で、終わりのはずだったのですが、空港行きの車を待ってる間に、
木村氏について読んでしまったら、共有したくなってしまいました。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/10712
「人のためになる仕事をしたいと思って研究者になったのに、これじゃあ何のための研究なのか分からない」
このセリフを私も胸にしっかり抱きたいと思います。そして、これは、
昨日ここペンバのUniLurioのレクで、先生たちに問いかけたことで
もあります。アフリカでは現在エリート主義が凄く、大学の先生で
農村に通う人はもはやほとんどいなくなってしまいました。そして、
「仕事(収入確保)」と割り切って大学の教員をしている人も多いで
す。日本だってそうでしょう。
だから、先生たちにVisionとMissionを聞きました。そう、学生に
やる「あれ」です。Visionは立派でした。で、Missionは?ときいた
らあまり出てこず。そして、Missionは自分の毎日や仕事とどう
関わっていますか?と聞いたら、教室が静かになりました。私は、
自分自身のVisionとMissionを話し、広島原爆の日に生まれた
者として取り組んできたことが、結果的に今回の福島原発事故を
止めることになんにも役に立たなかったという後悔を説明しました。
そして、アフリカでも原子力利用が叫ばれつつある現在、先生
たちの協力が非常に重要であることを説明しました。先生たちと
は、本当によいコミュニケーションが出来て最後はこんな写真を
撮りました。

本題。木村さんの行動に、一研究者のはしくれとして、心を動
かされました。研究者の皆が彼のように行動していれば、きっと
こんなことにはならなかった・・・・・・と思うと悔しいですが、まだ
遅くないと思いたいです。
■辞表をたたきつけた■
3月12日、福島第一原発1号機で水素爆発が起きた。当時、木村氏は厚生労働省が管轄する独立行政法人・労働安全衛生総合研究所の研究員だった。
放射線衛生学の研究者である木村氏はすぐに現地調査に向かおうとしていた。しかし、研究所から所員に一斉にメールが届く。勝手な調査行動を慎むよう指示する通達だった。
すぐに辞表を書いた。一刻も早く現場に入るべきだという信念を貫くためだ。「こんな時こそ現場に入らないと放射線の研究者としての存在意義がなくなってしまう」、そんな思いを抑えられなかった。
実は、木村氏は過去にも似たような経験をしている。1999年9月、東海村JCO臨界事故の時のことだ。当時、木村氏は放射線医学総合研究所に入所したての任期付き研究員だった。
放射線事故は初動が大切だ。時間が経てば経つほど、半減期の短い放射性核種が計測できなくなってしまい、事故の実態がつかめなくなってしまう。だが当時、放医研を管轄していた科学技術庁は、現場入りしようとする研究者たちにストップをかけた。
木村氏ら有志の研究者は独自に現地調査に乗り出したが、このドタバタで現場入りは1週間ほど遅れてしまった。同じ轍を踏まないために、福島第一原発の事故直後に、労働安全衛生総合研究所を辞めてしまったのだ。
「東海村の事故を調査してから、日本でも大規模な放射線事故が起こりうると考えていました。そのときのために、チェルノブイリ事故から学ぶべきだと考え、何度も現地に足を運びました。2000年から現地で健康調査を始め、昨年は7月と9月に、今年も1月と、この6月にも現地に行きましたが、事故から25年経った今でも、健康被害は住民に表れているんです」
実際、日本でも事故は起きた。だが職場は現場調査を止めようとした。
「人のためになる仕事をしたいと思って研究者になったのに、これじゃあ何のための研究なのか分からない」
こうして木村氏は職をあっさりと捨ててしまった。(前後の記事も是非お読みください)