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雪積もる成人の日に考えたこと、「自分を解放する」ということの意味・可能性

窓を開けたら、そこは雪国だった・・・。
そう成人式の今日、深大寺はあっという間に白の世界に。
新聞では成人式を迎える若者の艶やかで晴れやかな笑顔が。
卒業生たちの人生相談を想いだしながら、彼らの笑顔の下の苦悩を思い遣る。

時は遡って去年7月。ゼミ合宿で2泊3日滞在した、築250年の農家での夜な夜な繰り広げられる学生たちの人生相談。そして、昨夜・・・。私は、一人の娘として、同時に一人の親として考え込んだ。

結論からいうと、若者たちの多くの悩みのど真ん中に、親子関係が潜んでいることに気づいたからだ。もちろん、それは表面的な「仲の良さ/悪さ」の問題を超えている。大抵、彼ら・彼女らは、何かの拍子にエピソードを語り始める。「~の時にお父さん/お母さんが、~といった一言が/~をしたことが・・・」とても具体的だ。20を超える若者たちの10年近くも前の出来事の鮮やかな描写。それだけに、そのエピソードに象徴されるような数々の毎日の出来事、一言、空気感を、ずっと背負って生きていることが分かる。

恋愛相談でも、就職相談でも、卒論テーマ相談でも、たわいのない会話でも、こうやって若い人たちは、一対一になると、親子関係のことを語ることを、彼ら・彼女らの親たちは、どれぐらい知っているのだろうか?

十年近くの大学での生活において(大した長さではないが)、問題を抱えている学生・若者の多くの問題の根っこが親子関係にあることを、経験的に知ってきた私にとっては驚く事ではないものの、彼ら自身にも自覚がないことには毎回驚かされる。最初は、まったく別の相談ごとをしているのだけれど、話を聞いてみると、遡る・遡る・・・シャケが川をせっせと上っていくように。彼らが乗り越えるためには不可欠な遡り。

お父さん、お母さん、今日もあなたたちの子どもたちは、あなたたちの関係を心の底で思い悩んでいることを、一度や二度は思い至ってあげてください。成人したから・・・結婚したから・・・・ではなく、かつてあなたたちにもあったあの感情を、今でももしかして持っているあの蟠りと少しの時間対話してみてはどうでしょうか?そして私も、成人式の今日、久しぶりにやってみた。痛みを覚えながらも。

若者たちが語る親は、
「家に存在感のない、家のことに無関心な父」
「威圧・暴力で解決しようとする父」
「自己の解放を諦め、不幸なことも自分で気づこうとしない母」
「子に期待し過ぎ(期待することで自分を救おうとする)母」
の姿である。

思い当たる人がいれば、ぜひ立ち止まってほしい。
子どもたちには、すべてお見通しだということを自覚してほしい。
そして、もう思い切ってぶっちゃけトークしてみよう。だって、子どもたちは気づいているから。気づいているのに、親に隠される、親が気付いていないことに、フラストレーションを溜め込んでいるから。「親にいっても仕方ない」…何度このセリフきいただろう。これが人間関係の一番の危機だと思う。「いっても仕方ない人たちカテゴリー=裸の大様たち」に入れられることが。だって、そうなったら自分をよくしようがない。(多くの組織のエライ人たちがそのカテゴリーに当てはまるものの、今はその話ではないので封印)

お父さんの話はいつかしたいけれど、今日はお母さんと若者の関係について。
興味深いことに、彼らの母の描写は具体的だ。そのことそのものが日本の家庭の問題を表しているのであろう。ともあれ、親が与えた呪縛にもがく若者たちの多くが、「母との関係に悩んでいる」ことを是非知ってほしい。若い女性ほどそうである。

かくいう私も「母」「娘」。彼女らの話を聞くほどに穴があったら入りたいほどの気分になる。至らない母でごめん・・・。がしかし、不思議な事に、彼女らが思い悩む「母」は、至らない母ではなく「素晴らしい母」たちなのだ。どういうこと?

彼女たちのお母さんは、子どものため、家族のため、(義理含む)親たちのため、一生懸命だ。多くのお母さんたちがどうやら恵まれた才能と機転を持って育ちながら、結婚し、子どもが生まれ、色々なことを諦めたお母さんたちだった。お母さんたちは、子どものために頑張った。子どもの成長を祈り子どもの幸せのために努力した。自分を犠牲にして。いや、物理的な犠牲よりも、心理的なものの方が多かったようだ。お父さんとの不和、家族との不和、苦しさ、絶望、悩み・・・自分の人生がこれでよかったのかという迷い、、、、そんなものすべてを「私は我慢する。子どもたちのために」という言葉で乗り越えてきた立派なお母さんたちだ。

しかし・・・残念ながら、子どもたちにはそれが伝わらないものなのだ。特に思春期以降の子どもたちには、そんな苦しみと犠牲と想いが重い。期待が重い。自分の人生を歩もうともがいている若者には、とにもかくにも重いのだ。そして巣立っていく子どもたちの後ろ姿を見送りつつ、見送ることが正直なところできない自分を持て余すお母さんたちがいる。そして、自分の人生は何だったのか、あの諦めはあの我慢は誰にも感謝されていない、と。不幸を背負ってしまうのであった。その不幸を、しかし、認めることは危険だ。自分の人生を否定することになるから。なので、お母さんは今日も自分の不安や悲しみや不幸を語ることなく、子どもたちに、お父さんの前で、「お母さん」として君臨することを続けるのであった。

お母さんが一番みたくないもの。認めたくないもの。
それは、自分の人生を棒に振ってしまかったもしれない可能性。
だから、子どもはお母さんの分も頑張らなきゃいけない。。。
と知らぬ間にお母さんは圧力をかける。
と知らぬ間にお母さんは子どもたちから離れられなくなる。

だから、良い子ほど、お母さん想いの優しい若者ほど、このようなお母さんの呪縛にガンジガラメなことが多い。自分の道を行けばいいのに、無意識的にそこにいないはずの「母親の期待」「母親の不快」を判断材料にして、人生の方向性を決めてしまう。

それでいいのでしょうか?
自分の子どもが、先に死ぬべき親の感傷を判断材料に人生を歩んでいっても?

親たちは、自分が不幸なことを認めましょう。
(いや幸せ絶好調ならよいのです。・・・と思いこんでない場合に限っては)
不幸の素についてもっともっと考えてみましょう。
「変えられない」と諦めず、「変えられる」前提で考えてみませんか?
私も、このことに気づくのに本当の本当に沢山の時間と膨大なエネルギー(負の)を費やした。いつの間にか「親だからこうでなくては・・・」という勝手な思い込みにガンジガラメになっていた。

そう、子どものガンジガラメ感は、親自身のそれから来ている。だから、子どもに幸せな人生を自分の手で切り拓いてほしいのであれば、子どもと自分を解放してあげないといけないのです。私が、この七転八倒をどうやって乗り越えたかについてはいつか書きたい。それは容易ではなかったことは確かで、自分が学んできたありとあらゆることを(学問に留まらず)総動員しても、まだ足りないぐらいだったので。やっぱり他人の手を借りるのは重要だと思います。(苦しみもがいているお母さんがいたら、専門家にヘルプを求めてください。いや、あるいは金曜日夜に官邸前で原発再稼働反対を見知らぬ群衆と叫んでみるのも良いと思う。普段やりそうにないことを是非一人の人間としてやってみるのが良いかもしれない。このこともまたいつか書きたい。)

で、親はさておき、皆さんのこと。
いつまで「親のせい」にしようか?
さっきも書きましたが、親は先に死にます。
いや、そうでなければなりません。

棺桶に入った親の前、親の墓の前で、「バカヤロー」と叫んでも生産性がないことをイメージしてみましょう。「親のせい」にして嬉しいのは、自分の惰性です。犠牲者は自分の幸せと人生です。

親は、先生は、というか人は過ちを犯します。日々冒してます。まったくもって尊敬に値しないでしょう(including myself)。だから、彼ら・私たちを、皆さんは反面教師として使ってくれればいいのです。屍の上を踏んで前に進んでくれればいいのです。でなければ、先に産まれ・生き・前を歩いてきた私たちの「生」の意味がありませんから。遠慮なくそうしてくれればいいのです。

なので、どうするか。
皆さんが、皆さんを自分の手で解放すること。誰かがそうしてくれるのを待つのではなく、永遠に待ち続けるのではなく。誰かが何かをしてくれたらもっと~なのに・・・ではなく。

皆さんのど真ん中にある不安や弱さや痛みを、認めて、受け入れて、愛してあげましょう。感謝しましょう。
なぜなら、皆さんのそれこそが、他者と分かり合える共感の源泉なのだから。

幼少期から辛いことを一杯経験した人は、自分の中の「豊かさ」に気づいてほしい。沢山傷つき考えたよね。それがあなたにダメージを与えたかもしれないけれど、沢山の大切なものも与えた。あなたは誰より「深い器」を持つことになった。「痛み」の意味を知った。それを人の痛みへの共感に昇華してほしい。そうして初めて、あなたの傷は開いたままのそれではなく、傷跡になる。

あなたが人を傷つけそうになった時に、あなたを止める大切な勲章に。

皆は弱いから、その自分に真正面から取り組まず、知らないふりをして、でも「強さ」に憧れる。「強くなれたら」すべてから解放され、心配や不安もなく、前に進める・・・と誤解していませんか?だから「勝ち組」になりたいと、思っていませんか?「不安なき人生」を手に入れたいと思いませんか?

しかし、不安とは外からやってきません。中に巣くっているものと外が結びつくか、つかないか・・・のロシアンルーレット。形式上不安に陥らない人生設計(就職など?)手に入れたところで、一つ躓いたら途端に不安はあなたに覆いかぶさってくるでしょう。否。あなたの中の不安が溢れてくることでしょう。

自分の弱さを認めよう。
自分の中の痛みを受け入れよう。
自分の中の惰性を乗り越えよう。
自分を解放しよう。
自分自身のつくりだした呪縛から。

そのためには、
他人のせいにしない。
自分のコト、自分の責任として引き受けよう。
腹が立つけど、そうしよう。
だって、自分の人生だから。
親は先に死に、恋人や伴侶と一緒に死ぬこともできない。
死ぬときは一人で、いつまで生きれる分からない。

自分で生きていく人生の主人公として、弱さも、不安も、痛みも、悲しみも、みんなみんな、一緒にまとめて引き受けてしまおう。

その時に見えてきた地平線は、きっとどこまでも果てしなく広がりを持っているはず。そして、きっとこれまで愛せなかった自分を、前よりちょっとだけ愛おしく思えるようになるかもしれない。

他人に愛してもらえないと、自分を愛せなかったあなたが、ちゃんと自分を受け入れ、愛せることに気づいているかもしれない。

それが自己解放。

といっても、その次のステップがあるのだけれど。
そして、愛しすぎても怖いのですが!

成人式の今日は、雪がまだしっかりと積もって東京のアスファルトを覆ってくれている間は、ここまででいいかな?

と書く一方、闘いの日々な私が、次いつこの手のことを書く気になるか分からないため、取りあえず一言次のステップを書きつつ、ツイットしたことを貼り付けておきます。(ココロに深い傷を抱えているある編集者が、いつか会いに来てくれて、「もっと書いてほしいのに、どうしてもっと書いてくれないのか」と、本の企画を持ってきてくれたのを思い出し。本はいつかやりましょう。今は最前線で闘いの日々です)

次のステップ。
精神の隷属からの解放。
既存の構造・価値そんなものを徹底して疑ってみる、こと。
最も抑圧されている人びとの側、生き物の側から、考えてみる、こと。
そうして見えてきた世界は、自分は、また別のものだった。
曇った眼鏡が晴れた後の景色を、手にした時、自分の中の弱さ・痛み・苦しさ・不安の意味・背景がみえてくる。ちっぽけな自分を取り巻く巨大な構造を知り、一人じゃないことに気づき、本当の意味での強さを手にできる日が来るかもしれない。

その時、あなたの共感は、自分の身の回りを超えて、もっともっと遠くまで羽を伸ばすだろう。
他者への共感。
~人ではない、他者への。
生きとし生きる者への共感。
人が踏みにじっている者への。

そして、何百億年という時間の経過、何千億という生命の、ある一瞬を唯の一人として生きる自分のちっぽけさと傲慢さに、思い当たるかもしれない。と同時に、独りではないことに感謝するかもしれない。

私たちも、しょせんは細胞の集合体。
古い古い生命体の記憶を受け継いだ命。
つなぎ、つながれて、皆までたどり着いた命。
その壮大な物語の一部。

と同時に、これらの命も、記憶も、歴史も、すべて一瞬で吹き飛ばしてしまうほどの凶暴さを創り出してしまったのが、私たち現代の人間。

愚かだ。限りなく。
「私は、愚かだ。」
他人のせいにせず、口にしよう。
これを認めているのは紛れもなく今を生きる私たちなのだから。

そんな人間である2013年の、世界の、日本の私たち。
どう生きていくべきなのか?
そんなことを考える夜に一緒にしよう。


==今日その他ツイットしたこと===
でも自分が変わると、あら不思議。周りも変わってくるのです。①他人のせいを止め、②自分の責任として引き受け、③苦しくても前を向いて生きていると、④「私も本当は…」と心を開いてもらえることも。そうすると真の対話と交流が生まれ、人間関係は激変します。親子、夫婦、職場…応用可能。ぜひ。

私は4歳の頃、暗闇の日本海に身を投げる寸前だった。でも止めた。雷に打たれたように思ったから。ここで死んだらただ終わり。でも生き延びることが出来たとしたら、自分の命が何かの役に立つ日がくるかもしれない。いや何かの役に立てるためだけに生きてみたっていいじゃないか。引き受けよう、と。

立教大学の講演会で「自分の生活を犠牲にして活動するなんて」と学生さんがいった。でも私が思うに、私はあの時からずっと「生かされている」んだと思う。自分に「生」があることで出来ることをやることが、生きることだから。社会が私に生きる意味と居場所を与えてくれてるんだと思う。心から感謝。

幼少期から辛いことを一杯経験した人は、自分の中の「豊かさ」に気づいてほしい。沢山傷つき考えたよね。それがあなたにダメージを与えたかもしれないけれど、沢山の大切なものも与えた。あなたは誰より「深い器」を持つことになった。「痛み」の意味を知った。それを人の痛みへの共感に昇華して。

「支援」であれ「国際協力」であれ「国際連帯」であれ、根本は「他者の痛みを我が事として共感できるか否か」にあると思う。成功体験しかない(と思っている)人たちには不向きな分野…と本当は講演会で言いたかった。あなたの中の痛みを傲慢さや無視でなく、七転八倒して自分で解放されて欲しい。

残念ながら、今の日本や世界に蔓延する考え方は「強い者が弱い者を駆逐して何が悪い?」という強者の論理。注目したいのは、それを無批判に支持する本来は弱い立場の人たち。置かれる構造の理解が欠けているだけでなく、自分の中の弱さへの取り組みを避ける傾向が、強者に表面的問題解決を求めがち。

自民・維新の躍進は典型。欧米のプアーホワイトが大資本家を問題視するのではなく移民・「有色人」を敵視するのと同根。社会構造の最底辺で繰り返し抑圧されてきた人は別として、上昇可能性あったのに不利な状況にと考える「旧既存権力の端くれ層」こそ、「一発逆転」を求め精神的動員されやすい。

犠牲になるのは、本来強者らに対して構造転換を求め闘うべきはずの弱者らの連帯。強者らはいつもこれをよく理解し、弱者の中から操作可能な同盟者をピックアップする。今日本のネット右翼と呼ばれる人。福島で行われているのもコレ。より大きな者にこそ挑む初心は日本では希薄。イジメの本質もコレ。

だから私は、各々が各々の痛みと弱さに向き合い、それらから自分を解放することを、若者と一緒に考えたい。そこがクリアーにならないと強く大きなモノと闘うことは難しいから。人はちっぽけで弱い生き物だ。特に独りでは生きられない。だから「強くなる」のではなく「弱きを引き受ける」を目指そう。
by africa_class | 2013-01-14 21:09 | 【徒然】深大寺日記
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