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50歳を前に5つ目の外国語を学ぶ苦しさ。しかし、「次」が見えてきたことについて(人生、遅すぎることはない)。

50歳まであと少しになってしまった。
織田信長は「人生50年…」と唄ったそうだが、いくら高齢化時代といえ、人生後半どころか終わりに近づいてきたことに自覚的でないといけないな・・・と思う今日この頃。いつまでも人生が続くという感覚は、癌になって、「そうだ!人生には終わりがあるのだ!」と目が覚めた感じ。

福岡正信さんが30年なら30回しか季節も巡らないみたいなことを本で書いていたことの意味を、畑や森との付合いだけでなく、今本と資料に囲まれた書斎でこれを書きながら、切実に実感している。11年溜め込んだ外大の研究室を手放した時に、それを感じたつもりだったけど、未だいつか未来が両手を広げてくれるだろうと、朧げながら期待していた。でも、もうそれを具体的な数字で実感し、やれること・やれないことを整理しないといけないと思うようになった。

60歳まで元気でいられるとしても、あと10回ぐらいしか新しい春に出逢えない。
このことは結構衝撃的。

いままでは、息子の成長でカウントしていたのが、18歳で成人してしまった今はもはや実感がわかないから。18歳と33歳では、ドイツ的にはどちらも成人。

冬から春に向かうプロセスをドイツで過ごすようになって、「春が待ち遠しい」感覚は骨の髄まで実感するようになった。それだけに、春と喜びをあと何度分かち合えるのだろうかと思うと、ただ待ちどおしいという気持ちだけでなく、春を迎い入れる感動をじわじわ味わいたいとも思うようになった。

冬至がすぎて、太陽が数分ずつとはいえ、少しずつ早く出るようになってきたのを(それが朝9時頃といえ)、敏感に感じとり、感謝できるようになった。北欧でクリスマスの前は、冬至のお祭りをしていて、それがクリスマスと合体したから、もみの木を大切にするとか・・・すっごくよく分かるようになった。

さて。

そんな風に人生を折り返しからとっくに終わりに向かっている最中に、5つ目の言語を学習しなければならない状況になり、苦しんだこと、感じたこと、考えたこと、学んだことを、少し紹介したいと思う。

まず断っておきたいのが、私は息子のように多言語環境で育ったわけではなく(日本語オンリーで生まれ育った)、幼少期に外国語教育を受けたわけでもなく、言語的才能があったわけではなく、努力せずに他言語を学んだわけではなく、成人してから、本当にコツコツと愚直に積み重ねて、なんとか下手なりに日本語・英語・ポルトガル語・スペイン語の4言語を使えるようになった人間ということ。

留学もブラジルに10ヶ月だけで、それ以外はごく短期(2週間)に英語圏とスペイン語圏で学校に行っただけ。

だから、日本で生まれ育って、多言語環境にない人も、だいじょうぶ。多言語使えるようになります。ただし・・・

大学で他の人達が充実した社会科学や自然科学や人文の学習をしている最中に、かなしいかな、言語の学習ばかり何時間も何十時間も、何百時間も費やした。

だから、言語以外のもっと実のある教科を勉強した人達よりも、基礎的な学問研究が積み上がっておらず、大学院に行ってから相当苦労して、本当に昼も夜もないような血のにじむような苦労をしてキャッチアップしようと試みて、でも結局中途半端なままで・・・妊娠出産が重なり、諦めるべきを諦めながら、大学院で教えながら自転車操業どころか短距離レースのマラソン状態で学び続けたようなものだった(スミマセン)。

何が言いたいかというと、多言語が出来ると「いいなー」とよく言われるけど、まずはそのために犠牲にした多くのことを知ってもらいたいと思うのです。私が1言語を学ぶために割いた時間と労力に、わたしからみたら「いいなー」の学習や愉しみをその人たちは味わったはずで、そのことを忘れないでほしいな、と。

個人的には、英語+もう1つの言語ぐらいは高校生までで習得しておき、大学ではもっと思考の土台を学び、それを発展できるような基礎を積み重ねる手法を習得することに力を注ぐ方が良いと思う。外大で教えておきながらどうかと思うが、外大出身で外大で教えたからこそそう思う。

正直なところ、もう一度受験生をやるのであれば、外国語大学ではなく普通の大学に入って、追加で外国語をやりたかった・・・というのは後付けのことだけれど、とにかく若い頃は可能性は無限だし、時間もあったので、大きな後悔というほどのものはない。

なぜならわたしにとっては、多言語は多くの扉を開いてくれた窓のような存在であることは事実だから。英語が使えることで得られる情報やものの見方は大変重要。世界言語になってしまった現在においては、とにかく「英語ぐらいは出来ないと」というのは本当。若い人にとって、日本語だけで生き延びていくのは、あらゆる意味で難しい時代になると思う。(日本の内政を考える上においても・・・)ただ、「日本語+英語しか知らないと」、よほど努力しないと限界があることも事実。

この努力というのは、日本的、世界で支配的、アングロサクソン的なある種コロニアルなものの見方を批判的に検証するための眼鏡をどうやって獲得するのか・・・というもの。このような努力なしには、同じ英語テキストを「理解する」といっても、それは表面的、表層上のことで、本質を掴むことは不可能だから。翻訳アプリの精度がぐんぐんあがるAIの時代に、如何に記号的な言語の置き換えを乗り越えて、言葉としてでなく、言葉を通じて伝えられようとしている中身の本質を掴めるか否かは、その人の柔軟で批判的な思考にかかっている。

もちろん、これを多言語学習なしに得ることは可能。
支配的あるいは主流でない場・人びとと過ごすことで、今迄の常識や世間や世界で言われて来ている事への鋭い批判と超越を自然にできるようになる。そんな多くの人達を目にしてきた。(これは日本社会のなかにどっぷり浸かっても可能。ただし、社会の主流以外の場・ポジションからであれば。)

でも、これにもう一言語加わったなら、さらに思考の別のチャンネルが開くとともに、新しい世界への窓が開いていって、新しい発見と出逢いと深い気づきを得られることも事実。いくら柔軟な発想をもっていても、一つの言語ではその言語がもたらす癖のようなものの限界が付きまとう。別言語で思考し表現することは、その限界を軽く超えさせてくれる。さらにもう一つの言語が加われば、さらにちょっと違うバリエーションの思考と表現を手にできる。

誰も信じてくれないと思うが・・・寡黙で内気で自己主張のできず感情に流されやすかった私が(誕生日プレゼントをねだったり、あれこれ注文したことがなかった)、論理的に自己主張ができるようになった一因は英語を習得したことと無関係ではない。基本ネクラでくよくよしがちな性格が、大雑把で明るく振る舞えるようになったの一因がポルトガル語を習得して、ポルトガル語世界の人びとの優しさに抱かれたことと無関係ではない。

それぞれの言語で出逢い触れ合う人達との交流の中で、チッポケな自分の元の性格の限界を、少しずつ広げてきた結果が、いまのわたしであることについて、多分家族以外の人は知らないと思う。信じ難いことに、自分自身忘れていた。でも、PTSDになって心理療法師さんとやり取りして分かったのは、幼少期の以上の性格が変わったわけではなくって、思考のど真ん中に居座っていたこと。それが、日本語世界の中で生じた色々な出来事の中で、膨らんでしまって手に負えなくなったこと、だった。その時は気づかなかったけど、直感的に「日本から逃げないと」と思ったのは、正解だったといえる。

そんなわけで、新しい言語が開いてくれる可能性は外とのつながりだけでなく、内なる変化や可能性においてもとっても大きいのです。

新しい言語が開いてくれるそんな可能性への喜びを、なにせ30年前に味わったために、4言語を行き来するのがあまりに当たり前になってしまって、忘れていた。

とはいえ、実は、もっとも苦労したのは日本語だった。いや、3言語、かなり中途半端なので苦労していないわけでない。正直なところ、マルチリンガルというにはあまりに不十分なレベル・・・。でも、やっぱり苦労したのは日本語といいたい。その理由は、日本語が間違いなく母語で、本来完璧にできないといけない言語なのに、10代の努力をすべて多言語学習に割いてしまったので、かなり怪しい日本語しか話せない、書けない・・・状態が、なんと大学で教える直前になっても続いていたから(お恥ずかしい)。

今でも相当危ういが(ちなみにブログなどは布団の中で気が向いたら書いており、読み直してないので日本語がどうにもおかしいのはご容赦いただくしか・・・)、一番効果があったのが、NGO活動。何十もの助成申請書とか広報文とか、そういうものを複数の人間で修正しながら(真っ赤にしながら)書類を整えていくプロセスがすごく役に立った。いわゆる「赤ペン先生」を仲間たちにしてもらったのが一番効果的だった。だから学生の論文でも仲間の書類や論文でも赤を提案するのだが、真っ赤になったファイルをみて喜んでくれる人が大半な一方で、ショックを受ける人もいる。。。気をつけないと。

後者の人は、セルフエスティームが低いのか、自信がありすぎるのか分からないが、とにかく「学ぶ」ことにおいて、批判や提案・指摘を肥やしにできない人はかなり遠回りをするので、勿体ないと思う。

さて、さらに脱線した。
5つ目の言語学習を50歳を手前にやることについて。

2言語目以降は楽だと前に書いたが、それは事実。母語以外の言語の学習手順も想像できるし、身体に別言語がフル機能するスペースができる感じが掴めているので、言語のスイッチもそう大変ではない。

経験からいうと、他言語学習において、幼児教育を押し付けなくとも、ある程度「文法」の意味が分かる段階でも全然遅くないと実感している。つまり、11、12歳ぐらいでもまったく遅くはない。日本ではなぜか「ネイティブの発音」にこだわるお母さん方が多いが、前にも書いたけど、たとえば国連では、それぞれの訛を文化として誇りに思って堂々とスピーチしている人がほとんど。ましてや、アメリカ英語やイギリス英語を「支配者の言語」的なニュアンスを持って受け止める地域・国・民族が世界の大半を占める中で、それをどこまでも追求する意義があるのか疑問である。「英語ネイティブ」を重宝がる日本であるが、その「ネイティブ」なる人達を、自動的に「アメリカ・イギリス・オーストラリアの白人」と想定している時点で、時代遅れというか、なんというか。世界の変化に追いついてないというか。

また逸れた。ごめん。
言語が文法というものを土台として成り立っていると知り、1言語でこなせるようになると、2言語目はたとえ文法が相当異なっていても、違ったパズルをするんだという感覚で望めば、それほど苦痛ではない。

しかし・・・・年を取ると、また別のハードルが現れるので、今日はそのことを力説したい。何が違うかというと、とにかく覚えられない・・・のだ。それが第一言語であれ、第五言語であれ、とにかく単語や動詞の変化が頭に定着しない。耳や目から頭に入るは入るし、その瞬間は分かるし使えるが、あっという間に流れ出て行く感じ・・・。これは、高齢になってくると人の名前がどうしても覚えられない、覚えていたはずなのに思い出せない・・・現象と同じ。どうして?!??!と叫びたくなるぐらい、消えていく。

PTSDによって「覚えられない、思い出せない」を10年近く煩い、最後の5年は本当に悪化したので(なにせ病院や大学から家までの10分のドライブの道順が思い出せなかった。今も後遺症が続いている)、心構え的には「まあ仕方ないよね」という感じの私も、自分より若い人たちと毎日一緒に新しい言語を学ぶ中で、さすがに「ついていけない・・・」現実にあーーあとため息な毎日だった。

さっき辞書を引いた単語を5分後にもう一度引いている自分。単語の意味が思い出せないから引いたのではなくて、辞書で引いたこと自体を忘れているという衝撃の実態!昨日「覚えた!」と思った単語が、翌日きれいさっぱり消え去って、辞書を引いたりノートをみて愕然としてしまう自分。家族が直してくれた文章を、その直後に、見事に古い間違った文章のままでリピートしている自分・・・。

ほとんど喜劇?・・・というぐらい覚えられない。
消えていく。流れていく。耳に蓋をしたいぐらい。
まあ、焦る必要はないので、そこまで気にしていなかったのが、なぜか新年を迎えて、急に不安になった。ドイツ語が云々ではなく、自分の脳の状態に。

病気だから仕方ないとはいえ、なんとかならないのかな。
このままではPTSD→痴呆症まっしぐら。。。
なんだか、新しい言語の習得が痴呆症への抵抗戦略として重要に思えてきた。そこで、意を決して、ドイツ語を真剣に学ぶことで、老化に抗おうと決意したのがクリスマス。

でも・・・ご存知のとおり、超多忙。
季節が追いかけてきてる。広大な森と畑をなんとかしないと。
家事は手を抜くとしても。
民衆会議の残務処理は終ってない。いくつもの助成金の報告…。
原稿をいくつも抱えてる。
翻訳の仕事もある。
世界各地で起きてる問題に対応しないといけない。しかも2019年、ブラジルを含め、小農や先住民族が直面する状況は深刻化の一途を辿ってる。
しかも癌。

割ける時間は超限られてる。
そして、ドイツ語を始めたときは、そうしなければならないと思ったからで、積極的かつ主体的な意志は限りなく弱かった。

でも、ドイツの母が亡くなって1年近くが経過して、遺品に囲まれて暮らしつつ、弔った11月ぐらいから、小さなClassen家が、ついに私たちだけになってしまったことに、なんともいえない寂しさと責任を感じるようになっていた。そして息子にパートナーができたことで、Classen家の未来の世代をイメージするようになったこともあり、たとえ、自分の国籍が日本であり、離婚しているとしても、Classen家の父や母が家族の一員として私と息子を一生懸命愛して、沢山のことを伝えようとしてくれ、教えてくれ、遺してくれたことを、ちゃんと息子の子どもたちの世代に手渡していかなければならない・・・と感じるようになった。(日本の両親がまだ元気でいてくれているからかもしれないし、姉妹や姪っ子甥っ子がいるからかもしれないが)

また、庭に植えた果樹が自分の背丈を超え、美味しい果実を恵んでくれるようになって、地に根を降ろすことの意味を実感するようになったこともある。この芝生+花+モノカルチャー垣根の敷地を多様性の食べられる森・畑(Edible Forest Garden)に転換できるように、少しずつ変えて行く中で、その一部としての自分をしっかり位置づけないと・・・とも考えるようになった。

もちろん、この庭で生まれ育った猫たちがいる。いずれも保護猫だけど。彼女たちをおいて行くことはできないし、この庭から引き離すこともできない。ある日、突然出ていった3匹の子ども猫のためにも、いなくなるわけにはいかないと思う。

また、ハンビの森を守る運動やドイツ市民社会との連携を通じて、あるいは日々難民と一緒に机を並べてドイツの社会制度の一端を学ぶ中で、そして外国人の私に優しく接してくれる近所や親戚や友人の皆さんの暖かさを前に、世界がどうしようもない方向に行く今日、なんとか踏みとどまっているドイツの社会にコミットしたいという気持ちも湧くようになってきた。なんといっても、多くの時間をすごす国と社会を、このまま通りすがりの外国人というポジショニングで無視してはいけないと思うようになった。

つまり、ドイツの社会、家族、家の生き物の今後10年に、少なくとも主体的に関わるべきではないかとの気持ちが芽生えたのだった。といってもこれは大晦日、戦場のように打ち上げられる花火の騒音を聞きながらのこと。(このような戦場花火を許さないことも重要な気がして)

今迄のようにただ学校に、どこか他人事のように行って学んでいた姿勢を改め、あえて旅行の予約も種子の購入も、寝る前の本も、庭で耳で読むテキストも、全部ドイツ語に変えてみた。もちろん、単語はザルのように抜け続ける。でも、めげずに、繰り返し調べ続けて、読める範囲を少しずつ広げていった。

息子のパートナーがおばあちゃん家から持って帰ってきてくれた絵本を毎晩読み、彼女のすばらしい朗読の録音を毎日何回も感動しながら聞いているうちに、なんだか幸せがこみ上げてきた。(この絵本の素材がそもそもよかった。また紹介します)

それから1週間。
何が起きたのか?

やっぱりドイツ語はなかなか近づいてくれない・・・。

でも、はじめてドイツ語で買いたいものを探して(種子)、比較して、注文して、その商品が届いたときに、なんか手応えがあった。

で、かすかな奇跡が起きたのです。

昨日あたりから、ドイツ語が、手の届く場所に近づいて来た感じが出てきた。
それは、ドイツ語を通じて開いた世界に純粋に感動したあの感じ・・・が、やる気を喚起して、もうドイツ語の文章が「怖く」なくなった。むしろ、なんか勉強になる?という意欲を引き出してくれるようになった。

するとどうでしょう・・・。
一部の単語が定着し始めのです。
まさに奇跡。

大袈裟に聞こえると思うし、実際そうだと思うけど、私には奇跡に思えるほど、本当のほんとうに覚えられなかった。もう脳ダメになってる?・・と真剣に疑ったほど。

とはいえ、スペリングは相変わらずダメ。
これは何語でもどうせダメなので。。。
とくにPTSDになってからは、どうやっても何が正しくて何が間違っているかの判断自体が覚えられず、抜けていく。なので、正しいスペルを間違っていると思ってしまう。漢字も書けなくなったし。


ということで、結論からいうと。
他言語・多言語をやるのであれば、

1)幼少でなくていいけど、
2)記憶や脳の柔軟性が十分ある30歳前後までが楽にできる時期ということ。
3)でも、私のように50歳近く、あるいは脳年齢が70歳近い人でも、あきらめず、新たな扉をわくわくして開く感じを大切にすれば、新しい言語が習得できる(と思われる)のだということ。

ということで、いつも通り、話があっちゃこっちゃいったけれど、これにておやすみなさい。


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写真は現在、徐々にEdible Forest Gardenに転換中の森の様子。


by africa_class | 2019-01-12 08:15 | 【学】多言語学習
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