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津田学生の推測(その3):なぜこれをボランティアと呼ばないのか?

そして、これが最後の質問への津田の学生の推測です。
これもまた、当たっている部分も、外れている部分もありますが、
とっても興味深い!
 1.2.3.とも、考えていなかったこともあり、勉強になります。
これは授業で少し話したこともあり、かなり当たっている点も多い
のですが、後一歩かな。ただし、「ボランティアは趣味」ではあり
ません!!!(まあ、人からみたらそうかもしれないけど、私の
心づもりとして)
 ちなみに、別にあたってても、いなくても、どっちでもいいんです
が・・・。皆さんがどう考えているかを踏まえた方がわかりやすく説
明ができるかな、と思ってのことです。

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3、どうしてボランティアと呼ばないのか
誰かがやらなければならないことであるため。また、妊産婦さんたちがその影響についてあまり知らず、ニーズというものを明確に持っていないため。
わたしが定義したボランティア自主性、非営利性、公共性、相互性の面に当てはまるが、最終的な問題として当事者が決める。ボランティアといった他人がこの問題に取り組むような感覚ではなく、自分の問題としてかかわっていらっしゃるから。
2でも述べたように、生活の ひとつしてボランティアを行っているため、意識して自分が与え与えられているという活動ではなくなっているということから、ボランティアと呼ばないのかな と思います。もしくは、”ボランティア”という総称によって、なんらかの枠組みの中でしか活動できなくなる、ボランティアの一般的な定義でしか自分がボラ ンティアをしているということにならないということになるため、敢えてこの活動に名前をつけないのかなと思いました。
問1、2でも述べてきたが、私たち個人も社会の一員であって、社会に守ってもらっている。市民社会に生きている限り、親族や地域社会という枠組みはとっぱらって、当事者として社会の問題にとりくんでいかなければならない。だから、「隣の問題は隣のもの」という考えではなく、社会の問題は社会の構成員である全員で考えるのが当たり前である。だからボランティアする側、される側あるいはする側、してもらう側というものはそこにはない、すべてはお互い様なのだ。だからこそ船田先生は自分がやってきていることをボランティアだと思っていないのだ。
ボランティアの根源に、有難迷惑とも呼べる、「善意の意識」があると考えていて、それとこの活動とは上記の理由から違うと考えるため、ボランティアとは呼ばない。
当事者であると考える以上、サポートをする側される側は常に変化し、先生が自分が一方的に援助をしていると考えていないから。
ボランティアの定義により異なってくるが、便宜上ボランティアの定義を、当事者のニーズに応えることのみに限定し、支援する側の押しつけと思われるものは含まないとすれば、当事者の望みだけではなく、自分の専門性や意見を当事者に反映させて、ニーズ以上の行為を行っている可能性がある。さらに、今の福島の乳幼児・妊産婦のおかれた弱い立場をよりよくするために今ある社会の制度を変えようと直接働きかける社会運動に近いものであることから、あえてボランティアと呼ばないと考える。*3一方ボランティアが、他者のために見返りを期待せずにサービスを提供するボランティアの規範ともいえる考え方は、ボランティア活動の実践と経験をしばしば拘束させ、悩ます誘引ともなっている*4というボランティアの側面から考えると、福島の乳幼児・妊産婦サポートをそのようなステレオタイプ的な考え方から切り離したいという主旨をふくんでいるともいえるだろう。
-親戚/親しい人がサポートされる側に含まれているので-「してあげる」というより「させてもらう」という姿勢で関わっているため-何かして当然という理由があるから-心理的な距離が近いから(近所の人に必要があれば手を貸すのと同じ感覚?)
③なぜ先生はそれをボランティアと呼ばないのか?
→当事者意識が強いから。(家族の助け合いの場合はボランティアとは呼ばないため、人類をみな家族と考えているから。)→それを仕事の一環とみなしているから。
 ボランティアを定義したり、授業内でボランティアについて議論したりしたときに、家族や友人にはする思いやりの行動を、それを超える他人にしたときに、行動はボランティアになる、と私は考えていました。しかし、先生の当事者に関しての話を聞いて、私の周りの人と先生の周りの人の範囲が違うのではないかと思いました。私は友人を超えると、関係の薄い他人だととらえていましたが、先生は自身も社会の当事者であり、同じ社会の人とは繋がりがあって、私の、友人と他人を線引きしているラインが、先生はもっと自分を中心としたときに遠くにひかれているのではないかと思います。そのため、先生はボランティアを無関係の他人にしている、とは思っておらず、家族や友人にする思いやり行動を、同じ社会に生きる人にしているだけと考えているために、ボランティアとは呼ばないのではないかと思います。
ボランティアを「問題を抱えている人達を、その問題を抱えていない人たちから手助けすること」と仮定すると、先生は福島の問題を同じ日本国民として当事者意識を持って福島に暮らす人々と同じように抱え、解決していきたいと考えているからだ。先生は福島の問題の外側にいるのではなく、彼らと同じ側に存在し、彼らとともに人生を歩んでいくという想いがあるため自身はボランティアではないと考える。こう考えていくと「ボランティア」という言葉が存在しない社会が、本当に相手のことを考え、自分もその境遇にいる意識で共存していく地球市民の社会であるように感じる。
②と同じになってしまうのですが、先生自身は、ボランティア活動を無償の行為と考えており、このプロジェクトを通じて、先生は、喜びや充足感を得られることができるため、有償行為となり、これはボランティアではないのでは?と考えるようになったのではないかと推測します。
先生は、子供は親だけではなく、社会と子ども自身に育てられるものだと考えている。現代の日本は「モンスターペアレンツ」という言葉が存在するように、自分と自分の子供さえ良ければすべてよしと考える親がいたり、教育の責任を学校だけに求めたりする親がいる。確かに学校は一つの社会ではあるけれども、社会のすべてではない。自分さえよければいい、というのでは社会は成り立たない。子供は親の所有物ではない。「子は宝」という言葉があるが、親だけにとっての宝ではなく社会にとっても宝である。そうすると、社会に育ててほしい、愛する自分の子供だけれども、その社会には問題がたくさん存在する。だから先生は、自分の子供に直接「やってあげる」のではなく、よりよい社会づくりを目指し、そのもうひとつ先に息子のことを置いて見ているのではないだろうか。「お互い様」という言葉がある。社会が自分の子供を育ててくれる、だから社会の構成員である先生は他の子供たちを育てる必要がある。支援を「する」側でもあり「される」側だから先生は自身の支援活動をボランティアと呼ばず、「お互い様」という気持ちで活動しているのではないだろうか。ママコミュニティに見られるような、「あなたの子供のこと見ているよ、だから何かあったときは私の子供もよろしくね」というお互い様の精神が先生の活動からは見られるように感じた。
それは「ボランティア」で活動できる範囲を超えているからではないでしょうか。先生が行っている活動は授業中のディスカッションで出た「個人の可能な範囲で」「無償」「自発的」などのボランティアを表すキーワードにすべて合致する活動ではない気がします。またレポート作成時に呼んだ参考文献の中のどの「ボランティア」とも違いました。「無償」ではないし「個人の可能な範囲」というよりは個人でできること以上の活動をしているので、これはボランティアとは呼べないのではないでしょうか。
volunteerとは、[志願]という意味をもつラテン語voloからきた言葉であり、「無償で行う奉仕活動をする人」(大辞泉より)という意味をもつ。しかし、「福島の乳幼児、妊産婦のサポート」を奉仕活動ではなく、ある意味自分の「義務」「責務」と感じているならば、その活動が、周りからみたら「ボランティア(活動)」と認識されうるものであっても、自分で「ボランティア」とは呼ばないだろう。また。問2でも述べたように、自身を問題当事者の1人であると考えるならば、「ボランティア」という言葉は不適切ではないだろうか。それが多くの行政措置、民間ボランティアの支援がありつつも後の健康状態にもかかわる深刻な問題であり、先生が「これこそニーズがある」と考えているからである、と推測する。被災地には様々な種類の活動があるが、特に福島でのボランティアは原発事故により注意が必要である。福島にとどまる人々の放射能への注意はもちろんだが、特に妊婦はおなかの中の子供への影響、乳幼児は小さいときに浴びる放射能への心配などがあり、避難にもさまざまな困難が伴う。またただでさえ小さい子を持つ家庭はそれ以外の家庭より気を使うことが多い(苦労することもある)が、それは母親であり、小さい子供を持ったことのある人がことさら良くわかる事情であるため、子供を持つ一人の母親としても、この活動を行っているのだと思う。このサポートは市民社会の中の課題の一つであり、自分を中心とした「社会」の問題であると判断したためサポートを行っていると考えられる。
対象者は市民社会の中の一部であり、「助ける」という感覚ではなく「当たり前のこと」だと考えているからだと推測する。対象者が少し離れた地域(福島やそこから引っ越した場所)にいても、同じ「市民」の一員であるという意識を持っており、このような長引く非常事態に継続的に深くかかわっていくのは、「ボランティア」としてではなく「市民」として関わるからである、と考えている。
地震や津波などの自然災害と違い、原発というのは私たち人の手によって作り出され、使われてきた。そう考えると、福島の人々が苦しんでいる状況を作ってしまったのもまた私たちにある。また、福島の人々が原発と隣り合わせの生活をしていたからこそ、首都圏に住む人々は自由に電気を使えていたという事実を知ると同時に、その恩恵を受けてきた私たちが福島のために行動を起こすことは、当たり前のことであって、ボランティアとは呼べないから。
問い2でも触れたように、先生が諸活動=好きなこと、やらずにはいられないことを通じて元気や勇気をもらっているためボランティアとは呼ばないのだと思います。先生の諸活動を見聞きして、本当に好きなことを自身の気持ちに正直に、自身のことのように捉え活動しているとの印象が強くありました。そのため、先生は上述活動あってこその先生、舩田クラーセンさやか、というひとりの人であり得るのだと思います。先生は上述活動によって生きがいを感じ、生かされているのではないかとも考えます。
③ボランティアというよりも、先生の一つのライフワークとなっているから。趣味の一つとして活動を行っているため、ボランティアとは呼ばない。
自分がやりたいからやっているので、それをボランティアとは考えていないから。ボランティアとしてとらえた時点で、「何かをしてあげている」と感じてしまうが、先生はそうは思っていない。
不安を抱えながら生活する乳幼児や妊産婦を含む家族の悩みに寄り添って、対象者の望むサポートをして将来の世代が安心で安全な環境の中で育まれることを願いを込め支援しているので、ボランティアとは呼ばない。福島での地震は日本にとって大きな衝撃であり、先生はその問題に無関心でいることはできなかった。乳幼児・妊産婦サポートの分野を選んだのは、 実は先生は子どもをアフリカで生んだ経験があり(妄想です・・・)その際に、サポートを受けたためと、その分野のサポートの大切さを実感したからである。
②と③が上手く分けて考えることができなかったので、まとめて回答してみます。ボランティアと思っていない背景には、②の問いであった寝る時間を削ったりお金も持ち出すという自分の時間や体力を自発や使命感以上にその活動 に注いでいるからではないかと考えます。また、自分の時間や体力を想像以上に(いい言葉が見つかりません)事態であり、そこには自発的どうこうの問題より ももっと差し迫った事態、問題(当事者の視点から)として捉えているからではないかと考えました。また、先生のお話によれば、学生時代の頃から NPO/NGOの活動に携わっており、もしかしたら先生にとってはこのような活動は生活の一部化、趣味化しているのではないかとも思いました。
 ボランティアと呼ぶこと、先生の行為を名づけることに意味を感じていないのだと考える。だから、他人からみてその行為がボランティアだとしても関係ない。自己認識として、ボランティアと意味づける必要がないのだと考える。また名づけることで「ボランティア=OO」という概念に縛られる。先生の行っていることはもっと自由な幅を持つ行動であると感じた。
 この活動は、以前私が提出したボランティアの定義に当てはまっており、それをもとにすると、ボランティアと定義づけられる活動である。しかし、この活動をボランティアと呼ばないのは、これも個人の考え方によるが、この活動を、して当たり前のものだと考えており、ボランティアを行っている、という考えが無いからだと考える。
Q1、Q2を踏まえ。「子供」を守る、ということは先生からしたら「当たり前」のこと。それが特別だとも、慈善活動だとも感じていない。だから福島での活動のことを「ボランティア」だと思っていない。いうなら息をするのと同じくらい特別でなければ、意識してすることでもない。
現場がよりよい方向に向かうよう支援しているのは、自分もその当事者とともに現状を打破したいという思いがあり、 同じ立場に立っているからこそボランティアをしているとは思わないから。
好きでやっていることで、趣味のようなものであるから。自身がサポートされていたときの恩返しのような行為でありまず自分の意思があり次に相手の意思を鑑みているから。そこで、ある意味利己的行動といえるため。
⇒ ボランティアだと思います。中学校時代のボランティアは「決められた時間」(例:10時)に「決められた場所」(例:高齢者施設)行って「決められた活動」(例:話し相手)をして「決められた時間」(例:16時)帰るという枠の決まったものだったが、舩田先生の提示するボランティアは決まった枠もありますが  ルーティンワークではない点で中学校の課外授業とは違います。ボランティアはというと無私無償の行為という理想がありその活動をしている人は崇高な人のイメージがいつの間にか形成され、まるで宗教家の奉仕活動のように思えますが、先生の活動はボランティアでもあり高度な  専門活動でもあると思います。
当たり前の行為だと思っているから。
そもそもボランティアをする側・される側で分けて考えていないから。困っている人がいると知ったなら、それをなんとかしようと考えるのが当たり前で、その行為に力関係が発生するような名前を付けるのは適切なことではないと考えるから。
船田先生は乳幼児・妊産婦のサポートを当事者として行っているからだと考える。
第三者のために、活動をしているというよりは、乳幼児の母(だった人)の中の1人、妊産婦(だった人)の中の1人として、同じ立場の人々のために活動をし貢献しようと考えているから。
ボランティアは第三者的立場から物事を考えようとする人々であり、当事者とは一致しないのではないかと考えた。
それを使命のように思っていらっしゃり、当たり前のことと考えていらっしゃるのだと思います
報酬があるから、何らかの見返りがあるから。(精神的?研究の一環?データを取ってる?乳幼児の追跡調査?とか)人として当然の助け合いだから。自分たちが行っている行為が「ボランティア」という一言で収まってしまうのが嫌だから。
 「福島のお母さんたちが最後の砦としてこどもたちを守っている努力に未来を」見ているから。  「そして、自分の責任の問題を超え、この問題に関わることによって、日々勇気をもらっている。  だから、今日も福島の子どもたちのことを一生懸命やる。自分のこととして。」という記述からわかるように 「自分のこととして」この問題をとらえているから
ボランティアではなく自分も社会のアクターとして社会に還元するのが当たり前だと考えていらっしゃるから。ボランティアの定義の一つとして、自分ができる範囲で活動を行うということがあると考える。しかし、船田先生は、寝る間も惜しんで、持ち出し前提で活動を行っていることから、自分ができる範囲での活動でないと思う。そのため、船田先生は自分の活動をボランティアではないと考えていると思う。
 ボランティアは相互成長を生むものがおおいが、先生がいまなされているのはニーズにこたえるために一方的に提供しているもの=支援であるから ボランティアは無償でおこなうもの、金銭面の動きがあまりないものであるが、 このプロジェクトの場合、莫大なお金がうごいているから。
福島の人々だけでは解決できない問題に手を貸しているという意味で先生が意識されずともボランティアにあたるのではないか。
これをボランティアと呼ばず、自己負担もしながら行っているのはCSR「企業の社会的責任」つまり会社が負担を負いつつも、より良い社会の為に行うものでボランティアとは区別される行為が存在するが舩田先生は福島の乳幼児・妊産婦のサポートを「個人の社会的責任」だととらえて行動しているから。
by africa_class | 2012-01-06 22:20 | 【大学】国際ボランティア論
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