<さっきの投稿の続きです>
メディアとして、読者、市民と一緒に育とう・・・その姿勢が欠けているように思います。依然、「上から目線」で、読者と市民をみているように思えます。
巷に、ありとあらゆる情報が溢れているからゆえに、新聞はそのような多様な情報を丁寧にさらい、分析し、そのプロセスを明確にしたうえで、判断や評価を載せるべきであり、東電や政府の記者会見にばかり紙面を割いてきたことの問題に気づいてほしいと思います。勿論、これは他の新聞、そしてテレビにも言えることです。
なぜこんなに怒っているかというと、次のような理由からです。
例えば、朝日新聞は、レベル7発表の翌朝、新聞の一面に「過小評価への不信断て」という見出しをつけ、次のように書いています。
「・・・レベル7だと、政府がようやく認めた。遅きに失したが、レベル7を共通認識にすることで、国内外の不信を取り除く第一歩にしなければならない」
しかし、この間、同新聞における原発事故報道をフォローしてきた者としては、非常に不思議に思えます。なぜなら、朝日新聞は、「レベル7発表が、遅い」とは、政府発表前にはまったく指摘してこなかったからです。
また、「レベル7と認定することで、国内外の不信を取り除くことになる」という助言も、政府発表の前にはまったくしていませんでした。
にもかかわらず、政府発表の後となると、同じ一面記事には、先月のレベル4発表について、「過小評価が目に余った」とし、「事故を小さく見せようとする姿勢は東京電力と共通する」と書かれています。では、一か月前、あるいは2週間前、あるいは1週間前の新聞に、そのようなことが書かれているか、というとそうではありません。
むしろ、同紙の原発事故報道は後追い的なもので、東電や政府の発表を追認するような記事の掲載が多かったと、この1ヶ月間毎日記事をフォローしてきた私は思います。政府発表があって初めて、「評価見直し後手に」と書くのは、「後だしジャンケン」であり、フェアーではないと思います。
新聞は第三の権力とも、第四の権力ともいわれます。政府の評価が遅いという評価を新聞としてしていたのに、それを読者に伝えなかったのであれば、「権力の監視」という新聞の第一の役割を果たさなかったということになります。あるいは、その時点では評価が割れていたために書けなかったということなら、このような見出しはやはりフェア―ではないと思います。新聞自身もまた「評価が遅い」「後手にまわった」ことになります。
これでは、読者や日本の人々は、誰の何の情報から判断すべきなのでしょうか。勿論、日本の新聞のこのような傾向は、以前から言われてきたことです。大学の授業(後期)で新聞分析を学生にしてもらっていますが、一年生の彼らですら気づく傾向です。そして、二年生以上がやる日本の新聞と世界の新聞の比較の授業では、もっと顕著です。しかし、このような非常事態で、その傾向をより強めてしまっている・・・ことに、一読者として、あるいは一市民として、失望とともに、不安を覚えます。
全体的な雰囲気に流されているのではないか・・・戦時中と同じことにならないような気がいはどこにあるのか、今、問われていると思います。
「紛争平和論」の授業で、「なぜ民衆は第二次世界戦争に動員されたのか?」という問いをメディア分析から考えた学生たちは、新聞の画一性を指摘し、現代においては過去への反省もあるし、体制として民主的なものだし、多様なメディアがあるので、そう簡単には動員されないと書きました。新聞は主要全国紙だけでも5紙ありますし、テレビも何局もありますが、多様性は確保できているか・・・疑問です。
子どもの頃から「新聞好き」だった私としては、インターネット時代だからこそ、新聞の役割があると考えています。ウィキリークスの情報も、新聞の力(リサーチ、分析能力)を借りなければ意味のあるものになりませんでした。
しかし、現状の「東電・政府発表依存」「後追い」「後だしジャンケン的批判」では、新聞の未来は風前のともしびだと思います。今回、多くの人が、オルターナティブな情報を求めて、U-streamやニコニコ動画やブログなどを観ています。その理由を、しっかり検証すべきと思います。
新聞は、「市民社会の一翼」ともいわれています。権力の一翼になるのではなく、市民社会の一翼に脱皮してください。
昨日は落ち込み気味、今日は怒りすぎの投稿になってしまいました。
でも、「健全な怒り」、特に権力に対するそれは、もっと日本の市民に必要なんじゃないかと思うのです。