家族が来襲し忙しい。
昨日はトマトになんとか支柱を立てた…。私がいない間に勝手にトマトの横にキュウリを植えるという不思議をされてしまったので、キュウリをなんとかせねばならぬ・・・。トマトと共に植えるべきは(コンパニオンプランツ)、ニラ、バジル、パセリだと伝えたのに・・・大きく葉っぱを広げたキュウリのせいでパセリも枯れ枯れ。
3月に外大を辞めた。その理由は色々あって既に書いた。
http://afriqclass.exblog.jp/21252293/
書いてないことの一つに、教室に留まらない、国内に留まらないもっと広い層の学生と色々したいなあ、と感じるようになったこともあった。勿論、外大の教員をやりながらも不可能ではないけれど、目の前の学生に全力投球してしまう私としては、物理的にそういうシチュエーションから自分を切り離すことは必然だった。
なので、今、日本の大学1年生向けに本を書いている。
ずっと前に着手して、卒業生が出る度に「いつかその本を贈呈するね」と約束して早8年が経過。本腰を入れたいと思うのようになった。が、他に既に出版社が決まっている学術書や一般書があって、それをやらないでやってる場合か・・と良心の呵責もある。ブログ書いてる場合じゃないが・・・学術はやっぱもっと気合いと良い体調が必要。これを万一みてる関係者・・・すまん。気持ちが向かないと、やっぱりなかなか一事が万事片付けられない(言い訳だけど)。なお、「大学1年生向け本」は未だ出版社を探してないから、関心があればご連絡を。
私が作ろうとしている大学1年生向けの本は、「大学で学ぶ」のは何故なのか、それはということはどういうことなのか、その先に何を見据え、何をどうしておくべきなのか・・・についてのもの。誰もなかなか教えてくれないテクニカルな部分も、何故そうなのかも含めて紹介しようと思っている。なので、「スピリット(精神)」「メンタル(心)」「アプローチ(心構えを含む)」「アクション(行動)」「レヴュー(振り返り)」があって、「自分と社会/歴史との関係性(連続性)」を重視したものとなっている。
このような本を作ろうと思った背景を少し紹介しておく。それは、日本以外の国々での大学(院)教育や研究・学術の位置づけに触れてきたことと関係している。
例えば、今ヨーロッパのある国の大学院生たちが私のレクチャーを企画してくれている。音頭をとってくれているのがブラジル人の博士課程の学生だというのも嬉しい。2年前に英語やポルトガル語で論文を発表するようになってから、世界の色々な国の若者から沢山の問い合わせがくるようになった。中には厳しいコメントもあるが、彼女・彼らのそういう率直さが凄く嬉しい。しかし、下手な英語・ポルトガル語での執筆を支えてくれているのも、ボランティアでプルーフリードしてくれる若者たちだ。そういう風にコレクティブに学術論文が「つくれる」のも素晴らしい。自分の書いたものが「社会のもの」になる感覚は、日本の学術界の要望に応えて書き散らした論文や原稿では得られなかったものだ。勿論、そこで先輩たちに鍛えてもらったから今日がある。
忘れもしない、1999年…初めてアジア研究所の依頼で書いた論文の酷さ…。日本語は支離滅裂で論理的一貫性は欠落し、とにかく何がいいたいのか分からない…。せっかく機会をもらったのに、たった2ページが書けない。。。穴があったら入りたい程のものを、研究所の皆さんが本当に丁寧にコメントくれ、修正案を示して下さった。中にはほとんど同い年の研究者もいて、正直自分の出来なさ加減がショックだった。彼は今でも理路整然として素晴らしい論文を書く。皆さまのお陰で一応学術論文のイロハに従って書けるようになったものの、言いたい事は山ほどあるのに、短いものにまとめる能力がないのは、相変わらずだ…。成長しないんだね、私。
でも、現場が好きで実務(国連PKO)からこの業界に入り、学者になるつもりが全くなかった私としては、そして修士までディシプリン教育をまったく受けられなかった外大出の私としては、こういう先輩たちの支援と励ましがなければ、とてもじゃないけれど研究者として人を教えるなどという立場には立てなかった。だから、日本の学術界の、特にアフリカ学会の、こういうコレクティブに仲間を育てるスタイルは本当に重要だし、今後も続けられるべきものである。
が、この年齢になって、記憶から消したりたいパーツを思い起こしてみれば、実際はもっと前に沢山の人に沢山のことを教わっていた事実にふと突き当たった。あまりにも拒否感が強すぎて完全に忘れ去っていた多くの出来事…。本当は、「ゼロ」なんかではなく、本当に多くの人びとに多くのことを教えてもらっていた。このような「自動記憶抹消」とそれを思い出すことの苦痛といった衝動から逃れるのにも、実に20年近くの歳月が必要だったのだね。
実は、先日書いたブログに出てくる「お父さん」は米国のとある国立大学の現代史の教授で、私は彼の同僚である中南米現代史の先生と、20才の若さで何故か共同研究をしていたのだ。そのきっかけは何だったかすら記憶にないが、私が日本人で英語とスペイン語とポルトガル語を「(怪しくも)話せて」、その前年にメキシコに行って、次にブラジルに留学に行くと聞きつけて、ペルーのフジモリ大統領の伝記を書いていた彼が、もう一人の社会学者との3人での共同研究と本の企画を持ってきたのだった。要は日本語が読める人が必要だったんだね。
あんまり気乗りしないままに(その後も同様、だって学者になるつもりがまるでなかった)、「でも約束したから」という理由と出版社の契約書にサインしてしまったからというだけの理由で、何年か共同研究し、学部の卒業論文をそのテーマで書いて、それを英語にして、その時期に日本に急速に流入していた日系人の調査をして、で本が出来た(The Japanese in Latin America, Illinois University Press)。が、まるで学問のイロハを分かっちゃいなかったし、あまりに中途半端な感じだったので、イリノイ大学からくる印税の小切手を一度も換金しないで現在に至ってしまった。
あの最中は自覚がなかったが(そして今の今まで)、でも、今振り返るとこの経験は凄く自分の中に根をおろしていたことに驚く。
彼は、アメリカの公文書館に行っては1990年初頭に50年ルール(通常30年ルール)で開示され始めた、本来は厳しく開示が限定されていた軍や警察の資料を、山というほど入手して、片っ端から読んでいた。そもそも大学2年生の私にはその意味がよく分からず、彼の知的興奮と眼鏡の奥で光り輝く好奇心を眺めながら、現場であるラテンアメリカでの現地調査を重視しない彼を批判的な目でみていた。でも、彼は在米のペルーから連れてこられて収容された日系人へのインタビューを開始していて、もう一人の共著者である社会学者と地道にインタビューを積み重ねていた。その際に聞き取った調査票の束を前に、彼は途方に暮れていて、取ってきたもののデータ整理できない自分を嘆いていた。「彼はこの本を完成させないと准教授から教授になれないんだよ・・・彼が少しでも怠け者の自分を乗り越えたら素晴らしい学者になるのに」、とお父さんはおっしゃっていた。
確かに彼は「(学問に)怠け癖」がある人だった。3人の子どもたちと遊ぶのが何より好きで、遊びといっても走る・泳ぐ・飛ぶ・・・だった。そして、よく子どもたちに本を読んでいた。そのまま寝てしまうことも多々あった「よきお父さん」であった。
でも、彼はマラソン選手だった。
そして、彼は学問の社会的意味に拘った。
だから、自分の昇進よりも(つまり本を書くよりも)、もっとがんばったのは、自分の学術的なリサーチの成果を社会運動に提供することだった。アメリカにおいて、日系人の収容はよく知られているが、ベルー等の南米にいた日系人が米国に連れて来られて収容所に入れられていた事実は当時知られていなかった。
今でこそNHKでもドキュメンタリーが放映され、以下のように当時の事を語るインタビューが視聴できる。
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/624/
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/profiles/32/
でも、当時はそういう状況ではなく、彼の研究もまた補償運動の皆さんと二人三脚であった。微力ながら、私もお手伝いしたりした。1999年にビル・クリントン大統領が謝罪をして補償を約束するまで、現代史を共に生きる歴史家として、彼が果たした役割は大きかった・・・と、今頃になって思う。
しかし、ブラジルにスラムでの貧困の問題をスラムの中から考え・研究するために行きたかった私としては、なんともコミットするほどに心が動かなかったのである。歴史アプローチよりも、社会学的アプローチに関心があり、究極的には過去のことではなくアクチュアルな平和と暴力の関係に切り込みたかった。アメリカ社会に関心がなさすぎたせいもあったかもしれない。冷戦が終焉するしないのあの時期、中南米からみたアメリカは「介入者」として見えたし、まだ「唯一の大国」としてブイブイいわしていたころで、「ああ、やだな・・・」と思ってしまう何かが蔓延していた。なにせ、1989年夏、18才の大学1年生夏に独りで向かった先がインド、そして当時は第三世界とよんで間違いのないスペインとポルトガルだった・・・という始末。
彼があれほどのこだわりと粘りを見せたのは、彼自身がアイルランド移民二世だったこともあるという。自分の問題意識に根ざした研究は、すぐには花を咲かせず、社会運動に没頭したとしても、必ずいつの日が大輪を咲かせる日がくるもんだ、ということも彼から学んだと思う。
賛成できないことが大半のアメリカであるが、底力のように凄いところは、色々なものを呑み込みながら、プロとコン(賛成と反対)がぶつかりあうことをよしとして、物事を前進させようという気概がある点である。だから、見せてもらって公開文書には、ばっちり個人名も残っているし、その人が在職中にとっていたメモ用紙までそのままファイルに残されている。というか、ファイルごと残っているのだった。軍とか警察とか、安全保障関係のものほど、きちんと整理されて公開されている(隠されているのもあるだろうが、かなりの程度30年、50年ルールを過ぎたものは公開)のである。そして、それらの記録の詳細を知らなくても、司書の人に相談すれば凄くがんばって色々リストを出し、資料を出してくれる。そういう経験を、大学2年生程度の私が出来た事自体、感謝してもしきれない。
実はそれから18年ほどが経過した4年前に、ワシントン郊外の米国アーカイブに行って冷戦期の米国の対世界戦略とアフリカ政策関連の文書を調べている時、もう退職した先生が会いに来てくれた。私は自分の本を渡しながら、先生との共同研究がいかに私に大きな影響を与えたのか、あの時は自覚がなさすぎて、ただ世界の現場に行きたい一心で十分感謝できなかったけれど、今日ここに自分があるのは先生のお陰だとすごく強調したら、先生ときたら、「でも僕のお陰というより、君は息をせずに25メートルのプールが往復できたからね。つまり、我慢強いから」・・・だった。
先生には、先生の子どもたちと私のあの競争が凄まじい印象だったらしい。私も未だ若く、そういうことにこだわりをもってた・・・。でも、私が息をせずに長時間潜れる理由は別にあった。幼子の私が海に身投げしようと考えた理由とも絡むがそこはさておき。あの子たちももはや家庭をもって各地で活躍している。でも、先生は照れくさかったんだと思う。先生のこういうひょうひょうとした、利己心の薄い、故に「怠け者」なところは、心底尊敬する。先生は、アンデスの山々が似合う先生だった。
もう一つ先生との共同研究で学んだのは、当時日本では未だワープロ全盛期にあって、「インターネット?メール?それなに?」の時代に、メールでやりとりしながら共同研究を進めるということが当たり前のものだった点だ。そして、先生が米国中南米歴史学会のメーリスで、ある学説やある新刊本について、コメントを書くと他の人たちがそれをさらにコメントして、一つの学説が、遠隔で、でもリアルタイムでどんどん鍛えられていくのを、目にしたことも刺激的だった。(と同時に意味が分からなかった。どうして、一つのメールを全員が読めるのか・・・どうして今書いたメールがどこでも後でも見れるのか・・・など。説明されても一向に分からなかった。。。)
今ドキの学生なら驚かないだろうが、なにせ当時「ポケベル」の時代。ポケベルに「カイシャ」と出ると、公衆電話に走って会社に電話した時代なのだ!携帯なんて自動車用のものしかない時代。その原理がどうしても理解できない私は、先生が、何故パソコンを常に立ち上げていて(これもワープロ世代には驚きだった)、そこに入ってくるメールを気にして仕事をしていたのか・・・横目で眺めていた。正直、そんな箱の中、顔が見えない相手とのやりとりに時間使ってる場合かよーーー天気いいから子どもたちとプール行きたい・・・の心境だった。思えば、彼との年の差は20才以上。子どもたちとは6才だった…。しかも相手は博士で、准教授。こっちはただの英語もろくに出来ないアジア人の日本の学部生だった。なのに、本当に一点の曇りもなく、対等に接してくれた。アメリカには時々そういう人がいる。公平な人びとが。
他方、お母さんとプロテスタントの教会にいって、哀れな東洋人(赤子的)と扱われた時には心底腹が立ったし(まあそれぐらい英語が出来なかったから仕方ないのだろうが)、「白人として哀れな有色人種には優しく接しなければならない」という押しつけのようなものを嗅ぎ取って嫌気がさした。聖書を学ぼうの会も、正直辛かった。日本の植民地支配はあからさまな人種差別に基づいたものであったことが多いが、20世紀後半のヨーロッパのそれは時にそれが家父長的な様相を身にまとっていた。キリスト教の普及という正当化の論理が使われていたこともあろうが。どちらがどうではなく、そういうものの根っこにある人種差別意識というのは、私の中で強い印象を与えた。
その経験から、米国の人種差別とブラジルのそれの違いについて意識するようになっていった。アフリカンビートへの関心から、おのずとアフリカンアメリカンの歴史に、そして北東部ブラジルのコミュニティに、しまいにアフリカまで辿り着いたのだが、これらすべては偶然ではなかったように思う。アフリカに行くつもりがこれっぽっちもなかった私が、ブラジルで学んだポルトガル語のお陰で、国連の仕事でアフリカ(モザンビーク)に行けたことは、偶然であったが今思えば必然だったのかもしれない。
だから若い頃に、「自分はこうだ」とか「これが好きだ」「これしか興味がない、したくない」という考え方はしない方が、可能性が広がって、自分のちっぽけな脳みそでは思いもよらなかったような機会に恵まれると思う。
抹消していた記憶が戻ってくると、洪水のようだ。
あの夏、先生の家の芝生に水を撒いた後の青々しい匂いとか、プールで飛び散った水滴がキラキラと輝いた感じとか、あの3人の子どもたちの歓声とか、昨日のことのように思い出す。なのに、どの子の名前も、その顔も思い出せない…。
あの共同研究の中で、私は「論争」というものを学んだ。
全ての事柄には論争があるのだということを。
そして、それは決して悪いことではなく、多様な角度で眺め、多角的に議論することで、物事は前進していくのだということを。それに慣れるのは容易ではなかった。日本人にとって「和をもて尊しとなす」のが当たり前である以上、相手が間違っていると思っても、おかしいと思っても、それはのみこんでしまうのが美徳であった。若い女性ともなれば、なおさらのことであった。
しかし、クリティカルな目線、実証に基づいた議論は、それが誰であれ当然のこととして受け入れられる世界に、少しばかりの間であるが、浸ることができ、そのことの重要性と可能性の一端を垣間みることができた。そこがカクテルパーティであろうとも、招かれた知人宅のバーベキューの場であろうとも、「あなたはどう思う?」「どうして?」・・・そう聞いてくれる大人達に、どれぐらい考え・語る機会をもらったことだろう。
でも、彼はあれやこれや「教え」たりしなかった。ただ一緒に執筆していただけだった。私の書くものにまったく口を出さず、「ブラジル・日本担当」というだけが決まり事だった。最初は戸惑った。何から手をつけていいかもわからず、膨大な参考文献リストの海の中で溺れそうだった。でも、英語文献で書かれていることと、日本語文献で書かれていることのギャップに気づいた私は、英語文献ではほとんど書かれていない明治期の日本の移民史にはまっていった。今から思うと、英語文献の世界で「自分だけができること」を追求した結果だったかもしれない。
明治の日本人がどうやって外に目を向けて海を渡っていったのか?また、冷戦終了直後の「国際化」を叫ぶ日本にあって、若者として、一人一人のライフヒストリーや声に心惹かれたというのもあった。国会図書館には膨大な量の資料があって。移民文庫については資料室があった。全体の閲覧室の無味乾燥な雰囲気と比べ、その空間が居心地良かったというのもある。休みになると関西から出ていって、朝から閉館までひたすら資料を読んだ。外務省に移住課があって、そこの皆さんにもインタビューに行き、資料を借り、日系人協会でもやはり同様だった。
私が最も惹き付けられたのは、これら「戦前移民」たちの手記や俳句や和歌であり、送り出した側(日本政府関係者)の会議の議事録であった。そして、英語文献をよみながら、そして彼と議論しながら、戦前の日系移民が新大陸への他からの移民と決定的に違っていたことについて思い至ったのであった。
つまり、「出稼ぎ」という言葉に示されている戦略である。
米国や中南米側からみたときに、「移民(移住者)Migrants」と一括りにされてしまう彼らが、実は「いつかは日本に帰るつもりの出稼ぎ者/人(sojourners)」であったこと、その結果ホスト国と日本と自分たちとの関係が、他の国や地域からの移民と著しく違う点であったこと、そして、そのことが第二次世界大戦直前から最中、そしてその後に及ぼした影響の大きさ・・・これらは日本人であればある程度推測できることが、英語の学術界では十分に理解されていないことが私には逆に驚きだった。
そこから私の関心はブラジルで生じた「勝ち組」「負け組」の衝突に向かって行った。この現象を、英語世界の人たちに分かる形で提示したい・・・と思ったのである。(大学の卒業論文は結局これをポルトガル語で書いたものであった。しかし、その100ページを超える大作も、引っ越しの際にどこぞやに行ってしまい、もはや幻のものとなってしまった…)。
また、日本向けには、初期の南米出稼ぎ者が、必ずしも困窮した人たちがいったわけではなく新天地で自分を試したいという野望を持った人たちが多かったことなどを突き止め、先行研究を引用しながら、一人一人の環境や想いを歴史的動態に繋げようと試みた。私が稚拙な英語で送るそれらのレポートを、彼は丹念に読んでは質問を返してくれた。それに基づいてさらにリサーチを進めていった結果、当初の予定とは大幅に逸脱する章立てとなってしまった。
結果、当初3人で書いていたこの本が2人の本となっていった。何故ならもう一人は南米をフィールドとする社会学者で、日本の歴史なんか興味ないのに本がどんどんそっちの方向に行くのに耐えられなかったからだ。出版社からも、日本の部分が長過ぎるとクレームがきたのに、彼は「ある歴史条件の中で、人が海外に向かい、滞在者となった後、移民になっていくプロセス」への私のこだわりにつき合ってくれた。本の表紙の写真を彼が提案してくれたときに、そのこだわりをいかに彼が共感し、共有してくれていたのか分かって、すごく感動したことを覚えている。
学部を終え、大学院に通いながら1年ほど追加で調査・執筆して、私の役目を終え、私はこれで一生学問と関わることもないな、という確信とともに、そして当時のパートナーに指輪を返し、戦争を終えたばかりのモザンビークに旅立った。その後も、本の最終化のプロセスであれやこれやがあったのだけれど、そのパートナーとのあれやこれやのもめた時期でもあったため、一切合切を記憶から抹消してしまっていた。。。今思えば、若かったなー。そこまで一生懸命忘れようとする必要はなかったのに、と。
でも、以上の色々を今日まで忘れてしまっていた理由には、本当の意味では自分のものに出来ていなかったことだったからということもあると思う。見よう見まねで、ただ流れに身を任せ、本を書いた。もはや恥ずかしくて読み直すことすらできない本を・・・。この本は、そのほとんどを担った彼のお陰で米国の学術本の選書トップ50に選ばれ表彰され、未だに米国中南米史学会から招待がくる。でも、それは本当の意味では私の実力ではないし、内実を伴ったものではなかった。その申し訳なさから、4年前まで彼に連絡を取ることすらできなかった。
人生というのは予期しない曲がり角を準備してくれるものだ。
モザンビークからかえった24才の私は、国連の次の仕事に行くか迷っていたのだけれど、自分のどうしようもない英語能力や専門知識の欠如をなんとかせねばんと考え、米国の大学院に行ってなんか学位ぐらいは取っておいた方がよいかな、などと考えていた。まあ、よくあるパターンの発想だ。それで修士論文を英語で書いておいた方がよいなということで、これまたどうしようもない英語でつらつら書いて出した途端に、阪神淡路大震災にあったのだった。
続きはまた今度・・・。
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-21500323"
hx-vals='{"url":"https:\/\/afriqclass.exblog.jp\/21500323\/","__csrf_value":"3c797a08752c9b17b6a06a9ac9c297f2fea63a257df5c8cc9ad290701482df9bb93523f2148dcaa8b0f6b3cd0ac3da7c6b3be2f39635d6d8d8af38c009cec2b0"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">