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朝日新聞社のWEB論座に寄稿しました(「イスラム国がモザンビークを攻撃」の衝撃)

なんだか夏の終わりのような天気ですね。
以前からお誘いいただいていたのですが、なかなか原稿を書く時間と余裕がなくて、4ヶ月もかかってしまいました…。が、学術界やNGOだけでなく、ビジネス界のみなさまから、日本の企業(三井物産など数社)が進出するモザンビーク北部で続く「ムスリム武装集団による襲撃事件」の実際と深層を知りたいから教えてくれという声が相次いでいました。

実は・・・モザンビーク研究は先日東京大学出版会から出した共著本『解放と暴力ーアフリカにおける植民地支配と現在』(小倉充夫、舩田クラーセンさやか)で終わりにしようと思っていました。

しかし、ついに「イスラム国」が6月6日に関与を発表したので、この件に関する基本情報と議論の整理ぐらいはしておかないといけないな・・・と思って、今回記事を書くことにしました。

参考文献は付けられないルールなので、記事には付けていませんが、元原稿のすべての行に1つから2つの注を付けています。また時間をみてそれらを紹介できればと思います。基本的に、英語とポルトガル語の新聞記事(モザンビーク政府系+独立系、ポルトガル、ドイツ、アメリカ、英国、その他国際)や専門家のインタビューや論考などを参照しています。

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「イスラム国がモザンビークを攻撃」の衝撃(上)

天然ガス輸入で日本も関係大。「遠いアフリカの国」の出来事で片付けられない

http://bit.ly/2XOwz6H


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実は、いま攻撃が続く地域、そしてムスリムの若者のリクルート先とされている地域は、私の長年の調査地です。

とくに、この地域のイスラーム化と周辺諸国との関係については、博士論文と科研調査のテーマで、2005年には・・・タンザニアのザンジバル、ダル・エス・サラームを基点に、インド洋沿岸部から内陸部にかけて、ロヴマ川を渡って、モザンビークのカーボデルガード州からニアサ州までの旅を、5歳の息子を連れて、3ヶ月かけて行いました。

毎朝起きると、息子は、「ママ今日は挨拶はなんていえばいい?」と聞くほど、激しい移動でした。

タンザニアではスワヒリ語や英語、
モザンビークではスワヒリ語、マクア語、ポルトガル語・・・

そのときの経験が、息子の起業に繋がった話は先日このブログで紹介しました。

18歳の息子が社会的起業(ソーシャルビジネス)や「昆虫食」にこだわるようになった理由、それはアフリカで…。

https://afriqclass.exblog.jp/239311158/

2005年の他にも、2003年、2004年、2006年とこのテーマを追ってきたのですが、それだけを取り出して論文を出版していなかったので、現実には博論を土台にして執筆した『モザンビーク解放闘争史ーー「統一」と「分裂」の起源を求めて』(御茶の水書房、2012年)の3,4章をみていただくしかないのが申し訳ない限りです。

この本の表紙は、実は今回「論座」の記事の冒頭で紹介したキリンバ群島の一つであるイボ島のサン・ジョアン・バティスタ砦のある部屋の扉の写真です。ここに、かつては奴隷貿易で取引されていた「奴隷」、1960年代にはポルトガル植民地警察によって勾留された政治犯が収容されていました。その中に、この地域のムスリム指導者たちが多く含まれていました。

ポルトガルの秘密警察は文化人類学を雇って、この地域のイスラーム化とそのネットワークを分析しており、その担当官だった大学教授が残した本や資料を読み解き、家まで尋ねてインタビューして、本は仕上げました。2012年に出版された英語版の方が、もう少し詳しく書いているので、関心があれば英語版をご確認下さい。

The Origins of War in Mozambique: a history of unity and divisions (Ochanomizu Shobo, 2012)
あるいは、オンライン版をAfrican Minds社から無料で公開しているので、そちらをダウンロードいただいてもいいかと思います。



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by africa_class | 2019-06-16 13:10 | 【記録】原稿・論文

18歳の息子が社会的起業(ソーシャルビジネス)や「昆虫食」にこだわるようになった理由、それはアフリカで…。

息子(海)の葛藤、たくさんの皆さんに読んでもらったようでありがとうございます。
未読の方は、まず以下の投稿からご笑覧いただければ。

日本で11歳まで前髪の向こうに隠れていた息子が、7年後にドイツの起業コンペで優勝するまで。

https://afriqclass.exblog.jp/239298221/

ドイツから「熱血パパ」が何度もメールしてくるんで、皆さんにも協力をお願いさせていただきつつ、海がなぜ起業家になろうと思ったのかの話を紹介させてもらおうと思います。

実は、海は友人のFinとともに、14-19歳向けのStartup Teenというドイツの起業コンペに参加しています。そして、本日(6月13日)の21時(日本時間)に投票が締め切られるそうで、皆さまに彼らのビジネスプランを確認していただき、「いいな」と思ったら、ぜひ投票していただければ!

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現在エントリー中の10代の起業を応援するStartupteensサイト
https://www.startupteens.de
ドイツのサッカー元代表のフィリップ・ラームや名だる企業が応援している。
*前回優勝したコンペは起業サポートのコンサルタントの費用を負担してもらっただけで、起業のための資金はもらえなかったので、このコンペでそれを確保したいということです。


1. アカウントを以下のログインURLで作成、anmeldenというのをクリックすると仮の登録完了
https://www.startupteens.de/user/register
2. 登録メールアドレスに確認がくるのでクリック
3. ホームページに行って登録が完了するので、画面の下に出る「zum Online-Voting」をクリック。

あるいは、
3. 改めてログインすると、
4. エントリーされているティーンのビジネスプロジェクトの一覧が出るので、下の方に出てくる海たちのプロジェクトEntorganics - (Sciences & Health)のビデオを見る。
5. 気に入ったらぜひ親指が立っている左の画像をクリックで投票。

a0133563_17114915.png
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とはいえ、ドイツ語なので、彼らのビジネスプランを補足します。
海とFinは、現在世界で進む肉食化が地球環境を壊し、地域の人びとの人権を侵害している現状に危機感を持っています。そこで、肉よりも優れた栄養価を誇る「昆虫」を積極的に食べる文化を広めることで、少しでも肉食の回数や量を減らせないかと考えています。

彼らのホームページによると、昆虫食は肉より、
1. 75%少ないエサを必要とし、2. 99%少ない二酸化炭素を出し、3. 99.3%少ない水を必要とし、4. 87.5%少ない土地を必要としているといいます。
https://entorganics.com/
(なので、肉食化に伴って飼料である穀物や大豆の大量生産のための森林伐採や土地収奪[ランドグラブ]などの自然破壊や人権侵害を減らせます)

<=この問題に海が凄く関心をもった背景は下の方に

ドイツ人は1年間に1人あたり65キロもの肉を食べているので、まずはドイツ人をターゲットに「昆虫食」を広めたいといいます。とくに、ドイツの若者の間で、ジムにいって身体づくりがはやっており、それに伴って「プロテイン」を大量に採ろうとする人も増えているため、これを肉で補うのではなく、「昆虫」でと考えているようです。

なるほど、粉にしてしまえば虫がキライな人でも食べれるよね、と思いますよね?

しかし、インスタのページを見てもらえれば分かるように、彼らは「虫のかたち」をあえて見せる形で写真とレシピを掲載しています。(といっても乾燥虫なのでご安心を)
https://www.instagram.com/entorganics/

よりハードルを上げるその手法には私でもとっても疑問だったのですが、「粉にしてしまえば簡単だけど、なぜ昆虫食を勧めたいのかの意義が薄まってしまう。あえて『昆虫を食べる』ことに価値を見出してもらえるように頑張るのが、自分たちが他の昆虫食企業と違うところ」だといいます。なので、自分たちのプロダクト(昆虫が入った食品)は、オーガニックも重視していると(なのでEnt<虫.>+Organics<オーガニック>)。

つまり、「昆虫食の伝道者」になるのだそうな。。。。

彼らは、日々、ドイツの家で試作を作って撮影しているため、乾燥虫があちこちに散らばってて、最初はフライパンを共有することも「ヤメてー」だったのですが、人間とは恐ろしいもので、2週間も経てば「日常風景」になってしまい、慣れてしまった。。。そういう実験対象にされていると知ったのは、後のこと。

「虫なんて絶対食べない!」とがんばっていた私をまず攻略するのが、狙いだったようです。まあ、見た目美しく、美味しく作ってくれていることもあり、今では普通に彼らの作ったものを食べている自分がいるのが驚き。(百聞は一見にしかず。まずインスタみてやってください)

なので、今エントリーしている起業コンペのビデオで最後に言っているように、彼らの狙いは、昆虫食の料理ブックを出版しつつ、昆虫食クッキングクラスを開催し、以上を意識したエコでソーシャルな「昆虫食ラインナップ」を商品化して売りたいのだそうな。(言うは易しだが…、まあ人生一度だけ。若い頃はいろいろ挑戦すればいいと思う。)

なお、これらのことは、前のブログに書いたとおり、今年1月に写真撮影を依頼されて以降しったことであって、彼の起業プランや準備に、私や彼の父親は一切関わっていませんでした。17歳のときに、Finと一緒にシベリア鉄道3週間の旅をした際の膨大な時間に、二人で延々と語り合い、考え、つくったものだったそうで。2月のコンペに向けて、すべてのプレゼンが出来てから見せてもらってビックリ。

では、なぜ海は起業、そして昆虫食に向かっていったのか?
話は18年ぐらい遡ります。

彼の母親(私)は、戦争と平和学、そしてアフリカ研究者として、1997年から毎年数ヶ月をアフリカ(モザンビーク)の村々で調査を行っていました。ちょうど調査の基盤が出来て、半年から1年以上調査地で生活しながら研究を進める目処がたった1999年(そして奨学金もほぼとれていた)、妊娠が発覚しました。(未婚な上に、まだ学生だった。もう2つ問題があったのですが、それは書かないことにします)

悩みながらも出産を決意し、海が誕生します。
でも、調査を諦めきれず、生後11ヶ月の海を連れてモザンビークへの調査に向かいます。
当然、家族もアフリカ研究の先輩たちも大反対。
でも、予防注射をすませ、あらゆる予防策をとり、アフリカに向かいました。
(余談ですが、日本の保育園で中耳炎をうつされ、抗生物質を処方されるも悪化の一途をたどってどうしようもない状態まで追い込まれていたのですが、アフリカに連れていった途端なおった・・・ということから、無菌・抗生物質大国の日本は日本で危険だな・・・と。)

以来、海も毎年夏に数ヶ月モザンビーク、タンザニア、ザンビア、ルワンダなどの村々での調査に同行し、成長していきました。私の調査地は森が豊かで河川も多く、お米や雑穀、お豆がたくさんとれる食べ物が豊富な村で、遊び相手となる子どもにはことかかず、のんびりとした日々を送っていました。(ただし、草むらは地雷が残ってるのでそこは厳しく入らないように制限しました)

泊まるのは、伝統的チーフのコンパウンド(家の敷地)の中庭。そこに家族用のテントをたてて、ワラで囲っただけのトイレ兼水浴び場を一緒に使わせていただいていました。

朝4時から家のお母さんが中庭を掃き出し、水をくみに川か井戸に向かい、5時には近所のみなさんが次々にやってきて、挨拶&談話にはげみます。そして、子どもたちがわんさかやってきて、海と遊びたくて仕方ありません。ご飯は、お母さんや娘さんたち、あるいは近所の人達が持参してくれるのですが、基本的に2汁(肉か豆かゴマのお汁+野菜のお汁)+ご飯か雑穀かトウモロコシのお餅だけ。おやつに木になっているミカンやバナナやパイナップルをいただきます。どんなものが出されても、海は全部おいしく食べていました。それは、作ってくれているお母さんたちの苦労を目の当たりにしていたからです。

お母さんと娘たちは料理などの家事の全部だけでなく、料理に使う水、薪、材料のすべてを確保する必要があります。わたしが調査のために不在にしている間、家に残っていることも多い海は、お母さんや女の子たちの大変な様子をつぶさに観察していて、そんな苦労をしてまで作ってくれたご飯を大切に食べないとという気持ちを強くもつようになりました。なので、どうやってもキライといって父親が出されたものを食べないことに心を痛めていました。

アフリカといっても、国や地域が変われば食べるものも変わってきます。
海が5歳になったころから、モザンビーク以外のところでも調査を開始したため、とにかく「出てきたものは何でも食べるのが当たり前」という姿勢をもって育ってくれました。またさっきまでそこらを歩いていたヤギやニワトリが夕食に出されることも多々ありました。命をいただき、自分の命を生き長らえさせることの意味を、日々実感していたようです。そんな中、それが昆虫であれ、否定せず、人間の食べ物となったものを大切にいただく姿勢が、いつの間にか身に付いたのだと思います。

あとは、今彼が育ったモザンビーク北部、そしてアフリカ中で急速に進むアグリビジネスによるランドグラブ(土地収奪)に苦しむ農民の姿をみていることが「昆虫食」に向かっていった原動力だそうです。実は、私がモザンビークで日本とブラジルが進める大型農業開発(特に大豆)「プロサバンナ事業」の問題にこれほど取り組むきっかけになったのは、彼の一言からでした。

「ママ、この日本が進めるという『プロサバンナ』って事業だけど、おかしいよね?だって、ここ(モザンビーク北部)に『サバンナ』なんてないじゃん。だから農業開発とかするんだったら、森を伐るってことだよ。日本のお金を使ってなんかおかしなことしてるんじゃない?ママなんとかしなきゃ!」

そして、ママはがんばったのだが、結局プロサバンナ事業は現在でも続いてしまっている。
何度か来日して訴えるモザンビークの農民たちと時間をすごした息子の中に、「大豆、アグリビジネス投資、水、土地、人権」の問題をなんとかしたいという想いが静かに続いてきたことを、初めてプレゼンを見たときに理解して、涙が止まらなかった。

プロサバンナについてはこのブログのタグを見て頂くか、日本のNGO・JVCさんのページをご覧下さい。
https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/advocacy/prosavana-jbm.html


そして、起業については、3歳の頃のこと。

村にいるときは、子どもたちがどんなにボロをまとっていても気にしていなかった海が、モザンビークの首都マプートで物乞いをしている同じ年齢の子どもたちを目にして、衝撃を受けたようでした。車の後部座席でじっと黙り込んでいたかと思うと、突然大泣きして、「ママ!もってる僕のお洋服、全部あの子たちにあげて」と叫びました。そして、「僕がもってるコインもぜんぶあげるから、ママも全部あげて」と。息子は、モザンビークの硬貨は大きくてきれいといって集めていたのでした。

レストランの前で駐車すると、ボロボロの服をまとった子どもたちが、次々に手を差し出します。モザンビークにその前の10年前から通っている私としては、手放しで「可哀想」といってコインをあげるのは気が引けます。このような年齢の子どもたちに物乞いをさせる親や大人達の存在を知っている以上、これを増長させることがあってはならないとも思って、なかなかコインをあげることは出来ませんでした。

その様子をみていた息子はより心を痛めていたと思います。自分はおいしいものをたらふく食べて、ちゃんとした服をきている。村で一緒に遊んだお友達のような子たちが、こんなに目にあっているとすれば、助けて当然じゃないか、と。

そこで、私は海と方針を決めるために、じっくり話し合うことにしました。
「海くんは、どうしたらいいと思う?」
と聞くと、
「僕、なんにも要らないから、全部あげて」
「全員に?」
「うん。全員に」
「全員に行渡る?」
「買ってあげればいい」
「そんなにお金ないよ」
「じゃあ、日本に戻ってお洋服を沢山あつめてまたくればいい」
「なるほど。でも、それで解決になるかな?」

すると海は唇をかみしめて、うううーーーと言って大粒の涙をぽたぽたと落とし始めた。
抱きしめて落ち着くのを待つこと数分。
泣きながら
「ならない」
と一言いって、わーーーんと泣いた。
私たちも泣いた。

無力感を全員が実感したまま、その日は終った。

「「ならない」としても、できること、やるべきことは何だろう」
私たちの話し合いは続いた。
私がした提案は、物乞いの子どもたちの名前を聞いて、しっかり話して、なぜ物乞いをしているか聞いて、納得がいったらあげられるものはあげようというものだった。少なくとも、「物乞いの子ども」ではなく、「出会った●●くん、●●ちゃん」として接してみようと。

そうやって出会った●●くん、●●ちゃんと、沢山のお話をした。
パン屋でパンを買って、なるべく毎日会いに行った。
首都を離れて村に向かう前夜、これらの子どもたちのところを一通り回って、お洋服とお金を少し手渡した。
その間、海は一言もいわなかったけれど、子どもたちとしっかり握手をしていた。

北部の村に向かって車を走らせている間も、海はずっと黙ったままだった。
あの日以来、心から楽しんだりしていない彼の姿があった。物思いにふけっている感じがあった。
村までは何百キロもある。
長い長い道のりを走りながら、聞いてみた。

「あのこと気にしてるの?」
「うん」
半泣きの顔でわたしを見つめる。
「じゃあ、どうしたらいいか一緒に考えよう?」
「うん」
少しほっとした表情をみせてくれた。

それからの6時間ぐらいのドライブの間、海は次々に「どうしたらいいか」の提案をしてくれた。
一番最初の提案を、今でも覚えている。

「僕が、お洋服工場をマプートに作る。そこで子どもたちが働いて、お金を稼ぐし、新しいお洋服ももらえる!」

「なるほど。それはいいアイディアだね」と言った後、いくつか質問をしてみた。
「子どもを働かせるのでいいのかな?」
「どうしてお洋服工場がモザンビークにないんだろうか?」

その度に、海はじっと考え込む。
そして何分も経った後に、いろいろな回答をしてくれる。
そうこうしているうちに、彼の中の悩みが深まったような辛い表情が現れてきました。
「じゃあ、また次の案を考えてみよう。アイディアはいくらあってもいいんだから、楽しくアイディアを出し合おうね。ママも考えてみるよ」

そして、私たちのビジネス・アイディア大会が始まりました。
アフリカだけでなく、世界のどこに行こうとも、海と私はビジネスアイディアを提案してみる、すでにあるビジネスの改善作を考えてみる、そんなことを繰り返していきました。

最初は、アフリカで何かビジネスをすることにこだわっていた海であるが、大きくなるに連れて、そこはこだわらなくなっていきました。それは、アフリカの政府の腐敗を理解するようになって、そのようなハードルを引き受けることが難しいと判断しはじめたからのようでした。大好きなアフリカ。でも、権力をもった人とのコネや一存で、ビジネスの成功や失敗が決まる現実に、それは自分がやりたいことではないと実感したようでした。

あれから15年間、これまでずっと、一緒に車で移動したりどこかに行くと、常にビジネス・アイディアを出し合って、楽しんできました。それを実際にするつもりで話しているというより、もうほとんど「会話のネタ」みたいになっていて、おそらく余所の皆さんからすると「変な家族」に見えたと思う。世界やドイツ、日本の時事ニュースについても話し合うのだけれど、やっぱり一番盛り上がるのは、「ビジネス・アイディア」を話し合う。

一応、私は大学教員なので、本来もう少し「教育」に注目すべきだったかもしれない。でも、非常勤講師を含めて、15年以上高等教育に関わってきて、ここ5年は世界の大学機関にも関わることも増えて思うことは、大学は本人が必要だと思えば行けばいいけれど、本人がやりたいことをまずやってからでも遅くない、ということでした。クリアな目的がないままに大学に行っても、深い学びは獲得できないことは経験上分かっていたことで、多くの若者の学びの発展をみてきた立場からいうと、本人が学びに真摯に向き合う姿勢やツールを手にしている場合は、大学は便利だけど必須ではないと思ったのです。

本人は色々考えているようで、未だ大学の選択肢をなしにしたわけではないものの、大学入学資格のために3年、大学で4年、今後7年を本当に費やすかどうかは、要検討だろうとのことでした。また、今しかできないことをしたい、と。それは、十代で起業することは、それなりに珍しいために、多くの人たちが興味をもってサポートしてくれる。でも、二十代の起業はかなり普通なので、そのようなチャンスを得ることはできない。だから、今全力をあげて起業して、もしビジネスが軌道にのったら、次にしたいことを考えて、大学も視野に入れたらいいと思うとのことでした。(なお、ドイツでは5年間働いた後は大学は入りやすくなる)

なんといっても、他の誰でもない彼の人生。
彼が真剣に考え、いろいろ試し、自分の道を曲がりくねって茨の道であろうとも、それを自分で選んで、一歩ずつ歩いていくのを、時に遠くから時に近くから見守るのが、親の仕事かな、、、と思っていまは思っています。

一応、私は海の母親ではあるものの、彼と出会って、たくさん話させてもらった結果、私の生き方や人生も激変しました。彼との出逢いがなければ、きっといまの私はないと思います。

  • 心をもって他者と接すること。
  • 見過ごしていたもの(本質を含め)に正面から向き合うことの重要性。
  • 「大人目線」あるいは「大人の事情」を重視して、その場しのぎの嘘やごまかしをよしとしないこと。
  • 世間がこうだという基準で考えないこと。
  • 「自分にも何か出来るのではないか?」と広がりの中で考える視点。
  • 学ぶ場、手法には多様なものがあることを否定しないこと。
  • 「やれない」から入るのではなく、「やれる」と信じて行動すること。
  • 自分が活かせる場を見極め、選択すること。
  • 人生をプロセスとして捉え、その順序は戦略的に自由に組み立てること。
  • ファンタジー(空想)やクリエイティビティ(創造力)を鍛え、大切にすること。

だから、大学の教員を辞めると決めるときも、実は海にまず相談したのでした。
その時未だ14歳だった彼のアドバイスが素晴らしかった。

「ママ、ママがしたいようにするのが一番だよ。応援してるから」

今度は、私の番と思ってる。
といっても、彼には応援してくれる人がたくさんいる。
だから、そっと遠くから応援するぐらいがいいのかな、と思う今日この頃。

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海が2歳のときに行ったマプート郊外の水害からの避難者のコミュニティでのパーティでの一こま。
出されたのがピリピリ照り焼きチキン。
要は唐辛子チキンで、泣きながら、でも完食していた。
あれは昆虫食に進む下地をつくったと思う(たぶん)。
















by africa_class | 2019-06-13 15:04 | 【促進】社会的起業/企業

【6月6日19時〜@京都】緊急企画「〜普通の市民が国境を越えてつながるために〜」でお話をさせていただきます(IWJ 大阪Ch1中継あり)

ブログでの告知が本日になってしまってすみません。

ツイッターでは紹介しましたが、ブログしか見てない人がいるのを忘れていました。

以下、主催者の京都ファーマーズマーケットさんのFBの告知文です。
https://www.facebook.com/events/404267120165627/

当日は、IWJ大阪Ch1で中継配信があるようですが、一部だけなので、是非会場にお越し下さい。
境町画廊は、駅から近くとっても素敵な場所で、かつ主催者の井崎さんをはじめ、素敵な人達が準備してくださった企画です。新しい素敵な出逢いのためにも〜。


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2019年6月6日(木)19時〜21時@境町画廊(京都)


緊急企画

〜普通の市民が国境を越えてつながるために・舩田クラーセンさやかさんのお話〜


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昨年の秋の京都ファーマーズマーケット2周年企画。
総合地球環境研究所のFEASTプロジェクトの研究者・小林舞さんと、耕し歌ファームの松平さんご夫妻のご協力のもと、ブラジルとモザンビークから農家さんにお越しいただいて、現地で推し進められようとしている大規模農業(日本政府も協力しています)をなんとか食い止めようと奮闘されている現状を直接お聞きしました。
これは、東京はじめ地方でも何度も開催されたシンポジウムの一環として京都にもお立ち寄りくださったのですが、直接、お話を伺えたことはとても大きかったのでした。
その後、大規模なサイクロンに襲われたモザンビークはどうなっているだろう、そして1日で愛知県規模の面積の森林伐採がされているというアマゾンは一体どうなっただろう、、、ずっと気がかりでした。
この度ようやく、FEASTプロジェクトの小林舞さんのおかげで舩田クラーセンさやかさんにお会いできました。
アフリカ研究者であるさやかさんは何十年も前から社会問題に積極的に関わるアクティビストとして、人権問題や環境問題に取り組んでこられました。昨秋のシンポジウムの中心メンバーでもいらっしゃいます。
アフリカや南米でグローバルな無茶苦茶な開発が進められている現実は私たちの暮らしに直接影響しています。
でも、どうやったら流れを変えられるだろう?
心配するばかりで祈るしかない現実ではありませんか?
私はずっとそうでした。
ジャーナリストでも研究者でもない、ごく普通の市民は一体どうやったら世界の同じ思いの人たちと連携できるのだろう?
舩田さんに市民が連携して政府や大企業の計画をストップしてきたお話を伺うことは大きなヒントになると思っています。
普段は海外で暮らしてらっしゃる舩田さんのお話、この機会にぜひお聞きください。
舩田さんのご経歴と、「世界」に連載されたレポートを添付しておきます。
https://websekai.iwanami.co.jp/categories/79
当日はFEASTプロジェクト研究員の小林舞さんもお越しくださいます。

日時:6月6日(木)19:00〜21:00
場所:堺町画廊
主催:京都ファーマーズマーケット
参加費500円
ご予約・お問い合わせは京都ファーマーズマーケットのFBページからお願いいたします。


写真は、去年の3カ国民衆会議@聖心女子大学での様子。3カ国の小農、女性、市民社会の皆さんが結集。
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by africa_class | 2019-06-06 00:04 | 【記録】講演・研究会・原稿

日本で11歳まで前髪の向こうに隠れていた息子が、7年後にドイツの起業コンペで優勝するまで。

ブログをふと見たら、2011年7月(つまり8年も前)のブログ記事がトップにランクインしててビックリ。そして、当時「怒りの鳥」を描いていた息子の海が、いろいろな意味での自由を手にして「遠い」ところを楽し気に飛び回っていることを、皆さんに伝えないといけない気に駆られたのでした。

さようなら、日本の「普通教育」。シュタイナー学校に行くことになった息子と「魂の鳥」

https://afriqclass.exblog.jp/13063647/

兵庫の山々の懐の町で生まれ、4歳まで育った海。
その後引っ越した東京でも、ただの「海くん」としてノビノビと育った。

地元の公立小学校に入るまでは・・・。
入学式後の初登校の日、いきなり上級生から「ガイジン」と虐められ、教室に入ったら「アメリカ人」と呼ばれ、つい同級生を突き飛ばしてしまった。身体の大きな海の「とん」とひとつきで同級生がこけてしまい、担任から大慌てで電話。相手のご家族に電話して謝るようにいわれ、親も子もなんだかわからないままに、日本の学校生活がスタートしてしまった。その後は、いばらの道。

持ち物が少しでも他の子と違うと「学校に行きたくない」。
赤ちゃんの頃から大好きだった曲げわっぱのお弁当箱なんて、とんでもない・・・。
プラスチックのものが何一つない家に、どんどんアニメ柄のプラスチックのものが増えていった。
とにかく、「みんながもってるのと同じもの」を、「みんなと同じように」すべてを揃えないと不安で不安で、泣いてしまうほど。二言目には、「どうしてみんなの家と同じようにできないんだ!」とかんしゃくをおこし、「みんなと同じにどうして産んでくれなかったんだ」と。

みーんな違ってて、それがいい。

それを大学での教育理念にもしていた私の戸惑いは、とてつもなく大きかったものの、どうしていいか分からなかった。日本という環境の中で外国人ばかりが行く学校に通わせるのはどうしても納得ができなかった。まずは地域の中で育ってほしい・・・そう思っていたから。

4年生になるころには、父親はもとより極めて「日本のママらしくない」という私も授業参観に来ちゃだめといわれはじめ、前髪をながーく伸ばし始めて、顔全体を隠すように。外出しても、人に見られたくないのか、自分では絶対に注文をしない。とにかく、目立たないように、目立たないように息をひそめて生きるようになってしまった。こっそり行った授業参観で先生に指されると、蚊のなく様な声で返事をして、あんなにのびのびしていた子が・・・と人知れず帰り道に涙が止まらない。

私の中では、一刻もはやく違う環境においてあげないと、思春期で大変なことになると思ったものの、手が無い。日本のシュタイナー学校は満員でどこも新規に受け付けておらず、残る選択肢は中学校で国際的な学校に行くこと。でも、そもそも日本で育てるべきなのか・・・。そんなとき、サッカーに出会い、よい仲間に恵まれどんどん上達していったこともあり、いろいろなことを考えるものの、日々の忙しさに追われ、現状のまま流されていたのでした。

でも、サッカーですらゴール前にいてもボールがまわってきたらわざとパスを出すほどに気持ちの面で自信がない…。何度いわれても、同じ。ゴール前で譲ってしまう。みにきたお父さんたちの「あーーーー」というため息が流れる。毎度のこと。それでも、なんとかFC東京のジュニアテストに合格して最終試験を小平に受けにいったその日に、東日本大地震が。

運命とは不思議なもので、あの地震は海の人生の方向性をガラリと変えてしまった。

日本で育つこと。
サッカー選手になる夢。
そして日本代表となる夢。

2011年4月、震災と原発事故を受けて、一旦ドイツの学校に「留学」することになった息子。
半年ごとに日本に戻るかどうかを話し合い、結局、それから8年が経過してしまった。

ドイツに行った時は小学校5年生。ドイツ語の読み書きがまったくできなくて、宿題が何かすら分からないで毎日通った学校。もう何年も経った後に、「あのとき毎日日本に帰りたくて、来月こそは帰られるかなって願ってた」と教えてくれた(涙)。そんな本音もいわないままに、読むことも書くこともできない言語と格闘した。かなしくて爆発したことも一度や二度ではなく、私が東京に残って大学の仕事を続けたこともあり、寂しさもあって、とにかく心は荒んでいたと思う。

飛行時間12時間の遠距離の家族の時間のために、お金も気力・体力もすべて使い果たしつつ、2,3ヶ月に1度ドイツに向かった私のカバンにはいつも日本の教科書やドリルが入っていたのだけれど、あるきっかけでそれも捨ててしまった。

家族で近所のイタリア移民がやっているレストランに食べに行ったときに、息子が全員分のオーダーを率先してとって、店主に伝え、おばあちゃんには氷なしの水、自分には氷ありのジュースなど細かい点までお願いしていたのを見たから。確か、ドイツに行って10ヶ月も経っていなかったと思う。そして、その瞬間まで気づいていなかったのだけど、息子の前髪は見事に短く切りそろえられていた。

あのときの静かな感動は、一生忘れないと思う。

日本で私の後ろに隠れて、自分の食べ物もオーダーしたがらなかった息子が、誰にも言われずに皆のオーダーをとってくれている。その翌週、息子の学校に出前授業に行ったときのこと。日本なら絶対「はずかしい」といって反対されるのが、何もいわなかった。すべて英語。子どもたちはそれなりに理解してくれて、「どうしてか分かる?」と聞いたとき、数名の子どもたちが手を挙げたのだけど、その中に海がいたことにビックリした。そして、あの日本の授業参観での蚊の鳴くような声と違って、大きなはっきりとした声で自分の考えを述べてくれた。

18名のクラスメートには、いろいろな障害をもった子どもたち、里親の家から通っている子たちもいて、海は「特別」ではなかった。絵を描くと、それぞれが個性を発揮して、それぞれが美しい。

「みんなちがって、それがいい」

一年生から12年生までが一緒に活動をして、互いに助け合う。
自分の考えを尊重してくれる社会、学校、先生、クラスメート。
そんなところで、海は、徐々に「自分が自分であってそれでいい。人と違っているのが当たり前」の空気の中で、自分らしさを発揮するようになっていった。

日本を離れて3年後、クラスの劇を仕切る彼がいた。
みなの分の台詞を覚え、覚えられない子のそばで囁く。
依然としてドイツ語の文法は間違えていたらしいが、そんなことも気にしなくなっていた。
勉強が不得意と思っていたのに(実際7年前のブログにはそう書いてしまった)、いつの間にかクラスで一番の成績となっていた。いったい全体どういうこと?!?!?不思議なことに、サッカーでも、日本ではフォーワードを嫌っていたのに、喜んでゴール前に立つようになった。ほとんどマジックをみている感じだった。

それほどまでにself-esteem(自己肯定感)が子ども・若者の成長に重要だったことを、改めて教えてもらった。つまり、人は「できない」といわれるよりも「きっとできる」と励まされたほうが大きく伸びるということなのだった。また、「あなたはだからダメなんだ」ではなく、「あなたはあなたでいい」と受け入れてもらったときに、どれほど安心し、自分で歩むようになるかも。

私は幼少期に暴力を受けて「お前はダメだ」と繰り返し繰り返しいわれて育ったために、このことは体感してたし、いつも息子には決してネガティブな表現は使わず、まずは受け止める、そして必ず褒める、必要に応じて時間と空間を切り離して「あのときのことだけど、どう思う?』というにとどめてきた。父親もドイツで「褒めて育てられた」人だから、当然家庭内では絶賛「褒める」。褒め過ぎちゃうか・・・と思うぐらい、褒める。でも、日本社会や子どもが大半の時間をすごす学校・先生の影響の大きさまでは、分からなかった。むしろ、家庭内と外のギャップに、彼なりに戸惑い、苦しんでいたのかもしれない。

ドイツでは15, 16歳で仕事を始める子も多い。
クラスメートが次々に職人や職業訓練の道を歩み始めるのを受けて、海も自分の将来のことを真剣に考え始めた。なにせ自分のお小遣いを自分でつくり出すために、12歳でキャンドルを売り、14歳で木工品や家具を売り、16歳で写真を売る子。当然の成り行きというか、「起業」しか頭にない。ただ一応大学にも行くつもりで通信教育を受けながら、起業に向けて準備を始めた。

15歳になるころには、学校給食がまずいからと、前夜にお弁当を自分でつくり毎日持って行くようになった。(私は彼が自分でやりたいと思うことは、自分で責任をもってやることを教育方針としていた)。2歳のころに包丁をプレゼントして以来、一緒に料理や味噌・豆腐・梅干しづくりなどしてきたせいで、料理への関心は高く、いずれは「フード」の世界に行くと決めていた。そして、16歳の秋、わざわざ独りで日本に戻って、2週間にわたり居酒屋やレストラン、フードトラックで研修を重ねた。ドイツでは日本食だといくらでも儲けられると考えたそうな。(甘いな・・・でも口に出さなかった。自分で考え、自分で行動するのであれば、どんな失敗も肥やしになるから。)

卒業式の前週、卒業制作発表会があり、フードトラックの発表。
なかなかよく出来た発表とはいえ、これでビジネスになるんか・・・と突っ込みたい。とくに、そのトラックのお金どうするん?という点について。それについては、「へへへ」と誤摩化したまま、友人とともに卒業旅行と称して、シベリア鉄道3週間の旅に出てしまった。

戻ってきて、友人は大学進学のための学校に行くが、通信教育の海はなんにも動かない。
どうやら学校が終ってあまりにあまった時間を、映画やビデオをみて浪費している。それまで一切してなかった携帯ゲームにまで手を出している始末。朝はお昼まで寝て、夜ごそごそ。友人も彼女も学校に行ってる間は寝てて、彼らが戻ってきたら遊びに行ってしまう。。。時間は山ほどあるくせに、学校に行っていた時以上に部屋が汚い。ゴミもまともに捨てず、床の上に散乱している・・・。

これがあの生活態度が乱れるというやつか・・・。
昼夜逆転というアレ?

親としてはかなりの忍耐が必要な状況に間違いない。
連れは心配になって、私に指導するようにいうのだけど、私の教育方針はさっき書いたとおり「自分で気づく、考える、行動する」。とはいえ、さすがに一言二言いわなくてはならない状況になってきた。

昼頃起きた息子のベットの横に座る。
「海くん、丁度半年前、あなたの卒業制作発表会に出て、それから卒業式に出て、ああ、これから限りなく広がっている人生の道をあなた自身が自分の力できり拓いていくんだね、って眩しい想いでみてた。いまでもそう信じてるけど、それでいい?」
「いい」
そういうと、「もう出てってー」というので、そっとドアを閉めた。
ドアの向こうからは、携帯ゲームをしている様子がわかった。
でも、もう何もいわなかった。

それからほどなくして、「このレストランどう思う?」と聞かれ、日本食のレストランのサイトを紹介された。とってもポリシーをもってて、いわゆる「日本食」っぽくない店でいいね、と言ったら、「すぐにバイト始めたい」といって、履歴書やら志望動機書やらを作るから協力してくれといわれて協力した。その週にバイトは始まり、電車で往復3時間かかる距離を週に3回通いつつ、サッカーも自分の年齢のチームとトップチームの掛け持ちを始めた。

きっと私の日本の家族なら(まずはネガティブからはいる・・・)、「でもバイトだよね、プロではないサッカーだよね・・・」というコメントをいってしまうと思う。そもそも通信教育の勉強もちっとしかしてない。でも、相変わらず昼まで寝て、トモダチに彼女にバイトにサッカーに忙しい。でも、彼がドイツ社会のなかでようやく自分が必要とされ、居心地のよい場所(仲間)をみつけた嬉しさが感じられたし、その感じをトコトン味わう時期があっても良いのかもしれないと眺めていた。そもそも、彼がぶらぶらしているからといって、近所や親戚や友人の親や友人が何かをいうような社会でもない。

人それぞれ。
それぞれが考えてそれぞれの道をそれぞれのやり方で歩む。

とはいえ、半年以上続くので、父親はジリジリし始めた。
でも、人生のなかで迷子になったり、迷路にはいったり、遊びにはまったり、そういう時期ってあるし、そもそも親からして「まっすぐな一本道」どころか「曲がりくねって、途中で終ってて、そこで倒れたままじっとして、また道を歩き始めた」(私)りしてる中で、子どもに「これが正しい道」だなんていうのはダメだよね・・・と確認しあった。(そもそも親自身が自分たちの不仲で、子どもを振り回して生きてきた。)ただし、お金はもうちょっと稼いでほしいね、と。自分で食べるもの、遊ぶお金ぐらいは、自分で稼がないと・・・。そもそも、自分の車だって自分で働いて買ったし、親が買ってあげるのって違うんじゃないか、というとどうやら父親の方でもちゃんと「債務通帳」をつけているのだそうな。さすが・・・ではある。

そこからさらに数ヶ月。ついにクリスマスがきた。
なぜかドイツではお正月ではなく、クリスマスに翌年の抱負をのべる。
息子いわく、「いろいろ考えていることを行動にうつす」と。
しかし、クリスマスが過ぎて、年末年始の旅行が終っても、行動に変化がない・・・。
さすがに、これはまずいのではないか、そう思ってた矢先、突然、友人と起業コンペに出るから写真を撮れという。

ふーん。
撮ってあげてもいいけど、いい加減な調子だったらお金とるよ。
いや本気だから。
本気って、どうやったら分かるの?
だって、すでに550名の予選を突破して、最後の16人に残ってるから。
ぎょ。。

思わす「遊んでたんじゃないの?」との質問を呑み込んだ。

そうなんだ。
で、この写真は?
会社のホームページに必要だから。
ぎょ。。

「ビデオみてたんじゃなかったんだ」のコメントも呑み込んだ。

書斎に来てといわれて汚いからいやといったのだが、入ってびっくり。
ゴミやあれやこれやは散乱していたものの、片面はきれいになっていて、ポストイットが壁中はられてあって、もうスポットライトなどが準備されていた。ニヤット笑う息子と友人。

このゴミも写すね、と憎まれ口をたたきながら、なんだか嬉しさがこみあげてきた。
最初から決めてたとおり、彼らに任せていいんだ、と。
このコンペの結果がどうであろうとも。

二人は準備したプレゼンを見せてくれた。
なんのビジネスプランと思ったら、たしかに「フード」分野であるものの・・・・「虫」だった。
ぎょ、ぎょ。。

アフリカでは「虫」を食べる地域が多い。
でも、私は食べない。
肉を食べないけど、虫は食べない。
魚は食べるけど、虫は食べない。
そんな私の前に現れた「虫フード」。。。

ニンマリと笑う二人。
それから二人は毎日集って、虫を育てるために地下室を改装し、虫を育て、プレゼンを作り、試作品を作り、原稿を作り、メンターとスカイプしながら、準備を進めていった。なんのコンペかもよくわからないが、とにかく見守る。何もいわず、「後片付けしなさーい!」と二人に檄を飛ばしつつ、見守る。

相棒のフィンは学校に通ってる。親は彼に大学に行ってほしい。学校も休まないでほしい。でも、本番が近づくにつれて準備が間に合わなくなって学校を休みがちになる。それでも、フィンの両親もフィンには一切何もいわない。自分で考えて判断しろ、とだけ伝えていると。お母さんに聞いてみると、色々考えることもあるし黙ってるのは辛いけど、自分で決めることだから、と。さすがである。

そして本番前日。
私は出張でバルセローナに。
彼らは始発電車で開催地へ。
まあ、がんばってね。きっと上手くいくよ、と適当なメッセージとともに。

この時点では、なんのコンペかも、何もしらず、まあ人生には一生懸命なにかに打ち込む瞬間が重要だという程度だった。失敗はどんどんすればいい。挑戦が重要、と。

その日、バルセローナで美味しいレストランでたらふく食べ、酔っぱらって地下鉄に乗ってると、興奮気味の父親から携帯に連絡がきて、「どうやら優勝した?みたいなんだけど・・・連絡あった?」と。「ない」。「電話つながらないんだ」。「そりゃ優勝したらつながらないから、ほっといたら?」。ほっとけない父親は情報を求め私にかけてきたという。さすが熱血親父。本当はコンペ会場に行きたかっただろうに、ぐっと堪えた。もう18歳の息子、両親がうろうろなんかしてはいけない。たった独りで世界にチャレンジすべきだから。そこは、さすがに理解したようだった。(かろうじて)

電話を切ってから、なるほど。人生の歯車というのは、ふしぎなものだと感慨にふけっていると、息子からたった一文メッセージが飛び込んできた。「Wir haben gewonnen!(勝ったよ!)」

狐につままれた感じだった。
いまでもそうだが。

コンペはドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲン社がはじめて開催する19歳以下の若者の起業ビジネスコンペ(X-starters)だったことは、ずいぶん後になってから教えてもらった。そして、それ以降、優勝の賞品である起業までのコンサルティング(200万円相当)を受けつつ、起業に向けて急ピッチで準備をしているところ。

まだ18歳。
まあ、失敗もするだろうなーと眺めてる。
でも、それも含めて、それでいいと思う。

自分で考え、自分で動き、(そして止まり)、この間にも、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしているが、彼は彼の人生の道を自分の足で歩いているという実感をもって一歩ずつ進んでいる。もはや、「国籍が」「出身が」「ドイツ語が」「日本語が」「親が」「学校が」・・・ではなく、「ぼくが」という主語で一日、一日を生きている。

部屋は相変わらず散らかったままだし、朝も遅いが、いつか自分で変わるだろう。
(いや、もうひとりの親をみてたらダメかもしれないが・・・それで死ぬわけではない、と思いたい。)
もう成人(ドイツは18歳で成人。16歳で地方選挙の参政権があり、お酒が買って飲める)。
彼は彼のやり方で彼の道をいく。
その背中を、これまで以上に眺めるだけになるんだろう。

もし、彼の活動に関心をもっていただいたのなら・・・以下、ぜひのぞいてみてください。
ほとんどドイツ語ですみません。
あ、そして「虫さん」たちは、だいじょうぶですよ〜。
まだ主役でないので。

■フォルクスワーゲンが作ったプロモーション動画
https://www.youtube.com/watch?v=eckzE3WO3qw

■彼らの会社Entorganicsのホームページ
https://entorganics.com/

■インスタグラム
コンサルに1日1レシピをアップするように言われてアップしてる写真
https://www.instagram.com/entorganics/


もちろん、彼は成功したわけでもなんでもなく、一歩を踏み出しただけ。
しかも多分、大失敗は織り込み済みで。
でも、彼はもう前髪のおくに隠れていない、自分の考えをもってそれを自分の言葉で表現し日々人々と関わりあっているという点で、もう心配していない。何より、彼の人生だから。


日本では、「おかれた場所で咲きなさい」という本がよく売れたという。

でも、私は全力でいいたい。
「咲けない場所からは逃げて、咲ける場所で咲くのも一つの選択肢だよ」と。

彼の話から、「あなたはあなたであっていい。あなたは違っていい。違っていることにこそ、あなたの可能性が潜んでいるかもしれない」、ということを、日本の若い人が少しでも頭の片隅においてくれればと願っている。


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彼に庭の写真を撮ってといったら、こんな感じの写真がたくさんきた。
なるほどーと。


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庭の隅々への愛が感じられる。写真をとおして、感じられて嬉しい。

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完全に野草だけど、私たちの冬の間の重要なサラダな。

*子育てという言葉はキライだけど、誰かのところに届くようにカテゴリに入れます。


by africa_class | 2019-06-04 20:09 | 【徒然】ドイツでの暮らし

癌になって自分から解放され、お花が好きになった話。



癌(がん)に感謝している。
というと、みなどう言葉をかけていいのか分からないためか、沈黙してしまう。
そんなときは、気を遣わせて「ごめんなさい」と思うのだけど、いまのところは1%の迷いもなくそう思っている。

もちろん、わたしの癌が早期に発見されたもので、いまのところ再発していないからという点には注意が必要。この先、再発や転移したときに、同じように言えるかはわからない。また、癌で苦しむみなさんや、そのご家族には、傷つけるような表現かもしれない。そのことは、本当に申し訳ないと思う。でも、日本では驚くべきことに2人に1人が癌になる時代になった。こういうサバイバーもいるのだということを伝えておくのも重要なのかもしれないと思う。

わたしとしては、いまは本当にそう思っていて、そのことを口にしても、話し相手の方が皆びっくりしてしまってあまりこの会話を続けられない場面が多すぎて、深いところまで話せないことが多いので、ブログで少しだけ紹介したいと思う。

いまでも覚えているのは、癌の部位を切り取った手術のあと、はじめて外出して、駅から実家の5分ぐらいの道を歩いていたときのこと。

丁度1年前のある夕方。まだ太陽はやさしく顔を出してて、でも少し湿った夕方の空気が辺りを覆っていた。普段は駅に向かって、あるいは実家に向かって、早足で歩くのだけど、未だ手術直後とあって早歩きができない。とぼとぼと手術跡の痛みを気にしながら歩いていた。身体や空気の重さと違って、心は頭上の太陽のように晴れていた。悪いものを切り取ってもらったことへの嬉しさというのか。普通は、腰が痛くとも肩が痛くとも、そこを切り取ったりはできないので、なんだか清々しい感じがしたのだった。

ふと、外科医だった父が町医者になって、人の身体をきったりぬったりできなくなって、代わりに蘭をきったり移植して喜んでいた後ろ姿を思い出した。父は鉢植えの植物でも、少し枯れたり病気になった葉っぱを丁寧にとるのが習慣になっていて、そうやって悪いところが出るときちんと取り除けば、植物は新たに再生してくるということを経験上も実感していたのかもしれない。

といっても、人の身体・・・指を切り落としてしまった後に新しい指ができるわけではない。その意味で、植物はすごいな。自分の力で悪い部位を枯らせることで身体から振り落として、新しい莟に全力を集中しようとするなんて。そう思いながら、なにげに、近所の庭に目をやった。高齢者の家が多いので、若い世代と同居している家とそうでいない家の庭の違いが激しい。

私の目が止まったのは草ぼーぼーの庭。

そもそも私はドイツで「edible garden+forest(食べれる庭・森)」を目指していて、以前の住民のイングリッシュガーデンがとにかくストレスだった。計算された美しい庭。でも食べられない…。なので5年をかけて少しずつ食べたり飲んだりできる、自然が勝手に循環する庭を目指してきた。そのプロセスで「花」はあまり重視してなくって、ぶんぶんとんでくるハチたちが喜んでくれればそれでいいかな、ぐらいだった。もちろん、きれいだなーと見とれないわけでもないし、花の咲くこの時期は庭中すばらしい香りが立ちこめていて、「落ち着くな」と思ったものの、なにか心の奥まで浸透しない感じがあった。どうせなら「花は花」でも、「食べられる花」をと思って、Edible Flowersをせっせと増やしてる。庭のバラもアジサイは剪定も大変だし、ああ面倒・・・という気持ちが先走る。

そんな「食べられない花」に関心のなかった私が、ふと駅からの帰り道、近所の庭の隅っこで静かに咲いている小さな花をみて、雷に打たれたように感動してしまった。

なぜかは今でも分からないのだけど、「なんてきれい」と思わずつぶやいていた。
そして次の瞬間、「生きててよかった」…という気持ちが全身を駆け巡って、へなへなとその場に座り込んでしまった。手術の前も、手術台にあがるときも、そのあとも、全然そんなことを想いもしなかったのに、手入れもされないままに地べたに咲く小さな花たちをみただけで、「まだ生きてる」ことの素晴らしさに大きな声で「ありがとう!」と言いたくて仕方がないほど、心が動かされた。

そして次に思ったことは、「でも命は永遠ではないのだね」ということだった。
花の命が短いように、私の命ももはや終わりを想定しないといけない年齢でもある。
「今回はセーフだったけど、いつまで生きられるのか分からない」
その瞬間に、泣けてしかたなかった。
「生きててよかった」と思った瞬間にやりたいと思ったことが次々に映写機でうつすように現れたから。
それが一つも出来ないままに人生が終ってしまう可能性を知ったから。

ほぼ50代とはいえ一応まだ40代。
まだこれから、と思ってた。
でも、違っているかもしれなかった。
もう残された時間はそんなに長くないのかもしれない。

その日以来、
私の中の何かが変わったように思う。

他者からみた私は私らしく自由に生きているように見えるかもしれない。
客観的事実だけを並べてみれば、それはそうだろう。
でも、私は物理的な部分はそうかもしれないけれど、時間の面ではまったく解放されていない現実がある。自分の1日を色々な理由で自分でコントロールできない状態がドイツに行ってからもずっとずっと続いている。また、私の中には未だ未だ解放できていないオドロオドロしいものが沢山あって、それをなんとかしなければならないと頭で分かっていてもどうすることもできないできた。

大学での事件によるPTSDが誘引したとはいえ、そういうものが一纏めになって私の心身に覆いかぶさって包み込まれている感じがずっとあって、その結果、思考にも霧のようなぼんやりとした膜がかかっている状態だった。そして、やらなくていいことに手を出してしまう癖もまたここから生じていることも知っていた。なにより、自分を愛することが大事と他者に伝えているくせに、自分はちっとも自分のことを受け入れられてないことも薄々わかっていた。でなければ3年も布団のなかで生活したりしない。その後遺症というか、未だ完全に完治していないこともあって、人前でしゃべるとか人と接触することもまた、大きなストレスで、このまま一体どうなるのか・・・と不安に思わないことも多々あった。(他の人からみたら「うそ!!」と思うらしいが、数人のグループとのスカイプ会話でも、あとで3時間ほど疲れて寝込んでしまう状態だった)

それが、その帰り道に花を見て、「生きててよかった」「でも後どれぐらい生きてられるか分からない」と思った瞬間、すっと自分の中から消えていくのを感じたのだった。

具体的に何が消えたのかよく分からないのだけれど(そして全部消えたわけではないのだろうが)、羽根が生えたように心が楽になって、もうこの先はあれやこれやの小さなことを気にするのではなく、「生きててよかった」を軸に残り少ないかもしれない人生を生きればいいのだと思ったときに、スキップしたいほどの喜びがお腹の底から突き上げてきた。

そう思った瞬間に、人が恋しくなったのも不思議な体験だった。
家に急いで戻って、家族に「ありがとう」と伝えたくなって、それ以降は出逢う人出逢う人に「ありがとう」という気持ちでいっぱいに満たされるようになった。一方、「ありがとう」を受け取れない人には、もう前みたいに努力しなきゃと思うことすらなくなってしまった。あるいは、相手がどう思ってるかに、あまり気を使えなくなった・・・というか、まったく気に出来なくなってしまった。

そして、前からしていたこと、あるいはコレからやろうと思っていたことで心が躍らないものは、もうきっぱりあきらめる整理がついた。また今度書こうと思うのだけれど、大学の先生に戻ることも(前から決めてたけど)、アフリカ研究もやめることにした。そして、その他のいくつかのこともやめることにした。

研究でも活動でも人生の大先輩である80歳を超えた吉田昌夫先生から、「あなた、あれもこれもヤメるって簡単にいうけど・・・」と何度もいわれたけれど、私にとって「ヤメる」というのが、新しい何かを生み出すためにはとっても大切なことなんだと、いつか理解してもらえる日がくるようにがんばりたいと思う。

つまり、その日以来、私は心のもちようとして、かなりワガママな人間になった。

もちろん、移行期をちゃんと設けるのだけど、もう私の中でははっきりと答えが出てしまったことについては、後戻りしないだろう。かといって、責任をすべて放棄するという話ではなくって、そこは時間と手間をかけていくしかない。でも、残りわずかかもしれない人生において、本当に大切なことを見極めて生きていこうと心に決めたのだった。

その大切なこと、は私にははっきりしている。
前からずっとはっきりしてたのだけど、それに溺れることを自分で許さなかった。

独りよがりかもしれないけど、もう何十年も他者のためにがむしゃらに生きてきた。この間の書評会のレジュメでその長いリストを紹介したのだけど、リストにすることすら、思い出すことすら逃げたいほどだった活動の数々が書けたことに、まずは安堵した。それほどの重圧を自分に与えながらやった活動の数々。その間にも研究も家族も仕事もあって、今となってはどうやって生き延びたのか皆目不可能。だから癌にもなるんだな、と自覚した。もちろん、他者もまた私を生かしてくれたのだった。でも、それも含めて、もういいんじゃないか・・・いつまでも命は永遠ではないのだから、そう思う地点に行き着いた。

私は最後に残った責任のいくつかをあと2年で片付けたら、自分で最後の仕事としてやるべきことに完全に溺れようと思っている。

気合の入った活動家の先輩たちからは怒られると思う。
その中には私より深刻な癌サバイバーの皆さんもいる。
でも、それももういい。
私は、私なりの次の段階にいくべき時がきたのだから。
そして、2年後まで時間がない可能性すらあるのだから。

不思議なことに、あの花に出逢った日以来、心の中が愛で満たされるようになった。
癌で切り取られた部位がなくなってせいせいしたのも事実なのだけど、その部位すら愛おしく思えてくる自分の不思議な感情が芽生えた。その勢いでか、自分の中の本当にキライだったところ(たぶん)も、「まあいっか。それも自分だから」、と許せるようになりつつある。

だから、いま、私はユルスこと、ワガママになるということを日々練習している。
一歩前進、二歩後退の日々。

でも、嫌な感じはない。
人に自分を委ねることも、頼ることも、前よりもずっと楽にできるようになった。
身内に思っていることをストレートに伝えるのが苦手だったのに、それをしようと頑張る自分を見つけた時は我ながら驚きだった。

多くの人は私の論文やブログや公的な場での発言を聞いて、私がストレートな物言いをする怖い人だとイメージしていると思う。英語の論文を読む人は10人中10人までが私を男性と思ってた・・・という。仕事として書くこと話すことのストレートさ、強さは実際そうなんだろうけど、プライベートは真逆だった。身内の人に自分の想いを伝えることを幼少期からできないで育って(虐待のせいもあり)、いろいろな身近な人間関係に失敗し続けてきた人生だった。まあ婚約破棄も離婚もしてるしね。

もう一つ不思議なことに、「他者のために」と思って色々背負ってやっていたときとは異なり、いまの方が責任をいい感じで果たせるようになってきつつあるようにも思う。むしろ、自然や動植物や他者と繋がって、この世界をましなところにできないかな・・・って自然に思えるようになった。もちろん、相変わらず拳はふりあげているように見えるだろうし、実際そうなのだろうけど、心の底には愛(そして深い悲しみと哀れみ)があって、自分のいつまであるか分からない命の限り、この感じを忘れないでいようと思っている。

そう書くと宗教とかキリスト教っぽく思われるかもしれないけれど、私は無宗教。

日々を自然の中の多種多様な命とともに生きる中で、生き物にすぎないニンゲンの傲慢さと可能性の両方に、愛と悲しみと哀れみを感じるようになった。自分を含めたニンゲンの仕業への怒りがないかというと、そうではないのだけれど、自分の命が終る瞬間をイメージしたときに、そこから見える世界はまた違ってしまった。

愛を持って、行動に怒り、最後は悲しみ、哀れんでいるという感じだろうか。
私が死にいくときに、自分に対してもつ感情がそれかもしれないと、最近は思っている。

幼少期から生き急いできた。
後悔しないように全力で生きてきたのだけど、もはや後悔してもいいとさえ思ってる。
急いで生きるよりも、ゆっくり生きたいと。

ドイツの父や母や愛猫の死を経験して、さらに癌となって、死というものが身近になって、生というものの儚さを実感するようになった。遠くないかもしれない未来に、この世を去る自分として、残りの人生をどうのように生きたいのか。

癌はそんなことを気づかせてくれたのだった。
癌なしでも気づけたかもしれないけれど、私のように頑固な人には無理だったかもしれない。
だから、私は今日も癌に感謝している。


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息子が撮ってくれたドイツの庭のケールの花。
このケールは1年以上も生き延びて、冬の間も苦みばしった葉をお味噌汁に提供してくれている。
春夏にはナメクジが攻撃。途中何度も倒れた。
莟になったときに大量のアブラムシがやってきてびっしりだった。
でも放置してたらテントウ虫がきて、いつの間にかアブラムシがいなくなって、こうやって花を咲かせてくれるようになった。
タネになったら、ただ土にバンバンとバラまく予定。

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今まで食べられない、飲めないお花にまったく興味がなかったのに今年はじめて「ただ見るためだけ」に寄せ植えをした。我ながらビックリしてる。

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出発前日、石南花を飛び交うハチたちを、何分も何分も眺めてた。

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でもやっぱり野草やお野菜の花が一番好きな自分。
花のための花ではなくて、花が全体の一部であることを感じられるときに、なんだかその美しさに改めて感謝できる気がする。
単なるニンゲンのエゴだけど。










by africa_class | 2019-06-02 19:22 | 【徒然】ドイツでの暮らし