アフリカに関わって15年。本当に沢山の人との出会ってきた。
路上で生活する子どもから、農村に暮らすお母さんたち、子ども
の「いいなづけ」、ミュージシャンから、大学教員、ガードマンや
神父さん、イマームから大臣、大統領から元大統領まで、実に
様々な人との出会いに恵まれてきた。ふりかえってみると、どの
出会いも、かけがえのない出会いばかりであった。
中でもモザンビークでは、国や地域、生活は違っても、「友」と
呼ぶに相応しい人たちにめぐり合ってきた。23歳の生意気な小
娘時代から現在まで、我慢強く付き合ってくれた皆。彼(女)らに
少しでも早く子どもを見せたい・・・と1歳11ヶ月でアフリカにつれ
て行ったのだが、母だけでなく先輩女性研究者にすら「無責任」と
言われる始末で、さすがに迷ったものだった。実際、マラリアにな
ったり、巨大テレビが子どもの頭に直撃したり、そこらに転がって
るカミソリを手に持ってたり・・・と今でも背筋がぞっとする出来事が
頻発したが(ここだけの話。母たちは見てないので)、子どものアフ
リカ訪問・滞在も、今では8回・のべ10ヶ月を数え、テントの設置も
トイレもお風呂も、手でご飯を食べるのも慣れたもの。
でも、あんなに子どもの誕生と訪問を喜んでくれた友の多くは、
すでにこの世にいない・・・。毎回アフリカに戻るたびに、急な友
との別れに、戸惑ったまま、日本に帰ってきてもまだその死を
受け入れられないでいる。

ステラ、ステラ、ステラ。マウアのお母さん、ステラ。私が学生
のころから、村から郡都に帰ってくると、手料理を食べさせてく
れた。豊かな国からきている私だというのに、決してお金を受け
取ってくれなかった。(ビールは私の驕りだったけど)「もっと食
べて太りなさい」が口癖だった。「女の魅力は贅肉だ!」とも。

こんな笑顔ができる人は、世界中探してもあなただけだった。
この笑顔はつい1年前のものだというのに。私が訪ねる2週間
前に逝ってしまった。最後まで、私たちがいつ訪ねてくるか聞
いていたという。シングルマザーとして、孤軍奮闘しながら、い
つも生き生きと生きていた。成功したら娘を引き取るといって頑
張って、ようやく娘との水入らずの生活だったというのに。女性
の地位向上のため、いつもいつも闘っていたというのに。

ミーナはまだ16才。14だった2年前、学校が嫌い止めたい
といってたというのに、死に逝くお母さんと約束したからと、
小さな赤ん坊を抱えながら、学校を再開している。ミーナが
妊娠したとき怒ったステラも、最期に孫が見れたことを喜んで
いたというのが、せめてもの救いだろうか。でも、あまりに早す
ぎる死だった。
そして、エウゼビオの死。国連時代から、丸々15年のつきあい
だった。最初は家の仕事を手伝ってくれる人として。後の13年
は通訳として、本当にいつもどこでも一緒だった。彼がいなかっ
たとしたら、ここに私はいなかった。反政府ゲリラの村に始めて
入ったときの彼の機転、何時間も歩いて入った村でマラリアが
悪化したうえに食中毒になって死にかけたとき、焚き火を囲み
ながらの村の人たちとの会話をそれはそれは根気強く訳してく
れた。地球上どこを探しても、エウゼビオほど信頼した人はい
なかった。国連時代から、同僚や上司の意見などほとんど参考
にせず、もっぱら彼の意見を参考にしたほどだった。(それで、
間違ったことはなかったどころか、数々の政治的にきわどい
ところを切り抜けることができたほどだった。)彼に出会わなか
ったとしたら、研究をしようなどと思いもしなかったろう。
反政府勢力が占領した村から町に命からがら逃れてきたエ
ウゼビオは、町の郊外で農業を営みながら、得意のポルトガル
語をいかして短期的な仕事をしていた。とはいえ、文字が読め
ず、書けない彼は定期的な仕事を得ることができなかった。そ
れが、私のために通訳をするようになって、定期的にまとまっ
たお金が入るようになって、第二婦人を娶った辺りから歯車が
狂っていってしまった。
彼の死は、もちろん彼自身の行動から来たものであるが、そ
の遠因となったのは「私の払った通訳報酬」。1日10ドル程度の
ものだったが、現金収入を持たないのが普通の社会では、それ
は大きなことだった。一緒に調査に行った隣の村で第二婦人を
娶ったと聞いたとき、さすがの私も動転したが、かといって私が
口出すべきことでもなく、第一婦人の様子を見に行くのが精一
杯だった。私との出会い(金)が彼の人生を短くしてしまったのだ
ろうか・・・否定はできない。
帰ってきてから、夜になるとずっとそんなことを考えてしまって
いる。そんな矢先、JR西日本の福知山線脱線事故の責任回避
工作の話が繰り返し報道されるに至り、心がかき乱される。
叔父がその事故の犠牲となっているからだ。バブルの崩壊で自
己破産してしまった叔父は、会社をたたんだ後外出することも
ほとんどなかったというのに、あの日、あの時間、あの電車に、
なぜか乗り合わせたその偶然。京都であった久しぶりの仕事の
話に心躍らせ、本当は車で行くべきところを、腰痛のため電車で
行こうとしたうえに、たまたま時間に遅れていたため、階段に一番
近い2両目(最も多くの犠牲者を出した)に駆け込んだという・・・。
お通夜で、親族一同、叔父ちゃんらしい最期ということだったが、
叔父さんはどういう最期を望んでいたのだろう。それより、JR西日
本。あまりにあまりの対応。この会社があれほどの大事故を起こ
したのは偶然ではなく、必然であったろう。でも、叔父さんがそれ
に巻き込まれたのは単なる偶然の積み重ねだったのだが・・・。
人生の偶然の重なりに、自分の投げた小石のもたらすさざ波に
今夜も戸惑いを覚えずにはいられない。合掌。
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