読売新聞は子どもの頃から読んでこなかった新聞です。
関西人にとって、読売新聞を読む、オレンジ色のグッズをもらう、
というのはあまり面白いことではないのです。
(この意味が分からない人は相当「東京の人度」が高いか、相
当田舎者か、東京に思考&嗜好が乗っ取られている証拠!?
あるいは、野球知らない??)
他方、試合に負けたのに新聞の一面がタテジマ・・・という関西ス
ポーツ紙にはヘキエキしたものでした。なんせ、今はなき阪急ブレ
ーブスファンの私でしたから。しらん?そりゃそうか。後を継いだ
オリックスは今では「敵」だった近鉄と合体したほどなんで。
なので、大阪に本社のある新聞しかあまり読む機会がなかった
わけですが、それはこちらに来てもやはりそうで、新聞の販促に
嬉しそうに「巨人戦」のチケットをひらひらさせる販促者をみて、
余計かたくなになってしまったのでした。
でも、TICAD IVのプロセスの中で、環境分野にとても詳しい
女性ジャーナリストに出会い(今では論説員であられますが)、
彼女の書くものは好きなんで、COP17みたいな会議が近づくと
あえて読売も読むようにしています。
なので、デュッセルドルフ空港のラウンジで読売新聞をみつけ
たときは迷わず手に取って、やっぱり彼女の記事もあり、喜んで
読んで共感したものの、その内容は覚えてない・・・。というのは、
もっと気になる記事を読んでしまったからです。
それは、特別編集委員の橋本五郎さんのコラムでした。そこに、
なかにし礼さんのお母さんの思い出が描かれていたのですが、
私の「子育て」「教育」のある種基本になるようなことが書かれて
あり、それもかなり衝撃的に書かれてあったからです。
***<なかにし礼さんのインタビュー>*********
1945年8月、母よきさんと姉の3人で満州から列車で逃げる途中、
ソ連機に襲われる。母は「お前は小さいから椅子の下に隠れなさい
。そうすれば大丈夫だから」と言って、列車から降りて灌木の陰に
隠れた。
おそらく一緒に逃げると足手まといになって面倒になると思ったの
だろうが、ソ連軍の機銃掃射は向かいの椅子を打ち抜き、乗客は
亡くなった。
その様子を外で見ていて母は相当後悔したと思うが、戻ってきて
こういったのだ。
「これからは、お前はお母さんの言うことでも信じてはいけない。
自分で必死になって逃げて、自分の意志で生きなさい」
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自分が助かるためにわが子を犠牲にしようなんて、本当にこの
お母さんが思ってのことだったかわからない。もちろん、私だった
らこのような選択はしなかったろう。でも、このお母さんがこの状況
で幼きわが子に伝えたかったこと・・・。
国によって最前線に送られ、稚児らとともに戦争に巻き込まれ、
誰も助けてはくれない状況の中で、自分もどこまで生き残って、
子どもを守られるかわからない。古今東西、そんなお母さんたち
の話を、繰り返し、繰り返し、耳にし、読んできた私には、このよう
な状態になったら・・・なるまでに出来ることは何か・・・いつも自問
自答してきました。
そして出した結論が、先日も書いたように、子供が自分で生き残
ることができること・・・でしった。その意味では、お母さんすらも、
信じてはいけないかもしれない・・・というメッセージは過酷であって
も重要だと思っています。
もちろん、この「信じる」には何通りもの意味があると思います。
このお母さんも本当にいいたかったことは違っていたと思います。
私がいいたいのは、
●お母さんの愛はどこまでも信じていいけど、
●お母さんのjudgement(判断)は信じないほうがいい、
ということです。
なぜなら、大学で教える「有識者」であろうとも、あるいは、だから
こそ、「間違えること多し」だからです。お母さん、お父さんがいうこ
と、先生がいうことは、すべて正しい::::という前提に立つことの
危険はみなさんも今回の震災・原発事故で気づいているでしょう。
我々は間違ってきました。繰り返し。だから、こんな状態に子供た
ちを置いているわけです。だから、子どもにも、学生たちにも、私の
心を信じてもいいけど、言っていること&やっていることは常に疑問
をもって眺めて、自分の頭と自分の責任で自分の方向をjudgeし
ていってほしいと思います。
それこそが、最後には、皆さんが求める生き方につながっていくだ
ろうし、危機の際にみなさんを救うベースとなると思います。
●クリティカルシンキング
●多角的にみる能力
●妥当なジャッジメントを迅速に下す力
●それを伝える力
これこそ、どんな時代にもみなさんを救い、周りを救い、社会を救い、
地球を救うでしょう。まずは、お母さん・先生を「信じない」ことから始
めてみてください。
(といって、それが衝撃すぎてゼミにはいったコマチちゃん、博多で
元気かな?)
そして、その場にいなかった私が勝手な解釈をするのはとても気が
引けますが、なかにし礼さんのお母様のいう「信じる」とはそういう意
味だったのではないかと思います。
「自分を信じるな」と愛する人にいえるとき、それは絶対的な愛だか
らなのです。 相手の誤解もあえて恐れず、相手に喜んでもらった
り、愛し返してもらうことを前提にしない、ただただ無条件の愛だから
こそいえる一言なのだということを、なかにし礼さんが気づいていると
いいのですが・・・。