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拙稿「ネルソン・マンデラの時代」(『現代思想』2月13日発売)で書いたこと

しばらくぶりです。ドクターストップがかかり、カメのようにノロい状態です。なんとか1年生から5年生までの卒業や進級に絡むことも目前、ゼミ合宿も終え、今季を無事に乗り切る(というのか?!)一歩手前まできたら、さすがに糸が切れたようで。

来週発売の『現代思想ーネルソン・マンデラ特集』(2月13日発売)2014年3月号の紹介をしておきます。(各種ネット書店では予約販売中のようです)

沢山の南アフリカ研究者や関係者が書く中、私なんぞが出る幕ではないのと、あまりにもの体調と忙しさだったのでお断りしようと思っていたのですが、依頼してくれたのが授業を熱心に取ってくれていた卒業生というこもあって、思い切って頑張りました。

時まさしく都知事選の真っただ中。この間の市民社会やメディアの在り方、権力の側の動きをみるにつけ、アフリカの解放闘争と戦争の研究を通じて学んできたことの一端を紹介したいと切に思うようになりました。詳しいことは勿論、来週発売の『現代思想』をお買いもとめいただく一方、少しだけ書いたことを紹介しておきます。(なお校閲前の原稿なので日本語がおかしいです・・・)

また右側バナーでも紹介している『ネルソン・マンデラー私自身との対話』を是非あわせてご一読ください。私の本の英訳をしてくれた長田雅子さんの日本語訳です。分厚いですがすらすら読めるマジックだ~。

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『現代思想ーネルソン・マンデラ特集』(2014年3月号)
「ネルソン・マンデラの時代とモザンビークと南アフリカの解放闘争」
舩田クラーセンさやか
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ネルソン・「マディバ」・マンデラ元大統領は、モザンビーク人にとって、隣の国の元大統領を超えた意味を持っていた。そのため、マンデラの訃報は、モザンビーク社会にも深い悲しみをもって迎えられた。新聞各紙は一面でこのニュースを取り上げ、葬儀の模様も各紙のソーシャル・ネットワーク(SNS)ツール上で、リアルタイムで取り上げられるなど、関心の高さを窺わせた。しかし、モザンビークの人びとが、彼をここまで尊敬する背景には、南アフリカとモザンビークの同時代的な歴史が関わっていた。

本稿では、ネルソン・マンデラの自伝『ネルソン・マンデラ――私自身との対話』(2012年、原著は2010年)、そして拙書『モザンビーク解放闘争』(2007年)などに基づきながら、彼が活躍した第二次世界大戦後から現在までの、同時代の南アフリカとモザンビークの関係性をふり返る。そのことによって、彼が生きた時代、彼の役割を全アフリカ、あるいは全世界的な意義の中に浮かび上がらせることができればと考える。

本稿では、まず同時代を生きモザンビークと南アフリカの解放運動指導者であり初代大統領と結婚したグラッサ・マシェル(Graça Machel)の紹介を行い導入とする。次に、南アフリカの反アパルトヘイト運動のモザンビーク解放闘争への影響を示す。そして、二つの闘争が運命共同体となって展開していく様子を明らかにする。その結果、アパルトヘイト政権の軍事介入を含む攻撃を受け、他大な犠牲を出すことになった独立前後のモンビークの状況を示す。その上で、アパルヘイト体制や冷戦構造の崩壊から、1994年に両国の人びとが共に新しい時代を歩み始めたことを紹介する。これを受けて、このような歴史的展開において、重要な役割を果たした南アフリカの指導者マンデラとモザンビークの指導者マシェルーーつまりグラサの夫たちーーの共通点と相違点を検討することで、同時代の二国間の闘争の実態を浮き彫りにする。最後に、西側諸国の一員として冷戦期を過ごした日本の関与について批判的に検討を加えるとともに、マンデラの訃報を受けて、一人の人間としての生き方について考えることを共有する。

はじめに
1. モザンビークと南アの二人の大統領と結婚したグラッサ
2. 南アフリカの反アパルトヘイト運動のモザンビーク解放闘争への影響
3. 運命共同体となったモザンビークの解放闘争と南アの反アパルトヘイト運動
4. アパルトヘイトの犠牲になるモザンビーク
5.1994年:南アフリカでの初の黒人政権樹立とモザンビークの初の複数政党制選挙
6. マンデラ元大統領とマシェル元大統領の相違点と共通点
おわりに

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6. マンデラ元大統領とマシェル元大統領の相違点と共通点(抜粋)
グラサにとって、マンデラと再婚した理由はパーソナルなものだろう。しかし、両国の歴史をふり返った時に、見出されるマンデラとマシェルの共通点と相違点は、両国の闘争の共通点と相違点を浮き彫りにする。
(・・・)
1968年に暗殺された初代書記長エドゥアルド・モンドラーネ(Eduardo Mondlane)亡き後のFRELIMOを束ね、闘争を勝利に導いたマシェルは共産主義者であった。一方のマンデラは共産主義者ではないと否定してきたが、その思想的共通性と違いはどのように理解されるべきであろうか。

両者共に、高い理想を持った自分に厳しく稀有なリーダーシップの持ち主だった。アフリカの伝統、抵抗のヒーローらを賞賛しながら現代の闘いを進める手法も類似していた。また、闘争の手段としての暴力を許容する戦術家であった。自己犠牲を厭わず、利権を嫌い、率先して自らの模範を示した。

他方、大きな違いといえば、キリスト教徒(カソリック)であったものの、後に弾圧するところまで至るマシェルとキリスト教を手放さずその中に解放の論理と為政者への攻撃の論理を見出していくマンデラの違いは大きかった。闘争への理解のない者を容赦なく再教育キャンプ送りにしたマシェルの革命は路線と、「元の敵」を受けいれる寛容を説いたマンデラの姿勢は、とりわけ大きな違いだったといえる。

しかし、ここで思い出したいのは、マシェルとマンデラが直面した闘い、あるいはANCとFRELIMOの闘いは、その暴力の密度において大きく異なっていたことである。もちろん、どちらの闘争が苦しいものであったのかをここで論じるものではない。しかし、1964年から10年間に及ぶ国土の半分近くを巻き込んだ植民地解放戦争、16年間に及ぶ全土に拡大し国民の3分の1が故郷を追われ100万人を失った独立後の紛争において、その指導者であり軍事司令官としてマシェルが直面した課題は、抜き差しならぬものであった。1962年から90年までの27年間を牢獄での暮らしを余儀なくされたマンデラであったが、日々生きるか死ぬかの只中の国民と共に何をどう判断するのかについて、マシェルが抱えた困難を、今なら彼がどうふり返るのかを知ることはできない。マシェルにとって、「誰が敵なのか」を見破ることの意味は、個人的なものを超えていた。軍事部門を立ち上げ、初代司令官となったマンデラではあったが、すぐに監獄に収監されたことが彼の認識にどのように影響を及ぼしたのか、及ぼさなかったのかもまた、知ることはでいない。

それでも、日本ではあまり知られていないことであるが、マンデラが最後まで武闘闘争を放棄しなかったことは、その寛容さ故に付きまとう「非暴力主義者」とのレッテル貼りからも、十分認識しなければならない。「暴力が手段として使われるか否かは、支配者が暴力を放棄するかどうかによる」との前提は、ANC内でマンデラが、FRELIMO内でマシェルやモンドラーネが主張したことであった(マンデラ, 2013; 舩田クラーセン, 2007)。他方、マシェルが、「真の敵」であるアパルトヘイト政権と妥協して不可侵条約を結び、非公式ではあったものの「真の巨大な敵」である米国に自ら出向いたことに示される、その柔軟性を記憶に留める必要もある。つまり、両者は、「人びとの解放」というより高い目標のためなら、自らの主義主張やメンツを捨て、最適な手法を選ぶだけのプラグマティズムと柔軟性を持った戦術家であったという点である。

また、「人びとの解放」に込めた想いが、単に「アフリカ人/黒人が指導者になればいい」という考えに基づかないものであった点も重要な共通点であろう。これは、ANCとFRELIMOの共通点でもあるが、「人種主義の打倒」は植民地支配やアパルトヘイト体制が崩壊すれば終わるのではなく、マシェルにとっては「人による人の搾取とその構造の一掃(舩田, 1997)」、マンデラにとって「人種や信条に関係なく、すべての南アフリカ人が平等、平和、調和のうちに暮らす民主的な南アフリカ(マンデラ, 2012)」といった社会変革を伴わなければ意味がなかった。

そのためには、両者は、国民の意識の向上や覚醒がなければ、本当の意味での社会変革は不可能であることを熟知し、闘争の長期化に覚悟があった。これは、両者が共に中国共産党あるいは毛沢東の「耐久戦」の概念や、アルジェリア戦争における政治教育の重要性に感銘を受けていることにも示されている(舩田クラーセン, 2007; マンデラ, 2012)。

アフリカの多くの独立の父が利権と腐敗に手を染めていく中、これらの二人が死を含めた自己犠牲を厭わず、人びとの中に入り、人びとに奉仕する稀有なリーダーであろうとしたことは、その結果発生した多くの過ちの一方で記録に残されるべき点である。興味深いことに、グラッサに限らず、両者が愛した女性らは自律した同志ともいる女性たちだった。(・・・)マンデラもマシェルも、「女性の解放」をスローガンとして闘争の中心に置いただけでなく、私生活でもそれを実践していた点に、「アフリカの解放」の理解の深さと覚悟が見て取れる。(・・・)

おわりに
このように相違点もあるが共通点も多い2つの国の元指導者と、彼らが生きた時代をふり返ることで、日本でほとんど知られることのない南部アフリカの現代史を示そうとした。日本は西側諸国の一員として、解放を求める南アフリカやモザンビークの人びとの側ではなく、それを抑圧する南アフリカのアパルトヘイト政権やNATO加盟国のポルトガル政府を支え続けたことを忘れてはならない。特に、南アフリカとの関係においては、国連決議で経済制裁が合意されている最中の1987年から、日本の同国との貿易総額は世界一となった。そのことは、モザンビークの紛争を長引かせることにもつながった。ANCは1960年に非合法化されており、日本ではテロ組織として認識すらされていたのである。

去年末、マンデラ元大統領の訃報に触れて功績を讃え、豊富な天然資源目当てにモザンビークを訪問するという日本の為政者や企業関係者、そして日本市民は、このような歴史的背景を忘れてはならない。 

最後に、筆者が忘れられない光景を紹介する。モザンビークのマプート空港でのこと。マンデラが滑走路に降り立つのに気付いた。空港ビルまでたった30メートルの距離なのに、一歩一歩がとても重く、歩き通すのに10分もかかった。しかし、彼は送迎車や車いすに乗ろうとせず、むしろ出迎えたグラサを支えるかのように腕を組んで背筋をしっかりと歩いていた。当時園児だった息子は、マンデラが誰かも知らないままに、その姿に魅せられ、「あの人はすごい人でしょ?」を連発し、彼のことを簡単に説明すると感激のあまり大きく手を振った。それに対して、マンデラは立ち止まり、息子に向かってあの闘争の握りこぶしを突き上げてくれたのである。横ではグラッサが優しく微笑み、息子に手を振ってくれた。

たとえそれが幼児でも、人を一人の人格として敬うあの姿勢に、自分の胸に手を当て、自分はそうしてきただろうかと問うた日を昨日のように思い浮かべる。年配者としての優しさを分け与えるのは容易である。しかし、彼は幼児ですら自らと同等のものとして受け止め、その魂に語りかけるという人であった。そして、何歳になろうとも傲慢さを捨て、自分を鍛えるということにおいて、休むことを知らない人であった。

モザンビーク人のSNSの多くが「安らかに休んで下さい」と括られていた。マディバに休んでもらうには、私達自身が彼の教えてくれた多くのことを学び続け、伝えていくしかないだろう。

(詳細は『現代思想』を)

*ちなみに、私は武装闘争の支持者ではありません。ここで一番重要なポイントは「暴力的な構造」があるという現実の直視であり、その「暴力的な構造」を支える民衆である私たちがいるということです。それを変革するには、「暴力的な構造を支える私たち」がまずはその構造を自覚し、意識的に変える覚悟を持ち、実際に行動によって変えていく必要こそがあったというのが個人としては一番言いたい事です。

*他方、あの時代のモザンビークや南アフリカにおいて、彼らがとった手法や手段を、私は「いい悪い」という立場にないとも思っています。その構造を押し付けてきたのは我々自身であるから。なので、私の研究もこのような原稿も、まずは構造がどうであり、運動や指導者はどう変遷していったのかを掴み、それを皆さんに提示し、共に考えることだと思っています。
by africa_class | 2014-02-07 13:16 | 【記録】原稿・論文