毎日新聞の総合デジタル取材センター局長が、以下の記事を紹介するにあたって、わざわざこうういう風に書いていた。
昨日も行われました、 #野党ヒアリング 。しつこく詳報し続けます。一見、細かいやり取りですが、じっくり読むと官僚の説明の破綻ぶりが非常によく分かります。
内閣府「データが消えるようになっているのではない」 「桜を見る会」野党ヒアリング詳報 https://mainichi.jp/articles/20191205/k00/00m/010/309000c
この投稿をみた瞬間、今から25年前、私がモザンビークの戦争の原因を探究しはじめた時から、日本のモザンビークへの援助・投資問題(農薬援助、大型農業援助「プロサバンナ」、ナカラ回廊開発・天然ガス)に関わるようになった現在まで、ずっとやってきたこと、それを世間様に説明する際の枕詞と同じだな…とふと思った。
特に、安倍政権になってからの7年間は、まさに真実を歪め、隠し、破壊する国家権力とその関係・周辺組織(外務省・JICAを含む)との「真実追求」の闘いだったと、最近実感するようになった。
「もりかけ」や「桜」の問題に絡んで露になりつつある文書をはじめとする「真実」をめぐる事態、政権関係者・与党政治家とその政権下で出世しよう(あるいはそつなく仕事を進めよう)とする官僚の信じ難い言動は、これまで「プロサバンナ」をめぐって見てきたことと地続きであって、私には驚きはなかった。そして、これらの出来事の真相を追求し、根拠をもって広く明らかにし、これ以上の規範や民主体制の崩壊をくい止めんと努力する野党や一部のメディア関係者の尽力は、過去7年間のプロサバンナに関わる日本のNGOの歩みと同じものでもあった。
「JICA職員も仕事だからやってるだけで…」「たまたまそのポストについただけ」「職員の名前まで書くのは可哀想」「もういいんじゃないか」そんな声も聴こえてくるが、それは現在の「桜」問題、あるいは「モリカケ」でも言えるだろうか?政権に忠実に嘘をつき続けた、しらばっくれ続けたご褒美に昇格したり訴追されずに悠々自適の退職生活を送る「高級官僚」たち。その陰で、真実を歪曲せよと圧力をかけられ続けて、耐えきれずに自ら命を絶った官僚がいた。あるいは、プロサバンナについて言えば、危険を顧みず内部告発をして、数十点もの内部文書をリークした人もいる。
文書隠しは、安倍政権の特徴である。その政権下で独立行政法人であるにもかかわらず、JICAもまた、文書隠し、黒塗りに余念がない。もし、JICAが胸を張って「モザンビークの小農のための援助をしています」と言うのであれば、なぜこんなことをする必要があるのか?
「上の命令だから/組織の決定だから、仕方ない」…この思考停止、そして政治主導という言い訳と匿名性に逃げ込める官僚制度(JICAも同じ)こそが、日本軍の数々の蛮行、あるいはここドイツでナチズムがホロコーストを大規模かつ徹底的に実行できた最大の理由であったことを、我々はいとも簡単に忘れすぎていないか?
まずはJICAが日本の税金で作った『プロサバンナ・コミュニケーション戦略書』(2013年9月)を見ておきたい。
ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で全身全霊をこめて訴えたのは、まさにこの「顔なき官僚制」と「思考停止」という「凡庸なる悪」こそが「史上最大の悪」の源泉なのだという点であった。しかし、アーレントを読んだことある、学んだことがある、尊敬する、引用する人達ですら、このことを日々の暮らし・ものの見方に反映できていない日本で、官僚やJICA職員にそれを理解せよということの方がどだい無理な話なのだろうか?
否、私はそう思わない。
人間には、学ぶ力が備わっている。
それは自分自身が日々実感していることである。
人は過ちもおかすが、それを反省し、よくしたいと願う何か根源的な性質をもっている。
問題は、その人間性のベクトルが、いとも簡単に、集団であればなお操作されうるということである。
だからこそ、アーレントは官僚制からの脱却、思考停止からの脱却こそが、人間が尊厳を再び手にするために不可欠なことなのだと述べた。逆にいうと、思考停止のままでいるのならば、その人は「悪」に取り込まれていくであろう、つまり人間の尊厳を自ら手放していくことである、と。
だから、私はそれが南米への移民政策や移民、モザンビークの植民地支配、戦争、独立後の独裁、各国の不安定か工作でも、プロサバンナをはじめとする援助の問題でも、組織の人間であっても、関与者の名前を記すことで、その人達が「顔のない名のない組織の思考停止者」ではなく、その瞬間その行為を行ったまさに「生きた人」であったという事実を刻み込むことで、その人が人間としての尊厳を取り戻す道の可能性を閉じないようにしたいと、祈るような気持ちで書いてきた。
世間に知られることのない義母や義父の生前や終末期をこのブログで名前入りで紹介したように。その人の「生きた証」であるから。そして、その「生きた証」は栄光ばかりでも成功ばかりでもない。ましてや、国民・主権者や納税者の代理人としての仕事(官僚・JICA)を選んだ以上は、その行為にはどんな末端のポジションの人でも、どんな瑣末な仕事をしていても、説明責任(acountability=安倍政権のいうそれとは違う)を伴って当たり前である。
逆にいうと、名前を隠したいとすれば、隠さなければならないほど恥ずかしいことに手を染めているという自覚あってのことであろうか?2013年1月に開始したプロサバンナの意見交換会の議事録問題は、まさにこの問いを彷彿とさせるものであった。外務省のNGO・外務省定期協議会ODA政策協議会のスピンオフ会議として始まったこの意見交換会では、当初議事要旨は発言者の名前入りであった。それが、途中からJICAの強固な抵抗が始まり、第5回以降は、結局誰が言ったか分からない形での記載となった。この点についてはブログでもかつて紹介した通りである。
以下の外務省サイトでこれは確認できる。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/taiwa/prosavana/index.html
第5回の外務省・JICA出席者は以下の通りである。
第5回プロサバンナに関する意見交換会(2013年7月12日@外務省)出席者名簿 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/taiwa/prosavana/prosavana_05.html (なお、この後にも多くの人が登場していくのだが、それはリンクからダウンロードが可能である。また別の機会に別のリストを紹介したい。)
なお、会議に出席した人達だけが「責任」を追うべき人達という訳でもない。会議にすら出てこず、NGOからの批判に対応もしないが、決定権を有した人達がいたこともまた記録されるべきであろう。つまり、2013年のこの時期であれば、これらの人々の名前は記録されるべきであろう。
田中明彦前JICA理事長
加藤宏JICA理事(アフリカ担当)
乾英二部長(アフリカ部)
那須 隆一所長(モザンビーク事務所)
とりわけ、乾部長はこの件の直接の責任者であり決定権を有していたという点で、最も注目されるべき人物のひとりである。2013年の春から秋にかけてのメディアの取材に、JICAを代表してインタビューに答えていたのが、乾英二部長、本郷豊専門員、宮崎明博JICAモザンビーク事務所所員であったこと、文書の署名は那須所長であったこともまた、記録しておきたい。
議事録に戻る。
JICAの人達がなぜ自分の名前を発言記録から消し去ろうとしたのか?それについては、後に紹介する論文を読んでほしい。少なくともここでは、名前が掲載されない形で開催するために半年近く抵抗し続けたという事実が語る真実に注目しておいてほしい。
「彼らとて良心の呵責を感じていたが職務だから仕方なかった…」
(*なお「良心」は「行動」を伴ってはじめて「良心」と呼べるものになる。したがって「まずい」と思いながらも、何も行動に結びつけなかったのであれば、それは「良心」とは呼べない。自分がどれほどそれを「良心」と呼んで自分を慰めたくても)
そのような声もチラホラ聴こえてくるが、その人達は、では彼らがこの時期に何をやっていたのか…という事実について果たして知っているだろうか? あるいは、知ろうとした上で言っているのだろうか?
ここで、冒頭の毎日新聞齊藤局長の「 しつこく詳報し続けます。一見、細かいやり取りですが、じっくり読むと官僚の説明の破綻ぶりが非常によく分かります 」という一言を思い出していただきたい。
まさに、歴史家の仕事もまた、一見細かいやり取りを丹念に丹念に追うことで、何かがクリアに見えてくるのである。
つまり、
「神は細部に宿る」
のであった。
真実の追求とは、細かいピースがばらばらになって、いくつかのピースが欠けているジグゾーパズルに取り組むようなもの。
でも、得てして、一番大きくて目立つピースは最後まで見えるようで見えないことが多い。細かい無関係なピースを繋ぎ合わせてった先に、ど真ん中にぽっかり空間が空いていることに気づき、そこから見失っていた絵が急に起き上がって目の前に現れる・・・そんなことを何度経験してきただろう。
あるいは、一番目立ち自ら語っているように見えるからこそ、その語りに呑み込まれず一旦それを脇に置く必要があることが多い。そして、周辺の小さなピースを丹念に探し、それを繋げていくと…それを支える論理や構造、犠牲にされるものが浮かび上がってくる。その先に、一番目立っていた大きなピースの真の姿と、全体の中での意味が掴めるようになる。これを、文脈化ともいう。
以上のJICA職員が、2013年7月の議事録以降、突如として、自らの名前を発言記録から削除しようとした事実は、どう分析されるべきであろうか?
今回の「桜を見る会名簿」と同様に、本来は民主統治における透明性と説明責任の観点から、明らかにしておかなければならない情報を行政の側が「あえて隠そう」とする際には、その「隠す」行為そのものが語っていることを追求する必要がある。
「桜」であれば、名簿には安倍政権が崩壊するだけの事実が書かれている・・・ということ。
そして、名簿をなかったことにすることで乗り切れれば、自分の役人としての身分も保障される、しくじったらその逆が発生するという経験則。
では、プロサバンナに関与するJICA職員の名前については?
歴史家の仕事というのは、出来事が「歴史になる」から可能となる。同時進行で追う仕事は、一義的にはメディアや市民社会の仕事である。だからその融合は、on-goingの出来事を理解する上で、様々な可能性をきりひらいてくれる。つまり、「過去」だけあるいは「現在」だけの二次元のパズルのピースを、「過去も現在も」含めた立体的三次元のパズルのピースとして捉える知的動作を要求する。それは、思考のスピードと深さを同時に追求するようなスリリングなものではあるとはいえ、出来ればこんなことに関わりたくなかったというのが、心の底からの率直な気持ちである。
そして、私は3次元パズルのピースを今日も探し、はめ続ける。
人はそれを「しつこい」という。
毎日の齊藤さんが自らそう書くように。
でも、私の中ではそれは「しつこさ」でも、「執念深さ」でもないのだった。
もうこの25年、日々休まずやってきた、真実の飽くなき探究にすぎなかった。
1995年、実務の世界から学術の世界に戻ろうと決意したのは、まさにこの真実の飽くなき探究を限界無くやり続けた先にある地平線を眺めてみたいと思ったからだった。学問の基盤は、真理の追究とされる。だから、米国の大学は、必ずラテン語のveritasをそのモットーに掲げる。
しかし、真理も真実も英語やラテン語にすると同じtruth/veritasである。
私の中では、二つは同じであるようで違っていて、また同じである部分があって、いずれも探究されるべきものと考えている。たとえば、歴史的事実を求めて精進し続けた道の物陰に、真理がふと立ち現れる・・・しかし、その真理は真実の中にずっと眠っていたものなのだ、そんなイメージをもっている。
だから、私は「プロサバンナ」の問題もまた、「モザンビーク戦争の起源の研究」と同じように、lux et veritas(光と真理)=真理の探究という学問の基礎であり目的でもあるビジョンで、取り組んできたのであった。
モザンビーク最大の小農運動に呼出されて7年。
その間に本当に沢山のことが起った。それを一個ずつは書かないものの、これら起ったことを、今は亡きアウグスト・マフィーゴ農民連合代表の死を悼みながら、「lux et veritas」の精神で追求していった結果が、一昨日モザンビークのOMR研究所(農村モニタリング研究所)から出版された以下の論文であった。
Sayaka Funada Classen
"The Rise and Fall of ProSAVANA: from Triangular Cooperation to Bilateral Cooperation in Counter-resistance"
Observador Rural #82, December 2019
https://omrmz.org/omrweb/publicacoes/or82/
*英語とポルトガル語のPDFファイルを以上サイトからダウンロードすることができる。
*日本語の解説と目次は→https://afriqclass.exblog.jp/239845161/
その中で、これらのJICA職員が名前を隠したかった理由も示している。
読むのが面倒だが関心のある人は、2013年7月以降に何が起こっていたのかを辿っていけば、色々明らかになるだろう。ヒントは、上に紹介したJICAの『プロサバンナ・コミュニケーション戦略書』が、2013年7月に契約準備され、8月1日から着任した現地コンサルタント企業が作成し、ドラフトのやり取りをJICAとした後に、9月に完了し、JICAの正式文書になったことにある。
なお、この『戦略書』は三角協力なのにJICAだけが関与し、JICAだけが保有している。
JICAの誰が何のためこのような『戦略書』を欲したのか?
JICAの誰がこのような『戦略書』の作成を思いつき、GOサインを出したのか?
JICAの誰がこの作成者とやり取りしたのか?
いずれにせよ、この『戦略書』の存在すら市民社会は知らないままだった。
パズルのピースでいうならば、次から次へとボロボロ発見される小さなピースは、ど真ん中に空いた空間の存在を指し示すようになっていた。そこに、何らかの大きなピースがあるはずだった。しかし、分からなかった。
そこで、まずは発見された小さなピースの情報開示請求をやって、そこで発見されるさらに周辺のピースを掘り起こし、その周辺のピースの情報開示請求をして、周りを繋げていった先に、この『戦略書』の存在可能性が浮かび上がったのである。このプロセスは、日本の市民社会にとって今後役に立つかもしれないので、要望があれば書きたいと思う。
さて、決してその存在すら知られていないのに、情報開示請求されてしまったJICAは、何ヶ月も様々な手法を使ってこの開示を引き延ばした。しかし、2016年2月、これは開示されてしまったのである。
そして、ど真ん中のピースが現れた瞬間に、パズルは一気にくっきりと全体像を示したのであった。つまり、2012年10月にモザンビーク最大の小農運動がプロサバンナ事業への反対を表明して以降、JICAはこのような声をつぶすために、「市民社会との対話」の陰で、このような抵抗運動つぶしのための対抗戦略を練り、実行に移していたのである。
とはいえ、この時点ではまだ「仮説」である。歴史家であればこれを実証するには、事業が「過去のもの」とならなければ難しい。しかし、リアルタイムで事業をフォローする市民社会の一員としては、この「仮説」が実証に耐えうるかどうかの判断材料は次々に集まってくる。そして、ついに、内部者からのリークとなった。(もちろん、それ以外にも大量の根拠文書が情報開示請求から集まった)
だからこの論文のタイトルは、「プロサバンナの興亡〜(農業援助の)三角協力から小農抵抗への対抗戦略のための二国間協力へ」なのである。
この論文は、最後にガンディーの非暴力抵抗運動の思想「Satyagraha(サティアグラハ)=真理の力」でしめくくられている。ガンディーは最近アフリカ人に差別的だった、アフリカの解放を阻害していたということで批判されているので、ここでガンディーを持ち出すことに躊躇がなかったわけではない。しかし、サティアグラハの教え(真理/真実の力に引っぱってもらうこと)、プロサバンナの抵抗活動の根幹を占め、実際に市民社会側だけでなく権力側にも影響を及ぼしてきたと考えるため、あえてこれを紹介した。
奇しくも、lux et veritasと同じ土台をサティアグラハがもっていると気づいたのは、下書きを書き終えてからのことだった。権力者は「真実/真理」を隠そうとする。歪めようとする。壊そうとする。でも、最終的には「真実/真理は壊せない」・・・そこに人類の長い闘争の土台と展望があると、世界的な「フェークニュース」時代だからこそ思い出したいと思う。
だから、歴史家の仕事もまた、真実/真理の探究を通じた闘争である。
そして、主権者として社会をよりよいところにしようともがき闘う際に、真理/真実を求め続け、それに引っぱってもらうことが意味をなし、また未来への道しるべとして立ち現れてくるのだった。
最後に。
ホロコーストで「顔なき名前なき凡庸なる悪=世界最大の悪」に手を染めてしまった官僚や一般のドイツ人たち。この人達が裁かれるようになったのは戦後すぐではなかった。真実/真理の追求には時間がかかるのだった。その状況のただ中にいる人達が、真実の積み上げから光を得る(構造的理解を掴む)には、別のところにいる、別の世代の人々のクリアな視線と心を必要とした。あれほどあからさまな出来事においても、そうであった。そして、「ただ職務に従っただけ」と主張しつづけたのは、アイヒマンだけではなかった。戦後直後の多くの「普通のドイツ人」が「自分は歯車の一部にすぎずまさかそんなことが行われているとは思わなかった」「知らなかった」「無事だと思っていた」と言い続けた。家族の会話でも、裁判所でも。
でも、アーレントも1968年以降のドイツも、これこそがホロコーストの真因だとの結論に至ったのだった。
ドイツの法律には「抵抗の権利」が書き込まれている。
良心的徴兵拒否だけでなく、国家や権力が間違ったことをしたと思ったら、これを拒否し、抵抗する権利が市民に保障されているのだった。これを「闘う民主主義」と呼ぶ。
毎年、ヒトラーを暗殺しようとして失敗し処刑された将校の死亡日に、この「抵抗の権利」が記念式典やメディアで紹介されるだけでなく、メルケル首相をはじめとする国家権力のトップに、リマインドされる。軍人を前にしてのこのスピーチに、日本の人だけでなく、世界中の人達が間違いなくビックリするであろう。
しかし、それは数百万人を普通の人々が協力し合いながら、組織的かつ近代的に虐殺してしまった国の、歴史的真実とそこから得られた真理に基づく、制御策なのであった。
だから、今日も「桜」や「もりかけ」や「プロサバンナ」の文書を求め、真実を探究し続け、個々人の名前を記録し明らかにし人を人として戻してあげることは、「顔なき名前なき思考停止した官僚や普通の人々」が、すでに人類が通ってきてしまった「史上最大の悪」に加担することから守る為にも、不可欠な闘いなのだと、私は思う。
そして、もし思考停止から目覚め、人としての尊厳を自分の手の中に取り戻したいと願う人がいたら、ともに真実の探究をしてほしいと思う。あるいは、「良心的抵抗」について考えてみてほしい。政府の中にいようと、準政府組織にいようと、あなたはあなたであり、そのあなたもまた主権者である。その主権者として、この国の腐敗に加担し続けるのか、と。何らかの抵抗ができるとすれば何だろうか、と。
それはもしかして、
「こんなこともう続けられません」と言いうことなのか、
「いつかバレることを本当にすべきなのか」と同僚と話し合うことなのか、
「この担当から降ろして下さい」と直談判することなのか、
「一旦止まりましょう」と提案することなのか、
「それはマズいと思います」と諭すことなのか、
あるいは他の人がしたように内部告発者となることなのか、
またはリークすることなのか、
それは分からない。
でも、もう決断すべき時期はとっくにきていると思う。
そして、私は聞きたい。
「まだこんなこと続けるつもりですか?」
と。
ガンティーの教えによれば、JICAがどれほど努力しようとも、真実は壊れることはなく、墓場からすら蘇ることを、そしてそれを蘇らせるのが、歴史家の使命であり仕事であることを、これを機会に認識してもらえればと思う。
「モザンビーク小農の父」であったマフィーゴ代表がいつも口にしていた言葉を。
A luta continua(闘いは続く)
JICAが開示文書の大半を黒塗りしたために、インクがもったいない、紙の無駄と思ったのか、数頁をまとめて黒塗りしたことにしているという開示文書としてはあり得ない運用をしている現物。ここまで徹底して黒塗りされまくったこの文書は、JICAからプロサバンナ本部に派遣された契約コンサルタントの月報。
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