人気ブログランキング |
ブログトップ

Lifestyle&平和&アフリカ&教育&Others

afriqclass.exblog.jp

タグ:子育て ( 4 ) タグの人気記事

日本で11歳まで前髪の向こうに隠れていた息子が、7年後にドイツの起業コンペで優勝するまで。

ブログをふと見たら、2011年7月(つまり8年も前)のブログ記事がトップにランクインしててビックリ。そして、当時「怒りの鳥」を描いていた息子の海が、いろいろな意味での自由を手にして「遠い」ところを楽し気に飛び回っていることを、皆さんに伝えないといけない気に駆られたのでした。

さようなら、日本の「普通教育」。シュタイナー学校に行くことになった息子と「魂の鳥」

https://afriqclass.exblog.jp/13063647/

兵庫の山々の懐の町で生まれ、4歳まで育った海。
その後引っ越した東京でも、ただの「海くん」としてノビノビと育った。

地元の公立小学校に入るまでは・・・。
入学式後の初登校の日、いきなり上級生から「ガイジン」と虐められ、教室に入ったら「アメリカ人」と呼ばれ、つい同級生を突き飛ばしてしまった。身体の大きな海の「とん」とひとつきで同級生がこけてしまい、担任から大慌てで電話。相手のご家族に電話して謝るようにいわれ、親も子もなんだかわからないままに、日本の学校生活がスタートしてしまった。その後は、いばらの道。

持ち物が少しでも他の子と違うと「学校に行きたくない」。
赤ちゃんの頃から大好きだった曲げわっぱのお弁当箱なんて、とんでもない・・・。
プラスチックのものが何一つない家に、どんどんアニメ柄のプラスチックのものが増えていった。
とにかく、「みんながもってるのと同じもの」を、「みんなと同じように」すべてを揃えないと不安で不安で、泣いてしまうほど。二言目には、「どうしてみんなの家と同じようにできないんだ!」とかんしゃくをおこし、「みんなと同じにどうして産んでくれなかったんだ」と。

みーんな違ってて、それがいい。

それを大学での教育理念にもしていた私の戸惑いは、とてつもなく大きかったものの、どうしていいか分からなかった。日本という環境の中で外国人ばかりが行く学校に通わせるのはどうしても納得ができなかった。まずは地域の中で育ってほしい・・・そう思っていたから。

4年生になるころには、父親はもとより極めて「日本のママらしくない」という私も授業参観に来ちゃだめといわれはじめ、前髪をながーく伸ばし始めて、顔全体を隠すように。外出しても、人に見られたくないのか、自分では絶対に注文をしない。とにかく、目立たないように、目立たないように息をひそめて生きるようになってしまった。こっそり行った授業参観で先生に指されると、蚊のなく様な声で返事をして、あんなにのびのびしていた子が・・・と人知れず帰り道に涙が止まらない。

私の中では、一刻もはやく違う環境においてあげないと、思春期で大変なことになると思ったものの、手が無い。日本のシュタイナー学校は満員でどこも新規に受け付けておらず、残る選択肢は中学校で国際的な学校に行くこと。でも、そもそも日本で育てるべきなのか・・・。そんなとき、サッカーに出会い、よい仲間に恵まれどんどん上達していったこともあり、いろいろなことを考えるものの、日々の忙しさに追われ、現状のまま流されていたのでした。

でも、サッカーですらゴール前にいてもボールがまわってきたらわざとパスを出すほどに気持ちの面で自信がない…。何度いわれても、同じ。ゴール前で譲ってしまう。みにきたお父さんたちの「あーーーー」というため息が流れる。毎度のこと。それでも、なんとかFC東京のジュニアテストに合格して最終試験を小平に受けにいったその日に、東日本大地震が。

運命とは不思議なもので、あの地震は海の人生の方向性をガラリと変えてしまった。

日本で育つこと。
サッカー選手になる夢。
そして日本代表となる夢。

2011年4月、震災と原発事故を受けて、一旦ドイツの学校に「留学」することになった息子。
半年ごとに日本に戻るかどうかを話し合い、結局、それから8年が経過してしまった。

ドイツに行った時は小学校5年生。ドイツ語の読み書きがまったくできなくて、宿題が何かすら分からないで毎日通った学校。もう何年も経った後に、「あのとき毎日日本に帰りたくて、来月こそは帰られるかなって願ってた」と教えてくれた(涙)。そんな本音もいわないままに、読むことも書くこともできない言語と格闘した。かなしくて爆発したことも一度や二度ではなく、私が東京に残って大学の仕事を続けたこともあり、寂しさもあって、とにかく心は荒んでいたと思う。

飛行時間12時間の遠距離の家族の時間のために、お金も気力・体力もすべて使い果たしつつ、2,3ヶ月に1度ドイツに向かった私のカバンにはいつも日本の教科書やドリルが入っていたのだけれど、あるきっかけでそれも捨ててしまった。

家族で近所のイタリア移民がやっているレストランに食べに行ったときに、息子が全員分のオーダーを率先してとって、店主に伝え、おばあちゃんには氷なしの水、自分には氷ありのジュースなど細かい点までお願いしていたのを見たから。確か、ドイツに行って10ヶ月も経っていなかったと思う。そして、その瞬間まで気づいていなかったのだけど、息子の前髪は見事に短く切りそろえられていた。

あのときの静かな感動は、一生忘れないと思う。

日本で私の後ろに隠れて、自分の食べ物もオーダーしたがらなかった息子が、誰にも言われずに皆のオーダーをとってくれている。その翌週、息子の学校に出前授業に行ったときのこと。日本なら絶対「はずかしい」といって反対されるのが、何もいわなかった。すべて英語。子どもたちはそれなりに理解してくれて、「どうしてか分かる?」と聞いたとき、数名の子どもたちが手を挙げたのだけど、その中に海がいたことにビックリした。そして、あの日本の授業参観での蚊の鳴くような声と違って、大きなはっきりとした声で自分の考えを述べてくれた。

18名のクラスメートには、いろいろな障害をもった子どもたち、里親の家から通っている子たちもいて、海は「特別」ではなかった。絵を描くと、それぞれが個性を発揮して、それぞれが美しい。

「みんなちがって、それがいい」

一年生から12年生までが一緒に活動をして、互いに助け合う。
自分の考えを尊重してくれる社会、学校、先生、クラスメート。
そんなところで、海は、徐々に「自分が自分であってそれでいい。人と違っているのが当たり前」の空気の中で、自分らしさを発揮するようになっていった。

日本を離れて3年後、クラスの劇を仕切る彼がいた。
みなの分の台詞を覚え、覚えられない子のそばで囁く。
依然としてドイツ語の文法は間違えていたらしいが、そんなことも気にしなくなっていた。
勉強が不得意と思っていたのに(実際7年前のブログにはそう書いてしまった)、いつの間にかクラスで一番の成績となっていた。いったい全体どういうこと?!?!?不思議なことに、サッカーでも、日本ではフォーワードを嫌っていたのに、喜んでゴール前に立つようになった。ほとんどマジックをみている感じだった。

それほどまでにself-esteem(自己肯定感)が子ども・若者の成長に重要だったことを、改めて教えてもらった。つまり、人は「できない」といわれるよりも「きっとできる」と励まされたほうが大きく伸びるということなのだった。また、「あなたはだからダメなんだ」ではなく、「あなたはあなたでいい」と受け入れてもらったときに、どれほど安心し、自分で歩むようになるかも。

私は幼少期に暴力を受けて「お前はダメだ」と繰り返し繰り返しいわれて育ったために、このことは体感してたし、いつも息子には決してネガティブな表現は使わず、まずは受け止める、そして必ず褒める、必要に応じて時間と空間を切り離して「あのときのことだけど、どう思う?』というにとどめてきた。父親もドイツで「褒めて育てられた」人だから、当然家庭内では絶賛「褒める」。褒め過ぎちゃうか・・・と思うぐらい、褒める。でも、日本社会や子どもが大半の時間をすごす学校・先生の影響の大きさまでは、分からなかった。むしろ、家庭内と外のギャップに、彼なりに戸惑い、苦しんでいたのかもしれない。

ドイツでは15, 16歳で仕事を始める子も多い。
クラスメートが次々に職人や職業訓練の道を歩み始めるのを受けて、海も自分の将来のことを真剣に考え始めた。なにせ自分のお小遣いを自分でつくり出すために、12歳でキャンドルを売り、14歳で木工品や家具を売り、16歳で写真を売る子。当然の成り行きというか、「起業」しか頭にない。ただ一応大学にも行くつもりで通信教育を受けながら、起業に向けて準備を始めた。

15歳になるころには、学校給食がまずいからと、前夜にお弁当を自分でつくり毎日持って行くようになった。(私は彼が自分でやりたいと思うことは、自分で責任をもってやることを教育方針としていた)。2歳のころに包丁をプレゼントして以来、一緒に料理や味噌・豆腐・梅干しづくりなどしてきたせいで、料理への関心は高く、いずれは「フード」の世界に行くと決めていた。そして、16歳の秋、わざわざ独りで日本に戻って、2週間にわたり居酒屋やレストラン、フードトラックで研修を重ねた。ドイツでは日本食だといくらでも儲けられると考えたそうな。(甘いな・・・でも口に出さなかった。自分で考え、自分で行動するのであれば、どんな失敗も肥やしになるから。)

卒業式の前週、卒業制作発表会があり、フードトラックの発表。
なかなかよく出来た発表とはいえ、これでビジネスになるんか・・・と突っ込みたい。とくに、そのトラックのお金どうするん?という点について。それについては、「へへへ」と誤摩化したまま、友人とともに卒業旅行と称して、シベリア鉄道3週間の旅に出てしまった。

戻ってきて、友人は大学進学のための学校に行くが、通信教育の海はなんにも動かない。
どうやら学校が終ってあまりにあまった時間を、映画やビデオをみて浪費している。それまで一切してなかった携帯ゲームにまで手を出している始末。朝はお昼まで寝て、夜ごそごそ。友人も彼女も学校に行ってる間は寝てて、彼らが戻ってきたら遊びに行ってしまう。。。時間は山ほどあるくせに、学校に行っていた時以上に部屋が汚い。ゴミもまともに捨てず、床の上に散乱している・・・。

これがあの生活態度が乱れるというやつか・・・。
昼夜逆転というアレ?

親としてはかなりの忍耐が必要な状況に間違いない。
連れは心配になって、私に指導するようにいうのだけど、私の教育方針はさっき書いたとおり「自分で気づく、考える、行動する」。とはいえ、さすがに一言二言いわなくてはならない状況になってきた。

昼頃起きた息子のベットの横に座る。
「海くん、丁度半年前、あなたの卒業制作発表会に出て、それから卒業式に出て、ああ、これから限りなく広がっている人生の道をあなた自身が自分の力できり拓いていくんだね、って眩しい想いでみてた。いまでもそう信じてるけど、それでいい?」
「いい」
そういうと、「もう出てってー」というので、そっとドアを閉めた。
ドアの向こうからは、携帯ゲームをしている様子がわかった。
でも、もう何もいわなかった。

それからほどなくして、「このレストランどう思う?」と聞かれ、日本食のレストランのサイトを紹介された。とってもポリシーをもってて、いわゆる「日本食」っぽくない店でいいね、と言ったら、「すぐにバイト始めたい」といって、履歴書やら志望動機書やらを作るから協力してくれといわれて協力した。その週にバイトは始まり、電車で往復3時間かかる距離を週に3回通いつつ、サッカーも自分の年齢のチームとトップチームの掛け持ちを始めた。

きっと私の日本の家族なら(まずはネガティブからはいる・・・)、「でもバイトだよね、プロではないサッカーだよね・・・」というコメントをいってしまうと思う。そもそも通信教育の勉強もちっとしかしてない。でも、相変わらず昼まで寝て、トモダチに彼女にバイトにサッカーに忙しい。でも、彼がドイツ社会のなかでようやく自分が必要とされ、居心地のよい場所(仲間)をみつけた嬉しさが感じられたし、その感じをトコトン味わう時期があっても良いのかもしれないと眺めていた。そもそも、彼がぶらぶらしているからといって、近所や親戚や友人の親や友人が何かをいうような社会でもない。

人それぞれ。
それぞれが考えてそれぞれの道をそれぞれのやり方で歩む。

とはいえ、半年以上続くので、父親はジリジリし始めた。
でも、人生のなかで迷子になったり、迷路にはいったり、遊びにはまったり、そういう時期ってあるし、そもそも親からして「まっすぐな一本道」どころか「曲がりくねって、途中で終ってて、そこで倒れたままじっとして、また道を歩き始めた」(私)りしてる中で、子どもに「これが正しい道」だなんていうのはダメだよね・・・と確認しあった。(そもそも親自身が自分たちの不仲で、子どもを振り回して生きてきた。)ただし、お金はもうちょっと稼いでほしいね、と。自分で食べるもの、遊ぶお金ぐらいは、自分で稼がないと・・・。そもそも、自分の車だって自分で働いて買ったし、親が買ってあげるのって違うんじゃないか、というとどうやら父親の方でもちゃんと「債務通帳」をつけているのだそうな。さすが・・・ではある。

そこからさらに数ヶ月。ついにクリスマスがきた。
なぜかドイツではお正月ではなく、クリスマスに翌年の抱負をのべる。
息子いわく、「いろいろ考えていることを行動にうつす」と。
しかし、クリスマスが過ぎて、年末年始の旅行が終っても、行動に変化がない・・・。
さすがに、これはまずいのではないか、そう思ってた矢先、突然、友人と起業コンペに出るから写真を撮れという。

ふーん。
撮ってあげてもいいけど、いい加減な調子だったらお金とるよ。
いや本気だから。
本気って、どうやったら分かるの?
だって、すでに550名の予選を突破して、最後の16人に残ってるから。
ぎょ。。

思わす「遊んでたんじゃないの?」との質問を呑み込んだ。

そうなんだ。
で、この写真は?
会社のホームページに必要だから。
ぎょ。。

「ビデオみてたんじゃなかったんだ」のコメントも呑み込んだ。

書斎に来てといわれて汚いからいやといったのだが、入ってびっくり。
ゴミやあれやこれやは散乱していたものの、片面はきれいになっていて、ポストイットが壁中はられてあって、もうスポットライトなどが準備されていた。ニヤット笑う息子と友人。

このゴミも写すね、と憎まれ口をたたきながら、なんだか嬉しさがこみあげてきた。
最初から決めてたとおり、彼らに任せていいんだ、と。
このコンペの結果がどうであろうとも。

二人は準備したプレゼンを見せてくれた。
なんのビジネスプランと思ったら、たしかに「フード」分野であるものの・・・・「虫」だった。
ぎょ、ぎょ。。

アフリカでは「虫」を食べる地域が多い。
でも、私は食べない。
肉を食べないけど、虫は食べない。
魚は食べるけど、虫は食べない。
そんな私の前に現れた「虫フード」。。。

ニンマリと笑う二人。
それから二人は毎日集って、虫を育てるために地下室を改装し、虫を育て、プレゼンを作り、試作品を作り、原稿を作り、メンターとスカイプしながら、準備を進めていった。なんのコンペかもよくわからないが、とにかく見守る。何もいわず、「後片付けしなさーい!」と二人に檄を飛ばしつつ、見守る。

相棒のフィンは学校に通ってる。親は彼に大学に行ってほしい。学校も休まないでほしい。でも、本番が近づくにつれて準備が間に合わなくなって学校を休みがちになる。それでも、フィンの両親もフィンには一切何もいわない。自分で考えて判断しろ、とだけ伝えていると。お母さんに聞いてみると、色々考えることもあるし黙ってるのは辛いけど、自分で決めることだから、と。さすがである。

そして本番前日。
私は出張でバルセローナに。
彼らは始発電車で開催地へ。
まあ、がんばってね。きっと上手くいくよ、と適当なメッセージとともに。

この時点では、なんのコンペかも、何もしらず、まあ人生には一生懸命なにかに打ち込む瞬間が重要だという程度だった。失敗はどんどんすればいい。挑戦が重要、と。

その日、バルセローナで美味しいレストランでたらふく食べ、酔っぱらって地下鉄に乗ってると、興奮気味の父親から携帯に連絡がきて、「どうやら優勝した?みたいなんだけど・・・連絡あった?」と。「ない」。「電話つながらないんだ」。「そりゃ優勝したらつながらないから、ほっといたら?」。ほっとけない父親は情報を求め私にかけてきたという。さすが熱血親父。本当はコンペ会場に行きたかっただろうに、ぐっと堪えた。もう18歳の息子、両親がうろうろなんかしてはいけない。たった独りで世界にチャレンジすべきだから。そこは、さすがに理解したようだった。(かろうじて)

電話を切ってから、なるほど。人生の歯車というのは、ふしぎなものだと感慨にふけっていると、息子からたった一文メッセージが飛び込んできた。「Wir haben gewonnen!(勝ったよ!)」

狐につままれた感じだった。
いまでもそうだが。

コンペはドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲン社がはじめて開催する19歳以下の若者の起業ビジネスコンペ(X-starters)だったことは、ずいぶん後になってから教えてもらった。そして、それ以降、優勝の賞品である起業までのコンサルティング(200万円相当)を受けつつ、起業に向けて急ピッチで準備をしているところ。

まだ18歳。
まあ、失敗もするだろうなーと眺めてる。
でも、それも含めて、それでいいと思う。

自分で考え、自分で動き、(そして止まり)、この間にも、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしているが、彼は彼の人生の道を自分の足で歩いているという実感をもって一歩ずつ進んでいる。もはや、「国籍が」「出身が」「ドイツ語が」「日本語が」「親が」「学校が」・・・ではなく、「ぼくが」という主語で一日、一日を生きている。

部屋は相変わらず散らかったままだし、朝も遅いが、いつか自分で変わるだろう。
(いや、もうひとりの親をみてたらダメかもしれないが・・・それで死ぬわけではない、と思いたい。)
もう成人(ドイツは18歳で成人。16歳で地方選挙の参政権があり、お酒が買って飲める)。
彼は彼のやり方で彼の道をいく。
その背中を、これまで以上に眺めるだけになるんだろう。

もし、彼の活動に関心をもっていただいたのなら・・・以下、ぜひのぞいてみてください。
ほとんどドイツ語ですみません。
あ、そして「虫さん」たちは、だいじょうぶですよ〜。
まだ主役でないので。

■フォルクスワーゲンが作ったプロモーション動画
https://www.youtube.com/watch?v=eckzE3WO3qw

■彼らの会社Entorganicsのホームページ
https://entorganics.com/

■インスタグラム
コンサルに1日1レシピをアップするように言われてアップしてる写真
https://www.instagram.com/entorganics/


もちろん、彼は成功したわけでもなんでもなく、一歩を踏み出しただけ。
しかも多分、大失敗は織り込み済みで。
でも、彼はもう前髪のおくに隠れていない、自分の考えをもってそれを自分の言葉で表現し日々人々と関わりあっているという点で、もう心配していない。何より、彼の人生だから。


日本では、「おかれた場所で咲きなさい」という本がよく売れたという。

でも、私は全力でいいたい。
「咲けない場所からは逃げて、咲ける場所で咲くのも一つの選択肢だよ」と。

彼の話から、「あなたはあなたであっていい。あなたは違っていい。違っていることにこそ、あなたの可能性が潜んでいるかもしれない」、ということを、日本の若い人が少しでも頭の片隅においてくれればと願っている。


a0133563_20041437.jpg
彼に庭の写真を撮ってといったら、こんな感じの写真がたくさんきた。
なるほどーと。


a0133563_20061059.jpg
庭の隅々への愛が感じられる。写真をとおして、感じられて嬉しい。

a0133563_20074495.jpg
完全に野草だけど、私たちの冬の間の重要なサラダな。

*子育てという言葉はキライだけど、誰かのところに届くようにカテゴリに入れます。


by africa_class | 2019-06-04 20:09 | 【徒然】ドイツでの暮らし

ヨーロッパの少子化対策(その1):フランス出生率回復理由への日本の驚き〜「失われたものがあるのなら…」

介護の話の続きを書くはずだったのですが、あれから急展開があり、義母がホスピスに転院し、そして穏やかに旅立っていきました。なかなか喪失感から立ち直ることができず、続きを書くまでには回復できていないので、今日はちょっと違う話題を。

ずばり「ヨーロッパの少子化対策」。
いや、予めお伝えしておくと、私はこの専門家ではないのです。
妊婦から現在まで18年ほどヨーロッパと日本とその他の国々を行き来する中で、いろいろ考えてきたこと、学んできたことを、今出てきている記事やデータや調査資料・論文を踏まえて紹介しているにすぎません。

でも、ツイッターで一つの記事を紹介しただけでエライことになったので、おそらくこの話題については、皆がもっと知りたい、議論したいと感じてらっしゃると思われるため、一応整理の意味で昨日と今日の2日間で書いたことを記しておきます。

あまりにニーズが大きいようなので、ヨーロッパの介護事情とともに、教育と少子化は調べて紹介すべきだろうと確信していますが、今現在はその余裕がほとんどなく、世界の最前線で生きるか死ぬかの状態の人びとのサポートを優先させて下さい。

また、今あらゆる原稿や翻訳が山積状態なので、、、乱筆お許しを。年末年始の騒動でほぼ動けない状態だったので、そのツケが年度末の今に押し寄せています。

さて、私が紹介したのは次の記事でした。

出生率が上がった。フランスが少子化を克服できた本当の理由って?

ハフポスト日本版編集部 2016年11月11日 22時23分
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/11/work-or-child-rearing_n_12910186.html

「フランスでは、1994年に1.66と底を打った出生率が、2010年には2.00超まで回復した。少子化に悩む先進諸国の中で、なぜフランスは「子供が産める国・育てられる国」になれたのか。


約7割が取得する「男の産休」、全額保険でカバーされる無痛分娩、連絡帳も運動会もない保育園――。働きかた、出産や保育の価値観、行政のバックアップと民間のサポート。日本とはあまりに異なる点が多いフランスの出産・育児事情から、私たちは何を学べるのか?


フランスの育児システムについてレポートした『フランスはどう少子化を克服したか』(新潮新書)を上梓した髙崎順子さんと、作家・少子化ジャーナリストの白河桃子さんの対話から、少子化脱却のための方法を探る。」


なので、この記事と新書を読んでいただければ良いと思います。

なかには色々な政策的なことや社会のこと、ご自身のことが書かれていて、面白いので各自で読んで下さいね。私はこの長いインタビュー記事を以下の140文字で紹介しただけなのです。


フランスの逆転ポイントはここ>

「もし子供を持つことで失われるものがあったら、それは全て政府が補塡します」と。

仏では「男性が途中でいなくなっても、仕事を失っても、あなたの子育ては大丈夫ですよ」という政府のメッセージが女性に届いたから安心して産める。」


これが8000以上の人にツイート(RT,いいね)されているということは、これに相当な感想をもった人が日本に多かったということになるかと思います。


いまいちそれぞれの数値の意味が分からないですが、記録のため、以下貼付けておきます。

インプレッション 396,150
エンゲージメント総数 15,243


さて。重要なのは、このツイートに接してどのようなコメントがきたか、という点。

圧倒的多数が、次のようなものでした。


1)びっくり驚いた

2)羨ましい!

3)日本では考えられない、無理

4)日本はダメだ、地獄


さらにいつもと違っていたのは、引用コメントの多さでした。

とにかく具体的に、女性たちがそれぞれの経験談を語ってくださいました。


とくにこれらの女性に鍵となった言葉が「失ったもの」の部分でした。

そして、「●なしでも大丈夫」の部分。


しかし、女性たちは、たった140文字の枠の中で、その辛さと憧れと諦めを同時に表現していたのです。日本時間では、夜中であろう時間帯に。見知らぬ人達に向けて放たれたつぶやき。一人残らず匿名の声。


このことの深い意味に、私は強く心を動かされました。

私自身が、学生時代に身籠り、日本で子を産み、育てた一人の女として。

結婚し、離婚した者として。

もっとたくさんのものを「失った」母や、祖母や、叔母や、曾祖母や、それに連なる女たちの末裔として。

世界で今日も「失ったもの」を独り、誰知れず、黙って抱きしめる女たちの、

あるいは、「失ったもの」を考えまいとして、がむしゃらに「母」をやってきた女たちのシスターとして。


誤解しないでほしい。

私がそうであるように、女性たちも、母たちも、みな「得たものの方が大きかった」と感じていることを。もうすぐ50年生きたことになるが、子を産み育てる以上の感動に、私は出逢ったことがない。そして、あの赤子がすくすくと成長し、もう旅立ってしまおうとしていることにとてつもない寂しさを日々感じていないとすれば、それは嘘になる。


そして、そのプロセスにおいて、父親を含め、沢山の人達や社会のサポートを受けていなかったかというと、そうではない。確かに受けていたのだし、息子にとって父親の役割の方が今となっては大きい。


ただ今日伝えたかったのは、少子化のことをアレコレいいたい人がいるのはよく分かるし、男性にだって沢山の辛い想いや失ったものの話もあるだろうし、政府だっていろいろやってないわけではないというのも分からないわけではないのだが、一言で表現するならば・・・


そこじゃないんです、きっと。

次の子を産まない・産めない理由は。

あるいは、子を産もうと思わない理由は。


そして、それは当事者の女性が、ぎゅーーーーと心の中で無意識にも意識的にも握りしめていて、決して外に出てこない部分なんだということ。


日本ではね。


でも、フランスではあっけらかんとしてこれが発っせられ、それに「政府が」対応するという。


そこなんだと思う。


自分を説得する必要も、夫やパートナーを説得する必要も、ましてや姑や親、会社や社会やその他を説得する必要がない状態からスタートできるとすれば、それはすごいこと。


「ああフランスだからね」

と女性たちは共感の次に、自分の境遇に戻っていく。

つまり諦めの。

なす術も、変える術ももたず、孤軍奮闘するしかない存在として。


でもね。フランスだって1994年には少子化がどうしようもないところまで行こうとしていて、出生率は下がる一方だった。北欧諸国はもっと早く70年代にこの傾向がはっきりしてしまっていた。


それを跳ね返していったのは、やはり当事者の声だったのです。

「失ったもの」を自己責任、家庭の責任にしない。

ナニカを失うとしても、それを社会全体でサポートしようよ。

否。サポートできる社会に変えていかねばならない、そう気づいて立ち上がった人達がいた。

女性だけでなく。


だって子どもは社会の宝だから。

お母さんだけの、親だけのものではなく。

子は子として命をつないでいってくれる。社会を続けていってくれる。


社会全体の継続、発展にとって、子ども・若者は必ず必要だということを、昔は言わなくても分かっていたものを、今は一人ひとりが他者や社会と断ち切られた関係のなかで生きざるを得ない傾向があるために、あえてこのことを言語化しなければならない時代となっている。


そして、介護の話もそうだったけれど、少子化の話題でも、日本からのレスポンスの根っこは同様だった。つまり、「私たちが決定権を持つ主体」という理解、「私たちの手で原状を変えることができるんだ」という前提が、まるでないという点。


反応の5)は、ズバリこれ。

「政府に、政治家にきかせたい」


もちろん、この政権が無策すぎたということもある。

そして、今の少子化対策と称しているものが、いかに当事者のニーズや想いからほど遠い、あいかわらず自分たちの利権と思いつきの産物かということも。


しかし、じゃあどうして今の政府や政策や政党・政治家がこのノリなのかというと、私たちが文句をいうか諦めるだけで、何もしてこなかったからなのだった。フランスだってスウェーデンだって、少子化がどうしようもないところまでいったことがある。そのときに、政府だけでなく、人々が変えるたい方向に政策を変えようと働きかけを続けたことが大きかった。


民主主義とは、本来こうなんだ。

人々の「こういう社会にしたい」という想いを実現するための制度。

王様や「お上」が決めた社会を耐え忍ぶためにあるんじゃない。

形だけの選挙のためにあるんじゃない。


私たちの「困った…」「もっとこうすればいいのに」を政策という形で実現するために汗をかくのが、政党・政治家・政府・官僚であり、その第一歩として、私たちは声をあげるしかない。


それが例え夜中の匿名のつぶやきであっても、考えていることを、ぎゅーっと抱きしめて唇をかみ続けるのではなく、あるいは、もはや不可能で無駄なこととして見なかったふりをして、なんとかやり過ごそうとするのであれば、私たちより状況の悪い人達、あるいは私たちより若い人達に、もっと過酷な未来を手渡すことになる。


そう。私たちは権利もあるけど責任もあるのだった。

それは今の政権や与党のいうような「義務」ではなく。


日本の政党も政府も変えてあげなければならない。

もう長い間同じメンツで、同じやり方でやってきて、変わることができない以上。

つまり、「こうしてほしい」をどんどん伝えていくところからはじめてみよう。


本当は別のことを書こうと思っていたのだけど、最後にこれを。
ここまでの話から相当逸脱するので、みなくていい人はここまででだいじょうぶ。

でも、「子は社会の宝」と私がいうとき、それはある地域社会内、あるいは一国家内だけのことを念頭においているわけではないことを書いておきたい。それは、単に自分の子が国境をまたいで存在しているということによるわけでもない。もっと長い、長い時間の経過のなかで考えてのことだった。

**


私たちの祖先は700万年かけて進化した。

私たち・ホモサピエンスに至っては、ほんの20万年前にアフリカのわずか数百人から数千人の人々が世界に拡散したものだと言われている。


ある小学校の規模の人々を想像してほしい。

そんな規模のヒトが、命の灯を絶やすことなく、バトンを手渡すように、命をつないできた結果が、今世界にいる私たちの存在なのだということを思い出したい。


ヒトの母さんは、この命のリレーのつなぎ目にあって、何十万年かけて受け継がれてきた不思議を次につないでいる。もちろん、男性あっての命のリレーなことは大前提。ただ、ほ乳類であるヒトのお母さんが背負っているものの大きさを、男性を含めた社会全体だけでなく、お母さん自身も、少し想像してもらえると良いなと。


本当は、そのほかきた移民の出生率押上効果のことなど書きたかったけれど、今日はこれで終りましょう。


氷河期やら干ばつやら、ありとあらゆる危機を乗り越えても、命を受け継いできてくれた、今は亡きたくさんのお母さんやお父さんや、その他の人々に感謝して、、、仕事にもどります。


私が受け継いだ命は、仮装してカーニバルでどんちゃん騒ぎしている夜のことでした。

もうすぐ18歳。成人です。


写真はクリスマスに遊びにきた友人の子どもたち。

a0133563_06315144.jpg




by africa_class | 2018-02-10 07:00 | 【考】民主主義、社会運動と民衆

この春、初めて「先生」や「親」になる皆さんへ

今年もカモのつがいが池に戻ってきた。
そして、近所では桜が満開のところがチラホラと。
我が家の庭の桜3本は、それぞれ違う調子。
嬉しかったのは、突風で倒れた桜の木が、倒れたままちゃんと花を咲かせてくれたこと。
満開の素晴らしい桜なのですが、天気が悪くて良い写真が撮れません…。

さて、他のことを書くつもりだったのだけれど、一つ伝えておきたくて先にこれを。
この春、初めて「先生」や「親」になる皆さんへのメッセージ。

桜を見ると思い出すのです。
幾度かのこの季節を迎えた時の気持ちについて。
きっと皆さんもそうでしょう。
それぞれに人生のドラマがあって、思い出がある。
心弾む想い出から、辛い別れの思い出まで。
緊張した入社式とか、夢破れた合格発表とか。
大切に育てた子どもたちを送り出した朝とか。
あるいは、未だ小さかった子どもの手を引いて通った学校の門とか。

わーーーっと溢れる沢山の光景や想いに、私もまたいっぱい満たされてしまいます。
池凍る深夜に突然消えたコブが、近くの畑で遊んでいた…との目撃情報をツレがもって帰ってきた時、「生きててよかった」という想いとともに、私もまた一つ学んだなと思ったところでした。

そして、ふっと思い出したのです。
初めて大学の教壇に立った時のことを。
阪神淡路大震災後3ヶ月も経たないあの寒い朝。
神戸からJRに乗って京都に向かったあのときのことを。

震災のために大学院の卒業式もなく、論文の口頭試問すら吹き飛んでしまって、突然震災ボランティア生活に突入して数ヶ月を過ごしていた私は、良くわからないままに修士号しか持っていないのに、大学で非常勤講師の仕事を始めたのでした。

依然として倒壊した建物ばかりの神戸や伊丹、尼崎から電車が大阪に入ると、あっという間に景観が変わっていきました。京都に辿り着くと、もはや震災などなかったかのようで、自分の身の置き場というか、身のこなし方が分からず、夢の中を歩いているような感じがありました。

それは、大学の中でも同じで、震災とはまったく関係なく、自分が学生が終わったのか終わっていないのか良くわからない状態のままに、突然年齢の変わらない大学生を教えるハメになって(しかも下手な英語で・・・)、軽いパニックになっていた。

あまり思い出したくない過去だけに、記憶が定かではないけれど、自分の不安や未熟さを覆い隠すかのように、おそらく私は傲慢な態度で学生たちに挑んだと思う。授業は、「国際関係論」と「異文化コミュニケーション」。もはや何を教えたのかまったく記憶にないのだが、後者については捕鯨について取り上げた記憶がある。

1年教えて、私は勉強しなきゃ・・・と心底思って、フルタイムのお誘いを断り、東京に行って博士課程に進んだのであったが、自分の中が「空っぽだ」という感じばかりが残った1年であった。教えようとしてみて初めて分かった、自分の無知に、その後もずっとつき合ってきたように思う。

それから5年。
母になる直前のある時、関西時代の仲間からハガキがきた。
すでに2人のお子さんのママ。
そこに書いてある一言が、おそらく私をずっと救ってきてくれたと思うので、皆さんに伝えておきたいと思う。

「さやかさんはお母さんになります。赤ちゃんが生まれてきたら、このことを思い出して下さい。つまり、赤ちゃんがゼロ才であるように、さやかさんもお母さんゼロ才だということを。一緒に育てばいいのです。」

その方もまた、この言葉を先輩ママから教えてもらってずいぶん救われたということで、私に贈ってくれた。私がどうにも頑張りすぎる性分だと知ってのことだったと思う。

彼女の教え通り、私は「ゼロ才ママ」として子育てに向かうことができた。
そう思った瞬間に、とても伸びやかな、広がりのある空間にこれたような、そんな気持ちに満たされたことを昨日のように思い出す。

息子もゼロ才。
私もゼロ才。
一緒に育てばいい。

そして、今、
息子は16歳。
私もママ16歳。
一緒に育っているように思う。
とっくの昔に背を追い越され、そして最近はあらゆる意味で追い越された感があるが。

そして、東京外大に着任した春。
私は同じことを誓ったのだった。
「ゼロ才先生」でいいじゃないか、と。

教室を開ける。
新入生が教室いっぱいにいる。
「皆も新入生だけど、私もゼロ才先生なんで、よろしく」と。
そう言った瞬間に、すごく吹っ切れるものがあった。
学生にとっては迷惑極まりなかったろうが。。。

面白いもので、こういう先生だからといってゼミにきてくれた学生もいる。
が、この代の学生には、色々苦労をかけた。
自分も彼らも手探りで、なんというかまったくもって申し訳ない感じがする。

その後、「11歳先生」になってしまって、どこか怠慢になっていたと思う。
まあ、潮時だったのかもしれない。

いつも心に「ゼロ才の自分」を持つことは重要だ。
そこから広がるワクワクとするような可能性に、自分も周りも組織も全体も開かれておくためにも。

ということで。

おめでとうございます。
「ゼロ才ママ」「ゼロ才パパ」「ゼロ才先生」たち。
鎧兜を下し、深呼吸をして、まずはヨチヨチ歩きを。

a0133563_22415361.jpg

by africa_class | 2017-03-21 22:53 | 【観察日記】猫ママの子育て

ドイツのクリスマス、暗い気分を励ますために

クリスマス当日。子どもたちはプレゼントのレールで大騒ぎ…卒論学生たちも今日は静か…なので、前に約束していたドイツのクリスマスの紹介を。
 クリスマスをドイツで過ごして13年になる。大抵そういうと、「羨ましい」といわれるけれど、それはドイツのクリスマスのその日をイメージしてのものではないと思う。クリスマス前の広場に現れるクリスマス市をイメージされているんでしょう。ホットワインが出たり、モミの木が売ってあったり、すごく賑やか。
 でも、実際のクリスマスイブや当日は、羨ましがるものではない。家族や友人がいない留学生には、暗く・侘しく・さみしい日々であること間違いなし。旅行もこの時期はおススメしない。日本に来たばかりの留学生が、年末年始を一人で過ごすことをイメージしてもらえると、同じニュアンス。

 つまり、ドイツのクリスマスと日本のお正月は、とっても似ているのです!これらのイベント直前の様子も然り。

 大混雑のスーパー、家の掃除(特に窓ガラス)と設え、保存食を料理しまくり、この日ばかりは友は忘れ、親戚の訪問に備える。これから3日はすべてが止まる。家に籠るか親戚訪問で、寝正月に近いノリ。
 さらに似ている点が、思いだしたようにお祈りに行く点。普段は教会に足を運ばない面々が、一族郎党皆で教会のミサに向かう。近所の神社やお寺に家族で出かける大晦日あるいは初詣の様子によく似てる。
 こう書くと、日本のクリスマスの方がよほど羨ましがられるほどかもしれない。
 私が政府観光局の人間であれば売るコンセプト。「クリスマスは日本へ!」それぐらい、賑やかで華やかで、イベントも沢山で充実している。

 で、我が家の質素な家族のためだけの手作りクリスマス。この日のために、彼らがした準備は尋常じゃなかった。先月の義父の死後、初めて家に帰ってきた義母を励ますためにも、彼らは思いきって部屋の壁を赤で塗った!!!ドイツでは、壁紙貼りも、壁紙塗りも、DIY(do it yourself)。手作りであればあるほど、温かい気持ちになれる。これが本当の豊かさ。

a0133563_21182575.jpg

壁紙を剥がし、壁紙(本当に再生紙で出来てる)を貼り、お好みのペンキ(自然のもの)を塗る
a0133563_21224813.jpg

前回来たときにつくったリースの上のロウソクは1週間に1つずつ点けていく
a0133563_21292112.jpg

自分で画用紙に色をつけた後、オイルを塗って、折り紙でお星さまを作った後、中にLEDライトを入れる
a0133563_21355551.jpg

モミの木はクラーセンの小学校の同級生が毎年持ってきてくれます。飾り付けとラッピングは、ずっと子どもと義母がしてくれていたのですが、今年は動けないので全部子供が
a0133563_21391064.jpg

長い入院によってかなり老け込んでしまった義母。でも孫のクリスマスプレゼントにおお喜び(プレゼントの数が少ないと子どもに言われて慌てて追加で買いに行ったプレゼント・・・)
a0133563_21424640.jpg

そして本人の希望はシマノの釣り道具。シマノは堺市の中規模企業。自転車や釣りの部品を作っていますが、世界的に非常に認められている会社で、最終生産品ではなく、部品メーカーで居続けることにアイデンティティをおいている、素晴らしい会社
a0133563_2151840.jpg

子どもが描いてくれた絵。一生の宝物!

しかし、毎回泊まるアフリカの村の様子がよく描けてる。
茅葺の家の感じが、とってもモザンビーク北部農村風。電気のない村では、夜になると水平線から水平線まで星だらけ。流れ星が数秒に1回は見える。だから、流れ星も。そして、水を土器のカメに入れて歩いて来るお母さんの様子、サッカーの途中で踊っている子だちの様子。手作りのサッカーゴール。たき火を囲んだイスの数々。どれも、彼が1歳のころから泊まっている村の中庭をよく描写しています(親ばか)。
 テレビのない家で育った息子は、小さい頃から本当によく絵を描く子だった。それが、こちらに来るとテレビがあって、すっかりテレビっ子になってしまい、絵から遠ざかってしまったものの、壁のペンキで火がついた模様。 生まれたての赤ちゃんだった息子と共に学んだことは、「ありすぎること」「やってあげすぎること」の弊害。自由な発想も、柔軟な感性も、創作力も、「ないこと」から育まれる。「生きる力」もまた同様。
 親あるいは大人たちに課された最大の仕事は、「自分でやりたくなる状態」をいかに作り出すか。そのためには、ダメ親、ダメ大人ぶりを隠さず、むしろそれをはっきり示し、時に子どもに頼るのは良いことだと思う。そうやって子どもも、親による客体化を逃れ、主体化する。その塩梅の難しさこそが、「親として生きる」ことの日々訓練なのだと思う今日この頃。
 国際協力も実のところ似た部分がある。この話はまた今度。
by africa_class | 2012-12-25 21:53 | 【徒然】ドイツでの暮らし