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Lifestyle&平和&アフリカ&教育&Others

afriqclass.exblog.jp

2013年 11月 14日 ( 1 )

東日本大震災の被災地を訪ねて考える、「勝手な風化」に抗い、「共に食す」ために東北に通う意義。

フィリピン台風の被災者の皆さんにお悔やみ申し上げます。本当に、災害は止まるところがなく、胸が痛みます。子どもたちのことがとくに心配です。今どの団体を応援するかリサーチ中です。

少しご無沙汰しております。実は3月に再発していたPTSDが9月末に増悪化してしまい、厳しい毎日が続いています。我慢強いのが子どもの頃からの唯一の取り柄だった私も、自分の精神力でコントロールできる範囲を超えてしまっているようで、全体的にいつも調子が悪い上に望まない瞬間に症状が頻発するようになってしまい、頭の痛い毎日です。

さて、この間あの学会もこの学会も出張取り止め続きなのですが、なんとか東北の被災地に行ってきました。これは、他大学主催の国際交流基金の平和構築事業の一貫だったのですが、私のPTSDには比べ物にならない負担を抱えてらっしゃる皆さんの声を、今どうしても聞くべきだ・・・と思ったからだったのでした。また、一緒に行く予定だったアフリカの皆さんが、虐殺サバイバーであったり、何度もの災害と戦争を経験した皆さんであったこともありました。お医者さんまで一緒だったので、とにかく行ってみる。ダメだったら帰る・・・ということで皆と出発。

結論から言うと、行って本当に良かったです。
というより、行かなくてはなりませんでした。
身体がよくなったわけではないですが、今行くべきでした。

東日本大地震による震災・津波から2年半。
私は市民活動の方で原発事故の問題(特に乳幼児・妊産婦ご家族)に関わっていることもあり、時間・気力の関係もあり、なかなか震災・津波被災のことまで十分に取り組むことができませんでした。
http://fukushimaneeds.blog50.fc2.com/
福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクトFnnnP

あ、6月に放送された、NHK・Eテレ「ハートネットTV Our Voices “原発被災者からの手紙”」が再放送されることとなりました。是非ご覧ください。お母さんたちの心の底からの叫びに耳を傾けて下さい。手紙の全文は、次のサイトで。http://tegamifukushima.blog.fc2.com/
・本放送:11月27日(水)、28日(木) 20:00~
・再放送:12月4日(水)、5日(木) 13:05~

でも、兵庫県出身で、阪神淡路大震災の時ずっと半年間区役所で寝泊まりしてボランティアした身としては、気になっていたものの、顧問を務める「外大東北復興支援隊」のサポートをしているぐらいで、何もやっていないに等しい。今でもそうなのですが、とにかく2年半以上が経過して、マスコミにも報道されなくなってきて、皆さんどのように暮らしてらっしゃるのだろう、どのような気持ちでいらっしゃるのだろう、私たちは何をすべきなんだろう・・・そういうことを外から来た皆さん、自らも色々な苦しみを経験してきた皆さんと共に耳を傾けたい、と思ったのです。

「風化」・・・は、阪神淡路の時よりもずっと早いスピードで起きているような気がします。自分の中で勝手な「風化」をしてしまわないために、1年以上ぶりとなりましたが東北に向かいました。

ルワンダ出身NGO代表、マリ出身大学・建築家、モザンビーク大学関係者、アメリカ人医者夫婦・アメリカ人大学・建築家・日本のアートキュレーター・元国連緊急人道援助事務家・文化人類学者・・・・と私という不思議な10名のバスで陸前高田から石巻まで降りる。

今現在の陸前高田の街の風景。
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ここに沢山の命、暮らし、歴史・・・がありました。
それらが詰まった家や建物、賑わい、コミュニティ、それらすべてが流されてしまいました。残っていたものも、すべてが取り払われた今、私たちが「かつて」を感じるには、想像するしか方法がありません。自然だけがこの地を再構築している最中には。

私たちは目を瞑り、弔いながら、失われたものに想いを馳せました。

そして、遮るもものが何もなくなり勢いを増した風に吹かれながら、失われたものの大きさ、重さ、そしてその一つ一つのかけがえのなさに言葉をなくしていました。

何分そこにいたのかわかりません。最後は、私とルワンダのマリ・ルイーズが互いの手を握り合いながら、ただ祈っていた。彼女は、ルワンダの虐殺の時のこと、亡くなった多くの多くの人達、その光景を思い出していたといいます。そして、祈っていた。弔おうと。

彼女のぎゅっと握られた手に、その震えに、私は彼女の小さな身体に覆いかぶさっているあまりにもの多くの命と人と事柄の重みに、ただただ圧倒されながら、ただそばにいて手を握るということしかできない自分に、目の前の原野となってしまったこの場で命を失ってしまった一人一人のことを想像しながら、いつまでもそこに立っていました。

キリスト教徒である彼女と宗教を信仰しない私では、ここは大きなギャップです。悼む方法がない。でも、物心ついてからずっとしてきたように、会ったこともない名も知らぬ一人一人の確かにあった輝きに、お礼を述べるとともに、覚えていようとただ誓っていた。もっと何か方法があったのではないか・・・それは今でも毎日のようにふり返って感じずにはいられないもの。

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東北の沿岸部で私たちが圧倒的なスケールをもって感じたことは、このような大きな大きな喪失と、自然の恐ろしさ・強さ・大きさでした。
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その一方で、「あの日」のままあえて残されているいくつかのもの。
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私たちが、あまりに想像力がなく、あの惨事を勝手に風化させてしまうから、「思い出したくないから取りさってほしい」という地元の人達もいるというのに、残されるものもあるのです。でも、アフリカから来た皆さんの一言え我に帰りました。

「僕は2年前に原爆ドームと博物館に行って、あれほど人生において衝撃を受け、考えたことはなかった。人間のちっぽけさや愚かさ、そして恐ろしさ。原爆ドームを残すことは辛かったと思うけれど、人類のためによく残してくれた」

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暗すぎて写らなかったのですが、最後まで避難を呼びかけた若い女性職員がいた防災センターの骨組は、残されることが決まったそうです。バスの運転手さんも被災地の出身。夜遅くまで、一つでも被災したことの意味を感じられる場所を見せようと、本当に頑張ってくださいました。「何度も連れていくのは辛くないですか?」との質問に、「見てもらいたいのです。知ってもらいたいのです。忘れてほしくないのです」とおっしゃった運転手さん。暗くてその表情は分からなかったのですが、それが使命だと思ってらっしゃる様子が肌で感じられました。翌日に予定になかった石巻の別の被災地にお連れ頂いたのも、彼の提案でした。

「被災地観光」…そのように揶揄する向きもあるでしょう。あるいは、暮らしている人にとって、ちょっと来ては騒ぐだけ騒いでいなくなってしまう「観光者」は迷惑でしょうし、心の傷を深めることになるでしょう。本当に難しいところだと思います。(これについての私の考えは後の方に)

南三陸から南下する際にいくつかのコミュニティに立ち寄ったのですが、高台にあるその建物の下まで見渡す限り何もない状態。建物が根こそぎ流されたことが分かります。津波は、12メートルだったり、16メートルだったり、酷いところは22メートルだったり・・・で、人間や人間の建造物がどうやっても立ち向かえない規模のものだったこそが、その跡地に立つと身に染みてわかります。あんなに海は遠いのに、でも小高い丘まで行くことを躊躇ったら・・・あるいは、すぐに逃げようと思っても小高い丘などどこにもない現実。

小さな子どもを連れていたら、お年寄りを連れていたら・・・。
残された人たちのお話を聞けば聞くほど、そのことの辛さと無念さが心に迫ります。誰のせいでもない。大規模災害だったのだから、あるいは時間が経ったのだから・・・そんな言葉は何の気休めにもならないことが、よく分かります。

陸前高田の「みんなの家」
http://rikuzentakataminnanoie.jimdo.com/
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建築家の伊東豊雄さんらの取り組み。
http://www.wochikochi.jp/topstory/2012/10/minnanoie.php

でも、重要なのは「建築」「建築家」ではなかった。
大災害によって暴力的に、あるいは縦割り行政によって、あるいは人間関係によって壊れてしまった「コミュニティ」を、あちこちの残った色々な太さと色彩の毛糸を手繰り寄せるように、新しい毛糸も足して、編み続けた皆さんの想いと努力があって、「みんなの家」は「『みんな』の『家』」となったのです。

避難所や仮設の生活で「待ち」の状態にいるのは本当に辛いことだった・・・と皆さんおっしゃいます。阪神淡路の時よりもずっと酷い災害ではありましたが、どうしてあのプレハブの仮設住宅が、たいした改良もされないままに、またしても使われているのだろう・・・疑問に思うことは膨大です。そして、どこの被災地でも同じように、「あの人は私より被害はまし」「あの人は私より好い目にあっている」・・・・という互いへのやっかみが再びコミュニティを紡いでいくことを難しくしています。行政の仕切る仮設入居、防潮堤建設や高台引越し等の一つ一つの行政が、人びとの間を分断していきます。

自ら動いていくしかない場面が多いのに、行政の待ったがかかったり、行政から邪魔がはいったりと、ちぐはぐであることが、色々な人から繰り返し指摘がありました。その際たるものが・・・これ。

十数メールを超える、場所によっては22メートルの波が押し寄せた海のそばの土地に、盛り土を積んで12メートルカサを上げて、この上にマンションを建てるというのです・・・。岩手県内では、とにかくこういう工事が、あっちに一つ、こっちに一つ・・・・。凄まじい費用の建設費です。いつ終わるかもわからない。この工事の様子を眺めながら、被災した人たちが言います。「こんな膨大なお金と労力を使う余裕があるんだったら、コミュ二ティがこれ以上分断しないためにいくらでもやれることがあるのに・・・」。
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他方、高台を削って集団に移転する先を確保しようというコミュニティもあります。しかし、「もう遅いよ。若い人たちはもう都会の便利さを知ってしまった。このまま帰ってきて一緒に住んでくれたりはしない。学校にも慣れた頃だろうし。残るのは老人ばかりだ」という声も。
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でも、泣いてばかりいても仕方ない、行政を待っていても仕方ない・・・と女性たちは立ち上がり、自分たちの居場所を外部の専門家らと作り、こんなかわいい台所用のアクリルたわしをせっせと作って下さっています。1つ200円。私が買ったタワシの作家さん。お召しになっているセーターもブローチもすべて手作り。しっかりお化粧もされており、すごく刺激を受けました。外部からこうやって来てくれるのがとても嬉しい、と。
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モザンビークからのお土産。テーマは「家」。「みんなの家」にぴったりです。アフリカでの家族の大切さ。そして、「家族」という際の限りない広がり。「皆が家族」の意味を、改めて共に考えました。
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そして石巻の近くのお寺さんでお話を聞きました。
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海の目の前のこのお寺ですから、このような様子に。
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多くの方がお亡くなりになり、今この集落に残っているのは4名だけだといいます。他の方々は皆山の仮設住宅にいらしゃるといいます。でも、お寺がコミュニティがコミュニティとしてつながっていられる機会を提供しているそうです。お盆、お彼岸の行事の際は、皆さんが戻ってこられる。そして、地域に残る歌のお稽古を通して、定期的に集い、外からお客さんが来られると、皆さん楽しみにしてお料理を持ち寄られるそう。この前、イギリス人のご婦人が滞在した時は、まさにそれで、普段お化粧をされないお母さんたちが、ばっちりお化粧をしてこられたそうです。

すべてが流され破壊された時に、唯一残ったのがこれだったとおっしゃいます。両手がもぎ取られてなお、無事だった仏像に、お寺さんも、地域の人たちも、共に集う意味を深く感じてらっしゃるそうです。
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人は集うことによって力をもらいます。
集うための「場」をつくることは、それだけでもすごく重要なことなのです。そんな「場」を自主的に守っているのが女性たち。その女性たちが別れ際にこういってくれました。

「だから、今度来るときは必ず時間をとって、ご飯を一緒に食べてね」・・・住職のパートナーのマキコさんの一言。みんなの家のミキコさんの一言。「今度来るときは、泊まってってね。皆で鍋を囲んで、ビールを飲みましょう」。石巻のカズコさんは、急なお願いだったのに皆のためにお赤飯を炊いて待ていて下さいました。

共に食す。
アフリカ農村では、家族が家族である所以。
コミュニティがコミュティであることの原点はこれです。

寄り合い、共に食べて飲む。
共に悼み、共に泣き、共に笑う。
マリルイーズさんもそのことの大切さを、福島市内の月一の仮設住宅周りで実践してらっしゃるといっていました。ルワンダの御茶やコーヒーを飲んで、ケーキを共に食べ、ただ話す。

肩肘張らなくても、「お隣さん」だと思って、「遠い親戚」だと思って会いに行き続ければ良いのだと私は思います。何より、「被災者」「非被災者」であることは紛れのない事実ですが、「お互い様の人生の中の同じ人間」として。もちろん、岩手でお話しを聞いた際に、「無神経な都会の若者の無神経な言葉」に傷ついたり、がっかりしたり、怒ったりということがあるそうです。でも、それを伝えられるようになってきた。伝えたら本当にすっと分かるようになった・・・ともおっしゃっています。勿論、このようなことは徹底して気を付けなければなりませんが、若い人には若い人なりのチャレンジがあることは、皆良く理解してくださっています。

阪神淡路の時、何千人ものボランティアのコーディネートをしていたのですが、夕方のMTGの際にきまって、「せっかくボランティアに来たのに、被災者にありがとうと言ってもらえなくて残念」という都会の若者が一人はいました。その一言が連発されるようになった時に、私は、神戸市中央区の皆さんと被災した子どもの祭りを主催することにしたのです。勿論、それはバラバラの避難所、仮設に行ってしまい、寄り合いや地域の行事や趣味のサークルができなくなった皆さんが、顔をあわせ力をあわせて活動するための機会を創造するためでした。中止になった「神戸祭」を、震災以来笑わなくなってしまった、大人のふりをするようになってしまった子どものためのものとして開催するためです。でも、隠れた目的の一つには、「ボランティアが被災者の皆さんにありがとうという機会」を設けるためでもありました。

地元に伝わる踊り、音楽、料理。
そんなものを被災者の方々とボランティアが一緒になって子どもたちのために準備する。

「一方的にやってあげる」「一方的にやってもらう」関係ほど心苦しいものはありません。
「お互いさま」こそ、基本なのだと私は思うのです。

しかし、日本は「遠慮」が美徳ともされており、ここを見破るのはなかなか難しいことではあります。負担を強いているのではないかな・・・そういう不安も、復興支援隊にはあったようです。私はそういう気配りはとっても重要だと思います。でも、その一方で、「負担なら行くのを止めよう」というのは、違うのだと思います。

バスの運転手さんも、皆さんも、勿論色々複雑な想いを抱かれていますが、「私たちを忘れないで」とおっしゃいます。その「私たち」には、あの震災で失われた命も含まれていますし、今残って苦闘している皆さんのことも含まれていますし、この災害を出会いへの感謝に転換しようと努力されている方々も含まれます。

また、特に中央・東京にいる我々にとって、われわれが使っている電力のために何が起こったのか、何が起こり続けているか知らないわけにいかないとともに、東北の地震や津波の被災者の皆さんが置かれている状況もまた無関係ではありません。被災者の皆さんが、2年半が経過しても、このような暮らしを余儀なくされているのは、決して災害の規模だけでは説明がつかないからです。

中央部が、勝手に風化させ、終わったことにしてしまっているから。

だからこそ、私たちは通い続けなければならない。そして、そこに暮らす人たちと集い、共に食し、共に触れ合わなければならないし、彼らの話に耳を傾けなければならない。そして耳を傾けたことを発信し続けなければならないし、少しでも状況がよくなるように働きかけをしなければならない・・・そう考えています。

深く長く付き合う交流の輪を、一つでも、二つでも。
大切に。

PTSDになったからこそ、気づいたことでもあるのかもしれません。

東京に帰ってきてやったルカサ・ワークショップ。
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日本に暮らす3人のアフリカ出身者の考える東日本大震災と原発事故、そして現在の日本についてのトークショー(2013年11月4日放送 東京Ch 4)も是非ご視聴下さい。
http:www.iwj.co.jp 会員のみアーカイブ視聴可能
by africa_class | 2013-11-14 16:38 | 【311】東日本大震災