人気ブログランキング |
ブログトップ

Lifestyle&平和&アフリカ&教育&Others

afriqclass.exblog.jp

<   2019年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧

国連総会採択の「小農権利宣言」と日本の農村開発援助・「小農支援」の乖離を読み解く

さて、国連/国際・家族農業の10年が始まりました!(キックオフは5月だそうだが)
そして、なんといっても小農権利宣言(「小農と農村で働く人びとの権利に関する国連宣言」)が国連で採択!
このことの意味の大きさは強調しても強調しきれません!!

今回はそのことが日本に及ぼしうる影響を、海外援助(農村・農業支援)に絞って考えてみます。日本の農政への影響については、ここから先徐々に検討していきます。

あと、このブログで紹介した宣言文のドラフトの和訳ですが、現在、翻訳家の根岸さんと最終宣言文の作成中なので、完成したら紹介しますね!

で、この冬、森と畑の中で繰り返しこの最終宣言文を英語で聞いていました。
日本での3カ国民衆会議の後ということもあり、ブラジルやモザンビークや日本の多様な関係者の言葉や理解、議論を振り返りながら、何度も何度も読みました(耳で)。そして多くのことに気づきました。

全文を訳して国連の議論はwebでフォローできるものはすべて聞いたとはいえ、どうしても議論の中身、原文と訳語がマッチしているか、定訳や文章表現はこれでいいかが気になって、肝心の宣言文そのものの「精神部分」を全体的に掴むという作業が疎かになっていました。

それを、原文のまま繰り返し耳にすることで、宣言の細部の狙いのようなものもしっかり掴むことができたかな、と思っています。たとえ、それが各国の介入があって、相当程度曲げられたものであっても。。。

さて。
最終文は国連総会の第三委員会に提出されたものです。
提出国は、ボリビア、キューバ、エクアドル、エルサルバドル、ニカラグア、パラグアイ、ベネズエラの中南米7カ国。そして、モンゴルとポルトガル、南アフリカ。

*中南米諸国が多いことは既にお伝えした通り。南アフリカは最初からずっと関わっていた。ポルトガルがEU諸国にも関わらず提出国になった背景について解説しようと思って時間が経過してしまいました。ポルトガルの現政権はプログレッシブなので色々評価してあげるべき点が多いので、今度また書きます。モンゴルについては・・・調べておきます。

さて。前に書いたとおり、大いに議論がなされた以下のポイントが生き残ったことについては大きな勝利だったといえます。

このブログの以下を遡ってください。
https://afriqclass.exblog.jp/i43/

「Collective rights(コミュニティや集団などの集合的な権利)」
「食の主権」
「種子への権利」
「アグロエコロジー」
「母なる地球(マザーアース)」
「土地/テリトリーへの権利」
「生物多様性保全の権利」

米・英・日本・EU諸国の度重なる激しい介入を受けながらも、最終宣言文にしっかりと残ったことについて、大いに評価したいと思います。このことの意味の大きさは、強調しても強調しすぎることはないのですが、これをどう活かせるかは、ここから先のがんばりにかかっています。

さて、前文は超絶長いのですが、この前文にこそ、なぜこの権利宣言が国連宣言として採択されなけれ、国連が今後推進していかなければならないかが明確に書かれているので、ぜひ何度でも読んで味わってほしいと思います。国連文書や法律を読む際、前文を飛ばし読みする人多いのですが、実はこれは絶対やってはいけない。憲法もそうですが、前文が法律や宣言の目的を明確にし、全体の方向性を定めるので、この前文がいくら裁判で使いづらいものであっても、それを飛ばしては「魂のない仏さま」を拝んでいるようなもの。(本来、仏を拝むという行為が仏教的にどうか・・・という問題はさておき。)

さて、その前文。
これを読めば、国連宣言が唄う「the peasants(小農/小農民)」と日本の援助機関(JICA)が支援対象として想定する「smallholders(小規模農家 *農地面積が小規模な農家)」の違いが明らかになると思います。英語で書けば、その違いは一目瞭然なのですが、日本語にしてしまった途端、いずれも「小農」と表現されるので混乱が生じてきました。

勿論、日本では「小農=小規模農家」と書かれることが多いので(実際、NGOでも長らくそう注記してしまっていた)、一見JICAの解釈が妥当に見えます。

しかし、ソフトローとはいえ国際法となった「Peasants Rightsに関する宣言」によって、「peasants」なるものの一定の定義、国際法上のアクターとしての存在、その権利擁護の重要性が確定することになりました。

したがって、「小農(peasants)」を「smallholders」と同義語と捉えて、「我々はsmallholders支援をしているからpeasants支援なのだ」との説明は、国際法上はもはや通じなくなったのです。

あまりこのような問題について考えて来なかった人にとっては、たいした違いじゃないじゃん!と見えるかもしれません。それが、この理解の違いこそが、「小農(peasants)のため」といいながら、「小農(peasants)に害を及ぼしたり、小農コミュ二ティ(pesantry)に悪影響を及ぼす援助や政策」が繰り広げられてきた問題の根っこにあるのです。

見てるものが違うのに同じ言葉を使うことの恐ろしさは、「sustainable development(持続可能な開発)」に如実に見られるのですが(遺伝子組み替え種子の企業ですらこの言葉を多用しています)、だからこそ、本来政策(援助であれ)に絡むことについては、言葉が指している対象(定義・意味)やその言葉が使われる土台や背景が何より重要になってきます。

2012年10月、プロサバンナの問題にモザンビークの小農連合(pesants unions)が立上がり「小農社会に被害を及ぼす」と反対を唱え、日本の援助関係者とモザンビークの小農+市民社会組織+日本のNGOが議論をしていく中で、相互の理解の断絶が埋まらなかった理由の一つは、この「小農支援」にもあったことについて、今回の民衆会議でハッキリしたなーと思っています。

・・・多分、私のイワンとしていることの意味は、なかなか伝わらないとは思いますが、今後の日本の援助において、これはとてつもなく大きな意味を持っています。なので、一個ずつ丁寧に検討していきたいと思います。

そして、これはまた別途議論するのですが、「Family Farmingを家族農業と訳する」の問題。。。冒頭にわたしも「家族農業の10年」と書いてしまいましたが、実はこれは問題だと思っています。Agricultureではなく、あえてFarmingが選択されている点に注目しましょう。Farmingは、経済的な取り組み、あるいはセクター的な「農業」を意味しません。むしろ「農に取り組む」を意味しています。日本語的には、「農耕する」みたいなニュアンスでしょうか?

ただし英語には耕すというニュアンスはなく、不耕起農も含むので、ここでも日本語と英語の問題が出てしまっています。ただ、英語やラテン語系のAgricultureも厳密には、「農業」を意味しないのです。cultureが耕す、文化までを包含するように。。。脱線してきたので、またこれらについては別途議論しましょう。

ということで、話を「小農」に戻します。
「peasantsとしての小農」が何なのかを理解すれば、すぐに理解が得られるかもしれません。
英語が挟まるだけで意味を遠くしてしまいます。
日本は小農研究の分厚い蓄積があります。ただ、90年代以降は忘れ去られてきた。それは世界も同様でした。しかし、とくに南の小農運動が、危機の中で、紡いできたオルタナティブが、世界の運動と結びついて、力をもつようになってきたことが、ここ10年、小農への注目が高まる結果となっています。

ここら辺のことは、出したばかりの監訳本『国境を越える農民運動』(明石書店)に詳しいのでそちらをご覧下さい。
http://www.akashi.co.jp/book/b420388.html

日本でも「小農学会」が農家の皆さん主導で設立されるなど、新しい動きが出てきています。
http://www.mandanoen.com/sagri.html

ここら辺は、京大の秋津先生と松平尚也さんが『農業と経済』2018年1/2月合併号に「小さな農業とは何かーー世界的な小農票かとの連携」として寄稿してらっしゃるので、そちらをご覧下さい。

さて。
この年末、松平さんと、peasants的小農をどう定義しようか・・・と話し合いました。というのも、JVC(日本国際ボランティアセンター)さんの『T&E(トライアル&エラー)』が特集を組んでくれることになったのですが、その冒頭にこの「小農」が出てくるからです。

急いでいたこともあり、暫定的に以下のような定義をJVCさんには提供しました。以下は、編集長の細野さんがレイアウトしてくれたものです!(細野さん、ありがとうございます!)

-------------------------------------------------------------
小農とは:
今回の国連宣言において使われている「小農(peasants)」とは、
厳密には経済主体としての小規模農家(smallholders)と同じでは
ない。より歴史・社会・日々の暮らし・政治経済との関係で成立
している概念である。一例として、日本においては以下のような
定義がある。

・山下惣一(1936年生/佐賀県唐津市生まれの農民作家)による定義:
「私は規模の大小、投資額の大きさではなく暮らしを目的として
 営まれている農業・農家を「小農」と定義している。つまり
 利潤追求を目的としていないということだ」

・小農学会による小農の定義(小農学会2016:15):
 小農学会は、戦後の小農の価値の再評価の流れを検討し、
 さらに新しい小農の定義として「既存の小農を基軸とし、
 農的暮らし、田舎暮らし、菜園家族、定年帰農、市民
 農園、半農半Xなどで取り組む都市生活者も含めた階層」
---------------------------------------------------------------

つまり、「暮らし」に力点があるという点です。
これは、世界的なpeasantsの定義とも同様です。
「新しい小農」として、以上の方々を含めることについても、『国境を越える農民運動』で書かれている通りです。これに、今回の国連宣言では、「農村で働く人びと」として「手工業者、漁撈者、牧畜民、移民労働者」などが含まれました。

ただ、この注だけだと分かりづらいかもしれないことに、今気づきました。スミマセン・・・。ブラジルやモザンビークの小農が守りたいと考えているもの、そして上から世界大・3カ国の政府や援助機関に押し付けられようとしているものの違い(断絶)は、小農学会の趣意書のこの部分が分かりやすいです。


「古来より光注ぐ太陽のお蔭で、人は大地を耕し、生き物の命を育み、その命をいただいて生きてきた。今や大型スーパーに並ぶ豊富な食材を、多くの都市生活者は第二次、三次産業で得たお金で買い、生き物の命を育み命をいただく意識は薄れている。(中略)

貨幣経済が発達し、人は都市に集中し、村の小学校が廃校となり、集落が消滅し農村が寂れていく。にもかかわらず相変わらず農政の流れは、営農種目の単純化・大規模化・企業化の道を推し進めようとする。それに抗してもう一つの農業の道、複合化・小規模・家族経営・兼業・農的暮らしなど、小農の道が厳然としてある。なお小農とは既存の農家のみならず、農に関わる都市生活者も含まれた新しい概念と考えたい。このいずれが農村社会の崩壊を押しとどめることができるのであろうか。これを明確にしなければならない。http://www.mandanoen.com/sagri.html」

小農学会に集う日本の有機農家さんたちは、ビア・カンペシーナには加盟されていませんし、小農権利宣言にも関心をもってこられなかったと思います。しかし、時を同じくして、現在の地球・世界・国内問題について、同じような危機意識に基づいて、「小農の道」が検討され、社会の「変革主体」としての立場が表明されているのです。

世界と日本の小農が、日々命と向き合う中で、同じ認識に至った、至らざるを得ないほどの世界状況が生まれていることに、深い感動と危機感を持ちました。

まずは日本の小農の皆さんの定義を読んでいただいた上で、国連宣言の紹介をしていきたいと思います。では森へ。


 

a0133563_19121520.jpg

国連総会第三委員会で小農宣言が採択された2018年11月21日(日本時間)、聖心女子大学4号館にて行った3カ国民衆会議の様子。3カ国の小農の皆さんが並んで食と農の危機と転換をディスカッションをしています!

詳細:http://triangular2018.blog.fc2.com/



by africa_class | 2019-01-16 19:18 | 【国連】小農の権利宣言

50歳を前に5つ目の外国語を学ぶ苦しさ。しかし、「次」が見えてきたことについて(人生、遅すぎることはない)。

50歳まであと少しになってしまった。
織田信長は「人生50年…」と唄ったそうだが、いくら高齢化時代といえ、人生後半どころか終わりに近づいてきたことに自覚的でないといけないな・・・と思う今日この頃。いつまでも人生が続くという感覚は、癌になって、「そうだ!人生には終わりがあるのだ!」と目が覚めた感じ。

福岡正信さんが30年なら30回しか季節も巡らないみたいなことを本で書いていたことの意味を、畑や森との付合いだけでなく、今本と資料に囲まれた書斎でこれを書きながら、切実に実感している。11年溜め込んだ外大の研究室を手放した時に、それを感じたつもりだったけど、未だいつか未来が両手を広げてくれるだろうと、朧げながら期待していた。でも、もうそれを具体的な数字で実感し、やれること・やれないことを整理しないといけないと思うようになった。

60歳まで元気でいられるとしても、あと10回ぐらいしか新しい春に出逢えない。
このことは結構衝撃的。

いままでは、息子の成長でカウントしていたのが、18歳で成人してしまった今はもはや実感がわかないから。18歳と33歳では、ドイツ的にはどちらも成人。

冬から春に向かうプロセスをドイツで過ごすようになって、「春が待ち遠しい」感覚は骨の髄まで実感するようになった。それだけに、春と喜びをあと何度分かち合えるのだろうかと思うと、ただ待ちどおしいという気持ちだけでなく、春を迎い入れる感動をじわじわ味わいたいとも思うようになった。

冬至がすぎて、太陽が数分ずつとはいえ、少しずつ早く出るようになってきたのを(それが朝9時頃といえ)、敏感に感じとり、感謝できるようになった。北欧でクリスマスの前は、冬至のお祭りをしていて、それがクリスマスと合体したから、もみの木を大切にするとか・・・すっごくよく分かるようになった。

さて。

そんな風に人生を折り返しからとっくに終わりに向かっている最中に、5つ目の言語を学習しなければならない状況になり、苦しんだこと、感じたこと、考えたこと、学んだことを、少し紹介したいと思う。

まず断っておきたいのが、私は息子のように多言語環境で育ったわけではなく(日本語オンリーで生まれ育った)、幼少期に外国語教育を受けたわけでもなく、言語的才能があったわけではなく、努力せずに他言語を学んだわけではなく、成人してから、本当にコツコツと愚直に積み重ねて、なんとか下手なりに日本語・英語・ポルトガル語・スペイン語の4言語を使えるようになった人間ということ。

留学もブラジルに10ヶ月だけで、それ以外はごく短期(2週間)に英語圏とスペイン語圏で学校に行っただけ。

だから、日本で生まれ育って、多言語環境にない人も、だいじょうぶ。多言語使えるようになります。ただし・・・

大学で他の人達が充実した社会科学や自然科学や人文の学習をしている最中に、かなしいかな、言語の学習ばかり何時間も何十時間も、何百時間も費やした。

だから、言語以外のもっと実のある教科を勉強した人達よりも、基礎的な学問研究が積み上がっておらず、大学院に行ってから相当苦労して、本当に昼も夜もないような血のにじむような苦労をしてキャッチアップしようと試みて、でも結局中途半端なままで・・・妊娠出産が重なり、諦めるべきを諦めながら、大学院で教えながら自転車操業どころか短距離レースのマラソン状態で学び続けたようなものだった(スミマセン)。

何が言いたいかというと、多言語が出来ると「いいなー」とよく言われるけど、まずはそのために犠牲にした多くのことを知ってもらいたいと思うのです。私が1言語を学ぶために割いた時間と労力に、わたしからみたら「いいなー」の学習や愉しみをその人たちは味わったはずで、そのことを忘れないでほしいな、と。

個人的には、英語+もう1つの言語ぐらいは高校生までで習得しておき、大学ではもっと思考の土台を学び、それを発展できるような基礎を積み重ねる手法を習得することに力を注ぐ方が良いと思う。外大で教えておきながらどうかと思うが、外大出身で外大で教えたからこそそう思う。

正直なところ、もう一度受験生をやるのであれば、外国語大学ではなく普通の大学に入って、追加で外国語をやりたかった・・・というのは後付けのことだけれど、とにかく若い頃は可能性は無限だし、時間もあったので、大きな後悔というほどのものはない。

なぜならわたしにとっては、多言語は多くの扉を開いてくれた窓のような存在であることは事実だから。英語が使えることで得られる情報やものの見方は大変重要。世界言語になってしまった現在においては、とにかく「英語ぐらいは出来ないと」というのは本当。若い人にとって、日本語だけで生き延びていくのは、あらゆる意味で難しい時代になると思う。(日本の内政を考える上においても・・・)ただ、「日本語+英語しか知らないと」、よほど努力しないと限界があることも事実。

この努力というのは、日本的、世界で支配的、アングロサクソン的なある種コロニアルなものの見方を批判的に検証するための眼鏡をどうやって獲得するのか・・・というもの。このような努力なしには、同じ英語テキストを「理解する」といっても、それは表面的、表層上のことで、本質を掴むことは不可能だから。翻訳アプリの精度がぐんぐんあがるAIの時代に、如何に記号的な言語の置き換えを乗り越えて、言葉としてでなく、言葉を通じて伝えられようとしている中身の本質を掴めるか否かは、その人の柔軟で批判的な思考にかかっている。

もちろん、これを多言語学習なしに得ることは可能。
支配的あるいは主流でない場・人びとと過ごすことで、今迄の常識や世間や世界で言われて来ている事への鋭い批判と超越を自然にできるようになる。そんな多くの人達を目にしてきた。(これは日本社会のなかにどっぷり浸かっても可能。ただし、社会の主流以外の場・ポジションからであれば。)

でも、これにもう一言語加わったなら、さらに思考の別のチャンネルが開くとともに、新しい世界への窓が開いていって、新しい発見と出逢いと深い気づきを得られることも事実。いくら柔軟な発想をもっていても、一つの言語ではその言語がもたらす癖のようなものの限界が付きまとう。別言語で思考し表現することは、その限界を軽く超えさせてくれる。さらにもう一つの言語が加われば、さらにちょっと違うバリエーションの思考と表現を手にできる。

誰も信じてくれないと思うが・・・寡黙で内気で自己主張のできず感情に流されやすかった私が(誕生日プレゼントをねだったり、あれこれ注文したことがなかった)、論理的に自己主張ができるようになった一因は英語を習得したことと無関係ではない。基本ネクラでくよくよしがちな性格が、大雑把で明るく振る舞えるようになったの一因がポルトガル語を習得して、ポルトガル語世界の人びとの優しさに抱かれたことと無関係ではない。

それぞれの言語で出逢い触れ合う人達との交流の中で、チッポケな自分の元の性格の限界を、少しずつ広げてきた結果が、いまのわたしであることについて、多分家族以外の人は知らないと思う。信じ難いことに、自分自身忘れていた。でも、PTSDになって心理療法師さんとやり取りして分かったのは、幼少期の以上の性格が変わったわけではなくって、思考のど真ん中に居座っていたこと。それが、日本語世界の中で生じた色々な出来事の中で、膨らんでしまって手に負えなくなったこと、だった。その時は気づかなかったけど、直感的に「日本から逃げないと」と思ったのは、正解だったといえる。

そんなわけで、新しい言語が開いてくれる可能性は外とのつながりだけでなく、内なる変化や可能性においてもとっても大きいのです。

新しい言語が開いてくれるそんな可能性への喜びを、なにせ30年前に味わったために、4言語を行き来するのがあまりに当たり前になってしまって、忘れていた。

とはいえ、実は、もっとも苦労したのは日本語だった。いや、3言語、かなり中途半端なので苦労していないわけでない。正直なところ、マルチリンガルというにはあまりに不十分なレベル・・・。でも、やっぱり苦労したのは日本語といいたい。その理由は、日本語が間違いなく母語で、本来完璧にできないといけない言語なのに、10代の努力をすべて多言語学習に割いてしまったので、かなり怪しい日本語しか話せない、書けない・・・状態が、なんと大学で教える直前になっても続いていたから(お恥ずかしい)。

今でも相当危ういが(ちなみにブログなどは布団の中で気が向いたら書いており、読み直してないので日本語がどうにもおかしいのはご容赦いただくしか・・・)、一番効果があったのが、NGO活動。何十もの助成申請書とか広報文とか、そういうものを複数の人間で修正しながら(真っ赤にしながら)書類を整えていくプロセスがすごく役に立った。いわゆる「赤ペン先生」を仲間たちにしてもらったのが一番効果的だった。だから学生の論文でも仲間の書類や論文でも赤を提案するのだが、真っ赤になったファイルをみて喜んでくれる人が大半な一方で、ショックを受ける人もいる。。。気をつけないと。

後者の人は、セルフエスティームが低いのか、自信がありすぎるのか分からないが、とにかく「学ぶ」ことにおいて、批判や提案・指摘を肥やしにできない人はかなり遠回りをするので、勿体ないと思う。

さて、さらに脱線した。
5つ目の言語学習を50歳を手前にやることについて。

2言語目以降は楽だと前に書いたが、それは事実。母語以外の言語の学習手順も想像できるし、身体に別言語がフル機能するスペースができる感じが掴めているので、言語のスイッチもそう大変ではない。

経験からいうと、他言語学習において、幼児教育を押し付けなくとも、ある程度「文法」の意味が分かる段階でも全然遅くないと実感している。つまり、11、12歳ぐらいでもまったく遅くはない。日本ではなぜか「ネイティブの発音」にこだわるお母さん方が多いが、前にも書いたけど、たとえば国連では、それぞれの訛を文化として誇りに思って堂々とスピーチしている人がほとんど。ましてや、アメリカ英語やイギリス英語を「支配者の言語」的なニュアンスを持って受け止める地域・国・民族が世界の大半を占める中で、それをどこまでも追求する意義があるのか疑問である。「英語ネイティブ」を重宝がる日本であるが、その「ネイティブ」なる人達を、自動的に「アメリカ・イギリス・オーストラリアの白人」と想定している時点で、時代遅れというか、なんというか。世界の変化に追いついてないというか。

また逸れた。ごめん。
言語が文法というものを土台として成り立っていると知り、1言語でこなせるようになると、2言語目はたとえ文法が相当異なっていても、違ったパズルをするんだという感覚で望めば、それほど苦痛ではない。

しかし・・・・年を取ると、また別のハードルが現れるので、今日はそのことを力説したい。何が違うかというと、とにかく覚えられない・・・のだ。それが第一言語であれ、第五言語であれ、とにかく単語や動詞の変化が頭に定着しない。耳や目から頭に入るは入るし、その瞬間は分かるし使えるが、あっという間に流れ出て行く感じ・・・。これは、高齢になってくると人の名前がどうしても覚えられない、覚えていたはずなのに思い出せない・・・現象と同じ。どうして?!??!と叫びたくなるぐらい、消えていく。

PTSDによって「覚えられない、思い出せない」を10年近く煩い、最後の5年は本当に悪化したので(なにせ病院や大学から家までの10分のドライブの道順が思い出せなかった。今も後遺症が続いている)、心構え的には「まあ仕方ないよね」という感じの私も、自分より若い人たちと毎日一緒に新しい言語を学ぶ中で、さすがに「ついていけない・・・」現実にあーーあとため息な毎日だった。

さっき辞書を引いた単語を5分後にもう一度引いている自分。単語の意味が思い出せないから引いたのではなくて、辞書で引いたこと自体を忘れているという衝撃の実態!昨日「覚えた!」と思った単語が、翌日きれいさっぱり消え去って、辞書を引いたりノートをみて愕然としてしまう自分。家族が直してくれた文章を、その直後に、見事に古い間違った文章のままでリピートしている自分・・・。

ほとんど喜劇?・・・というぐらい覚えられない。
消えていく。流れていく。耳に蓋をしたいぐらい。
まあ、焦る必要はないので、そこまで気にしていなかったのが、なぜか新年を迎えて、急に不安になった。ドイツ語が云々ではなく、自分の脳の状態に。

病気だから仕方ないとはいえ、なんとかならないのかな。
このままではPTSD→痴呆症まっしぐら。。。
なんだか、新しい言語の習得が痴呆症への抵抗戦略として重要に思えてきた。そこで、意を決して、ドイツ語を真剣に学ぶことで、老化に抗おうと決意したのがクリスマス。

でも・・・ご存知のとおり、超多忙。
季節が追いかけてきてる。広大な森と畑をなんとかしないと。
家事は手を抜くとしても。
民衆会議の残務処理は終ってない。いくつもの助成金の報告…。
原稿をいくつも抱えてる。
翻訳の仕事もある。
世界各地で起きてる問題に対応しないといけない。しかも2019年、ブラジルを含め、小農や先住民族が直面する状況は深刻化の一途を辿ってる。
しかも癌。

割ける時間は超限られてる。
そして、ドイツ語を始めたときは、そうしなければならないと思ったからで、積極的かつ主体的な意志は限りなく弱かった。

でも、ドイツの母が亡くなって1年近くが経過して、遺品に囲まれて暮らしつつ、弔った11月ぐらいから、小さなClassen家が、ついに私たちだけになってしまったことに、なんともいえない寂しさと責任を感じるようになっていた。そして息子にパートナーができたことで、Classen家の未来の世代をイメージするようになったこともあり、たとえ、自分の国籍が日本であり、離婚しているとしても、Classen家の父や母が家族の一員として私と息子を一生懸命愛して、沢山のことを伝えようとしてくれ、教えてくれ、遺してくれたことを、ちゃんと息子の子どもたちの世代に手渡していかなければならない・・・と感じるようになった。(日本の両親がまだ元気でいてくれているからかもしれないし、姉妹や姪っ子甥っ子がいるからかもしれないが)

また、庭に植えた果樹が自分の背丈を超え、美味しい果実を恵んでくれるようになって、地に根を降ろすことの意味を実感するようになったこともある。この芝生+花+モノカルチャー垣根の敷地を多様性の食べられる森・畑(Edible Forest Garden)に転換できるように、少しずつ変えて行く中で、その一部としての自分をしっかり位置づけないと・・・とも考えるようになった。

もちろん、この庭で生まれ育った猫たちがいる。いずれも保護猫だけど。彼女たちをおいて行くことはできないし、この庭から引き離すこともできない。ある日、突然出ていった3匹の子ども猫のためにも、いなくなるわけにはいかないと思う。

また、ハンビの森を守る運動やドイツ市民社会との連携を通じて、あるいは日々難民と一緒に机を並べてドイツの社会制度の一端を学ぶ中で、そして外国人の私に優しく接してくれる近所や親戚や友人の皆さんの暖かさを前に、世界がどうしようもない方向に行く今日、なんとか踏みとどまっているドイツの社会にコミットしたいという気持ちも湧くようになってきた。なんといっても、多くの時間をすごす国と社会を、このまま通りすがりの外国人というポジショニングで無視してはいけないと思うようになった。

つまり、ドイツの社会、家族、家の生き物の今後10年に、少なくとも主体的に関わるべきではないかとの気持ちが芽生えたのだった。といってもこれは大晦日、戦場のように打ち上げられる花火の騒音を聞きながらのこと。(このような戦場花火を許さないことも重要な気がして)

今迄のようにただ学校に、どこか他人事のように行って学んでいた姿勢を改め、あえて旅行の予約も種子の購入も、寝る前の本も、庭で耳で読むテキストも、全部ドイツ語に変えてみた。もちろん、単語はザルのように抜け続ける。でも、めげずに、繰り返し調べ続けて、読める範囲を少しずつ広げていった。

息子のパートナーがおばあちゃん家から持って帰ってきてくれた絵本を毎晩読み、彼女のすばらしい朗読の録音を毎日何回も感動しながら聞いているうちに、なんだか幸せがこみ上げてきた。(この絵本の素材がそもそもよかった。また紹介します)

それから1週間。
何が起きたのか?

やっぱりドイツ語はなかなか近づいてくれない・・・。

でも、はじめてドイツ語で買いたいものを探して(種子)、比較して、注文して、その商品が届いたときに、なんか手応えがあった。

で、かすかな奇跡が起きたのです。

昨日あたりから、ドイツ語が、手の届く場所に近づいて来た感じが出てきた。
それは、ドイツ語を通じて開いた世界に純粋に感動したあの感じ・・・が、やる気を喚起して、もうドイツ語の文章が「怖く」なくなった。むしろ、なんか勉強になる?という意欲を引き出してくれるようになった。

するとどうでしょう・・・。
一部の単語が定着し始めのです。
まさに奇跡。

大袈裟に聞こえると思うし、実際そうだと思うけど、私には奇跡に思えるほど、本当のほんとうに覚えられなかった。もう脳ダメになってる?・・と真剣に疑ったほど。

とはいえ、スペリングは相変わらずダメ。
これは何語でもどうせダメなので。。。
とくにPTSDになってからは、どうやっても何が正しくて何が間違っているかの判断自体が覚えられず、抜けていく。なので、正しいスペルを間違っていると思ってしまう。漢字も書けなくなったし。


ということで、結論からいうと。
他言語・多言語をやるのであれば、

1)幼少でなくていいけど、
2)記憶や脳の柔軟性が十分ある30歳前後までが楽にできる時期ということ。
3)でも、私のように50歳近く、あるいは脳年齢が70歳近い人でも、あきらめず、新たな扉をわくわくして開く感じを大切にすれば、新しい言語が習得できる(と思われる)のだということ。

ということで、いつも通り、話があっちゃこっちゃいったけれど、これにておやすみなさい。


a0133563_08144368.jpg

写真は現在、徐々にEdible Forest Gardenに転換中の森の様子。


by africa_class | 2019-01-12 08:15 | 【学】多言語学習

「たね」があってこそ〜こぼれ種で勝手に増える野菜のお話と危機。

年末年始だというのに、畑と森で忙しい。
6月の手術からクリスマスまで、ほぼ放置してしまったので、雨の隙間を狙って春に向けての作業を少しずつ開始した。冬が始まる前に、畑をカバーするはずの苅り草が、すべて森の中のコンポストコーナーに投入されてしまっていたので、泣く泣く一面の枯れ葉を畑に寄せて、数ヶ月。

なかなか畑に行く気分にもなれず、すごく後ろめたい気持ちでいたのですが、病気のこともあるからなるべく色々考えないようにしようと、家と学校の行き来の毎日でした。でも休みに入って、いくぶん天気も良かったので思い切って畑に出てみたら、ルッコラの可憐な花が待ってくれていました。

ルッコラの花、みたことあります?
愛しすぎて、どアップになりました。
a0133563_02311430.jpg
このルッコラにはお母さんがいました。
下の場所に元々いたお母さんルッコラ。

これはお母さんが散らばせた種から成長した第二世代の株。
春にトマトの苗を混植していたので、トマトの枝が残っている。
(枯れても根っこは引っこ抜かない。これは重要)
a0133563_02260940.jpg
この子達のお母さんルッコラは、すごくパワフルで、寒さにも、暑さにも、じとじと雨にも、極度の乾燥にも強く、ナメクジにもやられず、大きく大きく育ったので、そのこぼれ種から芽吹いたものを放置、あるいは畑のあちこちに移植したら、それがさらに第三世代を生み出したのでした。

日が当たる良い場所なので、すぐに大きくなって孫にあたる種子をあちこちに飛ばし、今はこんな感じ。数えてないけど、大体25株はある。
a0133563_02201081.jpg
つまり、こぼれ種の第三世代。
生命力が強くって、芝生の中からも芽吹いているのが分かるかと。
ルッコラは他のアブラナ科の野菜と交配しやすく、前のルッコラはかなり野生化してしまったので、このルッコラは近くにアブラナ科を植えないようにして元の品種を保っている状態。

袋を被せればいいだけだけれど、下にも書くように、なるべく人の手なしに回ることを追求したいので、袋も寒冷紗もやめた。

昨日と今日の作業は、これらの赤ちゃん株をさらに畑のあちこちに移植する作業。
そのプロセスで大きくなりすぎた葉っぱを摘んでサラダへ。
a0133563_02211041.jpg
自給を下手なりに目指してきた十数年近くの経験からいうと、生業として農をやるのでなければ、食べると育てるが連結して同時進行しないとどうしても上手くいかない。時間の割き方、日々のケア、やる気・・・あらゆる意味で。

この家にきたとき、「お花のきれいなイングリッシュガーデン」だった。バラもアジサイもしゃくなげもチューリップも素晴らしく美しい。
あちこちにある盆栽風の緑もきれいだった。

でも人の手を入れないと、すぐにみるも無惨な状態になってしまう。
虫や病気の発生源にもなって、とにかく手が回らない。
でも、家の誰も手伝ってくれない。

「美しさ」のために汗をかけるかどうかは、万人にとって同じではない。
家の掃除にかける努力が違うように。

でも「食べること」は別。
万人が食べなければならない。
しかも、野菜が高い国に住んでいて、畑に「食べられる草たち」いるとすれば。
(*私たちは所謂「野菜」以外のものも食べる。また詳しく紹介します)

私が畑に出れなくても、「食べるために摘む」というプロセスの中でケアを他の人にもしてもらえる。そこの違いはとっても大きい。

そもそも、サラダだって、ルッコラだって、ハーブだって、花を咲かせる。
うちのサラダ菜の花は青くて、ルッコラは白くて、ズッキーニは黄色くて、本当にきれい。もうすぐローズマリーが薄紫の花を咲かせる季節。

だから食べられるものを増やす・・・これが一番理にかなっているのです。
そして、自然が勝手に次世代を準備してくれるメカニズム。
つまり、理想は野草。
野草は勝手に生えて、勝手に次世代を再生産し、繁殖します。

私は、その野草たちも食べるし、お茶にしているのですが、野菜にも応用しようと試行錯誤してきました。実験的な追求も、「ナメクジ王国」なので、やれるものは限られてはいるのですが。

中でも、この「ママ・ルッコラ」と「黄色いトマト」は凄まじい。
もう一つすごいのが、スイスチャード(日本ではフダンソウ)。
「普段草」と呼ばれるだけあって、こちらも生命力が強い。

3年前の冬に蒔いた種から、現在4-6世代目。
大量に投入していた落ち葉をよけてみたら、元気いっぱいに育っていました。

a0133563_03560625.jpg
どんな風に増えていくかというと、どんどん大きくなる茎があって、そこに花がつき、種が鈴なりになるんです。それが風に揺られて地面に落ちて、ある時、雨や気候などの条件が気に入れば、勝手に芽を出してくるんですよね。

今回は密集しすぎたので種のついてる茎をカットして、たねを取り出しもせず、そのまま別の畑に持っていって、パンパーンとたたいてバラまくだけなんです。その直前の様子。

a0133563_03395278.jpg
もちろん、真冬なんで芽を出したりしないし、霜が降りるから本来、春まで待ってからやったほうが良いのですが、自然状態でこれだけ育つので、同じようにやってみようというのが私の実験。念のため、この状態のものを別途5本ぐらい保管してあるのでご心配なく。

ちなみに連作障害とかは、常に周りにたくさん別のものを混植しているので、いまのとこる出ていません。実感として、1年草であれ、それぞれの植物には好きな場所があって、そこなら何度でも気持ちよく芽を出して、大きくなる。でも、別のところでは同じというわけにいかないことも。

でも、「ママ・ルッコラ」や「ママ・フダンソウ」から分けてもらった子どもたち、孫たちを、畑のあちこち、特に家から最も遠いところに連れていくことで、冬の間も誰かにケアに来てもらえる(必要に応じて)機会を増やそうとしています。モノトーンの風景に青々したこの子たちがいると、なんだか気持ちが和らぐし。

フダンソウには、写真にある赤のアクセントのものだけでなく、黄色のアクセントのものもあって、それも楽しい。霜が降りても、雪が降っても、そこにいてくれる。「ありがとう」と声をかけたくなる、そんな存在です。
a0133563_03375963.jpg

しかし、これが可能になる条件が一つだけあります。
それは、「たね」。

土が大切ではないというつもりはないですが、「たね」は私のような自然任せを種まきまで任せたいと思っている人間には、「たね」なくしては何も成り立たないと実感しています。

遺伝子組み換えや市販のF1の種子では、次世代にすら向かえません。
気温・肥料などの条件を揃えてあげなければきちんと育たないだけでなく、環境の変化や病害虫に弱く、なにより採取した種子を植えても同じようには育たないようになっています。

私の植えたママ世代の種子は違います。

たねからたねへ、ひとからひとへ、自然の中で時間をかけて育てられ、一粒、ひとつぶ、選ばれ、集められた「たね」だからこそ、自ら生き延び、次世代を残そうという、生物の命・種子本来の生存戦略をまっとうしようとします。私がしたいのは、「その本来の力に懸ける」ことなのです。

モザンビークの農民女性にもらったササゲの種がヤバいぐらいの発芽率で、問題なくドイツでも育つことが示しているように、種子を買わず、交換や自家採取で残してきた種子のもっている生存力の強さは凄まじいものがあります。

もちろん、わざと悪い条件を揃えるなどはしないのですが(なるべく、その子たちが好きそうな環境に植えてあげようとはする)、あとは任せるだけ。

しかし、ドイツのこの地方、この畑にマッチした「たね」に出会うのは至難の業です。4年目になり、いろいろな人のいろいろな「たね」を試し続けてきました。

正直なところ、ダメになった「たね」もかなりの割合であります。
それは、振り返ってみると、これが理由かなと思います。

1)霜が降りなくなってから夏までの時期、夏が短いこと。
2)夏がいきなり終る(8月10日はもう秋)。
3)夏以外はずっと雨が降っていること。
4)露地蒔きではナメクジにすぐやられること。

でも、1株だけでも生き延びて種子を残してくれれば、その種子はこの環境に適した種子ということなので、次の世代、そして次の次の世代は、どんどん育てやすくなるのです。

そうやって生き延びた1株から増やしているのがディル、ドイツ・シソ、ケール。
カボチャは最初から問題がなかった。

日本で食べられている野菜類はやはりある程度のケアが必要で、最初から熱心に取り組んでなかったのだけど、今年はここに適した「たね」に育てることを目標に試行錯誤そてみようと思う。去年からそうするつもりが、手術と療養から戻ってきたら、すべて食べられた後だった・・・・。家族への周知徹底も、種子を残すには重要ですね。

しかし、世界的に種子の増殖や自家採取への法規制が強くなっています。種子と向き合うこと15年ほどで実感するのは、「よい種子を一度手にできれば、後の大体のことは大丈夫」ということこそが、アグリビジネスにとって都合の悪いこと。なぜなら、種子を売り続けることも、それに付随して化学肥料や農薬を売り続けることもできないから。

逆にいうと、「種子」さえ農家に売りつけられれば、それにマッチした肥料や農薬がないとちゃんと育たないために、農家を従属させることができる。だから、農家を企業やシステムに隷属させたければ、まず最初に「種子」を使わせないといけないのです。

このカラクリに気づいた人達が「遅れているから」ではなく、このような支配への抵抗として「私たちの種子」を守り、使い、交換しています。そのことを、11月20-22日まで東京で開催した3カ国民衆会議では伝えようとしたのですが、伝わったでしょうか?

特に、2日目の1部
http://triangular2018.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
そして、種子の交換会
http://triangular2018.blog.fc2.com/blog-entry-33.html

日本のJICAがモザンビークで進める「プロサバンナ事業」では、自家採取する人が8割を超えているモザンビーク北部で、「改良品種を普及する」ことに熱心に取り組んできました。マスタープランのレポートでは2030年までに農家の3割を転換する目的まで掲げられていました。

このことに関する小農リーダーたちの声は改めて紹介します。
またしても長くなったので、今夜はここら辺で。



by africa_class | 2019-01-04 05:18 | 【食・農・エネルギー】

癌になって想ったこと。感謝、これからに向けて。

雨の降るドイツから、新年明けましておめでとうございます。

昨年の大雪のクリスマスを思い出すと、拍子抜けするほど暖かく、雨の多い冬となりました。そのせいで、本来しっかり休養できるはずのこの時期に、自然が春と間違えて暴れ始めており、やることが山のように押し寄せているところです。焦らないように、今年は初校ゲラ(丁度よいB4サイズがホッチキス留になっている)の裏に、計画や図を書いてみているところ。

2018年もまた、いろいろな意味で岐路となった1年でした。
なによりも、「癌(がん)」を宣告され「ガーン」。
・・・という親父ギャグをとりあえずかましておきましょう。
ただ、当人(わたし)はそれほど驚かなかった。
理由はあとで書きます。

私をよく知っている人ほど驚いたこの宣告。
とくに家族。

というのも、私は20代のことから肉食を止めて、20代後半から玄米食+オーガニック野菜、それから基本的に食べ物にこだわった暮らしを心がけてきたからです。数年前から牛乳や乳製品も止めた。タバコも吸わないし、吸われている場所には近寄らない。お酒はかなり飲んだけど、家族ほどではない。しかも、とっても痩せている。3人姉妹の中では、一番「癌」になり得ないと言われ続けていた私でした。

でも、私の父を含め、父方親族は「癌」だらけ。
しかも、私だけが父方の遺伝的特徴をたくさん受け継いでいたので、いつか「癌」になるリスクが高いと自覚して、それもあってかなり気をつけてきたのでした。

甲状腺の病気もあったので、初期のころに飲んでいた薬が癌を誘発する可能性があることも知っていました。

もう一つ、他の2人と違うのは、私だけ東京暮らしをしてきたということでした。震災前も中も直後も、その後3年間も。支援活動もしていた。

さらに悪いことに、PTSDで長らく起き上がれない状態が数年続いていました。一日中、布団の中、あるいは家の中ですごすことが大半の日々なのに、とっても強いストレスを感じながら暮らしてました。

それが、2017年の後半から、「これは完治しようとしてる?」と思えるほど調子が上向きになってきて、2018年は「次」に進めるなという手応えを感じた年でした。

その矢先に、手術→癌の告知となったのでした。

もちろん、何が原因か、決定要因なのかは分かりません。
でも、事実として「癌になりやすい生活習慣」に少なくとも食生活はあてはまらないにもかかわらず、やっぱり癌になってしまいました。逆にいうと、ちゃんとした食生活をしていたからあの程度でよかったのかもしれません。

生まれて初めての手術をしたのは去年の6月でした。
3カ国民衆会議の準備の最中で、その翌週には実行委員会を立ち上げるというかなり無茶をしたのですが、未だその時点では「しこりを取る」ぐらいの気持ちだったのです。

それでも、手術の後、初めて外出したとき、実家から駅の歩道に咲いている小さな花を見て、
「なんて美しいんだろう、生きてるってなんて素晴らしいことなんだろう」
と感激したことを昨日のことのように思い出します。

その感激のまま2週間がすぎて、「ほぼ癌ではないと言ったけど、やっぱり癌でした」と言われたときには、この生の喜びが近いうちに断たれるのかもしれない現実に直面して、すごくすごく残念に感じたのでした。

哀しいというより、残念な気持ちが大きくて。
ようやく布団から出て、これから次に向けて開いていこうと思っていた矢先だったこともあります。

ただ、もしそんな日(癌だとか何らかの病気と言われたとき)がきたら・・・と思った以上には、ショックではなかった。

というのは、私にとって「死」は幼いときから身近にあって、「いつ死ぬか分からないから、悔いのないように日々を生きよう」と考えて生きてきたからです。

息子がお腹にいるときは、産む前に死んでしまったらどうしよう。
息子が小さいうちは、大きくなる前に死んでしまったらどうしよう。
・・・などと、必要以上に心配していたものの、その息子も成人目前とあって、やるべきことはやった感じはありました。

ただ、これからの息子の未来を見届けたい、自然とのふれ合いがより深いところで面白くなったこともあり、そして何よりまだ手渡していない多くのバトンがあり、最後に私が本当にやりたいと思って着手してこなかった「しごと」が思い起こされ、とにかく少しでも長く生きたいなと思って、困ったな・・・どうしようか・・・と戸惑ったまま、日本に戻りました。

とはいえ初期のものなので、すぐ死ぬわけではないこともわかっていたので、それほど精神的に堪えたわけではないものの、何より気になったのは、「再発を抑えるために放射線治療とホルモン治療をしないといけない」という点でした。自分のこれまでの生き方にあまりに反したものだからです。

でも、日本では患者と医師の関係は対等とはいえない空気感があります。
とても気さくでよい女性の先生(しかも長年知っている)で、信頼もしているけれど、30%の再発を避ける、限りなく0にするには、放射線とホルモン治療をすぐに開始するしかないと言われて、治療が受けられる病院は2つあるので選びなさいと言われて、その場でとにかく選んで、ベルトコンベアー式に病院に向かうハメに。

この私ですらこうだから、きっと多くの日本の患者さんもこうだと思う。

真夏の暑い最中にその病院に行って、レントゲン検査やら血液検査やら、あれやこれやを朝からやってお昼ご飯を食べて放射線の専門医の先生とのアポを待っている間、ふとこんなに受け身でいいのだろうかとという考えが頭をもたげてきました。

その疑念を払拭できないまま、先生の説明を受けているうちに、どうしても納得できない自分が見出され、先生に「あの・・・」と一言いっただけで、その若い先生がニコッと笑って、「説明は全部したので、1週間ほど考えてからでもいいんですよ」と言ってくれた瞬間に、何か憑き物が落ちたような感じというか、「自分の決定権」を取り戻したような気がして、そうさせてもらったのです。

帰り道、やはり道ばたの花や緑が美しくて、ああ「生きる」というのはこういうことだな、と実感したのでした。ただ毎日を過ごしていくのではなくて、「自分の生を自分として生きる」ということを、様々な制限との綱引きの中で考えながら選択していくことなんだなと改めて思ったところでした。すでに、長い闘病生活から、自分の想い通りにならないものがあるんだということを実感していたものの、いつかは治ると思われた精神的な病気と異なり、癌とあっては仕方ないとあきらめていたのでした。でも、もう一度いろいろリサーチして、自分なりの決定を下そうと思ったのです。

翌日から放射線治療のはずが、その時間を使って色々調べ、考え、自分なりの答えを出しました。それを日本の家族に言ったら、絶対反対されると思っていたのに、「こればっかりは自分で決めること」と大人な反応が返ってきて、逆に拍子抜け。そして、主治医に再び会いに行ったら、最初は明らかに気分を害されていたと思うものの、4通りの選択肢を示してくださって、一緒にそのうちの1つを試みることになりました。

つまり経過観察を頻繁にする。
怪しい兆候が出たら即座に手術。

これまた拍子抜けだったのですが、その選択肢があるのであれば最初に教えてほしかった…。最新の医学の知識でいうと、「放射線+ホルモン治療がスタンダード」だから当然これを選ぶべきという前提がどうも医者の立場からあるよう。もちろん、医者にしてみれば、患者のために再発可能性をいかに減らしていけるかが重要なのであって、患者自身がリスクを承知してます、でも自分で決めたいと明確にいわない限り、なかなかこのオプションを勧められないこともよく分かりました。

なので、やはり自分がどういう生き方(死に方)をしたいかを考え、それを意思表示することは、自分の決定権を手放さないためにも大切なことなのだと実感したところです。

もちろん、その意思は変わることがあってもいい。
でも、一度は決めないといけない。
そして、その決定から学んでいけばいいのだ、と。

ということで、意思表示をしてコンセンサスを得て、病院から帰る道はるんるんで、心に羽根が生えたようで、納得がいかないことを瀬戸際で思いとどまってよかったとの想いで一杯でした。

この1年は息子が料理をしてくれたこともあり、かなり任せっきりになっていたのを(とても遅い時間に食べていた)、息子に甘えず自分でしっかり食材の把握と調理もやろうと心を入れ替えたものの、なにせ民衆会議が忙しすぎて、どうしても疎かになっていたのです。でも終ったので、心機一転、プチ断食をしたところでした。

断食をしてたくさんの発見がありました。
この数ヶ月、夜ご飯を食べないようにはなっていたものの、思い切って4日間「軽い断食(ファスティング)」をしてみて、身も心も軽くなるのを実感しました。

そして大人であれば、たいして食べなくとも普通に暮らせることも知りました。むしろ、エネルギーが身体の軸から湧き出てくるような不思議な感覚も得られ、肌はツルツルになり、この素晴らしさを皆さんに伝えたいと思っています。

ということで、毎度のことですが長くなりました。
「癌」にはなりましたが、お陰で「生」がこれまで以上に、輝いて、大切なものに思えるようになり、感謝しています。

そして、なかなか「次」に気持ちがいけなかったのが、癌への向き合い方を自己決定したお陰で、て感覚としてどんどん広がりが感じられるようになりました。

人生のこの段階での「癌」との出逢い。
いつかこれが私の生命を奪う日がくるとしても(そうでないと祈りたいし、努力もしていきますが)、これもまた試練だけでなく、多くの気づきを与えてくれたことだけは、感謝しなければならないなと思っています。

2019年、もっともっと自然と身体と食と語らい合い、深くふかく考えたいと思います。


a0133563_04142814.jpg
息子のパートナーのおばあちゃん家のキャンドル飾り





by africa_class | 2019-01-02 04:16 | 【徒然】ドイツでの暮らし