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【抵抗について】アンネの日記、アフリカンママ、武藤類子さんに学ぶ「精神の自由(自己の解放)」と愛

前からずっと書きたかった「抵抗」のことがようやく書ける時間の隙間が
出来たので、書いてみます。
 子供の頃からの人生のテーマは平和ではあったのですが、私の幼少
期の生活があまりに「平和」なものではなかったため、「平和」をのんび
りと考える余裕があまりなく、さらには天邪鬼な性格も手伝い、いつも
「平和」を「暴力」と関連付けて考えてきました。いや、もしかして逆だっ
たのかもしれません。「暴力」がそばにあったからこそ、「平和」をめざし
たかったのかもしれません。
 いずれにせよ、「暴力」をどう非暴力化できるのか、またより切実には
まずは自分としてどう「暴力に抵抗できるのか?」と考えて生きてきま
した。そして至った考えは、「平和を主体的に考える」ときには、「暴力
とどう向き合うのか」という問いが重要な問いであり、「暴力との向き合
い方」の一つには「抵抗」が重要な位置を占めているということでした。
 世の中は、「暴力には暴力を」「力には力を」「やられたらやり返せ」
「罪には罰を」・・・という論理が主流派を占めています。あるいは、
「暴力や権力には泣き寝入り」という態度がもう一方の主流を占めて
います。日本ではむしろ後者が一般的でしょうか。
 前者への反論としては、しかし、暴力や力を振るわれる(抑圧され
る)という構造がある以上、「やられる側」の立場にいる人が取れる抵
抗手段は限られています。現在、世界のある種の地域で、爆弾テロ
や焼身自殺がなくならないのは、組織犯罪は別として、そのことと関
連しています。
 司法が独立・中立・公平であれば、「罪には罰を」の論理も機能す
るのかもしれまえん。そして、そうなるように努力すべきでしょう。た
だ、不公平がはびこる社会において、ある罪の被害者は、その罪を
犯した個人や集団、構造だけでなく、それを裁く機関・社会構造・国
家すらも相手に闘わねばなりません。そもそも、「被害者になる」人
は弱い立場にいることも多く、その「弱さ」を乗り越え、罪を糾弾し、
社会と闘う・・・ことを余儀なくされます。
 想像してもらえれば分かりますが、これは容易なことではありま
せん。私もかつて用意なく、正義のために闘い、見事疲れ果て、
かなりのロスも経験しました。その時、おそらく、わが身わが事とし
て感じたのが、「抵抗し続けることの難しさ、重要性」でした。
 正面突破的な「闘い」は、長く続きません。また、新たな火種を
産み落としてしまいます。そのことを知っていながら、ある種闘い
続けてみたこともあるのですが、やはり疲れ果ててしまいます。
他方、「暴力」がなかったことにしてしまう事なかれ主義は、社会
をどんどんまずい方向に導き、関わらなければ大丈夫という傍
観者的なポジションの人すらも、いずれは巻き込んでいくでしょう。
 そんなことをつらつら考えていたときに、私は武装抵抗後のア
フリカの人びとの日常抵抗に出会ったのです。前にも書いたこと
がありますが、例の、①逃亡、②ばれないようにサボタージュ、
③歌や踊りで侮蔑、④宗教に逃げ込む、⑤酔っぱらう・・・等です。
 でも、一番重要なのは、これらのスタイルではありません。
これらの抵抗の底辺に息づく、「精神的には支配されない」という
決意なのです。私流にいうところの、「精神の自由」なのです。
この「精神の自由」こそが、白人の方が優れていると思い込まさ
れてきたはずのアフリカの人びとが、立ち上がり、自由のために
闘う際の基層にあったものです。
 土地を奪われ、家を奪われ、家族を奪われ、生業を奪われ、
言葉を奪われ、文かを奪われ、身体的に暴力を受けようとも、
内に秘めつづけた「精神の自由(自分)」こそ、すべての力の
源泉であった・・・とアフリカの人びとの歴史を学んだきた私は
思うのです。もちろん、これはアフリカ人だけではありません。
 私は、10歳の時にアンネフランクの『アンネの日記』に出会い、
とても納得がいったことを昨日のことのように思い出します。も
ちろん、今となってはアンネやこの本について学術的に論じる
術も身につけてしまったのですが、ここでいいたいのは、その
ような「頭」の話ではなく、「心」の話です。
 当時私は、色々な人の暴力に悩まされていて、ただそれを
ひたすら貝のように頑なになることで乗り切る日々を過ごして
いました。自分が「貝になる」イメージを持つと、何事もスルー
できるもので、自分がどんどん本当に「貝」に近づいていって
いることが怖くもあり、嬉しくもありました。そのまま続ければ、
美味しい貝になったかもしれませんが、私はアンネに出会っ
てしまったのです。
 彼女は、あのような日々においてでも見つけた小さな喜び
をそれは大切に大切に記していました。今読み返すともっと
違った印象を受けるかもしれませんが、当時私がいたく心を
ゆすぶられたのは、そのことについてでした。彼女の生きた状
況と比べれば、たいしたことのない私の状況。なのに私は絶
望していた。彼女もまた絶望していたでしょうが、「生きる」こ
とに価値と希望を見出していた。それは、「小さな喜び」を受
け止める力によってでした。
 「貝」は人間ではありません。
 アンネは最後まで人間でした。
 人間には、どこまでも残虐な力が与えられている一方で、
そういう可能性もまた与えられているのだ・・・それを同じ歳
の女の子が生をもって示してくれているのだ・・・ということに
脳天をかち割られるぐらいの衝撃と感謝を感じたことを昨日
のことのように思い出します。
 私は、ただ貝のように自分を閉ざすのではなく、小さな喜び
を見出すことに力を注ぎたい・・・そう考えるようになりました。
ただそれは容易ではありませんでした。おそらくかなり長い間
心の中でアンネと対話をしたのだと思いますが(この部分想い
出せず)、なぜアンネが小さな喜びを持つことができたのだろ
う・・・という点について、ある日思当たったことがあったのです。
それは、彼女が「愛」を、それでも、信じている・・・という点につ
いてでした。
 人間が人間を、あそこまで大量に組織的に殺す事態が進行
するその最中で、その犠牲者になることが目の前に迫ってい
る中、彼女はまだ「愛」を信じていました。もちろん、彼女がす
べてを知っていたわけではありませんでした。本当に収容所
での出来事をみていたら、あんな日記は書けなかったかもし
れません。
 その前提で、しかし、彼女はやはり愛を信じていたと思うの
です。少なくとも、自分への愛、周囲の人たちへの愛を。ひる
がえって、私は自分が嫌いでした。おそらく、暴力を振るわれ
たり、十分に愛されずに育った子供の多くが、愛仕方を知らず、
自分を嫌いながら大きくなる傾向にあると思います。あるいは、
自分を過剰に愛してしまう傾向が。
 でも、周りを変えることはできませんが、自分が自分を愛す
ことぐらいは出来るはずなんです。逆に言うと、自分を愛さず
に、他者を愛することはきっと難しいでしょう。その愛は、どこ
か一方的で、他力本願で、思い込みのものになりかねませ
ん。なぜなら、愛してもらうことで、自分を愛したいという欲求
がどこかに潜んでいることが多いからです。でも残念ながら、
他人は他人です。人の気持ちなどに頼っていては救われま
せん。
 話がそれましたが、私の中で、「抵抗」と「愛」は相互にリンク
していて、それぞれが「暴力」と「平和」に関わっています。
(学術的に説明していない点ご留意ください)
 アンネの日記を経て、のちにアフリカの人びとの抵抗に出
会ったときに、見えてきたこと。つまり、アフリカの人びとの日
常抵抗が、暴力をすぐにひっくりかえすだけの直接的な効果
をもたなかったとしても、自分の中の尊厳を手放すことなく、
したがって抵抗の炎を絶やすことがなかったからこそ、結局
は主体たることができたということ。そして、それを集団として
shareし、励まし合ったからこそ、のちの運動につながり、
強固な暴力構造をひっくり返すことができたのだということ。
これらに気づいたのです。
 そして、アフリカの人びとの抵抗の中で一番心ひかれたの
が、女性たちの歌や踊りでした。彼女たちも、歌も、踊りも、
歴史の教科書に出てきません。もはや聴くことも観ることも
一緒にやることもできません。しかし、女たちが畑仕事の合間
に紡ぎ出し、一緒に楽しみ、広め、伝承していった歌や踊りは、
私にはアンネの小さな喜びの持っていた力に通じる「抵抗」と
「愛」と直結するものでした。
 良く考えてみれば、私もまたアンネの日記を読んた後、人
間に戻ろうと(貝だったので・・)もがき、苦しみ、でも最終的に
は、おそらく戻れて、自己を解放することができたのだと思い
ます。「自己の解放」は、「精神の自由」とほとんど同じ意味で
使っているのですが、もちろん、今でも課題です。
 ただ、「人任せの愛」でなく、自分を信じ、したがって人間の
可能性を信じたときに(自分ばかりが可能性をもっているわけ
ではありえないので)、愛がどこまでも広がっていくことを感じ
られるようになった「ような」気がします。
 その時、暴力は不思議なことに止んだのです。
 その何(十)年も後に、また「貝」になってしまった時期もあ
ったのですが、時間はかかったものの、人間に戻ってこられ
ました。その時、性犯罪のサバイバーたち、アフリカの女性た
ち、とくにモザンビークの戦争を生き抜いた女性たち、ルワン
ダ虐殺のサバイバーの手記が果たした役割は、とてつもなく
大きかったのです。
 「人間を諦めない」・・・つまり愛は不可欠ですが、同時に、
「自分だけが自由にできる空間である精神の自由」を捨てな
いことの重要性は、3・11後により切実に重要と感じるように
なっています。
 ちなみに、「愛」を語ると日本ではクリスチャンだと勘違いさ
れるのですが(あるいは新興宗教?)、何の宗教も信仰してい
ません。哲学、伝承物語として、いずれの宗教もみています
し、とても参考にせていただいてはいますが。宗教は多くの人
、特に大変な状況下にいる人たちにとって重要と思いますが、
私のような天邪鬼には向いてないのです。

 なお、福島の武藤類子さんもまた、東北に古くから根ざした
「鬼」の踊りを、女性たちに広めてらっしゃいます。Our
Planet TVの武藤さんへのインタビュー番組に出てきます。
番組自体がとてもいいので、全部見て頂ければ。
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1305
 抵抗を通じて「自分」を創造し、「自分」を創造しながら抵抗
をする。抵抗を通じて人とつながり、人とつながって抵抗する。
抵抗の中に、愛と喜びを見出す・・・・そんなことの積み重ね
でしか、何かを変えることはできないでしょう。
 世界も日本も絶望的なほど強いものが強いです。だから
こそ、頭だけで理解したり、口だけを使って議論したりして
も不十分。一過性のものではなく、自分の心や生活や愉しみ
につながっていなければならないでしょう。
 武藤類子さんの様々な試みやメッセージは、その意味で
3・11後を生きる我々に鋭い問いかけと、誘いを投げかけて
くれています。
 武藤類子著『福島からあなたへ』(大月書店 1200円)http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97138.html
by africa_class | 2012-03-23 01:19 | 【311】未来のために
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