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Thanksgivingに新書のスケルトンを終えて:「欲望という名の列車」から降りることについて

年内に原稿を提出しなければならない新書のスケルトンが終った。
奇しくも、Thanksgivingday(ドイツ語風に全部くっつけてみた)。欺瞞に満ちた「勝者」の歴史の語りが、今年も繰り返されようとしている最中に。

「歴史」は、後にしてきたものだと思いがちだ。
しかし、実際は違っている。
「失敗/過ちの歴史」はあっという間に忘れられるというのに、「栄光の歴史」は繰り返し、繰り返し蘇り続ける。だから、歴史家の仕事には終わりがない。

歴史は今の写し鏡であり、今歴史をどう見るかによって将来をも規定する。
2017年末の日本と米国を見ながらそんなことを思う。
とりわけ、Thanksgivingの今日、日本の政治家たちがおかしな伝統や歴史認識を持ち出してきたことを眺めながら。

私たちはあっさりと歴史を忘れるというのに、自分たちのご都合主義に彩られた歴史解釈は手放そうとはしない。
だから、「歴史」は繰り返す。

今日は、北米の先住民族の辿った歴史を、征服した側の白人が語り直す日だ。
被征服側となった先住民族の側の物語は、メインストリームの語りには決してならない。少しばかり「良識派」のメディアがこの白人の創り出した物語を批評する記事を出したとしても。歴史が全体としてどのようなものとして動いたのか、征服者と被征服者の間で本当のところは何が繰り広げられたのかの話はされない。あれから何世紀経とうとも。

今書いている本は、途中からなんだかおかしくなっていった。

最初は今風に書いた。
テキストとして。
教科書的な。

でも、ブラジルの先住民族のお母さんの叫ぶような声が、テキスト的な出来事や解説の行間や文字間から、ぬるっぬるっと顔を出し始めてしまい、もはや止めようとしたところで勝手に話し始めてしまった。だから、そのまま自由に語ってもらった。

時に、長いものを書いているとき、そういうことがある。
博論のときはそうだった。

寒い兵庫の山奥で確かに聴いたアフリカの森を急ぐ住民の声。
ざわめき。
悲鳴。
押し殺したため息。
凍らした心。

最後の一文を書き終えた後、どうしたのだろう?
無限の多様なうめき声を、耳にしながらも、ただ呆然と眺めるしかできなかった。
いや、そこから遠く離れなければと必死だったかもしれない。

弾けなかったピアノは今でも弾けない。
でも、少しずつこうやって書けるようになっているとしたら、それでよいのだと思う。

職業としてテキストを書かなければならなくなって、耳にしていたはずの「ざわめき」を封印してしまう技術を身につけなければと必死だったように思う。普通の人は違うのかもしれない。器用な人は行き来できるのかもしれない。でも、私は大方の想定と違って、とても不器用な人間なのだ。そして、おそらく必要以上に真面目すぎる。だから、その融合も、行き来も、折衷も難しかった。

もう自分のための論文は書かない。
つまり、「業績」にもう一本を加えるのための論文も本も書かない。

要らないからだ。
そのつもりで入った研究や大学の世界。
分かっていたことなのに、いつの間に絡めとられてしまっていた。

ベルトコンベアーのようにあれもこれも書いて、書いてといわれて。
書きたいと思わないことを、
私が書くのではなくてもよかったことを、
ただ書き散らしてしまった。

最初は練習だった。
必要不可欠な。
そして、今も必要ではあるのだろう。
本当は。能力不足だから。
でも、最後は苦痛で仕方がなかった。
魂がそこにないままだったから。
いただいたお題、そのストーリーに魂を見出せなかったから。

いちいち論文に魂なんて込めなくていいよ。
私も他人にはそういっていたかもしれない。
でないと終らないから。
終らないと皆困るから。

でも、やはり人生は一度きりだと思う。
魂を込めるものと向き合える時間が、あとどれぐらいあるのか分からない。

小さな声がつぶやく。
モウ ナニモイラナイ。

大きな声でいってみる。
モウ ナニモイラナイ。


その途端に、書きたいことが山のように溢れるのだから、自分のあまのじゃくぶりに驚いてしまう。

大学2年生のとき、北東部ブラジルの干ばつに翻弄される家族の過酷な物語を読んだ。
Vidas Secas(干ばつ暮らし/乾いた生活/グラシリアーノ・ラモス、1938年)
ポルトガル語の購読の授業の教材だったので、かなりイヤイヤ読んだ記憶がある。まさか十数年後に自分が同じようなことを若者に押し付ける側になるとは・・・思っても見なかった20歳のときのこと。

まだ辞書片手に(しかもポルトガル語・英語辞書しかなかった時代)、遅々として進まない翻訳(というか想像の何か)。でも、小説から漂う過酷な自然との闘いを繰り広げる人間のチッポケさ、なんといっても喉の乾き、皮膚の乾き、暑さ・・・そういったものが言語の違いを超えて迫ってきたのを昨日のことのように思い出せるのは不思議だ。使われていた単語、表現、文章は一切思い出さないというのに。

今日、新書のスケルトンを書きながら、私の脳裏にあった情景はそれだった。
ブラジル北東部、セラード地域の広大なる大豆畑のただ中を、ひたすら車を走らせたときに触れたあの乾いた空気。灼熱の太陽。

と同時に、目をつぶると、次の瞬間、赤茶けた道から離れて、奇妙な形をした木々の間をいくと、湿った空気が鼻の中をくすぐるのが感じられる。あの乾燥した空気から一瞬にして隔離されたかの。砂漠を歩いて歩いてオアシスに到着した瞬間の、あの感じ。砂漠をそこまで歩いたことないのに。セラードの森だ。

森の中を歩きながら、子どもたちがどの果物がどう美味しいのか一生懸命話してくれる。
突然、森の中にバレーボールのポールとネット。
なぜか恥ずかしそうに年長の子がいう。
「神父さんの提案で」
「あ、そうなんだ。確かに横にチャペルがあるね」
手作りの、柱が8本にヤシの葉っぱで編んだ屋根の簡易チャペル。その前には十字架がある。
もぞもぞ年長さんがする。

同行していた若い男性が口を開く。
「土地を奪いにいきたビジネスの奴らからコミュニティを守る為にです」
「え?」
「ここをコミュニティが大切に使って活用しているということを見せることで、一方的にブルトーザーで壊しにくくしています」

こののどかに見える森の中にも危険が迫っていた。
「若い男達がいないのに気づきましたか?」
「確かに」
「ビジネスの奴らが雇ったギャングに脅されてみな出て行かざるを得なかったんです」
「あなたは?」
「コミュニティを守るために残っています」
「だいじょうぶ?」
「毎晩寝るところは変えてます。雇われているギャングは隣町の若者たちです。カネが皆の心を狂わせてるんです」

Vida Secaとは180度異なる豊かな緑の木陰で、彼はささやくように話す。
川沿いの森の民に見送られて向かった先は、隣州の先住民族の会議であった。

果てしなく続く赤茶けた大地。
延々と続くむき出しの。
喉の乾きが辛い。
バスが止まるたびに水を買う。

先住民族会議には200人を超える周辺地域の先住民族が集っていた。
4日間毎日会議だ。
大学キャンパスに野営をし、野外テントで議論をする。
キャンパスの庭でたき火をしながら調理をしている様は「さすがブラジル」としかいいようがない。
主催者いわく。
「なんで?公共の場だから公共の目的のために使えばいいだけ」

朝から晩まで、先住民族の老若男女がマイクをもって、時にもたないまま話を続ける。

汚染された水を飲み、自分より若い人達が癌で次々亡くなっていくと訴えるおばあちゃんたち。

清廉なる水は命の源だった。
それが今人びとの命を奪う汚れたものになっていると。
森と暮らしを守らんと立ち上がった男たちが、
手足を切り取られた姿で川に投げ捨てられていると。

小さな小さなしなびたおばあちゃんが、杖で地面をつつきながら叫ぶ。
「ついに白人たちは植民地支配を完成させようとしているのだ」
足踏みをしながら。
「森を殺すことで、私たちを殺そうとしている」
ドンドン。
「水を汚すことで、私たちを殺そうとしている」
地鳴りがする。
「私たちの勇敢なる息子たちを八つ裂きにして、先住民族を根こそぎ終らせようとしている」
低いうねりのような声がする。
「おのおばあが命をかけて、あんたらから森と水と息子を守る。弓矢に毒を盛って」
足踏みが止まらない。地響きのような。

このおばあちゃん独りではなかった。
女性たちが語る悲劇と決意は、議事進行役の年配の男性たちを困らせるほどの勢いだった。

女性たちの前に無言で並ぶ政府の役人や学者たちは、皆色が白い。
南部やサンパウロの訛で話している。

先住民族担当官に女性が詰め寄る。
「あんたたちを信頼した私たちが間違いだった」
「あんたたちがやったのはなんだったのか?」
「就任してから、一度だって私たちのコミュニティにきやしない。私たちのリアリティを知ろうともしない。」
「忙しい、忙しいって、何をやってるかと思ったら・・・
あの業者とご飯を食べることじゃないか!私たちを殺しにくるあいつらと」

会場となった野外のテントには風がびゅうびゅう吹き荒れる。
森を失ったこの地では、どんな風も容赦なく打ち付けるのだ。
おばあちゃんによると「自然の叫び」なのだそうだ。
自然の叫びは止まる事を知らない。
もう誰も自然の叫びを止められないところまできてしまった。

「欲望という名の止まらぬ列車」に、私たちは乗り合わせている。
ただし、その「欲望」は1%の人びとのものである。
それ以外は今日・明日の命をかけてその列車に振り回されんとしている。

この列車に乗りたくないといっても、列車は道行く先々のすべてのものを根こそぎ網にかけて引きずり続ける。

私たちはどうやったらこの列車を止めることができるのだろうか?
もう止められないのだろうか?
止めることで、別の何かが引き起こされるのだろうか?

だとしても。
たった一個のカタマリにすぎない私が応答する。
まずは降りてみること。
たった一人にすぎないとしても。

木々のところにいく。
迷ったときはいつもそうするように。


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by africa_class | 2017-11-24 08:10 | 【徒然】ドイツでの暮らし
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