大出の私としては、こういう先輩たちの支援と励ましがなければ、とてもじゃないけれど研究者として人を教えるなどという立場には立てなかった。だから、日本の学術界の、特にアフリカ学会の、こういうコレクティブに仲間を育てるスタイルは本当に重要だし、今後も続けられるべきものである。

が、この年齢になって、記憶から消したりたいパーツを思い起こしてみれば、実際はもっと前に沢山の人に沢山のことを教わっていた事実にふと突き当たった。あまりにも拒否感が強すぎて完全に忘れ去っていた多くの出来事…。本当は、「ゼロ」なんかではなく、本当に多くの人びとに多くのことを教えてもらっていた。このような「自動記憶抹消」とそれを思い出すことの苦痛といった衝動から逃れるのにも、実に20年近くの歳月が必要だったのだね。

実は、先日書いたブログに出てくる「お父さん」は米国のとある国立大学の現代史の教授で、私は彼の同僚である中南米現代史の先生と、20才の若さで何故か共同研究をしていたのだ。そのきっかけは何だったかすら記憶にないが、私が日本人で英語とスペイン語とポルトガル語を「(怪しくも)話せて」、その前年にメキシコに行って、次にブラジルに留学に行くと聞きつけて、ペルーのフジモリ大統領の伝記を書いていた彼が、もう一人の社会学者との3人での共同研究と本の企画を持ってきたのだった。要は日本語が読める人が必要だったんだね。

あんまり気乗りしないままに(その後も同様、だって学者になるつもりがまるでなかった)、「でも約束したから」という理由と出版社の契約書にサインしてしまったからというだけの理由で、何年か共同研究し、学部の卒業論文をそのテーマで書いて、それを英語にして、その時期に日本に急速に流入していた日系人の調査をして、で本が出来た(The Japanese in Latin America, Illinois University Press)。が、まるで学問のイロハを分かっちゃいなかったし、あまりに中途半端な感じだったので、イリノイ大学からくる印税の小切手を一度も換金しないで現在に至ってしまった。

あの最中は自覚がなかったが(そして今の今まで)、でも、今振り返るとこの経験は凄く自分の中に根をおろしていたことに驚く。

彼は、アメリカの公文書館に行っては1990年初頭に50年ルール(通常30年ルール)で開示され始めた、本来は厳しく開示が限定されていた軍や警察の資料を、山というほど入手して、片っ端から読んでいた。そもそも大学2年生の私にはその意味がよく分からず、彼の知的興奮と眼鏡の奥で光り輝く好奇心を眺めながら、現場であるラテンアメリカでの現地調査を重視しない彼を批判的な目でみていた。でも、彼は在米のペルーから連れてこられて収容された日系人へのインタビューを開始していて、もう一人の共著者である社会学者と地道にインタビューを積み重ねていた。その際に聞き取った調査票の束を前に、彼は途方に暮れていて、取ってきたもののデータ整理できない自分を嘆いていた。「彼はこの本を完成させないと准教授から教授になれないんだよ・・・彼が少しでも怠け者の自分を乗り越えたら素晴らしい学者になるのに」、とお父さんはおっしゃっていた。

確かに彼は「(学問に)怠け癖」がある人だった。3人の子どもたちと遊ぶのが何より好きで、遊びといっても走る・泳ぐ・飛ぶ・・・だった。そして、よく子どもたちに本を読んでいた。そのまま寝てしまうことも多々あった「よきお父さん」であった。

でも、彼はマラソン選手だった。
そして、彼は学問の社会的意味に拘った。
だから、自分の昇進よりも(つまり本を書くよりも)、もっとがんばったのは、自分の学術的なリサーチの成果を社会運動に提供することだった。アメリカにおいて、日系人の収容はよく知られているが、ベルー等の南米にいた日系人が米国に連れて来られて収容所に入れられていた事実は当時知られていなかった。

今でこそNHKでもドキュメンタリーが放映され、以下のように当時の事を語るインタビューが視聴できる。
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/624/
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/profiles/32/

でも、当時はそういう状況ではなく、彼の研究もまた補償運動の皆さんと二人三脚であった。微力ながら、私もお手伝いしたりした。1999年にビル・クリントン大統領が謝罪をして補償を約束するまで、現代史を共に生きる歴史家として、彼が果たした役割は大きかった・・・と、今頃になって思う。

しかし、ブラジルにスラムでの貧困の問題をスラムの中から考え・研究するために行きたかった私としては、なんともコミットするほどに心が動かなかったのである。歴史アプローチよりも、社会学的アプローチに関心があり、究極的には過去のことではなくアクチュアルな平和と暴力の関係に切り込みたかった。アメリカ社会に関心がなさすぎたせいもあったかもしれない。冷戦が終焉するしないのあの時期、中南米からみたアメリカは「介入者」として見えたし、まだ「唯一の大国」としてブイブイいわしていたころで、「ああ、やだな・・・」と思ってしまう何かが蔓延していた。なにせ、1989年夏、18才の大学1年生夏に独りで向かった先がインド、そして当時は第三世界とよんで間違いのないスペインとポルトガルだった・・・という始末。

彼があれほどのこだわりと粘りを見せたのは、彼自身がアイルランド移民二世だったこともあるという。自分の問題意識に根ざした研究は、すぐには花を咲かせず、社会運動に没頭したとしても、必ずいつの日が大輪を咲かせる日がくるもんだ、ということも彼から学んだと思う。

賛成できないことが大半のアメリカであるが、底力のように凄いところは、色々なものを呑み込みながら、プロとコン(賛成と反対)がぶつかりあうことをよしとして、物事を前進させようという気概がある点である。だから、見せてもらって公開文書には、ばっちり個人名も残っているし、その人が在職中にとっていたメモ用紙までそのままファイルに残されている。というか、ファイルごと残っているのだった。軍とか警察とか、安全保障関係のものほど、きちんと整理されて公開されている(隠されているのもあるだろうが、かなりの程度30年、50年ルールを過ぎたものは公開)のである。そして、それらの記録の詳細を知らなくても、司書の人に相談すれば凄くがんばって色々リストを出し、資料を出してくれる。そういう経験を、大学2年生程度の私が出来た事自体、感謝してもしきれない。

実はそれから18年ほどが経過した4年前に、ワシントン郊外の米国アーカイブに行って冷戦期の米国の対世界戦略とアフリカ政策関連の文書を調べている時、もう退職した先生が会いに来てくれた。私は自分の本を渡しながら、先生との共同研究がいかに私に大きな影響を与えたのか、あの時は自覚がなさすぎて、ただ世界の現場に行きたい一心で十分感謝できなかったけれど、今日ここに自分があるのは先生のお陰だとすごく強調したら、先生ときたら、「でも僕のお陰というより、君は息をせずに25メートルのプールが往復できたからね。つまり、我慢強いから」・・・だった。

先生には、先生の子どもたちと私のあの競争が凄まじい印象だったらしい。私も未だ若く、そういうことにこだわりをもってた・・・。でも、私が息をせずに長時間潜れる理由は別にあった。幼子の私が海に身投げしようと考えた理由とも絡むがそこはさておき。あの子たちももはや家庭をもって各地で活躍している。でも、先生は照れくさかったんだと思う。先生のこういうひょうひょうとした、利己心の薄い、故に「怠け者」なところは、心底尊敬する。先生は、アンデスの山々が似合う先生だった。

もう一つ先生との共同研究で学んだのは、当時日本では未だワープロ全盛期にあって、「インターネット?メール?それなに?」の時代に、メールでやりとりしながら共同研究を進めるということが当たり前のものだった点だ。そして、先生が米国中南米歴史学会のメーリスで、ある学説やある新刊本について、コメントを書くと他の人たちがそれをさらにコメントして、一つの学説が、遠隔で、でもリアルタイムでどんどん鍛えられていくのを、目にしたことも刺激的だった。(と同時に意味が分からなかった。どうして、一つのメールを全員が読めるのか・・・どうして今書いたメールがどこでも後でも見れるのか・・・など。説明されても一向に分からなかった。。。)

今ドキの学生なら驚かないだろうが、なにせ当時「ポケベル」の時代。ポケベルに「カイシャ」と出ると、公衆電話に走って会社に電話した時代なのだ!携帯なんて自動車用のものしかない時代。その原理がどうしても理解できない私は、先生が、何故パソコンを常に立ち上げていて(これもワープロ世代には驚きだった)、そこに入ってくるメールを気にして仕事をしていたのか・・・横目で眺めていた。正直、そんな箱の中、顔が見えない相手とのやりとりに時間使ってる場合かよーーー天気いいから子どもたちとプール行きたい・・・の心境だった。思えば、彼との年の差は20才以上。子どもたちとは6才だった…。しかも相手は博士で、准教授。こっちはただの英語もろくに出来ないアジア人の日本の学部生だった。なのに、本当に一点の曇りもなく、対等に接してくれた。アメリカには時々そういう人がいる。公平な人びとが。

他方、お母さんとプロテスタントの教会にいって、哀れな東洋人(赤子的)と扱われた時には心底腹が立ったし(まあそれぐらい英語が出来なかったから仕方ないのだろうが)、「白人として哀れな有色人種には優しく接しなければならない」という押しつけのようなものを嗅ぎ取って嫌気がさした。聖書を学ぼうの会も、正直辛かった。日本の植民地支配はあからさまな人種差別に基づいたものであったことが多いが、20世紀後半のヨーロッパのそれは時にそれが家父長的な様相を身にまとっていた。キリスト教の普及という正当化の論理が使われていたこともあろうが。どちらがどうではなく、そういうものの根っこにある人種差別意識というのは、私の中で強い印象を与えた。

その経験から、米国の人種差別とブラジルのそれの違いについて意識するようになっていった。アフリカンビートへの関心から、おのずとアフリカンアメリカンの歴史に、そして北東部ブラジルのコミュニティに、しまいにアフリカまで辿り着いたのだが、これらすべては偶然ではなかったように思う。アフリカに行くつもりがこれっぽっちもなかった私が、ブラジルで学んだポルトガル語のお陰で、国連の仕事でアフリカ(モザンビーク)に行けたことは、偶然であったが今思えば必然だったのかもしれない。

だから若い頃に、「自分はこうだ」とか「これが好きだ」「これしか興味がない、したくない」という考え方はしない方が、可能性が広がって、自分のちっぽけな脳みそでは思いもよらなかったような機会に恵まれると思う。

抹消していた記憶が戻ってくると、洪水のようだ。
あの夏、先生の家の芝生に水を撒いた後の青々しい匂いとか、プールで飛び散った水滴がキラキラと輝いた感じとか、あの3人の子どもたちの歓声とか、昨日のことのように思い出す。なのに、どの子の名前も、その顔も思い出せない…。

あの共同研究の中で、私は「論争」というものを学んだ。
全ての事柄には論争があるのだということを。
そして、それは決して悪いことではなく、多様な角度で眺め、多角的に議論することで、物事は前進していくのだということを。それに慣れるのは容易ではなかった。日本人にとって「和をもて尊しとなす」のが当たり前である以上、相手が間違っていると思っても、おかしいと思っても、それはのみこんでしまうのが美徳であった。若い女性ともなれば、なおさらのことであった。

しかし、クリティカルな目線、実証に基づいた議論は、それが誰であれ当然のこととして受け入れられる世界に、少しばかりの間であるが、浸ることができ、そのことの重要性と可能性の一端を垣間みることができた。そこがカクテルパーティであろうとも、招かれた知人宅のバーベキューの場であろうとも、「あなたはどう思う?」「どうして?」・・・そう聞いてくれる大人達に、どれぐらい考え・語る機会をもらったことだろう。

でも、彼はあれやこれや「教え」たりしなかった。ただ一緒に執筆していただけだった。私の書くものにまったく口を出さず、「ブラジル・日本担当」というだけが決まり事だった。最初は戸惑った。何から手をつけていいかもわからず、膨大な参考文献リストの海の中で溺れそうだった。でも、英語文献で書かれていることと、日本語文献で書かれていることのギャップに気づいた私は、英語文献ではほとんど書かれていない明治期の日本の移民史にはまっていった。今から思うと、英語文献の世界で「自分だけができること」を追求した結果だったかもしれない。

明治の日本人がどうやって外に目を向けて海を渡っていったのか?また、冷戦終了直後の「国際化」を叫ぶ日本にあって、若者として、一人一人のライフヒストリーや声に心惹かれたというのもあった。国会図書館には膨大な量の資料があって。移民文庫については資料室があった。全体の閲覧室の無味乾燥な雰囲気と比べ、その空間が居心地良かったというのもある。休みになると関西から出ていって、朝から閉館までひたすら資料を読んだ。外務省に移住課があって、そこの皆さんにもインタビューに行き、資料を借り、日系人協会でもやはり同様だった。

私が最も惹き付けられたのは、これら「戦前移民」たちの手記や俳句や和歌であり、送り出した側(日本政府関係者)の会議の議事録であった。そして、英語文献をよみながら、そして彼と議論しながら、戦前の日系移民が新大陸への他からの移民と決定的に違っていたことについて思い至ったのであった。
つまり、「出稼ぎ」という言葉に示されている戦略である。

米国や中南米側からみたときに、「移民(移住者)Migrants」と一括りにされてしまう彼らが、実は「いつかは日本に帰るつもりの出稼ぎ者/人(sojourners)」であったこと、その結果ホスト国と日本と自分たちとの関係が、他の国や地域からの移民と著しく違う点であったこと、そして、そのことが第二次世界大戦直前から最中、そしてその後に及ぼした影響の大きさ・・・これらは日本人であればある程度推測できることが、英語の学術界では十分に理解されていないことが私には逆に驚きだった。

そこから私の関心はブラジルで生じた「勝ち組」「負け組」の衝突に向かって行った。この現象を、英語世界の人たちに分かる形で提示したい・・・と思ったのである。(大学の卒業論文は結局これをポルトガル語で書いたものであった。しかし、その100ページを超える大作も、引っ越しの際にどこぞやに行ってしまい、もはや幻のものとなってしまった…)。

また、日本向けには、初期の南米出稼ぎ者が、必ずしも困窮した人たちがいったわけではなく新天地で自分を試したいという野望を持った人たちが多かったことなどを突き止め、先行研究を引用しながら、一人一人の環境や想いを歴史的動態に繋げようと試みた。私が稚拙な英語で送るそれらのレポートを、彼は丹念に読んでは質問を返してくれた。それに基づいてさらにリサーチを進めていった結果、当初の予定とは大幅に逸脱する章立てとなってしまった。

結果、当初3人で書いていたこの本が2人の本となっていった。何故ならもう一人は南米をフィールドとする社会学者で、日本の歴史なんか興味ないのに本がどんどんそっちの方向に行くのに耐えられなかったからだ。出版社からも、日本の部分が長過ぎるとクレームがきたのに、彼は「ある歴史条件の中で、人が海外に向かい、滞在者となった後、移民になっていくプロセス」への私のこだわりにつき合ってくれた。本の表紙の写真を彼が提案してくれたときに、そのこだわりをいかに彼が共感し、共有してくれていたのか分かって、すごく感動したことを覚えている。

学部を終え、大学院に通いながら1年ほど追加で調査・執筆して、私の役目を終え、私はこれで一生学問と関わることもないな、という確信とともに、そして当時のパートナーに指輪を返し、戦争を終えたばかりのモザンビークに旅立った。その後も、本の最終化のプロセスであれやこれやがあったのだけれど、そのパートナーとのあれやこれやのもめた時期でもあったため、一切合切を記憶から抹消してしまっていた。。。今思えば、若かったなー。そこまで一生懸命忘れようとする必要はなかったのに、と。

でも、以上の色々を今日まで忘れてしまっていた理由には、本当の意味では自分のものに出来ていなかったことだったからということもあると思う。見よう見まねで、ただ流れに身を任せ、本を書いた。もはや恥ずかしくて読み直すことすらできない本を・・・。この本は、そのほとんどを担った彼のお陰で米国の学術本の選書トップ50に選ばれ表彰され、未だに米国中南米史学会から招待がくる。でも、それは本当の意味では私の実力ではないし、内実を伴ったものではなかった。その申し訳なさから、4年前まで彼に連絡を取ることすらできなかった。

人生というのは予期しない曲がり角を準備してくれるものだ。
モザンビークからかえった24才の私は、国連の次の仕事に行くか迷っていたのだけれど、自分のどうしようもない英語能力や専門知識の欠如をなんとかせねばんと考え、米国の大学院に行ってなんか学位ぐらいは取っておいた方がよいかな、などと考えていた。まあ、よくあるパターンの発想だ。それで修士論文を英語で書いておいた方がよいなということで、これまたどうしようもない英語でつらつら書いて出した途端に、阪神淡路大震災にあったのだった。

続きはまた今度・・・。
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by africa_class | 2015-07-30 21:52 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

三つ葉のトースト、生き延びるということ。そして、愛と若さについて。

病気の残存から1日1個ぐらいしか出来ない。
なので、今日は敷地の奥の森の自生しているヨハネスベリー(ふさすぐり<黒いのはカシス>)を摘みに行って、今ジャムと夕飯を作っているところで、後はストーブがやってくれるため、暇なんでこれを書いている。
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本当はパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』について書こうとしていたのだけれど、勝手気ままに書いていたら、ぜんぜん違う話(根本は同じだが)になってしまったので、そのままにしておく。

薪ストーブの良いところは、同時に鍋とグリルが使えることだ。なので、同時に夕ご飯も。今夜も手抜きで、庭のハーブで作ったサラダに、ミツバ&トマトトースト、組み合わせ的にとってもあわないと考えられる具沢山のみそ汁。これらを、同じストーブで、寝る前に飲むハーブティ(今は季節側ミントに凝っている)のためのお湯とともに準備中。というか、ストーブが勝手に準備している。

「薪ストーブ」という名前から「薪」ばかりに目がいくが、枝も立派な燃料。そのことに気づいてからは、ストーブでの調理は凄く楽になった。

なお、群生するミツバと翌日冷えてしまった手作りパンをなんとかしなきゃ・・・の一心で編み出したレシピ・ミツバ&トマトピューレ&ガーリック&チーズのトーストはおすすめの一品。子どもが小腹を減らすとこれを出せばボリューム感から満足してくれる。
今日は独りなので、さらに手抜きをして、こんな感じに。
・庭に群生中のミツバを刻んだもの
・昨夜の残りの海の幸&ガーリックトマトソース
・これに細かくちぎったチーズ
を買ってきたパンに載せを、グラタン鍋に並べてぶち込んだだけ。

以前作った時のもの(オーブンに入れる前)
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お味噌汁も具沢山な理由が、去年秋に自分で作った味噌の大豆自体が具沢山…。あまりにしんどくて、でも味噌が手に入らないドイツの田舎なんで、無理矢理味噌を作ったため、機械も踏みつぶすのもやめて、ただ手で潰した(踏みつぶすにはそのための袋を用意したりだし、機械を使うと後洗わないといけないので大変)。その結果、茹でられた大豆くんたちはつぶれきれておらず、ほとんど半分に砕いたぐらいの形態。なかなか味噌らしくならなかったが、10ヶ月を経て良い感じに。なので、みそ汁の味噌自体が大豆のつぶがもりもり…。でも、私こういう味噌実は好き。そこに、買い物に行けない時のために干しておいた今年の夏の収穫物、つまり化け物となったダイコンたちをただぶち込んだ。自慢じゃないが、凄く美味なみそ汁。この1品と玄米でお腹いっぱいになる。

家事はスピードが母からの家訓。
忙しすぎるが丁寧な暮らしがしたいという矛盾する自分と生活を成り立たせるために、「手間自体を愛さない」、「省ける手間は省く」、「今の手間がいざという時の楽さに繋がるのであれば、やる」ということをモットーにしてきた。こういう時に役立つもんだ。

でも、19で家庭を持った私は、どんな忙しくても、レトルトとか冷凍食品とかそういうのに頼ったことはないし、電子レンジも持った事もないし、トースターも炊飯器も持ってないし、まあ人から見たら、「手間やのー」ということはあるだろうが。要は、楽しめる範囲での手間を楽しんでいる。また、暮らしの基本が「循環」であることも、譲れない。これも、私の中では「抵抗の実践」の一形態だから。

さて、本題。
ここまで書いたら、ジャムが出来そうだ。
何の話だったか…。
そうだ、抵抗だ。

私に取って、以上のような日々の暮らしの色々は「抵抗」そのもので、思考と実践の両方を繋ぐもの。当事者性というのを私が持つとしたら、「生活者」というところからしか始まらないから。「学者然」としていた方が、個人的には遥かにメリットがあるけれども、そんなメリットを得て送る人生なんて何の意味もない。墓場にカネもメリットも名声も持っていけない以上、より問われるのは「どう生きたのか?」であって、「何を所有したのか?」ではないから。

死が切実に近かったから、今を生きる・自分らしく生きることに早くから目覚められた。もし、いじめや、自分が必要とされていないとか、自分が生きても何の意味もないと考えている若い人がいたら、いいたい。

そんなこと絶対ないよ、と。
あなたの命には、沢山の意味があるのだよ、と。
生きていれば、必ず本当に大切なことに行き当たる、と。
今、そう感じられないとしても、だったらそう感じられるところまで生きてみよう、と。

私は4つの時に、海に身を投げようとして、ギリギリのところで思いとどまった人間だ。当時、港のある漁村に暮らしていた。なぜ思いとどまったのかは、未だに思い出せない。ただ、「救われた」という実感だけが胸の中に残っている。目の前に横たわる暗い海のあの感じだけが記憶にある。

成人した後、そこを再び訪れた時、あまりにも村がちっぽけで、海も穏やかで浅く、拍子抜けしたことを思い出す。19才のあの時でも、あそこに足を向けるのはとても辛く、当時婚約していた彼に付き添ってもらって初めてそこまで行けたのだった。そういえば、あの彼も元気だろうか。籍こそ入れてなかったものの、彼の家族には本当の娘のように沢山の愛と支援を頂いた。ブラジルでの調査費を出してくれたのは彼のおじいちゃんで、彼のお父さんには学問的なアドバイスを、お母さんには女がプロとして生きることを、沢山教えてもらった。おじいちゃんとお母さんのお葬式に行けなかったことは今でも悔やまれるのだけれど、お父さんに本を送れたのはせめてもの償いかもしれない。お父さんには今年こそ、会いに行きたいと思う。

若さとは厄介なものだ。
とりわけ、幼い頃に刻み込まれた痛みを解消できない間は。
自由に沢山のチャレンジをしたい自分と、同時に愛されることで安心したいという自分の間で揺れ動く10代と20代前半を経験し、それがもたらした多方面の問題に、申し訳ない想いがある。今となっては、その「若さ」を苦笑したり、微笑ましく思えるが、当時はとても深刻だった。23才の終わりに、すべてを捨てて戦後直後のモザンビークに行ったのは、大変な決断だったけれども、心からよかったと思う。

女の子たちが、自己肯定感から男性に愛されることでなんとか自分の不安を埋めたり傷を癒そうとしているのを見るつけ、かつての自分を思い出す。

そんな彼女たちにいえることは、
それもまた仕方ない、ね。
ということ。

もっと強くなんなさい、とおばさんがいうのは簡単だ。
でも、試行錯誤をしてみないと、分からないものだから。
覚えておくべきは、自分の中にはちゃんと力が備わっているという真実。
他人の「愛」のように思えるものに、依存しなくても大丈夫。
あなたは、ちゃんと自分をいつか受け入れられるから。
その時、本当に解放されるのだよ、と。
自分が自分で与えていた呪縛から。

私が、ブレない自分の話であのようなことを書いたのは、そういうことだった。
「長い夜にブレない生き方について考える〜ガンジーの「ノー」の価値論と「五日市憲法草案」、そして沖縄」
http://afriqclass.exblog.jp/21326990

自分の中に軸がない限り、他人がどう思うか、他人に愛してもらえるのか、そこにばかり気が向いていってしまうことについて、私自身が経験をしてきたから。これは息子にも、多分伝わっていないと思うけれど、伝えてみた。「ふーん」としかかえってこなかったけれども。

恋愛は人を成長させる。
だけれど、まずは自分が自分を受け入れられないと、それはどこか誤摩化しになってしまって、本当の意味での自分の人生にはならないことを、頭の隅においてもらえるといいな。

まずは生き延びること。
そして、自分を受け入れること。
そして、その経験をバネに、他の人びとのために役立ててみること。
そして、時に始めた場所に戻ってみること。
愛し愛された人びとに感謝すること。

そんなところ?
偉そうにいえる私ではまったくないけれど、とりわけ私の友人たちは苦笑していることだろう!散々迷惑かけたから・・・。

でも、歳を取るということは何と素晴らしいことか、と納得している間に煮沸消毒していたジャムの瓶も乾いたようなので、ジャムを完成させる。

今日は、リースリング。
甘すぎるから嫌いだった。
安いワイン風で。
でも、ここドイツの風土にとってもあうワインなんだ。
これも年の功かな。
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by africa_class | 2015-07-28 04:30 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

(その2)大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今。

ということで昨日の続き。
先に(その1)を読んでね。
http://afriqclass.exblog.jp/21484478/

といっても、ハーブ畑に大量に生い茂ったあらゆる草との今朝の格闘で、今実は疲れ果てている…。いなかった1ヶ月の間に野菜たちも化け物とかしていて、本当はもっと早くに秋野菜を植えなきゃなのにまずは夏野菜とお友達の草たちからなんとかしなきゃ・・・でもしんどい・・・で、ここまで来てしまった。農には、お天気・人手、心身ともの健康と時間が必要だということをつくづく感じる毎日。

しかし、放置がよろしかったのか、野菜も草も、そもそも植えてあった木々も、今は花真っ盛り。天国のように色とりどりの庭。見るだけなら、素晴らしい色合い。絵に描きたいほど。一年のごく僅かな出棺だけのこの眺めを堪能したい。けれども、油断すると種をまき散らすのでまた来年大変なことになる・・・が、今はこの花々に、ハチがぶんぶん、モンシロチョウもぶんぶん。切るに切れない。
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せっかくだから、前から挑戦したかった養蜂を来年はやってみよう。ラベンダー、アジサイ、ディル、アザミ、シロツメクサ、コンフリー・・・の花の蜜を吸ったハチの蜜って、どんな味がするのかな?という興味から。

「ハチ」というと、子どもの頃は怖かった。家でも学校でもすごく脅されていたし。でも、ハチに囲まれて暮らしてわかったことは、ハチもまた彼らの感性と論理があって、こちらが彼らの邪魔をしない&しないオーラを出しておけば、ほっておいてくれるということ。「邪魔しないオーラ」って何?・・・というと、「気を消す」感じ?ぶーんと飛んで来ても、何もせず、ただ気を消す。動きたければ、そーーーと引く感じ。すると、ハチもすっといなくなる。このあうんの呼吸を呑み込むと、ハチさんが群がっている花も少しだけお裾分けさせてもらえる。

またしても、続きのはずが前に進んでないわい。

で、1年以上前に何を書いていたか?・・・というと、日本平和学会に頼まれて『平和研究(早稲田大学出版会)』というジャーナルを編集していた。それは、『平和の主体論』という特集号になったのだけれど、そこに後書きを書かなければならなかった。だから、ナチス時代のドイツで形成された全体主義の問題について、今の日本と重ね合わせた文章を書いた。ハンナ・アーレントを引用しながら。「後書き」は、こう始まる。

 「東日本大震災とその後の東京電力福島第一原発事故から3年が経過した。そんな2013年末、小さな映画館で公開された映画が評判を呼び、異例のロングランとなった。「ハンナ・アーレント」と題されたその映画を、2013年の日本社会が欲した理由は何だったのだろうか。
 ハンナ・アーレントHannah Arendtは、ユダヤ系ドイツ人として生まれ、ナチス・ドイツの迫害から逃れ、アメリカで「全体主義の起源」をはじめとする多くの著書を記した政治哲学者である。
 全体主義体制は、第二次世界大戦あるいは東西冷戦の終焉にいおって、一部を除き「終わったもの」として久しく受け止められてきた。1990年代以降の世界における複数政党制民主主義の急速な拡散、移動手段や通信技術の発達による多様な情報へのアクセスの拡大ーーこのような時代に再び全体主義について考える必然性はどこにあるのだろうか」。

日本平和学会(編)『平和研究ー平和の主体論』早稲田大学出版会
http://www.waseda-up.co.jp/series03/post-711.html
(表紙の写真は、2014年2月にNGO・外務省定期協議会・ODA政策協議会で沖縄に行った際に、沖縄の高江で撮ったもの。モザンビーク農民の土地を奪われる苦しみと不安を、沖縄の人びとはよく理解してくれた。苦悩というのは他者の痛みへの共感と連帯の土台になりうるものなのだ、と改めて尊敬を込めて感じた)

この本が出てすぐ、その「後書き」が、現実に生じたことを先取りしていたため、このブログに駄文を書いていたのであった。そして、布団の中で書いたそれは、誤操作で見事消えてしまった…。でも、それでよかったのかもしれない。物事にはそういう思いがけない出来事があって、それぞれに「意味」があると思う。

で、1年前何故その駄文を書いていたのか?
それは、外務省JICAとNGOの「対話」の記録から、政府側が個人の氏名・肩書きを削除してきたと聞いたからだった。この対話は公開のもので、それまで記録は記名入りで掲載されていた。それが去年5月に突然、名前が消されて、「外務省」とか「JICA」とかの書き方にされていたと聞き、「あっ」と思ったからだった。

この記録をめぐっては、当日全く発言されてもいないことが事後的に書き加えられたり、当日言ったにもかかわらず(そして逐語議事録が提供されているにもかかわらず)「記憶にないから」と削除されることもあるという。さらには、NGO側の発言箇所にまで、丁寧にも、直接修正を加えてくれるというから厄介だ。一般には、こういうことは「記録の改ざん」とされかねないが、これらの機関ではどうもそうではないらしい・・・。違うと思いたいが、あまりに日常化しているということだろうか?こういう細かい芸当が得意な者ほど組織内で重宝され、評価が高いのも、税金で彼らのサラリーを支えている側としては「?」が大きい。

当日発言したことは、後で変更可能で、そもそも誰が話したかすら分からないようにできる・・・税金で支えられている援助事業の公開の話し合いの場で求めること自体が、一般市民には謎だ。透明性を高め、説明責任を果たすのは義務であり、責任であり、「市民の要求によること」でも「追加的なこと」でもないはずなのに?

つまり、自分の発言に個人として責任を持たない、持ちたくない、ということだと受け止めるしかないのだが、他に何か理由があるだろうか。でも、これも一度でも組織に生きたことのある者なら、きっと理解できる論理だろう。つまり、彼らだって可哀想なんだ。

彼らの論理では、このような問題事業を、好きで担当しているわけではない。たまたまそういう役目が回って来ただけで、運悪く担当になって、自分の名前が記録に残るのは迷惑だ。そもそも発言だって、個人の発言というわけではなく、組織のためにしぶしぶやってることだ。なのに、自分の発言としてもらっても困るし、自分の将来にも関わる、そいうことのようだ。これに同情する気持ちがないわけではない。渦中の栗をあえて拾った人もいるし、改善しようと努力している人たちが何人もいるのも知っている。そして、その人たちの努力に率直に敬意を払いたい。でも、だからこそ、名前を伏せるなんてことはあってはいけないと思う。名前を載せるのも憚れるような、そんな「問題事業」を始めたのは誰なのか、どの組織だったのか? 皆が自分の名前を隠して歩く限り、本当の意味で良くはできない。今良くできなとしても、教訓として未来に学ぶ時に、これでは学びようがない。

実際、政府の公開文書からはある種の人たちの名前がごっそり消されている。本当に丁寧にすべてのページから削除されているのだ。その人たちの名前を探して黒く塗るだけでも大変な作業である。これもまた税金である。そんなことをする理由は何なのか?「個人に不利益がある」ということを主張するが、名前が隠されなければならないほどまずいことをしてきたのもそれら本人ではないのだろうか。

そして、このような「自己の責任放棄」こそが、現在のあらゆる日本の問題に通じている以上、個人として同情はするがそれをよしとはできない。また、このような無責任体質によって、現地で人びとが苦しい目にあっているのなら、なおさらである。(それについては、今度は外務省・JICAですらなく、モザンビーク政府の「オーナーシップ」の責任にされている…!)

もう一点興味深いことは、1年前、個人名が削除されるようになっただけでなく、外務省やJICAの個人が良心に基づいて行った率直な発言は、事後的に組織的に削除されたことであった。つまり、個人の発言は許されておらず、組織の方向性に合致した言葉だけを話し、記録に載せることだけが許されるということのようである。

つまり、任期の2−3年がすぎたら、別の者に任務が置き換えられる以上、そこに個性など挟んではいけないのだ。つまり、「置き換え可能な塊」として存在しなければならない。

でも、本当はそうじゃないはずだ。
人は誰だって自分らしく働きたいし、貢献もしたい。
にもかかわらず、「名前を消す」「発言を消す」ことを主張するということは、そういうことを意味する。相手があることなのに、自分は匿名性に隠れる。時間が経ったら次に向かうだけ…人びとの暮らしは続いていくというのに。

この一切合財を最初知った時、何かの手違いかなんかかと思った。しかし、結局「記名を無記名に」するために、何ヶ月も政府側が粘り続けた様子をみて、彼らにとって自分の名前が記録に残るか否かがそんなに重要なことなのだ・・・・ということを、心底驚いたが、理解した、そして、これは、ある特異な例外的なケースではなく、2014年の現実ーー悪化する日本の統治体制の現実ーーとして、ある種の合点がいった。

そして、私が思い出したのが、『平和研究』に書いていたハンナ・アーレントの「自己の無用化」、つまり「誰でもない者による支配」の話であった。

そのシンクロさ加減に、さすがに心臓がぎゅーーーと締め付けられる想いだ。当の本人たちはそんな風にはみていないと思うけれど。2013年全般に問題なかったことが、2014年には重視されていく。この転換というのは、例えば2013年末に秘密保護法が成立し、その後原発最稼働し、安全保障関連法案提出までの流れを歴史的背景として眺めるならば、さほど違和感がないことなのかもしれない。

そして、これは外務省やJICAだけの話では当然ない(そしてこれらの組織の全員がというわけでもないことは、明白だろうが一応記しておく)。これらは、単なる一例にすぎず、広く日本に蔓延している問題なのだ。ここが一番の味噌である。詳細は上述の「後書き」に書いたのだけれど、ここでも少し(大いに?)披露したい。

**

アーレントは、「独裁体制のもとでの個人の責任」で、「なぜ服従したのか」ではなく「なぜ支持したのか」こそが問われなければならず、一人前の大人が公的生活の中で命令に「服従する」ということは組織や権威や法律を「支持した」事を意味し、「人間という地位に固有の尊厳と名誉を放棄した行為である」と断定する。そして、これらの「人間としての尊厳と名誉を取り戻す」ためには、まずは「服従」と「支持」の違いを考えなければならない、と主張する。

つまり、「仕方なく」「組織がそう求めるから」「上が命じるから(命じないから)」という言い訳に対し、「一人前の大人の人間としては不名誉で自己の尊厳を放棄した言い訳にすぎない」ことを痛烈に批判する。そして、結局それは「服従」ではなく、「支持なのだ」と結論づける。つまり、「自分の意志や意図ではないしぶしぶの受け身の行為(=服従)」と本人が認識しようとも、それは組織や全体の中で「積極的な支持」にすぎず、個としての責任が問われることなのだといっているのである。

確かに、消極的な行為であろうと、積極的な行為であろうとも、「従った行為」の果てにはその体制が支えられ、揺るがないという結果のみが立ち現れる。戦後多くのドイツ人は、自分たちも犠牲者であったと強調し、ホロコーストについて問われれば「知らなかった」「何も悪いことしなかった」「直接は何もしていない」・・・ということも多かった。しかし、まさにこの「積極的に支持はしなかった、ただそこにいて従ったにすぎない"one of them"の束」こそが、あのような政治社会体制を可能としていたのである。

そこに目を向けないのであれば、いつまでも自分の責任はないことになり、良心の呵責もないだろう。何より、自分は特定の個人として何もしなかったのでもなく、命令に従ったのではなく、あくまでも圧倒的多数の一人(One of them)にすぎなかったのだらから・・・との論理が可能である。そもそも、もっと責任のあるエライやつらがいたし、奴らの責任は明白だ。その影で奴らはいい目にもあった。皆それが誰か知っている(ヒトラーやその他)。一方、庶民にすぎない、「組織の歯車」にすぎなかった役人の私の名前は、どこにも書かれていない。直接殺戮の現場にいた収容所の看守だったわけでもない、と。

私のドイツの家族もこう口を揃えた。
「いつも気の毒に思っていた。私たちは差別なんて決してしなかったし、密告もしなかった」、と。「じゃあ、助けようとしたの?体制に抵抗しようとしたの?」という問いには、「そんなことは不可能だった」と。「不可能になる前に何かしなかったの?」という問いには、「分からなかった。急に一気にナチスが社会を国家を乗っ取ったから」と。これは、日本の多くの人の感覚と同じだろう。

これをアーレントは「自己の無用化」と読んだ。
「自分が行ったこと(行わないこと)と、その結果は無関係」という多くの人がもっている感覚。「私ぐらい…」「私なんて…」の一言に象徴される。これが庶民レベルで展開する問題もそうであるが、官僚レベルで行われることの影響は深く重い。彼女は、これを「誰でもない者による支配」と呼んだ。

自分を「自己のない=誰でもない者(Nobody)」が、国家や社会の制度部分を担い・回すことによって総体として現れる支配構造、それが全体主義であった。

善良なる市民感情、あるいは「仕事をしているだけだ」との想いをもった官僚感情を前に、それでもハンナ・アーレントは「人としての責任」を問い続けた。そうしない限り、再び全体主義は他者を破滅させるために蘇ると見破っていたからだ。彼女は、マッカーシズムに荒れる米国社会と、ソ連の国家体制、そして何より大虐殺を経験したはずのユダヤ人が作りつつあったイスラエル国家の体制を見ながら、これらの著作を書いた。アーレントは、人間は繰り返し過ちを犯すだろうという確信を持っていたから、筆を緩めず、彼女の考える書くべきことを書くべき手法で書き続けた。仲間からも厳しすぎると非難されても、なんらかの配慮で書くべきことの表現と中身を妥協することで、彼女の考える真理から遠ざけられてしまうことを畏れた。彼女は、まさに筆一本で闘っていたからだ。

アーレントが非難を受けた理由は、ホロコーストが悪の権化のような狂った憎むべき個人によってではなく、「凡庸なる(普通の)個人」によって行われたことを主張したからであった。あのような想像を絶する人類史上まれに見る犯罪が、「凡庸なる悪」という言葉で総括された時に、ホロコーストのサバイバーやその遺族の衝撃は大きかった。さらには、ユダヤ人協会の一部の者が自らの安全のために、体制に協力していたということを指摘したときには、その反発たるや凄まじいものがあった。

しかし、アーレントは、自らの理解、言葉、主張を変えなかった。なぜなら、本質は、人間とその社会の持っている傾向の問題にあって、この理解に行き着かない限り、犠牲者の名の下に(「ユダヤ人だから」)、あるいは「解放者」の名の下に(アメリカ)…今度は次の全体主義が準備されてしまうことが見通せたからであった。

この「誰でもない者(名前のない/伏せられた者)による支配」の根っこにある元凶を、彼女はあぜんとするほど平易なあっけない言葉で示した。つまり、「思考停止」である。

「思考停止」という言葉は、若者の間で長らく流行った言葉だった。
だから、日本ではあどけないニュアンスがある。
しかし、アーレントのいう「思考停止」はもっと根源的なものがある。人間が人間である理由は、人間には思考が可能だからだ・・・という前提において、「思考停止した者」とは「人間の尊厳と名誉を放棄した者」になる。

アーレントの結論はこうだ。
この「思考停止した凡庸なる人」こそが、世界最大の悪であるホロコーストを可能にした。
つまり、思考停止は悪なのだ。「自称普通の人びと」のそのような思考停止こそが、世界最悪の「悪」を招く。

きっと多くの人にはあまりにものあっけなさに、な〜んだ、と思うかもしれない。しかし、アーレントの話はもっと奥行きがあるのだ。

「人間」が「思考停止する」とどうなるかというと、「交換可能な塊」にすぎなくなる。もはや名前のある特定のあなたという人間でなくてもよくなる。労働力であり、官僚であり、全体の中の機能だけが重要となる。となると、「複数制」が否定され、一人が倒れても次が準備されればよく、あなたでなくても別の人でもいい。組織は続き、体制は続いていく。それもこれも、「名のあるあなた」は、「思考を停止し人としての尊厳を捨てて体制を温存させている=支持しているから」である。そして、この体制には、「よそ者」が生み出され、「全体」が優先さsれるが故に排除が目的化する。ナチスドイツの場合は、ユダヤ人や共産主義者等がその対象となった。これらの完全排除が全体の保全のために目的化される。

このプロセスを、アーレントの教え子であるヤング=ブルーエルは次のように説明する。
「全体主義は政治(的空間?)を破壊する統治形態であり、語り・行為する人間を組織的に排除し、最初にある集団を選別して彼らの人間性そのものを攻撃し、そこからすべての集団に同じような手を伸ばす」という(2008)。

つまり、体制にとって、自らの頭で考え、声を上げ、能動的に行為する主体を、ある種のレッテル貼りでその存在自体を排除してしまえば、社会を押さえ込むことができるというのである。

人間に与えられた自分の頭で考える・・・ことに目覚めた人びとが、「交換可能な塊」から脱し、自分の尊厳と名誉と責任において自分の名前で語り始めた時、そこに全体主義が破れる可能性が芽生えるものの、圧倒的多数の「思考停止の交換可能な塊となった人びと」がこれらを「よそ者」とレッテル貼りして完全排除をしていくことで、体制は加速度的に出来上がっていく。

日本においては、立上がる人びとを「左翼」「過激」「プロ市民」「中国からカネをもらっている」等と呼んで。

しかし、この話はそこで終わらない。
なぜなら、「他人事」として傍観していた「凡庸なる人びと」「統治側にいる誰でもない者=官僚」のところにも、全体主義の支配は及んでいくからだ。自分らしいことが、一つずつできなくなっていく・・・そんな不自由な社会が、いつの間にか自分を蝕んでいく。それでも、体制が崩壊するまでは安全だろうと思うかもしれない。しかし、全体主義が行う「よそ者」としてのレッテル貼りは、いつどこで自分や自分の家族に牙を剥くか分からないのだ。今日は統治の側にいる自分が、いつか逆転することすらあり得る。全体主義とは、個々の人間の幸福など目的にしない以上、明日は「我が身」かもしれないのだ。

名前を失い塊となり思考停止することを厭わない人たちが、国の統治を行い、同様なる凡庸な人びとが、これを支持する限りにおいては、犠牲となる人びとを生み出すことを必然とし、人類最悪の犯罪すら可能とするのだ。そして、これは遠い昔の話ではなく、今目の前で進行していることだと考えるのは、私だけだろうか?

エルサレムでアイヒマンは、体制や組織が下した決定を歯車として役割を果たしただけで自分の意志ではなかった以上、自分の責任ではなく、自分が個人としてさばかれるのはおかしいと主張した。彼は、自分の昇進ばかりを気にして、ただ粛々と仕事をこなした。その結果が、大量のユダヤ人の収容所への輸送であった。

それに対して、アーレントは、そのような言い訳をするアイヒマンについて、「(人間)主体としての自己放棄」こそがまさに「全体主義を生み出した悪」なのだと説明した。

映画「ハンナ・アーレント」の最後のシーンに、彼女が学生たちの呼びかけたことがある。

自分自身で思考する。
それが人間を強くする、ということ。
思考の営みは職業的思想家のものではなく、全ての人びとが日々必要とするものであり、他方そうやって得られた思考で関わるべきは「自分」ではなく「世界」に対してである、ということ。

だから、私は、2015年7月の暑い夏に、日本の大学生たちが、「思考停止」を脱して自分たちの頭で考え、「自己無用化、塊化」を避けて、自分の名前を堂々と語り、すべての可視化できる記録に残しながら、自らの言葉で語ったことを、賞賛せずにはいられないのだ。

彼らが失うものがないから・・・などという批判は無用だ。
今の学生がどこまで就職の不安を抱えて生活しているか、大人達はしりもしないから。
今の大学が、学生の活動にどこまで口を挟んでくるかも、知りもしないから。

私たちは、ただ、過去の歴史と、歴史の葛藤から紡ぎ出された豊かな著作と、若い人たちの躍動的抵抗から、頭を垂れて学ぶべきときなのだ。

全体を恐れ、その中に埋没し、隠れている場合じゃない。
今、このクリティカルモーメントにおいて、日本の「人としての尊厳を持つ唯一無比のあなた」が問われている。

「あなた」は、「置き換え可能な塊」なんかじゃない。
「あなた」は、「思考停止」なのかしていない。
自分だってNGOのように自由に発言し、行動したいと考えているのも知っている。
本当は、「あなた」は、素晴らしい独立した考えの持ち主で、自己保身や自己承認のためだけに働いているんじゃなくて、一人の人間として物事を変革できる「力」を持っていることを、私は知っている。
そして、苦しい想いを日々重ねている事も知っている。
行き場のない怒りを抱えているのも知っている。
その少しでも、表に出すことが、今必要なんじゃないのかな?


1年も経ったのに、この話を再び書こうと思った理由は、学生のスピーチだけでない。立教の声明を読んでのことだった。
「「戦争」とは決して抽象的なものではありません。具体的な名前をもった若者たちが戦場で向かい合い、殺し殺されることを意味します。そして、子どもたちを含む多くの戦争犠牲者を生み出し、いのちの尊厳を踏みにじるものです。1945 年までの戦争への反省の上に立って戦後日本が国是としてきた平和主義に逆行し、日本に戦争への道を開く安全保障 関連法案の可決に、私たちは強く抗議し、法案の即時廃案を要求します。 」

ノーベル賞学者の益川教授がこう述べている。
日経:物理学者・益川敏英氏「学問より人類愛せ」(戦争と私)
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO89240270T10C15A7000000/
「虫も殺せないような人が平気で人を殺せるようになってしまうのが戦争だ。組織の中で動いてしまう。だから恐ろしい」 「科学者は放っておいたら自分の研究室で研究している方が面白い。本人にそのつもりがなくても、自分が開発した技術が戦闘機に使われるようなことも起こりうる。それに気付いたら科学者は社会に報告すべきなんでしょうね。でも普通はしない。だから集会や社会に連れ出したらいいんだ。すると、平和が危ういということはすぐに分かるんだから」

学者や科学者だけではない。
援助を含めた政策立案者も遂行者も同じだ。
自分机や会議室の中にある世界で物事を想定している限り。

ここに書きたかった本質が表されている。
国家の政策は、一人一人の生命と幸福と財産を操るほど力を持ちうるものだというのに、その想定される対象には名前と顔がない「女性」「若者」「農民」「貧困者」を対象とする。それを司る側もまたトップ以外は名前なき役人・軍人らの塊によって遂行される。行為自体が、被害を招きかねない複雑なプロセスは軽視され、「戦争(殺し合いにかかわらず)」、「援助(政治を伴うものであるにもかかわらず)」と抽象的に表現される。

だから、決定とプロセスを主権者・主体の側に戻していくしか、方法はないのだと思う。
先人たちの屍と犠牲の上の民主主義の時代に暮らすというのは、そういことなのだ。
私たちは、名前を伏せるどころか、名前を取り戻すところから始めなくてはならないのだ。そんなことを考えた夏の夜長だった。

ハンナ・アーレントについては、以下の参考文献。
矢野久美子『ハンナ・アーレント』中央公論新社。
映画については、以下のオフィシャルサイト。
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/


*なお、ここに書いてあることを本当の意味で理解したら、そんなことはあり得ないはずであるものの、過去に起きた出来事が懸念されるので(あえてここで何が起きたかは書かないものの)、念のため書いておくのですが、この内容を「悪用」しないようにしてください。物事には多様な見方があって、そこに論争があって、そして社会は発展していくものなのです。

おやすみなさい!
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by africa_class | 2015-07-27 00:21 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今(その1)。

若い人たちの感性に感銘を受ける毎日だ。
人類の歴史が示してきたように、危機は危機として、圧倒的に構造に下支えされた強いものである一方で、そのような中でも、一筋の希望が生まれる時がある。

「希望には二人の娘がいる。一人は怒りであり、もう一人は勇気である」と、アウグスチヌスが言っていたらしい。「安全保障関連法案に反対する立教人の会」の呼びかけメッセージで知った。
http://rikkyo9.wix.com/home
(↑とても良い文章なので読んでほしい。後でもう一度これを引用予定)

吹けば飛ぶような小さな灯りかもしれない。
でも、人びとと社会に温かな確かな励ましをもたらすに足る灯りを、若い人たちが生み出している。そして、まさに「健全な怒り」から、勇気をもって彼女たち、彼らは立上がったのだ。
そして、「希望」という名の、様々な色と大きさの花を、日本のあちこちで咲かし始めた。

「まっとうな怒り」すら、遠いものになりかねない、感覚が麻痺した「大人」の一人として、ありがとうを伝えたい。あなたたちに、気づかされたよ。そして、励まされたよ。「大人」達も、それに応えないといけないね。

実は、病床の中でも、彼女や彼らのことをこの1年見ていた。

最初は小さな小さな試みだった。
国会前で声をあげ、辺野古でおばあ・おじいと座り込み、多くの大人達の声に耳を傾けた。
沢山の試行錯誤の中で、自らを鍛えていった。
過去の過ちの轍を踏まないように、時に悩んだ。
…そうだった?

日本を出てしまった私に、大学を後にしてしまった私に、何が言えるのだ、との想いの中でも、皆を見ていた。そして、日本の政府や援助(とその主体)・マスコミの劣化を目の当たりにして、実は去年の4月に書いていた文章があった。でも、PCの電源がキレて消えてしまった…。その時は、病気もあって仕方ないのかな、と思ってそのままになっていた。そのことを、改めて書きたいと思う。

その前に、忘れないうちに二つのスピーチを紹介しておこう。いずれも女子学生たちのスピーチ。
ユーモラスで、柔らかで、なのにシャープでクリティカル、そして何より本質を突いている。「怒っています」との一言で始まりながら、感情的な文章ではなく、論理的に話している。

どこぞやのウソ、ごまかし、はぐらかし・・・しかできない方々とは雲泥の差だ。

…と思っていたら、こんな動画がYoutubeにアップされていた。
「【あかりちゃん】ヒゲの隊長に教えてあげてみた」
https://www.youtube.com/watch?v=L9WjGyo9AU8
本物も比較してみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=0YzSHNlSs9g

思考も思想も言葉も、街頭でもまれ、鍛えられる。
街に出たあなたたちは、本の中に埋没し机の上でのみ論じる学者よりいも、もっと切実に沢山のものを吸収している。落ち着いたら、また本に戻ればいい。あなたたちが先生たちを路上に引きずり出せばいい。先生達は、あなたたちから学び、あなたたちを支える側にいくべき時がきた。それは先生冥利に尽きる事なんだ、本当は。

結局のところ、教育とは、「共育」ことなのだと思う。政府や文科省の予算配分ばかり気にしている今の大学や大学執行部には分からない真理かもしれない、けどね。第一、彼らが見ている方向はお役所やカネ勘定ばかり。それもこれも、「大学の未来のために」といっているが、自分の雇用や年金への不安が原動力だったりもする。もはや、目の前の学生たちや、社会の課題ではない。今迄だって、どの程度学生を見ていたかという問いはさておき、社会課題に至ってはそれをなんかの競争的経費に繋げられないか?という発想からしか、アプローチできない。そして、政府にたてつくような課題へのアプローチ等は、考えてはならぬのだ。

で、そんな大学や先生を飛び越えて、学生たちは街角に出た。
そして、先生たちのもっとずっと先を歩み始めた。

2015年7月25日
大学3年生の芝田万奈さんのスピーチ
https://www.youtube.com/watch?v=WDbAd1CSDDk&feature=youtu.be

2015年7月15日
大学生の寺田ともかさんのスピーチ
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905
「 こんばんは、今日はわたし、本当に腹がたってここにきました。国民の過半数が反対しているなかで、これを無理やり通したという事実は、紛れもなく独裁です。だけど、わたし、今この景色に本当に希望を感じてます。大阪駅がこんなに人で埋め尽くされているのを見るのは、わたし、初めてです。この国が独裁を許すのか、民主主義を守りぬくのかは、今わたしたちの声にかかっています。
  先日、安倍首相は、インターネット番組の中で、こういう例を上げていました。『喧嘩が強くて、いつも自分を守っ てくれている友達の麻生くんが、いきなり不良に殴りかかられた時には、一緒に反撃するのは当たり前ですよね』って。ぞーっとしました。この例えを用いるのであれば、この話の続きはどうなるのでしょう。友達が殴りかかられたからと、一緒に不良に反撃をすれば、不良はもっと多くの仲間を連れて攻撃をしてくるでしょう。そして暴力の連鎖が生まれ、不必要に周りを巻き込み、関係のない人まで命を落とすことになります。 (中略)
  わけの分からない例えで国民を騙し、本質をごまかそうとしても、わたしたちは騙されないし、自分の頭でちゃんと考えて行動します。(中略)
  わたしは、戦争で奪った命を元に戻すことができない。空爆で破壊された街を建て直す力もない。日本の企業が作った武器で子供たちが傷ついても、その子たちの未来にわたしは責任を負えない。大切な家族を奪われた悲しみを、わたしはこれっぽっちも癒せない。自分の責任の取れないことを、あの首相のように『わたしが責任を持って』とか、『絶対に』とか、『必ずや』とか、威勢のいい言葉にごまかすことなんてできません。
  安倍首相、二度と戦争をしないと誓ったこの国の憲法は、あなたの独裁を認めはしない。国民主権も、基本的人権の尊重も、平和主義も守れないようであれば、あなたはもはやこの国の総理大臣ではありません。民主主義がここに、こうやって生きている限り、わたしたちはあなたを権力の座から引きずり下ろす権利があります。力があります。あなたはこの夏で辞めることになるし、わたしたちは、来年また戦後71年目を無事に迎えることになるでしょう。(中略)
  この70年間日本が戦争せずに済んだのは、こういう大人たちがいたからです。ずっとこうやって戦ってきてくれた人達がいたからです。そして、戦争の悲惨さを知っているあの人達が、ずっとこのようにやり続けてきたのは、紛れもなくわたしたちのためでした。ここで終わらせるわけにはいかないんです。わたしたちは抵抗を続けていくんです。
  武力では平和を保つことができなかったという歴史の反省の上に立ち、憲法9条という新しくて、最も賢明な安全保障のあり方を続けていくんです。わたしは、この国が武力を持たずに平和を保つ新しい国家としてのモデルを、国際社会に示し続けることを信じます。偽りの政治は長くは続きません。
  そろそろここで終わりにしましょう。新しい時代を始めましょう。2015年7月15日、わたしは戦争法案の強行採決に反対します。ありがとうございました」

これを丁寧に報じているのは、IWJだけだ。
http://iwj.co.jp/ (会員になって支えよう!)
全文をこおに掲載できるのもIWJのお陰だ。

私たちにIWJがいてくれて本当に良かったと思うし、他のメディアは何をしているのだろうと思う。どうでもよいタレントや有名人のどうでもよいスキャンダルやコメントや会話を垂れ流しにする暇があれば、これらの若者の声をそのまま流した方がよほど意味があると思う。<=制作費もタダだし。お茶の間の皆さんも、きっと興味を持つことと思う。「今時の大学生がこんなことを?」と。

私の研究室の電話には制作会社やテレビ局から「アフリカで何か珍しいことやっている学生紹介してください」というメッセージが山ほどかかってきていた。アフリカに行かなくていい。毎週金曜日に街角、国会前に行って、カメラを回し続ければいいのだ。

でもやらない。「政治」だから、お茶の間で「考えずにただTVの箱(今時、板か)を眺めていたい(と彼らが勝手に思っている)ばかな国民」には、「難しすぎる」と、TV人たちが考えているからだ。いや、ただ政権に睨まれるのが怖いためか?

また前置きが長くなった。
でも、もうこのブログの読者には「今更」だろう。

私が去年4月に書いていたことと、寺田さんのスピーチは密接に関係している。
「私たちは騙されないし、自分の頭でちゃんと考えて行動します。」

この何気ない一言は、実はすごく重要なのだ。
彼女が「自分の頭でちゃんと考え」てした行動とは、「自分の名前で語ること」であった。

この点が、ナチズムによるホロコースト(ユダヤ人や反ナチ等の大虐殺)の本質と関わることであり、再びあのような大罪を人類・国家・社会・一人一人が犯さないために、不可欠なことなのである。

それを成人間もない彼女たちが、軽く言ってのけた、やってのけている。
ごく当たり前に聞こえる「自分の頭で考えて、自分の名前で責任をもって行動する」を、どれだけの人が日々実践しているだろうか?名乗らないで行う数々のこと。

何人の官僚が、自分の頭で考えて、組織に隠れることなく、自分の名前を伏せることなく、責任をもって行動しているのか?

何も役所だけではない。
大学や、高校や、中学校や、小学校の先生だって、どうなのか?
新聞や、テレビや、雑誌の人びとだって、どうなのか?
JICA職員や、開発コンサルタントだって、どうなのか?
大企業のサラリーマンだって、どうなのか?

寺田さんや、柴田さんの勇気に、私たちは感謝しなくてはならない。
なぜなら、この日本の独裁・ファシズム・全体主義的状況の半歩手前の今、まさに「名を伏せた者たちの日々の「仕事」」によって、日本の民主主義は破壊に追いやられているからだ。

続きは、明日かも。
<=やっぱり翌日に。(その2)へ。
http://afriqclass.exblog.jp/21487530/
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by africa_class | 2015-07-26 02:40 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

モザンビーク農民の声に触れて、今日感じたこと、そのまま

ドイツに戻って来た。
生命に家も畑も敷地も覆われていた。
命の内に秘めた力に、ただただ圧倒され、自分のちっぽけさ加減に無力感に教われる。
でも、近づいてこれらの生命に触れてみたら、その躍動的で深く渋い輝きに心を奪われた。

命とはウソのないものだ。
ウソと誤摩化しに塗れた東京での日々を後にして、その真理がじわりと心の中の温かな明かりを灯す。
農民の声がこだまする。

私たちのことを勝手に知らないところで決めないで。
私たちの「農民」の名のもとに進めないで。
あの人達には心がない、と。
心で聞くことができない、と。
私たちはただ自分のこれまでやってきた農業を続けたいのです、と。

そして、モザンビークに帰られたその朝、私たちにこう告げた。
「私たちは農民です。だからたとえ投獄されようとも、殺されようとも、闘いは続くのです。私が殺されても、他の者が続けるでしょう」と。

想いも寄らぬ一言に、私は訳す事すらできなくなった。
命を育んできたママであり農民である彼女の、そんな決意と一言に、驚き、圧倒され。
そんな想いをさせてしまった「援助」という名の「支援策」に、それを税金で支えている日本の市民として、ただただ申し訳なく、頭を垂れたままで。

経済成長の名の下に、進めてきた数々の開発政策。
その結果、どんな日本が今誕生したのだろうか。
命が育まれるのが困難な、幸せを感じることよりも不安を感じることの多い社会に。
頼る者が誰もいない砂漠に。
かといって独力では生き延びられないコンクリートジャングルに。

別の道を辿ることを放棄し続けて来た私たちの目の前に広がる廃墟と化した農村コミュニティ。
なのに自分たちが来た道が正しいと、モザンビーク農民に押し付ける。
それでも、コスタさんたちは笑顔だ。
どんな厳しい局面でも、持ち前の機転と笑顔を忘れない。
立派な農民たちを前に、「スーツ組」は何か感じてくれたのだろうか。
自分の腕一本で生活を支え、子どもたちを学校にやってきた農民の自信。

こういう農民こそを応援するのが、我々の援助ではないのか?
彼らを様々な工作で困らせたり、脅したり、内部分裂するようにバラマキをしたり、そういうことのために使われるために「援助」、税金があっていいのか。

彼らがプロサバンナに批判の声を上げた2012年10月以来、日本国内のダムや原発やそういった公共事業でやられてきたのと同じ論理で、「反対派崩し」「賛成派創出」が繰り広げられてきた。行政・JICAには当たり前のことなのかもしれないが、モザンビーク農民からは考えられないことばかりの連続だった。「国際協力」のはずの案件で、農民を貶めるような数々の出来事。

ガバナンスの悪い、民主主義が後退し、軍事主義が台頭するアフリカの国で、そんなことがどのような帰結を導き出すのか、考えてみれば分かることである。農民らは暗殺すら畏れる事態になっている。その責任をどう取るのか?これまで通り、「受益国の一義的責任/オーナーシップ」を隠れ蓑にするだけなのだろう。それを承知で進められた数々の「推進事業」。これも税金で出ている。

今の日本の農政や政治のあり方と援助も地続きなのだろう。
70年前、日本は世界に尊敬される国になろうとした。
そして今、その決意と努力のすべてを投げ捨てて、世界や隣人に嫌われ・戦争しても自分の利益だけを確保すればよいとの利己的な貪欲さを全面展開する国になろうとしている。
いつかきた道ではない。
なぜなら、あの時十分な形で民主主義も自由も情報もなかった。
今、私たちは先人たちの加害と犠牲と努力によって、前提の上ではすべてを手にしている。
しかし、それを一切内実化する努力を怠り、いつの間にか制度すら内部から切り崩され、どんな道理のあわないことにも囚われの身として黙認せざるを得ない一歩手前になっている。

土地に生きる農民たちの自信と決断の潔さとは、真逆の自信のなさと不安のなかに生きて。

モザンビークの農民はいう。
だいじょうぶ。明日の食べ物は土地と自分で生み出せる。
もちろん、足りないものもたくさんある。
でも、一方の私たちはそんな満ち足りているのか。
彼らの笑顔に、そんな一言を突きつけられているように感じたのは、私だけだったろうか?


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TBSのNEWS23で農民の声が紹介されたので。
2015年7月21日
「日本の大規模ODA、モザンビークの農民らが中止訴え」
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2545734.html
「アフリカのモザンビークで日本政府が進めているODA=政府開発援助の大規模開発プロジェクトについて現地の農民たちが来日し、中止を訴えました。いったい、何が起きているのでしょうか。」
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****2015年7月9日********
まったく書く余裕がないので、とりあえずTwittしたことを貼付けておきます。
私は、「教師の仕事」についても、本来「必要とされなくなること」が目標であるべきと思っている。「先生として求められること」に喜びをおきすぎることが、その目的を考えるに、いかに不健全なことか!親もそうだ。ただし、親というのは年を取るから分かりやすい。かつて威張っていた親も、いつか弱々しく、小さくなり、子どもたちに頼らなければならない。そうやって新旧交代の機会がある。


申し訳ないが、日本の「援助産業」はもはや末期的。そもそも援助が要らない世界の構築、援助者の仕事・稼ぎ・栄誉がなくなることが目的でないのか?そのためにどうすればいいかこそ、本来知恵を絞るべき点。要るといってもらうためにあらゆる工作を積み重ねて来た結果が、これだ。

7 分: @sayakafc 「日本の援助者」であれば平気なのかも?土地に暮らし自分の手で暮らしを支え、課題に直面しつつも共に乗越えんとする農民たちに「オルタナティブを出せ」と。他の人の社会に勝手にやってきて、当事者に何て台詞?日本のあなたの暮らしはそんな立派?援助で支えられる生活なのに?

17 分: モザンビーク独立40周年を迎えた。半分以上の歳月を北部の農民らと共に歩んできた。が、その21年の経験をしても「ホンマモン」の人から学ぶことが多く、自分の無知を恥じる。「センセー」「第一人者」と呼ばれることを捨て去り、ただ裸の私・Sisterとしてある時に得る理解は、次元が違う。

26 分: 明学講演会では、農民たちが作っている食べ物の多様性、それらを作り続けるためにどのような総意工夫をしているのか、どう調理するのかまで、沢山の写真とともに農民自身が説明。最後にエステバンさんが問うた。「JICAは私たち農民が貧しくて救わなくてはならいという。本当か?」と。胸に沁みた。

31 分: @sayakafc 今日がその最後の機会。参議院議員会館にて16時〜18時「「なぜ、現地農民は異議を唱えるのか?」日本の農業開発援助(ODA)・プロサバンナ事業に関する現地報告と声明発表。申込み締切は9日午前10時迄。未だ間に合う→http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/

33 分: @sayakafc 訳していて涙が出そうな瞬間、実はそんなにない。でも今日、農民たちの心の底からの経験に裏打ちされた一言一言に、切なく申し訳なく、他方感動。当事者ならではの本物の言葉。援助や開発を本や頭でしか理解していない若者、先達にこそ、聞いてほしい。「援助くれ!」以外の声を。

36 分: 明学での講演会終了。モザンビーク北部でコスタさんやアナパウラさんが営む農の姿に沢山の人に触れてもらい、本当に良かった。また、何故彼らが「小農支援」のはずの援助事業に反対を唱えるのか、凄く明確な話に目から鱗だった。本来は支援がほしいと言いたいところを、胸に迫る。明日その最後の機会
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by africa_class | 2015-07-09 01:38 | 【考】土地争奪・プロサバンナ問題