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afriqclass.exblog.jp

2012年 03月 28日 ( 3 )

一挙掲載月刊『英語教育』連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」(その3)

今、BBCのメルトダウンの内側 Part3
福島第一原発周辺の避難者らが、SPEEDIの予測が公表されていな
かったため、より線量の高いところへ向かって行ったことについて・・・。
http://onodekita.sblo.jp/article/54621673.html
本当に悔しい。本当に、本当に悔しい。

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『英語教育』2011年1月~2012年1月
連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」
http://www.eigokyoikunews.com/store/eigokyoiku.html
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*文字数が多くて実際はかなり削った原稿ですが、原文のまま掲載
します。特に、最終回に実は大学の新しいコースについて紹介してた
のですが、紙幅の関係で次の部分を結局削除したでした。後1週間
でこれらの16名(1名増員)が入学です!!!!祝合格!
「東京外国語大学でも、今年4月から、アフリカ地域教育に力を入れた定員15名の学群が設置される。新入生15名は、まずは1年間徹底的に英語を身につけつつ、フランス語・ポルトガル語・アラビア語の中から一言語を選択し第二言語として学ぶ。そして、二年次からは、英語と第二言語を身につけ、さらに教養言語としてスワヒリ語をかじることになる。南部アフリカ共同体(SADC)に加盟するアフリカ12か国の大使たちによる英語での連続レクチャーも計画されており、まさに「生のアフリカの中の英語」に触れる機会となる。」

■第十回 サファリでサファリする?
本コラムもだいぶ終わりに近づいてきた。気づいたら、これまで「アフリカの中の英語」についてばかり書いてしまったて、「英語の中のアフリカ」について、ほとんど触れることができないまま! なので、今回は、「英語の中のアフリカ」について取り上げてみたい。
 と書いたまではよかったものの、なかなか思い付かない…。たまたま南アフリカ在住の「英語の達人」が家に泊まっていたので聞いてみた。「やっぱりSafariじゃない?」思わず膝を打った。そう、日本語にもなっている「サファリ」。英語でも、アフリカの国定公園などに行って、テント(といってもラグジュリアスで本格的なもの)に宿泊しながら、広大なサバンナの風景と野生動物の観察をすること全体を「サファリに行く(I go onto Safari)」という。でも、多くの人はSafariという言葉の由来は知らないだろう。
 Safariの元々の意味は、タンザニア・ケニア・ウガンダの3か国の公用語の一つとなっているスワヒリ語(Swahili)で「旅」のこと。当然ながら、野生動物がいようといまいと、移動すること自体がSafari。なので、現地で、「I go onto Safari」というと、「サファリでサファリする」というニュアンスになってしまう。では、スワヒリ語で我々の意図する「サファリ」をなんといえばいいのか? 
 それが、サファリにあたる言葉はないのだ!
 そもそも、アフリカの人びと人たちは、野生動物と共に生きてきた。お祭りの季節が近づいてくると、成人男性たちは連れだって、祭りの「御馳走」である野生動物を捕りに森に行く。数日間森を彷徨って、帰ってくるのは1週間後ということも。棒に逆さになってぶら下がって現れるインパラやガゼルを見て、思わず「可哀想」と口にしたくなるけれど、村の人びとにとっては重要なタンパク源。のしたがってで、野生動物をわざわざ「見に行く」という発想自体がない。
 では、アフリカの人びとにとっての「旅」は? それはやはり、冠婚葬祭で親族などに会いに行く際の移動だろう。かつては家族全員で正装して何十キロの道のりをテクテク歩いていたが、今ではミニバスにスシ詰になっての移動。これこそ、アフリカ的「サファリ」。
 なので、 なので、「サファリ」という言葉言葉はアフリカから来ているとしても、その概念はあくまでもアフリカの外から来たもの。

■第十一回 アフリカで野生動物を「見る」こと
前号では、英語にもなっている「サファリsafari」の意味を、アフリカの人びとの側から考えてみた。本号はその続編。
 「サファリ」と名のついた動物園もあるように、日本で「アフリカ」というと「野生動物」。ドイツでも事情は同じ。だからで、やっぱりそう。日本と同様に、テレビでしょっちゅう野生動物の番組をやっている。なので、私の調査についてきたドイツ人の「ツレ」が初めて私の調査についてきたときは、初めてのアフリカ(!)ということもあり、大興奮。赤茶けたアフリカの大地をヒッチハイクしたトラックを乗り継いで行くこと計2日間。ようやく着いた私の調査地の村がは、国立自然保護区に比較的近かったからだ。こともあり、。期待を高めた彼ツレは、地元の人たちに訊ねた。
 「どこに行けば野生動物が見られますか?せっかくアフリカに来たんですから!のに見ないで帰ったら、家族に笑われるんで!」
 すると、みな一様に怪訝な表情。
 「アフリカ=野生動物」と思い込んでいた彼は戸惑った。
 「ライオン、もしかして見たことないんですか?」
 皆が顔を見合わせた。そして、悲しそうな顔をした。その瞬間、私は悟って止めようとしたものの、時すでに遅し…。
 「『ライオンを見たことがある』なら人たちは、もうこの世にいないよよ。」
 そう。私が毎年調査に行く村のお年寄りたちは、3度の大きな戦争を経験し、戦争の度に、どの戦争の際にも、住民は村や家を捨てて、森の中に逃げなければならなかった。しかし、そこは野生動物たちのテリトリー。つまり、ライオンの棲家。結局、せっかく戦争から逃れても、ライオンに食べられてしまった子供やお年寄りは少なくなかったのであるある。
 申し訳なさそうに頷いたツレ。しかし、そこで彼の質問は終わらなかった。
 「確かに、ライオンは危ないですよね。すみません。でも、ゾウなら…。」
 再び顔を見合わせる村人たち。一方、項垂れる私。この地域一帯では、畑や食料貯蔵庫のサトウキビや穀物、野菜の味を覚えてしまったゾウたちが、毎年村を襲いにくるのであった。そのため子どもたちがは学校にも行かず、畑の見張り番をさせられることも多い。
 つまり、アフリカの自然が豊かな地域の人びとにとっての暮らしでは、「野生動物に遭遇する=危険信号」なのである。
 あれから12年。さすがに、彼も最近はそんな質問をしなくなったものの、代わりに今度はその息子がは双眼鏡でを片手に、まだ諦めずサバンナの向こうを凝視している。やっぱり、カエルの子はカエル。息子の将来の夢は、サッカー選手か自然保護区のranger(自然保護官)。調べてみたら、この言葉元々はドイツ語の「猟兵」の意味だそうな。納得。

■第十二回(最終回) アフリカへの誘い
本コラムも最終回となった。1年間おつきあいいただいた連載を始めた1年前と比べ、新聞等でもアフリカの話題が多くなってきた。また、東京外国語大学でも、今年4月から、アフリカ地域教育に力を入れた定員15名の学群が設置される。新入生15名は、まずは1年間徹底的に英語を身につけつつ、フランス語・ポルトガル語・アラビア語の中から一言語を選択し第二言語として学ぶ。そして、二年次からは、英語と第二言語を身につけ、さらに教養言語としてスワヒリ語をかじることになる。南部アフリカ共同体(SADC)に加盟するアフリカ12か国の大使たちによる英語での連続レクチャーも計画されており、まさに「生のアフリカの中の英語」に触れる機会となる。
 受験生に戻ることができない皆さんには、是非アフリカを一度訪ねていただきたい。「百聞は一見にしかず」がアフリカほど当てはまる地域は地球上に存在しないのではと思うほど、アフリカのイメージと現実はかけ離れている。このコラムでもたくさんのことを紹介したが、やはり一度は、実際にアフリカの大地に抱かれ、直接にアフリカの人びとと触れ合っていただきたいと思う。
 そして英語の達人たる皆さんには、是非アフリカの音楽CD、映画、文学作品に触れていただきたい。日本にいながらにしてアフリカのものが手に入る時代になった。中でもあえてお勧めするならば、映画『Amandla!』を挙げたい。ミュージカルの映画版であるが、アパルトヘイト下の南アフリカで、人びとが諦めることなく、不屈の精神と音楽と連帯の力で抵抗を続けた様子がドキュメンタリータッチで描かれている。ネルソン・マンデラの実際のスピーチも聞ける上に、音楽も素晴らしい。
 文学作品については、本コラムでも紹介したナイジェリア英語文学の系譜を引くチママンダ・ンゴジ・アディチェのHalf of a Yellow Sun(翻訳本『半分のぼ登った黄色い太陽』)をお勧めしたい。1977年生まれの若い女性作家であるが、同書はOrange Prize for Fictionを、2003年に発表されたPurple Hibiscus はBest First Book Awardと Commonwealth Writers’ Prizeを受賞している。ナイジェリアの現地の言語に由来する言葉も多く、最初は読み進めるのが少し大変かもしれない。しかし、後半にかけての躍動、複数のパーソナリティーの物語が大きな戦争という物語に結実していく様は、感動的である。人間の弱さと可能性を痛切に感じる一冊。
 また、アフリカについてもっと知りたい、学びたいという方は、筆者の編書『アフリカ学入門』(2010年、明石書店)をご参照あれ。
 この連載中に、アフリカ、ドイツとの往復を何度も繰り返した。世界を何周かして思うのは、やはり日本にアフリカ的刺激と包容力が不可欠な時代が到来しているということ。世界のどの地域よりも、今の日本には停滞感、諦めが漂っている。これを脱するヒントは「危機の先進地」ぜひ、アフリカにこそあり。ぜひ、アフリカへ。へ。
by africa_class | 2012-03-28 21:56 | 【記録】原稿・論文

一挙掲載月刊『英語教育』連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」(その2)

このコラムの冒頭は
http://afriqclass.exblog.jp/12662684/

ちなみに、ブログ更新の時間がもったいないので、前から全部
観たかったBBCの「メルトダウンの内側(Inside the
Meltdown)」シリーズを聴きながらです。今Part2。
http://onodekita.sblo.jp/article/54621673.html
が、い番組過ぎて・・・しっかり観ました。本当にお勧めします。

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『英語教育』2011年1月~2012年1月
連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」
http://www.eigokyoikunews.com/store/eigokyoiku.html
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■第六回 公用語を英語に変えたルワンダ
2008年に公用語に英語を加えたルワンダ。ついに2009年には、フランス語圏アフリカとは決別するかのように、コモンウェルス(英連邦)に加盟を果たしている。しかし、何故ルワンダは公用語に英語を加え、英語化しようとしているのだろうか?これについては、ルワンダこのようなルワンダの英語公用語化は、この国で発生した二つの虐殺が関わっている。
 ルワンダには、フツ(約88割八十数%)、ツチ(約1割)(十数%)、トワ(数%)の3つの民族集団が暮らすとされるが、いずれもルワンダ語を話し、集団間の婚姻も進むんでいた。しかし、ベルギーの植民地支配期に、これら集団のカテゴリー化と集団間の格差や分断が生み出され、る。そして、1950年代末の独立移行期に、フツ・とツチの間での暴力が激しさを増した結果、ツチ約2万人が殺害され、20万人が難民となって国外に流出した。
 この一次虐殺の際に多くのツチ難民が逃げた先が隣国ウガンダであった。ウガンダは元英国統治領で公用語は英語。また、英国領東アフリカ地域の学問の中心地であったため、教育に熱心な国として知られる。このウガンダで教育を受けた難民やその子どもたちが、ルワンダへの帰還を目指して立ち上げたのが反(ルワンダ)政府勢力・ルワンダ愛国戦線(RPF)であった。
 1990年、RPF軍は、ウガンダ政府の後押しを受けて武装蜂起し、ルワンダ北部に侵攻を開始する。この危機に対して、フツを中心とするルワンダ政府は、国内的な(特にフツの)結束を獲得するために、国内外のツチをすべてを敵として、その虐殺を組織的にその虐殺に着手したのであった。その結果、1994年にRPF軍がルワンダを制圧するまでの間に、50万人とも100万人ともいわれる数のツチが虐殺された。
 虐殺後に政権を奪取したRPFの幹部はウガンダで教育を受けたために、フランス語が得意ではなく話せず、なかった。そのため、公用語に英語を加えた。わけであるが、さらにフランス語の放逐には別の理由もあった。それは、フランスが虐殺を行った興した旧政権を支援していたことや、虐殺発生についてRPF側にも非があったとフランス政府が総括したことに対する反発である。でもあった。
 国民の間のコミュニケーションはもう一つの公用語ルワンダ語を通じて行われるので問題はないが、英語が出来ない大半の国内で暮らしてきた人びと(その多くがフツ)にとって不利な状況が生まれていることは間違いない。「たかが言語、されど言語」…ルワンダの前途が多難であることは間違いない。
 しかし、国内で暮らしてきた大半の人々は英語ができず、不利な状況に立たされている。虐殺という悲しい歴史は、こんなところにも爪痕を残しているのだ。

■第七回 アフリカ発英文学
私が勤める大学でも、「『アフリカの英語』は『英語』?」と真顔で尋ねる人がいる。本コラムの読者であれば、既にそのような問い自体が成立しないことを御承知のことと思いたいところ。いやいやまだ説得されていないぞ…という方のために、昨今の「英文学」事情について取り上げたい。
 「英語」が「英国という国の言語」から、「英帝国の共通語」であった時代が過ぎ、「英語」という名前の一言語に過ぎなくなって久しい。ただし、グローバル化やインターネットの発達から「世界の共通言語」として脱皮しつつある現在、「英文学」もまた、「英国の文学」だった時代から、「英語で書かれた文学」を指すようになっている。最近のブッカー賞で、英国人以外のアジア・アフリカ出身者の受賞が相次いでいることからも、それは明らかであろう。
 今回紹介したいのはナイジェリア文学である。同国は多くの文学者を生み出してきた。中でも、1986年にノーベル文学賞を受賞したWole Soynika(ショインカ)はあまりにも有名であろう。しかし、今回紹介したいのは、Chinua Achebe(チヌア・アチェベ)である。 1980年代以降、英文学界で重要な位置を占めるポストコロニアル文学/批評において、アチェベが果たした役割はあまりに大きいからである。著書Things Fall Apart(邦題『崩れゆく絆―アフリカの悲劇的叙事詩』)は世界で一千万部以上売れ、英国や米国の小説百選にも選ばれているが、英文学界、あるいは世界文学界への彼の貢献は文学作品に留まらない。
 植民地時代のナイジェリアで生まれ教育を受けたアチェベは、それまでまったく問題にされてこなかった英国文学の根底にある帝国主義・人種差別主義観を鋭くえぐり出す批評を発表し、世界に注目されるようになる。中でも、19世紀末の英国作家ジョセフ・コンラッドのHeart of Darkness(『闇の奥』)の批評は、現在でもポストコロニアル理論において「古典」となっており、英米を中心に世界中の大学で繰り返し読まれている。
 英国文学は、日本でも広く読まれてきた。英国から輸入した学問とともに、文学もまた、日本の近代化において多くの知識人に影響を与え、重要な役割を担ってきた。私たちのアフリカあるいは非ヨーロッパ世界を見る目に、刷りこまれてきた帝国主義・人種差別観を乗り越えるには、私たちもアフリカ文学を必要としているのではないだろうか。

■第八回 英語に生命と活力を与えるアフリカ?
前号では、英文学界においてだけでなく、ポストコロニアル批評においても重要な役割を果たしてきたナイジェリアの文豪チヌア・アチェベを紹介した。今回は、英語の発展へのアフリカ文学の貢献について。アチェベは、1964年にこう書いている。
 「私は英語がアフリカの体験の重みを背負うことは可能だと思っている。しかも、それは、先祖の土地との接触を充分に保ちながらも、新しいアフリカの環境に見合うように変更された新しい英語となるに違いない」
 同様に、同じ時代のアフリカ人作家ガブリエル・オカラは次のように述べている。
 「生きている言語は生物と同様に発展するのであり、英語は死語ではない。アメリカ英語、西インド英語、オーストラリア英語、カナダ英語、ニュージランド英語等が存在するのだ。これらすべては、それぞれの地域の文化を反映しつつ、英語に生命と活力を付け加えている。」
 現在の英文学界でのアジア・アフリカ出身の作家たちの活躍を考えると、なるほとと思える指摘である。そして、これが1960年代という解放直後のアフリカの作家たちの意志表明である点に注目したい。支配され、言語を押しつけられる側から、この言語を飼い馴らし、それを白人たちには不可能な形で豊かにすることで、「主従関係」を覆そうとする主体的な意図が感じられる。そして、実際にこれらの作家たちは、それを成し遂げたのであった。フランス植民地でも、セダール・サンゴールが詩によって、本国知識人たちを脱帽させている。
 しかし、これに対して、ケニア人作家・大学教授のグギ・ワ・ジオンゴは、次のように異議を唱えた。
 「なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにするために自分の母語を絞り出す仕事にそこまで脅迫されなければならないのか。」
 そして、1977年、当時すでに国際的な英文学作家だったジオンゴは、突如として英語での創作活動を放棄し、ケニアの一民族語にすぎないギクユ語での創作活動を開始する。なぜだったのか。
 今、ポルトガル語を公用語とするモザンビークにいる。そして、アフリカ人学生のポルトガルで書かれた詩の朗読を聞きながら、ジオンゴの問いの重さを噛みしめている。なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにしなければならないのか、と。

■第九回 英語を捨てたグギ・ワ・ジオンゴ
世界的な英文作家のだったグギ・ワ・ジオンゴ(ケニア出身、大学教授)は、1977年にケニアのギクユ語で農民とともに舞台劇『したい時に結婚するわ(Ngaahika Ndeenda)』を創作する。独立後の政治指導者たちが腐敗していく様子を痛烈に皮肉る一方、農民が結束して権力と闘う様子を歌や踊りで表現した作品であった。農民から「遠い」英語ではなく、誰もが理解し、しかも民族独特の哲学や倫理を深く宿したギクユ語での劇は、またたく間に評判を呼んだ。それは、この劇が「一民族語のプロモーション」を超え、文化活動を通じての政治参加という新しい社会運動の可能性を示した巻き起こしたからであった。
 「権力者の言語=英語」を使わなくても、生活の言語を使って政治参加し、政治的な意志表明が出来る。『したい時に結婚するわ』は、誰もが政治に参加できる道を切り拓いたのである。だからこそ、危機感を持ったケニア政府は、民衆を扇動した罪で政治犯としてジオンゴを最高治安刑務所にぶち込んだのであった。この刑務所の独房の中で、ジオンゴは英語での創作を止める決意をする。ジオンゴは語る。
 「白人の言葉を学んだ者はだれもが、いなか者である大多数の者とその粗野な言葉を軽蔑し始める。選び取った言葉の思考方法と価値観を身につけることによって、彼は自分の母語の価値観から、すなわち大衆の言葉から疎外されるのである。つまり、言葉とは、民衆によって造られる価値観を、時代を越えて運び伝えるものなのである。」
 あれから35年以上が過ぎてなお、70年代のジオンゴの問題提起はアフリカ中では有効な意味を持ったままである。確かに、公用語である英語や他の西洋フランス語、ポルトガル諸語を使いこなす人の数も増えた。ヨーロッパの「本国」作家以上に活躍するアフリカ人も増えている。しかし、圧倒的多数の民衆にとって、依然これらの言語は「権力者の言語」のままである。勿論もちろん、同じ国の中に十も二十もの民族語がある現状において、これらの「公用語」の果たすべき役割は大きい。その前提でしかし、ジオンゴのいうように、「われわれの言語の再発見と奪還を求める声」に耳を傾ける必要がある。
 そして、それはアフリカに留まらない。日本でも、「方言」、「少数言語」の地位と役割を考える上で有効な視点なのである。「なぜアフリカ人作家は、他者の言語を豊かにしなければならないのか」「なぜトルストイがしたように国民文学を創造できないのか」というジオンゴの問いは、問われ続けなければならないだろう。
 そして、グローバル化した現在の世界における英語の地位上昇もまた、国際関係内での権力関係を反映している。現在の日本においても、ジオンゴの問いは日本でも有効なのではないだろうか。
by africa_class | 2012-03-28 21:46 | 【記録】原稿・論文

一挙掲載月刊『英語教育』連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」(その1)

今日はかなり原稿が捗らなかった日なんですが、共著本『現代アフリカ
と国際関係』の担当章の骨子は出来たので、ヨシとしなければなりませ
ん。そして今、今年度の研究成果をとりまとめ中・・・がしかし、あんなに
書き散らしたのに、コラムや巻頭言・・・ばっかりでした。研究成果には
到底なりませんね~。でも一般に向けた発信が2011年は何より重要
だったので、これもヨシとしておこう。(あっ、英語本先月出版したのでし
た・・すでに遠い昔・・・のよう。)
 すでに「斑(まだら)脳」状態なので、今年1年間書き散らしたものを、
このブログでも一挙投稿しておきます。(すでに紹介したものもあるの
ですが、すみません。記録ということで一挙に再掲しておきます)
 まずは、去年1年間追い立てられた連載コラムの紹介。文字通り、
ドイツに、アフリカに、追いかけてきた・・原稿。
 全国の英語の先生(中高大)が読む月刊誌『英語教育』(大修館)の
「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」というコラムなんですが、
丁度1年が終わったので、全部掲載できます(最新号でなければ掲載
OKということなので)。
 そして、このコラム。書店や編集者の予想を裏切り(!)、読者アンケ
ートで好きなコーナーの上位に選ばれたそうです~。(英語の先生たち
への「挑戦状」として書いたので<今明かす!>、何故かは不明です
が・・・あまりに突拍子もなかったからかも。。。)
 なお、紙面に掲載されたものはワードでないので、提出原稿です。校
正が十分入っていない文章であることを予めお伝えしておきます。本物
については、次のサイトをご覧の上バックナンバーをご注文下さい。
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『英語教育』2011年1月~2012年1月
連載コラム「アフリカの中の英語、英語の中のアフリカ」

http://www.eigokyoikunews.com/store/eigokyoiku.html
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舩田クラーセンさやか(国連PKO活動等に参加後、2004年より東京外国語大学でアフリカについて教える。英語・ポルトガル語・スペイン語・関西弁、そして怪しいドイツ語・マクア語を話す。)
 
■第一回アフリカの中の英語
この新コーナーのタイトルを見て、皆さんが最初に思い浮かべるのは何だろう。「英語の中のアフリカ」といえば、英語に取り入れられるようになったアフリカ起源の言葉や表現の紹介となろうか。例えば、なぜか日本語だと思われがちな、Okra(オクラ)など?では、「アフリカの中の英語」は? 
おそらく、本誌の読者の多くが首をかしげていることだろう。そもそも、アフリカ人の話している「あれ」は、「英語」なのか…ピジン英語に違いない、と?なにせ日本から「遠いアフリカ」である。英語の達人の皆さんであろうとも、アフリカ21カ国の公用語が英語だという事実をご存じないかもしれない。しかし、世界で最も多く英語を公用語とする国が集まっている地域、それはまさしくアフリカなのである。
「そんなことを言っても、実際そんなに使われてないんでしょ?」とのご指摘は、当っていて、その実そうでもない。確かに、人口の6割が農村に暮らす多くのアフリカ諸国では、公用語と指定されていても英語が普及しているとは言い難い状況にある。しかし、あなどることなかれ。公用語が英語ということは、街で見かける標識、お役所の書類から国営放送や新聞、高校や大学での教育言語まで、すべて英語なのである。つまり、都市に居る限り、英語は他の国と同様、普通に使われている。
 ということで、本連載では、これまでナゾに包まれてきた「アフリカの中の英語」を、徐々に明らかにしていきたい。ただし、「そんなことを知って何の役に立つんだ」という方もいるだろう。そんな皆さんに是非お伝えしたい。それは今、世界のビジネスシーンあるいは国際会議の最前線で話される「英語」は、もはや日本で学ぶような米国か英国の英語ではないということを。名古屋で開催された世界生き物会議(COP10)で見られたように、「途上国」出身者が、それぞれの訛りのそれぞれの英語で堂々と演説するのが当たり前の時代なのだ。「英語のグローバル言語化」が進んだ結果、英語の多様性が進み、国際交渉の現場では多様な英語は日々の現実。どんな訛りであっても、その人が言わんとしていることを正確に掴むことこそ、求められている。その観点からすると、「アフリカの英語は英語じゃない」などとは恥ずかしくていえない21世紀である。
 では、「アフリカの英語」って?これについては、次回以降をお楽しみに!

■第二回 英語留学先としてのアフリカ
最近、英語留学先のひとつとして、アフリカ大陸を選ぶ学生が出てきていることをご存じだろうか。依然、数としては少ないものの、文科省の発表では、アメリカへの留学が減る一方、アジア・アフリカ方面への留学が増えているという。留学以外にも、企業やNGOへのインターンシップという形態でのための渡航を希望する学生も増えている。私のゼミ生も、ケニア、ウガンダ、ルワンダといった英語圏、エチオピアやモザンビークといった非英語圏で活躍中(あるいは活躍予定)である。
 長年アフリカにかかわってきたこの私にさえ、数年前には想像できなかった事態である。しかも、アフリカは物価が高く、決して「安上がり」というわけでもない。休学してまで行くとなると、卒業が遅れてしまう。それでもでは、なぜ学生はアフリカを目指すのか?
 それは、社会がもはや「英語だけ」ができるだけの学生を求めてはいないからである。世界は急速に変貌を遂げ、「欧米諸国&日本=勝ち組」vs「途上国=負け組」という構造ではなくなりつつあるのを、若い人たちは敏感に感じている。新興諸国市場への進出に焦る日本企業にとって、英語力は勿論のこと、サバイバル能力や交渉力を有した学生は即戦力として重要である重宝される。日本と同じ豊かな欧米各国への英語留学では、自己変革を余儀なくされるような経験に結びつきづらい。だから、学生はアフリカへ向かうのである。
アフリカ留学には、もうひとつ積極的な意味があると私は考えている。それは、「英語至上完璧主義」からの脱却である。おそらく、受験での挫折が影響しているのだろうが、私の周りには「英語が苦手」という若者が非常に多い。しかし、実際はみな結構英語が出来るのである。思いきって使ってみれば、あっという間に上達しそうなのに、知識はあるのに、使いもせず苦手だと思いこんでいるのである。もったいない。
 そんな呪縛から解き放たれるには、アフリカはとても良い所である。アフリカ人の大半が、バイリンガルどころか、4つ以上、人によっては8つもの言語を操るマルチリンガル。なんといっても、1500もの言語が話される大陸である。このようなスケールで考えると、日本でよく聞く「英語好き」か「英語嫌い」かなんて、なんと小さなことか。の狭さがはっきり見えるのではないだろうか?最終目標を「英語を極めること」に持っていくから、コンプレックスになるそこに行き着けないと駄目という気分になる。3つぐらいの言語の習得を目標としたら、「英語ぐらい」という気分にもなろうというものというノリも可能。そうなればシメたもの。呪縛から解き放たれ、もっと楽しい英語学習も可能かもしれない。
 ということで、若者よ、来たれアフリカへ。

■第三回インビクタス」~3・11後の日本に捧げる詩
今号の草稿を準備したのは、去年末のことだった。3・11が日本を襲うことになるとは夢にも思わなかった時期。そして今、日本が未曾有の危機に直面する中、これを書いている。日本の「インビクタス」たちのために。
インビクタス(invictus)は、「負けざる者」の意味。結核によって障害を負い、大きな挫折と苦しみを抱えながらも、詩の創造によって自らを奮い立たせ、多くの人を力づけた19世紀末の詩人William Ernest Henleyの詩に後から付けられたタイトルである。
 なぜ、これが「アフリカの中の英語」かと言えば、この言葉を現代に蘇らせた人物こそ、南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領だからだ。マンデラは反アパルトヘイト運動の指導者として、27年もの間、監獄に収容された。しかし、この詩を胸に、希望と不屈の精神を決して失わなかったという。そして、1994年、全人種参加の総選挙によって、大統領に就任する。「囚人から大統領へ」…不可能を可能にしたその秘密が、この詩であった。
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul 
(…) I am the master of my fate 
I am the captain of my soul.
神に感謝しよう
負けざる魂を授かったことを
我が運命を決めるのは我なり
わが魂を征するのは我なり (抜粋)
 この詩がさらに世界的に有名になったのは、去年公開されたクリント・イーストウッドの映画『インビクタス~負けざる者たち』による。映画では、黒人を抑圧し、自分を監獄に閉じ込めた白人たちを許し、人種間対立を乗り越えるため尽力したマンデラの姿が描かれている。
 運命に逆らうことはできないようにみえる。失ったものは元に戻らないかもしれない。しかし、「わが魂」は自分だけのもの。「その後」を決めるのは我々自身。
 3・11の前よりももっといい日本に。それこそ、マンデラから学ぶべきインビクタスの心と思う。We are the masters of our own fate.

■第四回 3・11後にアフリカからの届いたメッセージ
今回の震災後、世界中から安否確認や哀悼、そして励ましのメッセージを頂いたが、一番多くのメッセージを送ってくれたのがアフリカの人々だった。私にはそれは驚きだった。というのも、私の普段関わっている人の多くがインターネットへのアクセスを持たないからである。そんな友人たちが、震災発生後すぐにインターネットカフェに向かってくれたのだ。い、メッセージを送ってくれた。しかも、震災発生から3日以内に。
 メッセージは、カメルーン、ブルンディ、モザンビーク、ベナン、ルワンダ、ケニア、南アフリカ、ザンビアなどの国々からで、その多くが英語で書かれていた。半分は英語を公用語としない国々である。メッセージを一人でも多くの日本人に届けようとるため、英語で書いてくれた。
 これらアフリカからのメッセージにはある種の共通した特徴がみられる。「がんばろう」ではなく、必ず「心はそばにあるよ」という共感や「連帯」が表明されている点である。
 今まで、私は、研究や市民活動を通じて、アフリカの人々が苦難に直面したときに見せる思いやりや連帯を、目の当たりにしてきた。アフリカの歌の多重性のように、相手の心のひだに寄り添う人たちの優しさに羨ましさを感じ、力をあわせて苦境に立ち向かう連帯の姿に勇気づけられてきた。
 奴隷貿易、植民地支配、戦争、飢餓、貧困…そんな過酷な毎日を生き抜いてきた人々だからこそのしなやかな知恵(強さ?)。だから、「平和ボケ」の現代ニッポンで育ってきた私が、その仲間に入ることはあり得なかった。そばでそれを見せてもらって感激するだけだった。
 しかし、3・11を経て、アフリカから送られてきたメッセージを読み、私たちは今、彼らに仲間として招き入れられているのだと感じている。象徴的には、ベナンの友人ギュスターブのメッセージがある。
 「あなた方の歩む道のりを照らす力になりたいと望んでいます。そのことを是非記憶に留めてください。」
私たちは、今までアフリカに対して、何かを教える立場にあると思い込んできた。しかし、この複合的危機と苦難に直面して、私たちの歩む道のりを照らす進むべき道を示す力を持つのは、アフリカの人たちなんじゃないか…そんな風にも思えてくる。
 人は一人では生きられない。一国だけでも存在できない。我々は、結局のところ、他者に、社会に、世界に、大きな自然に生かされているのだ、と痛感する毎日である。
by africa_class | 2012-03-28 21:24 | 【記録】講演・研究会・原稿