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カテゴリ:【徒然】ドイツでの暮らし( 20 )

日本で11歳まで前髪の向こうに隠れていた息子が、7年後にドイツの起業コンペで優勝するまで。

ブログをふと見たら、2011年7月(つまり8年も前)のブログ記事がトップにランクインしててビックリ。そして、当時「怒りの鳥」を描いていた息子の海が、いろいろな意味での自由を手にして「遠い」ところを楽し気に飛び回っていることを、皆さんに伝えないといけない気に駆られたのでした。

さようなら、日本の「普通教育」。シュタイナー学校に行くことになった息子と「魂の鳥」

https://afriqclass.exblog.jp/13063647/

兵庫の山々の懐の町で生まれ、4歳まで育った海。
その後引っ越した東京でも、ただの「海くん」としてノビノビと育った。

地元の公立小学校に入るまでは・・・。
入学式後の初登校の日、いきなり上級生から「ガイジン」と虐められ、教室に入ったら「アメリカ人」と呼ばれ、つい同級生を突き飛ばしてしまった。身体の大きな海の「とん」とひとつきで同級生がこけてしまい、担任から大慌てで電話。相手のご家族に電話して謝るようにいわれ、親も子もなんだかわからないままに、日本の学校生活がスタートしてしまった。その後は、いばらの道。

持ち物が少しでも他の子と違うと「学校に行きたくない」。
赤ちゃんの頃から大好きだった曲げわっぱのお弁当箱なんて、とんでもない・・・。
プラスチックのものが何一つない家に、どんどんアニメ柄のプラスチックのものが増えていった。
とにかく、「みんながもってるのと同じもの」を、「みんなと同じように」すべてを揃えないと不安で不安で、泣いてしまうほど。二言目には、「どうしてみんなの家と同じようにできないんだ!」とかんしゃくをおこし、「みんなと同じにどうして産んでくれなかったんだ」と。

みーんな違ってて、それがいい。

それを大学での教育理念にもしていた私の戸惑いは、とてつもなく大きかったものの、どうしていいか分からなかった。日本という環境の中で外国人ばかりが行く学校に通わせるのはどうしても納得ができなかった。まずは地域の中で育ってほしい・・・そう思っていたから。

4年生になるころには、父親はもとより極めて「日本のママらしくない」という私も授業参観に来ちゃだめといわれはじめ、前髪をながーく伸ばし始めて、顔全体を隠すように。外出しても、人に見られたくないのか、自分では絶対に注文をしない。とにかく、目立たないように、目立たないように息をひそめて生きるようになってしまった。こっそり行った授業参観で先生に指されると、蚊のなく様な声で返事をして、あんなにのびのびしていた子が・・・と人知れず帰り道に涙が止まらない。

私の中では、一刻もはやく違う環境においてあげないと、思春期で大変なことになると思ったものの、手が無い。日本のシュタイナー学校は満員でどこも新規に受け付けておらず、残る選択肢は中学校で国際的な学校に行くこと。でも、そもそも日本で育てるべきなのか・・・。そんなとき、サッカーに出会い、よい仲間に恵まれどんどん上達していったこともあり、いろいろなことを考えるものの、日々の忙しさに追われ、現状のまま流されていたのでした。

でも、サッカーですらゴール前にいてもボールがまわってきたらわざとパスを出すほどに気持ちの面で自信がない…。何度いわれても、同じ。ゴール前で譲ってしまう。みにきたお父さんたちの「あーーーー」というため息が流れる。毎度のこと。それでも、なんとかFC東京のジュニアテストに合格して最終試験を小平に受けにいったその日に、東日本大地震が。

運命とは不思議なもので、あの地震は海の人生の方向性をガラリと変えてしまった。

日本で育つこと。
サッカー選手になる夢。
そして日本代表となる夢。

2011年4月、震災と原発事故を受けて、一旦ドイツの学校に「留学」することになった息子。
半年ごとに日本に戻るかどうかを話し合い、結局、それから8年が経過してしまった。

ドイツに行った時は小学校5年生。ドイツ語の読み書きがまったくできなくて、宿題が何かすら分からないで毎日通った学校。もう何年も経った後に、「あのとき毎日日本に帰りたくて、来月こそは帰られるかなって願ってた」と教えてくれた(涙)。そんな本音もいわないままに、読むことも書くこともできない言語と格闘した。かなしくて爆発したことも一度や二度ではなく、私が東京に残って大学の仕事を続けたこともあり、寂しさもあって、とにかく心は荒んでいたと思う。

飛行時間12時間の遠距離の家族の時間のために、お金も気力・体力もすべて使い果たしつつ、2,3ヶ月に1度ドイツに向かった私のカバンにはいつも日本の教科書やドリルが入っていたのだけれど、あるきっかけでそれも捨ててしまった。

家族で近所のイタリア移民がやっているレストランに食べに行ったときに、息子が全員分のオーダーを率先してとって、店主に伝え、おばあちゃんには氷なしの水、自分には氷ありのジュースなど細かい点までお願いしていたのを見たから。確か、ドイツに行って10ヶ月も経っていなかったと思う。そして、その瞬間まで気づいていなかったのだけど、息子の前髪は見事に短く切りそろえられていた。

あのときの静かな感動は、一生忘れないと思う。

日本で私の後ろに隠れて、自分の食べ物もオーダーしたがらなかった息子が、誰にも言われずに皆のオーダーをとってくれている。その翌週、息子の学校に出前授業に行ったときのこと。日本なら絶対「はずかしい」といって反対されるのが、何もいわなかった。すべて英語。子どもたちはそれなりに理解してくれて、「どうしてか分かる?」と聞いたとき、数名の子どもたちが手を挙げたのだけど、その中に海がいたことにビックリした。そして、あの日本の授業参観での蚊の鳴くような声と違って、大きなはっきりとした声で自分の考えを述べてくれた。

18名のクラスメートには、いろいろな障害をもった子どもたち、里親の家から通っている子たちもいて、海は「特別」ではなかった。絵を描くと、それぞれが個性を発揮して、それぞれが美しい。

「みんなちがって、それがいい」

一年生から12年生までが一緒に活動をして、互いに助け合う。
自分の考えを尊重してくれる社会、学校、先生、クラスメート。
そんなところで、海は、徐々に「自分が自分であってそれでいい。人と違っているのが当たり前」の空気の中で、自分らしさを発揮するようになっていった。

日本を離れて3年後、クラスの劇を仕切る彼がいた。
みなの分の台詞を覚え、覚えられない子のそばで囁く。
依然としてドイツ語の文法は間違えていたらしいが、そんなことも気にしなくなっていた。
勉強が不得意と思っていたのに(実際7年前のブログにはそう書いてしまった)、いつの間にかクラスで一番の成績となっていた。いったい全体どういうこと?!?!?不思議なことに、サッカーでも、日本ではフォーワードを嫌っていたのに、喜んでゴール前に立つようになった。ほとんどマジックをみている感じだった。

それほどまでにself-esteem(自己肯定感)が子ども・若者の成長に重要だったことを、改めて教えてもらった。つまり、人は「できない」といわれるよりも「きっとできる」と励まされたほうが大きく伸びるということなのだった。また、「あなたはだからダメなんだ」ではなく、「あなたはあなたでいい」と受け入れてもらったときに、どれほど安心し、自分で歩むようになるかも。

私は幼少期に暴力を受けて「お前はダメだ」と繰り返し繰り返しいわれて育ったために、このことは体感してたし、いつも息子には決してネガティブな表現は使わず、まずは受け止める、そして必ず褒める、必要に応じて時間と空間を切り離して「あのときのことだけど、どう思う?』というにとどめてきた。父親もドイツで「褒めて育てられた」人だから、当然家庭内では絶賛「褒める」。褒め過ぎちゃうか・・・と思うぐらい、褒める。でも、日本社会や子どもが大半の時間をすごす学校・先生の影響の大きさまでは、分からなかった。むしろ、家庭内と外のギャップに、彼なりに戸惑い、苦しんでいたのかもしれない。

ドイツでは15, 16歳で仕事を始める子も多い。
クラスメートが次々に職人や職業訓練の道を歩み始めるのを受けて、海も自分の将来のことを真剣に考え始めた。なにせ自分のお小遣いを自分でつくり出すために、12歳でキャンドルを売り、14歳で木工品や家具を売り、16歳で写真を売る子。当然の成り行きというか、「起業」しか頭にない。ただ一応大学にも行くつもりで通信教育を受けながら、起業に向けて準備を始めた。

15歳になるころには、学校給食がまずいからと、前夜にお弁当を自分でつくり毎日持って行くようになった。(私は彼が自分でやりたいと思うことは、自分で責任をもってやることを教育方針としていた)。2歳のころに包丁をプレゼントして以来、一緒に料理や味噌・豆腐・梅干しづくりなどしてきたせいで、料理への関心は高く、いずれは「フード」の世界に行くと決めていた。そして、16歳の秋、わざわざ独りで日本に戻って、2週間にわたり居酒屋やレストラン、フードトラックで研修を重ねた。ドイツでは日本食だといくらでも儲けられると考えたそうな。(甘いな・・・でも口に出さなかった。自分で考え、自分で行動するのであれば、どんな失敗も肥やしになるから。)

卒業式の前週、卒業制作発表会があり、フードトラックの発表。
なかなかよく出来た発表とはいえ、これでビジネスになるんか・・・と突っ込みたい。とくに、そのトラックのお金どうするん?という点について。それについては、「へへへ」と誤摩化したまま、友人とともに卒業旅行と称して、シベリア鉄道3週間の旅に出てしまった。

戻ってきて、友人は大学進学のための学校に行くが、通信教育の海はなんにも動かない。
どうやら学校が終ってあまりにあまった時間を、映画やビデオをみて浪費している。それまで一切してなかった携帯ゲームにまで手を出している始末。朝はお昼まで寝て、夜ごそごそ。友人も彼女も学校に行ってる間は寝てて、彼らが戻ってきたら遊びに行ってしまう。。。時間は山ほどあるくせに、学校に行っていた時以上に部屋が汚い。ゴミもまともに捨てず、床の上に散乱している・・・。

これがあの生活態度が乱れるというやつか・・・。
昼夜逆転というアレ?

親としてはかなりの忍耐が必要な状況に間違いない。
連れは心配になって、私に指導するようにいうのだけど、私の教育方針はさっき書いたとおり「自分で気づく、考える、行動する」。とはいえ、さすがに一言二言いわなくてはならない状況になってきた。

昼頃起きた息子のベットの横に座る。
「海くん、丁度半年前、あなたの卒業制作発表会に出て、それから卒業式に出て、ああ、これから限りなく広がっている人生の道をあなた自身が自分の力できり拓いていくんだね、って眩しい想いでみてた。いまでもそう信じてるけど、それでいい?」
「いい」
そういうと、「もう出てってー」というので、そっとドアを閉めた。
ドアの向こうからは、携帯ゲームをしている様子がわかった。
でも、もう何もいわなかった。

それからほどなくして、「このレストランどう思う?」と聞かれ、日本食のレストランのサイトを紹介された。とってもポリシーをもってて、いわゆる「日本食」っぽくない店でいいね、と言ったら、「すぐにバイト始めたい」といって、履歴書やら志望動機書やらを作るから協力してくれといわれて協力した。その週にバイトは始まり、電車で往復3時間かかる距離を週に3回通いつつ、サッカーも自分の年齢のチームとトップチームの掛け持ちを始めた。

きっと私の日本の家族なら(まずはネガティブからはいる・・・)、「でもバイトだよね、プロではないサッカーだよね・・・」というコメントをいってしまうと思う。そもそも通信教育の勉強もちっとしかしてない。でも、相変わらず昼まで寝て、トモダチに彼女にバイトにサッカーに忙しい。でも、彼がドイツ社会のなかでようやく自分が必要とされ、居心地のよい場所(仲間)をみつけた嬉しさが感じられたし、その感じをトコトン味わう時期があっても良いのかもしれないと眺めていた。そもそも、彼がぶらぶらしているからといって、近所や親戚や友人の親や友人が何かをいうような社会でもない。

人それぞれ。
それぞれが考えてそれぞれの道をそれぞれのやり方で歩む。

とはいえ、半年以上続くので、父親はジリジリし始めた。
でも、人生のなかで迷子になったり、迷路にはいったり、遊びにはまったり、そういう時期ってあるし、そもそも親からして「まっすぐな一本道」どころか「曲がりくねって、途中で終ってて、そこで倒れたままじっとして、また道を歩き始めた」(私)りしてる中で、子どもに「これが正しい道」だなんていうのはダメだよね・・・と確認しあった。(そもそも親自身が自分たちの不仲で、子どもを振り回して生きてきた。)ただし、お金はもうちょっと稼いでほしいね、と。自分で食べるもの、遊ぶお金ぐらいは、自分で稼がないと・・・。そもそも、自分の車だって自分で働いて買ったし、親が買ってあげるのって違うんじゃないか、というとどうやら父親の方でもちゃんと「債務通帳」をつけているのだそうな。さすが・・・ではある。

そこからさらに数ヶ月。ついにクリスマスがきた。
なぜかドイツではお正月ではなく、クリスマスに翌年の抱負をのべる。
息子いわく、「いろいろ考えていることを行動にうつす」と。
しかし、クリスマスが過ぎて、年末年始の旅行が終っても、行動に変化がない・・・。
さすがに、これはまずいのではないか、そう思ってた矢先、突然、友人と起業コンペに出るから写真を撮れという。

ふーん。
撮ってあげてもいいけど、いい加減な調子だったらお金とるよ。
いや本気だから。
本気って、どうやったら分かるの?
だって、すでに550名の予選を突破して、最後の16人に残ってるから。
ぎょ。。

思わす「遊んでたんじゃないの?」との質問を呑み込んだ。

そうなんだ。
で、この写真は?
会社のホームページに必要だから。
ぎょ。。

「ビデオみてたんじゃなかったんだ」のコメントも呑み込んだ。

書斎に来てといわれて汚いからいやといったのだが、入ってびっくり。
ゴミやあれやこれやは散乱していたものの、片面はきれいになっていて、ポストイットが壁中はられてあって、もうスポットライトなどが準備されていた。ニヤット笑う息子と友人。

このゴミも写すね、と憎まれ口をたたきながら、なんだか嬉しさがこみあげてきた。
最初から決めてたとおり、彼らに任せていいんだ、と。
このコンペの結果がどうであろうとも。

二人は準備したプレゼンを見せてくれた。
なんのビジネスプランと思ったら、たしかに「フード」分野であるものの・・・・「虫」だった。
ぎょ、ぎょ。。

アフリカでは「虫」を食べる地域が多い。
でも、私は食べない。
肉を食べないけど、虫は食べない。
魚は食べるけど、虫は食べない。
そんな私の前に現れた「虫フード」。。。

ニンマリと笑う二人。
それから二人は毎日集って、虫を育てるために地下室を改装し、虫を育て、プレゼンを作り、試作品を作り、原稿を作り、メンターとスカイプしながら、準備を進めていった。なんのコンペかもよくわからないが、とにかく見守る。何もいわず、「後片付けしなさーい!」と二人に檄を飛ばしつつ、見守る。

相棒のフィンは学校に通ってる。親は彼に大学に行ってほしい。学校も休まないでほしい。でも、本番が近づくにつれて準備が間に合わなくなって学校を休みがちになる。それでも、フィンの両親もフィンには一切何もいわない。自分で考えて判断しろ、とだけ伝えていると。お母さんに聞いてみると、色々考えることもあるし黙ってるのは辛いけど、自分で決めることだから、と。さすがである。

そして本番前日。
私は出張でバルセローナに。
彼らは始発電車で開催地へ。
まあ、がんばってね。きっと上手くいくよ、と適当なメッセージとともに。

この時点では、なんのコンペかも、何もしらず、まあ人生には一生懸命なにかに打ち込む瞬間が重要だという程度だった。失敗はどんどんすればいい。挑戦が重要、と。

その日、バルセローナで美味しいレストランでたらふく食べ、酔っぱらって地下鉄に乗ってると、興奮気味の父親から携帯に連絡がきて、「どうやら優勝した?みたいなんだけど・・・連絡あった?」と。「ない」。「電話つながらないんだ」。「そりゃ優勝したらつながらないから、ほっといたら?」。ほっとけない父親は情報を求め私にかけてきたという。さすが熱血親父。本当はコンペ会場に行きたかっただろうに、ぐっと堪えた。もう18歳の息子、両親がうろうろなんかしてはいけない。たった独りで世界にチャレンジすべきだから。そこは、さすがに理解したようだった。(かろうじて)

電話を切ってから、なるほど。人生の歯車というのは、ふしぎなものだと感慨にふけっていると、息子からたった一文メッセージが飛び込んできた。「Wir haben gewonnen!(勝ったよ!)」

狐につままれた感じだった。
いまでもそうだが。

コンペはドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲン社がはじめて開催する19歳以下の若者の起業ビジネスコンペ(X-starters)だったことは、ずいぶん後になってから教えてもらった。そして、それ以降、優勝の賞品である起業までのコンサルティング(200万円相当)を受けつつ、起業に向けて急ピッチで準備をしているところ。

まだ18歳。
まあ、失敗もするだろうなーと眺めてる。
でも、それも含めて、それでいいと思う。

自分で考え、自分で動き、(そして止まり)、この間にも、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしているが、彼は彼の人生の道を自分の足で歩いているという実感をもって一歩ずつ進んでいる。もはや、「国籍が」「出身が」「ドイツ語が」「日本語が」「親が」「学校が」・・・ではなく、「ぼくが」という主語で一日、一日を生きている。

部屋は相変わらず散らかったままだし、朝も遅いが、いつか自分で変わるだろう。
(いや、もうひとりの親をみてたらダメかもしれないが・・・それで死ぬわけではない、と思いたい。)
もう成人(ドイツは18歳で成人。16歳で地方選挙の参政権があり、お酒が買って飲める)。
彼は彼のやり方で彼の道をいく。
その背中を、これまで以上に眺めるだけになるんだろう。

もし、彼の活動に関心をもっていただいたのなら・・・以下、ぜひのぞいてみてください。
ほとんどドイツ語ですみません。
あ、そして「虫さん」たちは、だいじょうぶですよ〜。
まだ主役でないので。

■フォルクスワーゲンが作ったプロモーション動画
https://www.youtube.com/watch?v=eckzE3WO3qw

■彼らの会社Entorganicsのホームページ
https://entorganics.com/

■インスタグラム
コンサルに1日1レシピをアップするように言われてアップしてる写真
https://www.instagram.com/entorganics/


もちろん、彼は成功したわけでもなんでもなく、一歩を踏み出しただけ。
しかも多分、大失敗は織り込み済みで。
でも、彼はもう前髪のおくに隠れていない、自分の考えをもってそれを自分の言葉で表現し日々人々と関わりあっているという点で、もう心配していない。何より、彼の人生だから。


日本では、「おかれた場所で咲きなさい」という本がよく売れたという。

でも、私は全力でいいたい。
「咲けない場所からは逃げて、咲ける場所で咲くのも一つの選択肢だよ」と。

彼の話から、「あなたはあなたであっていい。あなたは違っていい。違っていることにこそ、あなたの可能性が潜んでいるかもしれない」、ということを、日本の若い人が少しでも頭の片隅においてくれればと願っている。


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彼に庭の写真を撮ってといったら、こんな感じの写真がたくさんきた。
なるほどーと。


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庭の隅々への愛が感じられる。写真をとおして、感じられて嬉しい。

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完全に野草だけど、私たちの冬の間の重要なサラダな。

*子育てという言葉はキライだけど、誰かのところに届くようにカテゴリに入れます。


by africa_class | 2019-06-04 20:09 | 【徒然】ドイツでの暮らし

癌になって自分から解放され、お花が好きになった話。



癌(がん)に感謝している。
というと、みなどう言葉をかけていいのか分からないためか、沈黙してしまう。
そんなときは、気を遣わせて「ごめんなさい」と思うのだけど、いまのところは1%の迷いもなくそう思っている。

もちろん、わたしの癌が早期に発見されたもので、いまのところ再発していないからという点には注意が必要。この先、再発や転移したときに、同じように言えるかはわからない。また、癌で苦しむみなさんや、そのご家族には、傷つけるような表現かもしれない。そのことは、本当に申し訳ないと思う。でも、日本では驚くべきことに2人に1人が癌になる時代になった。こういうサバイバーもいるのだということを伝えておくのも重要なのかもしれないと思う。

わたしとしては、いまは本当にそう思っていて、そのことを口にしても、話し相手の方が皆びっくりしてしまってあまりこの会話を続けられない場面が多すぎて、深いところまで話せないことが多いので、ブログで少しだけ紹介したいと思う。

いまでも覚えているのは、癌の部位を切り取った手術のあと、はじめて外出して、駅から実家の5分ぐらいの道を歩いていたときのこと。

丁度1年前のある夕方。まだ太陽はやさしく顔を出してて、でも少し湿った夕方の空気が辺りを覆っていた。普段は駅に向かって、あるいは実家に向かって、早足で歩くのだけど、未だ手術直後とあって早歩きができない。とぼとぼと手術跡の痛みを気にしながら歩いていた。身体や空気の重さと違って、心は頭上の太陽のように晴れていた。悪いものを切り取ってもらったことへの嬉しさというのか。普通は、腰が痛くとも肩が痛くとも、そこを切り取ったりはできないので、なんだか清々しい感じがしたのだった。

ふと、外科医だった父が町医者になって、人の身体をきったりぬったりできなくなって、代わりに蘭をきったり移植して喜んでいた後ろ姿を思い出した。父は鉢植えの植物でも、少し枯れたり病気になった葉っぱを丁寧にとるのが習慣になっていて、そうやって悪いところが出るときちんと取り除けば、植物は新たに再生してくるということを経験上も実感していたのかもしれない。

といっても、人の身体・・・指を切り落としてしまった後に新しい指ができるわけではない。その意味で、植物はすごいな。自分の力で悪い部位を枯らせることで身体から振り落として、新しい莟に全力を集中しようとするなんて。そう思いながら、なにげに、近所の庭に目をやった。高齢者の家が多いので、若い世代と同居している家とそうでいない家の庭の違いが激しい。

私の目が止まったのは草ぼーぼーの庭。

そもそも私はドイツで「edible garden+forest(食べれる庭・森)」を目指していて、以前の住民のイングリッシュガーデンがとにかくストレスだった。計算された美しい庭。でも食べられない…。なので5年をかけて少しずつ食べたり飲んだりできる、自然が勝手に循環する庭を目指してきた。そのプロセスで「花」はあまり重視してなくって、ぶんぶんとんでくるハチたちが喜んでくれればそれでいいかな、ぐらいだった。もちろん、きれいだなーと見とれないわけでもないし、花の咲くこの時期は庭中すばらしい香りが立ちこめていて、「落ち着くな」と思ったものの、なにか心の奥まで浸透しない感じがあった。どうせなら「花は花」でも、「食べられる花」をと思って、Edible Flowersをせっせと増やしてる。庭のバラもアジサイは剪定も大変だし、ああ面倒・・・という気持ちが先走る。

そんな「食べられない花」に関心のなかった私が、ふと駅からの帰り道、近所の庭の隅っこで静かに咲いている小さな花をみて、雷に打たれたように感動してしまった。

なぜかは今でも分からないのだけど、「なんてきれい」と思わずつぶやいていた。
そして次の瞬間、「生きててよかった」…という気持ちが全身を駆け巡って、へなへなとその場に座り込んでしまった。手術の前も、手術台にあがるときも、そのあとも、全然そんなことを想いもしなかったのに、手入れもされないままに地べたに咲く小さな花たちをみただけで、「まだ生きてる」ことの素晴らしさに大きな声で「ありがとう!」と言いたくて仕方がないほど、心が動かされた。

そして次に思ったことは、「でも命は永遠ではないのだね」ということだった。
花の命が短いように、私の命ももはや終わりを想定しないといけない年齢でもある。
「今回はセーフだったけど、いつまで生きられるのか分からない」
その瞬間に、泣けてしかたなかった。
「生きててよかった」と思った瞬間にやりたいと思ったことが次々に映写機でうつすように現れたから。
それが一つも出来ないままに人生が終ってしまう可能性を知ったから。

ほぼ50代とはいえ一応まだ40代。
まだこれから、と思ってた。
でも、違っているかもしれなかった。
もう残された時間はそんなに長くないのかもしれない。

その日以来、
私の中の何かが変わったように思う。

他者からみた私は私らしく自由に生きているように見えるかもしれない。
客観的事実だけを並べてみれば、それはそうだろう。
でも、私は物理的な部分はそうかもしれないけれど、時間の面ではまったく解放されていない現実がある。自分の1日を色々な理由で自分でコントロールできない状態がドイツに行ってからもずっとずっと続いている。また、私の中には未だ未だ解放できていないオドロオドロしいものが沢山あって、それをなんとかしなければならないと頭で分かっていてもどうすることもできないできた。

大学での事件によるPTSDが誘引したとはいえ、そういうものが一纏めになって私の心身に覆いかぶさって包み込まれている感じがずっとあって、その結果、思考にも霧のようなぼんやりとした膜がかかっている状態だった。そして、やらなくていいことに手を出してしまう癖もまたここから生じていることも知っていた。なにより、自分を愛することが大事と他者に伝えているくせに、自分はちっとも自分のことを受け入れられてないことも薄々わかっていた。でなければ3年も布団のなかで生活したりしない。その後遺症というか、未だ完全に完治していないこともあって、人前でしゃべるとか人と接触することもまた、大きなストレスで、このまま一体どうなるのか・・・と不安に思わないことも多々あった。(他の人からみたら「うそ!!」と思うらしいが、数人のグループとのスカイプ会話でも、あとで3時間ほど疲れて寝込んでしまう状態だった)

それが、その帰り道に花を見て、「生きててよかった」「でも後どれぐらい生きてられるか分からない」と思った瞬間、すっと自分の中から消えていくのを感じたのだった。

具体的に何が消えたのかよく分からないのだけれど(そして全部消えたわけではないのだろうが)、羽根が生えたように心が楽になって、もうこの先はあれやこれやの小さなことを気にするのではなく、「生きててよかった」を軸に残り少ないかもしれない人生を生きればいいのだと思ったときに、スキップしたいほどの喜びがお腹の底から突き上げてきた。

そう思った瞬間に、人が恋しくなったのも不思議な体験だった。
家に急いで戻って、家族に「ありがとう」と伝えたくなって、それ以降は出逢う人出逢う人に「ありがとう」という気持ちでいっぱいに満たされるようになった。一方、「ありがとう」を受け取れない人には、もう前みたいに努力しなきゃと思うことすらなくなってしまった。あるいは、相手がどう思ってるかに、あまり気を使えなくなった・・・というか、まったく気に出来なくなってしまった。

そして、前からしていたこと、あるいはコレからやろうと思っていたことで心が躍らないものは、もうきっぱりあきらめる整理がついた。また今度書こうと思うのだけれど、大学の先生に戻ることも(前から決めてたけど)、アフリカ研究もやめることにした。そして、その他のいくつかのこともやめることにした。

研究でも活動でも人生の大先輩である80歳を超えた吉田昌夫先生から、「あなた、あれもこれもヤメるって簡単にいうけど・・・」と何度もいわれたけれど、私にとって「ヤメる」というのが、新しい何かを生み出すためにはとっても大切なことなんだと、いつか理解してもらえる日がくるようにがんばりたいと思う。

つまり、その日以来、私は心のもちようとして、かなりワガママな人間になった。

もちろん、移行期をちゃんと設けるのだけど、もう私の中でははっきりと答えが出てしまったことについては、後戻りしないだろう。かといって、責任をすべて放棄するという話ではなくって、そこは時間と手間をかけていくしかない。でも、残りわずかかもしれない人生において、本当に大切なことを見極めて生きていこうと心に決めたのだった。

その大切なこと、は私にははっきりしている。
前からずっとはっきりしてたのだけど、それに溺れることを自分で許さなかった。

独りよがりかもしれないけど、もう何十年も他者のためにがむしゃらに生きてきた。この間の書評会のレジュメでその長いリストを紹介したのだけど、リストにすることすら、思い出すことすら逃げたいほどだった活動の数々が書けたことに、まずは安堵した。それほどの重圧を自分に与えながらやった活動の数々。その間にも研究も家族も仕事もあって、今となってはどうやって生き延びたのか皆目不可能。だから癌にもなるんだな、と自覚した。もちろん、他者もまた私を生かしてくれたのだった。でも、それも含めて、もういいんじゃないか・・・いつまでも命は永遠ではないのだから、そう思う地点に行き着いた。

私は最後に残った責任のいくつかをあと2年で片付けたら、自分で最後の仕事としてやるべきことに完全に溺れようと思っている。

気合の入った活動家の先輩たちからは怒られると思う。
その中には私より深刻な癌サバイバーの皆さんもいる。
でも、それももういい。
私は、私なりの次の段階にいくべき時がきたのだから。
そして、2年後まで時間がない可能性すらあるのだから。

不思議なことに、あの花に出逢った日以来、心の中が愛で満たされるようになった。
癌で切り取られた部位がなくなってせいせいしたのも事実なのだけど、その部位すら愛おしく思えてくる自分の不思議な感情が芽生えた。その勢いでか、自分の中の本当にキライだったところ(たぶん)も、「まあいっか。それも自分だから」、と許せるようになりつつある。

だから、いま、私はユルスこと、ワガママになるということを日々練習している。
一歩前進、二歩後退の日々。

でも、嫌な感じはない。
人に自分を委ねることも、頼ることも、前よりもずっと楽にできるようになった。
身内に思っていることをストレートに伝えるのが苦手だったのに、それをしようと頑張る自分を見つけた時は我ながら驚きだった。

多くの人は私の論文やブログや公的な場での発言を聞いて、私がストレートな物言いをする怖い人だとイメージしていると思う。英語の論文を読む人は10人中10人までが私を男性と思ってた・・・という。仕事として書くこと話すことのストレートさ、強さは実際そうなんだろうけど、プライベートは真逆だった。身内の人に自分の想いを伝えることを幼少期からできないで育って(虐待のせいもあり)、いろいろな身近な人間関係に失敗し続けてきた人生だった。まあ婚約破棄も離婚もしてるしね。

もう一つ不思議なことに、「他者のために」と思って色々背負ってやっていたときとは異なり、いまの方が責任をいい感じで果たせるようになってきつつあるようにも思う。むしろ、自然や動植物や他者と繋がって、この世界をましなところにできないかな・・・って自然に思えるようになった。もちろん、相変わらず拳はふりあげているように見えるだろうし、実際そうなのだろうけど、心の底には愛(そして深い悲しみと哀れみ)があって、自分のいつまであるか分からない命の限り、この感じを忘れないでいようと思っている。

そう書くと宗教とかキリスト教っぽく思われるかもしれないけれど、私は無宗教。

日々を自然の中の多種多様な命とともに生きる中で、生き物にすぎないニンゲンの傲慢さと可能性の両方に、愛と悲しみと哀れみを感じるようになった。自分を含めたニンゲンの仕業への怒りがないかというと、そうではないのだけれど、自分の命が終る瞬間をイメージしたときに、そこから見える世界はまた違ってしまった。

愛を持って、行動に怒り、最後は悲しみ、哀れんでいるという感じだろうか。
私が死にいくときに、自分に対してもつ感情がそれかもしれないと、最近は思っている。

幼少期から生き急いできた。
後悔しないように全力で生きてきたのだけど、もはや後悔してもいいとさえ思ってる。
急いで生きるよりも、ゆっくり生きたいと。

ドイツの父や母や愛猫の死を経験して、さらに癌となって、死というものが身近になって、生というものの儚さを実感するようになった。遠くないかもしれない未来に、この世を去る自分として、残りの人生をどうのように生きたいのか。

癌はそんなことを気づかせてくれたのだった。
癌なしでも気づけたかもしれないけれど、私のように頑固な人には無理だったかもしれない。
だから、私は今日も癌に感謝している。


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息子が撮ってくれたドイツの庭のケールの花。
このケールは1年以上も生き延びて、冬の間も苦みばしった葉をお味噌汁に提供してくれている。
春夏にはナメクジが攻撃。途中何度も倒れた。
莟になったときに大量のアブラムシがやってきてびっしりだった。
でも放置してたらテントウ虫がきて、いつの間にかアブラムシがいなくなって、こうやって花を咲かせてくれるようになった。
タネになったら、ただ土にバンバンとバラまく予定。

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今まで食べられない、飲めないお花にまったく興味がなかったのに今年はじめて「ただ見るためだけ」に寄せ植えをした。我ながらビックリしてる。

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出発前日、石南花を飛び交うハチたちを、何分も何分も眺めてた。

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でもやっぱり野草やお野菜の花が一番好きな自分。
花のための花ではなくて、花が全体の一部であることを感じられるときに、なんだかその美しさに改めて感謝できる気がする。
単なるニンゲンのエゴだけど。










by africa_class | 2019-06-02 19:22 | 【徒然】ドイツでの暮らし

「暮らしの充実」をど真ん中におく、ドイツを真似して、壁(キッチンとリビング)を赤と黒で塗ってみた。

50歳を目前にした5つ目の言語…苦しみながらのドイツ語学習も一旦終り、ドイツの歴史・政治経済・文化・社会にも、前よりずっと興味がもてるようになった。前は英語や日本語経由で読んでいたものが、今はドイツ語経由でも少し読んだり聞いたりできるようになり、目線がぐっと広がるのを感じる。

言語が分からないと、目線すら狭まるのだと改めて実感。
前から気になっていたドイツ人の「生態」について、もう少し突っ込んで聞いてみたり、真似してみたり、かつて20歳のときにブラジル留学をして、その後アフリカ研究者になった自分としては、はなはだ思ってもみない展開ではある。

とはいっても、「暮らしの質」に力点をおく姿勢は、実家を出てから目指してきたものなので、あまり隔たりはないものの、「ああ、ドイツに慣れてきたな・・・」と思ったのが、「壁を塗ろう!」と思う自分を発見したとき。

ということで、今日は「ドイツ壁塗り事情」をご紹介。
が、明日いろいろイベントがあって、実はまったく時間がないので、写真だけ先に紹介しておきます。

ドイツのDIYの店にいくと、ペンキコーナーだけで数メートル(何列も)あって、壁紙とペンキは、ドイツ人の「重要アイテム」といえることがわかると思う。

なぜか?

ドイツ人が引っ越し先で、まずやること。
それは、壁紙の張り替え、あるいはペンキ塗りだから。
自分好みの柄の壁紙にかえない限り、「我が家」とはいえない。
賃貸でも普通にみなが、前の住民の壁をひっぱがし、新しい壁紙を貼る。
模様替えのときは、家具ではなく、まず壁から入るのがドイツ風。

その色も白とかベージュとか、そんなありきたりではなくって、あらゆる色が大活躍。
赤ちゃんが生まれるから、幸せいっぱいのピンクやイエロー。
あるいは、子ども部屋は、空色に雲まで描く。
寝室は落ち着いた色や、植物柄に・・・。

壁紙もペンキも自然のものでもそんなに高くなく、自分で全部やるので、数万円もかけずに、「我が家」感を出せるのが皆が取り組む理由だと思う。

で、どうしてドイツ人はそんなにも家の壁に拘るのかというと、日本みたいに外出や外食にお金をかけず、仕事の後に同僚とも飲みに行かず、とにかく「我が家」での時間を重視するから。その「我が家」に、毎週末のように、近所や親戚、トモダチを招いて、ご飯を食べたり、お酒を飲んだり、サッカーを鑑賞したり、Ebayで売る服を集めてみたり。子どもたちも週末は誰かの家に御泊まりにいくのが普通。

つまり、何か?
とにかく「我が家」あるいは「誰かの家」ですごく時間・機会が日常的に膨大にある。
「家(アパート含む)」は、自分のテリトリーであるとともに、自分の仲間たちのテリトリーでもあり、そこに投資(カネだけでなく労力を含む)することが、自分の人間関係・社会関係への投資にも繋がる。そして自分の居心地の良さ、満足の向上も同時に実現でき、一石二鳥というわけ。

ドイツのツレの家の隣人は、84歳。
でも薪ストーブを愛好し、チェーンソーで森の木を伐り、斧で薪をつくる。
といっても、大きな木はキレない。
そして年の半分はクロアチアのトレーラーハウスで生活して船で遊んでる。その間、庭や芝生の手入れの問題がある。
しかし、自分の親族はみな400キロも離れたところに暮らす。
なので、彼は近所を家に招いてよくBBQや小さなパーティをする。
そうやって地縁を大切に、そして若手の隣人たちに助けてもらうのだった。
もちろんお金は払わない。

お金をかけずに生活の質をあげられる・・・その意味で、重要なのが、居心地の良い「我が家・庭」への投資ということ。

もちろん、引っ越し時に、照明も便器ももっていく人いるために、全部買い揃えないといけないこともあるのが、ドイツ引っ越しの大変なところだったりするが。。。

さて。
前から、キッチンとリビングの壁の片面だけ新しい色に塗りたいと思っていた。
でも、ドイツ語コースを受けて、教科書でやたら「壁塗り」のスキットに出逢うまでは、別に困らないので「まあいっか」と後回しにして数年。でも、今年こそは!・・・とクリスマスに自然塗料を注文。ペンキ隊長の息子の動きを待つ事数ヶ月。またく動きがない・・・ので、じりじりしていたものの、動かない・・・。

ので、ドイツ語試験がおわり、コースから解放されたわたしが生まれて初めてペンキを塗る事に。
しかし、心配した息子が結局塗ってくれて、最後の仕上げだけ担当させてもらった。

さて。
私もドイツでウロウロすることが増えて、もっと近所や親戚や友人を招きたくなった。
猫たちや庭のことを考えると、家族だけに頼っては回せないというのもある。
たまにきてくれる日本や他国にいる元ゼミ生たちにいつまでも頼っているわけにもいかない!
ということで、いろいろな仲間がきたくなる家を目指し、少しずつ家と庭に手をいれようと決意。

で、私が選んだ色はというと、キッチンは「黒」。リビングは「赤」。
この時点で、日本の皆さんだけでなく、ドイツ人すらも「引く」。

でもね。
そういう冒険も、どうせダメだったらまた塗ればいいよね、というぐらい気楽にペンキ塗りなので、気にせずやってみた。(一番ヒヤヒヤして、何度も質問したのは、ツレだったが)。家の中の唯一のアーティストの息子が「いいんじゃない?」と賛意を表してくれたので、矛を収めてくれた。でも、そもそもペンキ買ったあとも、ぶつぶついうのはなしよね?

ということで、ペンキ塗りと完成の様子を。
まずはリビング。

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右下に頑張ってる息子の姿・・・。

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完成した様子。右の黒い板は息子の作品。スタンド横の切り株も息子製作のお茶おき。照明はツレ製作。奥に見えるのは、わたしが作ったアフリカの土器。ソファー以外はまったくお金がかかっていない。

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このリビングに続くのが温室。Wintergarten。現在ではドイツの家の大半にある。テーブルは、息子が庭の廃材(荷車の横の部分)を集めて作ったもの。椅子は前住民がおいて行ったもの。右奥の薪ストーブはお金かかった。でもこれもクッキング可能なストーブなので、雨でBBQが庭で出来ない時に、大活躍。冬・春先は、苗を作るためのスペースとなる。
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で、「黒いキッチン」を目指して壁を塗る息子。
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途中。乾かしているところ。左のストーブは薪ストーブ。オーブンもついており、このストーブですべてのクッキングとコーヒーのお湯、お風呂のお湯を沸かす。北イタリア製。この家に越して、最初で最後の大きな買い物。日本では超高いクッキング薪ストーブ。なんと18万円!しかし、エントツが高かった。でも、電気代が劇的にかからなくなり、あと数年ぐらいで元をとれると思う。薪は敷地内の森のもの、そして市が公園や森で剪定したものを超破格の値段で譲ってもらっている。
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完成した様子。黒いといっても、とっても馴染んでいると思うのだが・・・。机は息子が3年前に作ってくれた250年前のフランスの階段で作ってくれたテーブル。窓辺には義父の形見のビールの陶器、アンティークのコーヒーや胡椒のグラインダー、25年前に初めてアフリカで作った土器、バナナの葉っぱで作ったバウバウたち。白い椅子は前住民がおいてった。
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今まで、キッチンから外を眺めることは少なかった。でも壁を黒くした途端に、窓の外とのコントラストが明確になって、外を眺めることが増えた。新緑の季節になれば、もっと楽しくなると思う。
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ペンキ代は自然塗料を使ったので6000円ほどかかったけど、6000円でこんなに雰囲気が変わったので、大満足。あとは下半分を泥で塗る予定。お楽しみに!




by africa_class | 2019-05-16 18:10 | 【徒然】ドイツでの暮らし

ナチスによるホロコーストの歴史を熱心に外国人に教えるドイツ国・社会の「新しい価値」について。

去年7月から難民や移民、外国人配偶者などと共に、地域の市民学校で、ドイツ語のコース(社会包摂コースの一貫。ただ誰でも受講が可能)を受けてきた。クラスメートは、シリア、イラク、アフガニスタン、イラン、パレスチナ、トルコ、モロッコ、ソマリア、ガーナ、フィリピン、中国、ポーランド、ルーマニア、ロシア、エストニア、カザフスタンなど、私を入れて17カ国25人。

毎朝8:20から12:20まで4時間、月曜日から金曜日まで、ドイツ語を叩き込まれ(たはずが、脳がまったく受け付けず、消えていった・・・)たが、昨日最終試験があり、ドイツ語は終った(と思いたい。試験に落ちていれば再度チャレンジ・・・・)。

去年6月に手術をしたばかりで、かつ民衆会議もあり、あまりに怒濤の日々で、免疫が落ちている中、次々にクラスメートの子どもたちが学校でもらってくる風邪を親からうつされ、とにかく学校に行っては病気になるの繰り返し・・・。正直いって、本当に辛かった。

でも、すごく面白い経験だった。大学で語学を11年も教えていた自分が、毎朝教わる側に座るのは新鮮で、学びが沢山あった。何よりも、自分より格段に若いクラスメートたちに支えられ、休んだ日のノートや宿題などを携帯で送ってもらい、昨日の試験でも全員で励まし合いながら望んだのが、この年齢で学校に行ったことのご褒美だったな、と。世界各地の色々な年齢の性別のクラスメート。それぞれ、色々な経緯を経て、辛い想いもありながら、教室に集った。なにせ初級から中級までの8ヶ月近くを、「異国の地」で毎日一緒にすごしたので、もうすぐお別れだと思うと寂しいものがある。いつか、難民・移民らと過ごしたこれらの教室の様子を皆に紹介できればと思う。

人間、国籍じゃない。
確かに、文化的背景・影響は強くある。
しかし、やっぱり「人を人として見ることの大切さ」・・・を改めて実感した8ヶ月だった。
しかも、3人の先生は全員ドイツ人というわけではなく、1人はロシア人だった。そして、地域の外国人担当者は外国人。彼女らがいっていたのは、ドイツ語がきちんとできれば、ドイツでは外国人にも同等の機会が拓かれているという点。

2016年に百万人レベルの「難民」(自称を含む)が押し寄せたドイツ。
普通に考えてとんでもないレベルの社会プレッシャーだが、3年経過して、勿論政治的課題は出てきているが、それでもドイツ社会はよく持ちこたえていると思った。その土台に、わたしが去年から参加してきた「社会包摂コース&オリエンテーションコース」のシステムの御蔭だと思う。2005年ぐらいから整備してきたというので、もう13年のベースがある。子どもには学校システムを使った特別のサポートがある。

日本はこのような制度が皆無のままに、現政権下で世界第四位の外国人流入国になった。ドイツ、米国、英国に次いでで50万人近く、知ってた?さらにこの政権は大幅に外国人「労働者」を増やそうしている。これが「労働者」に限らず、移民国への転換点だということは、世界中の先進国や歴史が証明しているが、まったく無策。

私はかつて移民研究、また世界の戦争と平和を研究してきた経験から、大量の外国人・難民の流入を政策として促進するのは反対の立場。だけれど、すでに外国人の子どもたちが地域で生まれ、成長する。労働者として日本社会で役割を果たしてくれた人々の人権が守られないばかりか、それらの人々が日本社会を知る機会をもらえず、交わらずに、パラレル(並行して)に暮らし、苦しむ、あるいは問題を起していることを考えれば、抜本的な制度設計が不可欠なことは間違いない。

なので、私の経験が、少しでも参考になればと思う。

ドイツ語のコースは、社会包摂コースの一貫だったので、教科書が純粋にドイツ語だけをターゲットにしているわけではなく、外国人には気づきにくいドイツ社会のありようをベースにした会話や話が絶妙な形で織り込まれているのが、本当に面白かった。日本で外国語のスキットを準備すると、日本的なやり取りの中に落とし込まれる傾向があるので、違いが如実に感じられた。私がポルトガル語を学習したとき、日本語の教材がまったくない時代だったので、アメリカのジョージタウン大学の教科書を使っていた。なので、英語経由でポルトガル語を学び、英語の単語が分からなければポルトガル語も分からない・・・という二重ぐらいの苦労をしたことを覚えている。その後、外国語学習は、日本語を経由せずに、外国語を使って最初から外国語で学ぶ方向にシフトする先生が多かったが、1年生にはそれは遠回りだな・・・と今でも思っている。世界中の難民と学ぶ場合は仕方ないにせよ。

さて、本題。
ドイツ語コースが終わり、今度は3週間のオリエンテーションコースに突入。教科書の構成からして面白い。

1. 民主主義の中の政治
(1) ドイツにおける政治と民主主義
(2) 国家のシンボル
(3) 国家の構成(州などの紹介)
(4) 政党と連邦選挙
(5) 政党と州選挙
(6) リベラル民主主義的秩序(憲法、法治国家の基礎)
(7) 政治的影響(国家秩序における民主主義の基本原則、コミュニティレベルにおける政治的参加の手法、ボランティア活動への関与)
(8) ドイツにおける法治主義、市民の権利、市民の義務(基本的人権、裁判制度、犯罪)
(9) ドイツにおける行政ストラクチャー(連邦、州、コミューン)
(10) ドイツにおける社会的市場経済(司法、国家による福祉の義務、社会福祉システムと財源、民間のサービスの必要性、職業局[ハローワーク])

2. 歴史
(1) 歴史と責任(ドイツの歴史への紹介)
(2) 国家社会主義(ナチスドイツ)と第二次世界大戦
(3) 戦後のドイツ
(4) 分断から再統合まで
(5) ドイツへの移民の歴史
(6) EU(ヨーロッパ連合)

3. 人々と社会
(1) ドイツのすべて(地域、宗教的多様性の紹介、教育と学び、文化間の勾留)
(2) 各地域の多様性(ドイツ語の方言)
(3) ドイツにおける人々(暮らし、家族構成、家族の機能、女性の解放、世代間関係)
(4) 国民の課題としての学び(政治学習、学校システム、教育の価値、生涯学習)
(5) 宗教上の多様性
(6) 典型的なドイツ人(知的な競争力、文化間の潜在的な紛争)
(7)文化的なオリエンテーション


もう一度確認したいが、これは「外国人向け」の教科書の構成。
当然ながら、ドイツの子どもたちはこれと同様、そしてより深い内容のことを学校で必ず学ぶ。多くの点で注目したいことが沢山あるのだけれど、日本だったら地理とか文化とか縄文時代・弥生とか・・・・没政治的な解説に終始するのだけど、「民主主義のシステムと価値」を最初に教えている点。その中での、国家の義務と市民の権利・義務が明確に示されている点。社会福祉システムと税の関係も教えられている。

その上で、歴史が「責任」という形で紹介されている。
そして、学ぶべき歴史の最初が、ナチスドイツ時代の功罪というのが、何よりも注目すべき点。それをわざわざ外国人に教えている。

ページ数もハンパない数が割かれており、どのような手法でナチスドイツが権力を奪取したのか、そのプロセスで民主選挙がどのように使われたのか、野党やメディアがどのようにコントロールされ(逮捕、収容所送り、虐殺)、本がどのように燃やされ、ユダヤ人が虐殺対象になるプロセス、ホロコーストの実態、周辺国への侵略に使われたイデオロギー、その結果民衆はどのようなふたんを強いられたのか、若者が学校を通じてどのようにナチスに取り込まれたのか、その一方でどのような抵抗があったのか(軍人高官のヒトラー暗殺未遂、ミュンヘン大学の学生グループ「白バラ」のゾフィー・ショルの紹介)・・・。

先生は、最新の新聞記事から、今でも歴史を掘り起こそうとする動きが熱心に続けられていること、新しい事実を紹介してくれた。その上で、ドイツの街に必ずある「歴史を忘れないモニュメント」を散策するために、街に出た。ユダヤ人のためのシナゴーグがあった場所、シナゴーグがナチスの支援者によって焼かれたこと、野党関係者が次々に逮捕・監禁された場所、誰が強制収容所に送られて死んだか、襲撃されたユダヤ人の店、収容所に送られたユダヤ人が住んでいた建物の前に埋め込まれた石(名前と送られた収容所名、その後{見た人は全員死])、主筆が強制収容所に送られ死んだローカル新聞の本社、「ヒトラー広場」と名づけられ若者たちが娯楽に使った広場跡、ユダヤ人のお墓、ヨーロッパ中から強制労働のため連れてこられた人達のお墓・・・など。

今日はじめて参加したイラク人はナチスドイツの歴史を学ぶ前にあった「歴史と責任」の授業を受けてないこともあり、不思議そうに全部を回って、先生に聞いた。

「ドイツ人はヒトラーを今嫌って否定しているのに、どうして彼のことやナチスを学び、『忘れない』ことを重視してるのか?忘れた方がよいのではないか?」

先生は本当に驚いた顔をして、「二度と同じことが起らないために、繰り返し、繰り返し、どのように過ちが生じたのかを教え、学び続ける必要がある。しかも、未だすべては明らかになっていない。もっとヒドいことが行われていたことが次々に分かっている。これらを掘り起こし、二度と起きないようにするのは、我々の責務であり、国家の責務」と説明した。

そして教室に戻ると、ホロコーストのページの下にドイツ連邦憲法が貼ってあり、先生はそれを皆で読み上げるように言った。

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ドイツ連邦憲法第3条
1 すべての人は法の前に平等である。
2 男女は、平等の権利を有する。国会は、男女の平等が実際に実現するように促進し、現在ある不平等の除去に向けて努力する。
3 何人も、その性別、門地、人種、言語、出身血および血統、信仰または宗教的もしくは政治的意見のために、差別され、または優遇されてはならない。何人も、障害を理由として差別されてはならない。
*******

まさに、過去の負の遺産を学ぶことは、現在の皆の権利を守るために不可欠な、on-going(継続的な)営みの土台と延長上にあるのだということが、教科書においても、先生の意識の中でも、はっきり示されていたのだった。

そして、先生は「憲法雑誌」を片手に、基本的人権の重要性、とくに「自由権」の重要性を紹介した。その上で、雑誌に書いてあるように、これは「闘って手にし続けるもの(闘い取られなければならないもの)」として紹介した。

もう少し深く紹介したかったけど、時間切れ。
続きはまた書きます。



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大学生たちのナチス抵抗運動の紹介。ゾフィーとハンス・ショル姉弟の写真。歴史の本から先生が持って来てくれた。独裁や戦争から逃れてきた難民や移民の皆さんは熱心に聞いている。
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どのようにヒトラーやナチスが権力を握ったのかのプロセスを選挙結果を示しながら説明。プロパガンダが多用され、野党が禁止されたり弾圧されたとはいえ、有権者が選んでこのような野蛮かつ独裁の政府が出来てしまったことを、批判的に検証。だから、歴史を繰り返さないための歴史教育が必要と。
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焼き討ちにあったシナゴーグの跡地で、先生の説明を聞くクラスメートたち。いまは学校の敷地になっている。
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この道の前の建物にかつて暮らし、強制収容所に連れて行かれ殺されたユダヤ人ひとりひとりの名前が刻まれた黄金の石。ドイツ中の街の道にこのような石が埋め込まれている。5分歩いて20名ほどの石に出あった。

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憲法


by africa_class | 2019-03-23 18:50 | 【徒然】ドイツでの暮らし

癌になって想ったこと。感謝、これからに向けて。

雨の降るドイツから、新年明けましておめでとうございます。

昨年の大雪のクリスマスを思い出すと、拍子抜けするほど暖かく、雨の多い冬となりました。そのせいで、本来しっかり休養できるはずのこの時期に、自然が春と間違えて暴れ始めており、やることが山のように押し寄せているところです。焦らないように、今年は初校ゲラ(丁度よいB4サイズがホッチキス留になっている)の裏に、計画や図を書いてみているところ。

2018年もまた、いろいろな意味で岐路となった1年でした。
なによりも、「癌(がん)」を宣告され「ガーン」。
・・・という親父ギャグをとりあえずかましておきましょう。
ただ、当人(わたし)はそれほど驚かなかった。
理由はあとで書きます。

私をよく知っている人ほど驚いたこの宣告。
とくに家族。

というのも、私は20代のことから肉食を止めて、20代後半から玄米食+オーガニック野菜、それから基本的に食べ物にこだわった暮らしを心がけてきたからです。数年前から牛乳や乳製品も止めた。タバコも吸わないし、吸われている場所には近寄らない。お酒はかなり飲んだけど、家族ほどではない。しかも、とっても痩せている。3人姉妹の中では、一番「癌」になり得ないと言われ続けていた私でした。

でも、私の父を含め、父方親族は「癌」だらけ。
しかも、私だけが父方の遺伝的特徴をたくさん受け継いでいたので、いつか「癌」になるリスクが高いと自覚して、それもあってかなり気をつけてきたのでした。

甲状腺の病気もあったので、初期のころに飲んでいた薬が癌を誘発する可能性があることも知っていました。

もう一つ、他の2人と違うのは、私だけ東京暮らしをしてきたということでした。震災前も中も直後も、その後3年間も。支援活動もしていた。

さらに悪いことに、PTSDで長らく起き上がれない状態が数年続いていました。一日中、布団の中、あるいは家の中ですごすことが大半の日々なのに、とっても強いストレスを感じながら暮らしてました。

それが、2017年の後半から、「これは完治しようとしてる?」と思えるほど調子が上向きになってきて、2018年は「次」に進めるなという手応えを感じた年でした。

その矢先に、手術→癌の告知となったのでした。

もちろん、何が原因か、決定要因なのかは分かりません。
でも、事実として「癌になりやすい生活習慣」に少なくとも食生活はあてはまらないにもかかわらず、やっぱり癌になってしまいました。逆にいうと、ちゃんとした食生活をしていたからあの程度でよかったのかもしれません。

生まれて初めての手術をしたのは去年の6月でした。
3カ国民衆会議の準備の最中で、その翌週には実行委員会を立ち上げるというかなり無茶をしたのですが、未だその時点では「しこりを取る」ぐらいの気持ちだったのです。

それでも、手術の後、初めて外出したとき、実家から駅の歩道に咲いている小さな花を見て、
「なんて美しいんだろう、生きてるってなんて素晴らしいことなんだろう」
と感激したことを昨日のことのように思い出します。

その感激のまま2週間がすぎて、「ほぼ癌ではないと言ったけど、やっぱり癌でした」と言われたときには、この生の喜びが近いうちに断たれるのかもしれない現実に直面して、すごくすごく残念に感じたのでした。

哀しいというより、残念な気持ちが大きくて。
ようやく布団から出て、これから次に向けて開いていこうと思っていた矢先だったこともあります。

ただ、もしそんな日(癌だとか何らかの病気と言われたとき)がきたら・・・と思った以上には、ショックではなかった。

というのは、私にとって「死」は幼いときから身近にあって、「いつ死ぬか分からないから、悔いのないように日々を生きよう」と考えて生きてきたからです。

息子がお腹にいるときは、産む前に死んでしまったらどうしよう。
息子が小さいうちは、大きくなる前に死んでしまったらどうしよう。
・・・などと、必要以上に心配していたものの、その息子も成人目前とあって、やるべきことはやった感じはありました。

ただ、これからの息子の未来を見届けたい、自然とのふれ合いがより深いところで面白くなったこともあり、そして何よりまだ手渡していない多くのバトンがあり、最後に私が本当にやりたいと思って着手してこなかった「しごと」が思い起こされ、とにかく少しでも長く生きたいなと思って、困ったな・・・どうしようか・・・と戸惑ったまま、日本に戻りました。

とはいえ初期のものなので、すぐ死ぬわけではないこともわかっていたので、それほど精神的に堪えたわけではないものの、何より気になったのは、「再発を抑えるために放射線治療とホルモン治療をしないといけない」という点でした。自分のこれまでの生き方にあまりに反したものだからです。

でも、日本では患者と医師の関係は対等とはいえない空気感があります。
とても気さくでよい女性の先生(しかも長年知っている)で、信頼もしているけれど、30%の再発を避ける、限りなく0にするには、放射線とホルモン治療をすぐに開始するしかないと言われて、治療が受けられる病院は2つあるので選びなさいと言われて、その場でとにかく選んで、ベルトコンベアー式に病院に向かうハメに。

この私ですらこうだから、きっと多くの日本の患者さんもこうだと思う。

真夏の暑い最中にその病院に行って、レントゲン検査やら血液検査やら、あれやこれやを朝からやってお昼ご飯を食べて放射線の専門医の先生とのアポを待っている間、ふとこんなに受け身でいいのだろうかとという考えが頭をもたげてきました。

その疑念を払拭できないまま、先生の説明を受けているうちに、どうしても納得できない自分が見出され、先生に「あの・・・」と一言いっただけで、その若い先生がニコッと笑って、「説明は全部したので、1週間ほど考えてからでもいいんですよ」と言ってくれた瞬間に、何か憑き物が落ちたような感じというか、「自分の決定権」を取り戻したような気がして、そうさせてもらったのです。

帰り道、やはり道ばたの花や緑が美しくて、ああ「生きる」というのはこういうことだな、と実感したのでした。ただ毎日を過ごしていくのではなくて、「自分の生を自分として生きる」ということを、様々な制限との綱引きの中で考えながら選択していくことなんだなと改めて思ったところでした。すでに、長い闘病生活から、自分の想い通りにならないものがあるんだということを実感していたものの、いつかは治ると思われた精神的な病気と異なり、癌とあっては仕方ないとあきらめていたのでした。でも、もう一度いろいろリサーチして、自分なりの決定を下そうと思ったのです。

翌日から放射線治療のはずが、その時間を使って色々調べ、考え、自分なりの答えを出しました。それを日本の家族に言ったら、絶対反対されると思っていたのに、「こればっかりは自分で決めること」と大人な反応が返ってきて、逆に拍子抜け。そして、主治医に再び会いに行ったら、最初は明らかに気分を害されていたと思うものの、4通りの選択肢を示してくださって、一緒にそのうちの1つを試みることになりました。

つまり経過観察を頻繁にする。
怪しい兆候が出たら即座に手術。

これまた拍子抜けだったのですが、その選択肢があるのであれば最初に教えてほしかった…。最新の医学の知識でいうと、「放射線+ホルモン治療がスタンダード」だから当然これを選ぶべきという前提がどうも医者の立場からあるよう。もちろん、医者にしてみれば、患者のために再発可能性をいかに減らしていけるかが重要なのであって、患者自身がリスクを承知してます、でも自分で決めたいと明確にいわない限り、なかなかこのオプションを勧められないこともよく分かりました。

なので、やはり自分がどういう生き方(死に方)をしたいかを考え、それを意思表示することは、自分の決定権を手放さないためにも大切なことなのだと実感したところです。

もちろん、その意思は変わることがあってもいい。
でも、一度は決めないといけない。
そして、その決定から学んでいけばいいのだ、と。

ということで、意思表示をしてコンセンサスを得て、病院から帰る道はるんるんで、心に羽根が生えたようで、納得がいかないことを瀬戸際で思いとどまってよかったとの想いで一杯でした。

この1年は息子が料理をしてくれたこともあり、かなり任せっきりになっていたのを(とても遅い時間に食べていた)、息子に甘えず自分でしっかり食材の把握と調理もやろうと心を入れ替えたものの、なにせ民衆会議が忙しすぎて、どうしても疎かになっていたのです。でも終ったので、心機一転、プチ断食をしたところでした。

断食をしてたくさんの発見がありました。
この数ヶ月、夜ご飯を食べないようにはなっていたものの、思い切って4日間「軽い断食(ファスティング)」をしてみて、身も心も軽くなるのを実感しました。

そして大人であれば、たいして食べなくとも普通に暮らせることも知りました。むしろ、エネルギーが身体の軸から湧き出てくるような不思議な感覚も得られ、肌はツルツルになり、この素晴らしさを皆さんに伝えたいと思っています。

ということで、毎度のことですが長くなりました。
「癌」にはなりましたが、お陰で「生」がこれまで以上に、輝いて、大切なものに思えるようになり、感謝しています。

そして、なかなか「次」に気持ちがいけなかったのが、癌への向き合い方を自己決定したお陰で、て感覚としてどんどん広がりが感じられるようになりました。

人生のこの段階での「癌」との出逢い。
いつかこれが私の生命を奪う日がくるとしても(そうでないと祈りたいし、努力もしていきますが)、これもまた試練だけでなく、多くの気づきを与えてくれたことだけは、感謝しなければならないなと思っています。

2019年、もっともっと自然と身体と食と語らい合い、深くふかく考えたいと思います。


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息子のパートナーのおばあちゃん家のキャンドル飾り





by africa_class | 2019-01-02 04:16 | 【徒然】ドイツでの暮らし

【追悼】母マリアのこと。ドイツのホスピス(終末ケア)のこと。

昨日は諸聖人の日で、ドイツでは亡くなった人を弔う日だった。私たちも母と父が大好きだった森とかつて暮らしていた村に弔いに行った。辿り着くまでは大雨だったのに、森に着いた途端ぴたっと止んで、ああいつも天気を気にして、晴れていれば、「太陽が出て嬉しい」と小躍りしていた母を思い出した。帰り道には、前回と同様、虹が出ていて、しかも二つも虹が出ていたことに、なんだか父と母のように思えてきていつまでも家族3人で見とれていた。

前回、「義母」と書いたのだけど、実はもう正式には義理の関係ですらなかった。でも、私にとっては「第二の母と父」ともいえる二人のこと、「母と父」でいいかなと思って、今後そう書こうと思う。

このブログで母マリアの介護のことを書いて1年近くが経とうとしている。あの後、母の容態が急変してしまい、母は帰らぬ人となった。そのことを書こうと思っていたのだけれど、どうしても書くことができなかった。それぐらい、私には色々な意味で大きな出来事だった。

母マリアは東洋からきたドイツ語もろくにできないわたしを、本当の娘のように受け入れ、慕い、優しく接してくれた。孫を心から愛し、一生懸命話しかけ、一緒に育ててくれた。私たち家族への彼女の無条件の愛は絶対であって、無限だった。でも、いろいろなことがあって、最後は十分に母に優しく接することができなかったことを、今でも後悔している。人生というのは、そういうものなのだろうと思いながらも、生きているうちに出来ることをしなきゃいけなかったと、ふとした時にため息をついてしまう…。

たくさんのことを書くまでには乗り越えられていないので、簡単に母の最期について紹介したいと思う。在宅介護にするかどうか話し合っているうちに、病院の先生から緊急呼び出しを受けた。家族全員で話をしたいとのことだったので行ってみると、オランダ人の先生は次のようにしずかに切り出した。

「お母さん、いずれにしても残りの人生はわずかです。いまチューブを付けて呼吸を確保し、点滴で栄養をあげていますが、お母さんはこのような形での最期を望んでらしたでしょうか?」

私たちは顔を見合わせた。母はいつも、このような最期だけはやめてほしいと言っていたと伝えたところ、先生は一呼吸をおいた。

「では、全部外してホスピス(終末ケア)に移りませんか?この病院にはホスピスが付属していて、家族で最期をゆっくり過ごすことができます」

ツレは動揺した。まだ母は在宅介護できるほど元気だと思っていたからだ。

「一度家族だけで相談していいでしょうか?」

そういって一旦みなで相談することにした。このホスピスの案に一番賛成したのは息子だった。

「オーマ(おばあちゃん)はこれ外してといっていた。こんなのやだと思う。こんな風に生きたいと思ってない。もうオーパ(おじいちゃん)のところに行きたいって、この前いってたやん」

自分がオーマの立場だったら、私も同じように考えるといったが、独り息子のツレにとって、母の命の日数を短くする行為を自分が決める立場にいることに動揺して、何も決められない。

「オーマが元気だったころにどう言ってたのか、思い出して。お姉さん(父方)にも聞いてみて」

ようやくお姉さんと話したところ、彼女が元気なときに延命を求めないという書類にサインしていたことをツレに思い出させた。(え、、、そんな重要なことも覚えてないんかい?!と突っ込みたくなったが、動揺している以上仕方ない。自分の生母のことだったら、私もそうなるかもしれない)

家に戻ると書類の束からそれを探し出したツレはじっと書類に目を落としていた。確かに母のサインだった。お葬式の契約をするときに、これも作成したのだという。歳をとると色々なことが起こる。母はちゃんといろいろなことを準備していたのだと思うと、私たちもいつなんどきのために準備をしないといけないと、勉強させられた。

病院にホスピスへの移動をお願いした。
移動するからには、覚悟をしてほしい。まだ母が穏やかなうちに、会いに来てお別れをしてほしい親戚・家族・友達を呼ぶようにと看護師にいわれた。

ホスピスの部屋は広くてあったかくて、天上には空が描いてあって、絵もかざってあって、音楽も流れてて、高級ホテルのよう。ベットも二つあって、母の横に眠れるようになっている。もう一つのベットで眠っている母は穏やかで、とてももうすぐこの世を去る人には見えなかった。戸惑っていると、看護師が、きっぱりとした口調で教えてくれた。

「お母さんにとって、みなに覚えておいてほしいのがこの穏やかな姿だと思います。だから今なんです」

ひとりずつ母と二人きりになってお別れを話すことになった。
息子が最初だった。
私が忙しかったこともあり、息子は二人の祖母が育ててくれたようなものだった。幼少期は私の母。ドイツに避難してからはドイツの母。そんな息子にとって大きな、大きな存在の母。何を話したのかは分からない。でも出てきた彼はなぜかすごくすっきりとした顔をしていた。

次はわたし。
次に姉。
最後にツレ。

母は全部聞こえているようだった。そのはずはないのだけれど。とても嬉しそうにしてくれていた。みたかんじ、未だ未だ何週間もそこで暮らすことができそうなぐらい、穏やかだった。呼吸器も点滴もないというのに。

一度家に戻って晩ご飯を食べていたとき、ふと、母が呼んでいる気がした。

「いますぐ行った方がいい。泊まるつもりで行ってきて。もうお母さんと一緒にすごせる最後の夜になるかもしれないから。」

ツレは戸惑った。というかややパニック気味になった。

「だってあんなに元気だったじゃない」

そう思いたい。だけど、私には今夜が母の最期の夜に思えてならなかったのだった。

「あなたとお母さんは未だ十分に和解してない。これを逃すと一生後悔するよ。お母さん、ひとりぼっちにしてはいけないと思う。せっかくベットがあるし。準備手伝うから」

そう背中を押した。布団を運ぶツレに、庭からハーブを摘んで母にもっていってもらった。翌朝、とてもとてもよい夜だった。母といろいろな話ができたと、疲れながらも満足な表情のツレをみて、ああこれで母は旅立ってしまうのだと思った。無邪気なツレは、「まだあと1週間ぐらい頑張れそうだ」といっている。

静かに頷きながら、覚悟をした。
私も行きたいから連れていって。
戻ってきたばかりだというツレを説得して家を出る準備をしていた瞬間に携帯がなった。

母の容態が急変したという。

慌てて父の愛用の帽子を掴んで、家を出た。15分の距離が長く感じる。

部屋に駆けつけると、母の手を握ってくれていたボランティアさんがいた。
母はカトリックだったので、カトリックのボランティアさんが、家族がくるまでの間手を握ってお祈りをしてくれていたのだった。

ああひとりで旅立たないようにと、ここまで考えてくれているんだと、とても感激した。私たちが到着するとボランティアさんは静かに立ち去り、母と3人になった。母はとても息苦しそうだった。でも、私たちがそばにいるのが分かっているようではあった。ツレが母を抱きしめた直後、母は旅立った。

スタッフの看護師のみなさんがやってきて、私たちにリビングで待つように伝えてくれた。リビングには、沢山の果物と水とコーヒー、本やテレビがあって、まだ信じられない気持ちでいる私たちを看護師さんたちが、入れ替わり立ち代わり慰めてくれる。聞けば、このホスピスもできて8年しか経っておらず、ドイツでもまだ十分に普及していないのだという。

夜も休むことなく同じ村の出身の8人がフルタイムで担当してくれており、ホスピスの明るく家族っぽい雰囲気はここからきてるんだな、と分かった。

その間に母の姪(75歳)が、近隣の村(といっても20キロぐらいの距離)から、サイクリング自転車で駆けつけてきた。急に予感があってきた、と。10分遅かった。彼女が間に合わなかったのは本当に後悔だ。電話番号が古いままで電話できなかったというが、とにかく親戚の電話番号はアップデートしておかねばならないと思った瞬間だった。

こうやって母は自分が望んだとおりだったかは分からないけれど、ある程度納得できる形で旅立っていった。残された私たちもまた、このように母とすごせる時間があったこと、空間をいただけたことに、心から感謝している。

施設の写真を貼っておくので見てもらえば分かると思うのだけれど、本当に「素敵で快適なお宅」といった雰囲気のところで、市立病院とは思えない充実度。といっても、メインの病院部分も機能もしっかりしていて嫌な匂いも一切せず、さすがドイツと思える機能的でクリーンかつ重厚的なつくりだった。

ドイツも日本も超高齢者社会が待ち受けている。
人生の最期を誰と、どこで、どのように、すごすのか、どう生きるかとともに重要なテーマとなってくるだろう。よく生きることはよく死ぬことでもあると、実感したあの日。家族に看取られるということが、いかに幸せなことなのかについて、逝く側だけでなく残される側としても考えなければならないことだな、と肌で感じた。

母の経験が、少しでも日本の終末ケアを考えるヒントになればと思い、写真を大目に紹介しておきます。

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母の森のそばで虹が迎えてくれた。
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ホスピスの部屋の天上

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さすがドイツな音楽システムあり

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皆が使えるリビングがある。子どものままごとセットも
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ダイニング。いつも果物が盛られていて、食べてよい。
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みなが使えるキッチン。その気になれば、1週間でも泊まっていい。
各部屋にはトイレとシャワーがついている。




by africa_class | 2018-11-03 03:34 | 【徒然】ドイツでの暮らし

【確定】初の写真展@深大寺(12/24 - 28):Photographic Journey by Kai Alexander 2017

【写真展】*27日全日・28日1時まで開催

Photographic Journey

by Kai Alexander


深大寺 曼珠苑ギャラリー

日時:2017年12月24日(日)、25日(月)、26日(火)、27日(水)11時〜17時

*28日(木)11時〜13時も開催。


住所:調布市深大寺元町5-9-5(喫茶「曼珠苑」の斜め向かいにあります)

*「深大寺」から徒歩2分。「深大寺水車館」の西隣。
http://bit.ly/2nHmyLg


アクセス:
京王線つつじヶ丘よりバス:深大寺下車 
京王線調布駅乗車~「深大寺入り口」下車交差点東へわたり深大寺へ向かって徒歩1分
JR三鷹駅乗車~「深大寺入り口」下車戻るようにして交差点を左折深大寺へ向かって徒歩1分30秒


出展作品
  • Photographic Journey `vol. I "Venice" (ヴェネチア)
  • Picture Book "Colors of Autumn" (秋の色彩)
  • Posters "Garden"




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by africa_class | 2017-12-23 10:22 | 【徒然】ドイツでの暮らし

Thanksgivingに新書のスケルトンを終えて:「欲望という名の列車」から降りることについて

年内に原稿を提出しなければならない新書のスケルトンが終った。
奇しくも、Thanksgivingday(ドイツ語風に全部くっつけてみた)。欺瞞に満ちた「勝者」の歴史の語りが、今年も繰り返されようとしている最中に。

「歴史」は、後にしてきたものだと思いがちだ。
しかし、実際は違っている。
「失敗/過ちの歴史」はあっという間に忘れられるというのに、「栄光の歴史」は繰り返し、繰り返し蘇り続ける。だから、歴史家の仕事には終わりがない。

歴史は今の写し鏡であり、今歴史をどう見るかによって将来をも規定する。
2017年末の日本と米国を見ながらそんなことを思う。
とりわけ、Thanksgivingの今日、日本の政治家たちがおかしな伝統や歴史認識を持ち出してきたことを眺めながら。

私たちはあっさりと歴史を忘れるというのに、自分たちのご都合主義に彩られた歴史解釈は手放そうとはしない。
だから、「歴史」は繰り返す。

今日は、北米の先住民族の辿った歴史を、征服した側の白人が語り直す日だ。
被征服側となった先住民族の側の物語は、メインストリームの語りには決してならない。少しばかり「良識派」のメディアがこの白人の創り出した物語を批評する記事を出したとしても。歴史が全体としてどのようなものとして動いたのか、征服者と被征服者の間で本当のところは何が繰り広げられたのかの話はされない。あれから何世紀経とうとも。

今書いている本は、途中からなんだかおかしくなっていった。

最初は今風に書いた。
テキストとして。
教科書的な。

でも、ブラジルの先住民族のお母さんの叫ぶような声が、テキスト的な出来事や解説の行間や文字間から、ぬるっぬるっと顔を出し始めてしまい、もはや止めようとしたところで勝手に話し始めてしまった。だから、そのまま自由に語ってもらった。

時に、長いものを書いているとき、そういうことがある。
博論のときはそうだった。

寒い兵庫の山奥で確かに聴いたアフリカの森を急ぐ住民の声。
ざわめき。
悲鳴。
押し殺したため息。
凍らした心。

最後の一文を書き終えた後、どうしたのだろう?
無限の多様なうめき声を、耳にしながらも、ただ呆然と眺めるしかできなかった。
いや、そこから遠く離れなければと必死だったかもしれない。

弾けなかったピアノは今でも弾けない。
でも、少しずつこうやって書けるようになっているとしたら、それでよいのだと思う。

職業としてテキストを書かなければならなくなって、耳にしていたはずの「ざわめき」を封印してしまう技術を身につけなければと必死だったように思う。普通の人は違うのかもしれない。器用な人は行き来できるのかもしれない。でも、私は大方の想定と違って、とても不器用な人間なのだ。そして、おそらく必要以上に真面目すぎる。だから、その融合も、行き来も、折衷も難しかった。

もう自分のための論文は書かない。
つまり、「業績」にもう一本を加えるのための論文も本も書かない。

要らないからだ。
そのつもりで入った研究や大学の世界。
分かっていたことなのに、いつの間に絡めとられてしまっていた。

ベルトコンベアーのようにあれもこれも書いて、書いてといわれて。
書きたいと思わないことを、
私が書くのではなくてもよかったことを、
ただ書き散らしてしまった。

最初は練習だった。
必要不可欠な。
そして、今も必要ではあるのだろう。
本当は。能力不足だから。
でも、最後は苦痛で仕方がなかった。
魂がそこにないままだったから。
いただいたお題、そのストーリーに魂を見出せなかったから。

いちいち論文に魂なんて込めなくていいよ。
私も他人にはそういっていたかもしれない。
でないと終らないから。
終らないと皆困るから。

でも、やはり人生は一度きりだと思う。
魂を込めるものと向き合える時間が、あとどれぐらいあるのか分からない。

小さな声がつぶやく。
モウ ナニモイラナイ。

大きな声でいってみる。
モウ ナニモイラナイ。


その途端に、書きたいことが山のように溢れるのだから、自分のあまのじゃくぶりに驚いてしまう。

大学2年生のとき、北東部ブラジルの干ばつに翻弄される家族の過酷な物語を読んだ。
Vidas Secas(干ばつ暮らし/乾いた生活/グラシリアーノ・ラモス、1938年)
ポルトガル語の購読の授業の教材だったので、かなりイヤイヤ読んだ記憶がある。まさか十数年後に自分が同じようなことを若者に押し付ける側になるとは・・・思っても見なかった20歳のときのこと。

まだ辞書片手に(しかもポルトガル語・英語辞書しかなかった時代)、遅々として進まない翻訳(というか想像の何か)。でも、小説から漂う過酷な自然との闘いを繰り広げる人間のチッポケさ、なんといっても喉の乾き、皮膚の乾き、暑さ・・・そういったものが言語の違いを超えて迫ってきたのを昨日のことのように思い出せるのは不思議だ。使われていた単語、表現、文章は一切思い出さないというのに。

今日、新書のスケルトンを書きながら、私の脳裏にあった情景はそれだった。
ブラジル北東部、セラード地域の広大なる大豆畑のただ中を、ひたすら車を走らせたときに触れたあの乾いた空気。灼熱の太陽。

と同時に、目をつぶると、次の瞬間、赤茶けた道から離れて、奇妙な形をした木々の間をいくと、湿った空気が鼻の中をくすぐるのが感じられる。あの乾燥した空気から一瞬にして隔離されたかの。砂漠を歩いて歩いてオアシスに到着した瞬間の、あの感じ。砂漠をそこまで歩いたことないのに。セラードの森だ。

森の中を歩きながら、子どもたちがどの果物がどう美味しいのか一生懸命話してくれる。
突然、森の中にバレーボールのポールとネット。
なぜか恥ずかしそうに年長の子がいう。
「神父さんの提案で」
「あ、そうなんだ。確かに横にチャペルがあるね」
手作りの、柱が8本にヤシの葉っぱで編んだ屋根の簡易チャペル。その前には十字架がある。
もぞもぞ年長さんがする。

同行していた若い男性が口を開く。
「土地を奪いにいきたビジネスの奴らからコミュニティを守る為にです」
「え?」
「ここをコミュニティが大切に使って活用しているということを見せることで、一方的にブルトーザーで壊しにくくしています」

こののどかに見える森の中にも危険が迫っていた。
「若い男達がいないのに気づきましたか?」
「確かに」
「ビジネスの奴らが雇ったギャングに脅されてみな出て行かざるを得なかったんです」
「あなたは?」
「コミュニティを守るために残っています」
「だいじょうぶ?」
「毎晩寝るところは変えてます。雇われているギャングは隣町の若者たちです。カネが皆の心を狂わせてるんです」

Vida Secaとは180度異なる豊かな緑の木陰で、彼はささやくように話す。
川沿いの森の民に見送られて向かった先は、隣州の先住民族の会議であった。

果てしなく続く赤茶けた大地。
延々と続くむき出しの。
喉の乾きが辛い。
バスが止まるたびに水を買う。

先住民族会議には200人を超える周辺地域の先住民族が集っていた。
4日間毎日会議だ。
大学キャンパスに野営をし、野外テントで議論をする。
キャンパスの庭でたき火をしながら調理をしている様は「さすがブラジル」としかいいようがない。
主催者いわく。
「なんで?公共の場だから公共の目的のために使えばいいだけ」

朝から晩まで、先住民族の老若男女がマイクをもって、時にもたないまま話を続ける。

汚染された水を飲み、自分より若い人達が癌で次々亡くなっていくと訴えるおばあちゃんたち。

清廉なる水は命の源だった。
それが今人びとの命を奪う汚れたものになっていると。
森と暮らしを守らんと立ち上がった男たちが、
手足を切り取られた姿で川に投げ捨てられていると。

小さな小さなしなびたおばあちゃんが、杖で地面をつつきながら叫ぶ。
「ついに白人たちは植民地支配を完成させようとしているのだ」
足踏みをしながら。
「森を殺すことで、私たちを殺そうとしている」
ドンドン。
「水を汚すことで、私たちを殺そうとしている」
地鳴りがする。
「私たちの勇敢なる息子たちを八つ裂きにして、先住民族を根こそぎ終らせようとしている」
低いうねりのような声がする。
「おのおばあが命をかけて、あんたらから森と水と息子を守る。弓矢に毒を盛って」
足踏みが止まらない。地響きのような。

このおばあちゃん独りではなかった。
女性たちが語る悲劇と決意は、議事進行役の年配の男性たちを困らせるほどの勢いだった。

女性たちの前に無言で並ぶ政府の役人や学者たちは、皆色が白い。
南部やサンパウロの訛で話している。

先住民族担当官に女性が詰め寄る。
「あんたたちを信頼した私たちが間違いだった」
「あんたたちがやったのはなんだったのか?」
「就任してから、一度だって私たちのコミュニティにきやしない。私たちのリアリティを知ろうともしない。」
「忙しい、忙しいって、何をやってるかと思ったら・・・
あの業者とご飯を食べることじゃないか!私たちを殺しにくるあいつらと」

会場となった野外のテントには風がびゅうびゅう吹き荒れる。
森を失ったこの地では、どんな風も容赦なく打ち付けるのだ。
おばあちゃんによると「自然の叫び」なのだそうだ。
自然の叫びは止まる事を知らない。
もう誰も自然の叫びを止められないところまできてしまった。

「欲望という名の止まらぬ列車」に、私たちは乗り合わせている。
ただし、その「欲望」は1%の人びとのものである。
それ以外は今日・明日の命をかけてその列車に振り回されんとしている。

この列車に乗りたくないといっても、列車は道行く先々のすべてのものを根こそぎ網にかけて引きずり続ける。

私たちはどうやったらこの列車を止めることができるのだろうか?
もう止められないのだろうか?
止めることで、別の何かが引き起こされるのだろうか?

だとしても。
たった一個のカタマリにすぎない私が応答する。
まずは降りてみること。
たった一人にすぎないとしても。

木々のところにいく。
迷ったときはいつもそうするように。


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by africa_class | 2017-11-24 08:10 | 【徒然】ドイツでの暮らし

ゴビンダさんのマリーゴールドが思い出させてくれたこと:春がいつか必ず訪れることを信じて

寒いです。雨は降っていないのだけれど、毎朝霜が降りているため、ついに畑の周りを彩っていたマリーゴールドが凍ってしまいました。

嫌なことを思い出してしまったので、今日は畑と森の中でせっせと冬支度をしていたところです。そのとき、凍ったマリーゴールドをどうしようかと思って(種を採ろうと思ってたのに間に合わなかった)、ふと「ゴビンダさん」のことを思い出しました。

東電OL事件で、えん罪によって15年間も刑務所に入れられていたネパールのゴビンダ・プラサド・マイナリさん(51)。再審無罪確定後、初めてネパールから来日し胸中を語ったインタビュー記事が、上記のHuffpostに掲載されました。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/11/12/touden-ol-15years_a_23274952/

記事の抜粋です。

「当時のことを話し始めると、マイナリさんは目を真っ赤にした。計15年間、身柄を拘束された拘置所や刑務所で、精神安定剤や睡眠薬を手放せなくなった。支えは「自分はやっていない」という思い。面会の支援者や弁護士、家族から届く手紙にも励まされた。

 小さなことに心の安らぎを見いだした。拘置所の窓から聞こえたハトのつがいの甘い鳴き声が愛のささやきのように感じられ、妻を思った。刑務所では、運動に出るグラウンドで、マリーゴールドの花が咲いているのを見つけ、看守に見つからないように1輪摘んだ。ポケットの中に隠して房に持ち帰った。マリーゴールドはネパールの祭りで首飾りをつくる花。房の中でこっそり香りをかぎ、ひとり故郷のことを思った。」


私も子どもの時、辛いとき、野の花、あぜ道の草に癒されました。

その匂いを嗅ぎ、虫を眺め、花びらや葉っぱの様子を眺めているうちに、すーーっと嫌な気持ちが和らいでいくのを感じました。頭上に飛ぶ鳥を見ては、鳥はいいな、自由にどこにでも行けて…と羨ましく思っていました。


決して自由がなかったわけではないのです。時間も与えられていたし、物質面では不自由がなく、他人から見ると羨ましい環境にいたと思うのです。けれども、日常的な暴力と権利侵害の現場に、行く所をもたない形でいるしかなかった子どもにとって、申し訳ないけれど、家は刑務所のような空間としか思えなかった。


私が、小学校にあがるまで、家の中でほとんど言葉を発しなかったのは、そういう理由だったのですが、なんからの障害か病気だといって親がいたく心配して先生たちに相談していたことを、後になって知ったときには、唖然としたものでした。つまり、そんなに理解されていないんだと。幼稚園のときから、誕生日もクリスマスもプレゼントは要らないからお金を頂戴といって家出のためのお金を貯めていたことも、家出セットを押し入れに隠していたことも、家族に話せたのは随分後のことでした。


親は親なりに頑張っていたと思うけれど、私が感じていた現実はそういうものでした。


その後、突然家族が崩壊してしまって、ポカーンと自由な空間が出来たので、もはや家出の必要はなくなったのだけれど、それまではちょこちょこと近場で家出をしたり(誰も気づかず)、祖父母のところに逃れたり(親には遊びに行くと)をしていました。最終的には、せっかく19歳で本格的に家を出て、新しい生活を始めたというのに、またしても、しかし今度は自分の選択によって、自由な空間を失ってしまったことに、後悔し続けた二十数年でした。


チェーン(鎖)を断ち切るということは、なんと難しいことなのだろう?

自分の中の弱さに何度も打ちのめされ続けたこれまででした。


今、このことを、すべてではないものの、ある程度笑いながら家族とできるようになったことを、嬉しく思います。いろいろあったけれども、それもすべて何らかのgift(ギフト)だったのだと、今では思えることが多くなりました。


マリーゴールドを見ながら、そんなことをつらつら思い出し、考えたのでした。

自然の中にいると、本当に色々なことが頭に訪れます。

ただ手を動かしているだけだというのに、流れるように想いやコドバや考えが訪れては消えていく。


雲のように。

風が強いときは、早く流れる。

風が弱いときは、ゆっくりと。

自然に翻弄されながら、身体も思考もゆらゆら揺れる様を、真冬の寒さの中ですら感じることができて、ただただ大声で感謝したくなります。


ゴビンダさんのようにいわれのない罪の責任を負わされて15年間も牢屋に閉じ込められていたとすれば、どんなに辛いことでしょうか。選択肢がなかったとはいえ、よく我慢できたなと本当に思います。


私だったら…。

胸に迫る苦しさを開放するため、凍ったマリーゴールドのもっていたはずの香りを求めて手のひらに花びらをおいて匂いを嗅いでみたのでした。


かすかに残るマリーゴールドの香り。

甘いような、不思議な香り。


この記事を読むまで、マリーゴールドがネパールのお祭りで使われる聖なる花だと知らなかったです。


マリーゴールドというか、タゲッテ(Tagetes)として知られている。

畑のお友達。


センチュウよけになるので、大根や人参などの横に植えます。

また、アブラムシよけになり、植物を元気にしてくれるので、畑のあちこちに植えているのですが、おいしいようでナメクジ様の大好物。油断すると全部食べられるので、大きくなってから移植しなければならなず手間がかかります。


子どもの頃のことを思い出すのは骨の折れる仕事。
今日はもう十分してしまったので、前に進みましょう。
幸い温室のマリーゴールドは生き延びているので、花びらを一片拝借して、枕元に置こうと思います。写真は温室(といっても何もヒーティングはないのですが)の中のトマトと一緒に植えているマリーゴールド。

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凍ってしまったマリーゴールド。。。

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そんな寒さでも、ドイツ生まれのふだん層は2年目の冬になるのに、こんなにがんばっている。すでに沢山の種も採らせてくれ、その横から出てきた脇目から、さらに新しい芽がドンドン出てきているという健気さ。負けてられないね。

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どんなに寒い夜も冬も、ただ生き延びることが、いつかの春につながると、実感を込めて思います。

春は遠いかもしれない。
でも、かならずくる。

もし、かつての私のように閉塞感ただよう辛い状況にいる人がいれば、いつか春がくることを信じて生き延びてほしい…ただただそう思います。

4歳のとき、真っ黒な日本海の水を眺めていた私のところに、ふと訪れた「何か」もそんな一言だったのかもしれないと、あり得ないものの、そう思うときがあります。自分の中の命の輝きを、そっと抱きしめてみてください。




by africa_class | 2017-11-15 02:25 | 【徒然】ドイツでの暮らし

解禁:自家製ヴァン・ナトゥール2017(自然派ワイン)

ワインを作るようになって3年目の冬がやってきた。
日本とドイツとその他の地域を行ったり来たりの数年なのだけれど、秋から冬にかけてのこの時期は、収穫期であることもあるし、クリスマス前ということで、ドイツに滞在することが多い。本当は、ドイツは5-6月が一番最高だということを、皆に伝えておきたいところだけれど、その話はまた今度。

この家に越してきたとき、勝手口に伸び放題のブドウの老木があって、風情はあるものの、剪定めんどくさそうだと思った自分を恥ずかしく思う。しかも、駐車場のジャリの一角に、申し訳程度に囲われた花壇から伸びている一本の老木。

肥料も水もなーんにもあげないままに最初の秋が過ぎた。
そして、大量になるブドウを眺めつつも、あの時は病気すぎてブドウを収穫しようという発想すら起こらず、家族が「ブドウがやばい。大量になってる」といっても、「鳥さんたちにあげればいい。いつも人間が食べなければと思う発想が間違っている」などと高尚なことを言い放っていた。ベットから…。

2年目の秋に、元学生たちがお手伝いにきてくれたので、「そうだワインを作ればいい」と思い付いた。ブドウを収穫してもらって、ひたすらブドウの実と枝を分けて、ボウルの中にぶち込む。そして、ブドウを素手で潰し、砂糖を入れて軽く蓋を閉める。

どぶろくづくりで培ったノウハウと『現代農業』の投稿記事を頼りに、見よう見ねで作ってみたのだけれど、なんか上手くいかない。やっぱり細部は自分の経験で培っていかなければならないのだと納得し、砂糖の配分、ぶどうの甘さ、混ぜる回数、室温などをボウルごとに変え、さらにボトルごとにラベリングして、味見をしてはノートに記すの繰り返しをした。

病気のわりに頑張ったが、そのうち面倒になってしまって、3年もののワインボトルが何個もリビングに貯蔵されたままの状態にある。

毎朝アルコール度をあげていくワインを味見するのは、そのうち辛くなって、じゃあ夜やればいいのに…夕方以降は病気のせいか起き上がれない傾向があって、味見もそのうちしなくなった。ノートも今となってはどこにいったのだろうか…という雑さ加減が、初年度の前半だった。

しかし。
恐るべし当時14歳が、母の情熱が萎え、すべてを放置していることに心を痛めたのか何なのか、ネット先生を通じてお勉強の上、こうのたまった。

「ママさあ、砂糖あかんっていつもいってたやん?」

ここはドイツ。
育ちは東京。
でも、我が家の共通語は関西弁だ。

「えっと・・・そうだけど・・・」

動揺する私。
子どもの矛盾を鋭くつくときの勝ち誇った表情、イキイキとした視線は、病気のときは辛い。

「だいじょうぶ。ママ」

勇気づけるような笑顔で語る彼。
丸顔だったはずなのに、いつの間にか父親に似て・・・

卵だ。

「砂糖入れなくてもちゃーんと発酵するんだって」
「するの?」
「するんだけど、その場合、完熟のあまいブドウじゃないといけないって」
「あまいよ、ブドウ」
「いや、ママは早く取りすぎたんだよ。もっと黒くなってから取らないと」
「黒いよ?」
「ママーーー、だいじょうぶだよ」

そうだった。
闘病中の私に、誰が教えたわけでもないのに、彼はいつもいつも同じ台詞を私にかけ続けてくれたのだった。その一言がどれほど私を救っていたのか、今になってぼんやりとしてきているのだけれど、決して忘れないために書いておかなければならない。

何年も「ママ、だいじょうぶだよ」を繰り返してくれた12-15歳までの息子よ、母は君の優しさを一生忘れないよ。そして、その間、君がすべてのことを我慢して、耐えてくれたことに、心から感謝したい。あの時、君は父親といつも衝突してて、窓ガラスがいっぱい割れたのだけど(内緒ね)、それは私にぶつけられない想いを、そんな風に解放せざるを得なかったということを、母は分かっていた。でも、どうすることもできなかった。情けなかったね・・・。親として。

話はワインだった。
ということで、14歳のワインを作ってもらうことにした。
そしてまたしても、ネット先生は、正しいということを私たちに証明してくれることになる。

私の収穫より1ヶ月も遅く収穫した彼のブドウは丸々と太り、真っ黒に光り輝いている。
「ママ、このブドウ食べれるよ。すごく甘い」
ワインの源としか考えてなかったために、一切果物としての価値を認めなかった私にとって、その一粒はやや勇気がいるものだった。でも、確かにびっくりするぐらい美味しく、普通に日本で買っていたような果物の味だったのだ。

そしてワインが飲めない彼は、せっせと私を呼んでは味見をさせ、砂糖なしでワインが出来ることを証明してくれた。そして、白ワインと赤ワインを完成させた。彼の言ったとおり、私のワインより美味しかった。

翌年から、私はビン詰めをやめて、味噌の壷を使って、砂糖なし+完熟ブドウでワインが出来ることを確認し、とにかく出来立て1週間ぐらいのものを愉しむことに戦略を切り替えた。なぜなら、しっかりとした味のオーガニック・ワイン(ヴァン・ナトゥール)が400円ぐらいで買えるヨーロッパにあって、あえて自家製で楽しみたいとしたら、発酵中のものだよねという結論に行き着いたから。

ただし、味噌樽、ボウルを総動員して作ってそのまま放置してしまって、お酢になってしまったり、酵素になってしまったものもある。お酢は調理に使い、やや出来の悪いやつは畑の活性剤に使い、酵素になったやつはどうしようかと迷って1年が経過してしまった。

で、今年は庭の木々に色々な病気が発生して、ブドウの葉っぱにもうつったのだけれど、今迄にないぐらいの量のブドウがなるわなるわ。。。確かに春先に米のとぎ汁を豆乳パックで育てた乳酸菌をあげたのだけれど、それ以外はしていない。とにかく誇張なしで100キロ以上はできているので、いま3度に分けてワインにしているところ。

で、1度目のワインが丁度できたところなので、解禁してみた。
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これは未だ発酵中(ブドウの皮も種もはいったまま)のもので、仕込んで1週間目のものの上澄みを掬ってグラスに。奥に見えているものは、息子が14歳のときに作ってくれた買い物かご(地域の伝統的工芸品)とモザンビークの農民にもらった豆を今日収穫したままに。なんで籠おいたかというと、その裏に、ツレの私物がてんこ盛りできれいじゃなかったので。

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底からかき混ぜて10分置くと、発酵が進んで泡あわが出てくる。
これが一番おいしいのです。
無濾過ワイン。
これが飲みたくて、ワインを作ってるようなもの。

あまりに美味しいのでもう3杯も飲んでしまって、仕事がまったく捗らない。
本当は、ブドウの木の写真など紹介しようと思っていたけれど、それはまた今度。

そして、ワインづくりのコツもいつかのせますね。
でも、気が向いたらブログなので…そこはすみません。
誰も教えてくれなかったけど、重要なのは、白くしぼんだ実と小さな枝を一緒に入れることです。

テーブルは、息子が15歳のときに作ってくれたオークの木のワインボトルかけ。実はこれが私の仕事机なのです。この机の下にバスクで買ったイランの手作りカーペットがあり、その上にマサイの毛布があって、その毛布の上で、ネコのお母さんであるニャーゴ様が横になっているわけです。

しかし、遅いな、17歳の調理人。。。あとは、17歳のメインディッシュだけなのです。

今日は自動車学校の日。
いつか、彼の運転する車に乗せてもらえる日がくるのかなと思ってたけど、もう目前。それも不思議です。

すでに、チキンの骨+庭のハーブ・スープと玄米は炊けており、畑の野菜もとってきた。薪ストーブだと、鍋に材料を入れてストーブトップに載せておくだけで、調理をしているという感じではなく、1分クッキングなのです。私から薪ストーブを取り上げたら、もはや調理できないかもしれない。

そうだ。御犬様のお墓にお供えをしてきました。
週末に遊びにきてくれる元ゼミ生のあなたが、気になってるといっていたので写真のせておくね。
自家製ワインとお墓があなたのお越しを待っております。
(息子から質問。「また、シャケとかカニとか背負ってくるの?」)

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あ、もどってきた。では、また。



by africa_class | 2017-11-14 04:40 | 【徒然】ドイツでの暮らし