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【来週、国連採決!】「小農権利国連宣言」の国連採決日11/20に3カ国民衆会議in東京が開催

いよいよ3カ国民衆会議が来週11/20から東京で開催されます。
その同じ日に、ニューヨークの国連総会で「小農と農村で働く人びとの権利に関する国連宣言」が採択される見込みとなりました。

実は、この3カ国民衆会議の日程は、この「小農権利国連宣言」の採決前後のタイミングを狙って準備しました。しかし、国連総会での採決タイミングというのは、高度な国際交渉で決まるものなので、こんなにバッチリ日にちまで合致するとは思いもせず・・・。

インドネシアの仲間からのメールを見た瞬間に鳥肌がたちました・・・。そして、涙が。

世界2億人ともいわれる小農、農村に暮らす人びと。
今を生きる、これからを生きる人びとだけでなく、過去に命を落としてきた人びと。

希望と絶望と。喜びと苦しみと。連帯と分断を、、、自分たちの手を離れた遠くのところで決められる多くの事柄に翻弄されながらも、生き抜いてきた人びと。そして、傷つき、命を落とした人びと。

自分の足で大地を踏みしめ、両手で土とたねと作物という命の根源に触れ、寒い日も暑い日も雨の日も晴天の日も、田畑に出続ける人びと。

直接には言葉を紡がないとしても、暮らしそのものが紡ぐそれを、食と農村環境を守り、もたらしてくれることで、わたしたちに伝え続けてくれる人びと。

この母なる地球、最後の自然を守る人びと。

11月21日(時差があるので)の国際シンポジウム&マルシェはお祭りになると思います!1日目はすでに満席となったそうなので、このシンポ&マルシェと3日目のみ。これもいつ締め切るか分からない状態だそうなので、ぜひお急ぎお申込下さい。

とくに、この「小農権利国連宣言」については、2日目18時〜の2部「食・農・くらしと地域の自立へー「犠牲の経済開発モデル」の限界を乗り越える」で紹介します。

●3カ国民衆会議11/20-22のポータルサイト
http://www.ngo-jvc.net/jp/notice/2018/10/2018triangular.html
●2日目 国際シンポ&マルシェ
http://triangular2018.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
●3日目「日本の投資/ODA:モザンビーク北部で何が起きているのか~プロサバンナ事業とナカラ回廊開発に抗う農民たち」
http://triangular2018.blog.fc2.com/blog-entry-24.html

====
(ここから下は、多くの人には重要ではないことだと思うので、一応切り離して書きます)

この宣言が11/20に採決と聞いた瞬間に押し寄せてきた想いを伝えたくて。

自分で出来ることがあるのならば・・・そう願いながら、下手なりに隅っこでこつこつと森と畑と机と本と大学と会議室を行き来する日々が、映画のエンドロールのように流れては消えていった先に・・・浮かんだ一人のひとのはにかんだ笑顔を目にして。涙が止まらなくなってしまいました。

「モザンビーク小農の父、アウグスト・マフィゴ代表」

わたしをはじめとする日本の仲間たちに、「小農主権」「食の主権(食料主権)」「小農が地球の守護神であること」を教えてくれた偉大な人。14歳で植民地支配下にあったモザンビークを離れて、仲間たちとともに独立を目指して闘った。独立後は、小農として生き抜いてきた。

そして、長い戦争後の和平と自由な空気の下で、畑を耕し、仲間と運動をつくり、そしてUNACをモザンビーク最大の小農運動に導いた。小農運動が国境を超えていく時期にリーダーとなり、UNACを世界と繋げていく役割を果たした。

しかし、徐々にグローバル資本がモザンビークを蝕み、農民たちの土地、水、森が奪われるようになるなか、政府に脅しを受けながらも、農民の権利のために身を粉にして働き続けた。

モザンビークの解放闘士として、彼だけが可能な独自の立場で、政府と掛け合ってきた。多くは微笑とともに。決して声を荒げたり、他人を罵倒したりする人ではなかった。常に、「あなたはどう思うか?」と。

彼が2013年2月に初めて東京にきたときに、皆にきいたことが、それだった。
「みなさんは、どう思いますか?」
「わたしたちは、自分の足で歩くスピードでの発展を目指したいだけなんです。自分たちの手におえる範囲の発展を。でなければ、奪われるから。私たちの存在そのものの土台が。それではだめですか?」

彼の言葉を訳しながら、いつも深く感動していた。とても簡単な言葉なのにあまりに深くて、果たして彼の畑や歴史や活動の中での経験から紡ぎ出される想いを、きちんと伝えられているのだろうかと、不安になるぐらいに。。。

しかし、57歳で命を奪われた。

2015年8月、日本とモザンビーク政府がモザンビークの農民運動の分断を計っているのをなんとかしようと700キロも離れた別の州と行き来している間に病に倒れて。

いまもまた、3カ国民衆会議を少しでも傷つけようと、同じようなことをやろうとしていると、現地から情報が届いたという。
https://www.facebook.com/%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%B0%8F%E8%BE%B2%E5%BF%9C%E6%8F%B4%E5%9B%A3-1060343997409346/?hc_ref=PAGES_TIMELINE

このブログでも紹介したとおり、日本政府はこの宣言に米国とともに反対してきた。
https://afriqclass.exblog.jp/i43/

一方では「小農【支援】」に注ぎ込んだ金額に胸をはりながら、「小農の【権利】宣言」は気にくわない。

自分たちが思い描いて、自分たちがコントロールする「支援」なら何十億円でも注ぎ込むことを厭わず(プロサバンナに既に32億円)、、、、一銭もかからない「小農が主張する権利を認める」ためには努力もしない。

むしろそれを弱めようと「種子への権利」にわざわざ反対してみたりする。遺伝子組み換え企業やそのロビーに突き動かされる米国に媚を売るために。

それで国連の議場で、「小農【支援】大国」を主張するのは、どうにも私には理解できないのだが。援助関係者には、いまでもこのロジックが通じるらしい。この21世紀に。小農が国連宣言文を起草し、ついにそれを世界に認めさせ、国際法に新たな一頁を拓くところまできてるというのに。

いまでも、日本の開発援助関係者は、それが実務者であろうと研究者であろうと、若いフレッシュな感覚をもっているはずの若い人ですら、このロジックの問題が、本当の意味では理解できない人が多いのに驚いている。

権利>支援

なぜか?

当事者>支援者

だからだ。

【支援】を中心におけば、支援者が当事者を選び、その支援の仕方をコントロールする。どうやっても。「支援する」が動詞になったら、「支援者」が主語になるからだ。日本語は、この主語と動詞の関係が曖昧だから、この簡単な原則を皆がしっかり認識することが難しい。

=>つまり、支援者に当事者が従属することになる=>当事者に内在する力を弱める可能性を前提とする外部者の主体的行為。

【権利】を中心におけば、当事者がどれほど貧しかろうと、教育がなかろうと、支援者がどれだけお金と努力と善意を注ぎ込もうと、それにNOを言う権利を含め、その人が決定権を持つ。主体は当事者にある。

=>支援者は当事者に従属する。
その逆ではない。どうやっても、逆にはならない。

ということは、当然、「小農支援」をしたい人達の真の目的がそれなのであれば、「小農の権利」が認められる社会の創造、彼女ら彼らの運動(それがいくら足りないものであっても)を応援することこそが、「支援者」にとって最大にして最重要なアクションとなるはずだが、そうはなっていないどころか宣言に反対そして分断介入…逆噴射しているのが日本の「海外小農政策」ともいえる現実であった。


2018年11月20日・・・
何の偶然かわからないが、日本の東京で、この「小農の支援」と「小農の権利」が、ついに直接ぶつかりあう機会が訪れる。

その瞬間に、ひとりでも多くの皆さんに立ち会っていただきたいと思う。

しかし、そこにはマフィゴさんの姿はない。
でも、彼の遺した仲間たちの姿がある。
そして、そのこと自体が、わたしたちが、決して今日まであきらめなかった理由だとも思う。

彼がいつも実態と実感とともに呟いたこの一言。
A luta continua....
独立をともに闘った政府関係者らが次々に腐敗していくなかで、この言葉をまさに生き続けた人。

マフィゴさんのあの笑顔をもう一度だけ見たかった。


これは代表になったかなるかの時にブラジルに行ったマフィゴさんの姿。印鑰 智哉さんの提供。


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マフィゴさん、ありがとうございます。
あと少し。
どうぞ安らかに、安らかにお眠りくだだい。

by africa_class | 2018-11-16 06:18 | 【国連】小農の権利宣言

【追悼】母マリアのこと。ドイツのホスピス(終末ケア)のこと。

昨日は諸聖人の日で、ドイツでは亡くなった人を弔う日だった。私たちも母と父が大好きだった森とかつて暮らしていた村に弔いに行った。辿り着くまでは大雨だったのに、森に着いた途端ぴたっと止んで、ああいつも天気を気にして、晴れていれば、「太陽が出て嬉しい」と小躍りしていた母を思い出した。帰り道には、前回と同様、虹が出ていて、しかも二つも虹が出ていたことに、なんだか父と母のように思えてきていつまでも家族3人で見とれていた。

前回、「義母」と書いたのだけど、実はもう正式には義理の関係ですらなかった。でも、私にとっては「第二の母と父」ともいえる二人のこと、「母と父」でいいかなと思って、今後そう書こうと思う。

このブログで母マリアの介護のことを書いて1年近くが経とうとしている。あの後、母の容態が急変してしまい、母は帰らぬ人となった。そのことを書こうと思っていたのだけれど、どうしても書くことができなかった。それぐらい、私には色々な意味で大きな出来事だった。

母マリアは東洋からきたドイツ語もろくにできないわたしを、本当の娘のように受け入れ、慕い、優しく接してくれた。孫を心から愛し、一生懸命話しかけ、一緒に育ててくれた。私たち家族への彼女の無条件の愛は絶対であって、無限だった。でも、いろいろなことがあって、最後は十分に母に優しく接することができなかったことを、今でも後悔している。人生というのは、そういうものなのだろうと思いながらも、生きているうちに出来ることをしなきゃいけなかったと、ふとした時にため息をついてしまう…。

たくさんのことを書くまでには乗り越えられていないので、簡単に母の最期について紹介したいと思う。在宅介護にするかどうか話し合っているうちに、病院の先生から緊急呼び出しを受けた。家族全員で話をしたいとのことだったので行ってみると、オランダ人の先生は次のようにしずかに切り出した。

「お母さん、いずれにしても残りの人生はわずかです。いまチューブを付けて呼吸を確保し、点滴で栄養をあげていますが、お母さんはこのような形での最期を望んでらしたでしょうか?」

私たちは顔を見合わせた。母はいつも、このような最期だけはやめてほしいと言っていたと伝えたところ、先生は一呼吸をおいた。

「では、全部外してホスピス(終末ケア)に移りませんか?この病院にはホスピスが付属していて、家族で最期をゆっくり過ごすことができます」

ツレは動揺した。まだ母は在宅介護できるほど元気だと思っていたからだ。

「一度家族だけで相談していいでしょうか?」

そういって一旦みなで相談することにした。このホスピスの案に一番賛成したのは息子だった。

「オーマ(おばあちゃん)はこれ外してといっていた。こんなのやだと思う。こんな風に生きたいと思ってない。もうオーパ(おじいちゃん)のところに行きたいって、この前いってたやん」

自分がオーマの立場だったら、私も同じように考えるといったが、独り息子のツレにとって、母の命の日数を短くする行為を自分が決める立場にいることに動揺して、何も決められない。

「オーマが元気だったころにどう言ってたのか、思い出して。お姉さん(父方)にも聞いてみて」

ようやくお姉さんと話したところ、彼女が元気なときに延命を求めないという書類にサインしていたことをツレに思い出させた。(え、、、そんな重要なことも覚えてないんかい?!と突っ込みたくなったが、動揺している以上仕方ない。自分の生母のことだったら、私もそうなるかもしれない)

家に戻ると書類の束からそれを探し出したツレはじっと書類に目を落としていた。確かに母のサインだった。お葬式の契約をするときに、これも作成したのだという。歳をとると色々なことが起こる。母はちゃんといろいろなことを準備していたのだと思うと、私たちもいつなんどきのために準備をしないといけないと、勉強させられた。

病院にホスピスへの移動をお願いした。
移動するからには、覚悟をしてほしい。まだ母が穏やかなうちに、会いに来てお別れをしてほしい親戚・家族・友達を呼ぶようにと看護師にいわれた。

ホスピスの部屋は広くてあったかくて、天上には空が描いてあって、絵もかざってあって、音楽も流れてて、高級ホテルのよう。ベットも二つあって、母の横に眠れるようになっている。もう一つのベットで眠っている母は穏やかで、とてももうすぐこの世を去る人には見えなかった。戸惑っていると、看護師が、きっぱりとした口調で教えてくれた。

「お母さんにとって、みなに覚えておいてほしいのがこの穏やかな姿だと思います。だから今なんです」

ひとりずつ母と二人きりになってお別れを話すことになった。
息子が最初だった。
私が忙しかったこともあり、息子は二人の祖母が育ててくれたようなものだった。幼少期は私の母。ドイツに避難してからはドイツの母。そんな息子にとって大きな、大きな存在の母。何を話したのかは分からない。でも出てきた彼はなぜかすごくすっきりとした顔をしていた。

次はわたし。
次に姉。
最後にツレ。

母は全部聞こえているようだった。そのはずはないのだけれど。とても嬉しそうにしてくれていた。みたかんじ、未だ未だ何週間もそこで暮らすことができそうなぐらい、穏やかだった。呼吸器も点滴もないというのに。

一度家に戻って晩ご飯を食べていたとき、ふと、母が呼んでいる気がした。

「いますぐ行った方がいい。泊まるつもりで行ってきて。もうお母さんと一緒にすごせる最後の夜になるかもしれないから。」

ツレは戸惑った。というかややパニック気味になった。

「だってあんなに元気だったじゃない」

そう思いたい。だけど、私には今夜が母の最期の夜に思えてならなかったのだった。

「あなたとお母さんは未だ十分に和解してない。これを逃すと一生後悔するよ。お母さん、ひとりぼっちにしてはいけないと思う。せっかくベットがあるし。準備手伝うから」

そう背中を押した。布団を運ぶツレに、庭からハーブを摘んで母にもっていってもらった。翌朝、とてもとてもよい夜だった。母といろいろな話ができたと、疲れながらも満足な表情のツレをみて、ああこれで母は旅立ってしまうのだと思った。無邪気なツレは、「まだあと1週間ぐらい頑張れそうだ」といっている。

静かに頷きながら、覚悟をした。
私も行きたいから連れていって。
戻ってきたばかりだというツレを説得して家を出る準備をしていた瞬間に携帯がなった。

母の容態が急変したという。

慌てて父の愛用の帽子を掴んで、家を出た。15分の距離が長く感じる。

部屋に駆けつけると、母の手を握ってくれていたボランティアさんがいた。
母はカトリックだったので、カトリックのボランティアさんが、家族がくるまでの間手を握ってお祈りをしてくれていたのだった。

ああひとりで旅立たないようにと、ここまで考えてくれているんだと、とても感激した。私たちが到着するとボランティアさんは静かに立ち去り、母と3人になった。母はとても息苦しそうだった。でも、私たちがそばにいるのが分かっているようではあった。ツレが母を抱きしめた直後、母は旅立った。

スタッフの看護師のみなさんがやってきて、私たちにリビングで待つように伝えてくれた。リビングには、沢山の果物と水とコーヒー、本やテレビがあって、まだ信じられない気持ちでいる私たちを看護師さんたちが、入れ替わり立ち代わり慰めてくれる。聞けば、このホスピスもできて8年しか経っておらず、ドイツでもまだ十分に普及していないのだという。

夜も休むことなく同じ村の出身の8人がフルタイムで担当してくれており、ホスピスの明るく家族っぽい雰囲気はここからきてるんだな、と分かった。

その間に母の姪(75歳)が、近隣の村(といっても20キロぐらいの距離)から、サイクリング自転車で駆けつけてきた。急に予感があってきた、と。10分遅かった。彼女が間に合わなかったのは本当に後悔だ。電話番号が古いままで電話できなかったというが、とにかく親戚の電話番号はアップデートしておかねばならないと思った瞬間だった。

こうやって母は自分が望んだとおりだったかは分からないけれど、ある程度納得できる形で旅立っていった。残された私たちもまた、このように母とすごせる時間があったこと、空間をいただけたことに、心から感謝している。

施設の写真を貼っておくので見てもらえば分かると思うのだけれど、本当に「素敵で快適なお宅」といった雰囲気のところで、市立病院とは思えない充実度。といっても、メインの病院部分も機能もしっかりしていて嫌な匂いも一切せず、さすがドイツと思える機能的でクリーンかつ重厚的なつくりだった。

ドイツも日本も超高齢者社会が待ち受けている。
人生の最期を誰と、どこで、どのように、すごすのか、どう生きるかとともに重要なテーマとなってくるだろう。よく生きることはよく死ぬことでもあると、実感したあの日。家族に看取られるということが、いかに幸せなことなのかについて、逝く側だけでなく残される側としても考えなければならないことだな、と肌で感じた。

母の経験が、少しでも日本の終末ケアを考えるヒントになればと思い、写真を大目に紹介しておきます。

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母の森のそばで虹が迎えてくれた。
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ホスピスの部屋の天上

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さすがドイツな音楽システムあり

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皆が使えるリビングがある。子どものままごとセットも
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ダイニング。いつも果物が盛られていて、食べてよい。
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みなが使えるキッチン。その気になれば、1週間でも泊まっていい。
各部屋にはトイレとシャワーがついている。




by africa_class | 2018-11-03 03:34 | 【徒然】ドイツでの暮らし