ドイツから帰国。飛行機が遅れたせいで仕事は捗ったのですが、日曜
日中に帰れてよかった~。明日もてんこ盛りなんで。
京都生まれで話し方はゆっくりな癖に、セッカチ・・・と言われてん十年。
子どもの頃はこれでも、トロイとろいと家族や友人から苛められていた
んです。どこで加速化したのか・・・。
ただ、私本当はセッカチなんじゃないんです。きっとブーイングあると
思いますが。。。ただ、quality of timeを求めているんです。本来は、
家族との時間のことを指す用語ですが、すべてに使える気がします。
大阪でも船場風にいうと、「時はカネなり」。ちょっと違うか。
「商売のための時を稼ぐ」という趣旨ではなく、「豊かな人生のために
時を稼ぐ」という発想。
日々の生活にquality of timeを求め、そのことにより、家族との時
間をquality of timeとすることを、目指して生きてきました。
つまり、何事にもメリハリ、オモイキリが必要ということ、かな?
たとえば、この8年間、我が家にはテレビがない。テレビがないだけ
でも、大分家族の会話は増えました。電力も使わないし。
まず、この考えに至ったプロセスは、次のようなものです。(なお、
いちいちワークショップのように家族で紙に書いたりしてないからご
安心を。脳みその体操です。でもやってもいいかも!)
①家、家族の目的と機能を考えます。
②その上で、何のためテレビが必要なのかを考えます。
③テレビがあるメリット、デメリットを①②で検討します。
④そうすると、家族の会話や静寂を失ってまでもテレビが必要な理由
が見出せませんでした。本当によい番組、影響力のある番組なら、
近年はネットで観られますし。
なので、「我慢させる」ということではなく、「何が一番重要か」を優先
順位をつけて考えて、その分出てきた受動的ではない時間を、団欒の
時間やクリエイティビティの発揮(海くんは工作をとってもよくします)に
よってを大切にする、ということです。
つまり、一見「守り」に見えますが、「攻め」の姿勢なんです。これ。
業界用語でいう、「転換」「超越」ですね。
同じことが、昼食MTGにもいえます。
最近は、人と会うときは必ず昼食時間に設定。そうすれば、一人食
という寂しくいまいち美味しくない食べ方をしなくてすむし、新しい情報
や共感を交換したりできるし、なんといっても楽しい時間を過ごせます。
と書いて気づいたのですが、やっぱりどこか、一定時間に一つ以上
の機能を持たせようとする私はセッカチ以外の何者でもないかも・・。
で、肝心の子育てのこと。
子どもと密度の濃い1週間を過ごして思うのは、たとえ一緒に暮らして
も、24時間中10時間近く彼は寝ている。残りの14時間中8時間は
学校に拘束されている。残りの6時間中2時間ほどはサッカーに。そし
て、最後の4時間中2時間ぐらいはお友達に・・・・。となると、一緒に
過ごせるのは、1日2時間ぐらい。しかし、平日ともなれば、この2時
間が曲者。朝の準備、歯磨き、お風呂、宿題・・・ナドで時間が過ぎる。
夕食の団欒だけが唯一ほっとする時間。それも、育ち盛り。ブルトー
ザーのようにたらいあげて消える。
つまり、quantity of timeを求めても、はなから不可能!
もちろん11歳だからということはありますが、逆にいうと子育てっ
て、思春期に入るところまでのたった十年程度のもの。となると、我
々が目指すべき「子育て」とは???
究極的には、子供が大きくなったとき自主自立して、自分の人生
をしっかり歩んでいけるようお手伝いすること・・・ですよね?特に、
思春期に入りかけてきた息子を持つ親としては、彼が失敗や過ちを
繰り返しながらも、自分を大切に、自分でよい判断をしてほしいな、
と心から思います。そのために、赤ちゃんの頃から今までどうした
らいいか・・・。考えに考えた結果、私が出した答えは・・・・
「あまりしっかりした親をやらない!!!」 でした。
さらに、「子供は社会と子供自身に育ててもらう!」 です。
何と無責任な響き!!!でも、これをあえて積極的にやってき
ました。
昔の子供(私も)は、母や父だけに育てられるなんていう状態
に置かれたことはなかったことを思い出すと当たり前のことかな。
「子供=社会の宝」であって、私は縁あって海くんという子供を
授かって育てさせてもらっているものの、海くんは私の「もの」で
はなく、海くんと社会のもの。なので、6か月から保育園に預けて
いるし、福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクトをしているの
も、この考えから。
ズボラ親・・・はい、そうです。もちろん、かなり言い訳めいていま
すが、子どもに自分で考える、責任を持つ幅(スペース)を少しでも
多く渡し、それになるべく介入しない・・これにつきるのではないか
と思います。そして、何かが起こったら、かならず時間をとってしっ
かり話す。問題は、一人っ子クラーセンにこの考え方がなかなか
伝わらないこと。<=その場でなく、あとでのほうが効果があるの
に、一生懸命「親」をやってしまう。うーむ。まあ両方あってもいい
でしょう。子どもはそれに慣れているし。
たとえば、縫物をサボってきた私ですが、おかげで子供は靴下に
穴が空くと自分で縫います。ドイツでいきなり子供がお裁縫箱を取り
出して靴下を縫いだしたのでびっくり!でも考えたら日本でも、要ら
ないタオルで枕をつくってくれたりしてました。

かわいそ~という声が聞こえてきそうですが、それは「やってあげ
た気持ち」になりたい人の意見。「やってあげる」ことは実は簡単で
す。難しいのが、「自分でやる気になる」よう促すこと。親のサボリ
方にも技術が必要なんです。
母になって思うのは、「~してあげた、私っていいお母さん」、「~
我慢してるんだから感謝して当然」、「~したから喜んでもらいたい」
という押しつけがましい考えが、そっと脳みそに忍び込んでくるのと
どう闘うのかという点。これらは、基本的に『自己満足」を求めての
こと。『自己満足」するのに、他人特に子供を煩わせる必要ないは
ず。でも、人間とは悲しいかな、人に肯定してもらって初めて自己
が肯定できるんで、これは時に難しい。
でも、真に子供のためなら、それぐらい我慢できるのが親では?
むしろ、子供はどうなりたいのか、どうしてほしいのかを確かめるこ
とが重要。あるいは、「お母さんはやりたいからやってる!」というこ
とをしっかりと基本とすれば、子供も楽なのでは?感謝しなくていい
というと、意外に子供はとっても感謝するもんで~。楽しいことには、
反応するんですね。
とはいえ、寂しい想いをさせるのはお互い辛い。でも、量でなくて
質。久しぶりに会うときのquality of timeが私たちをより強く結び
つけているようにも思う今日この頃。今回ドイツに到着した夜に彼が
いったのは、「日本にいた時つまんないことでママに怒ってしまった
けど、あ本れは本心じゃなかったよ。これが伝えられないと困るな、
っていつも思ってた」という一言。泣けてきました・・・。
「子どもを育てる」などということが、おこがましい言い方だと最近
は特に思います。むしろ、「子供に育てられる」という気がしてならな
いから。その意味でも、「教育」も同じですね。論文を書くことが得意
でなかった私が今みなの論文をコメントできているとしたら、それは
これまでの先輩たちとのやり取りがあってのこと。
足りないところだらけの母親&教師だけど、私を育てるのもみなの
仕事だよ~。
最後に、97歳の義父を登場させます。義母が退院してきた途端
になんだか文句ばっかりいうようになりましたが、3人で暮らしてい
た時は、それはそれはしっかりして、このようになんでもお手伝い。

義母にいったら、「あの人は私がいなくては・・・」の一言。オーマ、
それがまずいんだよね・・・いえないけど、さすがに。息子も夫も
甘やかし放題だったツケを50年近く背負い続けている義母の姿
を見て、反面教師として女の生き方を学ばせていただいています。