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afriqclass.exblog.jp

一挙掲載月刊『英語教育』連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」(その2)

このコラムの冒頭は
http://afriqclass.exblog.jp/12662684/

ちなみに、ブログ更新の時間がもったいないので、前から全部
観たかったBBCの「メルトダウンの内側(Inside the
Meltdown)」シリーズを聴きながらです。今Part2。
http://onodekita.sblo.jp/article/54621673.html
が、い番組過ぎて・・・しっかり観ました。本当にお勧めします。

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『英語教育』2011年1月~2012年1月
連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」
http://www.eigokyoikunews.com/store/eigokyoiku.html
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■第六回 公用語を英語に変えたルワンダ
2008年に公用語に英語を加えたルワンダ。ついに2009年には、フランス語圏アフリカとは決別するかのように、コモンウェルス(英連邦)に加盟を果たしている。しかし、何故ルワンダは公用語に英語を加え、英語化しようとしているのだろうか?これについては、ルワンダこのようなルワンダの英語公用語化は、この国で発生した二つの虐殺が関わっている。
 ルワンダには、フツ(約88割八十数%)、ツチ(約1割)(十数%)、トワ(数%)の3つの民族集団が暮らすとされるが、いずれもルワンダ語を話し、集団間の婚姻も進むんでいた。しかし、ベルギーの植民地支配期に、これら集団のカテゴリー化と集団間の格差や分断が生み出され、る。そして、1950年代末の独立移行期に、フツ・とツチの間での暴力が激しさを増した結果、ツチ約2万人が殺害され、20万人が難民となって国外に流出した。
 この一次虐殺の際に多くのツチ難民が逃げた先が隣国ウガンダであった。ウガンダは元英国統治領で公用語は英語。また、英国領東アフリカ地域の学問の中心地であったため、教育に熱心な国として知られる。このウガンダで教育を受けた難民やその子どもたちが、ルワンダへの帰還を目指して立ち上げたのが反(ルワンダ)政府勢力・ルワンダ愛国戦線(RPF)であった。
 1990年、RPF軍は、ウガンダ政府の後押しを受けて武装蜂起し、ルワンダ北部に侵攻を開始する。この危機に対して、フツを中心とするルワンダ政府は、国内的な(特にフツの)結束を獲得するために、国内外のツチをすべてを敵として、その虐殺を組織的にその虐殺に着手したのであった。その結果、1994年にRPF軍がルワンダを制圧するまでの間に、50万人とも100万人ともいわれる数のツチが虐殺された。
 虐殺後に政権を奪取したRPFの幹部はウガンダで教育を受けたために、フランス語が得意ではなく話せず、なかった。そのため、公用語に英語を加えた。わけであるが、さらにフランス語の放逐には別の理由もあった。それは、フランスが虐殺を行った興した旧政権を支援していたことや、虐殺発生についてRPF側にも非があったとフランス政府が総括したことに対する反発である。でもあった。
 国民の間のコミュニケーションはもう一つの公用語ルワンダ語を通じて行われるので問題はないが、英語が出来ない大半の国内で暮らしてきた人びと(その多くがフツ)にとって不利な状況が生まれていることは間違いない。「たかが言語、されど言語」…ルワンダの前途が多難であることは間違いない。
 しかし、国内で暮らしてきた大半の人々は英語ができず、不利な状況に立たされている。虐殺という悲しい歴史は、こんなところにも爪痕を残しているのだ。

■第七回 アフリカ発英文学
私が勤める大学でも、「『アフリカの英語』は『英語』?」と真顔で尋ねる人がいる。本コラムの読者であれば、既にそのような問い自体が成立しないことを御承知のことと思いたいところ。いやいやまだ説得されていないぞ…という方のために、昨今の「英文学」事情について取り上げたい。
 「英語」が「英国という国の言語」から、「英帝国の共通語」であった時代が過ぎ、「英語」という名前の一言語に過ぎなくなって久しい。ただし、グローバル化やインターネットの発達から「世界の共通言語」として脱皮しつつある現在、「英文学」もまた、「英国の文学」だった時代から、「英語で書かれた文学」を指すようになっている。最近のブッカー賞で、英国人以外のアジア・アフリカ出身者の受賞が相次いでいることからも、それは明らかであろう。
 今回紹介したいのはナイジェリア文学である。同国は多くの文学者を生み出してきた。中でも、1986年にノーベル文学賞を受賞したWole Soynika(ショインカ)はあまりにも有名であろう。しかし、今回紹介したいのは、Chinua Achebe(チヌア・アチェベ)である。 1980年代以降、英文学界で重要な位置を占めるポストコロニアル文学/批評において、アチェベが果たした役割はあまりに大きいからである。著書Things Fall Apart(邦題『崩れゆく絆―アフリカの悲劇的叙事詩』)は世界で一千万部以上売れ、英国や米国の小説百選にも選ばれているが、英文学界、あるいは世界文学界への彼の貢献は文学作品に留まらない。
 植民地時代のナイジェリアで生まれ教育を受けたアチェベは、それまでまったく問題にされてこなかった英国文学の根底にある帝国主義・人種差別主義観を鋭くえぐり出す批評を発表し、世界に注目されるようになる。中でも、19世紀末の英国作家ジョセフ・コンラッドのHeart of Darkness(『闇の奥』)の批評は、現在でもポストコロニアル理論において「古典」となっており、英米を中心に世界中の大学で繰り返し読まれている。
 英国文学は、日本でも広く読まれてきた。英国から輸入した学問とともに、文学もまた、日本の近代化において多くの知識人に影響を与え、重要な役割を担ってきた。私たちのアフリカあるいは非ヨーロッパ世界を見る目に、刷りこまれてきた帝国主義・人種差別観を乗り越えるには、私たちもアフリカ文学を必要としているのではないだろうか。

■第八回 英語に生命と活力を与えるアフリカ?
前号では、英文学界においてだけでなく、ポストコロニアル批評においても重要な役割を果たしてきたナイジェリアの文豪チヌア・アチェベを紹介した。今回は、英語の発展へのアフリカ文学の貢献について。アチェベは、1964年にこう書いている。
 「私は英語がアフリカの体験の重みを背負うことは可能だと思っている。しかも、それは、先祖の土地との接触を充分に保ちながらも、新しいアフリカの環境に見合うように変更された新しい英語となるに違いない」
 同様に、同じ時代のアフリカ人作家ガブリエル・オカラは次のように述べている。
 「生きている言語は生物と同様に発展するのであり、英語は死語ではない。アメリカ英語、西インド英語、オーストラリア英語、カナダ英語、ニュージランド英語等が存在するのだ。これらすべては、それぞれの地域の文化を反映しつつ、英語に生命と活力を付け加えている。」
 現在の英文学界でのアジア・アフリカ出身の作家たちの活躍を考えると、なるほとと思える指摘である。そして、これが1960年代という解放直後のアフリカの作家たちの意志表明である点に注目したい。支配され、言語を押しつけられる側から、この言語を飼い馴らし、それを白人たちには不可能な形で豊かにすることで、「主従関係」を覆そうとする主体的な意図が感じられる。そして、実際にこれらの作家たちは、それを成し遂げたのであった。フランス植民地でも、セダール・サンゴールが詩によって、本国知識人たちを脱帽させている。
 しかし、これに対して、ケニア人作家・大学教授のグギ・ワ・ジオンゴは、次のように異議を唱えた。
 「なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにするために自分の母語を絞り出す仕事にそこまで脅迫されなければならないのか。」
 そして、1977年、当時すでに国際的な英文学作家だったジオンゴは、突如として英語での創作活動を放棄し、ケニアの一民族語にすぎないギクユ語での創作活動を開始する。なぜだったのか。
 今、ポルトガル語を公用語とするモザンビークにいる。そして、アフリカ人学生のポルトガルで書かれた詩の朗読を聞きながら、ジオンゴの問いの重さを噛みしめている。なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにしなければならないのか、と。

■第九回 英語を捨てたグギ・ワ・ジオンゴ
世界的な英文作家のだったグギ・ワ・ジオンゴ(ケニア出身、大学教授)は、1977年にケニアのギクユ語で農民とともに舞台劇『したい時に結婚するわ(Ngaahika Ndeenda)』を創作する。独立後の政治指導者たちが腐敗していく様子を痛烈に皮肉る一方、農民が結束して権力と闘う様子を歌や踊りで表現した作品であった。農民から「遠い」英語ではなく、誰もが理解し、しかも民族独特の哲学や倫理を深く宿したギクユ語での劇は、またたく間に評判を呼んだ。それは、この劇が「一民族語のプロモーション」を超え、文化活動を通じての政治参加という新しい社会運動の可能性を示した巻き起こしたからであった。
 「権力者の言語=英語」を使わなくても、生活の言語を使って政治参加し、政治的な意志表明が出来る。『したい時に結婚するわ』は、誰もが政治に参加できる道を切り拓いたのである。だからこそ、危機感を持ったケニア政府は、民衆を扇動した罪で政治犯としてジオンゴを最高治安刑務所にぶち込んだのであった。この刑務所の独房の中で、ジオンゴは英語での創作を止める決意をする。ジオンゴは語る。
 「白人の言葉を学んだ者はだれもが、いなか者である大多数の者とその粗野な言葉を軽蔑し始める。選び取った言葉の思考方法と価値観を身につけることによって、彼は自分の母語の価値観から、すなわち大衆の言葉から疎外されるのである。つまり、言葉とは、民衆によって造られる価値観を、時代を越えて運び伝えるものなのである。」
 あれから35年以上が過ぎてなお、70年代のジオンゴの問題提起はアフリカ中では有効な意味を持ったままである。確かに、公用語である英語や他の西洋フランス語、ポルトガル諸語を使いこなす人の数も増えた。ヨーロッパの「本国」作家以上に活躍するアフリカ人も増えている。しかし、圧倒的多数の民衆にとって、依然これらの言語は「権力者の言語」のままである。勿論もちろん、同じ国の中に十も二十もの民族語がある現状において、これらの「公用語」の果たすべき役割は大きい。その前提でしかし、ジオンゴのいうように、「われわれの言語の再発見と奪還を求める声」に耳を傾ける必要がある。
 そして、それはアフリカに留まらない。日本でも、「方言」、「少数言語」の地位と役割を考える上で有効な視点なのである。「なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにしなければならないのか」「なぜトルストイがしたように国民文学を創造できないのか」というジオンゴの問いは、問われ続けなければならないだろう。
 そして、グローバル化した現在の世界における英語の地位上昇もまた、国際関係内での権力関係を反映している。現在の日本においても、ジオンゴの問いは日本でも有効なのではないだろうか。
by africa_class | 2012-03-28 21:46 | 【記録】原稿・論文
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