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追悼:農村の貧しい人の側に立ち闘い続けた開発経済学者にして活動家José Negrão教授から学ぶ

数日前に書いてそのままになっていました。
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一つ大きな学術論文が終わりそうで少し安堵。といっても、締切が過ぎた/直前の原稿があと4つあるのですが・・・気が重く1つはもう諦めようとしています。後は断れないものばかり・・・。ああ。。。

なお、私、大学の皆さまのお蔭で4月1日からサバティカル(半年特別研修)に入らせていただきましたが、去年度末から病気療養中でして、せっかく夢にまで見た「実り多きサバティカル」が、なかなか困難に直面しています。皆さんから見ると、大変活発にやっているように見えるそうなのですが、実は病気がない時の半分ぐらいの力しか出せていない状態なのです。

それでも色々な事が出来る、あるいは出来ているように見えるのは、仲間と共にやっているから。そして、何より、支えてくれる家族、友人、近所、学生や元学生といった、社会関係資本のお蔭なのです。この場を借りて、皆さまに改めて感謝です。

いつもの調子でフルに仕事や活動をしたい私としては、歯がゆい思いが募っているのですが、「出来る時に出来ること」「頼めることは他人に頼もう」「出来ない時は出来なくていい」をモットーに、日々を過ごそうと試みています。

なので、沢山仕事が出来る時と出来ない時があって、書ける時には書いておこうという状態になるので、沢山投稿することもあれば、まったく出来ないこともあり、ご容赦下さい。

昨日、思い付きのようにツイットしたジョセ・ネグラオン(José Negrão)先生のこと、気になってここに貼り付けておこうと思います。

2005年に先生が亡くなってもう8年になるのですね。自分の中では、まだ信じられない。おそらく、それは先生が研究者でもあり、沢山のよい論文を残してくれたからだと思います。書いたものは、その時の時代感覚とともに、なのに先生ならではのいつまでも輝きを失わないシャープな切り口とともに、残っているから。

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道半ばで亡くなったJosé Negrão先生の論稿に出会う。モザンビーク農民の権利のため立ち上がった先生の研究と市民活動の往復運動に改めて感動。凄い先生だった。
http://www.sarpn.org/documents/d0000650/P662-Relacoes.pdf

援助、開発経済学を志す人には、是非一読してほしい。
「誰の何のために何をどうやる」のか?
人の社会、生活を大きく変える「開発」なのに、そこの目線が弱いように思う。


■「開発ーモザンビーク:ジョゼ・ネグラオン、(貧困者に)関心を持った経済学者」
DEVELOPMENT-MOZAMBIQUE: Jose Negrao, An Economist Who Cared(2007年7月1日 IPS)
http://www.ipsnews.net/2007/07/development-mozambique-jose-negrao-an-economist-who-cared/
 「活動家で経済学者の故ジョゼ・ネグラオンは、南部アフリカトラストの変革主体賞を去年受賞した。彼の「子ども」であるモザンビークの「Group of 20」反貧困市民社会組織は、2007年の同賞にノミネートされている。

 ネグラオンの名前を出すと、彼の仲間や友人たちは、彼を「無欲で、モザンビークの貧困と闘うために人生の大半を捧げた人」という。(略)

 エドアルドモンドラーネ大学の開発経済学の教授であり、彼は、貧困者と社会変革のヒーローだった。彼は悲しむべきことに2005年に49歳で亡くなったが、多くの遺産を残していった。

 「彼は常に貧しい人の側に立った。多くの学者らとは反対に。彼は、貧しい人びとの声が、国家政策に反映されるように保証した」 「彼の重要な資質の一つは、 多様な意見の人びとを一つにまとめることであった。そんな人はめったにいない。」と、OXFAMのGraig Castro述べた。

 彼は、モザンビーク人の70%が暮らす農村における貧困削減への情熱で知られた。彼は、ジンバブエ、ザンビア、マラウイとの国境沿いのザンベジア州の農村に90年代滞在し、「農村の貧困者の経済行動」という博士論文をまとめた。

 「彼の論点は、貧しい人は貧しいままである。なぜなら、彼らは機会を持たないから。彼らが、経済・政治権力への機会にアクセスできれば、彼らは自ら状況を改善させることができるだろう、というものだった」と、ネグラオンがつくったモザンビーク首都にあるシンクタンク、Cruzeiro do Sul Jose Negrao Institute for Development ResearchのPomash Manhicaneの事務局長は述べた。

 彼は学生たちとともに、モザンビーク中を歩き、貧しい人たちと話し、貧困についての調査を行った。彼は、モザンビークにおける土地改革キャンペーンを主導したことで記憶されるであろう。彼は、15000人のボランティアを組織し、土地の私有化に反対するキャンペーンを実現した。

 彼は、貧しい人びと、特に女性らが、土地法の成文化に声を反映させられるように保証した。2002年には、デズモンド・ツツ司教リーダーシップ賞を受賞した。 本年1月、モザンビークの全国農民連合(UNAC: National Union of Peasants)は、ネグラオンの死を悼んだ。
==以上、記事引用終わり==

Negrão先生を知ったのはUEM(エドアルド・モンドラーネ)大学のアフリカ研究センター(CEA)で、ここは私も客員研究員を務めていたのだけれど、João Paulo Borges Coelhoとの共著原稿「モザンビーク解放闘争史」を見つけた時。

完成していた原稿。しかし発禁処分。タイプで打たれた原稿のコピーをかび臭いあのCEAの資料室で出会ったときの感動は、いい表すことはできない。私が人びとから聞いていた北部モザンビークの現実と、非常に似た現実がそこに描かれていた。

しかし、それは独立を導いたFRELIMOには、歓迎すべきものではなかった。運動というのは常に矛盾を抱えるものだ。FRELIMOが悪かったわけではない。むしろ、世界の解放運動の中でも、稀有なリーダーたちに導かれ、多くの成果を残したと思う。しかし、そこで出てきた課題や矛盾、それがどういう問題につながっていったのか・・・という歴史の教訓を学ぶには、「何が起きたのか?」の多様な姿を描くことは非常に重要である。しかし、長年の一党支配、存命の関係者が権力に就く中、そして自由化後の様々な揺れ動きの中で、「民衆の歴史」の一端は公開されることなく、研究所の片隅に封じ込められ、書いた本人たちも忘れるほど放置されていた。

彼らの描いた歴史は、地域社会の話を羅列したものではない。国際政治力学や地政学がいかに、人びとの上に覆いかぶさっていたのかを描いていた。私の『モザンビーク解放闘争史』は、ニアサ州を舞台にその作業を継続したものだった。

先生の博士論文は、以上の記事にある通り、「人びと中心の開発経済学」の名論文として、広く尊敬と感動を読んだ論文だった。

ジョセ・ネグラオン。「大きな黒い者」という名字のモザンビーク国籍白人。
アパルトヘイト下の南アに暗殺されたRuth Firstのいたエドアルド・モンドラーネ大学アフリカ研究センターCEAの研究員として、誰より農村調査を大切にした開発経済学者。国立唯一の大学にありながら、現場主義と人びとの側に立つことを徹底したCEAで、数年間客員研究員となれたことを誇りに思う。

Ruth Firstについて、彼女が遺したCEAについて、いつか書かないといけないと思う。モザンビーク市民社会、言論空間において、彼らがどれほど重要な役割を果たしてきたか?研究のための研究ではなく、人びとの声を政策に反映させるための、徹底した姿勢の。「人びとのための学問」を目指した、あのCEA。もとは、1940年代のポルトガルに集った殖民地出身者らが志向したもの。あの、アミルカル・カブラルらの。

ネグラオン先生の話。
5年後。次に先生を知ったのは、私が副代表を務めたTICAD市民社会フォーラムの市民活動であった。
その時先生は、貧困削減のための市民連合G-20を率いていた。

多くの日本のアフリカ研究者がそうかもしれないけれど、私たちはアフリカの事をアフリカの人びとに教えてもらった一学徒に過ぎない。私は、逆の方向でアフリカに出会ってしまった。国連の錦を背負って。

1994年、私は23歳だった。何も知らない。
なのに、平和や民主主義について、知っているつもりだった。
戦争をしていた人達よりも?
すぐに気づいたのに、大きな歯車の中で、私は立ち止まることができなかった。
自分の責任感が、それを止めたのだ。
「よい仕事をすること」
つまり、与えられた枠の中での「仕事」を貫徹すること。
しかし、それは、人びとの願いに耳を傾けた上での「仕事」だったのか?
本当に、人びとは何も知らなかったのか?できなかったのか?
NYで、マプートで決められるべきことだったのか?
NYやマプートに人びとは、この地の人びとのことを知っているのか?

私は自分の生真面目さと、与えられた仕事を上手くやろうとしてしまう気質の行きつく先は、この人達のことを踏みにじることになってもドンドン進んでいくことに加担すること・・・と気づいたのだった。

でも、「国際協力」の夢は捨てられなかった。
帰ってすぐに経験したのが、阪神淡路大震災だった。

モザンビークで持った疑問が、半年間活動しているうちに噴出した。
あれは、「国際協力」だけのことではなかった、と。

洪水のように押し寄せる「一方的な善意」。
構造の問題に取り組む間も、余裕も、考えも、もたないまま、目先の「支援」に走る私たちボランティア。
災害すらも「ビジネスチャンス」「利権の好機」として群がる利権者たち。
「計画」を試行するチャンスと、官僚が動く。
避難者同士のいがみ合い。
他方で、献身的な試みの数々。
子どもたちのけなげな頑張り。

自分の国・社会だから、見えてきたこれらのこと。
それは、モザンビークでも、国連でも、思い当たったことだった。

災害や戦争や貧困や飢餓の問題を、「緊急事態」としてのみ扱ってはいけない。
結局それは、中長期的にいって、そこに暮らす人びとの願っていた未来とは別の方向に誘導していくことになるから。

では、彼らはどうしたかったのか?
彼らはどう生きてきて、どこに行こうとしているのか?

神戸でも、モザンビークでも、どこでも、実のところ、そこから話や計画を立ち上げるわけではないことに、思い当たった。外部者の、「あなたのために」というセリフの底に隠された欺瞞。いや、隠されていることすら、介入者本人が気付かない、「あなたのため」というセリフは信念になり。

ジョゼ・ネグラオン先生の49年間。
それは、ビジョンに向かい、自分のすべてを、人びとのために使った人生だった。

今、先生が作ったあの土地法が、危機に瀕している。
先生の不在を嘆いてばかりいてはいけない。

先生は、私たちに道を示した。
道を続くかどうかは、私たちにかかっている。
by africa_class | 2013-04-18 14:37 | 土地争奪・プロサバンナ問題
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