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再び戦争に向かっていくモザンビークと日本の私たち

悲しすぎて、立ち上がれない。
UNCHR(国連難民高等弁務官事務所)は、ついにモザンビーク北部テテ州からの難民の流出を発表した。

2016年1月15日
「マラウイに到着するモザンビーク人の数が急増」
http://www.unhcr.org/5698dbff6.html

マラウィのムワンザ郡に、続々と難民が到着しその登録者数は1297人で2分3は女性と子どもたち。そして、900人が難民登録を待っており、さらにマラウイのより南方に400人近くの難民が到着しているという。そして、これはFRELIMO政府と最大野党RENAMOの間の紛争で生じているとされるが、このブリーフィングの記事に「未確認情報」としてではあるが、家を焼かれた難民らの証言として、政府軍関係者がレナモを匿っていると考えられた人びとを襲っていると書かれている。去年半ばより難民が到着し始めたが、ここにきて加速化した。


実際2015年半ばの時点で、2000人の難民申請者が確認されている。http://www.unhcr.org/pages/49e485806.html


政府軍関係者の襲撃については、Voice of Americaでも報じられている。去年の7月に始まった戦闘で700名以上がマラウイに逃げていたが、難民によるとミリシア(民兵)らによる大量殺戮から逃れているという。そして、新たに設置された難民キャンプに既に2500名が収容されているが、難民らはFRELIMO政府の兵士らがレナモ兵を匿っていると疑う親戚の家々を焼き討ちし親戚を殺していると話している。

2016年1月11日
「モザンビークの難民がマラウイに逃げている」

http://www.voanews.com/content/mozambique-refugees-flee-to-malawi/3139815.html

Refugees are entering daily at the newly established Kapise ll camp in Malawi's Mwanza district. It is home to more than 2,500 refugees. Refugees tell stories about people they believe are FRELIMO government fighters torching their houses and killing their relatives on suspicion of hosting RENAMO fighters. Flora Emberson is one of them.


かと思ったら、1月20日、RENAMO事務局長(国会議員)の暗殺未遂の一報が飛び込んできた。突然、武装集団に襲撃され、現在も重傷で護衛官は殺害されたという…。RENAMOのスポークスパーソンは、政府による「国家テロ」と批判。国家人権委員会は、これを強く抗議し、原因究明と武力紛争への影響を懸念する声明を出している。

http://www.dw.com/pt/secret%C3%A1rio-geral-da-renamo-manuel-bissopo-baleado-no-centro-de-mo%C3%A7ambique/a-18994319


1992年の和平合意から24年。

せっかく平和が訪れ、雨季の今は農民たちが種まきに忙しい時期。

1977年からの戦争で、160万人もの難民が近隣諸国に逃れ、マラウイは最も激しい戦闘が行われたモザンビーク北部に囲まれていたこともあり、小さな国ながら多くのモザンビーク人難民を受け入れた。私が、1994年に国連PKOの政治・選挙部門のスタッフとして赴任した時、丁度マラウィからニアサ州に難民が自力で帰還しているところに出会った。

UNHCRやIOMの手続きを待てば、帰還セット(鍬・バケツ・種・食料)がもらえるというのに、この家族(といっても30名ぐらい)は何ももらうこともせず、とにかく一刻も早く故郷に戻りたいと、移動を開始していたのだった。粥のような薄まったトウモロコシの粉を溶かしたものをすすりながら、「自分たちは農民だ。「難民」じゃない。故郷に戻ったらすぐに種を撒いて自分の手で作った新鮮な食べ物を食べるのだ」と語っていた。もう10年近くも逃げていた人びとの、心の底からの叫びのような声だった。

その後、UNHCRやIOMのトラックで奇麗な服を来てバケツを持って現れた人たちとて、同じことを語っていた。戦時中に延び放題になっていたボサボサの葦のような草を刈り、それを寝泊まりする小屋や貯蔵庫やトイレに仕立て上げ、あっという間に広大な畑にしていった人たち。戦争と暴力への償いや、正義や、報復や、そういうものを求める被害者が多い中で、モザンビークの人びとは「忘却する」という選択をした。

「あれは戦争だった」「戦争が悪いのだ」

そういうことで、コミュニティ内部の対立、経験した凄まじい暴力、餓えに苦しみ、失った命・手・足・・・そのようなものすべてを「忘れる」ことで乗り越えようとした人たち。日々の生活の再建への努力が、それを手伝った。

いい悪いではなく、彼ら・彼女らがそういう選択をしたこと、国としてもそうだったことを、モザンビークを知っている人なら腑に落ちてしまうかもしれない。かといって、本当に「忘れられたのか」といえば、決してそうではなかった。そのことは、十数年経っても決して人びとの心の中から去ることはなかった。

まだ戦後間もない時、マラウイ方面から大きな炎が上がったことを、地域の人びとが教えてくれた。

10年近くモザンビークの難民を受け入れてきた難民キャンプが焼却されたのだという。マラウィの論理からすると、「消毒」のようなニュアンスがあったようで、それはそれで失礼なことだという意見が出されもしたが、モザンビークの元難民たちにとって、それは退路が経たれたような、だからこそ前に向かって歩んでいかなければならない・・・というメッセージのような、仕切り直しの何かを意味したという。


それから24年目を向かえようとする今、20年以上の時を経てマラウィに出来たモザンビークからの難民のための難民キャンプを再開せざるを得ない状態がうまれたという。モザンビークで最も重要な人権・平和活動家であるアリス・マボタ弁護士も急遽ジュネーブに呼ばれ、現在国連で議論をしているところである。

そして、これらのことはどれぐらい日本の関係者、日本の人びとに知られているのだろう。

このブログでも、新聞記事でも、テレビ番組でも、このような事態になる危険性を何度口にしただろう。しかし、それは無駄だった。

モザンビークの貧富の格差は社会的不正義としてではなく、「開発・経済成長がススメば農民も豊かになるから不満も減る」というフレリモ政府側の主張に対し、地下資源と援助への賛同ほしさに、お墨付きを与え続け、前のめりにガンガン投資・援助を注入し続けている。あるいは、目をつぶっているというよりは、積極的にこのような「開発軍事独裁」の道を支援している節すらあるといっては言い過ぎだろうか?


勿論、レナモの襲撃やこのような挑発は許されるものではない。

しかし、モザンビーク政府がこの間やっていることは、平和と民主主義への確かな歩みを、逆行させることであるばかりか、モザンビークの人びとが10年の歳月をかけて勝ち取った独立を通して目指したことすら否定するようなことである。つまり、モザンビークの人びとの主権の回復と土地へのアクセスの保証である。

テテの地図を見ればわかる。

何百万人ものの小農が暮らすこの州面積の大半が石炭の鉱区として多種多様な企業にコンセッションが与えられている。小農は非自発的移転を余儀なくされ、補償はわずかばかり。立派な家が立てられた住民も、結局は耕せる農地が奪われ、鍬も入らないような石ころだらけの「代替農地」を前に、飢える一方である。

ナカラ回廊沿い地域では、2009年に日本・ブラジル・モザンビークの3カ国が構想し奨励した通り、国際アグリビジネスがリ大挙詰めかけ、食用だけでなく飼料・油のための安価な大豆の大量生産のために、広大な土地を次々に奪っている。植林プランテーションのために政府から何十万ヘクタールの使用を許可されていた企業などは、その一部を大豆生産に切り替えている。すでにナカラ回廊沿い地域の何千農民家族が土地を追われ、餓えに直面しているが、これが「ナカラ回廊開発」の行き着く先であった。

「プロサバンナ」に関しては、モザンビーク農民連合の頑張りも有り、3カ国市民社会や国際社会の関与もあって、公式には「小農支援」に転じたことになっているが、あの2009年の構想、2012年10月まで推進されてきた「肥沃な土地・豊富な水・安価な労働力があり、未だ化学肥料の多用や連作による障害・農薬汚染による害虫の耐性が出て来ていない、ナカラ回廊地域に海外投資を入れ、ブラジル・セラードの経験を大いに活用して、大豆・穀物の一大産地にして、日本の支援で改善されるナカラ回廊&港に新たに設置する穀物ターミナルを使って、世界中の市場に供給する」というプログラムは、モザンビーク政府や投資家らにしっかりと継承され、まさにその通りになっている。

有り余っていたはずの未開墾地…がないことは、ようやくJICAも認めたが、今度は小農らが土地不足と森林伐採の主犯だと名指しするマスタープランで、とにかく緑の革命が不可欠でそのためには民間企業とのWIN-WINが必須とされ、民間企業の進出と契約栽培が日本の援助でやはり支援されなければならないという論理が展開される。

しかし、既に民間企業もまた、国際社会における土地収奪への厳しい視線を意識して、「小農との契約栽培」や「外部資材の支援」という名目で、アフリカ中の内陸部の肥沃な土地の地域に入り込んでおり、まずはドナー諸国や国際機関の資金援助を得て活動しつつ、いつの間にか「企業活動の安定のため」と称して大規模な農地の摂取を開始するというパターンが顕在化している。「安くで作って高くで売る」が基本の穀物企業であれば、当然すぎるほど当然な動きであるが、これを前のめりで「小農支援」と称して支援する日本の援助は、確信犯でないのであれば、ナイーブなのか脇が甘いとしかいいようがない。

そして今、権力者として甘い汁を吸うようになった者たちのGREEDのために、国民の圧倒的多数であり、FRELIMOの存在理由であり権力基盤であったはずの小農の犠牲が生まれている。ついに、ナンプーラ州知事は、農民がプロサバンナによる土地収奪に怯えているが心配無用。なぜなら、同州には80万ヘクタールもの未開墾地があるのだ・・・と宣言するに至った。
日本の援助の現実を踏まえずにイケイケドンドンの時代の空気とともに、進められ宣伝しまくられたアイディアは、こうして当事者である日本の援助者らが手を引いた後も、「止まらぬ歯車」として前に前に進められ、2012年10月にUNACが声明で懸念した通りの、「土地収奪・土地なしコミュニティの出現・農薬と化学肥料の汚染」として何より「土地と環境の守護者である農民の主権の剥奪と対話からの排除」が行われる結果となっている。

問題が発生するまでは、「日本の手柄」として繰り返し、広く喧伝されてきたこの援助も、今となっては「受益国政府のオーナーシップ」の影に隠れて、「日本はあくまでも側面支援」を強調する。故に、その責任は、現在も日本の援助関係者は認めておらず、誰がどう果たすのかも明らかではない。どうせ被援助国の「一義的責任」なのだ。


日本が世界に誇るトヨタ生産方式。

私はトヨタの回し者というわけではないし、トヨタという企業のすべてに賛同しているわけではない。しかし、その「生産方式」で言われていることには、沢山のヒントがあると思うのだ。

いつぞやか書いたが、その肝はカンバンではない。

(なぜカンバン方式ばかりが世間に知られ、賞賛されたのか全く意味が分からない。「見える化」のお陰だろうか)

原資現物現場でもない。

むりむらむだでもない。

いや、それらのどれもが重要だが、「改善は永遠なり」なのだと思う。

つまり、到達点がないのだ。

不良品の割合をどこ迄減らすかという「リスクマネージメント」の概念に対して、トヨタは「ゼロを目指す」といって憚らない。その心は、「改善は永遠であり、継続は力」だからだ。終わりなき努力に対して、「0.5ぐらいは仕方ないんじゃないか」という設定自体が間違いなのだ。

つまり理想を大いに皆で掲げ、そこに限りなく近づくことを共通の目標とする。駄目だったら、駄目な理由を考えることが重要。でも、最初から「0.5でいい」と設定すると、駄目だった理由も基準が「0.5から」になりかねない。「0」の理想にひっぱってもらうことが、時に重要なのだ。

勿論、それはしんどい。

労働者にそれを求めるのも、酷ではある。そこに問題が生じる。

しかし、同時にここには「ある組織の学習」のヒントも含まれていると思う。

特に、問題が発生した時、「自分で判断しない」という標語の含蓄は深く広い。また、根本原因を解明するための別チームが駆けつけてくるというのも、示唆するところが大いにある。

なぜなら。

失敗を侵した人には、本当の意味でルートコーズを見極めることができないからだ。自分で判断してしまう。その際には、当然ながら「失敗を認めたくない」という心理が働く。自分は客観だといくら言い張っても、本当の意味でトータル&根本原因をみることはできない。だから、第三者のチームが駆けつける必要がある。

日本の援助機関だけではない。あらゆる組織で、「失敗が認められない」「失敗の当事者が依然として仕切り続けている」場面はないだろうか?政治だってそうだ。原発だってそうだ。そして、良く振り返ってみれば、これはまさに戦前にっぽんと同じなのだった。

戦後70年経ったというのに、戦前に回帰している日本の我々。

モザンビークが戦後24年で、戦争時に戻ろうとしているからといって驚いてはいけないのかもしれない一方で、日本の今は自分でまいた種である一方、モザンビークの現状は我々にも大いに責任がある以上、やはり見過ごしてはならないのだと思う。


だから、「改善は永遠なり」…その一言を、組織のトップたちが、静かに一人、自問自答の思いを込めて呟くだけでもいい。大きく深呼吸をして。そして目の前に拓けてくる景色は、どんなものだろうか?

少なくとも、今の自らの姿ではないのではないだろうか。


かくいう私も、それが不可欠である。

そんなこんなの土曜日の夜。


後日談…

尊敬する人から記事を教えてもらった。

「英国の政治家にとって、アフリカへの援助は我々の理想主義と寛容の賞賛されるべきエンブレムとなった。しかし、もし我々の資金が、本当は助けるべき人たちに害を与えているとしたらどうさろう?」

"The refugee who took on the British government:

For British politicians, foreign aid to Africa has become a cherished emblem of our idealism and generosity. But what happens when our funds harm those they are meant to help?"

http://www.theguardian.com/world/2016/jan/12/ethiopian-refugee-who-took-on-the-british-government

美しい物語のような出だし。流れるような英文が、人びとの物語を紡いでいく。しかし、その紡いでいく物語は、あまりに悲劇の度合いを深めて行く。どこまで悲劇は続くんだ。苦しい。息が詰まるような、理不尽で、許し難い物語。上からの開発計画が、どのようにして人びとの日常を奪っていき、命を奪っていったのか。長老やお父さんたちはどのように、先祖代々の土地と暮らしを守ろうとしたのか。そして、どのように破れ死んでいったのか。残された人たちは、どんな思いで何千キロを歩いて難民キャンプまで辿り着いていったのか。


20年前の話ではないのだ。

我々の「今」の話。


今となっては難民キャンプに「難民」として集うエチオピア南部の人びとの、まだ5年も経過していない物語。なのに、どれほどのものを彼ら・彼女らは、失ってしまったのだろう。故郷で、何十年、何百年と受け継いできた、多くの知恵、命、暮らし・・・それらをもう取り戻すことはできない。戦争による暴力ではない。災害による喪失でもない。「援助者」らに支えられたある開発独裁国家の開発計画によって故郷を追われた人びとの喪失。


そして、これを調査した米国と英国の援助機関(USAID、DFID)は、その調査レポートを隠蔽し続けた。英国議会の介入にもかかわらず。そして、ある日こっそりとDFIDの図書館頁に掲載されたかと思ったら、また消されていた。。。


この記事を教えてくれた人が、私のこの投稿を読んでいたのかどうかは分からない。でも、あまりにも符号する数々のことに、読み進めるのが苦しくなるほどだった。そして、記事の途中のまとめの一言が胸に突き刺さる。


Too big to fail....

失敗するには大きすぎる。


人の、コミュニティの、過去と今と未来における命・暮らしを壊してもなお、援助機関にとってはそれは「失敗」ではないのだ。本当の「失敗」とは、彼らがそれを組織として認めてしまった時に初めて発生する。だから、「失敗」を「失敗」として認めない限り、組織としては失敗ではないのだ。だから、証拠は隠さなければならない。。。その一方で、「成功」は大々的に宣伝されなければならない。


記事を読んで思ったこと。

勿論、利権や様々な連動する問題や関係があるのだろう。

だから、失敗を認められない。

認めたら、大変なことになる…。


しかし、私は思う。

本当は違う、と。

大きすぎるから失敗が認められないのではない。


はっきりしている。

Too small to fail.
(Too small to accept own failure.)
むしろ、ちっちゃすぎるんだ。

人も
組織も

そのことに、気づけるかどうかなのだ。




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# by africa_class | 2016-01-24 06:43 | 【情報提供】モザンビーク

【案内】グローバル化における社会正義と研究者/グローバルな農地収奪と規制レジーム

グローバル・レジューム転換の第一線で大活躍のジュン・ボラス先生が、2月21日開催の京都国際シンポジウム(二つ目の案内をご覧下さい)のために、日本にいらっしゃいます。この機会に、以下のようなイベントが東京大学でも開催されます。こんな貴重な機会は滅多に(二度と?)ないかもしれないので、いずれのイベントもぜひお見逃しなく!

私も、先生に同行して帰国します。


(転載・転送歓迎)
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【サトゥルニーノ・ジュン・ボラスISS[社会科学国際研究所]教授講演会】
グローバル化における社会正義と研究者-南と南、南と北、運動と研究を繋ぎ続けて-

http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-185.html
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【日時】2016年2月20日(土)13時〜15時
【場所】東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_17_j.html
【使用言語】英語
【参加人数】60名
【参加方法】2月18日(木)正午迄に、下記のサイトでお申込み下さい。
https://ssl.form-mailer.jp/fms/b05ea46d411961
お名前、 ご所属、ご連絡先(メールアドレス)、ご要望等をご記入下さい。
【参 加 費】500円(資料代 *学生無料)
【主催】
・「有機農業とコミュニティの進化」(科研代表:中西徹、科学研究費補助金・基盤研究(B))
・ 「グロー バル土地収奪下における持続可能な地域発展のためのアフリカ小農主体の国際共同調査研究」プロジェクト(代表者:大林稔、助成:トヨタ財団研 究助成プログラム)
【共 催】
モザンビーク開発を考える市民の会、国際開発学会社会連携委員会
【式次第】
(1) 趣旨説明  受田宏之(東京大学教授)
(2) 講演 サトゥルニーノ・ジュン・ボラス(ISS教授)
“Land politics, agrarian movements, and scholar-activist work, then and now: limits, possibilities & challenges”
「土地政治、農民運動、学者=活動家と してのこれまでの活動:限界と可能性、 そして挑 戦」
(3) ディスカッサント 
清水奈名子(宇都宮大学准教授 / 日本平和学会理事/ 福島原発震災に関する研究フォーラム・メンバー)
舩田ク ラーセンさやか(明治学院大学国際平和研究所研究員/ 元東京外国語大学准教授)
(4) オープンディスカッション
(5) 閉会挨拶  佐藤寛(国際開発学会前会長)

【研究会趣旨】
今回来日されるサトゥルニーノ・ジュン・ボラス(Borras)教授は、食と農をめぐる議論・運動の世界的第一人者であり、「フードレジーム論」「食料主権」「土地収奪(ラ ンドグラブ)を含む土地問題」「小農運動の抵抗」といった国際理論の最前線で、多様な役割を果たしてきました。アジア・アフリカでの実証調査をもとにその成果を理論化しつつ社会に還元する一方、世界大で 運動と研究、教育、実務を繋ぐ数々のシンポジウム・集会や出版活動を企画するなど、その検証力、構想力、フットワークとネットワークには目を見張るものがあります。

ボラス教授は、自他ともに認める「Scholar=Activist(学 者= 活動家)」であり、「Activist-Scholarship(活動家—学者 的営み)」という言葉を掲げ、世界の貧困者・小農の側に立場を置いて活動を繋いでこられました。現在オランダ・ハーグの社会科学国際研究所(ISS)で 農 地・農民研究を教える一方、数多くの国際学術ジャーナルや出版企画に携わっています。この原点は、1980年代から関わり続けるフィリピンや世界の農村での社会運動への深い関与 があ り、1900年代には国際小農運動であるビア・カンペシーナ(La Via Campesina)の設立に尽力しています。

今回、ボラス教授をお迎えして講演会とラウンドテーブル(円卓会議)を開催する理由は、原発事故後の日本においてこそ、先生 の提唱する「活動家—学者的営み/学者=活動家」という生き方について知り、学ぶ機会があればと考えたためでした。

2011年3月11日の東日本大震災とそれに引き続いて起きた原発事故は、日本に暮らす多 くの人びとにこれまでの「常識」を問い直す契機となりました。

「客 観性」「中立」「第三者」といったポジショニングを重視する日本学術界に対し、あえて「活動家としての主観的自分」にポジションを置 きながら、「実証性」「厳密さ」「公正さ」「批判性」「主権/当事 者 性」をもとに研究・教育・社会活動を行うボラス教授から、原発事故後の日本の研究者が学べる点は多いと考えます。また、日本の市民や運動 の担い手も、先生の越境的活動を通じて、どのように研究者や世界との結びつきを創造し、共によりよい未来を紡いでいけるのか、ヒントが得られることと思います。

鋭い批判的精神を持ちながら、常に笑顔と優しさ、ウィットを絶やさない先生のお人柄に、一人でも多くの方に触れて頂く機会となれば幸いです。

主催者一同

* なお、ボラス教授は、翌2月21日に 「京 都国際シンポジウム:グ ローバルな農地収奪と規制レジーム~日本と極東の視点から~」にて、「土地収奪」 に関する研究発表を行われます。是非、あわせてご参加下さい。詳細→http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-186.html

【略歴】Saturnino Jun Borras(サトゥルニーノ・ジュン・ボラス)教授
フィ リピ ン出身。オランダ・ハーグの社会科学国際研究所(International Institute of Social Studies:ISS、エラスムス大学ロッテルダム校)教 授。中国農業大学(北京)兼任教授。Journal of Peasant Studiesの創刊者であり編集長としても活躍。

国際的な土地問題政策に関するネットワークLand Deal Politics Initiatives (LDPI)の共 同 コーディネイターを務めるとともに、次の国際学術ジャーナルや出版企画の編集に携わる。Journal of Peasants Studies、Canadian Journal of Development Studies、Journal of Agrarian Change、Alternatives Sud、Routledge-ISS Book Series on Rural Livelihoods、Routledge Critical Agrarian Studies Book Serie、ICAS (Fernwoood) Book Series: Agrarian Change and Peasant Studies。

ジャー ナル論文:
・Borras, S.M., Franco, J.C., Isakson, R., Levidow, L. & Vervest, P. (2015). The rise of flex crops and commodities: implications for research. Journal of Peasant Studies.
・Edelman, M., Baviskar, A., Borras, S.M., Kandiyoti, D., Holt-Gimenez, E., Weis, T. & Wolford, W. (2015). Introduction: critical perspectives on food sovereignty. Journal of Peasant Studies, 41 (3).
・Borras, S.M., Franco, J.C. & Monsalve, S. (2015). Land and food sovereignty. Third World Quarterly, 36 (4).
本:
・Edelman, M. & Borras, S.M. (2015). Political Dynamics of Transnational Agrarian Movements (book for release in late 2015). Halifax: Fernwood.
・Borras, S.M. (2008). Competing Views and Strategies on Agrarian Reform ¿ volume 1: International Perspective. Honolulu, Manila: University of Hawaii Press, Ateneo de Manila University Press. Winner, National Book Award (Social Sciences), Philippines, 2009.
・Borras, S.M. (2007). Pro-Poor Land Reform: A Critique. Ottawa, Canada: University of Ottawa Press.



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# by africa_class | 2016-01-16 07:16 | 【記録】講演・研究会・原稿

今、共に「沖縄の自己決定権」について知り、考える(3):「第5次琉球処分」としての辺野古新基地建設

さて、やっと本題に入ります。
この記事から読む人は、以下もあわせてどうぞ。

■今、共に「沖縄の自己決定権」について知り、考える(1):
沖縄/琉球、薩摩と私

http://afriqclass.exblog.jp/21839406/

■今、共に「沖縄の自己決定権」について知り、考える(2):
「Positive Peace(積極的平和)」と「ProActive Peace(積極的平和主義)」の違い、そして沖縄の今の世界史的意義」

http://afriqclass.exblog.jp/21871804/

さて、私が(1)で、現政権による辺野古への新基地建設の強行を「第二次琉球処分」だと書いたところでしたが、「実は「第五次琉球処分」です」というご指摘を読者から頂き、以下の記事を紹介頂きました。月刊誌『まなぶ』と執筆者の新垣毅さんの許可を頂いたので、転載いたします。ご理解ありがとうございます。

どうぞ皆さん、ご一読いただき、どんどん拡散下さい。
その際は、クレジット(新垣毅「沖縄の自己決定権を考える」『まなぶ』2015年10月号より転載)をお忘れなく。

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新垣毅「沖縄の自己決定権を考える」

『まなぶ』2015年10月号より転載


黒船は琉球にも来た

 1854年、米国の遣日全権大使マシュー・ペリーは「黒船」を従えて来日し、江戸幕府と条約を結びます。日本として初めて結ぶ国際条約・日米和親条約です。このペリー来航は、日本が近代国家の道を歩むきっかけとなった大事件としてよく語られています。一方、あまり知られていないのですが、実はペリーは、その4カ月後、琉球国とも修好条約を結びました。琉球国を国際法上独立した主権国家として認識していたのです。

 その後、琉球はフランスとオランダとも、修好条約を結びます。これら3条約こそが、後述するように、1879年の「琉球処分」といわれる、日本の琉球国併合の歴史的意味を左右する重要な要素となるのです。

 今から136年前の1879年3月27日、首里城(現在の那覇市首里)。明治政府の命を受けた松田道之処分官は、琉球国の官員たちを前に「廃藩置県」の通達を読み上げました。随行官9人、内務省官員人、武装警官160人余、熊本鎮台兵約400人を伴っての厳命でした。兵士らは首里城を占拠して取り囲み、城門を閉鎖しました。このとき琉球王国は約500年の歴史に幕を下ろします。これが「琉球処分」といわれる出来事です。

 明治政府はその7年前、天皇の下へ琉球の使者を呼び、琉球藩王の任命を抜き打ちで一方的に実施しました。天皇と琉球の王が「君臣関係」を築いたことにして、天皇の名の下で琉球国の併合手続きを着々と進めました。その後、琉球からさまざまな権利を奪い取る「命令」に琉球が従わないとして、最後は軍隊で威嚇しながら一方的に「処分」したのでした。

 琉球国の国家としての意志を無視して一方的に併合し、国を滅ぼした明治政府のやり方、すなわち「琉球処分」は後々、現在まで、時代の重要な歴史的節目節目で、沖縄に対する日本政府の態度を批判する言葉として生き続けます。

 1952年、サンフランシスコ講和条約の発効により、第2次世界大戦の敗戦国日本は米国の占領状態から脱し、「独立」を果たします。しかしそれと同時に沖縄は日本と切り離され、米ソ対立を中心とする冷戦の前線基地にされます。米軍は沖縄で日本軍が造った基地を再利用しただけでなく、民間住民の土地を銃剣とブルドーザーを使って接収していきました。沖縄島は「浮沈空母」といわれるような米軍基地の要塞となっていきました。沖縄がこのような軍事植民地といわれる状態になったのは、1947年に天皇から米側に伝えられた、いわゆる「天皇メッセージ」がきっかけといわれています。内容はこうです。

 「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する。これは米国に役立ち、また日本を防衛することになる。…米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借―25年ないし50年、あるいはそれ以上―の擬制(フィクション)に基づくべきだと考える」

 それは、日本に主権を残しつつ、ソ連など共産主義圏の脅威に対抗し、沖縄の「軍事基地権」を米国に長期にわたり提供するという内容でした。これは沖縄を軍事基地化したい米側にとって格好の提案となりました。しかし、沖縄にとっては、日本の独立と引き替えに、米軍へ「租借地」として引き渡される屈辱的出来事となりました。後に、沖縄の人々はそれを「第2の琉球処分」と呼ぶようになりました。

 その後も「琉球処分」は続きます。「第3」といわれる出来事は、1972年の「沖縄返還」(日本復帰)です。米軍の統治下に置かれた沖縄では、米兵に女性がレイプされたり、米軍機が小学校に墜落して児童ら18人が死亡したりするなど、人権侵害や米軍機事故が相次いでいました。こうした状況を変えたいと沸き起こったのが、日本への復帰運動です。米軍による権利侵害を前に、さまざまな権利を保障する「日本国憲法への復帰」を志向するようになります。

 ベトナム戦争が激しくなった1960年代後半になると、世界的な反戦運動と連帯し、「反戦復帰」という様相を帯びていきました。ベトナムと沖縄を行き交う米兵の犯罪が凶悪化・多発化しただけでなく、爆撃機をベトナムに送る沖縄は、ベトナムの人々から「悪魔の島」と呼ばれたのです。沖縄戦の経験を持つ沖縄の人々にとって、戦争の加担者となるのはとてもつらいことでした。

 ベトナム戦争を背景に、復帰運動は70年ごろには「基地のない平和な島」を目指し、在沖米軍基地の「全基地撤去」をスローガンに掲げるようになります。

 ところが、日米首脳で合意した沖縄返還協定の内容は、ほとんどの米軍基地がそのまま沖縄に残り、なおかつ米軍が自由使用(やりたい放題)できるものでした。これに、沖縄の知事をはじめ、多くの人々が反発しました。「基地のない平和な島」という願いを無視して軍事植民地を継続させた日本政府の態度は「第3の琉球処分だ」という声が、復帰運動のリーダーたちから上がりました。

■第4の「琉球処分」

 そして今、「第4の琉球処分」と呼べる出来事が進行しつつあります。

 名護市辺野古での新基地建設や米海兵隊のMV22オスプレイ配備をめぐって、沖縄県民は大規模の集会や主要選挙で反対の民意を示し、日本の民主主義制度のあらゆる手段を使って訴えてきました。しかしその民意が政府の政策に反映されるどころか、一顧だにされない状況があります。

 最近、沖縄の主張は強く、強固なものになっています。転換点となった出来事の一つは2013年1月28日の政府への「建白書」提出です。建白書は、米軍普天間飛行場の県内移設断念とオスプレイの配備撤回を求めたもので、沖縄県内市町村全ての首長、議会議長、県議会議長らが署名し、首相官邸で安倍晋三首相に手渡しました。「沖縄の総意」を示した歴史的行動でしたが、政府側は“無視”しました。

 その年の12月、米軍普天間飛行場の「県外移設」を公約に掲げていた当時の仲井真弘多知事が、公約を破り、新基地建設に向けた辺野古沖の埋め立てを承認しました。県民は強く反発します。翌年11月の沖縄県知事選では、「県外移設」を公約する翁長雄志氏が約10万票の大差を付けて仲井真氏を破ります。直後の12月の衆院選では沖縄全4選挙区で、翁長氏を支え「県外移設」を公約する候補者が当選しました。「沖縄の民意」は明確に出たのです。しかし、その直後から日本政府は辺野古での新基地建設作業を強行しました。

 こうした状況を見ますと、沖縄は日本の民主主義制度を享受できない地域なのかと疑いたくなります。このような形の訴えを打ち砕かれたら、沖縄の人々はいったいどうすれば自分たちの未来を担保できるのかという思いが広がっているのです。

 最近の安保関連法案を見ますと、憲法9条の理念がなし崩しにされています。米国の統治下で沖縄の人々が目指した「平和憲法への復帰」という願いも、実現どころか、遠のいているという見方さえできるでしょう。日本が「戦争のできる国」になれば、戦争や紛争で真っ先に標的にされるのは、基地が集中する沖縄です。「基地が有る所が最も危険」「軍隊は住民を守るどころか殺しさえする」―。これらが沖縄の人々が学んだ沖縄戦の教訓です。

 万人余が犠牲になった沖縄戦や、戦後も長期にわたり基地被害を経験してきた沖縄の人々が、子や孫に〝負の遺産〟を残したくないという強い思いから、今、湧き起こっている新たな動きが、沖縄の自己決定権行使を志向する行動です。それは、もはや憲法だけではなく、国際法に訴える形で登場してきています。

■自己決定権とは

 自己決定権は、国際法である国際人権規約(自由権規約、社会権規約)の各第1部第1条では、集団的決定権として「人民の自己決定権」を保障する規定があります。日本語では一般に「民族自決権」と訳されていますが、沖縄では沖縄戦における住民の「集団自決」(強制集団死)を連想する「自決」という言葉が含まれているため「自己決定権」という言い方が一般的です。

 自己決定権は、自らの運命に関わる中央政府の意思決定過程に参加できる権利です。それが著しく損なわれた場合、独立が主張できる権利でもあります。

 国際法学者の阿部浩己神奈川大学教授によると、この自己決定権は今や国際法の基本原則の一つとなっており、いかなる逸脱も許さない「強行規範」と捉える見解も有力だそうです。

 沖縄がいま、直面している大きな問題は名護市辺野古への新基地建設問題です。外交や防衛に関しては、国の「専権事項」とされていますが、それらの意思決定過程に、沖縄住民の民意を反映させようというのが自己決定権の行使です。

 沖縄住民の運命に深く関わる問題が政府の「専管事項」とされているので、全国で叫ばれている地方分権論の枠組みでは限界があります。突発的な衝突を含めて、尖閣諸島で紛争が起きれば、観光産業など経済も含めて真っ先に巻き込まれ、なおかつ影響が大きいのが沖縄です。中国脅威論が扇動されればされるほど、当事者として沖縄の人々の危機感は高まるのです。

 では、沖縄の人々は、国際法でいう「集団の自己決定権」を行使する主体となり得るのでしょうか。国際法で規定する「人民」は、一義的な定義はないようですが、沖縄の場合、客観的条件や自己認識で当てはまる要素がたくさんあります。ウチナーンチュ(沖縄人)というアイデンティティー(自己認識)が強く、米軍基地集中という差別的状況、琉球王国という歴史的経験、固有性の強い伝統芸能や慣習、しまくとぅば(琉球諸語)という言語的一体性、琉球諸島という領域的結びつきもあります。

 

■「琉球処分」の意味

 そこで私が最も強調したいのが、沖縄の人々が持つ「琉球処分」という集団の歴史的経験と、その意味です。先の話に戻りましょう。琉球国が外国と結んだ修好条約が重要となります。

 複数の国際法学者によりますと、3条約を根拠に、琉球国が国際法上の主体であったことが確認できます。すると、「琉球処分」という出来事は、国際法であるウィーン条約法条約第条「国の代表者への脅迫や強制行為の結果、結ばれた条約は無効」とする規定に抵触するので、琉球併合の無効を訴えることができるというのです。加えて日米両政府に対し、謝罪、米軍基地問題の責任追及などだけでなく、主権回復を訴える戦略が描けるとも指摘しています。

 ウィーン条約法条約とは、条約に関する慣習国際法を法典化した条約のことで、1969年に国連で採択され、80年に発効されました。日本は81年に加入しています。琉球併合当時、すでにこの条項についての国際慣習法は成立しており、それを明文化した条約法条約を根拠に、事実上、さかのぼって併合の責任を問うことが可能だというのです。「廃藩置県」の通達が、ここでいう条約と見なせるそうです。

 私がこの3条約と琉球併合の関係に焦点を当てたのは、それらの歴史は決して単なる過去ではなく、現在の沖縄の状況を国際法の中に位置付けることが可能となり、さらに国際法を生かして主権回復や自己決定権行使を主張する議論の地平が開かれるからです。

 私は昨年5月から今年2月まで「自己決定権」をキーワードにした連載「道標求めて―琉米条約160年 主権を問う」を琉球新報の紙面で書きました。開始直後から反響が大きく、読者の励ましの声にも支えられ、百回を数える長期連載となりました。連載は6月に書籍『沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望』にまとめ、高文研から出版されています。三つの条約や「琉球処分」の歴史、自己決定権を主張する沖縄の展望について詳しくまとめてありますので、興味のある方は、ぜひ読んでいただきたいです。

 連載の狙いは主に二つありました。一つは、足元の歴史を掘り起こすこと。二つ目は海外の事例から学べる素材を集め、国際社会との連携を模索することでした。歴史を掘り起こすことが時間軸で考える縦糸とすれば、国際社会への取材は思考空間を広げる横糸の関係です。

 海外の取材でも得るものが多かったです。スイスの国連人種差別撤廃委員会やスコットランドの独立住民投票、米国ら独立して20年の節目を迎えたパラオ、そしてEU(ヨーロッパ共同体)の本部があるベルギーを取材しました。

 国連は2008年に「琉球/沖縄人」を「先住民」と認め、2010年には米軍基地の集中は「現代的人種差別」だとして、日本政府に改善を求めています。

 EU(欧州連合)の要・ベルギーの取材では、沖縄が東アジアの「平和・交流の要」になる可能性を念頭に置いて取材しました。国境を超えた地域共同体の本部は小国に置いた方が、大国の利害調整に優位だといいます。日本国内で実現に向けて叫ばれてきた「東アジア共同体」がもしできるのなら、その本部は沖縄にこそふさわしいという確信を得ました。

 人口約2万人しかいない島国・パラオがどうやって大国アメリカから独立を勝ち取ったのか。スコットランドの独立運動とも通ずるのが、市民による粘り強い草の根運動です。何度も挫折しつつも、アイデンティティーの基盤を再構築し、国際世論に訴える運動を継続していました。今の沖縄の課題にも通じます。

 取材を通して率直に感じたのは「沖縄は自立する可能性だけでなく、独立する資格さえ十分持っている。問題はそのビジョンを、現状打開や県民の幸せのためにどう生かしていくかが課題だ」ということでしだ。

■沖縄が目指す将来像

 沖縄の人々にとって、今、大きな課題になっているのは、名護市辺野古の新基地問題だけでなく、沖縄の将来を描く大きなビジョンです。

 沖縄はいま、東アジアにおける「軍事の要」の役割を担わされていますが、そうではなく、琉球王国時代にアジア太平洋地域に展開した交流・交易の歴史的経験を生かし、人や文化、観光・物流などの文化・経済交流を促進してアジア諸国の架け橋となる「平和の要石」こそ、その姿といえます。沖縄の自己決定権追求は、長期的に見れば、決して日本本土への恨みつらみでも、日本との分離を目指す〝離婚〟でもないと思います。むしろ、日本の平和にも貢献する姿こそが重要です。平和の要の役割を担うため、その重要なパフォーマー=主体となるために自己決定権は重要な権利なのです。

 日本はいま、歴史教科書や「従軍慰安婦」問題などの歴史認識問題、尖閣や竹島など領土紛争の火種を抱えています。これらの問題の解決に向け、沖縄は対話の場になれると思います。対話が実現できれば、沖縄だけでなく、日中・日韓をはじめ東アジア全体の平和構築にとって有益です。

 人、モノ、情報のグローバル化の進展に伴い、経済・政治などの分野でEUやASEANのような国境を超えた地域統合が進むなど国家の壁は低くなりつつあります。いたずらに中国の脅威をあおり、ナショナリズム高め、国家間の壁を高めるのは、世界のすう勢に逆行する行為だと思います。摩擦が激化すれば、真っ先に危険なのは沖縄です。

 人やモノ、経済の交流が進めばそれ自体が安全保障になるとの考えもあります。世界は冷戦の東西対立の時代から協調の時代に入り、大局から見れば、東アジアもその世界的潮流の中で信頼関係の構築が求められているのです。

 沖縄には今、アジアからの観光客が街にあふれています。県の総生産に占める基地関連収入の割合は、1950年代には50%を超えていましたが、今は基地に絡む振興費を加えても、わずか5%です。北谷町美浜や那覇新都心地域では米軍跡地利用が成功し、雇用や経済効果は基地だったときと比べて飛躍的に伸びました。基地は沖縄の経済にとってむしろ「阻害要因」との認識が県民の間で広まっています。

 国境が低くなるにつれ、「交流拠点」に向けたチャンスが大きくなっています。米軍基地の跡利用で国際機関を誘致するなど国際情勢を踏まえ、沖縄がどのような東アジアのビジョンと自分らの将来像を提起できるか―。その青写真とともに求められているのが、まさに沖縄の自己決定権の行使なのです。




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# by africa_class | 2015-11-26 23:13 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

今、共に「沖縄の自己決定権」について知り、考える(2):「Positive Peace(積極的平和)」と「ProActive Peace(積極的平和主義)」の違い、そして沖縄の今の世界史的意義

沖縄・辺野古で事態が緊迫しています。
この連載も、もう一歩前に進めないといけません。

元々、辺野古への新基地建設(移転というべきでない)の問題、そしてそれへの沖縄の人びとの抵抗と政府の弾圧については、「私・私達自身の問題」としてずっとフォローしていて、このブログでも何度か取り上げてきました。

■長い夜にブレない生き方について考える〜ガンジーの「ノー」の価値論と「五日市憲法草案」、そして沖縄

http://afriqclass.exblog.jp/21326990/

以下のブログ記事を掲載してから、とても反響が大きく、本腰を入れてやらねばならん…と考え、しかし療養中のため、少しずつ勉強を深めているところです。

■翁長知事の国連人権理事会でのスピーチ&日本政府代表の反論+所感(分析にかえて)

http://afriqclass.exblog.jp/21666952

その勉強のプロセスを、公開しながら進めていくことで、今迄、これらの問題について知らなかった、関心もなかった、無関係だわ・・・と思っていた皆さんにも、一緒に考えていただきたく、この連載を始めました。

■今、共に「沖縄の自己決定権」について知り、考える(1):沖縄/琉球、薩摩と私

http://afriqclass.exblog.jp/21839406/


深刻な事態が現地で進んでいるのに、亀のようにノロい歩みではありますが、ご容赦下さい。
さて、私は以上のブログ記事(1)で、今回の辺野古への新基地建設の強行が「第二の琉球処分だ」と書きました。

しかし、私が不勉強なことに、沖縄では「第五の琉球処分」と言われていると知りました。
沖縄の人びとが直面してきた、そして現在も直面している現実の一端ですら、分かっていないことを知るに至りました。「知らないですむ」ことこそが、マジョリティの特権です。だから、常に「知ろうとすること」、いつでも耳を傾ける姿勢を持つ事が不可欠です。

「第5次琉球処分」について紹介しようと記事を書き始めて、私は一つ重要なことに気づきました。それは、このことをそのままここで紹介しても、沖縄にいない人びとに十分に伝わらない可能性です。

沖縄の人びとの現実と、それ以外の日本の人びとの現実の、深く断絶した認識の差こそが、現在の暴力的な新基地建設を可能としている背景である以上、このことを十二分に指摘しないと、「ある人たち<=>我々」の問題構造が乗り越えられない…そう思い至りました。

なので、そのことをまず書きます。

今、沖縄以外の日本のどこかに暮らし、沖縄/琉球の出身ではない私たちは、東京から送られてきた機動隊らが、身体をはって新基地建設に抗議する地元の方々(おばあやおじいも含む)を暴力的に取り締まっているか知っているでしょうか?あまりに暴力的な取り締まりだから、沖縄県警に属する若者たちにはできないだろうと、わざわざ凄い税金を使って何百人もの機動隊が沖縄に送られ、高級リゾートに宿泊しながら、毎日地元の皆さんを弾圧しているのです。

「現実に被害を被っている【ある人たち】がいるのに、知らないですませられる」構造こそが、構造的差別、ガルトゥング的にいえば、「構造的暴力」となります。これを、日本では、「フラットな皆同じ」「区別することが差別につながる」「知らせることで差別になる」という奇妙な論理ですり替えがちですが、これは「文化的暴力」と呼ばれるものです。

世界的には、「積極的平和(Positive Peace)」とは戦争のない状態だけでなく、このような構造・文化的暴力のない状態を指し、安倍さんがいう「積極的平和主義(ProActive Peace)」という武力介入の考え方には真っ向から反対するものです。この点は、ガルトウング博士が来日した際に詳しく述べているので、以下の記事をどうぞ。

「積極的平和」の真意 ノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルゥングさん
http://www.asahi.com/articles/DA3S11931897.html
「積極的平和、沖縄から提案を」カルトゥング氏が講演
http://www.asahi.com/articles/ASH8Q65QJH8QTPOB003.html

私は、安倍政権によって「積極的平和主義」なる用語が掲げられた時、危ういな…と思いました。為政者が「ポジティブなイメージのある用語」を使って、「まったくその正反対の事」をし始めると、そしてそれがたいしたオプジェクション(異議・抗議・抵抗)にもあわずにスルスル・・・といってしまうと、大変強度の強い暴力が発生することが、現代世界史が教えるところだからです。

原爆の開発も、「戦争を早く終わらせて人命を救うため」でした。
その結果、当時35万人ほどが暮らしていた広島で、4ヶ月以内におよそ14万人の死者が出ました。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111638957650/index.html
長崎では、分かっているだけで73,884人、重軽傷者74,909人、行方不明者1,927名います。
http://nagasakipeace.jp/japanese/atomic/record/scene/1103.html
米国では、長年にわたって以上の通説「原爆は米国人の命を救うのに不可欠だった、役に立った」という考え方が主流でしたが、最近これに変化があり、長年にわたる被爆者の皆さんの活動の成果としても、「人道に反する行為だった」と考える人が若者に増えています。

ヨーロッパ諸国による「キリスト教の普及による哀れな原住民の救済」も、結局のところ、植民地支配の隠れ蓑として使われ、「勤勉さを学ぶための矯正のための労働」は、子どもを含む住民らの無償奉仕労働(プランテーション等での奴隷労働)を意味することが非常に多かったのです。

ある国家の為政者、とりわけ強権的な思考・志向の強い者達が、自分を「世界の救世主」的な存在として位置づけ、これを大きな言葉で繰り返し唱え、何らかの政策とともに実行に移そうとする時、甚大な被害が生じることは、現代史だけの特徴ではなく、人類史に繰り返しみられたことです。

為政者らが自分を「救世主的な存在」に位置づけて、人びとを動員する時、「これを阻もうとする者=敵」は勿論のこと、身内における一つ一つの被害は「大きなビジョンに対して小さなこと」として位置づけられ、踏みにじられていきます。しかし、動員される人びとは、自分が踏みつけられる側になり得る、あるいは既に踏みつけられているという現実に気づかず、「強いリーダーに酔いしれる」ことで、自分の苦境やコンプレックスを忘れたいために、これを「他者の問題」としがちです。

あるいは、「大きなビジョンの歯車」として、嬉々としてその役割を果たそうとするかもしれません。「私のような者が、何か素晴らしい歴史の大事の一部として関われる」ことに、自らのこれまでの人生の挫折を払拭する機会と感じるかもしれません。リーダーらが、その素晴らしさを煽れば煽るほど、そのポジティブなイメージや力は、ぐいぐい求心力を強めます。

このような動きに対抗する側にこそ「歴史の大事の運動」としての利と正義があったとしても、「〜にNOという」という運動は、「〜を素晴らしいという」という運動に対して、大衆の理解を得るのは簡単ではありません。社会が危機的になればなるほど、強権的な為政者が登場しやすい状況が生まれます。たとえ、それが為政者ら自身が作り出した危機であっても、いえだからこそ、彼らは批判を回避するために、新たなスローガンを強固に推し進めることで、人びとの目をそらし、批判を交わし、敵は批判者であり、また外にいるのだ・・・という状況を自ら作り出します。その際には、実態以上に、宣伝のための活動に力が入れられます。

このような状況の中では、為政者のスローガンのほうが優勢となり、抵抗者は対抗力を勝ち得ないとすれば、積極的に為政者に協力しない層の人びと(大多数の場合が多い)もまた、「反対しない、異議を唱えない=思い込みの中立の立場」をとり、選挙に行かない、ただ政府が与えてくる仕事をコツコツする…ということ等を通して、結果的に為政者のシステムを支える機能を果たします。

いつかハンナ・アーレントの「全体主義の起源」やアイヒマン裁判の分析を紹介しましたが、これが、ナチスドイツの壮大なる民族抹消プロジェクト「ホロコースト」を可能とした背景です。

■(その2)大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今。
http://afriqclass.exblog.jp/21487530/

これらのことを考えると、明らかに武力介入を伴った考え方を包含するにもかかわらず、それを「積極的平和主義」等という言葉で包んで、そしてそれは憲法と真逆の考え方であるにもかっかわらず、政策として強固に推進しようとするときには、いい加減、私たちは自らの国の歴史と他国・世界の歴史から、ピンとこなければならなかったのでした。

しかし、実際はそうではなかった。
なぜなら、この「積極的平和主義」が行き着く戦争や暴力への加担の被害を被るのもまた、直接的には「私たち」ではないから。見知らぬ地域の国の、見知らぬ誰か。部隊の駐留によって日常的な人権侵害に怯える住民ではないから。あるいは、基地の存在によって攻撃の対象となるかもしれないわけではないから。

むしろ、武器輸出で儲けられるかもしれない。新しいビジネスチャンスかもしれない。となれば雇用が増え、消費がアップするかもしれない…いい加減、破綻したトリクルダウン的経済効果を、非正規雇用者の割合が初めて4割になった今も、多くは気づいておらず、「企業が富めば国が富み国民も富む」との幻想を抱いていることには、驚きます。

【朝日新聞】非正社員、初の4割 雇用側「賃金の節約」 厚労省調査
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151104-00000051-asahi-bus_all
厚生労働省が4日発表した2014年の「就業形態の多様化に関する総合実態調査」で、パートや派遣などの非正社員が労働者にしめる割合が初めて4割に達した

1987年には15%にすぎなかった非正規雇用、若者の間ではずっと前に4割となっていたわけですが、その理由が「賃金の節約」という誠にストレートな回答となっており、他方企業の内部留保金は過去最高を更新する中、その矛盾する論理が、トリクルダウン理論などまったく機能していないことを証明しています。

【日経ビジネス】今や300兆円、企業の「内部留保」に課税案が再浮上?http://business.nikkeibp.co.jp/welcome/welcome.html?http%3A%2F%2Fbusiness.nikkeibp.co.jp%2Fatcl%2Freport%2F15%2F238117%2F092400007%2F
「その内部留保の増加が止まらない。財務省が9月1日に発表した2014年度の法人企業統計によると、金融・保険業を除く全産業の期末の利益剰余金は354兆3774億円と1年前に比べて26兆4218億円も増えた。率にして8%の増加である。

純利益は10%も増加。最大の要因は企業が稼ぐ利益自体が大きく増えたこと。1年間の純利益は41兆3101億円と10%も増えた。」


このようなまやかしのスローガン・政治が可能となっている理由。
まさにそれは、あらゆる策略によって自己検閲してしまっている牙を抜かれたメディアのせいであり、「疑問を持ち、自分の頭で考える」機会を十二分に創造してこなかった教育のせいでもあるし、離合集散を繰り返す政党政治のせいでもあります。しかし、根本的には、未だに日本が「同調圧力を使った集団催眠の罠」を自覚的に乗り越えられていないことからきていると思います。どこかで、多くの日本の私たちは、「自由と民主主義」が怖いのです。

自由に考えろといっても、選択肢もあまりないし、あれこれ考えなくとも、強いリーダーに任せておけばいいじゃないか。
「よく国のことを考えている(と思わせる)」政治家や専門家や役人に任せたい。
「せっかく国のためにやってくれている人たち」の足を引っ張る奴は許さん。

という、実態なき「国」その実「一部の特権層の既得権益の存続と発展」を、支えてしまうことになるのです。
だから、2015年の終わりに、日本の人びとこそ、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を手にとってほしい…そう思って以下の記事を書きました。

■今、再び『被抑圧者の教育学』を読む(その1)〜若者/「抑圧なんかされてない」「飼いならされた」あなたへ

http://afriqclass.exblog.jp/21839228

私は、今危機的な状況にある日本の中で、多くの人が沖縄の人びとに学ぶことこそが、もしかして唯一残された希望であるかもしれないと考えています。沖縄の人びとの長い歴史に裏打ちされた経験から紡ぎ出されている「意識」こそが、主体としての権利の能動化、つまり「主権者」としての自覚を育み、踏みつけられても踏みつけられても、日常の近い場で日々のあらゆる闘いを実践し続けているところに、今私たちが真剣に学ばないとしたら、もうとっくに手遅れだけれど、もっと手遅れになると思うからです。

今、沖縄の人びとが実践していることは、「日本の平和と自由と民主主義の最後の砦」を守る行為なのだということを、私たちは決して忘れてはいけないし、知り、そこから学ばなくてはならないと思います。

また、ガルトゥング博士が沖縄にPositive Peaceの拠点としての可能性を見いだしていることの意味は、第二次世界大戦後、とりわけ冷戦期の60年代以降に発展してきた国際平和学の成り立ちと発展からすると、とても納得のいくものなのですが、この点についてはまた別に論じたいと思います。

一言付け加えると、先の戦争で甚大なる暴力を経験した沖縄の人びとが、既に「平和の主体」として自らを位置づけ直し、沖縄という場を「平和の拠点」と転換させることで、自らの尊厳と発展の足場を築き、日本・アジア・世界に貢献しようとされていることは、沖縄内、日本内に留まらず、アジアと今の暴力の連鎖が止まらない世界のあり方にとっても、世界史的な展開としても、大きな意味と意義があるということです。

これはガルトゥング的平和学でいうところの「トランセンドtranscend」であり、AとBの敵対から戦争に発展しがちな紛争を「超越的に転換」することをヴィジョンとして設定し、それに引っ張ってもらう手法です。これは、授業でも色々やりました。つまりAかBの勝利か敗北を目的化しない、かといって妥協を目指すのでもない手法です。

詳細→http://afriqclass.exblog.jp/i23

理不尽な暴力を経験したからこそ、平和や自由、民主主義の価値を知り、その実現のために尽力する崇高なる役割を果たして着た偉人を、私たちは沢山知っています。

他方、理不尽な暴力を経験し続けたからこそ、世界構造や現状を暴力的に転換したいと切望して別の暴力に手を染める人、絶望してこれに追従する人も、私たちは知っています。911やパリ連続攻撃で、それを目の当たりにしました。

その意味でも、沖縄の人びとの非暴力直接行動の実践は、同時代的な世界大の意義を持っており、これはそのような文脈でも理解されるべきなのです。

次に、本題の「第五の琉球処分」について。

今、共に「沖縄の自己決定権」について知り、考える(3):「第5次琉球処分」としての辺野古新基地建設

http://afriqclass.exblog.jp/21871996/

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# by africa_class | 2015-11-26 22:10 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

【とりあえず】一連のパリ襲撃とその後(Aftermath)を受けて今考えたこと:これまでの研究からの所感

やらなきゃいけないことは山ほどあり、かつ始めた2つの話を続けなければとも思うが、自分がこれまで専門(War/Conflict & Peace Studies)として研究してきたことを踏まえると、今これを書いておかないと…と思い、急遽ブログを立ち上げる。とりあえず、この間twittしたことを貼付けておく。息子がサッカーに行ってるこの隙に。

11月13日金曜日夜にパリで起きた一連の襲撃について、じっくり考える余裕がない中で、一連の情報のRTと所感を書いてきた。投稿日時は、大体のもので、パリ時間です。

一番重要なことは、このような事件が「新しい現象ではない」ということ。
日本は今迄牧歌的に過ごせてきたので、「新しいもの」に見えるかもしれないのだけれど、そして安倍政権の外交・安保政策の転換により「差し迫ったもの」のように見えるかもしれないのだけれど、冷戦期からの現在までで、ヨーロッパを含め、世界で起きてきた現象。

何よりも、911後に行われたアフガン戦争、そしてその後のイラク戦争の後の世界においては、常態化しつつある現象といえるわけです。これは、NY、ロンドン、マドリッドといった私たちに身近な街で起きていただけでなく、中東でもアジアでもアフリカでも起きていたことで、私たちがそれらの事件を忘却していたか知ろうともしていなかっただけで、2001年以降の世界の現実だったのです。

でも、それもまた冷戦期、あるいは脱植民地化のプロセスで、世界各地で起こっていたことに根っこがあります。世界各地における戦争に限らない暴力化は、勿論遡ろうと思えばどこまでも遡れるわけですが、第二次世界大戦期に発達の端緒があり、その後冷戦で「発展」し、911で「進化を遂げた」といっても過言ではなく、「テロ」と呼ばれる事件は必ずしも、「東側」「解放勢力」「反体制勢力」「過激派」によるものだけではなかったのです。冷戦期は、アメリカや西側諸国の警察・軍・その他が関与するものは大変多く、前者による「テロ」が自分の存在をアピールするためにこれを誇示する一方で、後者のそれは隠されなければならないため、世間には広く知られないままできたのです。

巷では「陰謀論」というレッテル張りをして、これらの歴史的事実から目をそらせたい人もいるようですが、アメリカの凄いところなんですが、これらの「暗殺」「政権転覆事件」「テロ」等の秘密行動の記録を、時期がきたら広く公開し、政府自ら記録編纂をして本にまとめたりしているのです。なので、「ないところに陰謀説を持ち込んでる」というのは、まったく当たらず、そういうことをいう方々は、不勉強としかいいようがありません。

実際、日本で国際関係やアメリカ外交史を専門にしているような人たちでも、ここら辺の「負の歴史」にはまったく関心を寄せず、表で語られている歴史だけを集めて、アメリカの外交政策を没批判的に持ち上げる人がいるんですが、「栄光なるU.S.A」にどこまでも忠誠なその姿は、可哀想なほど。アメリカ外交を見るのであれば、その外交の結果を見なくてはならず、その際にアメリカからのみ見たところで、本当に見た事にならんのですが。確かに、アメリカは広いですけど、世界はもっと広いんですが…と言いたい。

植民地支配の歴史を、植民者からのみ見て分析するのがおかしいように。
被植民者の側からもまた、見なければならないわけです。
つまり、相互作用の中で見なければならない。

アメリカの政治家たちですら、イラク戦争を正当なる戦争などとはもはや言わなくなったのに、なぜか日本の「国際関係」専門家の一部は、未だに「正しかった」等と言い続けているのは、なんとも衝撃的なことで、本来に本の学術界がこれらの「専門家」に挑戦しなければならないのに、日本の学会は予定調和的な場所なので、「エライ先生」たちにただの学術論争ですら挑むことが不可能な現状がある。象牙の塔ですね。

学術界がしっかりしないので、こういう人たちを為政者たちは喜んで「活用」し、あたかも「学術的にお墨付きを得た」とする余地を生んでしまっている。学術界内では論争しないのに、そうなればなったで、先生達は出て来た「政策」に対し、これまた「専門家」として新聞やテレビで文句をいったり書いたりするわけです。でも、決して大元の「大専門家」を批判したりはしない。そんなはしたないことだし、お世話になったこともあるし、何よりそんなことしたら村八分だから。

話が脇に逸れました…。
私が、各種学会の理事や委員を降りた理由はこれです。
中で頑張らなかった訳ではないですが、中から変えるのは無理だという結論です。
今後の展望については、また書きます。

さて、アメリカとその同盟国が世界で何をしてきたのか?その理由は何か?そして、その結果、世界の各地の人びとからどう見られているのか、これを理解しないで、911後の世界の危機は語れないし、悪の連鎖は断ち切れません。

が、アメリカとその同盟国の一部、そしてその背後にあるものは、そもそものところ本当に「平和な世界」「中東の平和」を目指しているのか?…そこはまた、議論の余地があるところです。これもまた陰謀論的な意味でではなく、実際の世界大の軍事産業の問題を分析から排除して、「政治」「外交」だけをみても、本当のところは分からないのです。

私たちの世界は、冷戦が終わった時に、これらあらゆる困難を乗り越えるだけの可能性を手にしていました。
しかし、それがあっという間に消えていってしまった。
湾岸戦争、アフリカで多発した紛争の数々、旧ソ連の諸国や旧ユーゴ…。
そこで再びナショナリズムや領土の問題が生じたわけですが、勿論内部要因は非常に重要である一方、もう一度思い出さなければならないのは、ダレがどのようにこれに関わったのか?
武器はどこからどのようにきたのか?

これらの紛争は、現在にも繋がるアクターたちの出現・発展・連携を生み出していきました。
そして、今があります。

勿論、今回のパリ攻撃は、手法・規模・場所という点で、今迄よりも危機感を高めるような事態であるものの、このようなことはフランスや同盟国、その他に予想されていたわけで、実際に起きてしまったとはいえ、各国、特にシリア戦争に関与しているフランスであれば、それなりの予防策とプランがあったはず。突然起こったように見えて、実際は起こりうるものとして対応されてきていたはずで、ではその前提で、なぜこのような発生の仕方、対応の仕方なのか…というところが、報道されていないだけに重要になってきます。

特に、13日金曜日の夜に連続の被害が発生して、夜中の間中はその全容を明らかにする事に追われていて、犯行声明が出たとしても、依然として全容解明に追われる中で、週末中の日曜日にシリアで報復のための軍事攻撃が行われ、月曜日に「憲法改正と大統領権限の強化」と大統領が主張するとしたら、何かがおかしいのです。

一番の問題は、911と同様、個々の被害が生じた犯罪(程度が大きいとはいえ)を、「国家」が乗り出してきて、「戦争」という形に持ち込んで対応することです。「遠い街でのテロ被害」と「原因と考えられる遠くの紛争状況」とを同一のものと捉えて、後者に介入すれば前者が解決すると考えるのは、あまりにナイーブです。両者の首謀者が同じとしても、別個の現象であり、別個に扱われる必要があります。

勿論、以上はISILや犯罪者らの擁護ではありません。
重要なことは、いつも「紛争と平和」の授業でいったことですが、目で見える「点」だけにフォーカスしてはいけないこと。
「ある事件」「あるアクター」「ある結果」だけに注目するのではなく、何故その「事件」は、そのタイミングで、そこで、そのアクターで、そのような形で発生し、その前には何が起きていたのか、そしてそれを取り巻く状況はどのようなものであったのか、その結果のリアクションが示していることは何なのか、これら一連のことでメリットを受けたのは誰なのか、デメリットを受けたのは誰なのか、

このような時間・空間軸の広がりと複合的な視点の中で、理解しようと務めないといけません。また、「誰の声が報道され、誰の声が報道されないのか」・・・そしてそれは何故かも、しっかり見極めないといけません。

世界が複雑化したのではありません。
冷戦期の世界は、ある程度いつもこうでした。
私たちが、前よりも多くの情報を手にし、多角的に考えるきっかけを手にしたという幸運の一方で、もっと身近にこれらのことを考えなければならないほど暴力行為のただ中に自ら身を投じていってしまう政権を持ってしまったという不幸によるものです。

もうサッカーから帰って来たので、文章を見直す暇もなく、、、これにて失礼します。

==============

11月13日金曜日深夜
劇場内の死者は118名だったので、合計140人の犠牲者が出ている模様。
<=報道によってばらつきがあったが、実際の死者数は120名だったが、病院で亡くなっている人もいるので増えていく可能性がある。

心からご冥福をお祈りします…。本当に悲しく、悔しい。そして、この後起こりうる様々な暴力的な反応に。それは更なる暴力を確実に生むから。911とその後の対テロ戦争が何をもたらしたのか。暴力の連鎖を断ち切らないと。

11月14日土曜日午前
私も昨夜から考えていました。同時進行するシリアでの空爆による無差別殺戮の死者、パレスチナの若者たちの処刑…我々はなぜ同じように嘆き悲しみ弔わないのか、と。命・死の重みを同じに受け止める先に、この仕組まれた分断と暴力を乗り越えるヒントがあると思います。

11月14日土曜日午前
こういう時に勇ましく言ったりやったりするんでなく、日常を紡ぎ続けるのもすごく大事。一人ひとりが平和を望み、命を想い・育み・悼む普段/不断の努力、向こう側の誰かの苦悩・嘆きと喜びに共感し輪を広げる試み、鋭い批判と深い洞察で見抜く力こそが、絶望の淵の希望だと…。

11月14日土曜日夜
パリ攻撃が、報復やフランス/西欧社会の不安定化だけを狙ったものだと捉え、反撃の為大掛かりな暴力を準備するのであれば、911後のプロセスを悪い形で上書きすることになるだろう。首謀者とその背後にいる人々・構造にとってこの「反応」を引き出す事こそが目的。更にこれを期待する産業がある。

11月15日日曜日午前
ああ…思った通り、フランスは挑発に乗り、シリアを報復攻撃…。ISILの拠点を攻撃というが、子どもだって女性たちだって住んでいる。これこそが、パリ襲撃事件の狙いであり、まんまと策略に嵌る。テロ再発を予防したいのであれば、報復は戦略として妥当でないのは明らか。

11月15日日曜日午前
結局、フランス政府が守りたいのは「市民」ではなく、「メンツ」であったことが露呈。世界の我々も、「フランス国家に連帯」ではなく、「パリの犠牲者を含めた理不尽な加害・犯罪の犠牲者に哀悼と連帯」であるべきだった。フランス国家に被害者としての正当性だけを与える事に。

11月16日月曜日夕方
ほらね、どんどんきてる→「フランスオランド大統領は「大統領権限を強化するため、憲法の一部改正を求める」と」 911後のアメリカと同じだが、展開が非常に早い。未だ3日目なのに。事件の背景要因分析・対策検討すら不十分のまま、なし崩し的。

11月16日月曜日夕方
本当に仏市民を守るのを優先するならまず原因特定が必要。急ぎの安易な復讐は新たな危険を招くだけ。これ程急ぐのは対ISILではなく、仏国民や国際世論が好意的な内にやりたい放題に着手しておきたい。その心は「(パリ攻撃は)仏政権のシリア攻撃のせい」との批判を回避。

11月16日月曜日夕方
これに騙されるフランスの議員や市民は、新たな犠牲を覚悟するしかない。最も古い民主主義国の市民としての力量が試されている。為政者がナショナリズムを煽る時、大抵よからぬ政治的意図がある。自らの問題の隠蔽か、挑戦者を抑え込みたい。戦争に向かった時と今の日本がそれ。

11月16日月曜日夕方
あるいは、見えないところで準備されていた「何か」のせいという可能性は払拭できない。冷戦期から現在まで、世界で起きる「事件」の背後には、表面上で見えるより、もっと複雑で多様なアクターが関わるより大きな意図や利害が作用していることが多い。これが例外とは言切れず。






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# by africa_class | 2015-11-17 03:39 | 【学】戦争/紛争/暴力・平和論

今、共に「沖縄の自己決定権」について知り、考える(1):沖縄/琉球、薩摩と私

ツレが日本から大量の荷物を持って帰って来た。
大地を守る会で買った熊本の無農薬玄米、豆腐を作る為のニガリ、お団子を作るためのクズ粉…。しかし、大地で扱っていないため、ぬかと麹を注文し忘れ、昨夜味噌をつくったら、もうなくなってしまった…。麹なしに我が家の料理は貫徹せずなので、苦境だ。

さらに、実家からも大量の荷物が。私の母から息子へのオヤツやパジャマ、私に5本指ソックスと腹巻き(日本でしか買えない!)、そして家族のために「ムラサキ醤油」が…。

これは九州の人にしか分からないと思うが、醤油は甘くなくてはいけない。

千葉出身の若者に「薄口醤油」を買ってきてと頼んだ時に、「え?醤油に濃口と薄口あるんですか?」と驚かれたが…あるんです。関西(特に京都)の人間にとって、「薄口醤油なしの食生活」はあり得ません。さらにいってしまうと、関東の醤油は塩味がキツく、出汁っぽい味がしないのが辛い。

が、鹿児島出身の母と京都出身の父というあり得ない両親のミックスとしては、「ムラサキ醤油」も「薄口醤油」も「濃口醤油」も必要なので、キッチンの棚にはやたら醤油の瓶が並ぶのだが、遊びに来た人に料理の際「醤油とって!」と軽く頼むと、皆驚き、「え?何?これ?どれ?!」となる。

さて、ツレが持って来た90キロの荷物はこれらで終わることがなかった。
(多分、彼の宿泊していたホテルは驚いたことだろう。日本全国からあらゆる小包がたった2泊の客人のために届いたのだから。しかも、ツレがあまりに忙しかったため、わざわざ段ボール箱に梱包してくれたほど…日本のホテル、万歳!)

届いたのは、沖縄県からの小包と、東京の本屋屋からの小包。

その両方の小包に、本が一冊ずつ入っていた。
奇しくも、同じ時代…19世紀末の琉球の話が載っている。


琉球新報社・新垣毅(編)(2015)
『沖縄の自己決定権:その歴史的根拠と近未来の展望』高文研

松下志朗(編)(2008)
『南西諸島資料集(第二巻):名越左源太』南方新社


前者は、このブログの読者の方がわざわざ送ってくださった本。

後者は、ずっと前からほしかった本で、沖縄で起きている事態を見ているうちに、大学時代にやりかけて途中で放り投げてしまったことを、そろそろ少しでも何かを始めた方が追いと思ったからだった。その理由の一つとしては、先日母方の叔父が急逝してしまって、最後の大叔母も長くないかも…さらに叔母が入院…とあって、いよいよまずいと焦ったのもあった。

これまでも、沖縄の皆さんとの交流は、色々なレベルであった。10回は訪ねた大好きな地域。だが、本当の意味で交流らしい交流が始まったのは、実はこの2ヶ月のことであった。ブログに以下の記事を投稿してから、沖縄の多様な層の方々からご連絡を頂き、少しずつであるけれどやり取りをさせてもらっている。

その中で、わざわざ沖縄から『沖縄の自己決定権』を送って頂いたのだった。

2015年9月22日:

翁長知事の国連人権理事会でのスピーチ&日本政府代表の反論+所感(分析にかえて)

http://afriqclass.exblog.jp/21666952

自分でもその反響に驚き、未だにその理由が理解できていないのだが、今度沖縄に行く時に、皆さんとの交流の中で色々教えてもらおうと思っている。

前回2014年は体調のこともあり、5日ほどしかいられず、辺野古も高江も駆け足でしか行けなかったが、出会う人出会う人に沢山の話を聞くことができたことは本当に貴重な経験だった。また、共同編集していた日本平和学会の本の表紙用に高江に掲げられた「命どぅ宝」の写真を撮影でき、以下の協議会で親川志奈子さんのお話を聞けたことは、なんという幸運だったろう。彼女の話は議事録で確認できるので、以下の外務省サイトで是非。

平成25年度(2013年度)NGO・外務省定期協議会
「第3回ODA政策協議会」

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/taiwa/oda_seikyo_13_3.html
(2)外務省・JICAにおける先住民族に対する政策のあり方について
  【親川 志奈子 Okinawan Studiese 107】
  【和田 充広 外務省 国際協力局 NGO担当大使】

さて、頂いた『沖縄の自己決定論』。あまりに面白くて、一気読みした。
特に、冒頭からの近現代史の部分は、推理小説を読んでいるようなそんな疾走感があって、自分が知っているはずの史実の問題が別の角度からどんどん暴かれていって、ストーンと落ちるものがあった。

歴史や歴史小説が好きな人は日本に山ほどいるので、そういう人にも気軽に手に取ってほしい一冊だ。私の幼少期には、「ヒミコの墓はどこ?」「邪馬台国は奈良か、北九州か?」「豊臣秀吉の隠した財産はどこ?」等という本が、山ほどあったのだが、同じ位の熱意を持って、この本を手に取ってほしい。そういう間口の広げ方は、凄く重要だと思う。

大丈夫。
この本の紹介はそこで終わりではない。

この本は、今、暴力的に辺野古に新基地が作られようとしている正にその瞬間だからこそ、読まれるべき本である。琉球の歴史を十分に知る機会がなかったかもしれないウチナンチュー(沖縄以外にいる人びと、世界のウチナンチューも含む)、そして、とりわけサツマ(鹿児島)の人たち、沖縄以外の人たちに読まれるべきものである。

なぜなら、今歴史が繰り返そうとしている、まっただ中に私たちは生きているから。
そして、私たち一人ひとりが、過去は変えられないとしても、そしてその自覚がないにせよ、今と未来は変えられるだけの力を、本来持っているから。

今なら、未だ間に合う。
この過ちを止めさせるのに。
でも、この後は間に合わないかもしれない。

だから、まず私たちは、かつて沖縄/琉球で何が起こり、それは何故だったのか、現在にどのように繋がっているのかを、どうしても知らなければならないのだ。

琉球「処分」という言葉が指すように、「誰が誰を何の権限を持って処分したのか」、今でもその「処分」という言葉を使い続けることは妥当なのか?なぜ、1世紀以上が経っても、未だにあれをカッコなしで琉球処分と、書き・話すことができるのか?

それ以前に、なぜ薩摩藩がとんでもない重税を琉球の人びとに課し、徴税できたのか?
なぜ、琉球王国内にあった奄美大島は薩摩藩直轄になり、今は鹿児島県なのか?

なぜ、朝鮮半島への侵略と植民地支配は、「併合」等という言葉でもって未だに説明されるのか?
なぜ、安倍総理は今年夏の談話で、戦争の加害はわずかでも言及し詫びたのに、植民地支配についてはまったく言及しなかったのか?

(この点は以下のブログ記事で紹介してます)
http://afriqclass.exblog.jp/21548918/

私たちは何一つ、知らなかった事に、問いすらもとうとしなかったことに、今更気づくのである。
知らないでいられたとしたら、それは支配する側、つまり歴史を記述する側にいたからであり、あるいは被支配を見えなくされていたからである。

この本は、あるいは近現代史を琉球・沖縄の視点で見直した時に、まったく地平が立ち上ってくることに気づくだろう。それはとても苦しいことであるが、同時に、この戦後最悪の政治状況において、一筋の希望でもある。

「知らないでいること」…で責任を逃れようとしがちな私たちである。
特に、都合の悪そうな事実からは、目を背けがちである。


しかし、「知ろうとしないでいること」自体が、「加害」であり「罪」であり、責任を伴うことを(無作為の作為)、今ここで理解しないとすれば、取り返しがつかないことになるだろう。それは、「沖縄/琉球」と自分との関係においてだけのことではなく、このままいくと暴力的支配の構造が日本全体の下から上までにはびこって、再び大規模な愚かな過ちを繰り返すことになるだろう。

このことは、既に別の記事で書いた。
■大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今(その1)。
http://afriqclass.exblog.jp/21484478/
http://afriqclass.exblog.jp/21487530/

沖縄の皆さんは身体をはって、これを止めようとしているのに、私たちはあまりに無自覚すぎる。翁長知事が、春先、菅官房長官に対して「問われているのは日本の政治なんではないですか?」という趣旨のことをいっていたが、まさにそうなのだ。問われているのは沖縄ではなく、私たちだというのに、依然としてその自覚すら十分ではない。

でも、今なら間に合う。
しかし、その最後の段階に入りつつあると思う。
そのことの理由は別に書く。
だから、多くの皆さんにこの本を手に取っていただきたく、章立てを紹介する。

『沖縄の自己決定権:その歴史的根拠と近未来の展望』

*沖縄は、なぜいま、「自己決定権」を求めるのか
I. 琉球の「開国」
 1. ペリー来航と琉球
 2. 列強各国・中国・日本と琉球

II. 琉球王国ー「処分」と「抵抗」
 1. 「処分」の起源とその過程
 2. 手段を尽くしての抵抗・急国運動
 3. 「処分」をめぐって

III. 沖縄「自己決定権」確立への道
 1. 国際法から見る「琉球処分」
 2. 「琉球処分」をどう見るかー識者に聞く
 3. データでみる沖縄経済
 4. 経済的自立は可能かー識者に聞く

IV. 自己決定権確立へ向かう世界の潮流
 1. スコットランド独立住民投票を見る
 2. 非核、非武装の独立国・パラオ
 3. 沖縄を問い続ける国連人種差別撤廃委員会

V. 「自治」実現への構想
 1. わき起こる住民運動
 2. 「自治州」から「独立」まで

========

内容については、あまりに息子の作業がうるさいのと、一個記事をあげたばかりなので、今日は無理な感じ。先にこの本を紹介したかったのだけれど(今の緊急性を考えて)、フレイレの書いたことを紹介してからが良いと思った。その理由は、また今度書く。

なお、私がこのブログで、「学者らしく」プレーンな解説に徹するということをせずに、延々と日常や思い出話がおり混ぜているのには理由がある。ウザい人たちが多いだろうが、それがウザい場合は、どうか学術論文や本の方を参照してほしい。あえて、こういう書き方をしているのは、「一私人として、何をどう感じたから、どう書いたのか」の舞台裏まで見せてしまうことで、「遠いどこかの先生のおっしゃるクールな有り難いお話からお勉強しよう」という受動的な読み方をするのではなく、皆さんの隣の誰かの日常的・思考的な試行錯誤を知ってもらうことで、何かもっと身近なレベルから主体的に考えてもらうきっかけに(それが反面教師、あるいは批判であっても)、なってほしいと思うから。

その理由は、先ほどフレイレの『被抑圧者の教育学』の記事で是非。

今、再び『被抑圧者の教育学』を読む(その1)〜若者/「抑圧なんかされてない」「飼いならされた」あなたへ

http://afriqclass.exblog.jp/21839228/

または、以下の投稿。
長い夜にブレない生き方について考える〜ガンジーの「ノー」の価値論と「五日市憲法草案」、そして沖縄
http://afriqclass.exblog.jp/21326990

さて、何故私が「南西諸島史料集」なるものを同じタイミングで手に取ったのか、何故あの「所感」を書いたのかを、紹介しておかねばならない…と思って、書き始めたのだが、さすがに1日二つの記事は書けそうになく、これにて失礼するしかない感じ。まったくすみませぬ。



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# by africa_class | 2015-11-16 06:19 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

今、再び『被抑圧者の教育学』を読む(その1)〜若者/「抑圧なんかされてない」「飼いならされた」あなたへ

お待たせしました。
パウロ・フレイレの不朽の名作『被抑圧者の教育学』です。

(誰も待っとらんわい、と聞こえてきそうですが…)
(*時間のない人は最後のメッセージだけどうぞ)

そして、私の我が侭を聞いてくれるのであれば、マリア・ベターニャの「朝の鳥/1977年」を聞きながら読んでほしいのです。意味が分からないとしても。

Pássaro da Manhã/1977 - Tigresa - Maria Bethânia


新訳本を出された三砂先生が、「日本においても、開発・発展・国際協力といった分野に興味を持つ人に取ってはマスターピースと呼ばれるような一冊となっているし、教育、医療、演劇、貧困、差別等の多くの分野で人間の解放と自由について考える人たちに大切にされてきた」と紹介しています(311頁)。

それにしても、前回更新からエライ時間が経ってしまいました。
というのも、またしても体調不良を起す中で、ツレが出張に行っていたり、ゲストラッシュが続き、さらに通い猫のニャーニャに未だ子どもなのに(!)5匹の赤ちゃんがいたことが発覚し、ついでに庭と畑の収穫と冬支度が同時進行し、断片的にしか思考できなかったためです。

しかし、少し元気になると、次々に「前世」の約束が追いかけてくるのは…辛いですね。なのに、新しい約束が、思っても見ない人びと・レベルからプレゼントのように手渡されると、なんとも嬉しさよりも悲しさが募ります。あ〜あ。。。この日本社会での「借金状態」を、なんとか今年度内に片付けたいと心から思っています。皆さん、すみません…。

で、まだ難しいものを書く元気がないのと、息子が突然始めた古家(築100年)の床の研磨がうるさく…でも、耳栓して本の紹介ぐらいできるかな…ということでいくつか紹介を。

底本は、三砂先生の新訳で蘇った以下の本です。
パウロ・フレイレ(三砂ちづる訳)『被抑圧者の教育学』亜紀書房
Paulo Freire "Pedagogia do Oprimido" 1968.


フレイレを少し紹介。
三砂さんのフレイレと本の紹介、翻訳の苦労(ノルデスチ話法とアカデミック記述の合体というらせん構造)、そして先生自身のノルデスチでの母子保健協力の実践が「ヒューマニゼーション」という考えに到達したプロセスを書いた「あとがき」は、とても良いので是非一読を。

1921年ブラジル北東部(ノルデスチ)ペルナンブーコ州レシフェ市生まれ。法学部で法律を学び、弁護士に。その後、地元レシフェ市で文字の読み書きができない貧しい農民たちに、自己変革とそれを通じた社会変革のための「意識化(conscientização)」の手段として、識字教育を奨励し、社会的に大きな変革の兆しをもらたした。その結果、1964年の軍部によるクーデーターで、国外追放となり、亡命生活中にこの本を執筆する。その後、UNESCOで識字教育推進に関わる一方、ブラジルの民政移行に伴い、サンパウロ市の教育長等を歴任し、スラムでの識字時教育を推進。

教育実践、教育学だけでなく、開発、保健医療、政治など多くの分野に影響を与えた。エンパワメントの概念・言葉は、彼によるもの。


なお、この本のタイトルが「教育学」という点で、多くの人はひいてしまう、自分に関係ない本と受け止める可能性がありますが、実は、内容はそれを超えています。私も、学部生の時代に手に取る際に躊躇したのはそれが理由でした。それでも何故読んだかというと、当時どこにいっても多くの人がこの本を言及していた、ブラジル人が書いたものなのに知らない訳に行かない…という消極的な、悲しい理由によるものでした。が、いかんせん、三砂先生も書いてらっしゃる通り、読み進めるのが難しい本…です。そこは、三砂訳が楽にしてくれているので、是非新訳をお手元に。

さて、誰に読んでほしいか?
1. 街角に出始めた(出ようかと思う)若い皆さんに、

本の扉に書いてあるフレイレのメッセージを読めば、今の日本のとりわけ若い皆さん、街角に繰り出した皆さん、繰り出そうか出すまいか悩んでいる皆さんが読むべき本であることが理解されると思います。

「この世界で、引き裂かれている者たち、抑圧されている者たちに、この本を捧げる。そして、引き裂かれている者たちを見いだし、彼らと共に自らをも見いだし、共に悩み、共に闘う、そういう人たちにこの本を捧げる」

2. 日本社会の最前線で活躍するミドルズ、「被抑圧者」なんかじゃないという方々に、


そして、次の文章は、日本社会の最前線で活躍する皆さん、自らの生活に必死で本なんか読んでられねーよ、という皆さん、あるいは私は「被抑圧者」なんかじゃないから関係ない、という皆さんにも、これが必読書であることを示していると思うのです。

(8頁)
コースの参加者が、「意識化することは危険だ」という言い方で、「自由への恐怖」を表すことが、本当にめずらしくなかった。「批判的意識というのは、なんというのかな、それはアナーキーで危険のことのような気がする」


3. 「被抑圧者の意識化なんて、危険だ!」と考える皆さんに


あるいは、週末に起きたパリでの同時多発「テロ」を見て、被抑圧者の「意識化」は危ないことである。過激派思想を生み出すと主張する人たちに、45年前にフレイレがどういっていたか知ってほしいと思います。

9頁)
「不正な状況があるとしても、その状況の下で苦しんでいる人たちがはっきりとその不正の状況を"認識"しない方がよいのではないか」
、となる。

(しかし、)人びとを「破壊的な狂信」にかりたてるのは、意識化ではない。意識化はむしろ逆に、人びとが主体として歴史のプロセスに関わっていくことを可能にし、狂信主義を避けて一人ひとりを自己肯定に向かわせる。


「意識化によって社会的な不満を表現する道がひらかれるということは、こういった不満が抑圧状況のうちにはっきりと現存する、ということを示している」

これは、重要なことです。「自己肯定」を切実に必要とする被抑圧者らが、歴史において、日本でもドイツでも世界でも、どのような破滅行為に邁進していったのか、自分より「劣る他者(集団)」をスケープゴート化することで、いかに「偽りの自己肯定感」を得ようとしたのか。それが、今再び、日本で蘇ろうとしている現実を目の当たりにして、よけいにそう思います。

4. 戦争を経験しなかった今世代の皆さんに
あるいは、「飼いならされてなんかおらん!」と憤慨する皆さんに

私たちが向かうべきは、自己肯定感を持てないような家族・社会・国家・世界のあり方であるにも拘らず、それを社会課題として昇華させないで分断された個人のそれぞれの内面に深く刻み込むことで、支配する者たちの言いなりになる人の群れが準備され続けてしまう。つまり、「飼いならされた人びと」の創出・・・が、この本の最も挑戦しようとしている点です。

その意味では、日本の戦争を経験しなかった世代のあらゆる人びとにこそ、この本は読まれるべきだと思います。

日本は、近現代史において、「権力による飼いならし」は無縁の経験ではなく、その行き着く先が一連の戦争でありました。多くの戦争経験者は、これに気づき、自らの思考を転換させていきました。しかし、その世代の大半は、もはやこの世におられないか、引退されてしまいました。そんな重しがなくなった途端、かつての日本の風潮が戻ってきて、今「飼いならし化」が再び強まっており、気づかない間に社会・日常のあらゆる場面で「刷り込み」が進んでいます。

が、おそらく「飼いならされてる」なんて、失礼な!と憤慨してらっしゃることでしょう。だとすれば、是非この本を批判するために読んでほしいと思います。


===========
が、その前に・・・!
キー概念である「意識化」、そしてその後の「エンパワメント」とは?

この説明は本にないので、ここを理解しないと、全然通じないので、以下私の経験も含めて紹介しておきます。

日本の大学・大学院で国際協力に関心のある日本の学生を教えていると、必ず皆「エンパワメント」という言葉や概念に触れ、首をかしげながらも、惹かれて、やたら多用します。

私は、これを勿論良い事と思って、眺めます。
ただ、質問はします。
「エンパワメントって何?」
そうすると、大抵の場合、フリードマンの引用をスラスラと言ったり、書いたりしてくれます。
その時、フレイレまで遡ってくれるのなら、もう言う事はないのですが、大抵そうではありません。知識として、フリードマンにインスピレーションを与えたということは知っていても、何故そうなのか…までは行き着いていません。

なので、次のような質問を投げかけると、途端に皆立ち止まってしまいます。

「エンパワメントって、あなたの今の状態において、どういう関係性を持つ?」
「あなたはエンパワーされている状態?だとすれば、どういう状態にあるの?その理由は?」

ここでスタックします。
それでいいのです。
日本で「フツー」の学生生活を送ってきた人なら、このような問いに答えるだけの経験をしていないと感じるのが当然ですし、考えたこともなかったというのが一般的なのですから。とても幸運なる育ちをしてきた人といえるでしょう。あるいは、エンパワメントされうる存在として考えた事がないほど辛い人生だった…ということかもしれません。

「途上国の女性、あるいは貧困者のエンパワメント」
の問題に惹かれるものの、何故自分がそのテーマに無性に惹かれるのか分からない日本の女学生は非常に多いです。それらの人たちは、自分は「良い立場にいて」、「エンパワーされなければならないのは自分ではなく彼女たちだ」という前提があります。

その論理の底辺に重要な役割を果たすのが、「経済的な貧困」です。1日1ドル(1.2とか1.5とか2とか)以下で暮らす人びとである以上、これは「エンパワー」された状態とはいえず、だから経済成長による「エンパワメント」が必要だ、と…。(この論理の飛躍については、さすがにあまりないと思っていましたが、最近国際開発分野の博士後期課程の学生の書いたものを読んで、さすがに驚いたため、一応書いておきます)

多くの善良なる日本の若者が、アジアアフリカラテンアメリカの「貧困」問題に関心を寄せ、「貧困者のエンワメント」のために、自分が何かしなければ!と考えていることは、素晴らしいことです。私もかつてそうでした。その想いが、世界の中でも所謂「途上国」にばかり足を運ぶ契機となりました。

しかし、そこで私が気づいたことは、「他者のエンパワメント」を語るには、「deprived(権利剥奪/デパワーされている)状態」を理解しなければならない・・・つまり、その人を取り巻く社会政治経済構造を掴む必要がある、そしてそれは多くの場合不可視化されており、かつ文化・慣習によって本人自身がそれを甘受している状態にある・・・ということでした。そして、その論理でみていったときに、日本の私たちが、果たして「エンパワーされた状態」といえるのか、そもそも自分たちの置かれた政治社会経済の構造下の状況を、「剥奪」と呼ばないまでもどこまで理解しているか…という問いに打ち当たりました。

つまり、フレイレが書いているように、「意識化」(気づき)の問題、つまりは「剥奪されている状態」の構造的な把握と、それを変革せんとする意思を抜きに、エンパワメントは語れないのです。

日本語の「意識化」では、これが上手く伝わりません。
かといって、ポルトガル語さらに意味が伝わりません。
自分なりの言葉で補うならば、
「自己の考え・生活に内包されてしまった社会的・政治的・経済的な構造や矛盾を理解し、それらの構造を変える変革主体として目覚めること」
とでもいいましょうか・・・・。
私も、もう少し考えてみます。

おそらく、私が個人として「世界に出て行って、困っている人を救う」ぐらいの勢いでいたのが(恥ずかしい…)、ガラリと変わったのは、1991年のブラジル・サンパウロのスラムでのHIV/エイズと共に生きる人びとと過ごしたボランティア活動の経験によってでしょう。

今から思えば、本が出て未だ22年しか経っていない時期で、民政への以降直後で、すでにフレイレはブラジルに戻ってきていました。サンパウロ市政は、極めて革新的で、フレイレも教育長を務めましたが、保健衛生分やでは感染者・患者の主権に沿った行政を展開しようとしていました。それを促すだけの市民の運動があったのです。

その後、予算配分を住民が決める方針など、住民主権や自治体の「自治」等先駆的な政策がブラジルの一部の都市で展開していき、最初の世界社会フォーラムをホストするなど、ブラジルの市民・社会運動は、世界的に大きな役割を果たして行くことになりますが、私は本当に偶然にも、ただ「途上国での生活をしたい」&「ポルトガル語が使われている国に留学したい」という単純な理由で、ブラジルに行き当たり、そして民政後の躍動するブラジル社会の様子に触れることが出来たのでした。

ブラジルには、私の居場所がないことを知って、一抹の寂しさを覚えたことは事実ですが、他方でなんともいえない感動を感じました。勿論、当時も今でもブラジルに問題は山積していますが、ブラジル人が解決するだけの主体として既に立ち現れていたし、それが試行錯誤の長い道のりだとしても前に進んでいくものと思われ、そこに私が果たせる役割はないな、と思いました。(勿論、実際は違ったかもしれませんが)

私は、学生たちが大学の有償化政策に反対して行ったデモに参加した時に、特にそれを感じました。言ってること、掲げているプラカードは限りなくラディカルなのに、まったくカーニバルのようなお祭りっぽい、楽しい様子で、老若男女が歩いているのです。勿論、皆がリズムを様々な楽器や即席楽器(コカコーラの瓶や缶を棒やナイフで叩く)で刻み、繰り返し繰り返しシュプレヒコールをしながら練り歩く。

日本でも、原発反対のデモでも当たり前になったあの光景は、1991年のブラジルで既に日常でした。

それを、経済的な成長の成果だ、という人がいます。
日本の援助のお陰だ、とも。
しかし、労働党政権が2003年以来政権の座についている事実を、表面上で理解するとしても、社会に通底する主権意識の定着(意識化/エンパワメントの成果)抜きに、今のブラジル政治・社会は語れないと思います。
そして、その点において、日本の官民がブラジルにしたことは、多くはないこと、時に軍事政権側についていたことを、忘れるべきでもないでしょう。

サンパウロのスラムの集会所で寝泊まりしていた時、そこが集会所であるが故に、あらゆる人がやってきて私と話をするわけですが、いつも彼らは「お前はどう思うんだ?」と聞いてきました。勿論、米国やヨーロッパに行っても、同様の質問をされます。しかし、決定的に違ったのは、その先があったということです。
「お前は、どういう経験から、そういってるんだ?」

当時、20歳か21才でしたが、その言葉に答えるだけの経験など持っておらず、彼らの過酷な人生に比べれば、取るに足らない経験ばかりで、なんと答えていいやら・・・でも、彼らがいわんとしていたのは、経験の過酷度のことではなく、「私が、何故そのように考えるに至ったのか?」という「社会の中で生きる主体としての私の気づき」を問いたくてのことだった、と後々気づきました。

そこから私は、学術的な論文でも、「it is said」を使うのをやめました。そうやって容易な手法に逃げるのを。
「私の言葉」で語ることを、そしてそのために、「私としての経験」を紡いでいくことを、していこうとしました。そして、サンパウロで目の当たりにした、HIV/エイズと共に生きる人びとが、それまで家族・社会・自分自身から疎外され、隠れて生きていたのを、自ら起ち上がり、互いに連帯し、他の人びとと連帯していくプロセスの中で、社会政治を変え、社会全体に夢と希望を与えたプロセスを、決して忘れないようにしようと思ったのです。

これらの当事者運動が様々に勃興し、連帯し、ブラジル社会と政治を変えて行くプロセスがありました。しかし、為政者となった運動主体たちが、どうなっていくのかは、ブラジルでも南アフリカでも、今鋭く問われていますが、それに対抗する運動もまた過去の経験を踏み台に新たに始まっていくのだな、と思う毎日です。

フレイレの実践と本がこれらにどの程度、直接・間接的な影響を及ぼしていたか・・・については、私は十分知りません。ただいえることは、1960年代という重要な画期に、彼が行った様々な実践や本を通じての共有がなければ、ブラジルだけでなく世界の多くの人びとの「エンパワメント」は、もっと時間がかかり、もっと違ったものになった可能性があると思います。

しかし、そのような恩恵について、日本の私たちが十分それを自らのものにしようとしたか、というとここは疑問です。今でも、「エンパワメント」という言葉が、カタカナ以外で置き換えられないように、「意識化」がどうしても「内面的な気づき」に終始した理解で限定されてしまうように、私たちは依然として、「フレイレ前/解放の神学の前のブラジル」と同じ状態にあるといっても過言ではないかもしれません。

その意味で、1日1ドルの「貧困者」が、個人として1日3ドルの収入を得るようになったからといって、「エンパワーされた」といわないことについて理解されないこと、「政治」を抜いたところで貧困と開発の問題を語りたがる日本の関係者の存在は、不思議な事でも何でもないのです。

アフリカの農民組織を、「政治目的のアソシエーション」ではなく「経済理由での結合のコーペラティブに昇華させるのが援助の役割」とおせっかいを焼きたい日本の善良なる援助関係者の皆さんは、フレイレ後に生きる南の農民たちの「意識化」「エンパワメント」の試行錯誤をまったく理解していないばかりか、それを阻害している現実すら見えないことを露呈させています。これは、アフリカ諸国の為政者らにとって、とりわけ農民運動によって権力の座に押し上げてもらったいくつかのアフリカ政権にとって、とても都合の良い事であることもまた、おそらく理解せぬまま、「アフリカ政府(農業省)の要請による、政策による」といって、お墨付きを得た援助と主張されることでしょう。他方のアフリカのいくつかの国の権力者にとっては、口うるさい、しかし人数の多い農民組織を分断し、「デパワー」するために、これら「善良なる援助者らのおせっかい」を利用せんと、「経済だけが目的の農民の結合体」づくりをもっともらしく掲げ、それにカネまでも出させるという試みをやっている訳ですが…。

政府がやることは「政治抜きのこと」であって、政府のやっていることに反対することは「政治」と考える日本では、到底エンパワメントを本当の意味で理解する日はこない可能性があるわけですが、エンパワメントを本当の意味で理解する若者が一人でも増え、自らの社会の変革に取り組む糧となれば、と以下本を紹介します。
(前置きがエライ長くてごめん・・・まあいつものことだが)

が、忠告。
本を図書館で借りる、あるいは買って、全文読んで下さい。
あくまでも、気づいた点の抜粋です。

この本の章を紹介します。
序章
第1章:「被抑圧者の教育学」を書いた理由
第2章:抑圧のツールとしての"銀行型"教育
第3章:対話性について
    ー自由の実践としての教育の本質
第4章:反ー対話の理論


みて分かる通り、ドンドン手強くなっていくのが分かるかと思います。
なので、全部を一度に紹介するのは・・・断念しました。
まだ本調子でない私には、荷が重すぎますので。。。。

今日は、前章の説明をしており、そこで終わりにします。
なお、三砂先生の訳は間違いなくすばらしのですが、やや伝わりづらい点があるので、所々補足を()で入れています。特に、ポルトガル語は主語を省きがちなので日本語と同じなんですが、こういう場合は補足した方が読み手に読みやすいので、いちいち補足しています。

(10頁)
自由への怖れをもっている人の多くは、その怖れを意識しておらず、そんなものは存在しない、として直視しない。心の底で自由を怖れている人は、危険な自由よりも日々の安定に隠れようとする。

しかし、実際には、(…)巧妙なやり方で、無意識のうちに、この自由の恐怖をカモフラージュしてしまう傾向のほうがむしろ強くなっている。(ある人たちは、)自由を擁護するふりをして、自由を怖れないかのようにとりつくろい、作為的な言葉を広げていく。

こういった人たちは・・・自由の守り手であるかのような、深くまじめな雰囲気(を醸し出す)。こうなると、自由というものが、現状維持(されるべきもの)ということに見えてしまう。

だから意識化というプロセスを通じて、(この)現状維持に(は)問題がある、ということが議論され(始め)るようになると、(これらの人たちによって)本来(真の意味で)の自由はつぶされ始める。


この後、セクト主義や狂信性の問題が延々と続きます。
恐らく、全共闘時代の方々でも嫌気がさしてしまうような記述の仕方かもしれません。
しかし、今の日本で何らかの運動や活動をしている人たちには、是非読んでほしいです。これは、所謂「左」でも「右」でも、宗教でも同じです。

もう一点、注意してほしいのは、フレイレが「ラディカル」という言葉を使っている点です。
これを「過激派」と間違って捉えられる危険が出ているので、あえて書いていますが、ここでいうラディカルは「根本的な理解に基づいた革新的な行動」というニュアンスのもので、もっと広がりのあるポジティブなものです。訳が難しいので、三砂先生も「ラディカル」のままで記載されています。

決して、「過激派思想」と混同しないように!それを避けるために、延々とセクト主義批判が展開されています。一点だけ、手がかりになる文章があるので引用しておきます。

(12頁)
セクト主義は狂信性に基づいていて、結局いつも人間の思考を骨抜きにしてしまう。
ラディカルであるといことはセクト主義とは違う。
ラディカルであることは、常に批判されることを怖れず、批判によってより成長していくものだから、創造的(クリエイティブ)なプロセスである。


セクト主義は神話的ともいえる内向きの論理で構成されるため、人間を疎外していく。
ラディカルであることは批判的であることだから、人間を自由に解放する。
自由とは、人間が自ら選んでそこに根をもち、はっきりとした客観的な現実を変革するための努力をし、その状況により深くコミットして行くことではないだろうか?


私は、ここのこの本でフレイレが言いたいことの多くが含まれていると思います。

(15頁)
(右であれ左であれセクト主義は)未来を立ち上げるどころか、両者ともに「安全なサークル」に閉じこもり、そこから外に踏み出すこともなく、自分なりの真理に安住してしまう。未来を作り上げるために闘い、未来の構築のリスクを負う、といった真理とは違う。


最後のメッセージが、私は好きです。
1968年秋に亡命先のチリ・サンチアゴで書かれた序章ですが、今特に街角に出ようかどうか迷ている若い皆さんに読んでもらいたい文章です。

(16頁)
世界と対峙することを怖れないこと。
世界で起こっていることに耳を澄ます事を怖れないこと。

世界で表面的に生起していることの化けの皮を剥ぐことを怖れないこと。

人びとと出会うことを怖れないこと。
対話することを怖れないこと。
対話によって双方がより成長することができること。

自分が歴史を動かしていると考えたり、人間(他者)を支配できると考えたり、あるいは逆の意味で自分こそが抑圧されている人たちの解放者になれる、と考えたりしないこと。

歴史のうちにあることを感じ、コミットメントをもち、人びととともに闘う。

そういうことだけだと思う。


もう一冊どうしても紹介したい本があるので、フレイレ本の紹介(その1)はここまでです。
では、またいつか、次を・・・。



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# by africa_class | 2015-11-16 02:45 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

デモから熱意をもって学び始めた若者から学ぶ秋

先月、オランダの研究所で博士候補の学生たち(といっても世界中からきた活動家兼院生たちで、皆相当の年齢だが…)を前にレクチャーした後に案の定体調を崩してしまい、さらにお客さんラッシュと農繁期に突入したところで、突然7匹のネコのママになってしまい、そこに今度はいくつかの研究所からのインタビューとブラジルの大学院の学位論文審査も重なり、バタバタとする毎日だった。

この1ヶ月書こうと思って書き始めて終わらなかったことを、勢いにのせて終わらせようと思う。家族が釣りにいっているこの隙に…。

それにしても、久しぶりに研究所や大学院で先生達や学生たちと触れ合って、「研究」の空気を吸って、「ああ私は本当に研究が好き(だったん)だなあ」と実感する日々である。

***

安保関連法案を巡る攻防が佳境のある日、
教え子からメッセージがきた。

卒業後も関わることの多い彼らだけれど、彼らからのメッセージはいつも心に温かな何かを灯してくれる。そういう時、「大学の先生」をさせてもらったことに感謝の気持ちで一杯になる。子育てもそうだが、彼女ら・彼らの人生のある一瞬を、密度濃く、互いに悩みな がら関わらせてもらえたこと(もらえること)に、有り難さでいっぱいだ。親が、先生が「育てる」のではない。「共に育つ」のだ。親として、先生として、育 ててもらった。依然として足りないままだけれど、確実に彼女・彼らに育ててもらったと実感する毎日だ。

他方、正直にいってしまえば、在学中私はどこかで学生たち(ゼミや外大だけを意味せず日本の他の大学も含む)の社会・政治に対する「受け身」な姿勢に少しばかり残念な感じをいつも持っていた。それ以前に、同業者であった大学の先生や研究者に対しても同じがっかり感を持っていた。

世界・社会の一員として、世界・社会問題や政治にどっぷり浸かりながら、研究や活動をする世界の若者や研究者と交流する機会が多いこともあって、この「断絶感」が腑に落ちなかった。(多分、あまりロールモデルが身近にいないせいもあると思うので、今度世界の"Activist-Scholar[アクティビスト研究者]"について取り上げる)

しかし、多くの人は誤解していたと思うが、そしてこのブログでも度々書いてきたが、私は教室で活動の話をしたことはない。デモや抗議活動に学生を誘ったこともない。あくまでもブログやツイッターで、「ただの一人」としてしかやらないことを鉄則としていた。勿論、イベントの手伝い等は誘ったけれど、あくまでも機会としてであり、講演会等にきて話を聞いて自分で考えてほしいためであった。

自分で気づく。
自分で考える。
自分で行動する。

他人の押しつけや、煽動であってはいけない。

それではまったく意味がない。
本当に意味がない。

だから「主張」ではなく、「問い」を投げかけなければならない。


それにしたって、日本がこんなに社会としても国家としても大変な状況に陥っているのに、どこか「ひと事」な同僚や学生たちを前に、正直なところあきらめ感を抱いていたことも事実だった。「このままいくと大変なことになる」…そう気づいて何年も何年も警鐘をならし続けたのだが、「政治」は遠いところのことで、それに関わることは「中立でなくなる=偏ること/面倒なことになること」という前提は強固だった。

(*日本政府や日本の人がやたら使いたがる「中立」という言葉の問題は、また別のところで。世界的には、「中立性」よりも「公平性」が重要であること、時に「中立性」は被害者を犠牲にすることをどこかで書かなければならないと思っている。)

「皆が気づいた時には遅い」

それが、戦前の日本でも、ナチスが台頭したドイツでも、歴史が私たちに教えてくれたことであり、せめて「学びの館」にいる我々ぐらいは、誰よりも早く気づき、論じ、考え、行動すべきと思っていた。しかし、日本的な同調圧力の強さ、あまりにも影響を受けやすい脆弱な学生を前に、あるいは活動をしながら研究・教育をしているが故に、あえて学会や学内で、踏み込むことは避けた自分がいた。

いや、他の人からみたら「相当踏み込んでいる」ように見えただろうし、実際のところ、学内・学会内で「出る杭」をかって出てはいた。その結果として改善したこともあったし、変わった人もいたし、沢山のリパーカッション(「打たれる」)も受けた。でも、それらのフィールドで、私の主体的な判断として、そこまで踏み込んだわけではなかった。社会活動・運動は別であるが。

学生に対しては、「踏み込む」ことはあえて避けて、私のどうしようもない試行錯誤な「背中をみて」、何か疑問に思って考えるきっかけになればいいな・・・とは思っていた。つまり、「先生アホやな・・・黙っておけば得するのに」とか、「街頭に立って声あげる暇あれば、論文の一つでも書けばいいのに」とか。「先生のアホさ加減」に反発し、疑問に思ってくれれば、これ幸いと思っていた。そして、それが「いま」の気づきにならなくても、「いつか」自分が社会の中で、国家の中で、困ったことに出会った時に考えるきっかけになれば…そう思った。

正直にもう一つ書くと、日本の大学と学術界から一旦身を引いたのは、自分の体調やその他のこともあるけれど、この一方的で身勝手な「がっかり感」からきていた。これは社会に対しても同じだった。「じゃあもっと頑張って変えればいいじゃない」…という20代、30代を突っ走って来た。しかし、心身ともにそれに疲れたのだと思う。

でも、私は間違っていた。
そして、私の浅はかな、勝手な、愚かな考えを、今詫びたいと思う。

これまた1年生の時からもう9年近くつき合ってきた卒業生からのメッセージ。彼は、本当に真面目に勉強に取り組む学生で、いつも一番前の席にいて、質問はしないものの鋭い答案やレポートをいつも提出していた。でもあまりに真面目なんで(すまん)、アフリカに独りで武者修行に行ってとても変わった。率先して皆の面倒をみて(including me)、あれやこれやのイベントを的確に仕切ってくれた。意識がすごく高い学生であったが、でも社会に飛び込む…という点では二の足を踏んでいる感があった。卒業後は、大企業で「フツーのサラリーマン」をしている彼。その彼からの先月のメッセージ。

**
仕事と並行して国会前のデモ活動などにも参加しています。何年か前、舩田先生の家で一晩中話していたことが急速に現実のものとなっていく様子に底知れない恐 ろしいものを感じます。

民主主義とは何か、憲法とは何か、政治とは何か、いかにして生きるか、まさか卒業してから卒論を書いている時以上の熱意で勉強をす ることになるとは思いもしませんでした。

毎日のように流れてくる本当に子供じみた政治関連のニュース(報道されないことのほうが重要になってきましたが) を見るにつれ、自分が生きている社会が如何に未熟なのかを見せつけられて悲しくなります。

ただ、足元のこの社会を変えていく、自分が変わることを諦めるつ もりはありません。なにかわからない大きな力に勝つ方法はわかりませんが、負けない方法は大学時代に教わりました。

学ぶこと、学び合うこと、相手に敬意を 払うこと、語り合うこと、それがゼミの仲間以外とも少しづつですができるようになってきました。また、先生ともお話ししたいです。」
**

なぜ私が詫びているかは、もう分かったと思う。

あわせて、「デモを怖い」「デモなんてやっても変わらない」といっていた若者が変わっていった様子をまとめたとても良い番組を見つけたので、ぜひご視聴を。

■2015年10月11日

「デモなんて」 SEALDsの若者たち/テレメンタリー2015

http://www.at-douga.com/?p=14722

なお、私のところには、「アフリカで社会的起業をしたい」という若者が沢山相談にきたし、実際元ゼミ生の多くもそれをしようと考えているが、彼らのいう「社会」とは、「社会問題」とは一体なんなのか?いつも疑問に思わざるを得なかった。

彼らの頭の中には、「世界/アフリカの貧しい人びと・子どもをビジネスでWin-Winに救いたい」というイメージが強烈にあるのだが、彼らの考える「貧しさ」とは一体何なのかいつも疑問に感じていた。それは、自分の社会の闇にきちんと向き合って得たものではなく、どこか表面的な「どこか誰かの貧しさ」というイメージに振り回されたもののように思えたからだ。そのようなイメージの中で行動する自分もまた、イメージにすぎない。自分の社会の中の闇に向き合うことなしに、その闇と自分との関係を考え・直接的な意味で感じることなしに、どうやって他の社会の闇に主体的に関われるのか?…厳しいようだが、そして今の私がいう権利などないが、かつて「アフリカでの社会的起業」を奨励していた私である以上、書いておかねばならない。

自分の社会で「貧しさ」を考える気はさらさらないのに、「アフリカの貧しさをなんとかするために国際協力したい」という日本の若者が多いことにびっくりする。しかし、実はこれは若者に限らない。「開発の専門家」によくある姿勢だし、「国際開発の研究者」にも同様である。

彼らの眼差しには、「6人に1人の子どもが貧困」状態にある衝撃的な日本の現実は見えないようである。あるいは、地方開発の象徴だった原発が爆発しても、依然として汚染水を地域に地球に垂れ流し続け、「除染」という名の「移染」による廃棄物が積み上がったままでも、子どもの被ばくが放置されても、生活が困窮化する避難者がいても、教訓を学ばないまま原発が再稼働されても、「日本型開発モデル/ガバナンスモデル」は「成功」だとして、検証なしに「国際協力」し続けようという。

ルワンダの虐殺には関心があるのに、日本軍による中国での大量殺戮についてはまったく関心がない。アフリカにおける戦争と平和・平和構築には関心があるのに、日本・沖縄における戦争と平和・平和構築には関心がない。一体私たちは、「どこの誰として」余所の殺戮・戦争・暴力・平和と関わろうとしているのか?

そんな問いに、同業者からも、学生たちからも、たいした反応はなかった。

でも…原発事故の後、若者たちは静かに、悩みながら、深く深く考えていたのだ。私を含む大人達が知覚すらし得ないところで。自ら表明することなく、疑問をあきらめることなく、じっくり考え、社会と政治のあり方を見つめ、大人達を見つめ、そして立ち上がった。

ごめんね。
私もやっぱり「上から目線」でしかなかった。

また、研究者の中には、60年代末から70年代の学生運動に関わった人も多く、だからこそ距離をおいてきたことも事実だろう。それでも、研究者たちも、土壇場で立ち上がった。

私もまた、目で見えるものだけを前提にしていたのかもしれない。
自分の奢ったものの見方を反省するところひとしきりである。


まだ立ち上がっていない若者や研究者の方が勿論多い。
それは、今後もそうだろう。
でも、最前線のすぐ横で眺めていた人びとが立ち上がったことは、最近の日本では非常に珍しいことであり、かつこの末期的な状態の中では大きなことだと思う。

なお、以上のメッセージの中にある「一晩中話したことが現実化する」とは、卒業生たちが泊まりにきたある晩に、即興で一つの短編小説を口述した話のこと。

実は、現実の方がファンタジー化しているために、現実の危機を説明するには、ファンタジーを使った方が良いというのがここ数年の私の結論であった。息子の誕生以来、絵本を読むかわりに、夜な夜な即興で物語を作って聞かせたが、いつも息子は話し始めて数分で寝てしまうので、unfinishedな話ばかり…。しかも、自分も寝落ちしてしまうので、話を覚えておらず、翌日また別の物語を始めてしまう。それと同じ要領で(?)、帰る電車やバスがなくなって泊まっていった卒業生たちと話しながら、即興である物語を紡いだ。

(*なお、私は文章を書く際には二通りのやり方をする。このブログの駄文のように、書きながら考える手法。もう一つは、頭で全体を「書いて」しまってからテキスト化する手法。博士論文は妊娠・産後の最中でPCにまったく向かえなかったので、後者の手法で(この手法は、家族でも自分の目で見る迄意味が分からないらしい…が、見たらなるほどな手法)。この夜は、その折衷バージョンだった。)

その時、集った卒業生たちは「社会ムーブメント」について議論していた。なので、意地悪くも、「社会ムーブメント」がどのような可能性と限界をもっているのか、権力がそれをどう怖れて、どう壊していこうとするのか、その結果何が起こるのか…をその場にいた人たちを登場人物として一気に物語った。

舞台は「ブッククラブ」。
そこに集う6人の若者男女。

日本の歴史を振り返り、社会や人びとのあり方を考えた時に、大きな組織・運動では、運動が進むにつれて主義主張が交錯し分裂してしまうか、権力側に一気に悪用されてしまうので、一人ひとりの気づきと自立&そのような人同士のオープンな連帯(一極集中ではなく、分散型の多種多様な自発的な運動の緩やかなネットワーク)を育むことが必要…ということで、日本の皆が不勉強すぎることもあり「ブッククラブ運動」をすればいいよ、というところから話を始めた。

そして、「でも…」というところから、ファンタジーになっていった…。

いつかちゃんとテキストに落とさないといけないのだけれど、現実がすでに前にいっているので、まあいっか。面白いことに、同じ趣旨で、アンゴラでブッククラブについて分析する記事が出た。

Daily Maverick(南ア)
「分析:アンゴラの政権に脅威をもたらすブッククラブ」

"Analysis: The book club that terrified the Angolan regime"

http://www.dailymaverick.co.za/article/2015-06-25-analysis-the-book-club-that-terrified-the-angolan-regime/#.Vhnvyc55mKJ
Question: How subversive can a book club really be? Answer: It depends on the fragility of your regime. If you are Jose Eduardo dos Santos, then it’s a very subversive hobby indeed. Guns don’t scare the Angolan president – his are bigger anyway – but ideas are a much more dangerous proposition in a state that rests on such precarious foundations. By SIMON ALLISON.

そう。
独裁はブッククラブ的運動は怖いのだ。

でも、権力側による外から中からの破壊・分断、自らの内部崩壊もまた、歴史が教えてくれる教訓。一人ひとりが解放され、気づき、考え、行動できる・・・日本社会では今まで十分には重視されてこなかったし実践されてこなかった「市民になること」を、ここで手にできるか否かが、日本の現在と未来の分岐点となるだろう。

それに気づき、動いている若者・同僚たちに、心からのエールとお詫びを。
前から書いて途中になっている、フレイレの『被抑圧者の教育学』についてそろそろ本格的に書きたい。

そして、若者の不安と解放については、昨日の投稿を。

「今日結婚するメグミちゃん&みなへのメッセージ:脱「草の根ファシズム」のヒントとして」

http://afriqclass.exblog.jp/21727201

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# by africa_class | 2015-10-11 19:19 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

今日結婚するメグミちゃん&みなへのメッセージ:脱「草の根ファシズム」のヒントとして


この週末、メグミルクが結婚するという。

卒業式で素肌にマサイの毛布をまとって卒業証書をもらったメグミちゃん。北海道で高校の先生をしている。
「先生、天職です!毎日幸せです!」
そんなメールをいつかくれた。心の底から嬉しかった。

メグミちゃんは、高校生の時訪れたケニアのスラムで、大変な生活の中でも、子どもたちが笑顔だったことがあまりに衝撃で、「なぜ笑顔なのか?」を問いとして抱いたままゼミにきた。

その子どもたちの「笑顔」は心からのものか?
たまたま出会った子どもたちだけがそうだったのか?
訪問先に秘密があるのか?
訪問の仕方(間に入った人)との関係は?
そもそも「笑顔」とは何か?
誰がそれを「笑顔」と定義するのか?

きりのない突っ込みは可能だけれど、そして本人にも誰にも言わなかったけれど、その問いはすごく良いものだと思った。卒論テーマとして学問的に良いと思ったのではない。学術的には上記のように前提を特定していく必要があって、社会か学的に追求するには困難な問いである。でも、一年生の時からずっとこれを唱えてきた彼女に4年目の夏がきても異論を口にすることはなかった。

(そもそも、学生のテーマ選択は本当に自由。ここに口を挟むのは絶対にやってはいけない。勿論変えた方が良いテーマであることは多い。でも、変更もまた学生の選択であって、大げさかもしれないけれど彼女ら・彼らの一生に関わることである以上、そこは重要。これは執筆途中の大学1年生向けの本で詳しく説明したい。いつか…)

なぜか?
私には、その問いが彼女の人生の中で、あるいは彼女と共に教室にいる学生たちの人生にとって、とても重要な問いに思えたからだ。そして、この社会が切実に必要としている観点が含まれている。何より、私がゼミでやろうとしていたことと、実はとても合致していた。

そして、メグミちゃんは、卒論を通してというよりも、その問いと、彼女がその問いを発するに至った背景と、そしてそれを乗り越えようとする前向きな姿勢によって、自分と周りを解放していった。「解放」という言葉が、この点についてはとてもしっくりくる。結局は、これは「自己と他者の解放」の話なのだ。

私のゼミにはなぜか「何か」を抱えた学生たちが集う傾向があった。
ただ明るいのではない。
ただ「良い子」なのではない。
ただ斜めにみているのではない。
表面でみえるものとは別の「何か」…を抱えた若者たち。

考えてみれば、ゼミ生だけでなかった。
今の日本の若者というのは、そういうものなのかもしれない。「何か」を抱えながら、迷いながら、右往左往しながら、しかし、表面上は「フツーの若者」らしくふるまっている。あるいは、いつの時代もそうなのかもしれない。

ただ、今の若者は、中学校の窓ガラスが、先輩たちが投げた机で破れていた…なんて時代のすぐ後に中学校に入った私たち、あるいはバブル最後の時期でイケイケドンドンな時代の空気を吸った者たちとは、何かが違っている。昭和なお父さん、おじいちゃんが鎮座した「イエ」が押し付ける規範としがらみを、肌で感じ、覚えている世代と、現在の若者とは何がが。

一見無限の「自由」の中の不自由さや古びた拘束力と、たった独りで内面において闘うことを余儀なくされた若者たちの、苦しさ。誰に対しても、親はもとより、「友達」とも本音を語らないことが当たり前となった彼ら。

若い人たちが自分の本音を友人たちにも語らなくなったのはいつからなのだろう?
「いじめ」は誰の身にも、いつでも、起こりえる。
そんな不安が、若者たちが自分の本当の考え・想いすら隠してしまうほどに、それ故に無関心・無気力にさせてしまうほどに至ったのは、いつからのことだろう。

みな、どこか悲しい目をしていた。
そして、不安そうな目を。
自信満々にみえても。
何かを暴かれるのを怖れているような、そんな目を。

大学に着任して3年目。
私は、ゼミで学問を「教える」のを止めた。
手順は教える。
書いたものを学問的に批評する。
しかし、ゼミの機能として、「場」の創造を優先させようと決意した。

そのことは既に何度も書いた。
書いてなかったことは、「新しいソーシャルネットワークの場」あるいは「社会関係資本を育む(あるいは実感してみる)場」としての試行錯誤の部分について。

勿論、そういう「場」が苦手な学生も多く、違和感をもったまま、あるいは嫌な思いを抱いて卒業していった学生もいただろう。勿論、ゼミに入る前から何度も説明し、「このゼミには入らなくていい」と宣伝し、すでにゼミ生になっている人たちに相談するように提案してきた。それでも、あうあわない…はあるので、そこの部分は完全には私の責任というわけではないが、ある種実験的な部分があったのは事実で、その点では申し訳なかった。

ゼミではすべてをpeer(相互)にやることを前提とした。
言うは易し、機能させるには横軸と縦軸がうまく噛み合ないといけない。その意味では、初期のゼミ生たちの頑張りがなければ本当の意味でネットワークとして機能しなかったろう。

それでも一声かけなければならない場面は当然沢山あった。
毎年繰り返し言った言葉。
それは、他でもない、「頼ることを覚えること」であった。
そのことが「自分を「解放」してくれるだろう」ということ。

実は、日本のどの年代の人にも言えることだが、「信頼関係」「助け合いの関係」を想定する場合、自分は「助けてあげなければならない主体」であって、「助けられる側」とは考えない傾向が強い。ある時期、なぜか各地の「市民大学」(多くの場合9割方退職された方々の集い…)に呼ばれることが多く、そこでの社会関係資本を数える参加型ワークでも確認したが、受講生の圧倒的多数が「〜してあげる」「手伝ってあげる」という言葉や行動については思い至るが、では「自分が頼る側である」という意識は希薄で、「頼れる人」をカウントしてもらったら極端に少なかった。

究極的には、「他人/親戚に頼るぐらいだったら我慢する/お金を払ってでも/死んだ方がまし」ぐらいの勢いなのだ。これは、老若男女そうだった。頼る先も、若者も年配者も直系、一等(二等)親まで。「迷惑をかけたくない」「面倒をかけたくない」…そういう方があまりに多かった。

社会がそういう人ばかりだとどうなるか?
「頼り頼られる助け合い、信頼関係」など夢のまた夢。
義務かおつきあいでしか、関係ができない。

となるどどうなるか?
つまり、「ボーリングを一人でする」ことになる。
社会関係資本(ソーシャルキャピタル)論の創設者ロバート・パットナムいわく、「コミュニティの崩壊」、そして「草の根民主主義の衰退」である。
(このことは、また別の機会に書きたい。)

そして、不安のままの孤立は、自信喪失と他者への不信を生み出し、自己解放からも遠ざけ、かたくなな自分を作り出す。それは、いつかの日本の「草の根ファシズム」を再び出現させるだろう。

そして、それを喜んで創出・悪用するのは、あの時も現在も、豊かな民主主義の土壌を育むことなどまったく求めていないどころか、それを自分たちの収奪のために潰すことを厭わない権力者たちなのだ。翼賛体制を再び構築するのに好都合な社会が、不安と相互不信、疎外の中で生み出されている。

だから、権力者らのこのような悪巧みを乗り越え、一人ひとりが自分として解放され、互いを支え合い主体的によい社会にしていくためには、「自分の殻を破って頼ってみること」が必要なのだ。

しかし、「頼ること」は難しい。
「頼られる人になること」よりも。

実はこれは重要なポイントだと今でも思っている。何故なら、「頼られる人/頼りがいのある人になろう」とすることは、道徳的にも社会的規範としても教わる。だから、少々無理すればできる。でも、「頼ること」を奨励する場面はほとんどなく、「頼ること」を普通にあるいは奨励してくれるようなロールモデルもいない。したがって、多くの人が「頼り方」を知らない!(そういう私もそうだったが…)

だから、多くの日本の人にとって、「頼ってみる」「自分を投げ出してみる」・・・ことが何より未知の世界であり、考えが及ばず、やり方も分からず、やろうとしても苦痛なだけの行為であった。

でも、頼ってみた経験がなければ、頼らられる(頼ってもらう)ことの意味は本当には理解できない。身を委ねたことがなければ、身を委ねる側の気持ちは分からず、だから身を委ねてもらうこともできない。「頼り頼られ」という言葉がさしているように、まずは「頼り」である。だから、「頼ってみて」・・・を繰り返し、繰り返し、言い続けた。それでも、頼れないでいる。それぐらい、「頼ってはいけない」という思い込みはパワフルなのだ。それでも、頼ることを体感しないまま卒業してしまった学生が、数年経って突然「頼る」宣言をして驚くこともあったので、「頼ること」の重要性は言い続けなければならないかもしれない。

ゼミは「野生動物保護区」と呼ぶほど多様な生態に満ちあふれていて、よくできたもので、必ず「おせっかいさん」的な学生が一人はいて、皆の面倒をよくみてくれる。だから、そのオーラがついつい頼ってしまう雰囲気を作り出すこともあり、でもそういう学生は学生で自分は頼れないでいることもあるため、そこも根深いものがある。

メグミちゃんの問いは、そのまま私がお金だけでは測れない資本である「社会関係資本」=「頼り頼られる関係」の価値を、体験としても、実験としても、学問としても、ゼミのみんなで共に考えるよい機会を提供してくれたと思う。留学に行く一人ひとりに歌を贈ってくれたメグミちゃんの「無限のgivingな心」の根っこにあった寂しさは、もう癒されただろうか。

人生の伴奏(走)者を得て、きっとこれからも沢山の歌を多くの人に届けてくれることと思う。そして、かつてのメグミちゃんたちのような気持ちを抱える沢山の若い人たちに、暖かい光を灯してくれることだろう。


メグミちゃん、おめでとう。
と同時に、すべての(元)学生に、おめでとう&ありがとうを。
(この記事は、メグミルクをねたにしているけれど、実際は一人ひとりに向けたものです)

若き日に頼ることを教えてくれたモザンビーク北部農村のママたちに、あわせて感謝したいと思う。

なお、最近30代に突入したという卒業生たちから立て続けにメールをもらった。

みんなで仕事や色々な悩みを話しました。抱えている問題は別々のようで、実は根本はなんだか同じなように思えてきました。これからどのように生きて行きたいかを、30代になった私たちは20代とは違う視点で考えるようになってきたのかなと思います。色々ありますが、大変な時もそのままの自分の姿を見せられる友人がアフリカゼミでできたことが嬉しいです。」

違った場所(時に国で)まったく異なる仕事や人生を歩んでいる卒業生たちが、こんな風におり触れて、本当の自分の姿で、自分の悩みや想いや希望を、語り合っている…ことは、本当に嬉しい。「大学」という場は、学問を探求する場でもあると同時に、やはり一生涯の仲間を育む場所でもあるのだということを、改めて感じている。

「人」は二人の人が背中合わせになって初めて「ひと」になる。一人で生きられないからこその人であり、社会であり、世界であり、地球であり、生命であるのだということを、紅葉深まるドイツの秋を眺めながら噛み締めたい。

「頼よる関係」…は自然との関係においてもそうだ。
現代において、人は自然を制服しているつもりかもしれないが、結局はどの大災害でも自然を前になす術がない現実を目の当たりにしている。自然が人を頼るのではなく、人が自然に頼っているのだ。そのことを一瞬足りとも忘れてはならないと思う。知らず知らずに頼っている自分を発見し、それを受け入れるところから、きっと本当の関係が見えてくるし、だからこそその関係を本当の意味で育むことができると思う。(ここは少し言葉足らずだけれど、今太陽が出て来たので畑仕事に!これにて失礼・・・)

最近の日本に再び蔓延しつつある「草の根ファシズム」が、本当の意味の「草の根民主主義」によって乗り越えるには、まずはこの一人ひとりの不安と孤立(疎外)を脱することが不可欠であって、そのためには信頼でき異論を唱え合える開かれた仲間同士の連帯へと向かっていかねばならないと思う。

その意味でも、みなの経験は希望なのだと知ってほしい。
そして、一人でも多くの人を巻き込んでいってほしい。
路上でがんばる若者たちが、こういうプロセスを経て連帯の力を得たことにエールを送りたい。
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(木こりのツレの置き土産があるが、それは気にせず…日陰はもう寒いので、太陽にあわせて薪割りの場所を移動しているのです)

本当は別のゼミ生のメッセージについて取り上げようと思っていたのだけれど、畑でこのことを思い出して先に書いておいた。続けて、別の学生のメッセージについて。
「デモから学んだ若者から学ぶ秋」
http://afriqclass.exblog.jp/21729533


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# by africa_class | 2015-10-10 22:49 | 【大学】アフリカゼミ(3・4年)

翁長知事の国連人権理事会でのスピーチ&日本政府代表の反論+所感(分析にかえて)

*注1(21日夕方):急いで3度ほど聞いただけで、訳したので間違っていたらすみません!録音があればもう少し正確に訳せるのですが…。
*注2:
self-determinationは、「自己決定権」ではなく、国際法上通常使われる「自決権」としています。ただ、沖縄の背景・現状・皆さんの想いにおいては「自己決定権」の方が良いでしょうが(詳細は末尾の「所感」、国連人権理事会総会という場の性格を考えると「自決権」であるべきなのでそう訳しました。またこの点は後日ブログで改めて書きます。
『沖縄の自己決定権』(新垣毅編、高文研)が出ているそうなのでご一読を。>
2015年2月16日の
沖縄国際大学でのフォーラム「道標(しるべ)求めて―沖縄の自己決定権を問う」の動画→http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-238976-storytopic-1.html>
*注3(21日夕方):両者の主張を聞いての私の所感は末尾に入れています。夕食を作りながらなのでまた明日見直します。
*注4(22日3時):私の所感に加筆。安倍政権・日本政府だけでなく、沖縄出身ではない我々の責任にも言及しました。
*注5(22日正午):英文や訳文が出てきました。録画と原文にそって修正すべき点を加筆(青色)しておきました。致命的な訳し間違えはなかったと思います。
*注6:なお、西洋語から日本語に同時通訳的に訳す場合と文章を翻訳する場合では、訳の手順が異なります。テキストの翻訳をする場合は、装飾部分を前にもってきて文章に統合する形で訳すと滑らかですが、同時に訳す場合は間に合わないので2つの文などに切り離して訳します。簡潔さを要求するビジネス英語では、日本語の装飾に次ぐ装飾満載の文章は嫌がられるので、通常においてもこれぐらい切っておくべきでしょう。が、ポルトガル語やフランス語となると日本語と似た状態になりますが。なので、以下は、あくまでも聞き書きの訳ということでこのままにしておきます。日本語文としては成熟さや美しさが欠けています。
*注7(24日午後):どうやら日本政府代表が、「人権理事会での取り扱いはなじまない」と理事会後に(日本のメディアに対して)表明していたようです。この点についての所感をさらに末尾に付け加えました。
また、国連人権理事会年次総会2日目に行われた「島ぐるみ会議」の再反論の全文も掲載しています。

【琉球新報】「人権と関係ないというのは本当に残念」 知事、政府に反論

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-249301-storytopic-3.html
*注8(同上):本日、翁長知事が、日本外国特派員協会で記者会見を行っており、日本政府代表の反論についてとてもまっとうで、私たちも学ぶべき事実や論点を披露されています。すべての方に視聴して頂ければと思うので、是非リンク先の動画をご覧下さい→https://www.youtube.com/watch?v=96Gtk9mqLqI
*注9(10月12日)このような話題・分析をより読みたい方は
例えば以下の投稿をご笑覧を。(外務省のサイトから「植民地支配」に関する記述が消えたそうなので、かなり確信犯だと思いますので、改めて分析をします)

「一括掲載:安倍首相談話の分析〜被抑圧者の視点を含む現代国際関係史からの考察」

http://afriqclass.exblog.jp/21548918/


【原典】
動画(沖縄タイムス):http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=133925
原文:http://www.okinawatimes.co.jp/photo_detail/?id=133924&pid=961964
訳文:http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=133924


【琉球新報】自己決定権、人権「しっかり伝えたい」 知事、国連演説へ

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-249216-storytopic-3.html
市民外交センターは国連登録NGO。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/peacetax/

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国連人権理事会 年次総会 2015年9月21日 ジュネーブ
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【翁長知事のスピーチ】
議長:次は市民外交センター

議長、ありがとうございます。
私は、翁長雄志、沖縄県知事です。
世界の皆さんに辺野古に関心を寄せてほしい。
沖縄の人びとは、その自決権を蔑ろにされている状態にある。
(この最後の2文はくっつけた方が良い)

第二次世界大戦後、米軍は我々の土地を武力で収用(強制的に接収)し、軍事基地を建設した。
我々は我々の土地を自らの意思で提供したことはない。

沖縄は、日本の0.6%の面積を占めるに過ぎないにもかかわらず、73.8%の米軍基地(在日米軍専用施設)が沖縄に集中する。
戦後70年、米軍基地は、多くの事件・事故を起こし、環境破壊をしてきた。
我々の自決権や人権が蔑ろにされてきた。
我々の国は、国民の自由、(平等が抜けてました)、人権と民主主主義を保証しておらず、そんな国がどうして他の国々と価値を共有できるだろうか。(<=大体あってたかな)

日本政府は現在、新しい基地を、辺野古に、美しい海を汚して(埋め立てて)でも建設(作業を強行)しようとしている。過去1年間、すべての選挙で沖縄の人びとは繰り返し基地建設に反対の意思を示してきたにもかかわらずである。

私は、この新しい基地建設に対し、あらゆる手法を使って阻止する所存(覚悟)である。

今日このような機会を頂き、話ができたことに感謝したい。

【日本政府代表からの反論】
日本政府代表として反論の権利を行使する。
市民外交センターを代表してスピーチした沖縄県知事の発言に反論する。

日本の政府にとって、国家の安全保障は、国民の平和な生活を維持する上で最も重要な課題である。安全保障を巡る状況が急激に深刻化している現在においては、特にそうである。

日本政府としては、米軍駐留による負担を軽減することは最優先課題である。米国政府との協力によって、いくつかの負担軽減策を取ってきた。例えば、今年3月、米軍の施設に使われていた土地51ヘクタールを返還した。また、日本政府は、沖縄の経済振興をするために、沖縄をアジアのハブとして位置づける努力もしている。また、日本政府は、沖縄県との間でハイレベル協議を設置し、この件について話し合ってきている。

米国海兵隊飛行場の普天間からの移設は、米軍の存在(抑止力)を継続的に保証する一方、それに関わるリスクを排除するため、唯一の解決策である。普天間基地は人口集中地にあるからである。

そして、この普天間基地からの移設計画は、歴代沖縄知事によって、1999年、2000年、2013年にエンドース(承認)されてきたものである。また、辺野古での基地建設のための許可は、仲井眞・前沖縄県知事から法的に合致する形で与えられたものである。日本政府は、今後も関連法・制度のもとに、この移設を適切に進めていく。

なお、移設にあたっては、自然・生活への環境インパクトを鑑み、環境インパクトアセスメントもしている。

日本政府は、今後も沖縄への十分な説明を継続していく所存である。

*録画がアップされたようです→https://www.youtube.com/watch?v=oceiZSnYLAc
夕食を作らねばならないのでこれにて失礼。後日正確な訳をアップします。


【両者の演説を聞いての所感】

日本政府代表の「反論」は、翁長知事のスピーチの根幹である「自決権」(「選挙で繰り返し示された民意」)の侵害について、一言も反論できておらず、日本政府が繰り返し国内でやっている説明を繰り返しただけで、国際的には通用しない文言が列挙されているに過ぎません。これでは、人権理事会に集う人権エキスパート達に、次のような印象を与えたと思います。

日本政府は、
「反論になっていない」=「翁長知事の主張をスルーした」
「沖縄の人びとの訴えに不誠実である」=「人権侵害の訴えに真剣に取り組もうとしていない」

具体的には例えば、以下のものです。
1)「負担低減やってる」
<=といって出て来たのは51ヘクタールの返還のみ。

2)「経済振興やってる」

<=これを自決権の反論として使うのであれば逆に人権エキスパート達の反感を買うでしょう。というのも、国連で「自決権」という言葉を使う場合は特にです。当然ながら、戦後の国連は「植民地支配」「他民族支配」「人種差別・隔離政策」に厳しく対応してきた過去があるので、「経済振興しているから自己決定権は後回しで良い」という論理は、コロニアルなものとして受け止められます。
*この場面では決して、決して、決して…触れてはならない言葉でした。

3)「対話してる」
<=じゃあ何故知事が市民社会枠を使ってまで、国連人権理事会総会で演説しなければならなかったのか?に応えておらず、日本政府の「自決権」に対する反論のなさを鑑みても、この「対話の無効性」を明確に示す結果となりました。
*私なら「対話してきたが」として反論材料にしますが。

4)「説明を継続する」
<=出た!…の感がありますが、問題は「説明」ではなく、相手(沖縄)の民意や自決権に対してどう対応していこうとするのか?という検討であって、一方的な感じが否めず、人権や対話の尊重ができていない国であることが逆に露呈してしまっています。

いずれも、「してやってる感」=「上から目線」が濃厚な反論ですね。

内向きな論理でしか反論もできない日本政府…あーーーあ。
この反論させられた外務省職員が翁長知事の言葉を受けて「自分の言葉」を語れないのは日本の外務省・政府のあり方の問題が根底にあるので気の毒ではありますが、国際社会の共感を呼ばない、あまりにも稚拙な反論だったと言えるでしょう。

あえて言えば、この日本政府の反論は、官邸との調整で先にカタマっていたものであり(文言の細部も含め)、その意味で、ベクトルの方向として、日本政府に向けたものであって、国際社会に向けたものではなかったといえると思います。(まあ、日本政府・外務省によくあるパターンですが)

一方、翁長知事の訴えは、かつて植民地支配された国々・人びと、人権を重視する国々・人びとの胸にきちんと届いたと思います。また、彼がジュネーブまできて訴えなければならなかったという事実、そして国連人権理事会の年次総会という場でこれが繰り広げられた時点で、「国際世論に訴えたい」という目的を持って演説に望んだ翁長知事やその周辺の勝利ともいえます。

<=誰でもいつでも話せる場ではないので。

そして、国際的には気づかれないだろうけれど、事情を知る者として「ああ日本政府・外務省らしく、本当に不誠実・不公正で嫌だな」という点は、「基地移転計画が3度歴代知事に承認されている」という部分。

翁長知事の辺野古移設反対の土台を崩そうという論理で出てくるのですが、「辺野古への移設」は仲井眞知事以外に承認された事実はないのに、あえて辺野古という文言を使わずに「基地移転計画」という言葉を主語に使うことで、ギリギリ「ウソ」と言われないように細工しながら、「彼以外の知事は承認してたからやった」かのように反論している点です。

国際舞台でも繰り広げられる不誠実でセコイ日本政府の手法に、本当に悲しくなります。

【所感への加筆】
最後に、「何故国連人権理事会の年次総会でこの案件(辺野古新基地建設)を取り上げることができたのか?」という点について、多分不思議に思っている皆さんは多いと思います。

これは、かなり長いスパンで沖縄の人びと・市民社会が取り組んできた国内外の活動の蓄積の成果です。これ以前に気が遠くなるような活動の数々があったのですが、説明が長くなるのでまた別の機会に取り上げます。

キーワードは、もしかして日本の皆さんには聞き慣れないかもしれない「自決権(self-determination)」があります。しかし、これこそが第二次世界大戦後の世界を、とりわけ国連の場(特に総会)を、大幅に変えてきた論理です。おそらく、皆さんも、世界史の授業や教科書で学んだことでしょう(日本史でほとんど取り上げられないからこそ今回の問題に繋がってくるのですが…この論点も改めてどこかで書きます)。

沖縄の人びと・県政がこの「自決権」を使い始めたことは、世界史的な連続性があり、琉球史・日本の近現代史上、とてつもなく大きな大きな意味があります。

*ただし、「民族自決権」とくくることについては翁長知事は慎重なので、ここは要注意です。これには色々な立場が沖縄の中でもあるので。http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=133383&f=cr

安全保障関連法案を巡る政治のあり方への疑問が、「国民主権」「主権在民」の基本に注目する動きを生み出していますが、沖縄の人びと、そして翁長知事が「国民主権」ではなく、あえて「自決権」という言葉を使っている理由を、日本の政府だけでなく、沖縄以外の人びとが理解しないのであれば、事態はもっと緊迫していくと思います。

現状においては、安倍政権の数々の強権的な振る舞いが一番の問題です。しかし、根本原因には、長年にわたる私たち自身の意識・無関心・無理解・真剣な対応のなさがあります。

大戦時の犠牲、米軍統治もそうですが、その前史である薩摩藩の支配、「琉球処分」、から紐解いていかないと、永遠に理解ができないでしょう。

この点について、知事らが参加したシンポジウムは手がかりになると思います。


【沖縄タイムス】翁長知事、沖縄の苦難の歩み切々 国連でシンポ

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=133935
「琉球処分から説き起こした。…キャンプ・シュワブゲート前での県警による市民の強制排除、海上保安官の暴力を示した。参加者は真剣な表情で見入った。…「反米でも反日でもない。基地をこれ以上造らないでほしい、というのは過大な要求ではない」と訴えた。8月に沖縄を訪問した国連人権理事会特別報告者のビクトリア・タウリ・コープス氏もシンポに出席。「沖縄の人々には自己決定権がある。この不正義を正さないといけない」と、援護射撃した。」

そして、冒頭に紹介した24日の翁長知事の日本外国特派員協会での記者会見は、大変短いのにすべての論点が明確に説明されているので、沖縄や駐日米軍基地の歴史を十分知らない皆さんにはおすすめです。いつもながら、すばらしい通訳者の方が通訳されているので英語の勉強にもなります!
→https://www.youtube.com/watch?v=96Gtk9mqLqI

私は、沖縄出身ではなく、かつ薩摩の関係者として、国連人家理事会総会でこれを訴えなければならなかった翁長知事とその後ろにいる140万もの沖縄の人びとに、深く深くお詫びしたいと思います。と同時に、翁長知事をはじめとする皆さんの決意と勇気に最大限の感謝を述べたいと思います。私たちは、日本国内で沖縄の人びとの叫びを十分に受け止め、この問題を解決できなかった事実を重く受け止め、なんとか責任を果たしていかなければならないと思います。

世界に恥ずかしいのは、安倍政権・日本政府だけでなく、私たち一人ひとりでもあることについて、今一度共に考えて頂ければと思います。


【所感への追加加筆〜日本政府代表による「人権理事会になじまない」発言】
会議後、嘉治氏は記者団に知事の演説について、人権理事会での取り扱いはなじまない、との見方を示していた。」(琉球新報 9月23日)

日本政府代表が本当にそう考えるのであれば、国連人権理事会の場で、正々堂々とそう表明すれば良いのです。しかし、知事演説に対する最も重大な反論であろうこの点について、日本政府代表は理事会議場では一言も触れず、総会が終わった後に日本&沖縄向けに言った点がさすが「二枚舌外交ニッポン」ですね。

なぜ議場で日本政府代表はその点を追求しなかったのか?
それは簡単。
人権「後進国」日本では通る論理かもしれませんが、国際的にはまったく通らないからです。

当然ながら、人権侵害を訴えている人がいる場で、しかもそれを訴えること自体が国連人権理事会に認められている以上、「それは人権侵害ではない」と述べるのは「セカンド侵害」です。

それを分かっていて、あえて議場で発言せず、しかし国内向けにそのように発言してメディアに報道させた点がこれまたセコイ。しかし、このような場外での抑圧的言動は、むしろ日本政府の人権意識の低さ、沖縄の人びとの基本的な権利を尊重する気のなさを露呈しまい、更なる反発を呼ぶ結果となってしまったと思います。

以下、知事の会見でのコメントと2日目に再度理事会総会で市民社会からの日本政府代表への反論全文を掲載しておきます。

【琉球新報】「人権と関係ないというのは本当に残念」 知事、政府に反論

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-249301-storytopic-271.html

「翁長知事は22日午後(日本時間同日夜)、国連欧州本部で記者会見し、知事の国連人権理事会での演説について日本政府が「軍事施設の問題を人権理事会で取り扱うのはなじまない」などと批判したことについて、県民は米軍基地から派生する事件事故、環境汚染や騒音などに苦しんできたとした上で、「人権と関係ないというのは本当に残念だ」と反論した。」

【島ぐるみ会議】FB
9月22日国連人権理事会年次総会
https://ja-jp.facebook.com/shimagurumi


***
議長、ありがとうございます。


この場を借りて、先住民の権利に関する分科会において発言をする機会を与えてくださったことに感謝を申し上げます。さらに、国連特別報告者のビクトリア・タウリコープズ氏にも今年8月に我々の故郷、沖縄を訪れてくださったことに心より感謝を申し上げます。


日本政府が発表したコメントのいくつかの点について説明をさせていただきたいと思います。
第一に、沖縄集中する米軍基地負担の軽減策の一環として今年3月に51ヘクタールを返還した、と日本政府は発言されました.しかし、51ヘクタールというのは在沖米軍基地面積のわずか0.2%にすぎません。


次に、日本政府は、基地建設に必要な埋め立てについて、仲井真元沖縄県知事より承認を得て、関係法令に基づき行われていると発言しましたしかしながら、第三者委員会はこの承認手続きについて検証を行い、その手続きが法律上瑕疵があると結論付けました。現翁長雄志県知事は、その承認取り消しに向けた手続きを進めています。建設の継続は法律違反となります。


また、日本政府は経済振興策を負担軽減策の一つであると発言しました。しかし、経済振興策で人権侵害が軽減されることはありません。だからこそ翁長知事は、国連人権理事会で訴えるためジュネーブまで来たのです。


安全保障の重要性により人権の重要性がないがしろにされることがあってはなりません。





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# by africa_class | 2015-09-22 00:26 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

薪クッキングストーブと木工作品:森の木々への母と息子のパッションから

恵みの雨がしとしと。
サッカーを2日1度するTeen男子の家庭としては、晴天でないのは悲しいものだが、緑がシャキッと蘇っていくのを見るのは愉しい。昨日はこの1週間毎日しなければ…と思いながらまたしても寝込んでいたため出来なかった冬野菜の種まきをようやくした。久しぶりの雨に濡れた土の匂いは、素晴らしく心を落ち着かせてくれる。よく出来たもので、クローバーがこんもり茂っている土ほど良い香り。自然農法でよく使われるクローバーだが、マメ科故に根粒菌が窒素を固定してくれ、土壌が豊かになる。クローバーではないものの、似た葉っぱ(しかし黄色い花)をつける草があるところも同じ。これなんだろう…。

一つひとつ、すべてが勉強の毎日だ。
春も夏も1年に1度しか来ないものだから、後元気なうちに何度の春と夏を経験できるのだろう…と考えると、過ぎてしまった何度かの春と夏が切ないぐらいに愛おしい。もっと大切に、充実した春や夏を過ごせばよかった。あれも作ってみればよかった…などと考え始めるのはよそう。

はかなくも、たくましい命を今日もいただきながら、そんなことを思う。

普段は所謂「雑草」も抜き取るまではしないために、またザーサイでもレタスでも丸ごととるなんてしないために、「命を奪った」感は少ないのだが、丸ごと使うタンポポだけは、「奪った」感が拭えない。勿論、そこかしこに広がっているから「足りない」感はまったくないのだが。

そういえば、息子は家で食べる自家製レタスやキャベツとスーパーで見るそれらが同じものだと長い間思わなかったらしい。というのは、自家製のものは、丸ごととって食べたりしない。いくつかのものの外側の葉っぱを少しずつ少しずつ収穫して食べるために、お互いをリンクさせることができなかったのだ。「冷凍カット野菜」が袋に入った状態しかみたことのないアメリカの少女が、ドイツで丸ごとあったニンジンを見て驚いたように…。

自給自足をすると、同じ時期に同じ種類の作物を作ることの無駄、丸々収穫してしまうことの問題に直面する。モザンビーク北部のお母さんたちは、品種を使い分けて収穫時期をずらしているのに納得する。勿論、我々には冷凍庫と冷蔵庫、オイルにビネガーに砂糖という保存に使えるものが身近にある。でも、そんなに何でも一気にできると困ってしまう。

去年、3本の木に洋梨が2百個もなって、本当に困った。
洋梨のコンポート、洋梨のタルト、洋梨のジャム、洋梨のビューレ…あらゆるもので保存を試み、最後は地下室に貯蔵してみたが、1ヶ月もたなかった。あれは悔しかった。が、最後は洋梨のカレーを作ったのだが、これがウソみたいに化けてくれて、何も言わなかったら、「水っぽいジャガイモかウリ?」な感じ。カレーにリンゴを入れるというところから発想したのだけれど、「ものは試し」だと実感したところ。リンゴよりも洋梨の方が断然美味しかった。日本では超高級品の洋梨。しかも、日本の洋梨には農薬がついてることが多いが、完全無農薬の洋梨はとっても貴重。だけれど、一度になる…のがたまらない。しかも地上3メートル以上も上に…。

リンゴの木も古く木登りしないと届かない場所にリンゴがなる。
選定の仕方を考えれば良かったんだろうが、何せ前の住民が植えたものだからどうしようもない。なので、とりあえず消費量の多いリンゴを、色々な品種の苗を入手してみた。息子の生物の先生が農家なので、無農薬のリンゴの木がタダで手に入った。
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下草刈りを何度言ってもしてくれないので、この後自分でやったのだけれど、こっちの鎌と日本の鎌の概念が違いすぎて今でも鎌がなく、大きなハサミのようなもので草刈り…つまり効率悪し。

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で、これらのリンゴと木登りして子どもたちがとったリンゴ。右側の5つはすでに虫食いにあってた。でも大丈夫!リンゴは用途がとっても広いので、とりあえず喰われた部分だけとって、小さくしてみた。薪ストーブに火がついていたので、とりあえず条件反射で黒砂糖と煮始めた。

病気療養が1年半以上も続く私が、なんとか家の家事をこなせているとしたら、とにもかくにもこの薪ストーブのお陰。どんな料理も「切る・ぶち込む・混ぜる・放置する」…だけだからだ。後は、土鍋と土瓶、Fisslerの鍋のお陰かな。Fisslerの鍋では、本当にごく僅かな水ですべてが蒸せる。

Fisslerのステンレス鍋
https://www.fissler.jp/jp/products/pots/pot_top.html
Fisslerを使った無水調理の方法
https://www.fissler.jp/jp/cooking_tips_culinary_trends/study_of_dry/brief_study_of_dry.html

このポイントは、「美味しさ」「ビタミンを壊さない」だけでなく、無水(というが極僅かな水での)調理ということは、あっという間に調理が終わるということ。つまりエコなのだ。他の鍋では入れた野菜の上まで水を入れて煮ないと煮れない。となると入れた水を沸騰させるのに時間がかかり、その分の余分なエネルギーがかかる。

ジャガイモを丸ごと煮るのに普通の鍋でかかる20-30分が、この鍋では10分程度。ほうれん草なら完全無水で2-3分という優れもの!初期投資は高いが、我が家では20年間同じ鍋。全然古びないし、後20年は余裕でいけるだろう。これまで使った20年で計算しても年2千円。普通の鍋でかかる水代・ガス(or電気)代を考えれば、楽々元が取れる。一家に1つあれば十分。Fisslerの圧力鍋が日本では人気だが、実は我が家はステンレス鍋で全て貫徹。なので、圧力鍋を買うかステンレス鍋を買うか迷ったら、出番の多い後者をおすすめしたい。(*が、我が家は肉をまったく食べなが魚は食べる「エセベジ」なので、圧力鍋の出番がそもそもない…という特異な事情もある)

でも、やっぱり薪クッキングストーブが全ての根幹である。
なので、今日も雨な上に昨日農作業をしすぎて身体が言うことを聞かないので、ずっと前から書きたかった薪クッキングストーブの話。

前にも書いたが、ドイツでも戦後薪ストーブは部屋を温めるためだけに使われ、台所で使うなどということはまったくなくなってしまった。万一あっても、ほとんど飾り的な役割かやはり暖房と温かいお湯を常に沸かしておくためにあって、これだけで調理のすべてをこなす人はほぼいない。なので、ストーブや煙突の専門家が我が家にきては驚くのだった。
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去年の冬に台所に入れてから、冬でも、春でも、夏でも。
外が35度を超えても、調理は薪ストーブのみ。といっても、ドイツの家は外断熱で石の家なので家の中は冷蔵庫のように涼しい。なので問題なし。

しかも、ドイツのキッチンといえばIHばかり。つまり電気!!!となると、土鍋も使えないし、コトコト煮るのも難しい。焼き魚なんてもってのほか!でも、一番原がたったのはケーキやパンを電気で焼かないといけないこと!!!敷地内・外に森が広がる田舎に住んでいるのに、バイオマスを使わないなんてあり得ない。いつまでここにいるか分からないものの、とにかく心身の健康のためにも(!)薪クッキングストーブを買ってみよう。ということで買ったのがこれ。このストーブは北イタリア製。展示品を買ったので1500ユーロ(19万円)ぐらい。でも、煙突がそれを超えるのが痛い…。

が、こちらは電気代が非常に高いので(月1万円ぐらい *ただし、高く感じるのは我々が日本でOMソーラー&ガスで月2千円も払えば十分以上だったからもある)、クッキングのすべてのプロセスから電気を省くと1.5年で元がとれる計算。しかも、セントラルヒーティングを動かさなくとも1階は温まる。なので煙突代を含めても、3年で楽々元はとれるのだ。

でも薪ストーブはとにかく煙突が全て。二重構造の長く上に延びた煙突を年に2度しっかり清掃しないと、火事になるのを覚えておいて下さい。ドイツの家は石の家なので総簡単には火事にならないものの、日本は木星だし、家が密集しているので、とにかく煙突でケチらないことが何より重要。清掃は専門の業者に任せた方が良い。ドイツは法律があって、年に2度専門家に掃除してもらわないとストーブを設置できない。そもそも、煙突とストーブの監査役がいて、彼のOKが出ない限り使えないというのも凄いが、それだけのものであるとまずは理解してほしい。その大前提さえこなしてしまえば、後は愉しい薪ストーブライフ。使い方のコツはまた今度。

今日は、食べ物の話。
で、大量の虫食いリンゴをどうしたのか?
ベリーのソースと同じことだけれど、果物を煮る時重要なのが、コレ。でも、日本では知られていないことが多い。ドイツでは、わざわざケーキコーナー等にもっと細かい奴が売ってある。これは、私の自家製…というか、去年剥いて食べた後の無農薬オレンジの皮を捨てずに切って天日乾燥させたもの。
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ただの甘さを超えたさわやかな上品な味にしてくれる。
問題は、無農薬のオレンジを入手することが難しい点…。
甘夏とかはっさくとかでも良いので是非近所に木があったら、譲ってもらおう。大抵収穫せずに木にならせたままのお宅が多いので。

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で、シナモンを入れてほっておけば、薪ストーブが勝手に焦げもせずに3時間後これを作ってくれた。1日冷蔵庫に入れたので見てくれは悪いが、すっごく美味で、子どもに珍しくとっても褒められた。

■「リンゴの?」の作り方
(1)リンゴを一口サイズに切る
(2)熱湯をほんの少し鍋の底に敷いた上にリンゴと黒砂糖を入れる
(3)木べらで焦げないように軽くかき混ぜる
(4)蓋をして5−10分して水分が出てきたら、
(5)シナモンスティックを入れて一回混ぜて、蓋をしておく
(6)20分ぐらいしたら、干したオレンジの皮を入れて混ぜて蓋
(7)後は放置
<=しっかり形が残ってシャリシャリしたのが良ければ20分ぐらい加熱し後は保温調理
<=上記は途中で忘れてしまったので…3時間ぐらい加熱した状態のもの

これだけだと超甘いので、以下のものの上にちょっとのせる程度が良いと思う。
*バニラアイスクリーム
*甘くない生クリーム
*ヨーグルト
*クッキー

この「リンゴの?」の素晴らしいのは、家中甘酸っぱい素晴らしい幸せな香りに包まれること!薪ストーブでこれを作る利点は、「砂糖が焦げないこと」に尽きる。ガスでもIHでも、色々試して来たが、どんなに弱火でも鍋の中身は長時間放置すると焦げるもんだ。けっこう頻繁に混ぜないといけない。なので「完全放置」は不可能だった。

しかし、薪ストーブなら薪の大きさで火加減だけでなく、火が持つ時間を調整できる!この場合、大きい薪を一本入れて下の空気孔を少しだけしめておくと、1.5時間はことことと煮ることが可能。薪が燃え尽きても、ストーブ自体は温かいので、そこから余熱調理が1時間ほどできる。スープやソース、煮込み料理が好きなのに、無精者には、ここが最大のポイント!

ああ、薪ストーブに行き着くまで、何度鍋を焦がしたろう…。
日本は家が狭いのとキッチンがリビングだったので仕事も何もかもそこでしていたので「鍋を忘れる」ことは稀だったが、それでもゼロではなかった…。なので、煮込み料理は「保温クッカー」を使っていた。つまり、10分ガスレンジで加熱したカレーを、そのまま保温クッカー(ただの大きな魔法瓶をイメージしてくれれば)にぶち込んで6時間。

サーモス社のシャトルシェフ
http://www.thermos.jp/product/list/shuttlechef.html
これもお値段ははるが、子どもが大好きなカレーやシチューを作るには、fisslerステンレス鍋でもそれなりに時間がかかる。何より、「翌日のカレーの方が美味しい!」という皆の実感の根拠は、じっくり煮込む方が美味しいというのが理由。なので、前夜あるいは朝に5-10分程度調理して、後はシャトルシェフに入れておけば帰宅時にまだほのかに温かくて、少し温めるだけのおいしいカレーが完成する。我が家は、炊飯器もポットも電子レンジもない家なので、土鍋でご飯を炊くのだが時間がないだろうという日は朝のうちにシャトルシェフでご飯を炊いておいた。

が、これ日本から持ってくるのを忘れた…。こちらではキッチンはキッチンなのでどうしてもずっとはいられない。なにせ布団から基本的に出るのが難しい状態が続いたので、鍋を弱火にして放置…焦げた匂いで気づく、、、という恐ろしい事態が何度も生じた。なので、病気の者にはとっても向いている調理具としては、薪ストーブを超えるものはない。

日本では、シャトルシェフを使ってヨーグルトも自家製していた。長らく牛乳を使ったヨーグルトを家で作っていたが、ドイツには豆乳ヨーグルトがあって、家でも作れるんじゃないか…と狙っていた。丁度、「リンゴの?」を作った時間帯がお昼と夜の間だったため、ご飯を作るには時間が早すぎたので、みそ汁の出汁を取るのと、豆乳ヨーグルトとパン粉を作ることにした。(といっても、いずれもただぶち込み、放置…)

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これまた写真が横になっているが…。

■豆乳ヨーグルトの作り方
うちは牛乳を飲まない家なので、基本は豆乳で。
ただし、牛乳を使って、普通の市販のヨーグルトでも同じ要領で自家製ヨーグルトが作れる。まあ、日本では「ヨーグルトの素」となる粉が売っているが…。

(1)自然色品の店にある豆乳ヨーグルトを買ってくる
<=牛乳ヨーグルトでも、自然食品の店にあるものの方が菌が強いのか、作りやすい。
(2)その食べ尽くした後の容器に新しい豆乳を入れてよく振る
<=不安な人は、4分の1ぐらい残したものを活用
<=この時点でバニラ味の豆乳を入れるとバニラ味のヨーグルトに
(3)それを煮沸消毒した瓶いっぱいに詰めて振る
(4)ストーブの端っこの保温コーナーに置くだけ
(5)約7時間ぐらい放置すると、良い感じにとろとろになる
(6)ただ冷蔵庫に入れて、少し冷やすのと少しかためる
ベリーソースや上の「リンゴの?」をかけて食べると、とっても美味で上品なデザートに。

*バニラ入りの豆乳が売っていない場合は、
<=バニラビーンズを豆乳に入れて少しの間温める
*薪ストーブがない場合は、
(1)鍋に70度ぐらいのお湯を入れる
(2)その中に瓶ごと入れておく
(3)適宜熱いお湯を足して温度を保つ
(4)20分ぐらいしたらバスタオルと毛布でくるんで5時間ほど放置する
<=この時、保温クッカーがあればそれを活用

で、薪ストーブのトップには、いつも土瓶に薬草茶、お湯、そして昆布が入った水の鍋がのっている。基本和食なので、出汁にはいつも出番がある。前の日から水につけてストーブの上においておけば素晴らしい出汁が。ちなみに、昆布はやはり「日高昆布」が一番よい出汁がとれる。粘りがあるし。しかも、出汁をとった後でも、厚みがあって旨味は残っていて、これを刻んで他のものに使っても未だ美味しい。
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焼きおにぎりだって、トルティーリャ(メキシコの)だって、お好み焼きだって焼ける。しかも、真ん中のリングを取ると、直火で中華鍋も熱せる優れもの。
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けれど重要なのは、身近に里山や森があるということ。薪を買ってもいいけれど、枝ぐらいは集めたいもんだ。でも、日本中の山林は荒れ果てている状態にある。多くのご家庭で、すでに薪ストーブは使われていないし、自分で薪割りをする余力もない事も多い。荒れ放題の山林が、生物多様性を減じさせ、野生動物の食べ物を減らしてしまって、里に降りてくることも多くしている。タダで薪や枝を頂く代わりに、山の手入れをしてあげるときっと喜ばれると思うのだが。
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腐っていた木々をチェーンソーで伐った後、森の木々は元気になったし、下に生えてくるものが多様性を帯びるようになったと息子がいう。

家から200メートルのこの森にきたのは初めて。それすらなかなか出来ないような状態なので。でも、息子が、森の木を伐ったら、光がさすようになって色々な生き物が元気になってる!と興奮して話にきて、かつこの苔のような不思議な緑のぶったいとその横の植物が、どうしても気になってみてほしいという。・・・ので、ついてった。
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通れるように丸太の橋を…。しかし結局落ちたので意味ないが。
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元々鶏とウサギ小屋だった納屋は、現在森の薪でいーーーーぱい。この後さらに2人の男達はがんばった。こういうのはさすがに私にはまったく無理だ。
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森の中で朽ちたり腐った木々は薪になるだけでなく、息子の木工の材料にも。そして出てくるおがくずが、薪クッキングストーブの着火の材料になる。使い捨ての着火マンなんて要らない。マッチがあれば。

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森の木で器を製作中。
やりたいの分かるけど、注文の品…未だだったよね…。
かなり言い訳していたが、やっと半年前の注文の品である棚を完成させた。
スケッチブックの手書きの「へ?」というものしか見ていなかっただけに、出て来たものをみてそれなりに驚いた。

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上にも棚を付けてと言われたので、自然食品の店のスペースをみて、柱などをよける形でスペースを活用した方が良いなと思った息子は、以下のようなデザインに。前よりずっといい。

で、この棚皆に喜ばれ、250ユーロでお買い上げ頂いた!
今迄で一番沢山のお金を払ってもらった。あまりに嬉しかったのか、さっき一枚ずつ数えて一人ニヤニヤ…していたが、130ユーロはすぐに父に没収…の憂き目をみた。借金ね。私への300ユーロは…この棚の上におく商品をなんとか終わらせるところから。しかし、棚が出来た途端に満足感があるのか、途端に器の作業が止まった。
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なお、このアクロバティックな棚、納品したらぴったりはまったそうな。
測ってもいないんだけど、ちゃんと頭に焼き付けたから…と。
あかんやろ、それ。。。。
結果オーライすぎる。
人生そんな甘いもんちゃいまっせ、にいさん。

そういうところが修行が足りなすぎる…正直なところ、ちゃんとした修行をしてほしい。でも、こういうのも本人の自覚に任せるしかないと思っている。

というのも、私はピアノで辛い想いをしたからだ。
高度成長期、女の子はピアノを習うものという呪縛が母世代にあったようで、とにかくピアノを姉妹全員が習わされた。田舎だったもので、ピアノのあるお宅に、都会からピアノの先生が通うというスタイルで、一人30分ずつしかレッスンの時間がない。しかも、その先生はやたら厳しく、間違えると手を叩くのだ。まだ10才にもなっていないのに、間違えると叩かれる。この恐怖でピアノが弾けなくなってしまった。しかも、先生は誰一人ピアニストになれそうにない田舎の私たちに、それはそれは英才教育をしようとした。何度も何度も基礎を叩き込んで、それが終わるまで次に進めない。曲に親しむことができないまま、機械的に指が正確に動く迄何度も何度も同じところをさせた。なので3年生になる頃には相当弾けたが、嫌で嫌で仕方なくて姉がやめるついでに私もやめた。

母は怒ってピアノに鍵をかけ、その鍵をどこかへやってしまった。
家が貧しかった母はどんなに欲しくてもピアノを買ってもらえなかった。だから、授業の終わった音楽教室で独学でピアノを覚えた人だった。だから、私を身ごもって高校の体育の教師を続けられなくなったため、辞める時の退職金で、念願のピアノを買った。それだけに、母は傷ついたのかもしれない。「もうピアノなんか弾かなくてもいい!」そう怒って、鍵を隠した。

何年か経って、たまたま家の裏に声楽とピアノの先生が引っ越して来た。そこから聞こえる音色に、ある時雷にうたれたようにピアノが弾きたくなった。プロになれるわけもないし、なりたいわけもないから、ただ自分が弾きたい音楽を弾けるようになりたい…。そう思ったのだ。しかし、ピアノの鍵はないし、母はもう絶対ピアノは習わしてくれないという。

そのお宅には可愛い3才の娘さんと産まれたばかりの赤ちゃんがいた。特に、上の娘さんは私になついている。ひらめいた・・・(そう当時からひらめいたのです)。子守りとピアノのレッスンを交換したらいいんじゃない?親に相談もせずに、先生のところに直談判に行った。中学校1年生のころのことだった。今考えるとええ度胸しとんな〜という気がするが、実は先生も困っていたのだ。レッスンの間、誰も子どもたちの面倒をみてくれないので、ピアノの部屋に子どもたちをおいてレッスンで集中できない。かといって中学1年生に頼むか?というのもあるが、何故か先生は任せてくれた。それを大学に入ってブラジルに行くまで続けた。6年間になる。

結局、ピアニストになるような技巧も才能もない私だが、自分の弾きたい曲を弾くという願いはかなえることができた。その経験があって、息子に「基本をおさえてからやってほしい」という想いを持ちつつも、「奏でたい音を奏でられることが原動力と持続力なんではないか」と思って、余口を挟まないように努力している。ただ、作品の出来上がりについては、消費者としてまったく容赦なく批評するが…。どうすればよくなるかについては、本人の自覚を待つのみ。辛いが…。

一応、紙に色々デザインは書いているのだが。偉いアバウト…。
デザインブックというか、スケッチブックは家具や器やなんやらのデザインだらけ。最近は、「時計が作りたい」と言い出した…。
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で、死ぬほど沢山の時計のデザインを描いていらっしゃる。ついに、おじいちゃんの懐中時計まで分解してしまった…。

彼の愛読雑誌がこれ。
建築・家具の雑誌。高いので買ってあげられない…ので、売り上げからせっせと買っている。確かに、広告に時計がよく出ているものの…そこ?しかも今?やっと専用の売り場が出来たのに?!
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「家具」というと、2年前ウサギを家の中で飼うために作った小屋が最初だった。
そして、去年引っ越してから最初の作品はこれだった。半分壊れた日乾し煉瓦を集めて来て、納屋に捨てられていた防水シートをハサミでジョキジョキして作った小さな池。この中に小さなコイがいる。
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そこから木工へどんどん向かっていったのは、木々に囲まれていたことが大きいと思う。

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木への愛は半端じゃない…と本当の意味で理解したのは、彼のカメラのデータをもらった時だった。なんせこのこぶの写真が何十枚とある。
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こんな風に、違った種類の木の板の表情だけでも200枚は撮っている。
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で、あのコブはこうなった。
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やっぱりパッションが必要だ。
自分の心のど真ん中に。
あなたのパッションは?

声をかけても振り向けないほど没頭してしまう「何か」を、大切にできるといいですね。



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# by africa_class | 2015-09-04 07:14 | 【徒然】ドイツでの暮らし

モザンビークでのジャーナリスト暗殺と国会前抗議の地続きの今、考えてほしいこと。

金曜日(2015年8月28日)、モザンビークで、最も尊敬されるジャーナリストの一人であったパウロ・マシャヴァ(Paulo Machava)独立新聞(Diario de Noticias)編集長が暗殺された。カステルブランコ先生(国立大学経済学部教授、IESE[経済社会研究所]創設者)と独立系新聞(MediaFax)編集長の裁判(8月31日)直前の、「これでもか」という脅し。マシャヴァ編集長は、この二人の訴追に対して反対キャンペーンの先頭に立っていた。26日に、モザンビーク・ジャーナリスト連合の抗議声明を取り纏めた矢先。朝6時にジョギング中に走り去る車の中から撃たれて死亡した。

ついに心配していたことが起きてしまった…と、あまりにもショックでまたしても寝込んでしまった。

「アフリカだから…」等としたり顔でいうなかれ。
そんなことを言う人は、いかにアフリカの多様性、モザンビークの固有性を知らないか、理解・知識のなさを露呈するだけだから。

ゲブーザ政権の二期目(2004年以降)迄、モザンビークは表現の自由においてはかなり進んだ国であり、ジャーナリストの暗殺はカルロス・カルドーゾ(2000年)以来、40年の歴史で2人目にすぎないのだ。そして、偶然の一致ではほとんどないと思うが、マシャヴァはカルドーゾ暗殺事件をずっと追い続けてきた。

外務省にもJICAにも日本企業にも何度も言って来た。
モザンビークは坂道を転げ落ちるように人権状況を悪化させている、と。特にこの2,3年は酷い状態で、その2,3年に日本の官民がモザンビーク政府・エリートに対して行っている支援や投資はその遠因の一つであることも指摘してきた。いわゆる「資源の呪い」だ。

しかし、これらの機関の人々は耳を貸さないばかりか、「人権状況は悪化していない」等と繰り返していた。すでにこの点は紹介したのでそちらを参照下さい。現実を受け止めず、現実に沿った対策がたてられず、「耳障りのよい情報」に依拠して戦略をたてる癖は、戦時中と同じだ。そして、その根拠として引っ張ってくるデータの問題はSTAP細胞問題と変わらない。

■プロサバンナの衝撃的な出来のマスタープランを材料として、大学1年生の基礎ゼミをする。

http://afriqclass.exblog.jp/21527387/

でも、実のところ、私は「オオカミおばさん」であればいいと思っていた。私の論文執筆の際の「将来展望を楽観的に持ちつつ、悲観的に分析する」という姿勢の結果であり、これ以上は悪くならなければよい、と。でも、モザンビークに関わる皆さんには伝えておかねば、と。

残念ながら、事態は予測した通りに悪化してしまった。
途中で期待がなかったわけではない。

今年1月にニュッシ政権が誕生し、同じFRELIMO党の支配が40年間続いているとはいえ、前政権が強めていた独裁に近い権威主義的傾向・暴力の方向性は転換するかもしれない…と多くが期待した。実際、同政権の閣僚は、FRELIMO党内の幅広い層の人を集めており、「対話」の重要性を繰り返し強調するニュッシ大統領への市民社会やFRELIMO党員の期待は大きかった。

しかし、現実には、2015年に入って次のようなことが発生していたのである。
(NGOのサイトからの抜粋。詳細は以下のURLを)
http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-173.html

【2015年1月のニュッシ政権誕生以降起きていること】
① 2月:国立公園でのサイ密猟を取材中の国際ジャーナリスト2名の拘束と訴追
② 3月:野党案を支持したシスタック教授(憲法学)の暗殺
③ 6月:与党FRELIMO事務局長の汚職を報じた独立新聞に賠償命令
④ 6月:前大統領の退陣をフェースブックで要求したカステルブランコ教授(経済学)と2独立新聞編集長の訴追決定 *8月31日裁判 
<=内1新聞の編集長(Canal de Mozambique)は病気で国外のため訴追を免れる。
⑤ 8月26日:モザンビーク・ジャーナリスト連合は④上記訴追の中止を要求
⑥ 8月28日:最も尊敬されるジャーナリスト&新聞のマシャヴァ独立新聞編集長の暗殺
(⑤の実現に尽力)

多くの人は、「シスタック教授の暗殺」で初めてモザンビークの人権問題や「言論/表現の自由」の問題に注目したかもしれない。しかし、実際は徐々にじわじわと色々な兆候が出ていたのだ。今日は詳しくは書かない。以上のリストを見れば、言論抑圧がクレッシェンド(徐々に強化)されていった様子が明らかだろう。

これは、AP通信の取材に対する全国ジャーナリスト連合の会長Eduardo Constantinoの以下の一言に明確に表れている。

AP通信(2015年8月29日)
http://bigstory.ap.org/urn:publicid:ap.org:e01c374d143140659135a0e206957d89
「我々の国のジャーナリストらを黙らせようというさらなる試みだ(once more a way of trying to silence journalists in our country)」
南部アフリカ・メディア研究所は、次のように語る。
「マシャヴァの殺害は、『報道の自由を妥協させる恐怖の空気』を作り出した。」

このようなモザンビークの状態について、FRELIMO党の創設者の一人であり、1964年から独立まで英語ニュースの編集者であり、独立後内務大臣を努め、ザンベジア渓谷開発事業の総裁を務め、日本にも来たことのあるセルジオ・ヴィエイラのメッセージは、一読に値するものである。なお、ヴィエイラ元大臣は、汚職に手を染めるゲブーザ大統領の批判を繰り返したために、党の中で孤立を余儀なくされ、数々の脅しにあっている。

ヴィエイラ元大臣のメッセージについて、私が知ったのは、次のCanal de Mozの記事であった。ともに訴追の可能性がありながら、病気で編集長が裁判を免れたCanal de Mozであるが、二人を応援するために最前線で言論の自由の危機に立ち向かっている。

Canal de Mocambique 2015年8月27日版

A reflexão de Sérgio Viera e a deCastel-Branco têm dois denomina-dores comuns: a saturação peran-te a destruição do projecto de umpaís, em nome de um nacionalis-mo cínico acumulador, excluden-te, oleado pela ganância desmedi-da e por um desrespeito profundopelas noções de República, Esta-

do, suas instituições e cidadãos.


今日は訳する元気がないが、カステルブランコとて、17才の時にFRELIMOに入り植民地解放闘争に身を投じ、ゲブーザ前大統領と共に武器を取り、独立後は経済学者として教鞭をとりながら、歴代政権、ゲブーザ大統領のアドバイザーであった。モザンビーク政府のど真ん中で働いてきた人たちが、今の政府の状態をこのように述べているのは凄く重要である。逆にいうと、彼らはFRELIMOのど真ん中の人間だったからこそ、比較的「安全に」批判ができたのである。

「ある国の破壊のプロジェクト」


そう。独立の半分以上の期間、この国を見つめてきた私の感じているのも、その点なのだ。人権侵害、汚職、バッドガバナンス、民主主義の後退、権威主義化、軍国化・・・色々な言葉を使わざるを得ないが、どの言葉も今モザンビークで複合的に起こっている現象を捉まえることはできない。

「どんな苦境も希望を胸に立ち上がってきた「人びと」の国」

国は乗っ取られたのだ。
Greed(貪欲さ)に満ち満ちた為政者とそれに群がる輩によって。

そしてそれを支える中国・インド・日本。
勿論、アメリカや世銀や欧州の一部の国も批判は免れない。
しかし、少なくとも彼らはモザンビーク政府の耳の痛いことを公然と指摘できる。一報、中国・インド・日本は、自分の国が人権問題を抱え、権威主義やバッドガバナンスの体制故に、政官財の汚職まみれ故に、ガバナンスや人権問題、平和の危機について何一つ問題提起することがない状態でいる。このことは、モザンビークの為政者らに「人権、人権とうるさい国以外にも支援してくれる国がいる」という開き直りの姿勢を可能とさせる。

問題は、「ガバナンス」という無味乾燥な言葉で想像するものを超えている。

モザンビークでは、このような「国の破壊」をなんとかしようと、憲法が保障する言論の自由と結社の自由を使って、なけなしのカネと勇気で立ち向かう大学教授やジャーナリストたちが存在する。農民運動や社会運動、人権活動家、教会の人びと。「モザンビークの良心」ともいえる一群の人たち。かつては、FRELIMO党の中にも、政府の中にも、政府メディアの中にも沢山いた…。彼らの捨て身の努力があって、モザンビーク社会の正義はギリギリの、ごく僅かな最後のスペースにではあるが、保たれている。

なのに、これらの人びとを「外国の操り人形」「反乱者」「野党支持者」とよんで、弾圧するのを黙認する投資家・外国政府…そして、日本政府とJICA。

そのことが「モザンビーク社会の最善・最良の部分の人たち」を、いかに危険に追いやり、裸で政府に対峙させるか、そのことが結果として「国の破壊」に至り、汚職まみれの金満不正国家を生み出すか、繰り返し書き、述べてきた。この人たちとこそ、日本政府やJICA、企業や市民社会は、連携・連帯すべきところなのに、目先の「資源ほしさ」「メンツ」、あるいは「政府とだけやってればいい」の浅はかさ、あるいは理解のなさ故に、組むべき相手ではない相手たちと今日も悪行を重ねる。

詳しくは以下。

■敗戦直前に燃やされた陸軍資料、そしてマフィゴ代表の死とプロサバンナ。12団体「緊急声明」から考える

http://afriqclass.exblog.jp/21539066/

絶望してはいけない。
最前線で身体をはって闘う人びとがいる以上。

カステルブランコ教授は、昨日の裁判で、当然ながら無罪を主張するとともに、ゲブーザ大統領に退陣を迫った理由として、彼とその家族の汚職の数々を一覧として裁判所に提出するという行動に出た。暗殺長後の、あまりに勇気のある…正直なところ涙が出た。

BREAKING: Castelo Branco lists Guebuza's businesses, tells court how he wrote his speeches in 1977, Mozambique

http://www.clubofmozambique.com/solutions1/sectionnews.php?secao=mozambique&id=2147491324&tipo=one

大統領を辞めても巨大な利権を獲得したゲブーザ前大統領とその家族の影響力は健在である。それなのに、あえて彼らの汚職の数々をモザンビーク司法、社会、世界に問題提起したのだ。。。

彼は、裁判所でこう述べた。
「1980年代はゲブーザも理想を共有できる相手だった。しかし、今の彼は解放闘争の理念を侵害する人に成り果ててしまった。しかし、私は今でもこの理念を胸に生きている。 」

日本では知られていないのかもしれないが、ゲブーザ大統領家族はアフリカで最も裕福な一家の一つにのし上がった。それもこれもすべては「民営化」という言葉を使いつつ、国の権益を切り売りしてのことだった。ここら辺の話は、NGO主催の勉強会で使った資料を参照されたい。

【報告・資料】緊急勉強会「安倍総理が訪問するモザンビークで今起きていること~和平合意破棄後の援助、投資」
http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-62.html

多くが、人びとの犠牲の上に築かれたビジネスである。その象徴が、プロサバンナの初期構想そのままの事業といわれるザンベジア州グルエ郡ルアセ地区で行われているAgroMoz社による大豆生産がある。ブラジルの大豆生産企業と組んで、ゲブーザ大統領の投資会社が多なっている大規模大豆生産は、地域の人びとの土地を奪い、人びとは恐怖に各地に拡散して、避難者生活を送っている。そして、この会社が空からまく農薬のせいで、子どもたちにすでに健康被害が出ているという。

■プロサバンナの問題を一括掲載している報告書は以下
https://www.dlmarket.jp/products/detail.php?product_id=263029
■日本の4NGOによる報告書は以下
http://www.ngo-jvc.net/jp/projects/advocacy-statement/data/proposal%20final.pdf

なお、モザンビークの市民社会によって、この会社を含むナカラ回廊沿いの土地収奪の数々について、農民の声を紹介する動画が作製され、公開されているということなので、以下参照されたい。
https://www.youtube.com/watch?v=ptH1j_ye-oA&feature=youtu.be
http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-174.html

本当は英国の研究所にいたカステルブランコ教授は帰国して裁判を受けなくとも、亡命することもできた。ポルトガルの国籍だって簡単に取れる。しかし、彼は7月のインタビューで、そんなことをしたらもう一人を危険に曝すし、何よりモザンビークを愛している市民として、危機に陥る言論の自由をなんとしてでも守らねばならない、との決意で裁判のために帰国したのだった。

そして、彼らを守ろうと、立ち上がったのも独立時の理念を共有し、モザンビークを良い国にしようと闘い続けてきた人びとであった。Abdul Carimo Issaは、裁判官であり、検察官であり、FRELIMO国会議員であり、法制度改革技術チームのトッップであるが、「ゲブーザ前大統領の尊厳を傷つけようという意図どころか、この公開書簡はこの国が現在直面する危機へのクリティカルな貢献である。 書簡を読むと、これが我々はもっと改善できるのに、できていないことへの絶望が読み取れる」。彼も身の危険を顧みず、証言したのだ。

モザンビークには、未だこのような人たちが残っている。
彼らが大統領や政府にこびを売って同じように儲けるのはとても簡単だ。別に独立系新聞などで危険に曝されなくともいい。政府が起訴した人を守ろうとなどがんばらなくていい。大多数の「官製」ジャーナリストは、なかなかキャンペーンに賛同しなかったという。大学の教授たちも、今となっては政府の言う通り、企業の言う通り、プランを作ればいい。黙ってればいいのだ。そうすれば、コンサルタントやアドバイザーとして重宝してもらい、カネはがっぽり入る。子どもたちも、親戚も、留学させてもらえるし(奨学金応募に値するかどうかすら政府が決定)、そもそも睨まれることなどない。暗殺の脅迫も受ることもないし。

しかし、個人の利益のために、あるいは自分だけを守ることを是としない人びとが、まだこの国には残っているのだ。もう最後の一握りであるにもかかわらず、彼らは最前列で声を上げている。UNAC(モザンビーク全国農民連合)だってそうだ。なのに、プロサバンナによって、そのUNACを排除・分断させようとしてきた3年間だった。詳細は、NGOのサイトの以下の資料。

■ProSAVANA事業で長引き、悪化してきた諸問題に関するNGOの見解と資料一覧
〜なぜ援助を拒否したことのなかったモザンビーク農民や市民社会は、日本政府とJICAにNoといい、怒っているのか?〜
http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/activities/201508prosavana.pdf

今、日本の国会前で起きていることも、そうだ。
皆、怒っている。
怒るべくして怒っている。
モザンビークの農民と同様、主権を踏みにじられたからだ。
沢山の血を流して得た平和の時代に制定された憲法で、主権在民が書き込まれているというのに、それが目の前で踏みにじられているからだ。

日本では今、自分の不利益を引き受けてまで若い人たちが身体をはっている。それに先生達、大人達が心を揺さぶられ、ようやく動き始めたのだ。無私の心は人を動かす。それに比べて、日本もモザンビークも、世界も、あまりに私利私欲の追求者によって牛耳られている。その犠牲になっている人びとは、それでも騙されたままである。現状は、これらの為政者がいなくなると悪くなる、、、と信じ込まされて。自らが立ち上がることを度外視するあまりに。

■大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今(その1)。
http://afriqclass.exblog.jp/21484478/
http://afriqclass.exblog.jp/21487530/

そういう私でも「イケイケドンドン」でもいいかな、という時期もなかったわけではない。チヤホヤされて嬉しくない人はいないだろう。しかし、その時に、モザンビークの農民たちのところで毎年修行させてもらい、また権威主義の国日本内で市民活動をしていたからこそ、狭いサークルで利己的に生きる限界に気づくことができた。

■長い夜にブレない生き方について考える〜ガンジーの「ノー」の価値論と「五日市憲法草案」、そして沖縄
http://afriqclass.exblog.jp/21326990

今、私たちは本当に岐路に立っている。
目の前は崖だ。
人類が世界のあちこちで闘い勝ち取ってきた、大切なたいせつな価値を、自らの手で、一時の狭い欲望にかられてこれを破壊しつくすのか、否か。

モザンビークで起きていることも、日本で起きていることも、地続きで起きている。
世界は常に連動していたのだ。
そして今はまさにもっと同時進行である。

あなたの理解、あなたの立ち位置、あなたの一歩、あなたの一言、、、すべて世界という大海に投げられた小石のように、輪を広げ、広がって行くことを想像してみてほしい。

国会前のあなたの姿は、日本の多くだけでなく、世界の多くの人を勇気づけたということを、今一度日本の皆が認識してくれたとしたら、モザンビークの危機もいつの日か共に乗り越えられるかもしれない。

決して自分のためでなく、人びとの権利と幸福ために、最期の最期まで闘い続けた、モザンビークの
・「憲法の父」故ジル・シスタック教授に、
・「農民の父」故アウグスト・マフィゴUNAC代表に、
・「ジャーナリズムの父」故パウロ・マシャヴァ編集長に、
とその家族に、心からの哀悼の意を表したい。

A Luta Continua.
(闘いは続く)


*なお、マフィゴ代表のご家族やUNACへの連帯メッセージと香典は以下のサイトで受付中(9月10日まで延期中)です。
https://docs.google.com/forms/d/1c--v5-ruK4VuQBCiFVq_WMKhbNISilVQro_ALLzpxlY/viewform?usp=send_form


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# by africa_class | 2015-09-02 02:55 | 【考】21世紀の国際協力

桜島噴火の一報に接し、ドイツでブラックベリーのソースを煮ながら考えたこと:人間の傲慢さと自然への畏敬の念について

祖父は幼少の頃、桜島の大噴火によって故郷を追われた。
突然の火砕流が屋敷を襲い、お手伝いの方におぶわれて小舟に乗って、父母の安否も知らぬまま逃げたという。丁度100年前の出来事。その後も灰はつもり続け、屋敷の門構え、敷地にあった神社の柱のてっぺんが10センチほどにょきっと出ているだけだ。一家はすべてを失い、桜島に戻ることなく、曾祖父が教師をやって食いつないだ。

曾祖母の一家に婿養子として入った曾祖父は、薩摩武士の家系の人で、当然ながらもはや武士では食べていけず、教養をかわれて海を渡って桜島に婿に行った。地域あっての暮らしだった曾祖母の一家。曾祖父のようなどこでも使える技能を持った人が家族にいなければ、鹿児島市での避難生活でもっと苦しんだろう。
(なお、薩摩による奄美大島を含む琉球の支配の問題については、いつか書きたい。サトウキビのプランテーションを薩摩藩が強いた結果、多くの人々が餓えで亡くなった。このことは、凄く多重にも深い問題を含んでいる)

生前、祖父と一度だけ桜島に行った。
なかなか行きたがらなかったので、皆で説得して。
子どもたちははしゃいで噴火跡をみたがったのに、祖父は黙って遠くを見つめるばかりだった。祖父にとっては、素晴らしい故郷、我が家。それが一瞬にして火砕流に呑み込まれ、のんびりとした自然豊かな暮らしが、避難一家となっての生活に切り替わった。祖父が口癖のように、「噴火さえなければ…」をいっていた。

最後に桜島に行ったのは、祖父の妹、大おばちゃんが未だ元気だった5年前のことだ。東日本大震災が起こる1年前に、なぜか息子を連れて桜島に行こう、そう思った。祖父の言葉を一番聞いてきた大おばさんが元気なうちに…そう思って。屋敷跡の前にはお墓が広がっていた。しかし、墓石は倒れたり、傾いたりで、避難が地域にもたらしたインパクトは暮らしだけでなく、歴史の継承であるのだとつくづく感じた。

あの海に面した素晴らしい温泉宿だった古里は廃業したらしい。噴火の影響もあるが、日本どこでも田舎が消滅しつつあることが、本当に気がかりだ。急速に廃れて行く日本の田舎と、相次ぐ火山の噴火、そして地震。突発的な大雨の影響も大きい。そしてこれは日本だけの現象ではない。今迄以上に人災と天災の間を生きて行く私たちとして、どのように自分たちの今迄「当たり前」にしてきたことを問い直し、新しい「当たり前」の価値を紡いでいくべきか、そんなことを考える毎日だ。

いつか日本の田舎に戻る。
その時まで精進しなければ。

とはいえ、肝心な自分の体調が思わしくなく、低空飛行ならではの視点で。でも、これはこれで、とても残念なことであるが、同時にすごくよいことだと思っている。なにしろ人間は過度に活動しすぎる。特に私は…。農でもそうだ。ついがんばってしまう。自然に任せるべきところまで踏み込んで、もっと早く、もっと大きく、もっと多く、もっと人様にとって美味しく、奇麗であれ、と自然に要求する。そのことがより加速度を増し要求度を上げた商品としての食を消費者に求めさせ、それが生産者を追いつめ、やりきれなくなって担い手を失っている。結局、工場のような生産方式が、このような「お客様」の要求を満たすには効率がよい、となる。かくして、私たちは自分たちの命を育む食のすべてを、ビジネスに委ねようとしているのだった。

(この全体をFood Regime論が明らかにしているが、これもまたいつか紹介する。)

だから、今の日本や世界の状況に疑問を持つのであれば、自分の「食」(そしてエネルギー源)からなんとかしなければならないのだが、そう書いた瞬間に、ある種の「しんどさ」を感じる人もいるかもしれない。なにせ日本の人たちは、頑張り屋だから、溢れる情報のいずれもが、「がんばろう!」のねじり鉢巻をしない限り手がでないような…そんな圧倒的な様子を醸し出している。

でも、私がいってるのは、たった一つのパセリの鉢から始まる物語なのだ。

そこから窓辺にプランターを置いて葉もの野菜を育てるのはどうだろう?苗のまま買って来たプチトマトでもいい。調子にのって、ベランダにゴーヤを這わせてもいい。さらに調子にのって、玄米を水につけて数日後出た芽を使ってバケツ稲を育ててもいい。

家に花や観葉植物を飾るように、食べ物を育て、愛で、食せばよいのだ。

ただし、自然の中にいない植物は当然弱い。
ここをクリアーするには、ある程度の頑張りが必要。
ただ、レタス系、ゴーヤ、パセリも虫に強い。
そういうものを選ぶということも重要。

実は、私のハーブの暮らしは東京でのアパート暮らしから始まり(関西に帰省の度に鉢を持ち帰った)、ついに小さいものの土地のある家を持った時にどんどんエスカレートした。あれもこれも試したくてうずうずして、草木灰と竹灰を作るために子どもたちに穴掘り競争してもらい深く掘った穴で燃やして煙が出過ぎたり、あんな猫の額のような土地でようやったわ…というぐらいあれもこれもした。有機農業の色々な手法を試して、その度に手応えがあって、結構な満足感があった。

土地が狭いとどうしても、それぐらいやらないとロスが大きいので、過干渉になる。これは、子どもの数が少なくなった現在の日本のご家庭と同じか?我が家も子ども独りなので、かなり気をつけたつもりだが過干渉になっていたかもしれない。

努力はそれなりの結果を出す。
しかし、前にも書いたが、そら豆を育てていて、アブラムシとの闘いを繰り広げ(牛乳、コーヒーの出がらし、ニンニク、灰)、ある時一切合切を止めた時に、自然と大丈夫になった時に、ある種の境地に達したのであった。もしかして…私やりすぎてた?

もちろん、自然農法も知っていた。
でも、本当の意味で、それを心の真ん中で理解したのは、病気になったことが大きかったと思う。また、自然農法のためには、ある程度の土地の広さと、環境(木々たち)が必要なことも、あったと思う。東京の真ん中で、やはり自然農法を実践するには、なかなか難しいものがある。やれることはやってみた。粘土団子、藁を活用すること、前の作物が咲いている最中に次の種を撒く事。でも、言葉で学び、一部取り入れながらも、本当の意味では心の中でストーンと落ちるところまでは至らなかった。

福岡正信さんの「わら一本の革命」は、世界中に影響を与えた本だ。
http://i-yo.jp/
福岡さんの軌跡
https://www.youtube.com/watch?v=aBtaRJvvsK0
世界に大きな影響を与え、何言語にもなっている
https://www.youtube.com/watch?v=XSKSxLHMv9k
木村さんの「奇跡のリンゴ」の方が、今の人たちには知られているかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=avFe15j_Gv8

去年の春にこの家に来て、田舎故にとんでもなく広い敷地を前に、「がんばって家族の食料を生産しなければ」という想いに駆られたものの、今より症状が悪く、思えば思うほど畑に出られない毎日だった。とりあえずコンパニオンプランツ同士を撒いて、藁をかぶせておいて、後は水やりも含め天に任せた日々。

でも、自然は勝手に循環を導いていった。
つい先日までトレーラーハウスがあった場所に撒かれた森の土、藁、刈り取った草、種…いつの間にか、苗を攻撃しようときた虫達を食べるてんとう虫やありがきて、その虫達を食べるカマキリやカエルがきて、そのうち花が咲いたら鉢達がきて、そして毎日少しずつ美味しい収穫物を食卓に提供し、そして種になって、でも種採りをして春に撒くつもりが、あまりに体調悪く、そのままにしながら、冬がきた。ことのほか寒い冬で、何度も雪がつもり、霜がおり、凍結した…のに、春がきたら勝手に芽吹いた。芽吹いたものを収穫しながら放置して日本に戻って帰国したら、今度は次の収穫を準備してくれていた。

泥だんごと一緒。
種は芽吹きたいところで芽吹くものだ。
芽吹きたいときに。

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去年、道ばたにこぼれたルッコラの種が、勝手に芽吹いた様子。
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まったく別の場所で去年収穫したザーサイが、芝生のど真ん中に作ったハーブガーデンの中に出現した様子。

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で、これらを収穫した。
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コンポストの土が十分熟してなかったので、そこらにあった穴に放り込んでおいたら、どうやらジャガイモの芽が勝手にジャガイモの苗に…。それに薪ストーブの灰をかけている。右横はあきのげし。これぐらいの状態は、そのままサラダにしたり、みそ汁の具材にする。タンポポの葉と比べ、癖がなくて食べやすい。

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ここは、去年からまったく種まきしなかった一角。ここ1週間の雨で、ネギに、ルッコラ、わさび菜、タンポポ、おそらくラディッシュが芽吹いている様子。

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ちょっと写真が悪いが、ネギ・ルッコラ・ニンジン・タマゴ・キノコ・イワシの缶詰で作ったサラダ。ネギとルッコラとイワシの缶詰は相性がすごぶるよい。で、このネギも今年はまったく植えてないので、冬を越したもの。それだからか、みじん切りにするにはあまりに涙が止まらないほどの刺激で、タマネギを超えるほど・・・なので、みじん切りにできなかった状態。

でも、これらが可能だったのは、種が固定種・在来種だから。
F1ではこういうわけにいかない。
一番重要な命の源である「たね」。
これが、今遺伝子組み換えやなにゃらによって、規制されようとしている。(けど、今日は未だ復調してないので<だからブログなんか書いてる>いずれ・・・元気になった時に。いつかわらかんけど)私たちは、土のこと、水のことばかり気にしてるけど、本当は種がすごく重要ということ…をいつか書きたい。そして、今グローバルなビジネス戦略によって、それが脅かされて、決定的なところまできていることも。

自然に畏敬の念を感じるのは、これだけではなかった。
あまりにトゲだらけの蔦に覆われた敷地の果ての森に、沢山の倒れた木があって、薪にするために家族総出で斧を持って森を切り開きにいった。茨の道というのだろうか…。が、この「厄介なトゲの蔦」の正体がやっと分かった。
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なんと、ブラックベリーの一種、ブロンベリ(「棘の灌木」)だった…。去年、これが「邪魔」でとにかく見つけては刈ってしまったので、畑にも庭にも実はならなかったのだ。なんと愚かな!!!私の魔の手を逃れた森の奥で、とんでもなく大量に実を付けていた…。
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ざっと2キロは収穫できた。125グラムで2.99ユーロなので、すごい!
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豆乳とアイスでスムージーを。添えたのはローズゼラニウムの葉っぱ。香りが素晴らしく、気持ちを盛り上げてくれる。
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ベリーを摘んだ後は、枝を収穫。この枝を薪ストーブで燃やし、ベリージャムを作る。薪ストーブは間接的に温めるのでジャム作りには本当にうってつけ。焦げないし、忘れても、薪を入れなければ勝手にストーブが止まる。じわじわ煮出すので、本当に相性がいい。
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で、出来上がり。
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あ、横だがまあいっか。ヨハネスベリーとブラックベリーのソース。それぞれ黒砂糖と去年のビオオレンジの皮を干したものを煮出したもの。バラは、いま旬だけれど、体調が悪くて蒸留できないので、もう少し元気になったらローズウォーターを作る為に乾燥させている。

ということで、家族全員、あちこち傷だらけだけれど、自然の恵みに感謝感激の毎日。
本当は池に大量の魚が育っており、これを食べるのであればさらにエンゲル係数が減らせるが、ついでに大量の草が出るのでヤギを飼ってチーズでも作れば…そこまでは、やめておこう。

人間の(私の)無知なる介入が、いかに多くの可能性を閉ざしてきたのか…反省しきりの今日この頃。


草一本、人間が作ってるのではない。
自然が作っているのだ。

(by 福岡正信)


追伸:
私の自然農やその他の試行錯誤は個人的なものであって、援助どうこうの「あるべき姿」だとまったく思っておらず、それぞれの農民が考え自らの方向性を決めていくものだと思っていますので、あしからず。とはいえ、アフリカの農民らの営みから学んだことはあまりに多いことは、またの機会。







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# by africa_class | 2015-08-28 00:36 | 【徒然】ドイツでの暮らし

12才でキャンドル作家、14才で木工作家になった息子から、「好きこそものの上手なれ」

先日15才(中3)になった息子の最新作(末尾)。
別にシュタイナー学校に行っているからといわけではない。
お友達の多くは、ネットゲームに嵌っている。

ただ、前から大好きだった木工に本格的に目覚めたきっかけは、クリスマスバザーに学校に木工のアーティストが来て、木ろくろを体験して、実際に木工の作品がどんどん売れるのを目の当たりにしたから。関西人なもんで、「売れる」ということは、彼の中で非常に大切。

この半年で3500ユーロ(50万円)ぐらいは売ったが、ほとんど大型機械と材料代に消え、未だ借金が3万円ぐらい残っている。しかし、さらに大型の機械がほしいそうだ(まずは300ユーロ、5万円弱返してね)。今日は彼に最後の2枚の写真を掲載するように頼まれただけだったんだけど、彼の作品の変遷を紹介してしまおう。

まず12才の時にキャンドルを製作し始めて、それを販売し始めた。
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一緒に作っていた友人とキャンドルを作って、地元の自然食品の店2つで販売したのだけれど、こういうの二人だと上手くいかない。ましてや当時小学校6年生!結局、息子がほとんどを製作し、上手くなってしまった。だと二人ではやれない…なので開店休業中。ごめんなさい。
http://kidscandle.exblog.jp/

せっかくキャンドル専用の小屋もあるのに、キャンドルを置く台を木で作りたくなった。
2013年春、こんな風に作ってみた。
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でも物足りない。
森に転がっている腐った木を使って作りたいといった。
2013年クリスマス、小さな木ろくろをパパにプレゼントでもらって、作り始めた。

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そして、朽ちた木への愛は続き、ボウルはとにかくよく売れた。
(しかも材料代ただ!)
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が、ロクロを回すのに飽きたのか、雨ざらしになっていた板で家具を作り始めた。板をじーーーと見て、何を思ったのか、ワインラックをデザインした。

そして、このデザインと雨ざらし感を気に入った26才の青年が購入してくれた。彼のアパートの壁。ドイツはレンタルの家・アパートでも、平気で壁に穴があけられる。というのも、入居時に全員が壁をはったり塗り直すから。それにしても、彼の写真ぶれとんな…。

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この青年は続けて、テーブルを注文してくれた。
地元の製材所にいった。桜の木の肌があまりに奇麗で、テーブルにしかしたくない、と。ちょっと割れ目があったんで、見よう見まねで…蝶ちぎりを入れてみた。

彼の技術はすべて日本から買ってきた本とYoutube。じっといくつも動画をみて、納得いくまでみて、それからそれを試してみる。当然、失敗が多い。練習してから本番に向かうことができない子どもなもんで、失敗を積み重ね、今では少し学んだ…と思いたい。

右奥の窪みは、私のアイディアで、他の作品で彫刻刀で削ったもの。そもそも、夜はパンしか食べないドイツ人。せめて盛り上がるお皿を、と思って、チーズやハムやスモークサーモン、プチトマトやキュウリを載せるオブジェを製作してクリスマス商品として売ってみたら、これが結構売れた。その応用編として、青年は、この窪みをこのテーブルにもほしい、と。
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この後も家具に燃えに燃えたが、家具って売るのが難しい。ギャラリーがあるわけでも、Web販売しているわけでもないから。要請に従い、パンフレットを作ってあげたが、本人的にはWebがないと嫌らしい。ふーん、勝手にせい。

自然食品の店で売ってくれるので小物の方が売りやすい。
なので、結局作っては途中で放り投げる感じの家具が、家のあちこちに…。まあ、大変な田舎なのでスペースはあるんで、いいけど。いつか完成させてね。

せっかく、自然食品の店が、彼の作品コーナーを正式に作ってくれるというので、その棚の注文が入った。なのに、なんか気乗りしない。というか、斬新すぎるデザインをしたはいいが、強度の問題で壁にぶち当たったまま、解決できず、毎年恒例のアフリカに行ってしまった。その残骸は今でもリビングに放置されている…。
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彼の愛する野生動物たちの写真。本人曰く、人間より動植物の方が好き、だという。そういう彼が撮る猛獣たちは、どこかかわいい。が、どうやって撮ったの、これ?と思っていたら、いつの間にか、さらに借金してズームレンズを買っていた。だから、早く棚完成させなきゃ、息子よ。

そういえば、アフリカに出発する直前、5月のこと。急に色のついた作品を作りたがるようになった。春に日本に帰った私が、染色の本を買い込んできたのをみて、「色」に目覚めた。春なので、庭中がいろ、色、彩で、ぱっと明るくなったからか。で、花びらを集めた。しゃくなげの赤は特に気に入ったらしい。
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で、染めてみた。その前に、染色の本を読んで、他の作業も必要だと分かり、試行錯誤の結果、定着をよくするために、栗の実の皮を集めて煮出した液体に豆乳を加えたものに漬けてからやった。豆乳は牛乳だった方が良かったと思う。なのでかなり淡い色になった。ただ、桜の木のボウルには桜色が良いかもしれない。もう一度染め直して、それからウォルナッツオイルがいいかな。

でも、こういう色好きな人もいるかな。
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本人のイメージは、もっと鮮やかな色だったようで、これまでの自然(食用)オイルを離れて、色鮮やかなオイルを使いたがった。ほっておいたら、いつの間にか自分で注文した英国の塗料が届いた…。いや、父親がしたのだろう。化学物質過敏症の私が反対するのを知っているので。

色が先かデザインが先か聞くのを忘れたが、アフリカの土鍋がモチーフと思われる。彼の中には、日本・アジア・アフリカ・ヨーロッパの不思議なものたち(現代に限らない)のフォルムが、何層にも蓄積している。

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土台にあるのは、その前に嵌っていた家具作りの一貫で製作したベンチ。実は、このベンチ…何を思ったのか、ある日トップに葉の彫刻が表れた。本人曰く、「いつも思ってたんだけど、ただのツルツルとかの表面ってつまらんやん」。ああ、、、そうよね。でも、ベンチって、座るもんやん???どうせやるんやったら、テーブルにしてーな…は呑み込んだ。自由な発想って、とにかく大事。この歳になると特にそう思う。もはや、そんな自由さ、枯渇してるもんで。

でも、ベンチに彫刻してる間あったら、棚完成させてよ…で小物作って売ってよ…でないと借金かえってこんやん(ついでに利子つけてね!)と思いつつも、これも呑み込み、本人に任せる、まかせる。

同じ系列の塗料で、黒だけで塗ってみた作品。とっても渋い、素敵なものが出来た。これは、彼が尊敬して止まない私の長年の友人・モザンビークの建築家にお土産として持参したらしい(私は行ってないんで)。谷崎の陰影礼賛をポルトガル語に訳したほどだから、彼は大喜びしてくれたそうな。

ただ、この写真…ぶれるね。今迄私が撮っていた写真を初めて自分で撮るようになった。が、どうもピンぼけする。その上、ライティングがダメらしい…。で、今度は商品撮影の本を日本で買って来て、ああだこうだ言い始めた。特別なスクリーンだとか白いライトが買いたいと言い張るが、他のもので代用できるはずとここは譲らないでおいた。なんせ借金返してね、まず。

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とにかく、本人はWebを作りたい。
が、買ったWeb製作のためのソフトが全て日本語。マニュアルも日本語…。読めない。漫画以外の日本語は…。ふりがな打ってないし。でも、根性でなんかやってる。最初は手伝って!!!と毎日拝まれたが、超音痴の私には無理と悟ってくれたのか(obviousか)、自力でなんとかがんばっている。とにかく、かっこいい写真がほしい。が、銀行にカネはゼロ…棚を作らないので作品が載せられず、作品が売れないから、カネもない。悪循環!なのに、Webと撮影に嵌っている…。

ようやく悪循環に気づいたのか、白い画用紙を使って、あれやこれや試し始めた…。なんか写真上手くなってきたから、今度はもっと本格的な、機能的なボウルではなく、アーティなボウルが作りたくなった…そうな。で、塗料ではなく、柿渋のような、でももっと濃くでる方法は…と色々検索しているうちに出会ったのが、「アンモニア」。

ここまで来ると、もはや結果しかつき合えない。
で、以下の写真をメールで送ってきて、「ブログに載せといて」…とのことなので、載せてみました。なんか、凄い高度なことになっている…。


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どこまで進化するのか、彼は。
好きこそものの上手なれ。
読めない日本語も、なんか読んでしまうところは、やはり卒論指導と一緒で「目的」がはっきりしていた方が、後は手段として割り切ってがんばれるものだ。

それが手段を目的化すると、まっったくつまらない。
そんなことを息子で実証してどうするんだ、、、と思うが、まあそのうち彼が反論するでしょう。
ひとまず、以上どうぞ、ご覧あれ。

そうそう、こんなことばっかりやってるわけではなく、ちゃんと毎日学校にも、週3回サッカーも通っています。が、友達と遊ぶ時間、ネットゲームをする時間なんかはないねえ。まあ、こんな趣味の15才、ドイツといえどもいるわけではないので、話題がまったくあわない。日本にいても同じだったろうけれど、本人は当初それを気に病んでいたものの、今となっては忙しすぎてそれどころではない感じ。まあ、時々お友達とお泊り企画をやっているんで、まあほっておいてもいいかな。

それより、卒業生にこのArtセンスはどこからきたの?と質問された。それはずばり、小さい頃から「ほんまもんごっこ」をしていたのです。

雑誌や本、写真集、博物館に美術館、町や森を散歩しても、海に行っても、いつもどれ(何)がどういいのか/悪いのか、彼と一緒に語り合ってた。同じ風景でも、時間が違って、太陽の光の加減が違っていたらもっとこうだよね、ここの感じがもう少しこうだったらどうだっただろう…などと、二人の会話の「ごちそう」部分は、いつもそこだった。勿論、彼が「いい」と思うものと、私が「いい」と思うものは、いつも一緒だったわけではなく、そのポイントも違っている。だけど、それぞれの「いい」と思うポイントの理由を尋ねあうのが、凄く重要だったんだな、と今ふりかえって思う。

その時、所謂西洋っぽいものを見る事は少なかったかもしれない。もっと自然なもの、根源的なもの、素朴なもの、そういうものにとても惹かれていたのだけれど、その後日本の伝統的な手の込んだものや骨董に嵌り始めて、もう少し彼も私も惹かれるものの範囲が広がったように思う。今、ヨーロッパにいるから、こちらのデザインも大分興味がわいて来たよう。

でも、根っこの部分では、シンプルなものへの愛が濃いようだ。本人曰く、「ママ、今時代はミニマリスティックなデザインがいいんだから」と。じゃあ、君の部屋をミニマリスティックな感じになるように片付けてよ。というと、どこぞやに消える息子であった。

さらに、子どもの頃ずっとテレビがなかったもんで、彼は沢山の絵を描いていたし、牛乳パック等の不要品で色々作ってたし、毛糸で編み物もしていたし、泥だんごで恐竜を作ったり。頭の中のイメージを、そのまま手で作り出す…そういう時間を沢山過ごした。

ドイツに5年生の時に来たばかりのときは、アルファベットも読めず、高校に入る直前で勉強も大変で、かつマンモス公立校で辛かったと思う。でも、秋に移ったシュタイナー学校は、そういう彼が積み重ねて来たアートを中心に据えたプログラムで、彼は自分の居場所を見つけ、自由に羽ばたいていった。・・・羽ばたきすぎて、先生と喧嘩しすぎて、学校に呼び出されること多しだが。

まあ、まだ15才。
すべてを辞めて、別の道に行ったっていい。
それにしたって、ある程度勉強は…必要だよね。
がんばれ、15才。

部屋掃除してね。

===
そうだ。
私と息子の会話は、大体2才ぐらいから現在まであまり変わっていないことについては、留意点かもしれない。政治の話も、社会問題も、とにかく彼と話してきた。勿論、話の深さや表現の仕方は年々変わって行ったが。なぜ2才かというと、その頃から彼が「どうして?」を連発するので、一つ一つお互いに「どうして」を言い合っていったら、普通に社会問題や政治問題に行き着いていったからだったのだ。

どうして、皆電車に乗ると携帯ばかりみるの?
どうして、アフリカの子どものお洋服は破れているの?
どうして、新宿に段ボール敷いて寝ている人がいるの?
どうして、コンビニの電気は明るいの?
どうして、農薬のついた食べ物は安いの?
どうして、ドイツの空港では皆タバコすってるの?

子どもの「どうして?」はするどい。
「どうしてでもいいじゃん」「いつか分かるよ」と答えれば楽かもしれない。でも、子どもの「どうして」にきちんと向き合うと、すごく勉強になる。こちらも「どうして?」と聞くと、さらに素晴らしい深い会話となるのだ。

大抵の親や周りの大人達は、「こんな小さい子と何話してんの?」という顔をしたし、口にも出した。けれども、息子以外のお友達で試してみても同じだったが(そして最近、教え子の3才の息子さんに試してみても同じ結果だったが)、子どもたちは2−3才ぐらいから「なぜか」を語ることができるのだ。そして、その「なぜ」はとっても独創的で、本質的で、素晴らしいことが多い。とにかく、目から鱗が落ちる事多々。

ただ、こちらが、「なぜ」に関する勝手な「正解」を押しつけ(る姿勢すらみせ)さえしなければ。重要なのは、こちらが答えを知っていて、あっちが知らない…という前提を決して持ち込まないこと。その時点で、純粋な子どもたちは親や大人が想定する答えを探り、それにあわせた「正解」を口にしようとがんばってしまう。あるいは、反抗期なら、その真逆を身体いっぱい表現しようとする。そのどちらもが子どもらしい反応であり、それ自体を否定するわけではないが、大人としてもう少し違ったリアクションがあり得ることを頭の隅にでもおいておいてほしい。

子どもには、すごく早くから色々なことを見抜き、自分で考える力がある。ただ、それを言語として表現して外に伝えるのが、とても難しい。だから、彼らの言葉や何やらの表現を待たず、こちらの答えを即座に押し付け続けると、子どもたちも「そういうものかな」という思考停止に流れていってしまう。だから、「どうして?」という何気ない一言、そしてそれへの彼らなりの表現をじっくり待ち、どんな答えも否定しないで耳を傾けることが凄く重要。大抵、「どうして?」の後にも、「どうして?」が続いていくが、子どもの思考というのは長続きしないし、飽きてしまう事も多いので、「今日はここまでで、今度また聞かせてね」と伝えておくと、実はその子はその後も何らかの形でずっと考え続けていることが多い。

子どもたちのそんな粘り強さを、面倒くさがって「はいおしまい」としないで、持続的に発展していく方向にベクトルを向けられないものか。子守り代わりにテレビやDSや携帯ゲームやIpadを与えている限り、そこは難しく、彼らが知的楽しみを自分中に見いだせるようにするには、親や大人達もまた、自分の中の知的楽しみを、子どもとともに発見していかねばならない。

その意味で、子どもに教えるどころか、教わること多しなのだ。




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# by africa_class | 2015-08-17 04:02 | 【徒然】ドイツでの暮らし

一括掲載:安倍首相談話の分析〜被抑圧者の視点を含む現代国際関係史からの考察

安倍首相談話が発表された。
タイトルはとても良い。
「終戦70年。歴史の教訓から未来への知恵を学ぶ」
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0814kaiken.html

なのに、何だ…。
「歴史の教訓」の把握のしぶりがおかしい。
世界史の展開にそのすべての理由を求める始末…。
「主語がないからお詫びがない」と騒がれているようだが、それもそうだが、その前提となる「何故謝らなければならないようなことになったのか?」の原因分析が、まったく他人事。しかも、歴史的事実を、都合のよいところだけピックアップして、「だから日本は世界の潮流に乗ってしまって、途中で道を踏み誤ったんだけど、それも経済のブロック化で追い込まれたからだよ〜」となっている。

詳細はまたテキストにしたいが、とりあえずつぶやいたことだけ貼付けておく。

この談話の土台となった「21世紀構想懇談会 報告書」
2015年8月6日
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/
なるほど「20世紀=帝国主義」から始まっていてこれ自体は妥当だが、日本の帝国主義・植民地支配に関する検討が一切ない…。

この分析は今度にして、以下談話だけみたところの分析。


【安倍首相談話1】アジア・アフリカの被植民地支配者の視点から20世紀の国際関係史を振り返ってきた者として、こんな談話が世界に発信されたのが今も信じられない。誰も助言せず?日露戦争の5年後に日本がしたのは朝鮮併合。なのに「日露戦争は、植民地支配の下の…人々を勇気づけました」とだけ。

【安倍首相談話2】中国や南洋諸島も植民地支配していったプロセスは完全オミットし、突然「満州事変」「国際連盟からの脱退」が言及。背景に世界文脈を述べても良いが、首相談話として最も肝心な主語と動詞がナイ。日本が誰に何をした結果何が生じ、何を問題と認識し、談話する?

【安倍首相談話3】日本によるアジアの植民地支配の歴史を全く言及せず、「戦場になったアジア」へのお詫び、「将来も侵略/植民地支配せず」を述べているだけ。「植民地支配は他もやったからやったまで」と。「あの時殴ったけど、みんなもしたよね」とこの期に及んで、何それ?

【安倍首相談話4】「アジア・アフリカの人びとに勇気を」は「植民地支配者側ではない同じ有色人種」と受け止められたから。が、すぐに支配者側に転じたし、日本が「抑圧された有色人種の真の解放者」でなかったのは歴史事実。アパルトヘイト下南アで「名誉白人」にしてもらってた。

【安倍首相談話5】1961年以降、国連決議(経済制裁含む)が何度もなされた南アに対し貿易国No1になったのも日本。70年遡らなくともつい最近91年のこと。アフリカの解放において、日本は常に支配者側に。百年前「支配下のアフリカに勇気を与えた」なんて傲慢すぎる。

【安倍首相談話6】アフリカの解放を中国が支援の最中、日本は植民地・アパルトヘイトの支配者側に立った。歴史事実として、日本政府が「有色人種の解放」を率先したことはなく、他のアジア人の犠牲を強いても「欧米諸国」に同一化しようと。今のヘイト問題の根っこが見える談話。

【安倍首相談話7】結局、弱き者の犠牲の上で自らの「繁栄と(見せかけの)平和」を得ようという、戦前と冷戦期の日本政府の行動パターンは、底堅い連続性を持って安倍政権に継承されていることが、嫌中・韓やヘイトの煽動、安保法案、この談話からも明確に。米国は熟知の上利用。

【安倍首相談話8】彼の「ブレーン」の世界史認識も誤り。前パラで「アフリカ」を入れておいて、「第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり植民地化にブレーキがかかった」は、歴史事実ですらない。アフリカにおいてはWWI中・直後から実効統治が進み人びとの苦難が。

【安倍首相談話9】「植民地化にブレーキ」の後は、「国際連盟の不戦条約=新国際秩序」で、「日本はこの「挑戦者」となり進むべき針路を誤り戦争への道へ」とある以上、どう読んでも「日本も植民地保有帝国として列強へのクラブ参加」を否定しておらず、過ちは「戦争」のみ。大日本帝国への憧憬か。

【安倍首相談話10】「国際秩序の挑戦者となった過去を胸に刻み、自由、民主主義、人権の基本的価値を堅持し」←戦前、国内でこの3点が弾圧され、声が挙げられなくなった先に「国際秩序挑戦」があった。なのに「経済ブロック化」だけが原因指定。今まさに日本内で3点を弾圧中。

【安倍首相談話11】「戦場の陰には深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちが…」では、日本語としてもヘン。「戦場の陰」って何?「戦場」は場所に過ぎず、「女性を傷つける」主語になり得ず。「戦争の陰」のはずで、それでもあまりに曖昧だが、未だ責任が示唆。あまりに姑息だ。

分析するつもりなかったが、あまりに衝撃すぎた。誰だ、こんな助言したのは。都合のよい偏った世界史(20世紀)認識。「被害者の側に寄り添う」ようでいて、実際のテキスト全体の内容は、そうなっていない。国際的な信用を失う書きぶり。公式見解では皆、本音いわんだろうが…。


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# by africa_class | 2015-08-15 06:20 | 【考】21世紀の国際協力

倫理Ethicsと道徳Moralについて、他者に影響を及ぼすことが前提の開発援助から考えてみる。

夏は忙しい。
夏野菜や果実を収穫し、草を刈り、冬野菜を植え、水やりも頻繁に…。
しかも、収穫は同時一斉なので、ジャムにしたり、ソースにしたり、オイルやビネガーに漬けたり、乾燥させたり、しかも化け物のような大きさなので、茎や根っこ等の処理にも困る。そんなところに、息子の学校が始まり、早起きする彼にあわせて(かつドカ食いが戻って)、何度も食べ物を供給し続ける…・となると、何も捗らない。そろそろ仕事もしなければ、ということでバイトの仕事が山のように積み上がる。

が、文句はいえまい。
子どもたちがサッカーに行き、水やりも終わり、猫たちも餌を食べ、薪ストーブが勝手に調理をしているので、先日以下の記事を書いている時に付け加えたかった「倫理Ethics」について、あくまでもメモ書き。

■敗戦直前に燃やされた陸軍資料、そしてマフィゴ代表の死とプロサバンナ。12団体「緊急声明」から考える

http://afriqclass.exblog.jp/21539066/

あえて「道徳Moral」という言葉を使わなかったのは、使ってもいいのだが、個々人について 書いてはいるものの、やはり個々人の集合体である「政府」「JICA」「開発コンサルタント企業」等、それなりのグルーピ ングの中でやっている業務に関する話だから。やってもやらなくてもいい個人の趣味や遊びではなく、集団の仕事としてやっている。

だから、「倫理 Ethics」はどうなっているんですか?
「倫理綱領」はないんですか?…・となる。
何故なら、個々人の「道徳モラル」は最低・最後・最大の砦で あるものの、そこまで行き着く前に組織の倫理綱領というものが明確であれば、防げるものが沢山あるから。

人も組織も過ちを犯す。だから予防のために、あるいは問題が起きてしまった時に問題を拡大・悪化させないための前持ったルールと方策の明文化が不可欠。そして、それをそこに所属する者個人個人が守らなければならない、、、という自覚を持つ必要がある。これは、とっても立派なJICA「環境社会配慮ガイドライン」があるのに、どうしてプロサバンナ事業にみられる不正に満ちた行為が継続するのか…という問いの答えの一つとして重要な論点だと思う。勿論、これほど大規模で強い社会的影響を及ぼすプラン(事業まで想定されていた)作成が前提となっているのにカテゴリがAではなく、Bにされてしまっていたことも関係していないわけではないが、個々人の名前が消された状態で事業が遂行されるに至って、「倫理要綱」の問題に行き当たった。

倫理要綱は、どの組織にあるえわけではない。多くの学術組織は、パワハラ、アカハラ、セクハラの問題に直面して、そして最近ではSTAP細胞やらが起こったために、急ぎでここら辺を整備している。
最も大きな学術グループである、日本学術振興会には、「科学の健全な発展のために-誠実な科学者の心得」というテキストが準備されている。
https://www.jsps.go.jp/j-kousei/rinri.html
実に122頁。
キーワードは、「誠実さ」「健全さ」「公正さ」。
な〜んだ、という感もあるだろうが、具体的に読むと分かりやすい。

このように急ぎ整備されている諸学会の「倫理綱領」。日本国際政治学会(http://jair.or.jp/documents/code_of_ethics.html)にこれを導入するきっかけは、若手からの強い要望があったと聞く。そして、それに横やりを入れた「重鎮」がいたということも。ここに、「倫理要綱」をめぐる政治力学が如実に反映される。

つまり、倫理要綱整備の根っこにあるのは、「パワー」の問題なのである。(1)そのような要綱を整備しない限り、長年にわたって培われてきた可視化されにくい権力構造の中で生じる不正・不公正・人権侵害・ハラスメントを、明文化することで抑止する。そして、(2)問題が顕在化した時にこれに対応する際の指針とする(例えば学会退会要請等の処罰)。

つまり、個々人の「道徳モラル」に頼ることの限界と危険が、明確に認識されている点が重要である。日本のあらゆる場面で、可視化されづらい構造・文化における「パワー」の問題は、組織や個人を腐らせてきたが、近年これが悪化しているように思う。個々人にも、所属組織にも、余裕がなくなってきたからだろうか。ここら辺は深く考察したいところだ。

日本文化人類学会(http://www.jasca.org/onjasca/ethics.html)や日本社会学会(http://www.gakkai.ne.jp/jss/about/ethicalcodes.php)、日本政治学会)には早い段階から「倫理綱領」はある。しかし、援助・開発研究を行う研究者・実務家の集まりである国際開発学会にないのが、大きな疑問である。日本アフリカ学会にないのは、それぞれが属するディシプリンの倫理綱領を使うからだろうか?やっぱり、集合体として持っていた方が良いと思う。評議員を辞任した私が言う事ではないが。これらの学会が、すでに準備していたら、失礼。

もし、日本の研究者同士ですら、このような不可視化された難しさがあったとしたら、開発援助研究、あるいは開発援助の実務においてはいかに?所謂「途上国」と呼ばれる国々で、「専門家」「援助国の研究者」として調査や実務をする側にいるとして、これらを「される側」との関係には、明らかにパワーの問題が生じる。「される側の農民や住民」の場合は、さらにこれに、ローカルなパワーの問題が覆い被さることになる。しかも、日本の援助は、相手国政府を通じて行うものである以上、日本の援助者が「される側の農民や住民」の側に直接与することは構造上よしとされていない。

日本の援助関係者は、しかし、これに無自覚・無頓着なことが多い。「善意」でやっている…という前提だからか、あるいは現地政府関係者としかやっていないからか。外務省に至っては、「援助は政治とは関係ありませんから!」「政治分析の話は個別の援助事業の議論に不要なんです。そういう話を持ち出すことそのものが政治です!」…と仰せになるほど…。ここら辺については、高橋清貴さんのコラムが参考になる。

***********

会報誌『Trial&Error』

ODA ウォッチ: プロサバンナ事業 第9 回(2014年10月20日)
「政治力学に無垢を装う「開発」の虚構のなかで」
http://www.ngo-jvc.net/jp/perticipate/trialerrorarticle/2014/11/20141113-2.html
JVCさんの以下のサイトには、他の記事や情報も満載。
http://www.ngo-jvc.net/jp/projects/advocacy/prosavana-jbm.html
**********

このような当然として存在する「パワー」の問題を、「見えない、見ないように」している現状こそが、今回のプロサバンナ事業をめぐって延々と起きていることの根っこにあることを、是非これを機会に深く分析し、検討し、話し合い、教訓として将来に活かしてほしいと思う。きっと、そのようなプロセスを経て、よくなるものもあると思う。それが、たとえそれぞれの現在の組織に活かされないとしても(本当は活かしてほしいが、限界があるのも知っている。私とて、外大を本当の意味では変えることができないまま後にした以上)、関わった一人ひとりの「次」に活かされることを切に望んでいる。

なお、多くの場合、「パワー」は持っている側には見えないものだ。また、その把握も解決も、「パワーの構造」がある以上、本当の「公平さ」を実現するには、「持たざる側」の訴えの方にこそ力点を置かねばならない。この「当たり前」が、日本では、人の理解においても、社会や組織の理解に根付いていない。大学のパワハラ・セクハラ事例に関わってみても、実感としてそう思う。だから、「セカンドレイプ」のようなことがずっと起こり続けている。これは、「慰安婦」問題についても同様である。もしかして、私たちの社会は、「弱者の訴え」に対する理解を、以前よりもっとずっと失っているのかもしれない。

原発事故やSTAP細胞の件は、研究者の倫理について世論の注目を喚起したが、「不祥事」への対策の方が先行してしまって、その後それに呼応するだけの制度整備やプラクティスが、学術界を超えて起こっているとは言えないのが、本当に残念だ。

他者に多大な影響を及ぼすことが前提の開発援助において、Ethicsの重要性は今一度注目されていいと思う。

なお、日本の開発援助研究は、しがらみの多いインナーサークルでやられることが多く、とても残念に思う。「レポート」ではなく、学術を標榜する以上、日本文化人類学学会の倫理要綱第9条は参考になると思う。これは、日本の開発援助者にとっても、重要な理解であると思う。

************
9条 (相互批判・相互検証の場の確保)
われわれは、開かれた態度を保持し、相互批判・相互検証の場の確保に努めなければならない。また、他人の研究を妨害してはならない。
*************

相互批判・相互検証なしに、前進なし。
それを封じ込めるような風潮があるのが、嘆かわしい。
日本の大学や研究が、1部を除き、世界的な評価を獲得できない理由は、まさにこの点にある。各種学会内あるいは業界内、つまりムラ、にある「予定調和」を創造的破壊していく若者の到来が望まれて久しい。同時に、そのような若者をWelcomeする度量が、それぞれの組織・重鎮にほしい(倫理要綱整備&遵守を)。

安保関連法案にみられるように、日本国家も末期症状。
声が挙げられるべき場所は国会前だけではない。
新しい風は、日本の学術界にも、その他にも必要とされている。
SEALDsが、日本の大学の先生たちを街角に誘導し、目覚めさせたように。

気骨のある若者、是非。


なお、倫理規定を一括集めているサイト
http://www.geocities.jp/li025960/home/topics/c04.html

ドイツでは、原発を完全に止める結論に至るにあたって、「倫理」は非常に重視された。それは、キリスト教の国だからというだけでもない。ここは、また深めたいと思う。

追伸:
「思考や善行によっては愛は生まれない。思考の全過程を否定することから行為の美が広がり、それがすなわち愛なのである。それがなければ真理の祝福はない」(by Krishnamurti


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# by africa_class | 2015-08-13 02:18 | 【考】土地争奪・プロサバンナ問題

敗戦直前に燃やされた陸軍資料、そしてマフィゴ代表の死とプロサバンナ。12団体「緊急声明」から考える

*JICAへのNGOのインタビューで(8月末)、「農民招聘はキャンセルになった」とのことでした。どこかで誰かが頑張ったのでしょうか。その見識と努力に敬意を示したいです。ただ、もっと早く具体的に招聘にうつる前に止めていれば、マフィゴさんも急逝することなどなかったのではないか…と残念でたまりません。(2015年9月2日)

今日、本当は別のことを書きたかったのですが、残念ながら今、私たちの税金を使ってJICA・外務省がモザンビークで行っていることがもたらしている現実が酷すぎて、書かざるを得ません。おそらくそれぞれの組織内部の人も全てを知らされているわけではないと思うので、このブログで書いておきます。

マフィゴ代表の遺族とUNACへの連帯メッセージは以下のサイトで9月10日まで募集中。
https://docs.google.com/forms/d/1c--v5-ruK4VuQBCiFVq_WMKhbNISilVQro_ALLzpxlY/viewform?usp=send_form

少し書きましたが、マフィゴ代表はプロサバンナと無関係に亡くなった訳ではありませんでした。詳細は、昨日発表された、この記事の最後に貼付けさせてもらう外務大臣、JICA理事長宛に緊急声明「プロサバンナ事業における農民の分断と招聘計画の即時中止の要求」をご一読下さい。また、起草者の方にもらったメッセージを貼付けますので、それもあわせてご一読下さい。(末尾)

本当はこの話は、土曜日に以下の記事を書く時に書きたかったことでした。

「プロサバンナの衝撃的な出来のマスタープランを材料として、大学1年生の基礎ゼミをする。」

http://afriqclass.exblog.jp/21527387/
しかし、マフィゴさんを静かに悼みたかったので、今日の今日まで書けませんでした。

関係者の皆さんは、「自分のせいじゃない」と思いたいと思います。でも、本当にそうでしょうか?「組織」のせいですか?「モザンビーク政府」のせいですか?「外務省」のせいですか?「今の政治」のせいですか?「過去のレール」のせいですか?「反対する農民の自業自得」ですか?「他のドナーはもっと酷いことやっている」ですか?「自分たちは精一杯やっている」ですか?「知らなかった」のでしょうか?「関係ない」のでしょうか?本当に?

何度も書きますが、ナチスドイツがホロコーストをやれたのも、日本が戦争に突き進んだのも、一人ひとりが「組織の論理」を「やるべきこと/やってはいけないこと」の倫理よりも優先し、それが束になって推進力になり、破綻するしか止める方法がないところまで自らを導いた結果ではなかったでしょうか。私たちの国は、本当の意味では、自らの植民地支配も戦争も、真の意味での原因追求や検証・考察や総括を行わないまま、1947年に開始した冷戦構造の中の「逆コース」によって、「臭いものに蓋」をしてきました。

例えば、NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」(2011年)
http://www.nhk-ep.com/products/detail/h17419AA
是非視聴下さい。Dailymotionでやっています。
政府・軍がどのように米国の原爆開発や米軍機の接近の情報を隠蔽したり、使わなかったのか、そして敗戦が濃厚になるとどのようにして一切合財の資料を燃やし続けたのか、今のいままで黙っていた皆さんが、90近くになって口を開き始めた。その理由は、また日本が同じような道を歩もうとしているとの危機感からでした。最後の5分で、上司の命令で、彼らの過ちがすべて書かれている資料を燃やし続けたある証言者が言います。
「それが、日本なんです」…そして悲痛な表情でいうのです。
「だから繰り返します」と。

日本の援助もまた、日本政府全体の戦前・戦中・戦後の底辺にある変わらない姿勢・流れの中に位置づけられるのではないか…とある時思うようになったのですが、その疑念を何度も何度も払拭しようとしてきながら、20年経過して、「それが、日本の援助なんです」に行き着きつつあります。沢山の素晴らしい個人の皆さんとの出会いと交流を経て、その方一人ひとりの素晴らしさは脇に置いても、なお、やはり今起きていることが指し示している根本的な問題を軽視も無視もできない気持ちになっています。皆さん自身はどうなのでしょうか?

皆さんは、「人としての生き方」として、納得されているのでしょうか?皆さん方の子どもたちに恥ずかしくない生き方をされているのでしょうか?これまで行って来たことは、皆さんの名で堂々と言えることですか?あるいはお名前が出てくる資料を、胸を張って日の下にさらすことができるでしょうか?あるいは、今日もどこかで部下に黒塗りをさせるのでしょうか?自分の責任を逃れるため?組織を守るため?あるいは、自分は関わらなかったと思いたい?一体、何のためにそんなことに時間と労力を割いているのでしょうか?それも我々の税金です。

そして、それらの資料の一切合切は私たち国民のものです。
皆さんのメモですら、そうなのです。本来は。この国でなければ。

日本が過去から学び(必ずしも悪いことばかりでない)、未来の日本と世界の大人達に、その教訓を引き渡していくために、不可欠なものです。今いろいろあって出来ないとしても、いずれ歴史の検証を受けなければならないものです。それは、時代が変わり、もっと公正なる目線でそれら資料を再検証できるかもしれないし、違った視点で見る事によって隠れていた可能性が発見できるかもしれないからです。

「燃えカスであっても粉々にして、灰になるまで潰せ」
と命令を受けた方の時代、70年前と、今の日本はどれぐらい違っているでしょうか?

さて、今日頂いた、この声明の起草者の想いに耳を傾けて下さい。
そして、じっくり声明を読んで頂ければと思います。

【起草者から】
農民を分断する「農民招聘」計画の問題に対処していたUNAC(全国農民連合)のマフィゴ代表は、テテ州の自宅から問題が起こっていたザンベジ州の現地まで空路、陸路で10数時間かかるところを往復し、二度目に行って協議にあたっていた最中に体調が急に悪くなり、病院に運ばれましたが、同日8月5日に急逝されました。

「小農の父」と慕われて、全国の農民、そしてモザンビーク社会、国際的にも広く尊敬されていたマフィゴさんの突然の死に、悲しみが広がっています。

プロサバンナ事業の問題が、マフィゴさんの心身に負担をかけ無理を強いていたことを考えると、日本の私たちは、悲しみだけでなく、悔しさと、ご家族やモザンビークの人々に申し訳ない気持ちで心が痛む日々です。

マフィゴさんは2013年に二度にわたり来日し、日本政府に農民の意見を尊重した計画にするよう訴え、農民運動の精神を私たちに示してくれました。

そのような状況の中で出された緊急声明です。拡散いただき、一人でも多くの方にこの問題と要求を知っていただければと思います。


【緊急声明】
==============
岸田文雄外務大臣殿
田中明彦JICA理事長殿


【緊急声明】
プロサバンナ事業における
農民の分断と招聘計画の即時中止の要求


2015年8月10日

政府開発援助(ODA)「プロサバンナ事業(日本・ブラジル・モザンビーク三角協力による熱帯サバンナ農業開発プログラム)」を強行するために、モザンビークの農民を分断させようとする外務省・JICAの試み、および「農民招聘」計画は、モザンビークの民主主義と発展の礎を後退させる軽挙な行為です。私たちは異議を唱え、その即時中止を求めます

***

 これまで、同事業に対して、その裨益者となるべき現地のモザンビーク農民から強い反対の声が上がったことを受け、同事業の主たる援助国である日本の納税者である私たちは、外務省・JICAと協議の場を設け、農民の声を伝える努力をしてきました。しかしながら、外務省・JICAは表向きには「対話」を重視する素振りを見せながらも、その一方で反対する農民組織を分断するような工作を行っています。

 現地からの情報によると、外務省・JICAは現在、UNAC(全国農民連合)の加盟組織であるザンベジア州アルト・モロクエ郡農民連合の代表(与党関係者)を、プロサバンナ事業の一環として、農業副大臣らとともに、8月中に日本へ招聘することを計画だといいます。しかし、7月に来日したUNAC代表団の外務省・JICAとの協議、および7月24日の日本のNGOと外務省・JICAの意見交換会においても、「農民招聘」はもとより、農業副大臣の来日計画についての説明は一切ないまま、現在に至っています。

 UNACは、モザンビークを代表する広範なる市民社会組織とともに、3カ国政府に対し、プロサバンナ事業の「一時停止と抜本的な見直し」を一貫して要請してきましたが、政府側が事業強行のためにこのような声を押しつぶす行為を繰り返したことを受けて、昨年より全国プロサバンナ反対運動が立ち上がるに至っています。しかし、それに対し3カ国政府は、UNACの加盟組織(全国で2400組織が加盟)に焦点を当て、プロサバンナの関連事業により融資や資材(水ポンプ・製粉機)供与を利用した「一本釣り」活動と、それによる農民の分断を画策してきました。

 この中には、製粉機の貸与を強要されたナンプーラ州モポ郡農民連合の例があります。最終的に同農民連合は受け入れを拒否しましたが、アルト・モロクエ郡農民連合は製粉機の貸与を受け入れました。同連合の代表は与党の熱心な党員であり、日本に招聘することによって「UNAC加盟団体の中にもプロサバンナ事業に『賛成農民』がいる」と宣伝し、事業推進の糧とする意図は明白です。実際、他の農民たちの説得で来日を取り止めないよう、モザンビーク政府が身分証を預かっているほどです。

 UNACはモザンビーク農民を代表する組織として政府も認める存在であり、これまで様々な農業政策の形成プロセスや事業実施に携わってきました。1987年に設立されたUNACが、援助事業に反対の声をあげるのはこれが初めてです。反対に至る過程では、地域レベルおよび全国的な検討と協議が長い時間をかけて積み重ねられてきました。このことを無視して、分断を助長するような介入行為を援助国である日本が行ってよいのでしょうか?この外務省・JICAの試みについて、次の三つの観点から強い異議を唱えます。

 第一に、プロサバンナ事業を強行するために引き起こされる人権侵害や農民の分断が、現地の民主主義を後退させ、農民を危険にさらしていることです。モザンビークが独立を獲得したのは40年前で、その後も外国の介入によって生じた武力紛争により16年にわたり国が二分され、100万人の死者がでました。1992年の和平合意後、日本を含む国際社会は同国の平和と民主主義の定着に貢献し、当事者団体の勃興、市民社会の活発な活動に根ざした民主的なガバナンスが前進しつつありました。しかし、プロサバンナ事業が合意された2009年頃より、モザンビーク政府のガバナンスは急速に悪化し、国内外の批判にも関わらず、政府与党による人権侵害は後を絶たない状態になっています。プロサバンナ事業の強行は、現地政府を農民組織と対峙させ、非民主的ガバナンスを助長し、反対する農民への人権侵害を多発させてきました。今回の「農民招聘」はそれを追認し、農民らはより危険にさらされます。

 第二に、現地の農民の分断を図るような試みは、政治的考慮を欠き、もっとも忌むべき行為です。プロサバンナ対象地域は、武力紛争において最も激しい戦場となった地域であり、現在も与野党の勢力は拮抗し、対象19郡中7郡で野党が勝利し、与党の勝利は5郡に留まっています。そのような政治状況下で、UNACは党派を超えた農民の連帯・独立組織として、農村社会において重要な役割を果たしてきました。同事業がUNAC内外の与党関係農民を使って行っている分断行為は、農民による主体的な平和主義を壊すものであり、援助国として最低限のモラルを日本政府が欠いていることを国内外に示すことになります。また平和主義を標榜するODAをその目的から外れて使うことであり、二重の意味で私たち主権者に対する説明責任を欠いています。

 三に、「開発」の視点に立っても、こうした農民の分断工作は、稚拙極まりないものです。人口の大多数を占める小規模農民は、モザンビークの経済や社会の礎であり、将来を担う主役です。その小規模農民を縦横につなげ、主体的かつ積極的にモザンビークの農業と農民の生活の安定を図ろうとしているのがUNACです。他の援助国政府・機関もUNACをモザンビークの農民を代表する組織として尊重し、協議・協力しています。そのUNACが、プロサバンナに異議を唱えるからといって、分断し、力を削ぐような試みを行うことは、開発を阻害する「反開発」的行為に他なりません。とりわけ、「農民の組織化」が農業開発の肝として認識されている昨今にあっては、まさに時代に逆行するものです。

 今回、外務省・JICAがプロサバンナの「賛成派」としてUNAC加盟組織の代表を日本に招聘する計画は、モザンビークの非民主的ガバナンスを助長するとともに、「分断の歴史」に苦しめられてきた農民や社会に動揺を与え、混乱や紛争をもたらす恐れがあります。また同国の開発の主体となる農民やその運動を弱体化させるものです。そのような企みのために、私たちの税金によって支えられるODAを使うことは到底許されることではありません。

 以上の理由から、私たちはプロサバンナ事業がこの間行ってきた農民分断のあらゆる試みと今回の「農民招聘」に異議を唱え、これらを即時中止することを要求します。

特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会
特定非営利活動法人 日本国際ボランティアセンター
特定非営利活動法人 オックスファム・ジャパン
モザンビーク開発を考える市民の会
No! to Landgrab, Japan
ATTAC Japan
NPO法人 AMネット
ムラマチ・ネット
ウータン・森と生活を考える会
NPO法人 地産地消を進める会
特定非営利活動法人 WE21ジャパン
農民運動全国連合会



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# by africa_class | 2015-08-11 20:08 | 【考】土地争奪・プロサバンナ問題

プロサバンナの衝撃的な出来のマスタープランを材料として、大学1年生の基礎ゼミをする。

この話題は久しぶり。ちょっと色々ご無沙汰していたから。
でも、「モザンビーク小農の父」アウグスト・マフィゴさん(UNAC・モザンビーク全国農民連合代表)が、火曜日に急逝されたこともあり、そしてそれがプロサバンナ事業をめぐる様々な不正の中でもとんでもない問題と関わっていることが明らかになって、やはり書かずにはいられない。ただし、今日はその不正…については、書かない。皆に尊敬された素晴らしい闘志であった「農民の父」の死を悼みたいから。
後日書いた詳細は→http://afriqclass.exblog.jp/21539066

「私たちは、ゆっくり、確実に、一歩ずつ発展したいんです」
政府のプロパガンダしか報じなかったNHKが撮ったインタビューでのこのメッセージが、急に思い出される。
今日は彼の話はここまでにしたいと思う。悲しみと悔しさで、涙が止まらなくなるから。なお、NGO有志で、ご遺族とUNACの皆さんへの日本からの連帯メッセージやカンパを呼びかけています。もしよろしければ。
http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-170.html

で、マスタープラン…。(こっから厳しくなります。関係者の皆さん、すみません。でも耳に痛い話に耳を傾けてこそ、前進はあると思います。権力・カネを握った側、援助して「あげる」側にいる限り、見えないもの、見たくないものを見る機会を提供するのが、このブログの役割の一つなんで。反論があれば、是非。互いに切磋琢磨できれば。後、周知の事実と思い説明不足でしたが、この問題も、コンサルの問題という訳でなく、元々の誤った想定に基づく事業立案・推進・強行、TORの設定等、まずはJICA・外務省の問題なので皆さん誤解なきよう。)

プロサバンナ事業の3本の柱の2つ目として、2011年度から始まり、現在まで4年の歳月をかけて作られたもの。日本が最大の拠出国で、これまで5億円以上のお金が使われ、他のレポート等はすべて英語版があるのに、そしてこのマスタープランの素案は、日本のコンサルタントが英語で書き3カ国政府が合意したものなのに、その後モザンビーク政府が調整した完成版(公開版)については、ポルトガル語版しかない・・・という。あまりに不透明なので、繰り返し繰り返し要請をして、ようやく出て来たのが、日本語(参考訳)。
http://ajf.gr.jp/lang_ja/activities/prosavana_mp_jp.pdf

でも、これもおかしい。何故日本語訳が英語訳に優先されるのか?そもそも英語版で作成され、微調整されたとしても合意された内容・文言は英語版である。そちらに手を入れる方が絶対コストも時間もかからない。さらに言ってしまえば、ポルトガル語から英語の翻訳の方が簡単でかつ単価は安いし、日本の関係者は皆英語が読める。日本語(参考訳)が、2015年6月に突然出てくる2ヶ月前には、JICAや外務省の責任者たちは胸をはって「良いマスタープランになりました」と宣伝し、あちこちで説明を行っていた。しかし、コンサルも、JICAでこの事業の関係者らは一部を除きポルトガル語が出来ない。なのにどうやって最終版の内容を把握したの?・・・普通に考えれば、英語版は「ある」。それでも、英語版は「ない」と言い張る。じゃあ、確実にあると分かっている元のバージョンを公開してみたら(正誤表を付けて)?という呼びかけに対して出て来たのが、日本語(仮訳)…。

そして、もう一つ重要な点として、英語であれば、世界のより多くの専門家の意見が得られる、というもっとずっと大きなメリットもある。それでなくとも、世界的に不透明な事業として散々批判されてきたのに、そのような批判を払拭する良い機会なはずではないのか?…それが普通のリアクションというもの。それほどまでにして、事業に関わる人たちですら読めないポルトガル語版、日本人以外は読めない日本語版しか公開しない時点で、「ああ、やっぱり世界的な専門家には読まれたくないのね」…とあらぬ疑惑をかけられてしまうことを引き受けてまでも、やはり英語版は「作成しない」らしい。でも、世界の皆さんもgoogle訳でマスタープランを読んでおり、よけいに「??」を募らせてしまっている。プロサバンナを世界的に宣伝してきたのは、日本政府・JICA自身であって(OECD/DAC釜山会議等、「クリントン国務長官に褒めてもらった!」とJICA年次報告に)、その最大成果のはずの「マスタープラン」を世界に発表する気すらないのは何故?間違った理解のまま、世界に受け止められる事の方が、日本の国際イメージとしてもまずい。あるいは、「本物」を発表した方が国際イメージがより下がる、ということ?!当然、日本政府はお得意の、「モザンビーク政府が拒否」との説明で、都合の良いときの「オーナーシップ論」に逃げ込んでいる。「JICA環境社会配慮ガイドライン」を熟読を。この件はまた今度。

さて、それほどまでに、国際的に理解されることが望まれていないらしいマスタープランくん。5億円もかけて(実際はそれを超えているが)作ったのだから、もっと胸を張って良いはずだ。

大学の先生をしたり、論文査読や入試審査をする立場で給料をもらってきた以上、この力作、出て来た以上は、公平なる目で、「取るところを取る」つもり(正当に評価すべきは当然する!)で読み始めた。しかし、最初の1章で…衝撃が大きすぎた。

このマスタープラン、ポルトガル語で204頁の超大作。現地の関係者ら(行政官ら)ですら、全文は目を通さず、30頁程度のキレイ話のみの要約の、さらに11スライドパワポぐらいしか把握していないという。そんな状態で、サイトに全文を発表してから20日後に農村レベルで公聴会をしたもんだから、凄い騒ぎになった。当然ながら、この急がれた手法で皆が思った事は、農民たちに内容をちゃんと理解してほしい訳じゃないのよね…と。最も事前の時間を取らなきゃいけない農村部を、真っ先に実施なんてあらゆる意味でおかしい。

で、やはり公聴会では、反対や疑問を唱えそうな農民は排除され、政府職員や与党関係者が過半数を超えただけでなく、制服・武器携帯した警察までが同席し、勇気を振り絞って異論を口にした農民たちは、その後政府関係者からストーキングされ、プロサバンナのカウンターパートに「賛成に転ずる、と一軒ずつ家を廻って宣伝してこい」と命令され、拒否すると「投獄するぞ」と脅迫を受ける事態に…。→http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-152.html
つまり、「プロサバンナってステキ!農民は大歓迎!早く始めてね〜」という声を集め、それを宣伝に使い、事業を推し進める材料とすることが目的だった。詳細は、現地社会の広範なる層から各種の声明が出ている→http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-category-16.html

天然資源(土地を含む)の切り売りで儲ける政府関係者のガバナンス悪化で、民主主義が後退し、人権状況が悪化するモザンビークで、こんなことを黙認したり(奨励したと思いたくないが…)することが、何をもたらすのか理解できないのかな?あるいは、理解していても強行突破のためには目をつぶる…流れ?それとも、自分が信じたい情報しか頭に入らないため?結局、現地に出張でしか行った事のない、現地の新聞も読めない外務省担当者が、「世銀報告では数値は悪くなっていない」…から大丈夫だ、と。一同、「せ、せ、、せぎーーん?!?」。

本来在外公館や外務省・JICAのやるべき仕事だが、彼らが読めない新聞を日本の市民社会が翻訳し、資料を整理し、分析まで提供してあげても、「ありがとう。別の見解もあるけど、こういう状況がある(とされいる)のね」、ということもできず、「良い数値」をどっかから探して来て「だから大丈夫」の根拠に…。要は、現地や日本の市民社会に反論できれば良い?あるいは、強行突破故に、実態など把握する気がないということ?又は「現地政府は上手くやっていて、支援や投資は問題ない」というストーリーが崩されてしまっては、せっかく安倍首相が現地に日本企業を大勢連れて行って、巨額の援助(700億円!)と投資をすると決めたのに、と?まあ、日本政府は、同国で武力衝突が起きている最中に、中国とインドと同様、抗議や非難声明を発表しなかった唯一の国だし、ね。しかも、その最中に、のこのこと首相が出掛けていっているし。うーーむ。

で、マスタープラン。日本の7名の研究者・NGO関係者で行った内容面の分析は、「第12回プロサバンナ意見交換会(外務省・JICAとNGOの間)」で、披露されAJFのサイトに掲載されている→
http://ajf.gr.jp/lang_ja/ProSAVANA/12kai_shiryo/ref9.pdf

ここでは、私の衝撃だけ。さっきの世銀報告書の話。多様な資料の一つとして参照するとしても、それだけを根拠に「=人権状況は悪化してない」と結論するのは、「議論の作法」「基本のキ」としてまず「?」。うちのゼミでそんな発表や反論する学生がいたとしたら、ぼこぼこにされていただろう←「大学1年生向けの本」で詳しく説明するので乞うご期待。

日本では、「政府が●といえば正しいんだ」「著名な先生(学術的正当性を持った人という訳ではない)がそういっているから間違いない」…という主張がされがちなだけでなく、許容されやすい。主張の信憑性を高めるために一つでももっともらしい論文や機関の名前を引用しておけば、まあいいだろう…そういうことになりやすい。しかし、本来は、先に主張がくるべきではないのだ。まずは、状況把握があり、分析があり、結論がある。したがって、嫌いでも、多様な資料に当たらなくてはならない。その際には、権力を持っている側の言い分ばかりを見ていると、確実に見誤ることになる。

で、MPの驚きは、次のようなストーリーの全面展開!
1)ナカラ回廊地域の農業のすべての問題は現地小規模農民の農業のあり方のせい!
2) 特に、森林伐採と土地不足は、「移動・休閑」農業のせい!
3)小農はあちこちで「休閑」農業はダメ、「定着農」を!
4) 当然生産性は上がらないから品種改良種子・化学肥料・農薬等を購入(「緑の革命」)できるよう支援してあげる!
5)15年後の30年迄に4割の小農(160万人)が「近代農業に転換」が目標さ。

で、デキル学生ならイライラして次の問いを投げるだろう。
1) 回廊の森林伐採と土地不足とは、具体的にはどの様な現象?
2) その実態と原因はどのように調査され、分析された?
3) 地域の小農が営む農業とは?移動・休閑農に一括りできる?
4) 以上の1)〜3)のために前提として使われた調査メソッドは何?
5) 調査法を導き出すための先行研究の整理は?((森林伐採、土地不足、現地農民の営農形態)
6)各調査の結果はどうで、何に基づきどう分析?
7) 抽出課題の解消に取りうる手法はいくつ、どんな?
8) それら手法の内一つを選ぶ際の、基準は?
9)その際に参考事例研究はどれで、批判は把握され、論争をどう踏まえ、結論としてこの手法を導き出した?

まあ、学部生でも思い付く問い。もう少しデキル学生なら「権力/アクター分析」「時代設定」を重視するだろう。でも、これらの一項目も全く触れられていないのが、このマスタープラン!参考文献一覧もついてなければ、注も200頁に10個以下。つまり、根拠をもった論理展開がまったくなされていない。本来の展開は、次のようなものであろう。学術である必要はない。
1) 先行研究の整理(テーマ、地域、リサーチ手法を含)
2) リサーチの実施と結果の取り纏め
3) リサーチ結果を踏まえた課題の整理
4) 3)迄を示しながらの原因分析手法の検討と分析
5) 説得的な原因分析に基づく多「解決」手法の検討
6) 多様な手法検討を経た説得的な「解決」手法の提示
7) その上での、具体的なプロジェクトの提案
*1)2)は不開示のインテリムレポートにある可能性が高いが、MPでは3)も4)も5)も6)もない。突然1結論・1手法が示され7)に飛ぶ。TOR、PDMやSWOT分析の問題は別の機会に。
 
こうなると文書としての「クレディビリティ(信頼性)の著しい低さ」、を自ら認めてしまうことになる。百歩譲って政治文書なら仕方ないが、これは政治文書なのか?(<=実際に、現地の研究者・市民社会の皆さんは、ただの政治文書だから読む価値すらなし…と考えている)。でも、それでは納税者として腑に落ちない。だって、マスタープランの予算の大半は、「調査」に使われたはずだからだ(レポートは不開示問題については今度)。5億円で、政治文書を作られても。それならそうと最初からいえば、農民や市民社会も納得はしないが、期待もしない。対話の成果として作ったからそんな根拠ありません、という反論もあり得そうだが、であればどのようなものが「対話の成果」なのか明示すればいいわけで、多様な意見のどこをどう、何故反映するのかについての考察も不可欠である。

結局、調査をしようがしまいが、結論は先に決まっていた。「小農の今の農業のやり方がダメなんだ」「だから我々の考える援助と投資が必要なんだ」
・・・・これも安倍政権下の日本の農政の議論の仕方だから、日本の役人には違和感ないのかな。だったら「農民主権」とか言わないでほしい。紛らわしいから。「援助をしてあげる善良な僕らは、君たちよりずっと知ってて、分かってるんだ。だってブラジルのセラードやタンザニアでがんばったんだから。君たちは分からないようだから、僕たちが全部教えてあげるよ!大丈夫、まかしとけ〜。君たちのやり方を完全に変えればいいんだ。なにせ、君たちのやり方だと「靴も履けない」からね。土地も奪われないように、登記手伝ってあげるね(実際は登記しなくても権利あるのに)。そうだ、そうだ、今の農民組織上手くいってないよね、だから僕たちがやってあげる(すでにある反対派の農民組織には分断工作するけど)」みたいな・・・・風にしか、モザンビークの農民組織には感じられない。

さてMP。「結論先にありき」は、過去に出て来たMP関連文書でも明白。批判の都度、微妙に表現が変わっていくものの、根っこの結論は強固な一貫性を持って来た。つまり、「現地農民は何も知らない、海外投資と『緑の革命』で救済してやらねばならない対象」。この点の変遷を議論の正確性のため列挙しておく。
1. 当初(2012年秋のUNAC批判開始以前)は、農民らが「持て余している」土地を「投資に使ってもらう」ことが前提。(もっと最初は、誰も使っていない土地がたんまりあって、投資を待っている・・・という前提だったが!)<=この主張はJICAサイトに沢山残っている。
2. 批判を受けて、今度は、
a) 農民がうろうろするから土地が足りない!という話になり、
b) 農民は決まった土地のみで生産をし、緑の革命型の農業に転換、
c) そのために土地の権利を登記するのを手伝ってあげる。
d) 余った土地は、「土地銀行(Land Reserve)」として集めて、
e) 投資家にあげようね、という話だった。

<=GRAINのリークと分析声明→https://www.grain.org/article/entries/4703-leaked-prosavana-master-plan-confirms-worst-fears
3. この路線がリークされてしまって大騒ぎになったから「投資家」「土地銀行」の件、「非自発的住民移転をさせるクイック・インパクト・プロジェクト」が消された「コンセプトノート」なるものが、2013年9月に突然発表。a),b),c)だけが残り、d)とe)が消えた。分析→http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/blog-entry-68.html
「土地不足と森林伐採は小農の農地拡大で起こっている!」・・・が強調されるようになったのもこの時期。しかし、まさに同時期に植林・アグリビジネス(特にプロサバンナの構想に呼応した大豆大規模生産)で何万ヘクタール単位で土地が奪われていっている事実は?(教えても長らくJICAは否定した)。また、森林の大規模伐採をやっているのは誰?・・・現農業大臣がザンベジア州の州知事時代に中国企業と組んで違法伐採・輸出に関与していたと、Africa Confidencialにすっぱ抜かれているのも、教えたが??勿論、こういうことは一切書かれていない。注にも、ね。悪いのはすべて小農だから。さらに、小農がうろうろしない緑の革命型の多投入農業は、「持続可能」で「環境保全型」の農業なのだという。へ?
4. 批判に「応えるため」、「農民主権」「家族農業」「小農支援」等の言葉がちりばめられているマスタープランが出来上がったが、前提はまったく変わらず・・・・a), b), c)の展開だけが、さらに強調。そして、「緑の革命」への転換は、当然ながら、普通の小農はできない。自家消費用の穀物の種や肥料を買っていたのでは、ほとんどの小農、つまり女性たちは、債務を負うことになる。なので、今度は机の上の分類上小農を3つの階層にわけ、大多数の「典型的小農」とカテゴライズされる人たちではなく、「中核農民」というおかしな用語(原語ではEmergent Farmers、しかし英語ではCore Farmers)を用いて、要は政府与党に近いそこそこの規模の土地を確保してクレジットにもアクセスできる中規模農民に近い極僅かな農民にターゲットを絞って支援、となった。まあ、今風にいえば、JICA的「成果」が見えやすいよね、こういう人たちに限れば。ここら辺は、詳細なる分析をモザンビークの皆さんがしているので譲りたい。

このMPには、さらに不思議が満載。さっきも少し書いたが、あまりにキータームの定義(その定義の根拠となる議論の提示)がないか、ズサンで、これにも衝撃を受ける。詳細→http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/ProSAVANA/12kai_shiryo/ref8.pdf
これを瑣末なことと考えているとしたら、国際感覚なさすぎ。いずれのタームもかなり論争があり、国際的なアリーナでの論争を経て一定の定義に至ってる。しかし、MPでの使い方はほとんどそれらの真逆→例)「緑の革命=持続可能でエコ」。「ゾーニング=アグロエコロジカル」…驚き。「家族農業」はFAOを少し出しただけで、後は家族単位の農業経営のことに…国際家族農業年(YIFF)で強調された社会政治経済的文脈で全く捉えていない。一番の極め付きは「農民主権」。「栽培作物の選定は農民が行う」という当たり前のこと(じゃなきゃ植民地支配でしょ!)についてのみ適応。実際のプロサバンナのプラクティスが、農民の主権・基本的人権を踏みにじり続けている点は?(詳細は以上)

で、今回大学1年生向けに良い材料を提供してもらったと思っているのは、さっきの世銀報告書と類似の次の点。
ポルトガル語版を読んでの、考察を詳しく書く。英語版が出て来ない理由が見えてくるかもしれない。これ世界に出したら、そりゃ…。全面根拠なしか根拠が「?」な主張だけ。逆にポルトガル語でOKというのは、ポルトガル語圏の市民社会や専門家たちなら気づかないということ?あるいは、私が知らないだけで、日本の開発調査案件のマスタープランって、普通にこんな感じ?…違うよね。あるいは、コンサルさんたちも苦しいところで、先に結論(TOR)が与えられていたので、止むなくこういうのを引っ張って来た…。多分そうだろう。

その意味では可哀想だ。もっと悪い組織・人たちは別にいる。が、先日書いたように、各々の責任が問われるのだということを、ナチスドイツのホロコースト後の世界に生きる私たちは自覚しなければならない。未だ若い学生の皆さんには、学生としても社会人としても真似せず、以下を反面教師にしてほしい。ああ、、内容に入る以前の話で、あまりに情けない。

MPで 唯一、根拠が注に参考文献として示されているのが、この文章→「家族農民の大半は気づいていないが、現在の自らの農業のあり方が、大規模な深刻な環境破壊を誘発する可能性が高い。これは、世界の他の地域で実証されていることである」。
・・・MPが基礎を置く「農業開発の課題とその原因」が、この1文に全て集約され、しかも「各地で実証されている!」と太鼓判が押されている(ちなみに日本語訳にはこの注はない)。
  ヘ?2008年以降のグローバル現象(農業投資による土地・水・森林強奪)を踏まえてRAIとかいってるんだとしたら、何故そこはオミットしてしまう!?時代区分的にも、規模面でも謎過ぎる。でも、そんな風に言い切れるだけの根拠が注の2文献ね。じゃあ調べてみよ。が…見ての通りURLがわざわざ飛べない状態。しかも英語の原文タイトルがなく元の論文に行き着けず。さらには出版年がナ・・イ。
・FAO, Florestas e crises em Africa – Mudanças no Cultivo de pousio emAfrica, http://Equipa de Estudo.fao.org/docrep/r5265e/r5265e06.htm,
・Rajiv Ranjan and V.P. Upadhyay, Problemas Ecológicos devido ao cultivo de pousio, htttp://Equipa de Estudo.iisc.ernet.in/currsci/nov25/articles 12,htm
 
本来のあるべき記述の作法は次の通り。()にポルトガル語訳を入れてもいいが。
-FAO (1980), “Changes in shifting cultivation in Africa”, FAO Forestry Department.(http://www.fao.org/docrep/r5265e/r5265e06.htm)
-Rajiv Ranjan and V. P. Upadhyay (1999) “Ecological problems due to shifting cultivation” (http://www.iisc.ernet.in/currsci/nov25/articles12.htm)
 常識的な引用の仕方をすれば一目で分かるが、FAOの論文は1980年(35年前)、R&Uは16年前のもの!当然ながら、その後膨大な数の関連の研究があり、これらの論文の主張に反対する研究も数多くある(いずれもが実証研究)。特に、後者は、発表後すぐさま批判の的となっている。なのに、あえて「実証済み」として、この論文(16年以上前のインド!)を「根拠」として自己正当化するところが謎だ。時々、院の入試でこの手のペーパーがあるが、その段階で「事実への誠実性」の欠落した学生は、どんなに指導をしても論文が書けないし、論理的・説得的に議論もできない。

確かにR&U(1999)は、 熱帯雨林の消失の「元凶」として、移動農耕や人口増加率のいずれか(あるいは両方)を挙げている。しかし、これはあまりに単純化された精度の低い分析だとして、すぐ後のGeist&Lambin(2001)に一刀両断されている。つまり、原因分析においては、「経済・制度・国家政策要因の複合的要因」を、地域の固有性に基づき実証的に検討すべき・・・と152の事例研究を根拠として示されているのである 。
Helmut J. Geist & Eric F. Lambin (2001) “What Drives Tropical Deforestation? A meta-analysis of proximate and underlying causes
of deforestation based on subnational case study evidence”, CIACOLouvain-la-Neuve 2001, LUCC.
その後は、この手法を採用する研究が大半で、最近になればなるほどRanjanらのような主張は学術的根拠を失っており、引用すらされない。だから、執筆者たちは、35年前のFAOと16年前のこの論文しか示せなかった?そして、それを隠そうとした?<=なんか推理小説になってきた。

2001年論文は、森林伐採や土地利用に事例研究の際に不可欠な検討すべき原因を、「経済」「政策・制度」「技術」「文化(社会政治)」「人口動態」に分けて各項目2から6つのチェックリストを列挙している。この論文にすべて賛成という訳ではないが、この程度のチェックリストを踏まえて分析されていないとおかしい。また、2001年に批判された1999年の論文の主張に与するのであれば、当然2001年の研究の否定から入られなければならず、1999年論文の方が優れていたからあえて引用したというのならば、それはどの点についてなのか示さなければならないし、是非知りたい。

万が一にも、「主張が先にあって、それにあう論文を後付け的に探した」「この論文しか知らず」・・・であれば、そしてそれを隠そうとしていたのであれば、マスタープランの中身以前に、「事実把握への誠実さ、健全性」において深刻すぎる問題を抱えている人たちのもの、と言わざるを得ず、MP全体のクレディビリティはゼロ以下となる。結局やっぱりプロサバンナ、ね・・・・との結論しか導けないことに。これを胸を張って宣伝している外務省・JICAは確信犯なのか、何なのか。<=学術的に分析した点は今度。
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# by africa_class | 2015-08-08 02:03 | 【考】土地争奪・プロサバンナ問題

大学1年生向けの本:執筆秘話(その1)

家族が来襲し忙しい。
昨日はトマトになんとか支柱を立てた…。私がいない間に勝手にトマトの横にキュウリを植えるという不思議をされてしまったので、キュウリをなんとかせねばならぬ・・・。トマトと共に植えるべきは(コンパニオンプランツ)、ニラ、バジル、パセリだと伝えたのに・・・大きく葉っぱを広げたキュウリのせいでパセリも枯れ枯れ。

3月に外大を辞めた。その理由は色々あって既に書いた。
http://afriqclass.exblog.jp/21252293/
書いてないことの一つに、教室に留まらない、国内に留まらないもっと広い層の学生と色々したいなあ、と感じるようになったこともあった。勿論、外大の教員をやりながらも不可能ではないけれど、目の前の学生に全力投球してしまう私としては、物理的にそういうシチュエーションから自分を切り離すことは必然だった。

なので、今、日本の大学1年生向けに本を書いている。
ずっと前に着手して、卒業生が出る度に「いつかその本を贈呈するね」と約束して早8年が経過。本腰を入れたいと思うのようになった。が、他に既に出版社が決まっている学術書や一般書があって、それをやらないでやってる場合か・・と良心の呵責もある。ブログ書いてる場合じゃないが・・・学術はやっぱもっと気合いと良い体調が必要。これを万一みてる関係者・・・すまん。気持ちが向かないと、やっぱりなかなか一事が万事片付けられない(言い訳だけど)。なお、「大学1年生向け本」は未だ出版社を探してないから、関心があればご連絡を。

私が作ろうとしている大学1年生向けの本は、「大学で学ぶ」のは何故なのか、それはということはどういうことなのか、その先に何を見据え、何をどうしておくべきなのか・・・についてのもの。誰もなかなか教えてくれないテクニカルな部分も、何故そうなのかも含めて紹介しようと思っている。なので、「スピリット(精神)」「メンタル(心)」「アプローチ(心構えを含む)」「アクション(行動)」「レヴュー(振り返り)」があって、「自分と社会/歴史との関係性(連続性)」を重視したものとなっている。

このような本を作ろうと思った背景を少し紹介しておく。それは、日本以外の国々での大学(院)教育や研究・学術の位置づけに触れてきたことと関係している。

例えば、今ヨーロッパのある国の大学院生たちが私のレクチャーを企画してくれている。音頭をとってくれているのがブラジル人の博士課程の学生だというのも嬉しい。2年前に英語やポルトガル語で論文を発表するようになってから、世界の色々な国の若者から沢山の問い合わせがくるようになった。中には厳しいコメントもあるが、彼女・彼らのそういう率直さが凄く嬉しい。しかし、下手な英語・ポルトガル語での執筆を支えてくれているのも、ボランティアでプルーフリードしてくれる若者たちだ。そういう風にコレクティブに学術論文が「つくれる」のも素晴らしい。自分の書いたものが「社会のもの」になる感覚は、日本の学術界の要望に応えて書き散らした論文や原稿では得られなかったものだ。勿論、そこで先輩たちに鍛えてもらったから今日がある。

忘れもしない、1999年…初めてアジア研究所の依頼で書いた論文の酷さ…。日本語は支離滅裂で論理的一貫性は欠落し、とにかく何がいいたいのか分からない…。せっかく機会をもらったのに、たった2ページが書けない。。。穴があったら入りたい程のものを、研究所の皆さんが本当に丁寧にコメントくれ、修正案を示して下さった。中にはほとんど同い年の研究者もいて、正直自分の出来なさ加減がショックだった。彼は今でも理路整然として素晴らしい論文を書く。皆さまのお陰で一応学術論文のイロハに従って書けるようになったものの、言いたい事は山ほどあるのに、短いものにまとめる能力がないのは、相変わらずだ…。成長しないんだね、私。

でも、現場が好きで実務(国連PKO)からこの業界に入り、学者になるつもりが全くなかった私としては、そして修士までディシプリン教育をまったく受けられなかった外大出の私としては、こういう先輩たちの支援と励ましがなければ、とてもじゃないけれど研究者として人を教えるなどという立場には立てなかった。だから、日本の学術界の、特にアフリカ学会の、こういうコレクティブに仲間を育てるスタイルは本当に重要だし、今後も続けられるべきものである。

が、この年齢になって、記憶から消したりたいパーツを思い起こしてみれば、実際はもっと前に沢山の人に沢山のことを教わっていた事実にふと突き当たった。あまりにも拒否感が強すぎて完全に忘れ去っていた多くの出来事…。本当は、「ゼロ」なんかではなく、本当に多くの人びとに多くのことを教えてもらっていた。このような「自動記憶抹消」とそれを思い出すことの苦痛といった衝動から逃れるのにも、実に20年近くの歳月が必要だったのだね。

実は、先日書いたブログに出てくる「お父さん」は米国のとある国立大学の現代史の教授で、私は彼の同僚である中南米現代史の先生と、20才の若さで何故か共同研究をしていたのだ。そのきっかけは何だったかすら記憶にないが、私が日本人で英語とスペイン語とポルトガル語を「(怪しくも)話せて」、その前年にメキシコに行って、次にブラジルに留学に行くと聞きつけて、ペルーのフジモリ大統領の伝記を書いていた彼が、もう一人の社会学者との3人での共同研究と本の企画を持ってきたのだった。要は日本語が読める人が必要だったんだね。

あんまり気乗りしないままに(その後も同様、だって学者になるつもりがまるでなかった)、「でも約束したから」という理由と出版社の契約書にサインしてしまったからというだけの理由で、何年か共同研究し、学部の卒業論文をそのテーマで書いて、それを英語にして、その時期に日本に急速に流入していた日系人の調査をして、で本が出来た(The Japanese in Latin America, Illinois University Press)。が、まるで学問のイロハを分かっちゃいなかったし、あまりに中途半端な感じだったので、イリノイ大学からくる印税の小切手を一度も換金しないで現在に至ってしまった。

あの最中は自覚がなかったが(そして今の今まで)、でも、今振り返るとこの経験は凄く自分の中に根をおろしていたことに驚く。

彼は、アメリカの公文書館に行っては1990年初頭に50年ルール(通常30年ルール)で開示され始めた、本来は厳しく開示が限定されていた軍や警察の資料を、山というほど入手して、片っ端から読んでいた。そもそも大学2年生の私にはその意味がよく分からず、彼の知的興奮と眼鏡の奥で光り輝く好奇心を眺めながら、現場であるラテンアメリカでの現地調査を重視しない彼を批判的な目でみていた。でも、彼は在米のペルーから連れてこられて収容された日系人へのインタビューを開始していて、もう一人の共著者である社会学者と地道にインタビューを積み重ねていた。その際に聞き取った調査票の束を前に、彼は途方に暮れていて、取ってきたもののデータ整理できない自分を嘆いていた。「彼はこの本を完成させないと准教授から教授になれないんだよ・・・彼が少しでも怠け者の自分を乗り越えたら素晴らしい学者になるのに」、とお父さんはおっしゃっていた。

確かに彼は「(学問に)怠け癖」がある人だった。3人の子どもたちと遊ぶのが何より好きで、遊びといっても走る・泳ぐ・飛ぶ・・・だった。そして、よく子どもたちに本を読んでいた。そのまま寝てしまうことも多々あった「よきお父さん」であった。

でも、彼はマラソン選手だった。
そして、彼は学問の社会的意味に拘った。
だから、自分の昇進よりも(つまり本を書くよりも)、もっとがんばったのは、自分の学術的なリサーチの成果を社会運動に提供することだった。アメリカにおいて、日系人の収容はよく知られているが、ベルー等の南米にいた日系人が米国に連れて来られて収容所に入れられていた事実は当時知られていなかった。

今でこそNHKでもドキュメンタリーが放映され、以下のように当時の事を語るインタビューが視聴できる。
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/624/
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/profiles/32/

でも、当時はそういう状況ではなく、彼の研究もまた補償運動の皆さんと二人三脚であった。微力ながら、私もお手伝いしたりした。1999年にビル・クリントン大統領が謝罪をして補償を約束するまで、現代史を共に生きる歴史家として、彼が果たした役割は大きかった・・・と、今頃になって思う。

しかし、ブラジルにスラムでの貧困の問題をスラムの中から考え・研究するために行きたかった私としては、なんともコミットするほどに心が動かなかったのである。歴史アプローチよりも、社会学的アプローチに関心があり、究極的には過去のことではなくアクチュアルな平和と暴力の関係に切り込みたかった。アメリカ社会に関心がなさすぎたせいもあったかもしれない。冷戦が終焉するしないのあの時期、中南米からみたアメリカは「介入者」として見えたし、まだ「唯一の大国」としてブイブイいわしていたころで、「ああ、やだな・・・」と思ってしまう何かが蔓延していた。なにせ、1989年夏、18才の大学1年生夏に独りで向かった先がインド、そして当時は第三世界とよんで間違いのないスペインとポルトガルだった・・・という始末。

彼があれほどのこだわりと粘りを見せたのは、彼自身がアイルランド移民二世だったこともあるという。自分の問題意識に根ざした研究は、すぐには花を咲かせず、社会運動に没頭したとしても、必ずいつの日が大輪を咲かせる日がくるもんだ、ということも彼から学んだと思う。

賛成できないことが大半のアメリカであるが、底力のように凄いところは、色々なものを呑み込みながら、プロとコン(賛成と反対)がぶつかりあうことをよしとして、物事を前進させようという気概がある点である。だから、見せてもらって公開文書には、ばっちり個人名も残っているし、その人が在職中にとっていたメモ用紙までそのままファイルに残されている。というか、ファイルごと残っているのだった。軍とか警察とか、安全保障関係のものほど、きちんと整理されて公開されている(隠されているのもあるだろうが、かなりの程度30年、50年ルールを過ぎたものは公開)のである。そして、それらの記録の詳細を知らなくても、司書の人に相談すれば凄くがんばって色々リストを出し、資料を出してくれる。そういう経験を、大学2年生程度の私が出来た事自体、感謝してもしきれない。

実はそれから18年ほどが経過した4年前に、ワシントン郊外の米国アーカイブに行って冷戦期の米国の対世界戦略とアフリカ政策関連の文書を調べている時、もう退職した先生が会いに来てくれた。私は自分の本を渡しながら、先生との共同研究がいかに私に大きな影響を与えたのか、あの時は自覚がなさすぎて、ただ世界の現場に行きたい一心で十分感謝できなかったけれど、今日ここに自分があるのは先生のお陰だとすごく強調したら、先生ときたら、「でも僕のお陰というより、君は息をせずに25メートルのプールが往復できたからね。つまり、我慢強いから」・・・だった。

先生には、先生の子どもたちと私のあの競争が凄まじい印象だったらしい。私も未だ若く、そういうことにこだわりをもってた・・・。でも、私が息をせずに長時間潜れる理由は別にあった。幼子の私が海に身投げしようと考えた理由とも絡むがそこはさておき。あの子たちももはや家庭をもって各地で活躍している。でも、先生は照れくさかったんだと思う。先生のこういうひょうひょうとした、利己心の薄い、故に「怠け者」なところは、心底尊敬する。先生は、アンデスの山々が似合う先生だった。

もう一つ先生との共同研究で学んだのは、当時日本では未だワープロ全盛期にあって、「インターネット?メール?それなに?」の時代に、メールでやりとりしながら共同研究を進めるということが当たり前のものだった点だ。そして、先生が米国中南米歴史学会のメーリスで、ある学説やある新刊本について、コメントを書くと他の人たちがそれをさらにコメントして、一つの学説が、遠隔で、でもリアルタイムでどんどん鍛えられていくのを、目にしたことも刺激的だった。(と同時に意味が分からなかった。どうして、一つのメールを全員が読めるのか・・・どうして今書いたメールがどこでも後でも見れるのか・・・など。説明されても一向に分からなかった。。。)

今ドキの学生なら驚かないだろうが、なにせ当時「ポケベル」の時代。ポケベルに「カイシャ」と出ると、公衆電話に走って会社に電話した時代なのだ!携帯なんて自動車用のものしかない時代。その原理がどうしても理解できない私は、先生が、何故パソコンを常に立ち上げていて(これもワープロ世代には驚きだった)、そこに入ってくるメールを気にして仕事をしていたのか・・・横目で眺めていた。正直、そんな箱の中、顔が見えない相手とのやりとりに時間使ってる場合かよーーー天気いいから子どもたちとプール行きたい・・・の心境だった。思えば、彼との年の差は20才以上。子どもたちとは6才だった…。しかも相手は博士で、准教授。こっちはただの英語もろくに出来ないアジア人の日本の学部生だった。なのに、本当に一点の曇りもなく、対等に接してくれた。アメリカには時々そういう人がいる。公平な人びとが。

他方、お母さんとプロテスタントの教会にいって、哀れな東洋人(赤子的)と扱われた時には心底腹が立ったし(まあそれぐらい英語が出来なかったから仕方ないのだろうが)、「白人として哀れな有色人種には優しく接しなければならない」という押しつけのようなものを嗅ぎ取って嫌気がさした。聖書を学ぼうの会も、正直辛かった。日本の植民地支配はあからさまな人種差別に基づいたものであったことが多いが、20世紀後半のヨーロッパのそれは時にそれが家父長的な様相を身にまとっていた。キリスト教の普及という正当化の論理が使われていたこともあろうが。どちらがどうではなく、そういうものの根っこにある人種差別意識というのは、私の中で強い印象を与えた。

その経験から、米国の人種差別とブラジルのそれの違いについて意識するようになっていった。アフリカンビートへの関心から、おのずとアフリカンアメリカンの歴史に、そして北東部ブラジルのコミュニティに、しまいにアフリカまで辿り着いたのだが、これらすべては偶然ではなかったように思う。アフリカに行くつもりがこれっぽっちもなかった私が、ブラジルで学んだポルトガル語のお陰で、国連の仕事でアフリカ(モザンビーク)に行けたことは、偶然であったが今思えば必然だったのかもしれない。

だから若い頃に、「自分はこうだ」とか「これが好きだ」「これしか興味がない、したくない」という考え方はしない方が、可能性が広がって、自分のちっぽけな脳みそでは思いもよらなかったような機会に恵まれると思う。

抹消していた記憶が戻ってくると、洪水のようだ。
あの夏、先生の家の芝生に水を撒いた後の青々しい匂いとか、プールで飛び散った水滴がキラキラと輝いた感じとか、あの3人の子どもたちの歓声とか、昨日のことのように思い出す。なのに、どの子の名前も、その顔も思い出せない…。

あの共同研究の中で、私は「論争」というものを学んだ。
全ての事柄には論争があるのだということを。
そして、それは決して悪いことではなく、多様な角度で眺め、多角的に議論することで、物事は前進していくのだということを。それに慣れるのは容易ではなかった。日本人にとって「和をもて尊しとなす」のが当たり前である以上、相手が間違っていると思っても、おかしいと思っても、それはのみこんでしまうのが美徳であった。若い女性ともなれば、なおさらのことであった。

しかし、クリティカルな目線、実証に基づいた議論は、それが誰であれ当然のこととして受け入れられる世界に、少しばかりの間であるが、浸ることができ、そのことの重要性と可能性の一端を垣間みることができた。そこがカクテルパーティであろうとも、招かれた知人宅のバーベキューの場であろうとも、「あなたはどう思う?」「どうして?」・・・そう聞いてくれる大人達に、どれぐらい考え・語る機会をもらったことだろう。

でも、彼はあれやこれや「教え」たりしなかった。ただ一緒に執筆していただけだった。私の書くものにまったく口を出さず、「ブラジル・日本担当」というだけが決まり事だった。最初は戸惑った。何から手をつけていいかもわからず、膨大な参考文献リストの海の中で溺れそうだった。でも、英語文献で書かれていることと、日本語文献で書かれていることのギャップに気づいた私は、英語文献ではほとんど書かれていない明治期の日本の移民史にはまっていった。今から思うと、英語文献の世界で「自分だけができること」を追求した結果だったかもしれない。

明治の日本人がどうやって外に目を向けて海を渡っていったのか?また、冷戦終了直後の「国際化」を叫ぶ日本にあって、若者として、一人一人のライフヒストリーや声に心惹かれたというのもあった。国会図書館には膨大な量の資料があって。移民文庫については資料室があった。全体の閲覧室の無味乾燥な雰囲気と比べ、その空間が居心地良かったというのもある。休みになると関西から出ていって、朝から閉館までひたすら資料を読んだ。外務省に移住課があって、そこの皆さんにもインタビューに行き、資料を借り、日系人協会でもやはり同様だった。

私が最も惹き付けられたのは、これら「戦前移民」たちの手記や俳句や和歌であり、送り出した側(日本政府関係者)の会議の議事録であった。そして、英語文献をよみながら、そして彼と議論しながら、戦前の日系移民が新大陸への他からの移民と決定的に違っていたことについて思い至ったのであった。
つまり、「出稼ぎ」という言葉に示されている戦略である。

米国や中南米側からみたときに、「移民(移住者)Migrants」と一括りにされてしまう彼らが、実は「いつかは日本に帰るつもりの出稼ぎ者/人(sojourners)」であったこと、その結果ホスト国と日本と自分たちとの関係が、他の国や地域からの移民と著しく違う点であったこと、そして、そのことが第二次世界大戦直前から最中、そしてその後に及ぼした影響の大きさ・・・これらは日本人であればある程度推測できることが、英語の学術界では十分に理解されていないことが私には逆に驚きだった。

そこから私の関心はブラジルで生じた「勝ち組」「負け組」の衝突に向かって行った。この現象を、英語世界の人たちに分かる形で提示したい・・・と思ったのである。(大学の卒業論文は結局これをポルトガル語で書いたものであった。しかし、その100ページを超える大作も、引っ越しの際にどこぞやに行ってしまい、もはや幻のものとなってしまった…)。

また、日本向けには、初期の南米出稼ぎ者が、必ずしも困窮した人たちがいったわけではなく新天地で自分を試したいという野望を持った人たちが多かったことなどを突き止め、先行研究を引用しながら、一人一人の環境や想いを歴史的動態に繋げようと試みた。私が稚拙な英語で送るそれらのレポートを、彼は丹念に読んでは質問を返してくれた。それに基づいてさらにリサーチを進めていった結果、当初の予定とは大幅に逸脱する章立てとなってしまった。

結果、当初3人で書いていたこの本が2人の本となっていった。何故ならもう一人は南米をフィールドとする社会学者で、日本の歴史なんか興味ないのに本がどんどんそっちの方向に行くのに耐えられなかったからだ。出版社からも、日本の部分が長過ぎるとクレームがきたのに、彼は「ある歴史条件の中で、人が海外に向かい、滞在者となった後、移民になっていくプロセス」への私のこだわりにつき合ってくれた。本の表紙の写真を彼が提案してくれたときに、そのこだわりをいかに彼が共感し、共有してくれていたのか分かって、すごく感動したことを覚えている。

学部を終え、大学院に通いながら1年ほど追加で調査・執筆して、私の役目を終え、私はこれで一生学問と関わることもないな、という確信とともに、そして当時のパートナーに指輪を返し、戦争を終えたばかりのモザンビークに旅立った。その後も、本の最終化のプロセスであれやこれやがあったのだけれど、そのパートナーとのあれやこれやのもめた時期でもあったため、一切合切を記憶から抹消してしまっていた。。。今思えば、若かったなー。そこまで一生懸命忘れようとする必要はなかったのに、と。

でも、以上の色々を今日まで忘れてしまっていた理由には、本当の意味では自分のものに出来ていなかったことだったからということもあると思う。見よう見まねで、ただ流れに身を任せ、本を書いた。もはや恥ずかしくて読み直すことすらできない本を・・・。この本は、そのほとんどを担った彼のお陰で米国の学術本の選書トップ50に選ばれ表彰され、未だに米国中南米史学会から招待がくる。でも、それは本当の意味では私の実力ではないし、内実を伴ったものではなかった。その申し訳なさから、4年前まで彼に連絡を取ることすらできなかった。

人生というのは予期しない曲がり角を準備してくれるものだ。
モザンビークからかえった24才の私は、国連の次の仕事に行くか迷っていたのだけれど、自分のどうしようもない英語能力や専門知識の欠如をなんとかせねばんと考え、米国の大学院に行ってなんか学位ぐらいは取っておいた方がよいかな、などと考えていた。まあ、よくあるパターンの発想だ。それで修士論文を英語で書いておいた方がよいなということで、これまたどうしようもない英語でつらつら書いて出した途端に、阪神淡路大震災にあったのだった。

続きはまた今度・・・。
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# by africa_class | 2015-07-30 21:52 | 【大学1年生向け】基礎ゼミにかえて

三つ葉のトースト、生き延びるということ。そして、愛と若さについて。

病気の残存から1日1個ぐらいしか出来ない。
なので、今日は敷地の奥の森の自生しているヨハネスベリー(ふさすぐり<黒いのはカシス>)を摘みに行って、今ジャムと夕飯を作っているところで、後はストーブがやってくれるため、暇なんでこれを書いている。
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本当はパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』について書こうとしていたのだけれど、勝手気ままに書いていたら、ぜんぜん違う話(根本は同じだが)になってしまったので、そのままにしておく。

薪ストーブの良いところは、同時に鍋とグリルが使えることだ。なので、同時に夕ご飯も。今夜も手抜きで、庭のハーブで作ったサラダに、ミツバ&トマトトースト、組み合わせ的にとってもあわないと考えられる具沢山のみそ汁。これらを、同じストーブで、寝る前に飲むハーブティ(今は季節側ミントに凝っている)のためのお湯とともに準備中。というか、ストーブが勝手に準備している。

「薪ストーブ」という名前から「薪」ばかりに目がいくが、枝も立派な燃料。そのことに気づいてからは、ストーブでの調理は凄く楽になった。

なお、群生するミツバと翌日冷えてしまった手作りパンをなんとかしなきゃ・・・の一心で編み出したレシピ・ミツバ&トマトピューレ&ガーリック&チーズのトーストはおすすめの一品。子どもが小腹を減らすとこれを出せばボリューム感から満足してくれる。
今日は独りなので、さらに手抜きをして、こんな感じに。
・庭に群生中のミツバを刻んだもの
・昨夜の残りの海の幸&ガーリックトマトソース
・これに細かくちぎったチーズ
を買ってきたパンに載せを、グラタン鍋に並べてぶち込んだだけ。

以前作った時のもの(オーブンに入れる前)
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お味噌汁も具沢山な理由が、去年秋に自分で作った味噌の大豆自体が具沢山…。あまりにしんどくて、でも味噌が手に入らないドイツの田舎なんで、無理矢理味噌を作ったため、機械も踏みつぶすのもやめて、ただ手で潰した(踏みつぶすにはそのための袋を用意したりだし、機械を使うと後洗わないといけないので大変)。その結果、茹でられた大豆くんたちはつぶれきれておらず、ほとんど半分に砕いたぐらいの形態。なかなか味噌らしくならなかったが、10ヶ月を経て良い感じに。なので、みそ汁の味噌自体が大豆のつぶがもりもり…。でも、私こういう味噌実は好き。そこに、買い物に行けない時のために干しておいた今年の夏の収穫物、つまり化け物となったダイコンたちをただぶち込んだ。自慢じゃないが、凄く美味なみそ汁。この1品と玄米でお腹いっぱいになる。

家事はスピードが母からの家訓。
忙しすぎるが丁寧な暮らしがしたいという矛盾する自分と生活を成り立たせるために、「手間自体を愛さない」、「省ける手間は省く」、「今の手間がいざという時の楽さに繋がるのであれば、やる」ということをモットーにしてきた。こういう時に役立つもんだ。

でも、19で家庭を持った私は、どんな忙しくても、レトルトとか冷凍食品とかそういうのに頼ったことはないし、電子レンジも持った事もないし、トースターも炊飯器も持ってないし、まあ人から見たら、「手間やのー」ということはあるだろうが。要は、楽しめる範囲での手間を楽しんでいる。また、暮らしの基本が「循環」であることも、譲れない。これも、私の中では「抵抗の実践」の一形態だから。

さて、本題。
ここまで書いたら、ジャムが出来そうだ。
何の話だったか…。
そうだ、抵抗だ。

私に取って、以上のような日々の暮らしの色々は「抵抗」そのもので、思考と実践の両方を繋ぐもの。当事者性というのを私が持つとしたら、「生活者」というところからしか始まらないから。「学者然」としていた方が、個人的には遥かにメリットがあるけれども、そんなメリットを得て送る人生なんて何の意味もない。墓場にカネもメリットも名声も持っていけない以上、より問われるのは「どう生きたのか?」であって、「何を所有したのか?」ではないから。

死が切実に近かったから、今を生きる・自分らしく生きることに早くから目覚められた。もし、いじめや、自分が必要とされていないとか、自分が生きても何の意味もないと考えている若い人がいたら、いいたい。

そんなこと絶対ないよ、と。
あなたの命には、沢山の意味があるのだよ、と。
生きていれば、必ず本当に大切なことに行き当たる、と。
今、そう感じられないとしても、だったらそう感じられるところまで生きてみよう、と。

私は4つの時に、海に身を投げようとして、ギリギリのところで思いとどまった人間だ。当時、港のある漁村に暮らしていた。なぜ思いとどまったのかは、未だに思い出せない。ただ、「救われた」という実感だけが胸の中に残っている。目の前に横たわる暗い海のあの感じだけが記憶にある。

成人した後、そこを再び訪れた時、あまりにも村がちっぽけで、海も穏やかで浅く、拍子抜けしたことを思い出す。19才のあの時でも、あそこに足を向けるのはとても辛く、当時婚約していた彼に付き添ってもらって初めてそこまで行けたのだった。そういえば、あの彼も元気だろうか。籍こそ入れてなかったものの、彼の家族には本当の娘のように沢山の愛と支援を頂いた。ブラジルでの調査費を出してくれたのは彼のおじいちゃんで、彼のお父さんには学問的なアドバイスを、お母さんには女がプロとして生きることを、沢山教えてもらった。おじいちゃんとお母さんのお葬式に行けなかったことは今でも悔やまれるのだけれど、お父さんに本を送れたのはせめてもの償いかもしれない。お父さんには今年こそ、会いに行きたいと思う。

若さとは厄介なものだ。
とりわけ、幼い頃に刻み込まれた痛みを解消できない間は。
自由に沢山のチャレンジをしたい自分と、同時に愛されることで安心したいという自分の間で揺れ動く10代と20代前半を経験し、それがもたらした多方面の問題に、申し訳ない想いがある。今となっては、その「若さ」を苦笑したり、微笑ましく思えるが、当時はとても深刻だった。23才の終わりに、すべてを捨てて戦後直後のモザンビークに行ったのは、大変な決断だったけれども、心からよかったと思う。

女の子たちが、自己肯定感から男性に愛されることでなんとか自分の不安を埋めたり傷を癒そうとしているのを見るつけ、かつての自分を思い出す。

そんな彼女たちにいえることは、
それもまた仕方ない、ね。
ということ。

もっと強くなんなさい、とおばさんがいうのは簡単だ。
でも、試行錯誤をしてみないと、分からないものだから。
覚えておくべきは、自分の中にはちゃんと力が備わっているという真実。
他人の「愛」のように思えるものに、依存しなくても大丈夫。
あなたは、ちゃんと自分をいつか受け入れられるから。
その時、本当に解放されるのだよ、と。
自分が自分で与えていた呪縛から。

私が、ブレない自分の話であのようなことを書いたのは、そういうことだった。
「長い夜にブレない生き方について考える〜ガンジーの「ノー」の価値論と「五日市憲法草案」、そして沖縄」
http://afriqclass.exblog.jp/21326990

自分の中に軸がない限り、他人がどう思うか、他人に愛してもらえるのか、そこにばかり気が向いていってしまうことについて、私自身が経験をしてきたから。これは息子にも、多分伝わっていないと思うけれど、伝えてみた。「ふーん」としかかえってこなかったけれども。

恋愛は人を成長させる。
だけれど、まずは自分が自分を受け入れられないと、それはどこか誤摩化しになってしまって、本当の意味での自分の人生にはならないことを、頭の隅においてもらえるといいな。

まずは生き延びること。
そして、自分を受け入れること。
そして、その経験をバネに、他の人びとのために役立ててみること。
そして、時に始めた場所に戻ってみること。
愛し愛された人びとに感謝すること。

そんなところ?
偉そうにいえる私ではまったくないけれど、とりわけ私の友人たちは苦笑していることだろう!散々迷惑かけたから・・・。

でも、歳を取るということは何と素晴らしいことか、と納得している間に煮沸消毒していたジャムの瓶も乾いたようなので、ジャムを完成させる。

今日は、リースリング。
甘すぎるから嫌いだった。
安いワイン風で。
でも、ここドイツの風土にとってもあうワインなんだ。
これも年の功かな。
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# by africa_class | 2015-07-28 04:30 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

(その2)大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今。

ということで昨日の続き。
先に(その1)を読んでね。
http://afriqclass.exblog.jp/21484478/

といっても、ハーブ畑に大量に生い茂ったあらゆる草との今朝の格闘で、今実は疲れ果てている…。いなかった1ヶ月の間に野菜たちも化け物とかしていて、本当はもっと早くに秋野菜を植えなきゃなのにまずは夏野菜とお友達の草たちからなんとかしなきゃ・・・でもしんどい・・・で、ここまで来てしまった。農には、お天気・人手、心身ともの健康と時間が必要だということをつくづく感じる毎日。

しかし、放置がよろしかったのか、野菜も草も、そもそも植えてあった木々も、今は花真っ盛り。天国のように色とりどりの庭。見るだけなら、素晴らしい色合い。絵に描きたいほど。一年のごく僅かな出棺だけのこの眺めを堪能したい。けれども、油断すると種をまき散らすのでまた来年大変なことになる・・・が、今はこの花々に、ハチがぶんぶん、モンシロチョウもぶんぶん。切るに切れない。
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せっかくだから、前から挑戦したかった養蜂を来年はやってみよう。ラベンダー、アジサイ、ディル、アザミ、シロツメクサ、コンフリー・・・の花の蜜を吸ったハチの蜜って、どんな味がするのかな?という興味から。

「ハチ」というと、子どもの頃は怖かった。家でも学校でもすごく脅されていたし。でも、ハチに囲まれて暮らしてわかったことは、ハチもまた彼らの感性と論理があって、こちらが彼らの邪魔をしない&しないオーラを出しておけば、ほっておいてくれるということ。「邪魔しないオーラ」って何?・・・というと、「気を消す」感じ?ぶーんと飛んで来ても、何もせず、ただ気を消す。動きたければ、そーーーと引く感じ。すると、ハチもすっといなくなる。このあうんの呼吸を呑み込むと、ハチさんが群がっている花も少しだけお裾分けさせてもらえる。

またしても、続きのはずが前に進んでないわい。

で、1年以上前に何を書いていたか?・・・というと、日本平和学会に頼まれて『平和研究(早稲田大学出版会)』というジャーナルを編集していた。それは、『平和の主体論』という特集号になったのだけれど、そこに後書きを書かなければならなかった。だから、ナチス時代のドイツで形成された全体主義の問題について、今の日本と重ね合わせた文章を書いた。ハンナ・アーレントを引用しながら。「後書き」は、こう始まる。

 「東日本大震災とその後の東京電力福島第一原発事故から3年が経過した。そんな2013年末、小さな映画館で公開された映画が評判を呼び、異例のロングランとなった。「ハンナ・アーレント」と題されたその映画を、2013年の日本社会が欲した理由は何だったのだろうか。
 ハンナ・アーレントHannah Arendtは、ユダヤ系ドイツ人として生まれ、ナチス・ドイツの迫害から逃れ、アメリカで「全体主義の起源」をはじめとする多くの著書を記した政治哲学者である。
 全体主義体制は、第二次世界大戦あるいは東西冷戦の終焉にいおって、一部を除き「終わったもの」として久しく受け止められてきた。1990年代以降の世界における複数政党制民主主義の急速な拡散、移動手段や通信技術の発達による多様な情報へのアクセスの拡大ーーこのような時代に再び全体主義について考える必然性はどこにあるのだろうか」。

日本平和学会(編)『平和研究ー平和の主体論』早稲田大学出版会
http://www.waseda-up.co.jp/series03/post-711.html
(表紙の写真は、2014年2月にNGO・外務省定期協議会・ODA政策協議会で沖縄に行った際に、沖縄の高江で撮ったもの。モザンビーク農民の土地を奪われる苦しみと不安を、沖縄の人びとはよく理解してくれた。苦悩というのは他者の痛みへの共感と連帯の土台になりうるものなのだ、と改めて尊敬を込めて感じた)

この本が出てすぐ、その「後書き」が、現実に生じたことを先取りしていたため、このブログに駄文を書いていたのであった。そして、布団の中で書いたそれは、誤操作で見事消えてしまった…。でも、それでよかったのかもしれない。物事にはそういう思いがけない出来事があって、それぞれに「意味」があると思う。

で、1年前何故その駄文を書いていたのか?
それは、外務省JICAとNGOの「対話」の記録から、政府側が個人の氏名・肩書きを削除してきたと聞いたからだった。この対話は公開のもので、それまで記録は記名入りで掲載されていた。それが去年5月に突然、名前が消されて、「外務省」とか「JICA」とかの書き方にされていたと聞き、「あっ」と思ったからだった。

この記録をめぐっては、当日全く発言されてもいないことが事後的に書き加えられたり、当日言ったにもかかわらず(そして逐語議事録が提供されているにもかかわらず)「記憶にないから」と削除されることもあるという。さらには、NGO側の発言箇所にまで、丁寧にも、直接修正を加えてくれるというから厄介だ。一般には、こういうことは「記録の改ざん」とされかねないが、これらの機関ではどうもそうではないらしい・・・。違うと思いたいが、あまりに日常化しているということだろうか?こういう細かい芸当が得意な者ほど組織内で重宝され、評価が高いのも、税金で彼らのサラリーを支えている側としては「?」が大きい。

当日発言したことは、後で変更可能で、そもそも誰が話したかすら分からないようにできる・・・税金で支えられている援助事業の公開の話し合いの場で求めること自体が、一般市民には謎だ。透明性を高め、説明責任を果たすのは義務であり、責任であり、「市民の要求によること」でも「追加的なこと」でもないはずなのに?

つまり、自分の発言に個人として責任を持たない、持ちたくない、ということだと受け止めるしかないのだが、他に何か理由があるだろうか。でも、これも一度でも組織に生きたことのある者なら、きっと理解できる論理だろう。つまり、彼らだって可哀想なんだ。

彼らの論理では、このような問題事業を、好きで担当しているわけではない。たまたまそういう役目が回って来ただけで、運悪く担当になって、自分の名前が記録に残るのは迷惑だ。そもそも発言だって、個人の発言というわけではなく、組織のためにしぶしぶやってることだ。なのに、自分の発言としてもらっても困るし、自分の将来にも関わる、そいうことのようだ。これに同情する気持ちがないわけではない。渦中の栗をあえて拾った人もいるし、改善しようと努力している人たちが何人もいるのも知っている。そして、その人たちの努力に率直に敬意を払いたい。でも、だからこそ、名前を伏せるなんてことはあってはいけないと思う。名前を載せるのも憚れるような、そんな「問題事業」を始めたのは誰なのか、どの組織だったのか? 皆が自分の名前を隠して歩く限り、本当の意味で良くはできない。今良くできなとしても、教訓として未来に学ぶ時に、これでは学びようがない。

実際、政府の公開文書からはある種の人たちの名前がごっそり消されている。本当に丁寧にすべてのページから削除されているのだ。その人たちの名前を探して黒く塗るだけでも大変な作業である。これもまた税金である。そんなことをする理由は何なのか?「個人に不利益がある」ということを主張するが、名前が隠されなければならないほどまずいことをしてきたのもそれら本人ではないのだろうか。

そして、このような「自己の責任放棄」こそが、現在のあらゆる日本の問題に通じている以上、個人として同情はするがそれをよしとはできない。また、このような無責任体質によって、現地で人びとが苦しい目にあっているのなら、なおさらである。(それについては、今度は外務省・JICAですらなく、モザンビーク政府の「オーナーシップ」の責任にされている…!)

もう一点興味深いことは、1年前、個人名が削除されるようになっただけでなく、外務省やJICAの個人が良心に基づいて行った率直な発言は、事後的に組織的に削除されたことであった。つまり、個人の発言は許されておらず、組織の方向性に合致した言葉だけを話し、記録に載せることだけが許されるということのようである。

つまり、任期の2−3年がすぎたら、別の者に任務が置き換えられる以上、そこに個性など挟んではいけないのだ。つまり、「置き換え可能な塊」として存在しなければならない。

でも、本当はそうじゃないはずだ。
人は誰だって自分らしく働きたいし、貢献もしたい。
にもかかわらず、「名前を消す」「発言を消す」ことを主張するということは、そういうことを意味する。相手があることなのに、自分は匿名性に隠れる。時間が経ったら次に向かうだけ…人びとの暮らしは続いていくというのに。

この一切合財を最初知った時、何かの手違いかなんかかと思った。しかし、結局「記名を無記名に」するために、何ヶ月も政府側が粘り続けた様子をみて、彼らにとって自分の名前が記録に残るか否かがそんなに重要なことなのだ・・・・ということを、心底驚いたが、理解した、そして、これは、ある特異な例外的なケースではなく、2014年の現実ーー悪化する日本の統治体制の現実ーーとして、ある種の合点がいった。

そして、私が思い出したのが、『平和研究』に書いていたハンナ・アーレントの「自己の無用化」、つまり「誰でもない者による支配」の話であった。

そのシンクロさ加減に、さすがに心臓がぎゅーーーと締め付けられる想いだ。当の本人たちはそんな風にはみていないと思うけれど。2013年全般に問題なかったことが、2014年には重視されていく。この転換というのは、例えば2013年末に秘密保護法が成立し、その後原発最稼働し、安全保障関連法案提出までの流れを歴史的背景として眺めるならば、さほど違和感がないことなのかもしれない。

そして、これは外務省やJICAだけの話では当然ない(そしてこれらの組織の全員がというわけでもないことは、明白だろうが一応記しておく)。これらは、単なる一例にすぎず、広く日本に蔓延している問題なのだ。ここが一番の味噌である。詳細は上述の「後書き」に書いたのだけれど、ここでも少し(大いに?)披露したい。

**

アーレントは、「独裁体制のもとでの個人の責任」で、「なぜ服従したのか」ではなく「なぜ支持したのか」こそが問われなければならず、一人前の大人が公的生活の中で命令に「服従する」ということは組織や権威や法律を「支持した」事を意味し、「人間という地位に固有の尊厳と名誉を放棄した行為である」と断定する。そして、これらの「人間としての尊厳と名誉を取り戻す」ためには、まずは「服従」と「支持」の違いを考えなければならない、と主張する。

つまり、「仕方なく」「組織がそう求めるから」「上が命じるから(命じないから)」という言い訳に対し、「一人前の大人の人間としては不名誉で自己の尊厳を放棄した言い訳にすぎない」ことを痛烈に批判する。そして、結局それは「服従」ではなく、「支持なのだ」と結論づける。つまり、「自分の意志や意図ではないしぶしぶの受け身の行為(=服従)」と本人が認識しようとも、それは組織や全体の中で「積極的な支持」にすぎず、個としての責任が問われることなのだといっているのである。

確かに、消極的な行為であろうと、積極的な行為であろうとも、「従った行為」の果てにはその体制が支えられ、揺るがないという結果のみが立ち現れる。戦後多くのドイツ人は、自分たちも犠牲者であったと強調し、ホロコーストについて問われれば「知らなかった」「何も悪いことしなかった」「直接は何もしていない」・・・ということも多かった。しかし、まさにこの「積極的に支持はしなかった、ただそこにいて従ったにすぎない"one of them"の束」こそが、あのような政治社会体制を可能としていたのである。

そこに目を向けないのであれば、いつまでも自分の責任はないことになり、良心の呵責もないだろう。何より、自分は特定の個人として何もしなかったのでもなく、命令に従ったのではなく、あくまでも圧倒的多数の一人(One of them)にすぎなかったのだらから・・・との論理が可能である。そもそも、もっと責任のあるエライやつらがいたし、奴らの責任は明白だ。その影で奴らはいい目にもあった。皆それが誰か知っている(ヒトラーやその他)。一方、庶民にすぎない、「組織の歯車」にすぎなかった役人の私の名前は、どこにも書かれていない。直接殺戮の現場にいた収容所の看守だったわけでもない、と。

私のドイツの家族もこう口を揃えた。
「いつも気の毒に思っていた。私たちは差別なんて決してしなかったし、密告もしなかった」、と。「じゃあ、助けようとしたの?体制に抵抗しようとしたの?」という問いには、「そんなことは不可能だった」と。「不可能になる前に何かしなかったの?」という問いには、「分からなかった。急に一気にナチスが社会を国家を乗っ取ったから」と。これは、日本の多くの人の感覚と同じだろう。

これをアーレントは「自己の無用化」と読んだ。
「自分が行ったこと(行わないこと)と、その結果は無関係」という多くの人がもっている感覚。「私ぐらい…」「私なんて…」の一言に象徴される。これが庶民レベルで展開する問題もそうであるが、官僚レベルで行われることの影響は深く重い。彼女は、これを「誰でもない者による支配」と呼んだ。

自分を「自己のない=誰でもない者(Nobody)」が、国家や社会の制度部分を担い・回すことによって総体として現れる支配構造、それが全体主義であった。

善良なる市民感情、あるいは「仕事をしているだけだ」との想いをもった官僚感情を前に、それでもハンナ・アーレントは「人としての責任」を問い続けた。そうしない限り、再び全体主義は他者を破滅させるために蘇ると見破っていたからだ。彼女は、マッカーシズムに荒れる米国社会と、ソ連の国家体制、そして何より大虐殺を経験したはずのユダヤ人が作りつつあったイスラエル国家の体制を見ながら、これらの著作を書いた。アーレントは、人間は繰り返し過ちを犯すだろうという確信を持っていたから、筆を緩めず、彼女の考える書くべきことを書くべき手法で書き続けた。仲間からも厳しすぎると非難されても、なんらかの配慮で書くべきことの表現と中身を妥協することで、彼女の考える真理から遠ざけられてしまうことを畏れた。彼女は、まさに筆一本で闘っていたからだ。

アーレントが非難を受けた理由は、ホロコーストが悪の権化のような狂った憎むべき個人によってではなく、「凡庸なる(普通の)個人」によって行われたことを主張したからであった。あのような想像を絶する人類史上まれに見る犯罪が、「凡庸なる悪」という言葉で総括された時に、ホロコーストのサバイバーやその遺族の衝撃は大きかった。さらには、ユダヤ人協会の一部の者が自らの安全のために、体制に協力していたということを指摘したときには、その反発たるや凄まじいものがあった。

しかし、アーレントは、自らの理解、言葉、主張を変えなかった。なぜなら、本質は、人間とその社会の持っている傾向の問題にあって、この理解に行き着かない限り、犠牲者の名の下に(「ユダヤ人だから」)、あるいは「解放者」の名の下に(アメリカ)…今度は次の全体主義が準備されてしまうことが見通せたからであった。

この「誰でもない者(名前のない/伏せられた者)による支配」の根っこにある元凶を、彼女はあぜんとするほど平易なあっけない言葉で示した。つまり、「思考停止」である。

「思考停止」という言葉は、若者の間で長らく流行った言葉だった。
だから、日本ではあどけないニュアンスがある。
しかし、アーレントのいう「思考停止」はもっと根源的なものがある。人間が人間である理由は、人間には思考が可能だからだ・・・という前提において、「思考停止した者」とは「人間の尊厳と名誉を放棄した者」になる。

アーレントの結論はこうだ。
この「思考停止した凡庸なる人」こそが、世界最大の悪であるホロコーストを可能にした。
つまり、思考停止は悪なのだ。「自称普通の人びと」のそのような思考停止こそが、世界最悪の「悪」を招く。

きっと多くの人にはあまりにものあっけなさに、な〜んだ、と思うかもしれない。しかし、アーレントの話はもっと奥行きがあるのだ。

「人間」が「思考停止する」とどうなるかというと、「交換可能な塊」にすぎなくなる。もはや名前のある特定のあなたという人間でなくてもよくなる。労働力であり、官僚であり、全体の中の機能だけが重要となる。となると、「複数制」が否定され、一人が倒れても次が準備されればよく、あなたでなくても別の人でもいい。組織は続き、体制は続いていく。それもこれも、「名のあるあなた」は、「思考を停止し人としての尊厳を捨てて体制を温存させている=支持しているから」である。そして、この体制には、「よそ者」が生み出され、「全体」が優先さsれるが故に排除が目的化する。ナチスドイツの場合は、ユダヤ人や共産主義者等がその対象となった。これらの完全排除が全体の保全のために目的化される。

このプロセスを、アーレントの教え子であるヤング=ブルーエルは次のように説明する。
「全体主義は政治(的空間?)を破壊する統治形態であり、語り・行為する人間を組織的に排除し、最初にある集団を選別して彼らの人間性そのものを攻撃し、そこからすべての集団に同じような手を伸ばす」という(2008)。

つまり、体制にとって、自らの頭で考え、声を上げ、能動的に行為する主体を、ある種のレッテル貼りでその存在自体を排除してしまえば、社会を押さえ込むことができるというのである。

人間に与えられた自分の頭で考える・・・ことに目覚めた人びとが、「交換可能な塊」から脱し、自分の尊厳と名誉と責任において自分の名前で語り始めた時、そこに全体主義が破れる可能性が芽生えるものの、圧倒的多数の「思考停止の交換可能な塊となった人びと」がこれらを「よそ者」とレッテル貼りして完全排除をしていくことで、体制は加速度的に出来上がっていく。

日本においては、立上がる人びとを「左翼」「過激」「プロ市民」「中国からカネをもらっている」等と呼んで。

しかし、この話はそこで終わらない。
なぜなら、「他人事」として傍観していた「凡庸なる人びと」「統治側にいる誰でもない者=官僚」のところにも、全体主義の支配は及んでいくからだ。自分らしいことが、一つずつできなくなっていく・・・そんな不自由な社会が、いつの間にか自分を蝕んでいく。それでも、体制が崩壊するまでは安全だろうと思うかもしれない。しかし、全体主義が行う「よそ者」としてのレッテル貼りは、いつどこで自分や自分の家族に牙を剥くか分からないのだ。今日は統治の側にいる自分が、いつか逆転することすらあり得る。全体主義とは、個々の人間の幸福など目的にしない以上、明日は「我が身」かもしれないのだ。

名前を失い塊となり思考停止することを厭わない人たちが、国の統治を行い、同様なる凡庸な人びとが、これを支持する限りにおいては、犠牲となる人びとを生み出すことを必然とし、人類最悪の犯罪すら可能とするのだ。そして、これは遠い昔の話ではなく、今目の前で進行していることだと考えるのは、私だけだろうか?

エルサレムでアイヒマンは、体制や組織が下した決定を歯車として役割を果たしただけで自分の意志ではなかった以上、自分の責任ではなく、自分が個人としてさばかれるのはおかしいと主張した。彼は、自分の昇進ばかりを気にして、ただ粛々と仕事をこなした。その結果が、大量のユダヤ人の収容所への輸送であった。

それに対して、アーレントは、そのような言い訳をするアイヒマンについて、「(人間)主体としての自己放棄」こそがまさに「全体主義を生み出した悪」なのだと説明した。

映画「ハンナ・アーレント」の最後のシーンに、彼女が学生たちの呼びかけたことがある。

自分自身で思考する。
それが人間を強くする、ということ。
思考の営みは職業的思想家のものではなく、全ての人びとが日々必要とするものであり、他方そうやって得られた思考で関わるべきは「自分」ではなく「世界」に対してである、ということ。

だから、私は、2015年7月の暑い夏に、日本の大学生たちが、「思考停止」を脱して自分たちの頭で考え、「自己無用化、塊化」を避けて、自分の名前を堂々と語り、すべての可視化できる記録に残しながら、自らの言葉で語ったことを、賞賛せずにはいられないのだ。

彼らが失うものがないから・・・などという批判は無用だ。
今の学生がどこまで就職の不安を抱えて生活しているか、大人達はしりもしないから。
今の大学が、学生の活動にどこまで口を挟んでくるかも、知りもしないから。

私たちは、ただ、過去の歴史と、歴史の葛藤から紡ぎ出された豊かな著作と、若い人たちの躍動的抵抗から、頭を垂れて学ぶべきときなのだ。

全体を恐れ、その中に埋没し、隠れている場合じゃない。
今、このクリティカルモーメントにおいて、日本の「人としての尊厳を持つ唯一無比のあなた」が問われている。

「あなた」は、「置き換え可能な塊」なんかじゃない。
「あなた」は、「思考停止」なのかしていない。
自分だってNGOのように自由に発言し、行動したいと考えているのも知っている。
本当は、「あなた」は、素晴らしい独立した考えの持ち主で、自己保身や自己承認のためだけに働いているんじゃなくて、一人の人間として物事を変革できる「力」を持っていることを、私は知っている。
そして、苦しい想いを日々重ねている事も知っている。
行き場のない怒りを抱えているのも知っている。
その少しでも、表に出すことが、今必要なんじゃないのかな?


1年も経ったのに、この話を再び書こうと思った理由は、学生のスピーチだけでない。立教の声明を読んでのことだった。
「「戦争」とは決して抽象的なものではありません。具体的な名前をもった若者たちが戦場で向かい合い、殺し殺されることを意味します。そして、子どもたちを含む多くの戦争犠牲者を生み出し、いのちの尊厳を踏みにじるものです。1945 年までの戦争への反省の上に立って戦後日本が国是としてきた平和主義に逆行し、日本に戦争への道を開く安全保障 関連法案の可決に、私たちは強く抗議し、法案の即時廃案を要求します。 」

ノーベル賞学者の益川教授がこう述べている。
日経:物理学者・益川敏英氏「学問より人類愛せ」(戦争と私)
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO89240270T10C15A7000000/
「虫も殺せないような人が平気で人を殺せるようになってしまうのが戦争だ。組織の中で動いてしまう。だから恐ろしい」 「科学者は放っておいたら自分の研究室で研究している方が面白い。本人にそのつもりがなくても、自分が開発した技術が戦闘機に使われるようなことも起こりうる。それに気付いたら科学者は社会に報告すべきなんでしょうね。でも普通はしない。だから集会や社会に連れ出したらいいんだ。すると、平和が危ういということはすぐに分かるんだから」

学者や科学者だけではない。
援助を含めた政策立案者も遂行者も同じだ。
自分机や会議室の中にある世界で物事を想定している限り。

ここに書きたかった本質が表されている。
国家の政策は、一人一人の生命と幸福と財産を操るほど力を持ちうるものだというのに、その想定される対象には名前と顔がない「女性」「若者」「農民」「貧困者」を対象とする。それを司る側もまたトップ以外は名前なき役人・軍人らの塊によって遂行される。行為自体が、被害を招きかねない複雑なプロセスは軽視され、「戦争(殺し合いにかかわらず)」、「援助(政治を伴うものであるにもかかわらず)」と抽象的に表現される。

だから、決定とプロセスを主権者・主体の側に戻していくしか、方法はないのだと思う。
先人たちの屍と犠牲の上の民主主義の時代に暮らすというのは、そういことなのだ。
私たちは、名前を伏せるどころか、名前を取り戻すところから始めなくてはならないのだ。そんなことを考えた夏の夜長だった。

ハンナ・アーレントについては、以下の参考文献。
矢野久美子『ハンナ・アーレント』中央公論新社。
映画については、以下のオフィシャルサイト。
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/


*なお、ここに書いてあることを本当の意味で理解したら、そんなことはあり得ないはずであるものの、過去に起きた出来事が懸念されるので(あえてここで何が起きたかは書かないものの)、念のため書いておくのですが、この内容を「悪用」しないようにしてください。物事には多様な見方があって、そこに論争があって、そして社会は発展していくものなのです。

おやすみなさい!
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# by africa_class | 2015-07-27 00:21 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

大学生のスピーチに思う。「名を伏せた者たち」が進める全体主義の今(その1)。

若い人たちの感性に感銘を受ける毎日だ。
人類の歴史が示してきたように、危機は危機として、圧倒的に構造に下支えされた強いものである一方で、そのような中でも、一筋の希望が生まれる時がある。

「希望には二人の娘がいる。一人は怒りであり、もう一人は勇気である」と、アウグスチヌスが言っていたらしい。「安全保障関連法案に反対する立教人の会」の呼びかけメッセージで知った。
http://rikkyo9.wix.com/home
(↑とても良い文章なので読んでほしい。後でもう一度これを引用予定)

吹けば飛ぶような小さな灯りかもしれない。
でも、人びとと社会に温かな確かな励ましをもたらすに足る灯りを、若い人たちが生み出している。そして、まさに「健全な怒り」から、勇気をもって彼女たち、彼らは立上がったのだ。
そして、「希望」という名の、様々な色と大きさの花を、日本のあちこちで咲かし始めた。

「まっとうな怒り」すら、遠いものになりかねない、感覚が麻痺した「大人」の一人として、ありがとうを伝えたい。あなたたちに、気づかされたよ。そして、励まされたよ。「大人」達も、それに応えないといけないね。

実は、病床の中でも、彼女や彼らのことをこの1年見ていた。

最初は小さな小さな試みだった。
国会前で声をあげ、辺野古でおばあ・おじいと座り込み、多くの大人達の声に耳を傾けた。
沢山の試行錯誤の中で、自らを鍛えていった。
過去の過ちの轍を踏まないように、時に悩んだ。
…そうだった?

日本を出てしまった私に、大学を後にしてしまった私に、何が言えるのだ、との想いの中でも、皆を見ていた。そして、日本の政府や援助(とその主体)・マスコミの劣化を目の当たりにして、実は去年の4月に書いていた文章があった。でも、PCの電源がキレて消えてしまった…。その時は、病気もあって仕方ないのかな、と思ってそのままになっていた。そのことを、改めて書きたいと思う。

その前に、忘れないうちに二つのスピーチを紹介しておこう。いずれも女子学生たちのスピーチ。
ユーモラスで、柔らかで、なのにシャープでクリティカル、そして何より本質を突いている。「怒っています」との一言で始まりながら、感情的な文章ではなく、論理的に話している。

どこぞやのウソ、ごまかし、はぐらかし・・・しかできない方々とは雲泥の差だ。

…と思っていたら、こんな動画がYoutubeにアップされていた。
「【あかりちゃん】ヒゲの隊長に教えてあげてみた」
https://www.youtube.com/watch?v=L9WjGyo9AU8
本物も比較してみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=0YzSHNlSs9g

思考も思想も言葉も、街頭でもまれ、鍛えられる。
街に出たあなたたちは、本の中に埋没し机の上でのみ論じる学者よりいも、もっと切実に沢山のものを吸収している。落ち着いたら、また本に戻ればいい。あなたたちが先生たちを路上に引きずり出せばいい。先生達は、あなたたちから学び、あなたたちを支える側にいくべき時がきた。それは先生冥利に尽きる事なんだ、本当は。

結局のところ、教育とは、「共育」ことなのだと思う。政府や文科省の予算配分ばかり気にしている今の大学や大学執行部には分からない真理かもしれない、けどね。第一、彼らが見ている方向はお役所やカネ勘定ばかり。それもこれも、「大学の未来のために」といっているが、自分の雇用や年金への不安が原動力だったりもする。もはや、目の前の学生たちや、社会の課題ではない。今迄だって、どの程度学生を見ていたかという問いはさておき、社会課題に至ってはそれをなんかの競争的経費に繋げられないか?という発想からしか、アプローチできない。そして、政府にたてつくような課題へのアプローチ等は、考えてはならぬのだ。

で、そんな大学や先生を飛び越えて、学生たちは街角に出た。
そして、先生たちのもっとずっと先を歩み始めた。

2015年7月25日
大学3年生の芝田万奈さんのスピーチ
https://www.youtube.com/watch?v=WDbAd1CSDDk&feature=youtu.be

2015年7月15日
大学生の寺田ともかさんのスピーチ
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905
「 こんばんは、今日はわたし、本当に腹がたってここにきました。国民の過半数が反対しているなかで、これを無理やり通したという事実は、紛れもなく独裁です。だけど、わたし、今この景色に本当に希望を感じてます。大阪駅がこんなに人で埋め尽くされているのを見るのは、わたし、初めてです。この国が独裁を許すのか、民主主義を守りぬくのかは、今わたしたちの声にかかっています。
  先日、安倍首相は、インターネット番組の中で、こういう例を上げていました。『喧嘩が強くて、いつも自分を守っ てくれている友達の麻生くんが、いきなり不良に殴りかかられた時には、一緒に反撃するのは当たり前ですよね』って。ぞーっとしました。この例えを用いるのであれば、この話の続きはどうなるのでしょう。友達が殴りかかられたからと、一緒に不良に反撃をすれば、不良はもっと多くの仲間を連れて攻撃をしてくるでしょう。そして暴力の連鎖が生まれ、不必要に周りを巻き込み、関係のない人まで命を落とすことになります。 (中略)
  わけの分からない例えで国民を騙し、本質をごまかそうとしても、わたしたちは騙されないし、自分の頭でちゃんと考えて行動します。(中略)
  わたしは、戦争で奪った命を元に戻すことができない。空爆で破壊された街を建て直す力もない。日本の企業が作った武器で子供たちが傷ついても、その子たちの未来にわたしは責任を負えない。大切な家族を奪われた悲しみを、わたしはこれっぽっちも癒せない。自分の責任の取れないことを、あの首相のように『わたしが責任を持って』とか、『絶対に』とか、『必ずや』とか、威勢のいい言葉にごまかすことなんてできません。
  安倍首相、二度と戦争をしないと誓ったこの国の憲法は、あなたの独裁を認めはしない。国民主権も、基本的人権の尊重も、平和主義も守れないようであれば、あなたはもはやこの国の総理大臣ではありません。民主主義がここに、こうやって生きている限り、わたしたちはあなたを権力の座から引きずり下ろす権利があります。力があります。あなたはこの夏で辞めることになるし、わたしたちは、来年また戦後71年目を無事に迎えることになるでしょう。(中略)
  この70年間日本が戦争せずに済んだのは、こういう大人たちがいたからです。ずっとこうやって戦ってきてくれた人達がいたからです。そして、戦争の悲惨さを知っているあの人達が、ずっとこのようにやり続けてきたのは、紛れもなくわたしたちのためでした。ここで終わらせるわけにはいかないんです。わたしたちは抵抗を続けていくんです。
  武力では平和を保つことができなかったという歴史の反省の上に立ち、憲法9条という新しくて、最も賢明な安全保障のあり方を続けていくんです。わたしは、この国が武力を持たずに平和を保つ新しい国家としてのモデルを、国際社会に示し続けることを信じます。偽りの政治は長くは続きません。
  そろそろここで終わりにしましょう。新しい時代を始めましょう。2015年7月15日、わたしは戦争法案の強行採決に反対します。ありがとうございました」

これを丁寧に報じているのは、IWJだけだ。
http://iwj.co.jp/ (会員になって支えよう!)
全文をこおに掲載できるのもIWJのお陰だ。

私たちにIWJがいてくれて本当に良かったと思うし、他のメディアは何をしているのだろうと思う。どうでもよいタレントや有名人のどうでもよいスキャンダルやコメントや会話を垂れ流しにする暇があれば、これらの若者の声をそのまま流した方がよほど意味があると思う。<=制作費もタダだし。お茶の間の皆さんも、きっと興味を持つことと思う。「今時の大学生がこんなことを?」と。

私の研究室の電話には制作会社やテレビ局から「アフリカで何か珍しいことやっている学生紹介してください」というメッセージが山ほどかかってきていた。アフリカに行かなくていい。毎週金曜日に街角、国会前に行って、カメラを回し続ければいいのだ。

でもやらない。「政治」だから、お茶の間で「考えずにただTVの箱(今時、板か)を眺めていたい(と彼らが勝手に思っている)ばかな国民」には、「難しすぎる」と、TV人たちが考えているからだ。いや、ただ政権に睨まれるのが怖いためか?

また前置きが長くなった。
でも、もうこのブログの読者には「今更」だろう。

私が去年4月に書いていたことと、寺田さんのスピーチは密接に関係している。
「私たちは騙されないし、自分の頭でちゃんと考えて行動します。」

この何気ない一言は、実はすごく重要なのだ。
彼女が「自分の頭でちゃんと考え」てした行動とは、「自分の名前で語ること」であった。

この点が、ナチズムによるホロコースト(ユダヤ人や反ナチ等の大虐殺)の本質と関わることであり、再びあのような大罪を人類・国家・社会・一人一人が犯さないために、不可欠なことなのである。

それを成人間もない彼女たちが、軽く言ってのけた、やってのけている。
ごく当たり前に聞こえる「自分の頭で考えて、自分の名前で責任をもって行動する」を、どれだけの人が日々実践しているだろうか?名乗らないで行う数々のこと。

何人の官僚が、自分の頭で考えて、組織に隠れることなく、自分の名前を伏せることなく、責任をもって行動しているのか?

何も役所だけではない。
大学や、高校や、中学校や、小学校の先生だって、どうなのか?
新聞や、テレビや、雑誌の人びとだって、どうなのか?
JICA職員や、開発コンサルタントだって、どうなのか?
大企業のサラリーマンだって、どうなのか?

寺田さんや、柴田さんの勇気に、私たちは感謝しなくてはならない。
なぜなら、この日本の独裁・ファシズム・全体主義的状況の半歩手前の今、まさに「名を伏せた者たちの日々の「仕事」」によって、日本の民主主義は破壊に追いやられているからだ。

続きは、明日かも。
<=やっぱり翌日に。(その2)へ。
http://afriqclass.exblog.jp/21487530/
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# by africa_class | 2015-07-26 02:40 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

モザンビーク農民の声に触れて、今日感じたこと、そのまま

ドイツに戻って来た。
生命に家も畑も敷地も覆われていた。
命の内に秘めた力に、ただただ圧倒され、自分のちっぽけさ加減に無力感に教われる。
でも、近づいてこれらの生命に触れてみたら、その躍動的で深く渋い輝きに心を奪われた。

命とはウソのないものだ。
ウソと誤摩化しに塗れた東京での日々を後にして、その真理がじわりと心の中の温かな明かりを灯す。
農民の声がこだまする。

私たちのことを勝手に知らないところで決めないで。
私たちの「農民」の名のもとに進めないで。
あの人達には心がない、と。
心で聞くことができない、と。
私たちはただ自分のこれまでやってきた農業を続けたいのです、と。

そして、モザンビークに帰られたその朝、私たちにこう告げた。
「私たちは農民です。だからたとえ投獄されようとも、殺されようとも、闘いは続くのです。私が殺されても、他の者が続けるでしょう」と。

想いも寄らぬ一言に、私は訳す事すらできなくなった。
命を育んできたママであり農民である彼女の、そんな決意と一言に、驚き、圧倒され。
そんな想いをさせてしまった「援助」という名の「支援策」に、それを税金で支えている日本の市民として、ただただ申し訳なく、頭を垂れたままで。

経済成長の名の下に、進めてきた数々の開発政策。
その結果、どんな日本が今誕生したのだろうか。
命が育まれるのが困難な、幸せを感じることよりも不安を感じることの多い社会に。
頼る者が誰もいない砂漠に。
かといって独力では生き延びられないコンクリートジャングルに。

別の道を辿ることを放棄し続けて来た私たちの目の前に広がる廃墟と化した農村コミュニティ。
なのに自分たちが来た道が正しいと、モザンビーク農民に押し付ける。
それでも、コスタさんたちは笑顔だ。
どんな厳しい局面でも、持ち前の機転と笑顔を忘れない。
立派な農民たちを前に、「スーツ組」は何か感じてくれたのだろうか。
自分の腕一本で生活を支え、子どもたちを学校にやってきた農民の自信。

こういう農民こそを応援するのが、我々の援助ではないのか?
彼らを様々な工作で困らせたり、脅したり、内部分裂するようにバラマキをしたり、そういうことのために使われるために「援助」、税金があっていいのか。

彼らがプロサバンナに批判の声を上げた2012年10月以来、日本国内のダムや原発やそういった公共事業でやられてきたのと同じ論理で、「反対派崩し」「賛成派創出」が繰り広げられてきた。行政・JICAには当たり前のことなのかもしれないが、モザンビーク農民からは考えられないことばかりの連続だった。「国際協力」のはずの案件で、農民を貶めるような数々の出来事。

ガバナンスの悪い、民主主義が後退し、軍事主義が台頭するアフリカの国で、そんなことがどのような帰結を導き出すのか、考えてみれば分かることである。農民らは暗殺すら畏れる事態になっている。その責任をどう取るのか?これまで通り、「受益国の一義的責任/オーナーシップ」を隠れ蓑にするだけなのだろう。それを承知で進められた数々の「推進事業」。これも税金で出ている。

今の日本の農政や政治のあり方と援助も地続きなのだろう。
70年前、日本は世界に尊敬される国になろうとした。
そして今、その決意と努力のすべてを投げ捨てて、世界や隣人に嫌われ・戦争しても自分の利益だけを確保すればよいとの利己的な貪欲さを全面展開する国になろうとしている。
いつかきた道ではない。
なぜなら、あの時十分な形で民主主義も自由も情報もなかった。
今、私たちは先人たちの加害と犠牲と努力によって、前提の上ではすべてを手にしている。
しかし、それを一切内実化する努力を怠り、いつの間にか制度すら内部から切り崩され、どんな道理のあわないことにも囚われの身として黙認せざるを得ない一歩手前になっている。

土地に生きる農民たちの自信と決断の潔さとは、真逆の自信のなさと不安のなかに生きて。

モザンビークの農民はいう。
だいじょうぶ。明日の食べ物は土地と自分で生み出せる。
もちろん、足りないものもたくさんある。
でも、一方の私たちはそんな満ち足りているのか。
彼らの笑顔に、そんな一言を突きつけられているように感じたのは、私だけだったろうか?


***********
TBSのNEWS23で農民の声が紹介されたので。
2015年7月21日
「日本の大規模ODA、モザンビークの農民らが中止訴え」
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2545734.html
「アフリカのモザンビークで日本政府が進めているODA=政府開発援助の大規模開発プロジェクトについて現地の農民たちが来日し、中止を訴えました。いったい、何が起きているのでしょうか。」
****************


****2015年7月9日********
まったく書く余裕がないので、とりあえずTwittしたことを貼付けておきます。
私は、「教師の仕事」についても、本来「必要とされなくなること」が目標であるべきと思っている。「先生として求められること」に喜びをおきすぎることが、その目的を考えるに、いかに不健全なことか!親もそうだ。ただし、親というのは年を取るから分かりやすい。かつて威張っていた親も、いつか弱々しく、小さくなり、子どもたちに頼らなければならない。そうやって新旧交代の機会がある。


申し訳ないが、日本の「援助産業」はもはや末期的。そもそも援助が要らない世界の構築、援助者の仕事・稼ぎ・栄誉がなくなることが目的でないのか?そのためにどうすればいいかこそ、本来知恵を絞るべき点。要るといってもらうためにあらゆる工作を積み重ねて来た結果が、これだ。

7 分: @sayakafc 「日本の援助者」であれば平気なのかも?土地に暮らし自分の手で暮らしを支え、課題に直面しつつも共に乗越えんとする農民たちに「オルタナティブを出せ」と。他の人の社会に勝手にやってきて、当事者に何て台詞?日本のあなたの暮らしはそんな立派?援助で支えられる生活なのに?

17 分: モザンビーク独立40周年を迎えた。半分以上の歳月を北部の農民らと共に歩んできた。が、その21年の経験をしても「ホンマモン」の人から学ぶことが多く、自分の無知を恥じる。「センセー」「第一人者」と呼ばれることを捨て去り、ただ裸の私・Sisterとしてある時に得る理解は、次元が違う。

26 分: 明学講演会では、農民たちが作っている食べ物の多様性、それらを作り続けるためにどのような総意工夫をしているのか、どう調理するのかまで、沢山の写真とともに農民自身が説明。最後にエステバンさんが問うた。「JICAは私たち農民が貧しくて救わなくてはならいという。本当か?」と。胸に沁みた。

31 分: @sayakafc 今日がその最後の機会。参議院議員会館にて16時〜18時「「なぜ、現地農民は異議を唱えるのか?」日本の農業開発援助(ODA)・プロサバンナ事業に関する現地報告と声明発表。申込み締切は9日午前10時迄。未だ間に合う→http://mozambiquekaihatsu.blog.fc2.com/

33 分: @sayakafc 訳していて涙が出そうな瞬間、実はそんなにない。でも今日、農民たちの心の底からの経験に裏打ちされた一言一言に、切なく申し訳なく、他方感動。当事者ならではの本物の言葉。援助や開発を本や頭でしか理解していない若者、先達にこそ、聞いてほしい。「援助くれ!」以外の声を。

36 分: 明学での講演会終了。モザンビーク北部でコスタさんやアナパウラさんが営む農の姿に沢山の人に触れてもらい、本当に良かった。また、何故彼らが「小農支援」のはずの援助事業に反対を唱えるのか、凄く明確な話に目から鱗だった。本来は支援がほしいと言いたいところを、胸に迫る。明日その最後の機会
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# by africa_class | 2015-07-09 01:38 | 【考】土地争奪・プロサバンナ問題

長い夜にブレない生き方について考える〜ガンジーの「ノー」の価値論と「五日市憲法草案」、そして沖縄

たまたま目にしたこの言葉に、しばし立ち止まった。

「きっぱりと、心の底から発した「ノー」という言葉は、単に相手に合わせて、ましてや面倒を避けるためについ言ってしまった「イエス」に比べたら、はるかに価値のある言葉である。(『ガンディー 魂の言葉』)」


今の日本に、不可欠な言葉だと思ったから。
「相手に合わせる」
「空気に合わせる」
そうした方が、日本という国だけでなく、多くの国・社会で、格段に生き易い。

「はい」
とまで言わなくとも、何も
「いいえ」
なんて言わなければ、損することは少ない。

なのにあえて「No」という。
そして、ガンディーは「Yesよりはるかに価値のある言葉である」という。

これは、日本の多くの自分を「フツーの人」と思っている人にとって、理解不能な考え方かもしれない。むしろ、多くの人は辛くても、嫌でも、「YESといっている自分を褒めてほしい」と思うかもしれない。どんなに賛成できなくても、仕事だから仕方ない。どんなに嫌でも、嫌いな上司につき合って飲み会行ってる。笑顔で話してる。私ってエライでしょ?・・・そんな具合に。

そう。貴方はエライ。
その我慢もエライ。
それは褒められなければならない。

でも、それは社会全体を総体として見た時に、本当にそれでよいのだろうか?
あるいは、一度しかない人生を「自分」としてどう生きるのか?という問いを目の前においたときに?

それでも、やっぱりこれでいい。
そう答えるかもしれない。

でも、そうやって、日本社会は、あっという間に、坂道を転げ落ちるように、戦後、いや戦時中から、戦前からも、時に沢山の時に極僅かの人たちが命をはって獲得してきた大切な土台を、失ってしまった。

もはや、「失いつつある」とすらいえないほどに。

それは、日本の人びとが、あらゆる場面で、
それが、職場であれ、家族の中であれ、社会の中であれ、選挙であれ、
「おかしい」と思った時に、それを問わないまま、放置したこと、
「そりゃないだろ」と思った時に、誰かが声をあげてなんとかしてくれるだろう、と放置したこと、
積極的なYesでもNoでもなく、「そのままにしたこと」が、
この結果を生んだのだ。

「そのままにする」って、簡単だ。
「自分は責任を問われない」・・・はずだから。
しかし、本当にそうか?

ナチスドイツにおけるホロコーストも、圧倒的多数者はその論理で知らぬふりであった。隣人がガス室に送られるのを、「きっと安全なところに輸送されたのだ」「私のせいじゃない。私だって苦しんでいるんだ」「ユダヤ人に生まれたのが運の尽きなだけだ」等として、問うことなく、日々の生活を営み続けた。

そんな人びとの束が「社会」であった。
国家と同調する社会。
虐殺マシーンと化した国家を支える人びとの束、社会。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
そういうことなんだ。

日本でもこのようなプロセスに対する深い理解と社会の一員としての痛恨、未来に向けた誓いというものが、それなりにあった70年だった。それが土台にあって、世界に尊敬される日本のメリットを享受してきたのだ。アニメのお陰なんかじゃない。

しかし、そのような土台も蓄積も、あっという間に消えていきつつある。
これは、一体いつどこからどうして始まったのか?

きっと、私たちは、「土台」故に、空気のようなものとして受け止め、それを育み続けることを、怠ってきたということもあるだろう。と同時に、「グリード(貪欲さ)」に塗れた一部の人びとの欲望が、もはや止められないところまできているというのに、そのことに私たちはあまりに無自覚で、あまりにナイーブすぎた。そんなところまでは、ならないだろう。誰かがなんとかしてくれるだろう・・・と思っているうちに、外堀は埋まっていたのだ。

80年前と同様。
日本でも、ドイツでも、他の国々でも起きたように。

そして、今、「嫌だ!」「駄目だ!」という声を上げること自体が、あり得ないほど大変な時代が、再び到来している。70年間の歩みは、あっという間に歴史の針を逆走させ、かつての「あの不安」が、社会に蔓延している。

多くの人が、あの時は仕方なかったという。
しかし、その状況を生み出したのも自分たちだった。
そして、Noという声を上げる人たちを、時に差し出し、時に黙殺したのもまた、仕方なかったのだ、と。
一つの「No」を黙殺し、自分の中の小さな「No」をあきらめていく中で、社会はすべてが「Yes」一色とならなくてはならなくなってしまった。そこに、小さな如何なる「No」もあってはならなくなった時に、起きることははっきりしている。「No」となりうる人びとを殲滅しようとする論理と行動の正当化、そしてその実施である。

あるグループの被害は、しかしいずれ大多数の被害に拡大していく。
そのときもまた、多くの人が、「気づいてみたらもう遅かった」となり、その被害をただ「仕方ないもの」として引き受けていくのであった。

ロシアンルーレットのように、
自分の番にならなければ、
自分の損にならなければ、
考えすぎなければ、
自分のことだけに集中していれば、
なんとかなるだろう、
とも思っている。

あるいは、
「和」という日本の美徳を脅かすものは、けしからん、となるかもしれない。

では、
その「和」とは何か?と問われても、多くの人は答えられない。
それを強調する者ですら。
「和」の裏には、「強者の秩序論理」があって、歴史において少数者が抑圧に活用されてきたことなど、知ってはいけないから。当の強者ですら、意識しないままに、これを利用していることすら多い日本だから。

歴史の学徒として、150年ほどの世界と日本、アフリカの動態を眺めてきた者として、今「戦後」の最もクリティカルなモーメントに生きている、と感じる。前に前に進んできたかの人類が、今再び台頭してきた「グリード」の推進力に魂を持っていかれた一部の人たちによって、「逆コース」に向かおうとしている。これを支えるのが、おこぼれをもらう少数の取り巻き達、Noを言わない事で現状維持が可能と考える「賢い者たち」、薄々気づいているが自分には被害が及ばないだろうと考える圧倒的多数の「静かな人たち」によって、この動きはますます推進力をもって、進んでいっている。

そこで、「No」をいうことは、あまりに危険で、あまりに影響が大きい。
それを取り締まるだけの法的手段、前例まで、ここ数年に蓄積されてしまってもいる。
歴史は、「過ちの教訓」を与えるだけでなく、「どうやったら上手くいくかの教科書」すら提供するものだから。つまり、戦前のやり方を学んだ人たちが、大いに21世紀的にそれを活用しているというのに、人びとの側には、それを乗り越える歴史の参照事例をもたないのだ。

何故なら、日本は戦争に負けるという事によってしか、自らを解放できなかったから。
ドイツも同様であった。

だから、ドイツでは、歴史を学びながら、未来に同じことが起こる可能性を前提として、市民らが何をすべきなのか、法はどうあるべきなのか、国家と社会の関係はどうあるべきなのか、問い続けてきたのだ。

しかし、日本は、解放をただ有り難がり、もう二度としませんという誓いによって、これは守り続けられると思っていた。社会として、歴史に参照事例を持たない私たちは、せめて国家の論理によって消されてきた人たちの試みをもっと知ろうとすべきであった。そこで得られたはずの沢山の教訓と希望は、ごく一部の研究者やグループの読み物の中に書き記されているとはいえ、社会のものにはなってこなかった。NHKの朝ドラや、日曜日の大河ドラマで、これらの人たちが取り上げられたことなど、なかったのだ。

皮肉にも、日本の現在の憲法のオリジンが、日本の皇后によって言及されない限り、知られていないことの現実にこれは表れているし、彼女がこのモーメントに、あえてギリギリの手前のところでこの談話を披露したことの意味に、自分たち市民・市民社会の不甲斐なさに、頭を垂れるより仕方がない想いである。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html
「5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」


不思議なもので、彼女はまったくぶれていないのだろうが、世間がぶれてしまっていつの間にか彼女が最先端を歩かざるを得なくなっている。

放射能汚染物質は、ますます海を大地を汚し続けているというのに、そしてそれはどうやって収束するのか皆目誰にも検討がついていないというのに、それを問題とする人がおかしいという空気が日本では生まれている。

おかしなことをおかしい・・・といえない空気。
おかしなことをしている人たちこそが、開き直ってエライかのように振る舞っている空気。
嘘をついても、それを言い逃れさえすれば良い。
嘘も繰り返しいえば、そのうち皆あきらめるか、そんなもんかと思い始める。
かくして、今日も、大人達は平気で嘘をつき、自分で作ったルールを破り、それでも自分たちは正しいのだと主張する。

そんな空気は、いつの間にか子どもたちにも吸い込まれていて、親も教師も子どもたちを制御することすらままならなくなっている。

でも、これは私たちが生み出した社会、子どもたちなのだ。
私たちは、皆もはや何が「正しく」て、何が「間違っているか」が分からない世界に生きている。
なんでも「あり」なんだ。
自分さえよければ、自分がまず重要。
その肥大化した自分が、社会の中でぶつかり合い、そしていつの間にかもっと大きく肥大化した「自分」のために生きる人たちに利用されている。そのことによって、実のところ「自分」は大切にできない社会が生まれているというのに、気づかない。

気づかない、というのは幸せなことだった。
社会がそれなりに回っているときには。
今は、気づかざるを得ない場面が、ますます増えていっている。
しかし、その「気づく」は、それを本来解決するための未来の方向ではなく、それをより極めさせるようなネガティブな守りの方向に、向かっていくようになるだろう。

不安というものの作用とはそういうものだから。
不安とともに生きるのは辛い。
明日ははっきり見えている方がよい。
そして、嘘でも未来は明るいといってほしいものだ。
信じることで救われたい。
Yesということで、相手にも受け入れてほしい。
Noだなんて、もってのほかだ。

不安とは、パワフルなものだ。
そして、底なしである。
それを打ち消そうと人びとがすることの多くが、大抵真逆の効果をもっていたりする。
特に、それが集団心理になった時、不安を解消しようとする行為の多くが、「他者」とこれらの人びとが名付けた個人・集団への暴力を伴うことは、歴史が示して来た通りであった。そして、それを知ってて活用する一部の「グリード」があったことも。

今の日本は、おそらく、その一歩手前にいるのだと思う。

だから、戦後の日本で、今ほど「No」ということに、価値があるモーメントはない、と言い切ることができると思う。それは、道ばたのノーかもしれないけれど、自分の日々過ごす場でのノーかもしれないし、会話の中のノーかもしれない。テレビを消してしまうノーかもしれないし、買い物のときのノーなのかもしれない。

そして、私たちは、その「ノーたち」を、他者に語り始めていくしかないのかもしれない。「やっぱりこれはおかしいよね」「やっぱりこれは受けいられないよね」、そんな言葉を、つぶやいていく。

でも、本当に重要なのは、その「ノーをいえる自分」であって、そこには一つ重要な点がある。
「ノー」といえる自分は、自分をまずは抱きしめてあげなければならない、ということ。

自分が自分として立つ・。
そのためには、自分を受け入れてあげなければならない。
ヒトがどうであれ、自分を愛してあげなければならない。
そのままの自分を。
ヒトと比べての自分ではなく、
なりたかった自分でもなく、
今のどうしようもない自分を。
間違いだらけで、足りないところだらけの自分を。
自分自身にすら隠してしまっている自分を。
どこからか引っ張り出して、抱きしめてあげなきゃいけない。

もう何年もベットの下に落ちっぱなしになって忘れていたウサギの人形のように、
しっかりただ抱きしめてあげなきゃいけない。

そこからしか始まらない。
自分が愛せない私だからこそ、ヒトの愛に依存するのではなく、ヒトの何かを奪うことで不安を満たそうとするのではなく、自分をまずは受け入れることによってこれらの誘惑を乗り越えなければならない。

かつて私がそうじゃなかったなんて、いわない。
自分がそうであったからこそ、書いている。
そのことに気づくのに、とてもとても長い時間が必要だった。
辛い想いも沢山必要だった。
ウサギの人形はいつもそこにあったのに、気づいてあげられなかった。
でも、気づいてしまったら、そしてそれを抱きしめたのなら、もう大丈夫。

その時初めて、自分以外の他者の痛みに、本当の意味で共感できるのだと思う。
ヒトの痛みを自分の痛みと感じ、ヒトの喜びを自分の喜びと感じた時に、得られる世界の豊かさに、圧倒される想いである。

そして、自分が自分の足で立った時に、次に問われてくるのは、その足が一体どこに着地しているのか?ということ。自分の足は一体誰の側に立っているものなのか、ということ。

社会は多様な人から成り立ち、多様な立場と多様な見方がある。
そして、おそらくそのどれもが正しいのだと思う。
しかし、時に、求められているのは、どこに、誰の側に、何故、立つのか?ということに関する決断であり、それについてはやはり試行錯誤が必要なのだと思う。

私は、「負ける側」に立とうと決めて生きてきた。
そして、それを損だなんて、思ったことは一度もなかた。今もそう思ってない。
ただ、それは難しいことであって、とても沢山の努力がいることなのだ、と今痛感している。

「負ける側」から見えてくる世界は凄まじく豊かで深い。
そしてそこからは「勝つ側」もよく見えるし、世界の構造もよく見える。
他方、「勝つ側」にいては、その一部が押し付けてくるものの見方しか見えない。
だから、「負ける側」に軸足を置くことは、すごく豊かな思考のプロセスを提供してくれることなのだ。
アフリカの歴史を学ぶことがそうであったように。

今、沖縄で起きていることは、私にそのことの意味を訴えかけてくる。

「なんでもありの価値観の時代」に生きる私たち世代は、一見すべての価値がフラットにみえるこの世界の欺瞞を、「負ける側」に身を寄せることで知り、ある価値のために闘う人たちから学ぶべきところを学ぶことすらできないで、彼らを「ごく一部の他者」扱いにするのだとしたら、彼らが最前線で闘っている社会の価値の意味を、私たち自身が踏みつけ続け、自分たちの未来を実際のところ閉ざしているということに、今気づかないとしたら、もう本当に手遅れなんだろう、と思う。

今日も地球の片隅で、愛するが故に価値あるノーをつぶやく。
そして、つぶやきながら、大地に感謝して、命の糧を頂く。
その往復運動が、人類の歴史の歩みの中で、いかに世界各地でやられてきことなのだと、いつかもっと具体的な形で皆に知ってもらえる方法はないか、と考える夜である。

息子達がサッカーの試合で遅い夜に〜。
あ、、、帰って来た・・。
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# by africa_class | 2015-06-10 04:35 | 【311】未来のために

畑のカエルに感謝し青ネギの花を食す日、命の循環の一部として生きてみること。

なんだか反響があったようだが、今は農繁期で、あれやこれやであっという間に時間が経った。

この時期は、一日畑に行かないと、違った様子になるというぐらい、自然の命の力はすごい。元はコンテナハウスがあった跡地に、森の土を入れて藁を撒いて、草を刈っては撒いて、色々なものを植えていたら、ミミズが顔を出し、ナメクジが現れ、芋虫やアブラムシがきたと思ったら、てんとう虫が飛んできて、あっと思ったら巨大ナメクジが衝撃的に現れ、今は畑を回るたびに、ガサガサ・・・と何かが逃げる音。よくみたら、カエルちゃんであった。

刈草マルチをしているので、あんまり水やりに神経質にならなくてもいいのだけれど、カエルのことが気になって、井戸水を撒きに行く。

森の朽ち果てた木々を薪割りをして、冬に選定した木々の枝を集め、3食毎日薪ストーブで調理をして半年。森の朽ちた木々の息子の気に入ったものは、彼の木工作品に変身するが、気を削って出てくるおがくずは、着火用の火種となり、その灰は畑の栄養分となり、余すところがない。当然ながら、ここでも生ゴミはコンポストとなり、愛猫ピーさまの落とし物とともに堆肥となっていく。命の循環に感謝して、日々を過ごしている。

深大寺にいたときから思っていたけれど、自然の循環というのはすごいものだ。一つの種をまくと、その成長に伴って次の生き物がやってきて、その生き物を目指して別の命がやってきて、つまり食物連鎖というのか、小宇宙というのか、小さな畑にいても、それを目の当たりにすることができる。農薬を使ってある生き物だけを「守ろう」という考え方の限界を目の当たりにする。

かつて、そら豆にあまりにアブラムシが群がるからせっせと自然農薬をつくって撒いていたが、実際はてんとう虫がきてくれるのが一番効果があって、自然環境を多様化して自然農薬も我慢すると、いつの間にか沢山のてんとう虫がやってくるということに気づくまで3年かかった。

あ、一点伝えておかなければ。自然農薬といっても、殺すためにあるわけではなく、虫さんたちにしばらくどいてもらうため、あるいは近づかないでおいてもらうためのもの、と考えて頂ければ。

庭は、キッチンの目の前にあって、引き戸でそのままベランダから行けたということもあって、キッチンの排水(勿論洗剤など使わず)は、すべて庭に返していた。生ゴミはコンポストに。コンポストの場所を少しずつ変えて、東京の住宅街だというのに、そして元はじゃりだらけの駐車場だったというのに、森の中にいるような匂いのふわふわな土ができた。あの土ではなんでも良く育ち、育ちすぎていない夏の間は、アマゾンのジャングルよりジャングルらしいほどで、カマなしには玄関に辿り着くのもやっとなほど…。そこまで土と生態系を豊かにするプロセスが何より大事なのだ、と気づいた頃に大地震と原発事故が起こった。

昨冬の間育ててた室内のトマトが、ある時アブラムシの大群にやられて(あるいはアブラムシが温かさ故に異様に繁殖し)、さすがに室内なんで天敵がいないため牛乳の残りを薄めてスプレーしたりしていた。でも、結局は春先に外に出したら途端に解決。でも、室内にも、アブラムシに気づいた途端、てんとう虫が一匹うろうろしていたので、彼らの嗅覚(?)というか察知能力はすごいものだ。これって、どんなに隠しても甘いものを家族が見つけてしまうことのようなものか。

それにしても、冬とか春先にトマトを食べようなんて思ったのがいけなかった。
やはり旬のものは旬に食べる・・・という法則。つまり、自然のサイクルで生きているものを食べる、自然にあわせて栽培するのが一番なのだと、実感した。そうは分かっているものの、サラダにやっぱりトマトほし〜と言われると、そしてスーパーで6つが3ユーロのオーガニックトマトを買うのを見ると、そんなん自分で作るわいと思ってしまうのであった。

でも、やはり季節を外して作るものは弱い。
室内でわざわざ作るのであれば、上に書いたような問題も出る。

しかし、これは作り手側の問題ではなく、食べたい側、消費者側の問題の方が大きいと最近は思う。どうしても不足する時に高くなるので作る側はそれにあわせることになる。それに、消費者は年がら年中店にトマトが並んでいてそれで当たり前。日本で作れなければ、どこかから運べば良いと・・・その方が結局安いなどという矛盾。

だから、私は日本の日々食べる人たちに、「消費者」という意識を捨ててもらって、少しでも「作り手」の側にきてほしいと思う。この際、ベランダ鉢植えでもいい。食卓の一つのハーブの鉢でもいい。何か育てて、それを食べてみてほしいのだ。そうすれば、自然の移り変わりの中で、植物を頂くということの意味と手応えが得られると思うから。そこから、何を、どうして、どう食べるのか・・・にいくには、未だ距離が大きいかな。

息子たちの「年がら年中トマト愛」に直面して、そして毎日霜が降りる冬のドイツで、そして円安ユーロ高の、さらに先行きが見えない人生計画の中で、これは抜本的に意識を変えてもらわねばならん、そのためには自分から・・・と思ったのであった。

とはいえ、なかなか回復しないもんで、子どもの頃からはまっていた薬草図鑑の世界に迷い込んだということもあった。原発事故前の深大寺では、相当色々なものに手を出しており、近所の子どもたちを動員して、野川沿いの野草を摘んだりしていたものだったけれど、今から思うとあれは序の口だった。

とにかく、冬寒しのドイツの庭で、何か食べるものがないか・・・週に1度の買い物の外出だってままならない(体調的に)のに、家族の食事を準備しなければならない状態にあったというのもある。ショッピングリストを渡しても、その通りには買ってもらえないし、やっぱり「3ユーロトマト!」がかごに入ってしまうのであった。

庭の「雑草」、いえ「野草」に目がいったのは、これらの理由から。野菜の薄まった緑に対して、野草の緑の濃さを見比べてほしい。この緑の濃さこそが、強さであり、生命の力強さなのだと、今年の冬はことさらに思った。そして、野草たちは、我が家の食卓の救世主であった。ずいぶんと毎日お世話になった。

野草茶、野草カレーなんて序の口。野草天ぷらも、それがオオバコだったり、ウツボ草であったりしても、ごく普通。我が家では、タンポポの葉の炒め物、あきのげしのサラダ、紅花の葉っぱのお味噌汁、タンポポの根っこのきんぴら、オオバコの種のふりかけ、オオバコのお好み焼き、イラクサのピザ・・・どこまでやるんじゃ、というぐらい特に畑に野菜が不足する冬場は重宝し、色々チャレンジした。ただし、野草は冬よりも、春から夏が一番生命力に溢れ、本来の食べごろ(旬)であるが。

それにしても、そんな料理を有り難く食べてくれる14才はなかなかおらんだろう。親が親なら、子も子である。今日は、畑の青ネギとダイコンが放置しているうちに花を咲かせたので、それらとルッコラのサラダを実に美味しそうに食べてくれた。最初は「本当にこの花食べていいの?」と懐疑的だったが、チャレンジ精神旺盛故につい食べてしまってくれた。よしよし。今日も騙されたな。実は私も初めてとは伝えていない!

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(ダイコンの花、ダイコンの葉っぱ、ルッコラ、青ネギの花に、去冬に作ったタラゴン・ヴィネガー&バジルオイル、黒オリーブ、軽く干したニンジン、擂った黒ごまを添えて)

ちなみに、ネギの花は大変愛らしく、しかもむちゃくちゃ美味しい。これ発見。何事にもチャレンジが重要。我が家では、根野菜は必ず干してから(30分でも)使うが、これも食べ物の滋養を高めるので、おすすめ。太陽の恵みというのは、限界がないもので、これを深大寺の時のようにお湯に使えていない現状が哀しい。(OMソーラーシステムを入れていた。つまり、空気と水を太陽熱で温めていて、太陽力だけで1年の半分以上はお風呂に入れたのだ。)

ちなみにOMソーラーシステムは、入れるとなると150万円ぐらいかかるが、10年以内で確実に元が取れる。というのも、日本の住民が一番熱源を使うのは「風呂のお湯」であるから!これが、半年以上太陽熱で賄えれば、そして暖房費もシステムで激減させられれば、月1万円程度の余分な負担は10年で確実に元が取れる。その後は、「儲け」ばかり〜。ちなみに、我が家は、電気代は2000円を超えた事はほとんどなく、ガス代は1000円程度。しめて3000円〜程度だった。冬もそう。初期投資にかかるカネをどうするかの問題はある。でも短期と中期、長期で、考えるべし。
http://omsolar.jp/

自然って面倒じゃないですか?
よくそうもいわれる。
そういう部分もあれば、そうじゃない部分もある。

例えば、庭の野草や野菜を食べるのであれば、その日その場で新鮮なものを摘んでこれるし、買いに行く手間も冷蔵庫も使う必要がない。大量に出来たのであれば、乾かしたり、油や酢に漬けたり、冷凍したりしておけば、料理にひと味付け加えるときや、何もないときにさっと彩り・香り・栄養を加えることができる。

生ゴミも自然に返せば、臭い水分たっぷりの生ゴミを保存したり、蠅がたかったり、ましてやそれをお金を出して回収してもらったり、燃やされるところまで運んで、焼却して二酸化炭素と窒素を排出したり(!)、しなくても済む。歩いて数歩のコンポストにいく手間と、ゴミとして出すのと、実はそれほど違わない。違うとしたら、「意識」と「慣れ」の問題なのだと思う。

薪ストーブでクッキングも同様。慣れるまでの時間を過ぎてみれば、薪の形態(針葉樹林か広葉樹林か、太いか細いか)、枝の形態、おがくずの形態(粉か大きめか)・・・等で大体の火加減はできる。しかも、トップだけで4つの鍋が置けて、なおオーブンでパンやケーキも同時に焼ける。同じ熱源(一本の薪)で、どこまでも効率がよいし、さらに部屋全体もあったまるのである。どうして我々は、薪ストーブを調理器具から切り離してしまったのだろうか。(ドイツの場合)

今や、薪ストーブはただの暖房器具。誰もこれで調理などしていない。そもそもクッキングストーブでドイツのメーカーのものはほぼ不存在。我が家のストーブも北イタリア製。なぜなら、イタリアは住宅が外断熱ではない分、冬は寒い。そこで各部屋に薪ストーブがあることも。で、ピザを焼くこともあり、薪ストーブはアパートでも自然と食卓にあるそうだ。ちなみに、日本と違って凄く安い。が、煙突が高い…ドイツ事情。

薪ストーブで調理していると聴くと、大抵の人が「どうせ少しだけでしょ?」と思っているかもしれないけれど、家は一日中ストーブがついていて、そこで何かしらやっている。といっても、調理に使わない時は、灰の中でじっくり堅い広葉樹を燃やすので、寝る前に1本入れて朝までついていることもある。

キッチンの主役に躍り出た薪ストーブでは、コーヒーのお湯を沸かしていることもあれば、フットバス用のハーブや薬草茶を煮出していることもあれば、じっくり遠赤外線効果で昆布から出しを2日かけて取っていることもある。野菜スープは切った野菜と干した野菜を入れた鍋を、ただストーブの上においておけば、いつの間にか出来ている。ご飯も同じ。土鍋をおいておけばいい。まな板も網なども、ストーブの端っこで乾かすし、ふきんもストーブの取手でいつも乾かせるので、ぱりっとしている。こんな優れもの、どうして誰も使わないのだろう。

特に、森に囲まれている日本の農村で、どうしてオール電化のIHクッキングなどという馬鹿げたものが導入されていくのか、実家にいくたびに絶望的な気持ちになる。あらゆる意味で、「里山」の仕組みは理にかなっていた。国土の7割を森林で覆われる日本を外から眺めると、もっと色々な可能性があるように見えるのだが、その「可能性」を実践に変えていくだけの人材すら、奪われた近年だった。外を見た若い人にこそ、日本の農村で面白いことができると思うのは、甘いだろうか。

世界的に見ても、そして自然エネルギーで消費電力の3割を生み出すドイツから見ても、日本は素晴らしく豊かな自然の恵みを、まったく無視しているどころか、ますます外から来た、あるいは危険を冒して作られる高い熱源に頼ろうとしている。しかも、暮らしの中で、自分の手の届く範囲に、自分の使うエネルギー源を持つとしたら、色々なことが自分の手の中に戻ってくる。これまで電力会社に払っていたお金、電力会社が行っている沢山の不正、外で木々の中で過ごす気持ち良さ、炎を見つめることで身体を芯まで温めてもらうおかげで得られる治癒力、家中が薪になるがその落ち着く香り、燃やすと出てくる香ばしさ、ストーブの周りの会話。ただIHで調理していて、これほどの会話は生まれないし、一人で調理するはめになる。

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何よりIHは人間が使うただの道具で終わってしまう。他方、停電したり故障したりすると途端にお手上げ。料理という命をつなぐ家族団らんの源すら、自分でコントロールできなくなる。つまり、道具のはずが、その道具に食をコントロールされているということなのだ。

薪ストーブでの調理は、もちつもたれつの共同作業。その関係はストーブと調理者に留まらず、庭や森の木々達。木々を取り巻く環境。その木々のお裾分けに預かる我々。薪を割る斧と人。このような「関係」を取り戻すことが、「食」と「エネルギー」の可能性なのだと常々思ってきたが、今クッキングストーブを手にして、自分の中でのミッシングリンクが解けた気がしている。

汗をかくが、自分たちの手元に自分たちの生を育むために必要不可欠なものたちを取り戻していく。足りない部分は他に委ね、助け合い・・・なんてことはない。世界各地で人間がやってきたことだった。

「奪わないと生き延びれない」というマインドを、大きな帝国は繰り返し臣民たちに押し付けてくる。「奪わないで生き延びる方法はないのか」を考えさせないように、仕組みができ、教育と広報ができている。食とエネルギーは、自分たちの日々必要不可欠とするもの故に、このように統制されてしまった臣民には、根幹の問題である。故に、「パンのためには他者への暴力は許される」とばかりの、為政者たちの宣伝に、煽動されてしまうのであった。

「ひとつの命への暴力は、すべての命へとつながる。こうして、わたしたちは、この世界の暴力から、ひとり無縁でいることはできない。(『ガンディー 魂の言葉』)」

歴史はそうやって悲劇を繰り返してきた。
だから、食とエネルギーを自分の手に負える範囲に取り戻していくことは、単なる「エコな私に酔いしれる」ためではなく、本当の意味で、自立した自分・社会を取り戻していくために必要不可欠なステップなのかもしれないと考えている。これは何も、自分の敷地内に畑がなくてはならない・・・ということではない。今、日本は空き地・空き家だらけ。課題こそ、工夫を生み出し、考えてもいなかったような次の創造を生み出す、はずなのだ。

ちなみに、我が家の斧は隣の家のおじいちゃんに借りたものだ。
あえて買わない。
おじいちゃんに借りるということで、森の恵みに感謝する薪割り活動への連帯が生まれる。
おいしいクロアチアのガーリックももらえる。
時に、ワインも飲ませてもらえる。
あれ?もらってばかり?

斧が我が家にやってきた理由。
何度いっても、自分の敷地にある膨大な朽ちた木々を薪にしてくれなかった連れが、隣家の実は84才のおじいさまが、毎日元気に薪割りをやっているのを目の当たりにして、そして製材所から薪を買っているということを(家に木がいっぱい横たわってるのに!)呆れられたのを受けて、俄然やる気になってくれた。今では、毎日健康のため薪割りにいそしんでいるのはいいが、満足度が高いのか、それしかやってくれないという問題もある。

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そういえば、芝刈り機も借りっ放しだ・・。
広大な芝生は去年は手動でがんばったものの、今年は春に誰もいなかったこともあり、ほとんど「アフリカの草原サバンナ」状態。つまり、くさぼーぼー。手動ではまったく前に進まず、お隣の軽油芝刈り機の登場。登場といっても、そもそも隣の人が年の半年はクロアチアにトレーラーハウスで行くので、不在時に庭の芝刈りのお手伝いバイトを請け負った息子が、勝手に隣の芝刈りを持参してやっているのだが。ちゃっかり、こちらの家の分のお駄賃も稼ごうとするので、喝を入れておいた。というか、隣にもらうからいいやん!そもそも誰の庭やねん。

本当は他に書きたかったことがあったのに、、、、、、、。
今日は、息子が学校の一大イベント、「演劇」で「蠅の王(Lord of the Flies)」(ウィリアム・ゴールディング)をやってきました。震災・原発事故があって、ドイツにきて早4年。なぜかクラスのリーダーとしてこの劇を仕切り、誰もやりたくない最も台詞の多い悪役を引き受け、見事に「蠅の王」を「え?それ地?」というほど狂気迫る感じで演じたそうな。(「そうな」というのは、未だそこまで体調が回復していないため私は参観できなかった。。。彼の父親とお友達への聞き取りより。今度DVDでじっくり観るのだ)

「環境が人を育てる」というのも一理あるし、「やっぱり本人の意思」というのも一理ある。
自らの意思ではなく、状況の中で、泣く泣くドイツにきた息子が、こんな風に、しっかりとクラスや学校、社会の中で役割を果たしながら、成長していくのが嬉しい。実際は、心の中に秘めた想いや沢山の傷もあるのだと思う瞬間も時にあるが、それでも前に前に一歩ずつ進んでいく若い力をみると、私もがんばろう…という気持ちになる。教えるより教えられることの多い子育てであある。(相変わらず、サッカーのバッグに臭い靴下を溜め込んだままである点は、まだまだ甘いが)

日本の人たちは、すぐ「語学は?」とか「文化的に?」という質問をするのだけれど、問題はそこではなかった。息子をみてて本当にそう思う。むしろ、新しい状況の中で、自分としてどう生きていこうとするのか、その「姿勢」の部分だったと思う。彼は、辛さの中でも、「日本を離れて、ドイツにある自分」というのを、自分なりのやり方で積極的に活かそうとした。その姿勢こそが一番大事であり、かつ他人が教えることも、やってあげることもできないこと。ただ見守り、応援し、共に嘆き、耳を傾ける。それぐらいしかできない。その歯痒さの中で、子は自ら成長し、親もそのことにより成長させていただく。

そういえば3年前にこういう投稿を書いていたようだ。改めて読み返すと本当に感慨深い。
http://afriqclass.exblog.jp/13063647/
息子の魂の鳥は、ずっと私とともに暮らしてきたのだけれど、今は有り難いことに皆が一緒にいる。2011年のあの独り静かな家で泣きながらお風呂に入り、ご飯を食べた日々は、もう終わったのだ。あの時はまだ母恋しだった息子も、今では「うるせーくそばばあ」の毎日。でも、それが嬉しい。成長だから。

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息子の初期の頃(去年)の作品
森で見つけた朽ちた丸太の中の「かたち」を表現したそう。

何はともあれ、「姿勢」こそ、すべての鍵なのだけれど、自分すらままならない1年以上だったから。私が人様に何かいえることなんて何もない。だけれど、自然の豊かさに身を委ねて生きていると思うのは、「姿勢」もまた、日々の命への感謝の中から生まれてくる者なのかもしれない、と思う。

自分を生かせてくれている自然と環境、他の生き物、人びとに、感謝するからこそ、もっと頑張らねばと思うし、自然の本来の生命力に触れることにより、自分の伸びていくべき方向性を教えてもらうことができる。いつかは朽ちる自分の命が、何にバトンタッチされていくのか、どうされていくのか、そんなことを考える上で、農薬なき畑の命の循環から学ぶべき点はあまりに多い。

今年もまた試行錯誤の初夏である。
そして、ほとんど寝て過ごした去年よりも、自然もまた勢いがあるように見えるのは、自分の目の錯覚だろうか。

*ちなみに、絶対自然農薬も駄目といっているわけではなくって(そういうドグマチックなのは嫌い)、使わないでみたら見えてくるもの、気づくことについて、書いてみました。生業として農で生きている皆さまに、私が何か言える立場・経験はまるでなしです!
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# by africa_class | 2015-05-30 07:22 | 【食・農・エネルギー】

突然、東京外国語大学を辞める、ということ。

気づいたら最後の投稿から1年が経過していた…ようだ。

そして、3月31日で大学を辞めた。
あまりに突然な決断だったので、自分でもビックリしている。
3月に入っていきなり決めて、なんとか滑り込みで2014年度で東京外国語大学を後にした。
あまりに病気が治らないので、これは原因を絶つしかないと年末に思い至ったのだが、あまりに体調が悪く、辞める事自体がストレスすぎて、ある日「辞める!」との衝動に突き動かされるまで、とてもじゃないけれど無理だった。

それにしても、ゼミ生、卒業生ら延べ50人近くのヘルプがなければ、今でも研究室を片付けていたかもしれない…心からダンケ!正直、1年ぶりに研究室の扉を開けた時、目眩がして、どうしようか…と倒れそうになったほどだったが、あの「研究室」がもうないというのも、不思議な感覚だ。

「ゼミのお父さん」こと「マコンデのお面」が睨みを利かせていた、ありとあらゆる魔物の棲む空間!

モロッコで買った香木や、ザンジバルの海の塩の塊や、ボスニアの破裂した後の地雷や、ポルトガル植民地時代のコインや、海の底で眠っていた近世のビーズのネックレスや、子どもたちの写真や、ルースファーストのポスターや、息子の描いた数々の絵や、奈良の山奥の寺で撮った写真や、早くに亡くなってしまった尊敬する先生のお連れ合いのお手紙や、ゼミ生たちが記念に贈ってくれたお茶のセットや、世界のあらゆるお茶やコーヒーの、不思議な匂いのする空間。

「あれ」はもうないのだ。
でも、しっかり私の中に焼き付いている。
2004年から2015年まで存在した、自分と自分の歩んだ道が詰まった空間。

今でも懐かしいのは、実は2015年その時点の最後の姿ではなく、2004年に着任したてのある昼の様子。
自分の山ほどの資料が棚に納まり、世界中のものがそこかしこに陳列され、大きな青いソファーで寝転がって、授業の合間に昼寝していた(!)あの春のことだった。広い窓からは、桜と調布飛行場が見えて、なんとのどかなんだろ・・・と感激したものだった。着任早々は誰もドアをノックせず、勝手に入ってくることもなく、なんといい気分だったろう。自分の「城」ができたみたいで、凄く嬉しかった。が、それも10日間しか続かず・・・だった。そして、その10日間以降は、あまり思い出したくないことの方が多い日々だった。

ポルトガル語教員として着任したはずの私が、何故か大学院でその時始まった英語で紛争や平和構築を外国人の院生に教えるコースの担当とされ、新設コース故の無理難題と混乱を、結果として、一切合財引き受けてしまった。そもそも、紛争と平和構築の専門家がポルトガル語教員の新任の私しかいないところで、そんなコース始めるなんておかしなことだったのだが、「カネほしさ」というのだろうか。あの時、そして今も、大学というところは、キャッチーで新しくみえる何かをしなくてはならない「競争的事業主体」に成り変わってしまった。(その後、コースには専門家の先生たちを苦闘の末そろえることができたのでもう大丈夫だが)。

それだけでも、てんやわんやなのに、そして語学教員としての授業コマ・ノルマの多さにも辟易していたのに(なんと合計週9コマ!)、「競争的経費」という名の「文科省大学飴と鞭計画」のメンバーとして、あれもこれものプロジェクトに入れられてしまった。エクセルとパワポが使えて、NGOをしていた・・・というだけで。でも、日系ブラジル人をはじめとする日本の外国人児童の学習補助ほど、外大と外大生が社会に貢献できる事業はなかったので、これもまたよしとしよう。

今だから書けるが、着任して1年経過して「事件」が発生した後、毎日大学を辞めたいと思って働いてきた。だけど、始めたことはやり遂げる、しかも大きく成長させて、バトンを託す人を見つける/育ててから抜ける・・・のが信条だった私には、「辞める」という選択肢は限りなくなかった。自己否定に繋がるような気がしたからだ。結果的に、続けて、バトンたっちまで、いずれのプロジェクトもコースもやってしまったが故に、「あの人が被害者のはずがない」「鉄のように強い女だ」「ほら元気じゃないか」とかいって、組織的いじめがずーーと続く結果となった。

今となっては、そんな環境で、そんな気持ちを抱えながら、どうやって10年も過ごしたのか検討もつかない。病気になって分かったのは、最後はやはり自分の心と身体を優先すべきなのだ、ということ。倒れてしまったら、死んでしまったら、元も子もない。<=気づくの遅すぎ…。

ということで研究室。
「あれがない」ということは、この先に道が拓けていくのだ。
そのことは、断捨離的に、なんともいえない潔さと、嬉しさを感じる。

それにしても、石の上にも3年というが、実に11年。
気づいたら、着任した2004年4月から、11年の歳月が経っていた。自分でもよく頑張ったと褒めてあげたい。(駄目?)

大学の書類には、「次の職場」というのを書く欄があって、当然普通は定年退職でない限り(といっても最近は再雇用という制度もあるそうだが)、「次の大学」を見つけてから辞めるもんだ。
そして正直にいってしまえば、この間、色々な日本の大学から有り難いお誘いを受けて来た。年収は軽く3倍にも(!)なるポスト、教授ポスト、コース長等…有り難いにもほどがある。

相談したら、息子がいった。
「ママ〜今迄貧乏しすぎた〜!数年働いて辞めればいいじゃん!」

いや息子よ。
生き延びるためのカネのために一生懸命働くのは仕方ない。でも、カネ儲けのために働くなんて!(カネ儲けのために働くのであれば、わざわざ20年以上もNGOとかNPOとかいくつも作ってないわい!)

「だから僕はお小遣い1ユーロもないんじゃないか!だから僕自分で木工作品作って売ってるんじゃない!」
「おお素晴らしい〜。その調子、その調子。」
15才になる息子は、がくっと肩を落として、今日も注文された机を自然食品のお店のお兄ちゃんに売りに行った。しめて150ユーロなり。が、息子としては、10万円ぐらいほしいそうだ。カネがほしいというより、自分の作ったものの価値をもっとちゃんと認めてほしいそうなのだ・・・。

自分の人生の道を早く切り拓くって、素晴らしいことだ。
ひと事のように聞こえるかもしれないが、親は子どもに「やってあげること」を減らして「本人がやれること」を増やす後押しをする…が、「親育て・子育ての基本」だと考えている私には、これは重要なポイントだ。大学での教育も、たいした事はしなかったが、それだけは出来たと思う。無責任に聞こえるかもしれないが、よくある「放任主義」とこれは違う。

最初に彼ら、彼女らが考える場(時間・空間)を創造する。
ここから出てくる問いや想いに耳を傾ける。
自分で答えを導いていくのを待つ。
時に、一緒に考える。
そして、一歩を踏み出すのを励ます。見守る。
時にそっと、時にどん、と押す。
こけたら手を差し伸べる。
でも、こけるまで我慢する。
こけたところで一緒に考える。
また立上がるまで一緒にそこにいる。
立上がったら、見守る。
一歩でも半歩でも前に踏み出すまで…。
でも、せっかちなもんで、つい口を出し、手を出し、前を歩いてしまった。。。修行が足りん!

話は脇に逸れたが、カネのために大学で働いたことはなかった。
カネのためなら民間に行けばいい。
外資かなんかのマネージメントで働けばいいだけ。
なにも日本で一番給料の安い大学に行く必要はなかったのだ〜。
しかも、独立行政法人化後ゆえに、月5万円も約束より低い給料となった(博論が終わらず半年着任をのばした私が悪かったのだが)。5万円x12万円x10年間=600万円!
あこぎな話でんな〜。すまん。

そんなカネあったら、市民活動に投じていたものを、とつい思うのだ。有り難いことに、共働き世帯だったため、給料の半分以上は市民活動に消えた11年でもあった。おっと、それは内緒だった。家族には!(今でもこれは内緒話で、自分の休暇には大盤振る舞いが、普段はケチな連れには決していえないことだ)

でも、2004年4月のあの春、私は日本の大学で役に立ちたいと願い、学びたいと願った。
そして、この11年間、一度もそのことを後悔したこともなければ、一瞬たりとも気を緩めて仕事をしたこともなかった。つまり、私はとても、とても、大学での仕事にやりがいを感じ、言葉に言い尽くせないほど幸せだった。

何が幸せって、そこに学生たちがいた。
はにかみと懐疑心の向こうにある、キラキラした瞳の、世界に出て行かんとする若者たちとの出会い。
素直すぎて危うい、疑うことを未だ理解していない、大人になりきれない、磨けば(鍛えれば)光る原石のような。
優しくて、優しさ故に、遠慮してしまって、もはや自分の意見が何かすら見失った、迷い子のような。
人の役にたちたくて、でも行動を起すことに慎重な。
でも、時にするどい切り返しを、ばんばんしてくる熱いあの子たち。
お互いに頼ることを学び、一生の仲間を自分たちでつくっていった。

東京外国語大学に「アフリカ」という大陸がなかった時代に、
一ポルトガル語教員にすぎなかった私とともに、
「アフリカ」の名前を刻み込んだ先駆者たち。

大学に着任した時、一階のガレリアに世界地図の模型があった。
今でも覚えているけれど、それにはアジアと南北アメリカとヨーロッパと中東だけがあった。
そして、アフリカの位置にアフリカがなかったのだ!

「アフリカなんて就職できない人を増やしてどうするんだ?」
「外大の偏差値が下がる」
「フランス語がおかしくなる」

教授会で普通に行われる糾弾の度に、この私でもめげそうになったが、ある時から反論しないことにした。
なぜなら、これら先生たちの学生自身が、アフリカに出会い、変わっていき、これら先生たちの心を揺り動かしてしまったから。学生たちは、大いにすてきに暴れた。昼休みにゲリラ的にイベントをやったり、学内展示がつまんなかった外語祭で、物販からパフォーマンスから、講演会まで、あらゆることに取り組んだ。
大学の中だけでなく、外にも出て行った。

そして、アフリカを学ぶ場がなかった東京で、「アフリカここにあり!」というほどの実績を積み重ねていった。
2004年時点で、「可哀想なアフリカ」だったのが、彼らの活躍のお陰で、「なんか面白い?アフリカ」、「アフリカ本当に知らなくていいの?」に変わっていった。それが、大学を動かしたのだ。

2013年、東京外国語大学にアフリカコースが出来た。
15人定員のコースで、「学部のアフリカの社会科学のコース」としては日本で初であった。
英語圏アフリカとフランス語圏アフリカの先生たちも着任した。
もう思い残すことはなかった。
なのにすぐに離れる決意をしなかったから病気になったのかもしれない。
(ちなみに、何故ポルトガル語教員がアフリカ?!と疑問に思っているあなた様。世界で最も多い数のポルトガル語を公用語とする国がある地域は、アフリカですよ!実に5カ国。)

東京外国語大学で、彼女・彼らと過ごした濃厚で充実した11年間を、30代から40代半ばという人生の中でも重要な時期を過ごしたあの一時代を、決して忘れることはないだろう。(といっても5足のわらじを履いていたので、他の活動も含めてのことではあるが...これはもうやらないけど。わらじは二つでいい。人間には足は二つしかないから。その当たり前も気づけてよかった。)

2008年だったか9年だったかに、「日経ウーマン」という雑誌のインタビューを受けた時、「大学には10年しかいるつもりがなくって、「次」を考えたい」といった時、インタビューをしてくれた人がとても驚いたのに、正直私の方が驚いたのを昨日のことのように覚えている。私にとって、それはごく自然なことだったから。あまりに驚いたからか、それを記事の最後の台詞としてくれた。

人生10年置きに見直してる。
たった4回分しかしていないけれど、10才、20-24はモラトリアム、24才、34才、44才、それぞれで、それまでの10年を見直して、生き方を見つめ直して、次の展開を考えてきた。だって、人生は一度きりだから。しかも、60才まで後15年しかない!・・・としたら、もっと自分の中の可能性の幅をもっと試して、色々なことに挑戦したいじゃない?

まだ出会っていない「自分」に、出会ってみたいと思う。

自分はこういう人間で、この仕事をして、これまでこうだったから、これかもこうだよね・・・という生き方は楽かもしれないけれど、それで墓に入る時に自分の人生を振り返った時、それでいいの?というと、私は「違う!」と思ってしまうたちだったのだ。

だから、あえて自己点検のためもあり、10年おきという期限を区切って、考えることにしてきた。毎日を猛スピードで生きてきたこともあって、一旦立ち止まることが余儀なくされる時間を、どうやっても確保する仕組みにしておこうと考えたというのもある。

とはいえ、11年。
なので、予定から1年余分になってしまった。
少し欲が出てしまったのだ。
未だやり残したことがあるんじゃないか…そう思ってしまった。
できたてホヤホヤのなコースのスムーズな出だしを、見届けたいという欲が出てしまったのだ。
でも、それもまた人生。
あの時、投げ出さなくてよかったとも思う。

また、大学の仕事というのは、若い学生との継続的な仕事であるが故に、途中でいきなり辞めるということは、他大学に行くのであっても難しい。他の先生には難しくないのかもしれないが、「実験的教育(自分を含め)」を志してきた以上、ポーンといなくなるということもできなかった。背中を押したのは、意外にも「病気」だった。

だから、今となっては「病気」にもすごく感謝している。
「病気さん」が私のところに訪れてくれなければ、私は今でも東京外国語大学にいたかもしれない(ひー)!
惰性によって…。

また、残してしまう学生たちに、やはり「申し訳ない」という気持ちには打ち勝つことができなかった。
でも、よく考えたら、「私がいなきゃいけない」というのは私の勝手な思い込みで、私がいないことによって彼らが得たものも多かったはずだったのだ。否、そちらの方がきっと大きかった!

病気になった理由は、まさに大学の「お陰」であるが、今となってはそれについても感謝している。30代から40代初めの「学習」としては、それはそれで良かったと思う。つまり、「日本の古い組織というのは組織のためにあるのであり、その組織の上に立つものはいつの間にかその論理にがんじがらめになる。たとえ、かつて「素晴らしい研究者」であった人でも」ということ。そして、大学といえでも、「お役所」的組織に、限りなくなってしまった現在の哀しい姿を、外大の一員としてではなく、外から眺められることに、心から感謝している。
あのままいたらもっと腐っていたかもしれない。
自分の弱さもあって。

日本はどこに行こうとしているんだろう。
日本の大人たちはどこに行こうとしているのだろう。

サバティカルの半年間と病気の1年間、日本の外にいたこともあって、そのことをずっと考えてきた。
こういう日がくると思っていた。

だから、アフリカの紛争と平和論の授業だというのに、2006年からは、日中戦争における民衆の動員の手法や尖閣諸島の問題を具体的に学生たちにワークしてもらい、何回もの授業を潰して内在する危うさを表面化させ、それを赤裸裸な形で目の前において、皆で議論し、「戦争に民衆を向かわせるシステムのからくり」を理解してもらったのだった。

学生たちのレポートは素晴らしい出来だった。「外大」故に、日本のことを知らず、受験故に「日本の現代史」を十分学習してこなかった若者たちだ。自分で調べ、書いた、日本の過去…それを互いに添削コメントし、チーム内で発表し、「いかにすれば民衆は最も効果的に戦争に動員できるのか?」という恐怖のテーマでチームの考えをまとめていった。その上で、「どうすればこのような動員に抗うことができるのか?」を話し合い、提案してもらった。それを、皆の前で、模造紙に書いた結論を示しながら、次々と発表するチームの学生たち。「遠いアフリカ」から「遠い日本の過去」を学び、「今・自分の立ち位置」を考える…そんなおかしな授業に、真剣に、毎年取り組んだ学生たち。あの授業は、私の中で実は一番好きな授業だった。

そして、仲間達と勝手に編み出したルカサという手を使った「暴力空間」を創出し、それを「平和化」するワーク。尖閣問題をやった時に、皆が自分の中のナショナリズムの強さに驚き、立場をスイッチした時に、相手国の人の気持ちに気づき、それを可視化し、ガレリアに1週間展示した。あれも、私の中では手応えを感じた授業であり、ああいう参加型学習が1.5時間の細切れでしかできないことが非常に残念だった。

いずれにせよ、私が若い頃をのほほーんと過ごせた日本とは劇的に違うものになっていく・・・そんな予感があった2006年ぐらいから、こういうことを延々と学生たちとしていたのだ。おかしな、オカシナ、奇想天外な、、、そんなセンセーと授業に、よくついてきてくれた学生がいたもんだ。まあ、外大なんで、私もある種の「異文化経験」だったのだろう。

そして、2011年3月11日の大地震とそれに伴った原発事故。
人びとの自覚が強まるが故に、権力側はそれを押さえ込もうとあらゆる手を打ってくるだろう…そう気づいた。だからこそ、あれやこれやの活動に今迄以上に身を投じていたのもそのためだった。

しかし、2015年5月の現在、このドイツで思うことは、日本が踏み込んではならぬ泥濘に、ついにどっぷりと足を踏み入れてしまって、皆その事実を理解しているのに、足を取られてしまって身動きできない状況にいるということを、自分の無力感とともに見つめている。

今自分ができることは何なのか?
少なくとも、日本のどこぞやの大学に戻って、また別の10年をすることではない。
日本にこだわるからこそ、今日本にいてはいけない、とも思う。
やることはやった。
できることもやった。
しかし、私の力を沢山のことが超えていた。

今、私は日本から遠く離れた場所で、もう一度日本の過去と今と未来を、真摯に考えなければならない時期にいると感じている。

その日がくるであろうことはずっと分かっていたものの、こんな風にくるとは思っていなかった。
色々な学会で重要な役回りにきて、色々なことができるだけの実績や経験も積んで来たはず・・・の40才半ば。でも、突然病気になり、起き上がることも、思考をまとめることも、そもそも本をまともに読むこともできなくなってしまい、大学の研究室に足を踏み入れることも、大学の校舎に近づく事もできなくなった時、私は一旦すべてを捨てるという選択肢しか、持てなくなったのだ。

そして、それがなんと素晴らしくよかったことか〜!
といっても、性格上、全部を一気に気持ち良く捨てることができない私は、専門家の先生たちや同僚たちや学生たちや仲間達の厳しくも温かい励ましを受けて、2年近く一見無駄な時間をのたうちまわりながら、しかしようやく一歩踏み出すことができたのだった。それもこれも、家族と皆のお陰である。

基本的に関西人的厳しいコメントで有名な舩田家の人びとが、この1年間は何もいわなかったのは奇跡だったのかもしれないが、救われた。連れや子どもは苦しかったろうが、耐えてくれた。大学の同僚や学生や活動の仲間達にはすごくすごく迷惑をかけたが、信じられないほど広い心で協力してくれた。

病になって、本当の仲間の素晴らしさを、専門家のありがたさを、そして自分の中に残っていた大切な力のことを、本当の意味で知ることになった。この経験を、40代半ばにできたことを、感謝してもしきれない。

「次」をワクワクするような気持ちで眺めている。
未だ十分体力も気力も知力も戻ってきていないので、一歩ずつ、時に数歩戻っていくだろうけれど、今唯一無二の自分の人生を、毎日感謝しながら生きている実感を手にしている喜びを、どうやって伝えれば良いだろうか?

雨降って地固まる。
苦しんだ分だけ豊かさを知ったような気もする。
苦しみの中でも人は種を撒き続けるものなのだ。

若い頃は苦しまないのが幸せだと思っていた。
今は違う。

苦しみと幸せは隣り合わせで、それでいいんだ。
人生は思った以上にもっと芳醇なものであって、自分ももっと肥やせるはずなのだ。
今の自分に満足してしまうのであれば、NEXTはないから。

でも、自分の幸せは自分の手の中にあることも事実。
苦しみは人を停止させる。
でも、だからこそ、きっと学びが大きいのだ。

いつかそのことをもっと上手いやり方で伝えられる日がくればいいな、と思う。
今はすべてに感謝の毎日を過ごしている。

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# by africa_class | 2015-05-22 04:53 | 【徒然】ドイツでの暮らし

【中東学会主催】ガザの事態をめぐる緊急研究集会(8月8日3時ー)

ガザの事態をめぐる緊急研究集会開催のご案内

 パレスチナのガザ地区全域に対するイスラエルの攻撃開始(7月8日)、地上戦突入(7月17日)以降、ガザでは深刻な状況が続いています。いま何が起きているのを知り、事態の性格・背景を考察し、分析・批判のためのことばを鍛えていくために、日本中東学会では下記の要領で緊急研究集会を開催することになりました。
 報告者・発言者はいずれも研究者であると同時に、さまざまな交流・支援の現場、あるいはパレスチナとイスラエル、日本の市民を架橋する市民の対話の場で、長年活動してきた経験を持っています。現在の事態をどう捉え、われわれは何をすべきなのか、専門家の知見に学びながら、市民として共に議論し、考えていく機会にしたいと考えます。
 暑い盛りの開催となりますが、みなさまの積極的なご参加をお待ちしております。

緊急研究集会「ガザの事態をめぐって」

日時:8月8日(金)午後3時~6時半
会場:東京大学東洋文化研究所3階大会議室(東京大学本郷キャンパス)
(参加費無料、事前申し込み不用)

※東洋文化研究所へは下記をご参照ください。
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_12_02_j.html
最寄駅:東京メトロ丸ノ内線/都営大江戸線(4番出口)
本郷三丁目駅東大・懐徳門から入って、緑の小道を抜けた右手、正面玄関に唐獅子像のある建物

司会・総合コメント:臼杵陽(日本女子大学)
報告1:岡真理(京都大学)
「ガザ ジェノサイド/スペィシオサイド/ポリティサイド」
報告2:田中好子(パレスチナ子どものキャンペーン事務局長)
「ガザの現状と支援のあり方」
発言:(予定)
 小林和香子(国際協力機構;元JVCエルサレム代表)
 田浪亜央江(成蹊大学アジア太平洋センター/(ミーダーン)パレスチナ・対話のための広場)
  〔その他、交渉中〕
総合コメント、全体討論

主催:日本中東学会
共催:科学研究費基盤研究(A)「アラブ革命と中東政治の構造変動に関する基礎研究」
緊急集会についてのお問い合わせは、東京大学東洋文化研究所 長沢栄治研究室まで
nagasawa[at]ioc.u-tokyo.ac.jp( [at]を@に置き換えてください。)
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# by africa_class | 2014-08-05 01:43 | 【考】人間の安全保障

2013年度優秀論文の紹介ー「ルワンダにおける健康保険の拡大」

長い間ご無沙汰しておりました。今見たら実に3か月ほど空いていたのですね。卒業生らに「ブログ更新して下さい」とお願いされ、ぼちぼち。。。

あれからあまりに症状が悪化してしまい、そして大学をお休みするにあたっての段取りやなんやらで、落ち着かない日々が続いてきました。今も起き上がれたり、起き上がれなかったりなのですが(これも布団の中からですが)、あまりに社会から断絶したままだとそれはそれで症状の改善にもならないので、ぼちぼちブログに駄文などを書き連ねつつ、気晴らしをし、療養に専念したいと思っています。

そして是非とも掲載しなければならないまま、ずっと放置せざるをえなかった情報のいくつかを今日アップできそうならしてみます。これをがまんするのも、また心身ともに悪い影響を及ぼすので。

まずは、2013年度のゼミ指導教員が推薦する優秀卒業論文の紹介です。3月にはやっておきたかったのですが、PCに向かうことすらままならなかったので・・・。

■この制度についての説明:
http://www.tufs.ac.jp/education/yushuronbun/yushuronbun_menu.html

■2011年度から毎年推薦し、以下の論文が掲載されています。
(このブログでも紹介した通り)
2011年度
http://www.tufs.ac.jp/education/yushuronbun/yushuronbun23.html
2012年度
http://www.tufs.ac.jp/education/yushuronbun/yushuronbun24.html
2013年度
http://www.tufs.ac.jp/education/yushuronbun/yushuronbun25.html

このゼミでは、学生・教員・院生・ゲスト等の評価を総合して足したものの順番で推薦者が決まります。本当に推薦されるべき優秀論文は毎年4つは出てくるのですが(12名前後の執筆者から)、去年から推薦できるのは「1名まで」になったので、残念です。年々レベルが上がっていることに驚きます。

後輩たちは一対一で上の学年の卒論執筆の添削、書評、評価の担当をするので、卒論の最終工程のイメージが湧き、そのことは凄く勉強になるのだと思います。特に、全員が当たり前のように英語や原語の論文を漁って、それらを活用するということは「前提」になっているのは良いと思います。互いの突っ込みも、自分にはねかえってくるので、モチベーションとしてもとても良い。Peer Educationを目指してきましたが、そういう場を設け継続させていくことに専念すれば、若い人達は勝手に展開するものなのですね。

■2013年度の優秀論文の概要と推薦理由を皆さんに紹介します。
瀬戸さんは、3年時に1年間ルワンダで現地企業(佐藤さんの)でインターンとして働きました。その後、モザンビーク開発を考える会の事務局でもインターンをしてくださり、就活もあり、卒論もあったので本当に忙しい毎日を、きちんと全部両(3)立させて、活躍してくれました。

卒業論文は超大作で、中身も手堅く、濃く、評価に参加した全員が一致して、ぶっちぎりの最優秀論文として選ばれています。文献調査では英語を含む70を超える文献を網羅しており、かつ現地調査も実施しています。

後輩たちから「驚異wonder?」としてみられる瀬戸さんも、入ゼミ当時は普通の2年生修了者でした。その後の色々な「悔しさ」が、彼女の原動力となり、バネとなり、大躍進になったことを、何度でも強調しておきたいです。

人間の発展には、時に「才能」が必要な部分もありますが、多くの場合「自分の不十分さへの真摯な、しかし前向きな理解」と「努力」が根っこに必要であるということを、若い皆さんには伝えたいです。今出来なくても、「出来ないからダメだ」とか「出来ない私がダメだ」とかそのようなマインドではなく、「何故出来ないのか」「どうやれば改善できるのか」を周りへの相談とともに明らかにして、前向きに取り組んでいく・・・そんなことが必ず未来に繋がるということを、瀬戸さんを通じて改めて学びました。

なおみちゃん、おめでとう。そして、ありがとう。
今頃の紹介になってしまい、申し訳ない。

そして、それ以外の卒業生の皆さんにも、最後まで放り投げず頑張った一人一人に、表彰状を送りたい気持ちです。百本ノックを見事に打ち返し続けましたね。やりきった部分も、やり残した部分もあると思いますが、いつも言いますが、「やり残したこと」については人生の様々な場面で問い続けていってくれればと思います。(私も未だにそんな感じです。)

今年卒論の指導が出来ない皆さんには大変申し訳なく・・・でも、先生方や先輩たちが熱烈しっかりサポートするということなので、どうぞよろしくお願いいたします。


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2013年度優秀卒業論文

学生氏名:瀬戸菜穂実
学生の所属コース:地域国際コース(フランス語専攻)
卒業論文(研究題目):「ルワンダにおける健康保険の拡大―政府の貧困削減政策に注目して」

推薦理由:
本論文は、経済成長の一方で依然として深刻な貧困に悩むアフリカで、大多数を占める貧困者の医療サービスをどのように保障していくのかという現代的課題に基づき研究され、執筆されたものである。

事例として、健康保険加入率が低調なアフリカにおいて驚異的な加入率を誇るルワンダを取り上げ、依然貧困者が多い同国でなぜこれが可能だったのかについて歴史的・政治的背景を含め明らかにすることで、他のアフリカ諸国の課題を明らかにするだけでなく、虐殺後のルワンダの固有性を浮き彫りにしている。

その意味で、本論文はただ単に、「保険加入者を拡大するにはどうすればいいのか」といった一面的で制度設計的な視点を超え、地域研究の手法に基づき、ルワンダ国家と社会の今について健康保険を事例として描き出すことに成功しているといえる。

日本ではアフリカの健康保険に関する研究、とりわけ事例研究はほとんどなく、またルワンダの研究においても健康保険を通じての考察は皆無であった。その意味で、本論文の貢献は先駆的な取り組みとなっている。なお、執筆者は、本論文の執筆に当たって、一次資料として英語文献20本(内ルワンダ政府の資料は17本)、二次文献として日本語文献11本、英語文献55本、フランス語文献1本を参考にし、丹念な先行研究の検討と整理を行った。これに留まらず、資料上の制約を乗り越え、より実証的な論文とするため、現地調査を実施し、その成果を採り入れた論文となっている。

その結果、健康保険の加入率の拡大が虐殺後のルワンダの貧困削減政策並びに強権化と連動して生じていること、その財政的持続性に疑問があること、また助成が受けられない貧困層の中でも最貧困層以外の層は保険システムから離脱せざる得ない実態を明らかにした。このような深みで健康保険の分析を行った先行研究は皆無であり、本論文は学部卒業論文をはるかに超えるレベルの論文となっている。なお、本論文は、指導教員だけでなく、11名の卒業論文に関する相互審査を経て最優秀論文として選ばれたものである。

最後に、執筆者は、2011年から1年間にわたり、ルワンダの企業においてインターンとして同国各地で保険衛生分野の事業に従事した経験を有する。その際に育んだ問題意識を、学術的問題関心に昇華させ、多様な資料や手法を用いてこの問題に取り組み続けたその姿勢は評価に値する。

=================-

ただ当然この論文にも課題は多々あり、やはりルワンダの固有性の部分における深い政治的な分析や、そもそもこの分野に特化した援助の背景にあり得る狙い、、、とりわけルワンダでこの分野の援助を前のめりに行ったアメリカ政府の真の狙いなどの分析は、今後も課題として残っていくでしょう。しかし、すべてを一つの論文(しかも学部論文)に期待しないことも重要で、これが基礎研究となって他の人が研究調査を積み上げていけばいいわけで、2013年度から要約しかHP掲載されなくなったのは誠に残念なことです。
            
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# by africa_class | 2014-05-26 19:31 | 【大学】アフリカゼミ(3・4年)

【2月20日19時~@IWJ CH8 「終わらない原発震災の被害―北関東の被災者・福島県からの避難者調査から」

体調が悪く皆さまにはご心配をおかけしています。
一個ずつ病床からノロノロ片付けているところです。
今は基礎ゼミ論文26本の採点地獄中ですが、例年のようにサクサクいかずとても困っています。が、なんとか・・・後10本まできました。学生にとっても3度目の提出<したがって私にとっても3度目の採点と添削・コメント>なので大変だったと思いますが、1年生とは思えないよい論文になりつつあります。

さて、下記の通り、2月8日に明治学院大学で開催しました報告会とパネルディスカッションの様子が、明日20日の19時からIWJで配信されることになりましたので、ご連絡します。

震災そして原発事故から3年が経過 しようとしています。勝手な風化に心を痛めています。福島にいらっしゃるご家族、帰られたご家族、避難されているご家族、それぞれ本当に 辛い状況であることは変わりなく、長期化により事態は悪化しています。まずは、何が起きているのか共に学びましょう。

その上で、このことを「他人事」とせず、「自分事」として、長きにわたる取り組みをやっていきましょう。団体としては、FnnnP(福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト)としての活動は今年度いっぱいとなりますが、当然ながらメンバーそれぞれの地域や自身の活動は今後も継続していきます。現在、インターンが、活動のふり返りと今後の引き継ぎ先、ご挨拶などを満載したニューズレターを作成中ですが、完成したら皆さまとも共有しますので、詳しくはそちらをご覧ください。

この問題は長く長くつきあっていくことなので、一歩ずつやていきましょう。ドイツでは、今でも毎年ウクライナから保養の受入を毎年やっています。

さきほど、広島の友人が、福島やその周辺・関東からの避難や保養を希望する家族受入れのシェアハウスをつくっていると聞きました。とても勇気づけられました。他県でお子さん二人を抱えて避難中のお母さんからも、不登校だった息子さんが少しずつ学校に行くようになったとのメッセ―ジを頂き励まされました。誰にとっても大変な毎日だと思いますが、子どもたちのために独りで抱え込まず、支え合いましょう。

辛いことの多い日々ではありますが、支え合って前を向いて歩いていければ・・・と私自身改めて思いました。いつも、皆さんに勇気づけられます。感謝。

では、明日は是非IWJを!

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「終わ らない3.11原発震 災の被害 ―北関東の被災者・福島県からの避難者調査から考える―」
アンケート報告会とパネル ディスカッション 画像記録配信のご案内
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[配信日時] 2014年2月20日(木) 19:00~
[配信URL] http://www.ustream.tv/channel/iwj8

【日 時】 2014年2月8日(土)13:00~16:30
【場 所】 明治学院大学白金キャンパス 本館1201教室

【主 催・共催】
宇都宮 大学国際学部附属多文化公共圏センター 福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト
群馬大 学社会情報学部附属社会情報学研究センター
茨城大 学人文学部市民共創教育研究センター
明治学 院大学国際平和研究所(PRIME)


【プロ グラム】 
第1部 北関東 地域の被災者・福島からの避難者調査報告 13:00~14:50
司会: 齋藤百合子(明治学院大学)

①茨城 県内被災地域 「茨城 県震災直後の食行動と甲状腺検査意向調査」(原口弥生 茨城大学)
②群馬 県内被災地域 「放射能に関する意識・行動調査」(西村淑子 群馬大学)  
③栃木 県内被災地域 「乳幼児保護者アンケート」(清水奈名子 宇都宮大学)  
④福島 県からの避難者アンケート
(高橋若 菜 阪本公美子 匂坂宏枝ほか 宇都宮大学  原口 弥生 西村淑子)

第2部 パ ネル・ディスカッション 15:10~16:20
「終わ らない被害と被災者の権利を考える」

司会: 重田康博(宇都宮大学)

<パネ リストのご紹介>
● 伊藤和子(いとう かずこ)
弁護 士。国際人権NGOヒュー マンライツ・ナウ事務局長。日弁連両性の平等に関する委員会委員。国際人権問題委員会委員。UN Women アジ ア太平洋地域アドバイザー。国際人権法学会。ジェンダー法学会理事。

● 手塚 真子(てづか まこ)
栃木県 那須塩原市在住。栃木県北部の放射能汚染問題への対応を進めるため、「那須塩原放射能から子どもを守る会」を立ち上げ、現在も代 表として活動中。 

● 大山 香(おおやま かおり)
福島県 富岡町出身、栃木県宇都宮市在住。福島市からの自主避難者として、「とちぎ暮らし応援会」の訪問支援員、「栃木避難者母の会」代 表として活動中。

● 村上岳志(むらかみ たけし)
福島県 福島市出身、新潟県新潟市在住。新潟市域の避難者自治会、新潟市避難者支援協議会、広域災害避難者支援機構FLIPのそれ ぞれ代表を務め、避難者、支援者の両面で幅広く活動中。
 他
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# by africa_class | 2014-02-19 17:45 | 【311】子ども・福島乳幼児妊産

拙稿「ネルソン・マンデラの時代」(『現代思想』2月13日発売)で書いたこと

しばらくぶりです。ドクターストップがかかり、カメのようにノロい状態です。なんとか1年生から5年生までの卒業や進級に絡むことも目前、ゼミ合宿も終え、今季を無事に乗り切る(というのか?!)一歩手前まできたら、さすがに糸が切れたようで。

来週発売の『現代思想ーネルソン・マンデラ特集』(2月13日発売)2014年3月号の紹介をしておきます。(各種ネット書店では予約販売中のようです)

沢山の南アフリカ研究者や関係者が書く中、私なんぞが出る幕ではないのと、あまりにもの体調と忙しさだったのでお断りしようと思っていたのですが、依頼してくれたのが授業を熱心に取ってくれていた卒業生というこもあって、思い切って頑張りました。

時まさしく都知事選の真っただ中。この間の市民社会やメディアの在り方、権力の側の動きをみるにつけ、アフリカの解放闘争と戦争の研究を通じて学んできたことの一端を紹介したいと切に思うようになりました。詳しいことは勿論、来週発売の『現代思想』をお買いもとめいただく一方、少しだけ書いたことを紹介しておきます。(なお校閲前の原稿なので日本語がおかしいです・・・)

また右側バナーでも紹介している『ネルソン・マンデラー私自身との対話』を是非あわせてご一読ください。私の本の英訳をしてくれた長田雅子さんの日本語訳です。分厚いですがすらすら読めるマジックだ~。

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『現代思想ーネルソン・マンデラ特集』(2014年3月号)
「ネルソン・マンデラの時代とモザンビークと南アフリカの解放闘争」
舩田クラーセンさやか
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ネルソン・「マディバ」・マンデラ元大統領は、モザンビーク人にとって、隣の国の元大統領を超えた意味を持っていた。そのため、マンデラの訃報は、モザンビーク社会にも深い悲しみをもって迎えられた。新聞各紙は一面でこのニュースを取り上げ、葬儀の模様も各紙のソーシャル・ネットワーク(SNS)ツール上で、リアルタイムで取り上げられるなど、関心の高さを窺わせた。しかし、モザンビークの人びとが、彼をここまで尊敬する背景には、南アフリカとモザンビークの同時代的な歴史が関わっていた。

本稿では、ネルソン・マンデラの自伝『ネルソン・マンデラ――私自身との対話』(2012年、原著は2010年)、そして拙書『モザンビーク解放闘争』(2007年)などに基づきながら、彼が活躍した第二次世界大戦後から現在までの、同時代の南アフリカとモザンビークの関係性をふり返る。そのことによって、彼が生きた時代、彼の役割を全アフリカ、あるいは全世界的な意義の中に浮かび上がらせることができればと考える。

本稿では、まず同時代を生きモザンビークと南アフリカの解放運動指導者であり初代大統領と結婚したグラッサ・マシェル(Graça Machel)の紹介を行い導入とする。次に、南アフリカの反アパルトヘイト運動のモザンビーク解放闘争への影響を示す。そして、二つの闘争が運命共同体となって展開していく様子を明らかにする。その結果、アパルトヘイト政権の軍事介入を含む攻撃を受け、他大な犠牲を出すことになった独立前後のモンビークの状況を示す。その上で、アパルヘイト体制や冷戦構造の崩壊から、1994年に両国の人びとが共に新しい時代を歩み始めたことを紹介する。これを受けて、このような歴史的展開において、重要な役割を果たした南アフリカの指導者マンデラとモザンビークの指導者マシェルーーつまりグラサの夫たちーーの共通点と相違点を検討することで、同時代の二国間の闘争の実態を浮き彫りにする。最後に、西側諸国の一員として冷戦期を過ごした日本の関与について批判的に検討を加えるとともに、マンデラの訃報を受けて、一人の人間としての生き方について考えることを共有する。

はじめに
1. モザンビークと南アの二人の大統領と結婚したグラッサ
2. 南アフリカの反アパルトヘイト運動のモザンビーク解放闘争への影響
3. 運命共同体となったモザンビークの解放闘争と南アの反アパルトヘイト運動
4. アパルトヘイトの犠牲になるモザンビーク
5.1994年:南アフリカでの初の黒人政権樹立とモザンビークの初の複数政党制選挙
6. マンデラ元大統領とマシェル元大統領の相違点と共通点
おわりに

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6. マンデラ元大統領とマシェル元大統領の相違点と共通点(抜粋)
グラサにとって、マンデラと再婚した理由はパーソナルなものだろう。しかし、両国の歴史をふり返った時に、見出されるマンデラとマシェルの共通点と相違点は、両国の闘争の共通点と相違点を浮き彫りにする。
(・・・)
1968年に暗殺された初代書記長エドゥアルド・モンドラーネ(Eduardo Mondlane)亡き後のFRELIMOを束ね、闘争を勝利に導いたマシェルは共産主義者であった。一方のマンデラは共産主義者ではないと否定してきたが、その思想的共通性と違いはどのように理解されるべきであろうか。

両者共に、高い理想を持った自分に厳しく稀有なリーダーシップの持ち主だった。アフリカの伝統、抵抗のヒーローらを賞賛しながら現代の闘いを進める手法も類似していた。また、闘争の手段としての暴力を許容する戦術家であった。自己犠牲を厭わず、利権を嫌い、率先して自らの模範を示した。

他方、大きな違いといえば、キリスト教徒(カソリック)であったものの、後に弾圧するところまで至るマシェルとキリスト教を手放さずその中に解放の論理と為政者への攻撃の論理を見出していくマンデラの違いは大きかった。闘争への理解のない者を容赦なく再教育キャンプ送りにしたマシェルの革命は路線と、「元の敵」を受けいれる寛容を説いたマンデラの姿勢は、とりわけ大きな違いだったといえる。

しかし、ここで思い出したいのは、マシェルとマンデラが直面した闘い、あるいはANCとFRELIMOの闘いは、その暴力の密度において大きく異なっていたことである。もちろん、どちらの闘争が苦しいものであったのかをここで論じるものではない。しかし、1964年から10年間に及ぶ国土の半分近くを巻き込んだ植民地解放戦争、16年間に及ぶ全土に拡大し国民の3分の1が故郷を追われ100万人を失った独立後の紛争において、その指導者であり軍事司令官としてマシェルが直面した課題は、抜き差しならぬものであった。1962年から90年までの27年間を牢獄での暮らしを余儀なくされたマンデラであったが、日々生きるか死ぬかの只中の国民と共に何をどう判断するのかについて、マシェルが抱えた困難を、今なら彼がどうふり返るのかを知ることはできない。マシェルにとって、「誰が敵なのか」を見破ることの意味は、個人的なものを超えていた。軍事部門を立ち上げ、初代司令官となったマンデラではあったが、すぐに監獄に収監されたことが彼の認識にどのように影響を及ぼしたのか、及ぼさなかったのかもまた、知ることはでいない。

それでも、日本ではあまり知られていないことであるが、マンデラが最後まで武闘闘争を放棄しなかったことは、その寛容さ故に付きまとう「非暴力主義者」とのレッテル貼りからも、十分認識しなければならない。「暴力が手段として使われるか否かは、支配者が暴力を放棄するかどうかによる」との前提は、ANC内でマンデラが、FRELIMO内でマシェルやモンドラーネが主張したことであった(マンデラ, 2013; 舩田クラーセン, 2007)。他方、マシェルが、「真の敵」であるアパルトヘイト政権と妥協して不可侵条約を結び、非公式ではあったものの「真の巨大な敵」である米国に自ら出向いたことに示される、その柔軟性を記憶に留める必要もある。つまり、両者は、「人びとの解放」というより高い目標のためなら、自らの主義主張やメンツを捨て、最適な手法を選ぶだけのプラグマティズムと柔軟性を持った戦術家であったという点である。

また、「人びとの解放」に込めた想いが、単に「アフリカ人/黒人が指導者になればいい」という考えに基づかないものであった点も重要な共通点であろう。これは、ANCとFRELIMOの共通点でもあるが、「人種主義の打倒」は植民地支配やアパルトヘイト体制が崩壊すれば終わるのではなく、マシェルにとっては「人による人の搾取とその構造の一掃(舩田, 1997)」、マンデラにとって「人種や信条に関係なく、すべての南アフリカ人が平等、平和、調和のうちに暮らす民主的な南アフリカ(マンデラ, 2012)」といった社会変革を伴わなければ意味がなかった。

そのためには、両者は、国民の意識の向上や覚醒がなければ、本当の意味での社会変革は不可能であることを熟知し、闘争の長期化に覚悟があった。これは、両者が共に中国共産党あるいは毛沢東の「耐久戦」の概念や、アルジェリア戦争における政治教育の重要性に感銘を受けていることにも示されている(舩田クラーセン, 2007; マンデラ, 2012)。

アフリカの多くの独立の父が利権と腐敗に手を染めていく中、これらの二人が死を含めた自己犠牲を厭わず、人びとの中に入り、人びとに奉仕する稀有なリーダーであろうとしたことは、その結果発生した多くの過ちの一方で記録に残されるべき点である。興味深いことに、グラッサに限らず、両者が愛した女性らは自律した同志ともいる女性たちだった。(・・・)マンデラもマシェルも、「女性の解放」をスローガンとして闘争の中心に置いただけでなく、私生活でもそれを実践していた点に、「アフリカの解放」の理解の深さと覚悟が見て取れる。(・・・)

おわりに
このように相違点もあるが共通点も多い2つの国の元指導者と、彼らが生きた時代をふり返ることで、日本でほとんど知られることのない南部アフリカの現代史を示そうとした。日本は西側諸国の一員として、解放を求める南アフリカやモザンビークの人びとの側ではなく、それを抑圧する南アフリカのアパルトヘイト政権やNATO加盟国のポルトガル政府を支え続けたことを忘れてはならない。特に、南アフリカとの関係においては、国連決議で経済制裁が合意されている最中の1987年から、日本の同国との貿易総額は世界一となった。そのことは、モザンビークの紛争を長引かせることにもつながった。ANCは1960年に非合法化されており、日本ではテロ組織として認識すらされていたのである。

去年末、マンデラ元大統領の訃報に触れて功績を讃え、豊富な天然資源目当てにモザンビークを訪問するという日本の為政者や企業関係者、そして日本市民は、このような歴史的背景を忘れてはならない。 

最後に、筆者が忘れられない光景を紹介する。モザンビークのマプート空港でのこと。マンデラが滑走路に降り立つのに気付いた。空港ビルまでたった30メートルの距離なのに、一歩一歩がとても重く、歩き通すのに10分もかかった。しかし、彼は送迎車や車いすに乗ろうとせず、むしろ出迎えたグラサを支えるかのように腕を組んで背筋をしっかりと歩いていた。当時園児だった息子は、マンデラが誰かも知らないままに、その姿に魅せられ、「あの人はすごい人でしょ?」を連発し、彼のことを簡単に説明すると感激のあまり大きく手を振った。それに対して、マンデラは立ち止まり、息子に向かってあの闘争の握りこぶしを突き上げてくれたのである。横ではグラッサが優しく微笑み、息子に手を振ってくれた。

たとえそれが幼児でも、人を一人の人格として敬うあの姿勢に、自分の胸に手を当て、自分はそうしてきただろうかと問うた日を昨日のように思い浮かべる。年配者としての優しさを分け与えるのは容易である。しかし、彼は幼児ですら自らと同等のものとして受け止め、その魂に語りかけるという人であった。そして、何歳になろうとも傲慢さを捨て、自分を鍛えるということにおいて、休むことを知らない人であった。

モザンビーク人のSNSの多くが「安らかに休んで下さい」と括られていた。マディバに休んでもらうには、私達自身が彼の教えてくれた多くのことを学び続け、伝えていくしかないだろう。

(詳細は『現代思想』を)

*ちなみに、私は武装闘争の支持者ではありません。ここで一番重要なポイントは「暴力的な構造」があるという現実の直視であり、その「暴力的な構造」を支える民衆である私たちがいるということです。それを変革するには、「暴力的な構造を支える私たち」がまずはその構造を自覚し、意識的に変える覚悟を持ち、実際に行動によって変えていく必要こそがあったというのが個人としては一番言いたい事です。

*他方、あの時代のモザンビークや南アフリカにおいて、彼らがとった手法や手段を、私は「いい悪い」という立場にないとも思っています。その構造を押し付けてきたのは我々自身であるから。なので、私の研究もこのような原稿も、まずは構造がどうであり、運動や指導者はどう変遷していったのかを掴み、それを皆さんに提示し、共に考えることだと思っています。
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# by africa_class | 2014-02-07 13:16 | 【記録】原稿・論文