今日は修士論文提出まで1か月を切って追い込まれている院ゼミの
3名の指導と、津田での国際ボランティア論の授業でした。力尽きて、
行くはずだった外務大臣主宰の中東アフリカ大使会議レセプションに
は行き着けず・・・。
授業をするとこんなに疲れるのって、私だけなんだろうか。移動があ
ったとはいえ、心身ともに疲れます。でも、悪い疲れではなく、全速力
で中距離を走り終えたようなすがすがしさ。
でも、気になるのは、みなが私に「答え」を求めているように感じるこ
と。その前提には、「正解」があるという絶対的な信念がないでしょう
か?
実のところ、「正解」は一つもないと私は思います。あるのは、色々
な視点にたったいろいろな考え方。そこが、社会科学が他と違う最大
の特徴でしょう。
私が、「教えない」からといって、イライラしないでね。あるいは、教育
を放棄していると思わないでね。私が考える「答え」を話すのはとって
も簡単です。でも、そうすると、みなはそれ以上考えないのではないで
しょうか?
結局のところ、大学・大学院の役割は、みなが自分で持った問いを
多角的にこれまでの研究基盤を学び、それぞれなりのやり方でアプロ
ーチする手法を身につけられるようなお手伝い。問いも、アプローチも、
答えも無限です。
先生の一つの問い、アプローチ、答えなんて知っても、社会に出て
なんの役にも立たないでしょう。だから、先生に答えを期待するのは、
はなから止めて、むしろ先生が驚くような問い、アプローチ、答えを
示してみて~。
じゃあ、先生の役割は?先に苦労したものとして、その道筋を示す
ことかな?