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50回目の誕生日に「生まれ変わる」ことを目指し、ふりかえってみる。

8月6日。誕生日であるが、黙祷とともに一日を始めた。
これは、毎年同じである。
そして今日は、あえて祝わないのも…。

でも、50回目を迎える今回の誕生日、いつもと違うことをしている。

まず、自分から母に電話をした。
自分から誕生日プレゼントを買い、自分から誕生日パーティを企画した(明日)。
そして、ツイッター上で、自分の誕生日を「宣伝」した。

他の人には当たり前に見えるこのひとつひとつが、私にとっては、新しい道の第一歩の幕開けを意味している。

私は、50歳を迎え、「reborn(生まれ変わろう)」と思う。
もちろん、これまでの土壌と幹の中から、別の枝を延ばしていこうと思うのだ。

50回目の誕生日に「生まれ変わる」ことを目指し、ふりかえってみる。_a0133563_23563106.jpg

幼少期に言葉を含む虐待や暴力をふるわれたり、ネグレクトを受けた人間にとって、自分の「生」を祝うことは、そう簡単ではない。ましてや、何万人もの人を殺戮した原子力爆弾が落とされた日に生まれると、「誕生日を祝う」ということは、極めてハードルが高い。周りにとっても同様であろう。

すでにカミングアウトしたことだが、私は4歳の時に、夜の海に身投げしようとして、「何か」に引き止められて、思いとどまった人間である。

それは、「自分を殺したい」という衝動では決してなく、「家に戻りたくない。この世から消えたい、消えた方がいいんじゃないか」という気持ちだったと思う。このことは、世間では「自死」よりも「自殺」という言葉が通用しているように、なかなか理解してもらえないことかもしれない。

私は、家が辛くて、祖父母や両親が夜まで働いているのをいいことに、辺りが暗くなり、人気がなくなると、三輪車で「家出」をくり返していた。ある時、もう耐えきれなくて、少し離れた舞鶴の海に自然と三輪車は向かった。その時は、大変な距離を行ったつもりだったが、大きくなってからそこを訪れた時に、あっけないほど家から海が近かったのに驚いた。

でも、4歳には、あらゆる意味で大きな距離だった。
その橋を渡ったら、すぐ海だ。
その橋を渡るのか、渡らないのか…。
ずっと考えた。

橋を渡るのが怖くて、断念したこともあった。
でも、その夜は決意が堅かった。

「もういいじゃないか、消えてしまおう。楽になりたい」

そんな気分だったのを、今でも覚えている。

なお、これをこんなに鮮明に覚えているのには理由がある。
生き延びた時、これを決して、大人になっても、絶対忘れてはならないと自分に言い聞かせて、繰り返し、繰り返し、思い出し続けたからだった。

さて。その夜はひゃっこい夜だった。
そして、曇っていた。
だから、舞鶴の海は真っ黒で、漁村ならではの匂いに満ちていた。
三輪車から降りて、その海をずっと眺めていた。

夜8時、どの家庭も家族団らんの時間。
通りに漏れる家の灯りは優しく、温かい。
道にも、港にも、人っ子一人いない。
港には4歳の私がたった独り。
心配して探しにくる人もいなければ、不在に気づく人もいない。

最後の勇気が必要だと、自分を励ました。

一歩前に踏み出したその瞬間、
雲の間から、真っ暗だと思っていた海が、キラキラゆれながら輝いたのだ。

急に波の音が優しく聴こえてきた。

その瞬間、雷に打たれたように、その場にしゃがみこんで、泣きじゃくった。

「いま、死んではいけない」

そう言われているような気がしたのだ。

もう一度海を見てみると、月の光が注ぎ込み、それを辿って空を見上げると、月と星が空一面に見えた。

なぜか私は不思議な感覚に包まれた。
自分が独りじゃないような気がしたのだった。
そして、何か閃きのようなものが頭に現れたのだった。

「どうせ捨てる命なのなら、それを一生懸命、死ぬ気で役立ててはどうだろう」と。

しばらく身動きができなかった。
なにか、はっきりとした決意みたいなものが、心の中に灯るのが感じられた。

あれほどまでに、投げやりだった自分が、「怖いからビクビクする」的な行動様式しかとれなかった自分の中に、情熱の炎の種火のようなものが灯る気がした。

自分のためではなく、何かの誰かのために生きてみる。
だめだったら、もう一度ここにこればいい。

そう思った途端、いままで辛かったことがスーーッと消えていくのを感じた。すると、もっと知恵をつけ賢くならないと。役に立つ人間になるには、準備が必要だ。そんな風に、生きる気力がわいてきた。

誰が何をいおうとも、私は一度死んだ人間なのだから、気にしない事。むしろ、何か、誰かのために自分を役立てられるよう、努力することに集中しよう。そう決意し、三輪車を全速力でこいで家に戻った。

家に戻ると、家族が食卓を囲んでご飯を食べていた。
いつもの光景だ。
「あ、帰ってきたのね」
そういう顔で、お茶碗とお箸が渡された。

さっきまで自分に起きていたこととのギャップが大きすぎて戸惑っていると、お腹が「ぐう」と鳴った。その瞬間、「生きる」というのは、こういうことなんだと何故か腑に落ちた。

もっとご飯を食べて、大きくなろう。強くなろう。
大きくなって、強くなれば虐められない。

その日から、私は変わった。

殴られようと、理不尽に怒られようと、嫌味を言われようと、無視されようと、ここにいる自分は前の自分とは違うし、自分は自分のために生きているわけではないから、平気と言い聞かせた。それより、どうやったら、強く、大きく、賢く、役に立つ人間になれるのか、考えるようになった。それと同時に、一刻も早く家を出られるように、お金を貯めなければならない。手に職を付けなければならない、と決意した。

以来、クリスマスのプレゼントは「お金」と「通帳」をお願いした。
通帳に増える数字を見ることが、自分の解放に直結してると思って、しばらく通帳とともに寝ていた。

こうやって書くと、あまりにひねた子どもだったことが分かる。
私は、決して自分の本音を周囲にいわず、心を許さず、いつ危害が加えられてもヒドくは傷つかないように自分の心をガードする術を身につけていった。あまりにがんばったので、「何を考えているか分からない、不気味な子」として、余計危害を加えられることになった。

それは、小学校の高学年になっても続いて、せっかく自分の部屋を入手したのに、学校から戻ってきたら、押し入れが破られていて、自由に出入りできるようにされていた。

それに、家の中で、まったくしゃべらないので、長らく自閉症だと思われていた。幼稚園の先生と母がそのこことで、お医者さんに私を連れていく寸前だったことは随分後になって知る。家以外の場所では、徐々にしゃべるようになった。次第に、「他人」は安全かもしれないと思いだした。

しゃべらなかった理由は、心をガードしていたのもあるが、何かしゃべるとさらに言いがかりをつけられて、何らかの危害を加えられるからだった。(黙ってても同じだったが・・・)

でも、むき出しの自分のまま傷つけられ続けるよりも、ずっと楽だった。そういう行為も含めて、やる側を哀れに思うようにした。これは上手くいった。そのうち、虐待をしたり、暴力をふるう人達、それをいいと思っていなくても同調してしまう人達、あるいはスルーしてしまう人達が、どうしてそうなるのかに興味を持つようになった。

彼らを徹底的に知ることが、自分の身を効果的に護るために必要だと直感したのだった。

そして、4年生ぐらいから推理小説を読みまくり、戦争や暴力のことを描いた世界の小説を積極的に読むようになった。

そのうち、自分の苦しみなどは取るに足らないことのように思えてきた。世界には、古今東西、とんでもない苦しみの中に放り込まれた人達がいて、それでも諦めず、色々なことを成し遂げていることも知った。

自分が、8月6日に生まれたのは偶然ではなかったのだ、と思うことにした。単なる偶然を、自分の意志で「必然」に変えようと思ったのだ。

同じ年頃の『アンネの日記』を読んだのもこの頃で、彼女が日記に「キティ」と名づけたように、私も日記に名前をつけて、考えることをツラツラ書き連ねるようになっていた。しかし、それも部屋が破られてからは安全でなくなった。だから、書きながら考えるのではなく、頭で考えて頭の中に描くことに切り替えた。

戦後の平和な「豊かな」日本に生まれたのに、私の日常は、まさに「戦場」さながらだった。今からふりかえれば、これらの問題に正面衝突していれば、違っていたのだろうかと思わないでもない。誰かに相談するとか、他に方法はなかったのか。でも、昭和なあの時代、そんなものは制度上もなく、カウンセラーの存在は、遥か彼方だった。もし相談していても、家族は変わりはしなかったろう。だから、結論からいうと、これでよかったと思うしかない。

そのうち、自分が将来すべきことが段々わかってきた。
同時に、日本にいるべきではない、と理解した。

中学生の時だった。
生徒会に入り、私なりに、「誰かの」「何か」の役に立つための実践を開始した。
田舎の学校で、丘の上にあるのに、使っていいのは学校指定の一つ紐のカバンだけ。斜めがけして歩くのだが、これが腰と肩に辛い。姿勢も悪くなる。リュックにかえるか、自由にしてほしいという要望が長年にわたって続いていたが、誰も変えることができなかった。だから、これを最初の仕事に選んで、学校と掛け合った。

そこでみた理不尽で不条理な世界は、ここに書かない。一緒に闘っていたはずの仲間や先輩も逃げてしまった。

日本にいる限り、自分の命をかけて、「何か」の「誰かの」ためにするだけの力をつけられないし、仲間も得られない、何かを変えることなど不可能だ、と考えた。

まずは外に出ることだ。
そう思った時、「外国語」はなくてはならないものとして目の前に現れた。世界の本を読みあさっている中で、沢山の言語を学んで、色々な人と出逢いたいと思っていた自分に、何か目標ができた気がした。

そして、私は日本を出て、「戦争/暴力なき世界」のための旅を始めたのだった。

それから、末尾につけたような人生を送ってきた。
自分を後回しにして、誰かの何かのために。
自分の命や想いよりも、大きなもののために。


死ぬぐらいの一生懸命さをもって。

でも、それを今日から止めるのだ。
まずは、「自分のため」に生きてみようと思う。
あれほど否定し、捨てようとしていた(終らせようとしていた)、自分というチッポケなもののために、まずは生きてみようと思う。

なぜなら、もう45年を経て、「自分のため」は決して、ワガママな自分だけのものではなく、世界や社会や生きとし生きるものの何かと底辺で繋がっていると実感するからだ。

自分のダメなところ、弱さ、傷・・・すべてを抱きしめて生きてみようと思う。自分の周りの人びとのそれらを抱きしめる前に、自分のそれをしっかり抱きしめようと思う。それで学んだことを伝えていこうと思う。



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誕生日を前に、ドイツの庭に作った「焚き火場」。祈りを込めて。


駆け足になったけど、とりあえず今日書こうと思っていたことは書けました。

そして、ツイッターで今書いたけど、ここで書いた幼少期の暴力のすべてについて、もう28年前に、自分の意志で「赦した」ことをお伝えしておきます。モザンビークの地雷原で車を走らせながら、今の自分のままで死んだら、後悔するなと思って。だから全員とだいたいおいて良い関係にあります。(向うがどう思ってるかはさておき[笑])

(私がベートーベンの「月光」とドビュッシーの「月の光」をマスターするために、ピアノを習い、今でも弾いているのは、これが理由だった。)

以下は、日本アフリカ学会の関東支部例会(2018年11月)用に作成したもの。
次のブログで書こうと思っているのは、「世界へ」行ったはずの私が、以下の通り、「日本へ」戻った理由。そこからプロサバンナの話に繋がる。



1. 実務から研究の道へ、そして社会活動と共に

(1)なぜ実務の道に?

① 1989-90年:ベルリン壁崩壊後の世界変動

② 貧困のために何かしたい:ブラジルのファヴェーラでの活動

③ 平和のために何かしたい:モザンビークPKO活動へ



(2)「知っているふりをする自分と周り」に嫌気が差して

① 1994年:モザンビーク国連活動→国連PKO活動の研究(修士論文)

② 1995年:阪神大震災救援活動

③ 1995-1996年:Phillips大学日本校での非常勤講師

④ 1996年:パレスチナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの選挙監視



(3)「深く知りたい、理解したい」と学問の道へ

① なぜモザンビークで戦争が生じたのか?

② 同時代の世界(日本含む)・アフリカ・南部アフリカはどのように関わっているのか?

③ 戦後から現在における政治的課題(分裂や独裁化)の実態と将来に向けた可能性

—『モザンビーク解放闘争史——「統一」と「分裂」の起源を求めて』御茶の水書房、2007年

-『アフリカ学入門——ポップカルチャーから政治経済まで』明石書店、2010年

—『現代アフリカ社会と国際関係: 国際社会学の地平』有信堂高文社、2012年

-The Origins of War in Mozambique: a history of unity and division, Ochanomizushobo, 2012 (The African Minds Publisher: Cape Townよりオンラインで無償ダウンロード可)



(4)研究をしながら、教えながら、社会活動をすること

① 2000-02年:モザンビークの大洪水被災者支援

② 2002-04年:日本の農業援助(食糧増産援助)の問題

③ 2004-08年:農薬の破棄場所としてのアフリカ→日本のアフリカ政策・援助

④ 2008-09年:民衆・市民社会不在の日本の外交・援助政策→民主化・市民社会

⑤ 2009年-:アフリカ市民社会→当事者運動への注目

⑥ 2011-13年:東日本大震災と原発事故、福島の乳幼児・妊産婦家族のニーズ対応

⑦ 2012年-:モザンビーク農民連合から「プロサバンナ事業」問題への要請

⑧ 2013年-:ブラジル市民社会からの「セラード開発問題」に関する要請→3カ国民衆運動

⑨ 2013年-:世界中でのランドグラブ(土地収奪)、小農・先住民族運動、食の主権/アグロエコロジー運動、国際ディスコースの形成と国連

⑩ 2018年11月:日本で3カ国民衆会議の初開催



2. 平和・戦争/暴力研究、教育、研修(Peace & Conflict Studies)から食と農の研究へ

(1)平和・戦争/暴力研究

① 1998年:民族学博物館でのアフリカ紛争・平和構築研究会

② 2000年:アジア経済研究所での紛争と平和構築研究会

③ 2005年—:JICAでの平和構築研究会

④ 2004年-:東京外大での元紛争国の学生・社会人向け修士・博士コースPeace and Conflict Course担当/学部向け「平和と紛争」の授業

⑤ 2007年—:JICAでの紛争国官僚への平和構築ワークショップ

⑥ 2008年-:国際交流基金と「暴力の空間を平和にかえるワークショップ」開催

⑦ 2012年:The Origins of War in Mozambiqueの出版

⑧ その後:国際平和学会の企画委員、平和学会理事、日本国際政治学会での委員と論文発表、平和学研究ジャーナルの編集



(2)自分として何にどう寄与すべきなのか?(可能性と限界)

① 紛争原因、国内問題に見えるものの本質とは?

② グローバルな政治経済構造の問題

③ その根っこにある各国内の民主主義の課題(リベラルピース論への反論)

④ 一人ひとりの不安、疎外、self-esteemの低さ、愛と幸せの問題

⑤ (一個のリンゴをどう分けるのか?)



(3)平和・戦争/暴力研究と暮らしの実践(食と農)と社会活動(開発/国際協力)の融合

① 2013年まで、研究と活動を完全に分けていた(テーマを分けることで対応)

② 原発事故後、少しずつ融合(「開発」「コロニアリズム」を問う)

-「モザンビーク・プロサバンナ事業の批判的検討」大林 稔, 阪本 公美子, 西川 潤『新生アフリカの内発的発展―住民自立と支援』(昭和堂、2014年)

- “Analysis of the discourse and background of the ProSAVANA”, GRAIN, 2012.

- ICAS(Initiatives for Critical Agrarian Studies)翻訳本シリーズ



(4)私の中の「コロニアリズム」と暴力、日本と世界の「コロニアリズム」と暴力

① UNAC、世界の農民運動との出会い

② 主権者であることの意味

③ 「よそ者」であることの意味

④ 旧colonizerの国の者として。ナチズムを生み出した国に暮らす者として。

⑤ 社会と向き合い、一人ひとりと繋がることの意味(ソーシャルメディアを通して気づいたこと)

l 「現代世界・社会における小農・人々の解放」の意味

l 不確かな時代の再来。グローバルを無視して内に籠り排外主義に向かう人々

l 大多数者と少数者、国内での権力構造と国境を越える主権運動



(5)世界大で急速に進む「見えづらい暴力」、最後のコロナイゼーションと私たち

(6)もはや後戻りできないところまできた気候変動、生物多様性の喪失の意味



by africa_class | 2020-08-07 00:09 | 【徒然】ドイツでの暮らし
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