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18歳の息子が社会的起業(ソーシャルビジネス)や「昆虫食」にこだわるようになった理由、それはアフリカで…。

息子(海)の葛藤、たくさんの皆さんに読んでもらったようでありがとうございます。
未読の方は、まず以下の投稿からご笑覧いただければ。

日本で11歳まで前髪の向こうに隠れていた息子が、7年後にドイツの起業コンペで優勝するまで。

https://afriqclass.exblog.jp/239298221/

ドイツから「熱血パパ」が何度もメールしてくるんで、皆さんにも協力をお願いさせていただきつつ、海がなぜ起業家になろうと思ったのかの話を紹介させてもらおうと思います。

実は、海は友人のFinとともに、14-19歳向けのStartup Teenというドイツの起業コンペに参加しています。そして、本日(6月13日)の21時(日本時間)に投票が締め切られるそうで、皆さまに彼らのビジネスプランを確認していただき、「いいな」と思ったら、ぜひ投票していただければ!

********
現在エントリー中の10代の起業を応援するStartupteensサイト
https://www.startupteens.de
ドイツのサッカー元代表のフィリップ・ラームや名だる企業が応援している。
*前回優勝したコンペは起業サポートのコンサルタントの費用を負担してもらっただけで、起業のための資金はもらえなかったので、このコンペでそれを確保したいということです。


1. アカウントを以下のログインURLで作成、anmeldenというのをクリックすると仮の登録完了
https://www.startupteens.de/user/register
2. 登録メールアドレスに確認がくるのでクリック
3. ホームページに行って登録が完了するので、画面の下に出る「zum Online-Voting」をクリック。

あるいは、
3. 改めてログインすると、
4. エントリーされているティーンのビジネスプロジェクトの一覧が出るので、下の方に出てくる海たちのプロジェクトEntorganics - (Sciences & Health)のビデオを見る。
5. 気に入ったらぜひ親指が立っている左の画像をクリックで投票。

a0133563_17114915.png
********

とはいえ、ドイツ語なので、彼らのビジネスプランを補足します。
海とFinは、現在世界で進む肉食化が地球環境を壊し、地域の人びとの人権を侵害している現状に危機感を持っています。そこで、肉よりも優れた栄養価を誇る「昆虫」を積極的に食べる文化を広めることで、少しでも肉食の回数や量を減らせないかと考えています。

彼らのホームページによると、昆虫食は肉より、
1. 75%少ないエサを必要とし、2. 99%少ない二酸化炭素を出し、3. 99.3%少ない水を必要とし、4. 87.5%少ない土地を必要としているといいます。
https://entorganics.com/
(なので、肉食化に伴って飼料である穀物や大豆の大量生産のための森林伐採や土地収奪[ランドグラブ]などの自然破壊や人権侵害を減らせます)

<=この問題に海が凄く関心をもった背景は下の方に

ドイツ人は1年間に1人あたり65キロもの肉を食べているので、まずはドイツ人をターゲットに「昆虫食」を広めたいといいます。とくに、ドイツの若者の間で、ジムにいって身体づくりがはやっており、それに伴って「プロテイン」を大量に採ろうとする人も増えているため、これを肉で補うのではなく、「昆虫」でと考えているようです。

なるほど、粉にしてしまえば虫がキライな人でも食べれるよね、と思いますよね?

しかし、インスタのページを見てもらえれば分かるように、彼らは「虫のかたち」をあえて見せる形で写真とレシピを掲載しています。(といっても乾燥虫なのでご安心を)
https://www.instagram.com/entorganics/

よりハードルを上げるその手法には私でもとっても疑問だったのですが、「粉にしてしまえば簡単だけど、なぜ昆虫食を勧めたいのかの意義が薄まってしまう。あえて『昆虫を食べる』ことに価値を見出してもらえるように頑張るのが、自分たちが他の昆虫食企業と違うところ」だといいます。なので、自分たちのプロダクト(昆虫が入った食品)は、オーガニックも重視していると(なのでEnt<虫.>+Organics<オーガニック>)。

つまり、「昆虫食の伝道者」になるのだそうな。。。。

彼らは、日々、ドイツの家で試作を作って撮影しているため、乾燥虫があちこちに散らばってて、最初はフライパンを共有することも「ヤメてー」だったのですが、人間とは恐ろしいもので、2週間も経てば「日常風景」になってしまい、慣れてしまった。。。そういう実験対象にされていると知ったのは、後のこと。

「虫なんて絶対食べない!」とがんばっていた私をまず攻略するのが、狙いだったようです。まあ、見た目美しく、美味しく作ってくれていることもあり、今では普通に彼らの作ったものを食べている自分がいるのが驚き。(百聞は一見にしかず。まずインスタみてやってください)

なので、今エントリーしている起業コンペのビデオで最後に言っているように、彼らの狙いは、昆虫食の料理ブックを出版しつつ、昆虫食クッキングクラスを開催し、以上を意識したエコでソーシャルな「昆虫食ラインナップ」を商品化して売りたいのだそうな。(言うは易しだが…、まあ人生一度だけ。若い頃はいろいろ挑戦すればいいと思う。)

なお、これらのことは、前のブログに書いたとおり、今年1月に写真撮影を依頼されて以降しったことであって、彼の起業プランや準備に、私や彼の父親は一切関わっていませんでした。17歳のときに、Finと一緒にシベリア鉄道3週間の旅をした際の膨大な時間に、二人で延々と語り合い、考え、つくったものだったそうで。2月のコンペに向けて、すべてのプレゼンが出来てから見せてもらってビックリ。

では、なぜ海は起業、そして昆虫食に向かっていったのか?
話は18年ぐらい遡ります。

彼の母親(私)は、戦争と平和学、そしてアフリカ研究者として、1997年から毎年数ヶ月をアフリカ(モザンビーク)の村々で調査を行っていました。ちょうど調査の基盤が出来て、半年から1年以上調査地で生活しながら研究を進める目処がたった1999年(そして奨学金もほぼとれていた)、妊娠が発覚しました。(未婚な上に、まだ学生だった。もう2つ問題があったのですが、それは書かないことにします)

悩みながらも出産を決意し、海が誕生します。
でも、調査を諦めきれず、生後11ヶ月の海を連れてモザンビークへの調査に向かいます。
当然、家族もアフリカ研究の先輩たちも大反対。
でも、予防注射をすませ、あらゆる予防策をとり、アフリカに向かいました。
(余談ですが、日本の保育園で中耳炎をうつされ、抗生物質を処方されるも悪化の一途をたどってどうしようもない状態まで追い込まれていたのですが、アフリカに連れていった途端なおった・・・ということから、無菌・抗生物質大国の日本は日本で危険だな・・・と。)

以来、海も毎年夏に数ヶ月モザンビーク、タンザニア、ザンビア、ルワンダなどの村々での調査に同行し、成長していきました。私の調査地は森が豊かで河川も多く、お米や雑穀、お豆がたくさんとれる食べ物が豊富な村で、遊び相手となる子どもにはことかかず、のんびりとした日々を送っていました。(ただし、草むらは地雷が残ってるのでそこは厳しく入らないように制限しました)

泊まるのは、伝統的チーフのコンパウンド(家の敷地)の中庭。そこに家族用のテントをたてて、ワラで囲っただけのトイレ兼水浴び場を一緒に使わせていただいていました。

朝4時から家のお母さんが中庭を掃き出し、水をくみに川か井戸に向かい、5時には近所のみなさんが次々にやってきて、挨拶&談話にはげみます。そして、子どもたちがわんさかやってきて、海と遊びたくて仕方ありません。ご飯は、お母さんや娘さんたち、あるいは近所の人達が持参してくれるのですが、基本的に2汁(肉か豆かゴマのお汁+野菜のお汁)+ご飯か雑穀かトウモロコシのお餅だけ。おやつに木になっているミカンやバナナやパイナップルをいただきます。どんなものが出されても、海は全部おいしく食べていました。それは、作ってくれているお母さんたちの苦労を目の当たりにしていたからです。

お母さんと娘たちは料理などの家事の全部だけでなく、料理に使う水、薪、材料のすべてを確保する必要があります。わたしが調査のために不在にしている間、家に残っていることも多い海は、お母さんや女の子たちの大変な様子をつぶさに観察していて、そんな苦労をしてまで作ってくれたご飯を大切に食べないとという気持ちを強くもつようになりました。なので、どうやってもキライといって父親が出されたものを食べないことに心を痛めていました。

アフリカといっても、国や地域が変われば食べるものも変わってきます。
海が5歳になったころから、モザンビーク以外のところでも調査を開始したため、とにかく「出てきたものは何でも食べるのが当たり前」という姿勢をもって育ってくれました。またさっきまでそこらを歩いていたヤギやニワトリが夕食に出されることも多々ありました。命をいただき、自分の命を生き長らえさせることの意味を、日々実感していたようです。そんな中、それが昆虫であれ、否定せず、人間の食べ物となったものを大切にいただく姿勢が、いつの間にか身に付いたのだと思います。

あとは、今彼が育ったモザンビーク北部、そしてアフリカ中で急速に進むアグリビジネスによるランドグラブ(土地収奪)に苦しむ農民の姿をみていることが「昆虫食」に向かっていった原動力だそうです。実は、私がモザンビークで日本とブラジルが進める大型農業開発(特に大豆)「プロサバンナ事業」の問題にこれほど取り組むきっかけになったのは、彼の一言からでした。

「ママ、この日本が進めるという『プロサバンナ』って事業だけど、おかしいよね?だって、ここ(モザンビーク北部)に『サバンナ』なんてないじゃん。だから農業開発とかするんだったら、森を伐るってことだよ。日本のお金を使ってなんかおかしなことしてるんじゃない?ママなんとかしなきゃ!」

そして、ママはがんばったのだが、結局プロサバンナ事業は現在でも続いてしまっている。
何度か来日して訴えるモザンビークの農民たちと時間をすごした息子の中に、「大豆、アグリビジネス投資、水、土地、人権」の問題をなんとかしたいという想いが静かに続いてきたことを、初めてプレゼンを見たときに理解して、涙が止まらなかった。

プロサバンナについてはこのブログのタグを見て頂くか、日本のNGO・JVCさんのページをご覧下さい。
https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/advocacy/prosavana-jbm.html


そして、起業については、3歳の頃のこと。

村にいるときは、子どもたちがどんなにボロをまとっていても気にしていなかった海が、モザンビークの首都マプートで物乞いをしている同じ年齢の子どもたちを目にして、衝撃を受けたようでした。車の後部座席でじっと黙り込んでいたかと思うと、突然大泣きして、「ママ!もってる僕のお洋服、全部あの子たちにあげて」と叫びました。そして、「僕がもってるコインもぜんぶあげるから、ママも全部あげて」と。息子は、モザンビークの硬貨は大きくてきれいといって集めていたのでした。

レストランの前で駐車すると、ボロボロの服をまとった子どもたちが、次々に手を差し出します。モザンビークにその前の10年前から通っている私としては、手放しで「可哀想」といってコインをあげるのは気が引けます。このような年齢の子どもたちに物乞いをさせる親や大人達の存在を知っている以上、これを増長させることがあってはならないとも思って、なかなかコインをあげることは出来ませんでした。

その様子をみていた息子はより心を痛めていたと思います。自分はおいしいものをたらふく食べて、ちゃんとした服をきている。村で一緒に遊んだお友達のような子たちが、こんなに目にあっているとすれば、助けて当然じゃないか、と。

そこで、私は海と方針を決めるために、じっくり話し合うことにしました。
「海くんは、どうしたらいいと思う?」
と聞くと、
「僕、なんにも要らないから、全部あげて」
「全員に?」
「うん。全員に」
「全員に行渡る?」
「買ってあげればいい」
「そんなにお金ないよ」
「じゃあ、日本に戻ってお洋服を沢山あつめてまたくればいい」
「なるほど。でも、それで解決になるかな?」

すると海は唇をかみしめて、うううーーーと言って大粒の涙をぽたぽたと落とし始めた。
抱きしめて落ち着くのを待つこと数分。
泣きながら
「ならない」
と一言いって、わーーーんと泣いた。
私たちも泣いた。

無力感を全員が実感したまま、その日は終った。

「「ならない」としても、できること、やるべきことは何だろう」
私たちの話し合いは続いた。
私がした提案は、物乞いの子どもたちの名前を聞いて、しっかり話して、なぜ物乞いをしているか聞いて、納得がいったらあげられるものはあげようというものだった。少なくとも、「物乞いの子ども」ではなく、「出会った●●くん、●●ちゃん」として接してみようと。

そうやって出会った●●くん、●●ちゃんと、沢山のお話をした。
パン屋でパンを買って、なるべく毎日会いに行った。
首都を離れて村に向かう前夜、これらの子どもたちのところを一通り回って、お洋服とお金を少し手渡した。
その間、海は一言もいわなかったけれど、子どもたちとしっかり握手をしていた。

北部の村に向かって車を走らせている間も、海はずっと黙ったままだった。
あの日以来、心から楽しんだりしていない彼の姿があった。物思いにふけっている感じがあった。
村までは何百キロもある。
長い長い道のりを走りながら、聞いてみた。

「あのこと気にしてるの?」
「うん」
半泣きの顔でわたしを見つめる。
「じゃあ、どうしたらいいか一緒に考えよう?」
「うん」
少しほっとした表情をみせてくれた。

それからの6時間ぐらいのドライブの間、海は次々に「どうしたらいいか」の提案をしてくれた。
一番最初の提案を、今でも覚えている。

「僕が、お洋服工場をマプートに作る。そこで子どもたちが働いて、お金を稼ぐし、新しいお洋服ももらえる!」

「なるほど。それはいいアイディアだね」と言った後、いくつか質問をしてみた。
「子どもを働かせるのでいいのかな?」
「どうしてお洋服工場がモザンビークにないんだろうか?」

その度に、海はじっと考え込む。
そして何分も経った後に、いろいろな回答をしてくれる。
そうこうしているうちに、彼の中の悩みが深まったような辛い表情が現れてきました。
「じゃあ、また次の案を考えてみよう。アイディアはいくらあってもいいんだから、楽しくアイディアを出し合おうね。ママも考えてみるよ」

そして、私たちのビジネス・アイディア大会が始まりました。
アフリカだけでなく、世界のどこに行こうとも、海と私はビジネスアイディアを提案してみる、すでにあるビジネスの改善作を考えてみる、そんなことを繰り返していきました。

最初は、アフリカで何かビジネスをすることにこだわっていた海であるが、大きくなるに連れて、そこはこだわらなくなっていきました。それは、アフリカの政府の腐敗を理解するようになって、そのようなハードルを引き受けることが難しいと判断しはじめたからのようでした。大好きなアフリカ。でも、権力をもった人とのコネや一存で、ビジネスの成功や失敗が決まる現実に、それは自分がやりたいことではないと実感したようでした。

あれから15年間、これまでずっと、一緒に車で移動したりどこかに行くと、常にビジネス・アイディアを出し合って、楽しんできました。それを実際にするつもりで話しているというより、もうほとんど「会話のネタ」みたいになっていて、おそらく余所の皆さんからすると「変な家族」に見えたと思う。世界やドイツ、日本の時事ニュースについても話し合うのだけれど、やっぱり一番盛り上がるのは、「ビジネス・アイディア」を話し合う。

一応、私は大学教員なので、本来もう少し「教育」に注目すべきだったかもしれない。でも、非常勤講師を含めて、15年以上高等教育に関わってきて、ここ5年は世界の大学機関にも関わることも増えて思うことは、大学は本人が必要だと思えば行けばいいけれど、本人がやりたいことをまずやってからでも遅くない、ということでした。クリアな目的がないままに大学に行っても、深い学びは獲得できないことは経験上分かっていたことで、多くの若者の学びの発展をみてきた立場からいうと、本人が学びに真摯に向き合う姿勢やツールを手にしている場合は、大学は便利だけど必須ではないと思ったのです。

本人は色々考えているようで、未だ大学の選択肢をなしにしたわけではないものの、大学入学資格のために3年、大学で4年、今後7年を本当に費やすかどうかは、要検討だろうとのことでした。また、今しかできないことをしたい、と。それは、十代で起業することは、それなりに珍しいために、多くの人たちが興味をもってサポートしてくれる。でも、二十代の起業はかなり普通なので、そのようなチャンスを得ることはできない。だから、今全力をあげて起業して、もしビジネスが軌道にのったら、次にしたいことを考えて、大学も視野に入れたらいいと思うとのことでした。(なお、ドイツでは5年間働いた後は大学は入りやすくなる)

なんといっても、他の誰でもない彼の人生。
彼が真剣に考え、いろいろ試し、自分の道を曲がりくねって茨の道であろうとも、それを自分で選んで、一歩ずつ歩いていくのを、時に遠くから時に近くから見守るのが、親の仕事かな、、、と思っていまは思っています。

一応、私は海の母親ではあるものの、彼と出会って、たくさん話させてもらった結果、私の生き方や人生も激変しました。彼との出逢いがなければ、きっといまの私はないと思います。

  • 心をもって他者と接すること。
  • 見過ごしていたもの(本質を含め)に正面から向き合うことの重要性。
  • 「大人目線」あるいは「大人の事情」を重視して、その場しのぎの嘘やごまかしをよしとしないこと。
  • 世間がこうだという基準で考えないこと。
  • 「自分にも何か出来るのではないか?」と広がりの中で考える視点。
  • 学ぶ場、手法には多様なものがあることを否定しないこと。
  • 「やれない」から入るのではなく、「やれる」と信じて行動すること。
  • 自分が活かせる場を見極め、選択すること。
  • 人生をプロセスとして捉え、その順序は戦略的に自由に組み立てること。
  • ファンタジー(空想)やクリエイティビティ(創造力)を鍛え、大切にすること。

だから、大学の教員を辞めると決めるときも、実は海にまず相談したのでした。
その時未だ14歳だった彼のアドバイスが素晴らしかった。

「ママ、ママがしたいようにするのが一番だよ。応援してるから」

今度は、私の番と思ってる。
といっても、彼には応援してくれる人がたくさんいる。
だから、そっと遠くから応援するぐらいがいいのかな、と思う今日この頃。

a0133563_15014437.jpg
海が2歳のときに行ったマプート郊外の水害からの避難者のコミュニティでのパーティでの一こま。
出されたのがピリピリ照り焼きチキン。
要は唐辛子チキンで、泣きながら、でも完食していた。
あれは昆虫食に進む下地をつくったと思う(たぶん)。
















by africa_class | 2019-06-13 15:04 | 【促進】社会的起業/企業

日本で11歳まで前髪の向こうに隠れていた息子が、7年後にドイツの起業コンペで優勝するまで。

ブログをふと見たら、2011年7月(つまり8年も前)のブログ記事がトップにランクインしててビックリ。そして、当時「怒りの鳥」を描いていた息子の海が、いろいろな意味での自由を手にして「遠い」ところを楽し気に飛び回っていることを、皆さんに伝えないといけない気に駆られたのでした。

さようなら、日本の「普通教育」。シュタイナー学校に行くことになった息子と「魂の鳥」

https://afriqclass.exblog.jp/13063647/

兵庫の山々の懐の町で生まれ、4歳まで育った海。
その後引っ越した東京でも、ただの「海くん」としてノビノビと育った。

地元の公立小学校に入るまでは・・・。
入学式後の初登校の日、いきなり上級生から「ガイジン」と虐められ、教室に入ったら「アメリカ人」と呼ばれ、つい同級生を突き飛ばしてしまった。身体の大きな海の「とん」とひとつきで同級生がこけてしまい、担任から大慌てで電話。相手のご家族に電話して謝るようにいわれ、親も子もなんだかわからないままに、日本の学校生活がスタートしてしまった。その後は、いばらの道。

持ち物が少しでも他の子と違うと「学校に行きたくない」。
赤ちゃんの頃から大好きだった曲げわっぱのお弁当箱なんて、とんでもない・・・。
プラスチックのものが何一つない家に、どんどんアニメ柄のプラスチックのものが増えていった。
とにかく、「みんながもってるのと同じもの」を、「みんなと同じように」すべてを揃えないと不安で不安で、泣いてしまうほど。二言目には、「どうしてみんなの家と同じようにできないんだ!」とかんしゃくをおこし、「みんなと同じにどうして産んでくれなかったんだ」と。

みーんな違ってて、それがいい。

それを大学での教育理念にもしていた私の戸惑いは、とてつもなく大きかったものの、どうしていいか分からなかった。日本という環境の中で外国人ばかりが行く学校に通わせるのはどうしても納得ができなかった。まずは地域の中で育ってほしい・・・そう思っていたから。

4年生になるころには、父親はもとより極めて「日本のママらしくない」という私も授業参観に来ちゃだめといわれはじめ、前髪をながーく伸ばし始めて、顔全体を隠すように。外出しても、人に見られたくないのか、自分では絶対に注文をしない。とにかく、目立たないように、目立たないように息をひそめて生きるようになってしまった。こっそり行った授業参観で先生に指されると、蚊のなく様な声で返事をして、あんなにのびのびしていた子が・・・と人知れず帰り道に涙が止まらない。

私の中では、一刻もはやく違う環境においてあげないと、思春期で大変なことになると思ったものの、手が無い。日本のシュタイナー学校は満員でどこも新規に受け付けておらず、残る選択肢は中学校で国際的な学校に行くこと。でも、そもそも日本で育てるべきなのか・・・。そんなとき、サッカーに出会い、よい仲間に恵まれどんどん上達していったこともあり、いろいろなことを考えるものの、日々の忙しさに追われ、現状のまま流されていたのでした。

でも、サッカーですらゴール前にいてもボールがまわってきたらわざとパスを出すほどに気持ちの面で自信がない…。何度いわれても、同じ。ゴール前で譲ってしまう。みにきたお父さんたちの「あーーーー」というため息が流れる。毎度のこと。それでも、なんとかFC東京のジュニアテストに合格して最終試験を小平に受けにいったその日に、東日本大地震が。

運命とは不思議なもので、あの地震は海の人生の方向性をガラリと変えてしまった。

日本で育つこと。
サッカー選手になる夢。
そして日本代表となる夢。

2011年4月、震災と原発事故を受けて、一旦ドイツの学校に「留学」することになった息子。
半年ごとに日本に戻るかどうかを話し合い、結局、それから8年が経過してしまった。

ドイツに行った時は小学校5年生。ドイツ語の読み書きがまったくできなくて、宿題が何かすら分からないで毎日通った学校。もう何年も経った後に、「あのとき毎日日本に帰りたくて、来月こそは帰られるかなって願ってた」と教えてくれた(涙)。そんな本音もいわないままに、読むことも書くこともできない言語と格闘した。かなしくて爆発したことも一度や二度ではなく、私が東京に残って大学の仕事を続けたこともあり、寂しさもあって、とにかく心は荒んでいたと思う。

飛行時間12時間の遠距離の家族の時間のために、お金も気力・体力もすべて使い果たしつつ、2,3ヶ月に1度ドイツに向かった私のカバンにはいつも日本の教科書やドリルが入っていたのだけれど、あるきっかけでそれも捨ててしまった。

家族で近所のイタリア移民がやっているレストランに食べに行ったときに、息子が全員分のオーダーを率先してとって、店主に伝え、おばあちゃんには氷なしの水、自分には氷ありのジュースなど細かい点までお願いしていたのを見たから。確か、ドイツに行って10ヶ月も経っていなかったと思う。そして、その瞬間まで気づいていなかったのだけど、息子の前髪は見事に短く切りそろえられていた。

あのときの静かな感動は、一生忘れないと思う。

日本で私の後ろに隠れて、自分の食べ物もオーダーしたがらなかった息子が、誰にも言われずに皆のオーダーをとってくれている。その翌週、息子の学校に出前授業に行ったときのこと。日本なら絶対「はずかしい」といって反対されるのが、何もいわなかった。すべて英語。子どもたちはそれなりに理解してくれて、「どうしてか分かる?」と聞いたとき、数名の子どもたちが手を挙げたのだけど、その中に海がいたことにビックリした。そして、あの日本の授業参観での蚊の鳴くような声と違って、大きなはっきりとした声で自分の考えを述べてくれた。

18名のクラスメートには、いろいろな障害をもった子どもたち、里親の家から通っている子たちもいて、海は「特別」ではなかった。絵を描くと、それぞれが個性を発揮して、それぞれが美しい。

「みんなちがって、それがいい」

一年生から12年生までが一緒に活動をして、互いに助け合う。
自分の考えを尊重してくれる社会、学校、先生、クラスメート。
そんなところで、海は、徐々に「自分が自分であってそれでいい。人と違っているのが当たり前」の空気の中で、自分らしさを発揮するようになっていった。

日本を離れて3年後、クラスの劇を仕切る彼がいた。
みなの分の台詞を覚え、覚えられない子のそばで囁く。
依然としてドイツ語の文法は間違えていたらしいが、そんなことも気にしなくなっていた。
勉強が不得意と思っていたのに(実際7年前のブログにはそう書いてしまった)、いつの間にかクラスで一番の成績となっていた。いったい全体どういうこと?!?!?不思議なことに、サッカーでも、日本ではフォーワードを嫌っていたのに、喜んでゴール前に立つようになった。ほとんどマジックをみている感じだった。

それほどまでにself-esteem(自己肯定感)が子ども・若者の成長に重要だったことを、改めて教えてもらった。つまり、人は「できない」といわれるよりも「きっとできる」と励まされたほうが大きく伸びるということなのだった。また、「あなたはだからダメなんだ」ではなく、「あなたはあなたでいい」と受け入れてもらったときに、どれほど安心し、自分で歩むようになるかも。

私は幼少期に暴力を受けて「お前はダメだ」と繰り返し繰り返しいわれて育ったために、このことは体感してたし、いつも息子には決してネガティブな表現は使わず、まずは受け止める、そして必ず褒める、必要に応じて時間と空間を切り離して「あのときのことだけど、どう思う?』というにとどめてきた。父親もドイツで「褒めて育てられた」人だから、当然家庭内では絶賛「褒める」。褒め過ぎちゃうか・・・と思うぐらい、褒める。でも、日本社会や子どもが大半の時間をすごす学校・先生の影響の大きさまでは、分からなかった。むしろ、家庭内と外のギャップに、彼なりに戸惑い、苦しんでいたのかもしれない。

ドイツでは15, 16歳で仕事を始める子も多い。
クラスメートが次々に職人や職業訓練の道を歩み始めるのを受けて、海も自分の将来のことを真剣に考え始めた。なにせ自分のお小遣いを自分でつくり出すために、12歳でキャンドルを売り、14歳で木工品や家具を売り、16歳で写真を売る子。当然の成り行きというか、「起業」しか頭にない。ただ一応大学にも行くつもりで通信教育を受けながら、起業に向けて準備を始めた。

15歳になるころには、学校給食がまずいからと、前夜にお弁当を自分でつくり毎日持って行くようになった。(私は彼が自分でやりたいと思うことは、自分で責任をもってやることを教育方針としていた)。2歳のころに包丁をプレゼントして以来、一緒に料理や味噌・豆腐・梅干しづくりなどしてきたせいで、料理への関心は高く、いずれは「フード」の世界に行くと決めていた。そして、16歳の秋、わざわざ独りで日本に戻って、2週間にわたり居酒屋やレストラン、フードトラックで研修を重ねた。ドイツでは日本食だといくらでも儲けられると考えたそうな。(甘いな・・・でも口に出さなかった。自分で考え、自分で行動するのであれば、どんな失敗も肥やしになるから。)

卒業式の前週、卒業制作発表会があり、フードトラックの発表。
なかなかよく出来た発表とはいえ、これでビジネスになるんか・・・と突っ込みたい。とくに、そのトラックのお金どうするん?という点について。それについては、「へへへ」と誤摩化したまま、友人とともに卒業旅行と称して、シベリア鉄道3週間の旅に出てしまった。

戻ってきて、友人は大学進学のための学校に行くが、通信教育の海はなんにも動かない。
どうやら学校が終ってあまりにあまった時間を、映画やビデオをみて浪費している。それまで一切してなかった携帯ゲームにまで手を出している始末。朝はお昼まで寝て、夜ごそごそ。友人も彼女も学校に行ってる間は寝てて、彼らが戻ってきたら遊びに行ってしまう。。。時間は山ほどあるくせに、学校に行っていた時以上に部屋が汚い。ゴミもまともに捨てず、床の上に散乱している・・・。

これがあの生活態度が乱れるというやつか・・・。
昼夜逆転というアレ?

親としてはかなりの忍耐が必要な状況に間違いない。
連れは心配になって、私に指導するようにいうのだけど、私の教育方針はさっき書いたとおり「自分で気づく、考える、行動する」。とはいえ、さすがに一言二言いわなくてはならない状況になってきた。

昼頃起きた息子のベットの横に座る。
「海くん、丁度半年前、あなたの卒業制作発表会に出て、それから卒業式に出て、ああ、これから限りなく広がっている人生の道をあなた自身が自分の力できり拓いていくんだね、って眩しい想いでみてた。いまでもそう信じてるけど、それでいい?」
「いい」
そういうと、「もう出てってー」というので、そっとドアを閉めた。
ドアの向こうからは、携帯ゲームをしている様子がわかった。
でも、もう何もいわなかった。

それからほどなくして、「このレストランどう思う?」と聞かれ、日本食のレストランのサイトを紹介された。とってもポリシーをもってて、いわゆる「日本食」っぽくない店でいいね、と言ったら、「すぐにバイト始めたい」といって、履歴書やら志望動機書やらを作るから協力してくれといわれて協力した。その週にバイトは始まり、電車で往復3時間かかる距離を週に3回通いつつ、サッカーも自分の年齢のチームとトップチームの掛け持ちを始めた。

きっと私の日本の家族なら(まずはネガティブからはいる・・・)、「でもバイトだよね、プロではないサッカーだよね・・・」というコメントをいってしまうと思う。そもそも通信教育の勉強もちっとしかしてない。でも、相変わらず昼まで寝て、トモダチに彼女にバイトにサッカーに忙しい。でも、彼がドイツ社会のなかでようやく自分が必要とされ、居心地のよい場所(仲間)をみつけた嬉しさが感じられたし、その感じをトコトン味わう時期があっても良いのかもしれないと眺めていた。そもそも、彼がぶらぶらしているからといって、近所や親戚や友人の親や友人が何かをいうような社会でもない。

人それぞれ。
それぞれが考えてそれぞれの道をそれぞれのやり方で歩む。

とはいえ、半年以上続くので、父親はジリジリし始めた。
でも、人生のなかで迷子になったり、迷路にはいったり、遊びにはまったり、そういう時期ってあるし、そもそも親からして「まっすぐな一本道」どころか「曲がりくねって、途中で終ってて、そこで倒れたままじっとして、また道を歩き始めた」(私)りしてる中で、子どもに「これが正しい道」だなんていうのはダメだよね・・・と確認しあった。(そもそも親自身が自分たちの不仲で、子どもを振り回して生きてきた。)ただし、お金はもうちょっと稼いでほしいね、と。自分で食べるもの、遊ぶお金ぐらいは、自分で稼がないと・・・。そもそも、自分の車だって自分で働いて買ったし、親が買ってあげるのって違うんじゃないか、というとどうやら父親の方でもちゃんと「債務通帳」をつけているのだそうな。さすが・・・ではある。

そこからさらに数ヶ月。ついにクリスマスがきた。
なぜかドイツではお正月ではなく、クリスマスに翌年の抱負をのべる。
息子いわく、「いろいろ考えていることを行動にうつす」と。
しかし、クリスマスが過ぎて、年末年始の旅行が終っても、行動に変化がない・・・。
さすがに、これはまずいのではないか、そう思ってた矢先、突然、友人と起業コンペに出るから写真を撮れという。

ふーん。
撮ってあげてもいいけど、いい加減な調子だったらお金とるよ。
いや本気だから。
本気って、どうやったら分かるの?
だって、すでに550名の予選を突破して、最後の16人に残ってるから。
ぎょ。。

思わす「遊んでたんじゃないの?」との質問を呑み込んだ。

そうなんだ。
で、この写真は?
会社のホームページに必要だから。
ぎょ。。

「ビデオみてたんじゃなかったんだ」のコメントも呑み込んだ。

書斎に来てといわれて汚いからいやといったのだが、入ってびっくり。
ゴミやあれやこれやは散乱していたものの、片面はきれいになっていて、ポストイットが壁中はられてあって、もうスポットライトなどが準備されていた。ニヤット笑う息子と友人。

このゴミも写すね、と憎まれ口をたたきながら、なんだか嬉しさがこみあげてきた。
最初から決めてたとおり、彼らに任せていいんだ、と。
このコンペの結果がどうであろうとも。

二人は準備したプレゼンを見せてくれた。
なんのビジネスプランと思ったら、たしかに「フード」分野であるものの・・・・「虫」だった。
ぎょ、ぎょ。。

アフリカでは「虫」を食べる地域が多い。
でも、私は食べない。
肉を食べないけど、虫は食べない。
魚は食べるけど、虫は食べない。
そんな私の前に現れた「虫フード」。。。

ニンマリと笑う二人。
それから二人は毎日集って、虫を育てるために地下室を改装し、虫を育て、プレゼンを作り、試作品を作り、原稿を作り、メンターとスカイプしながら、準備を進めていった。なんのコンペかもよくわからないが、とにかく見守る。何もいわず、「後片付けしなさーい!」と二人に檄を飛ばしつつ、見守る。

相棒のフィンは学校に通ってる。親は彼に大学に行ってほしい。学校も休まないでほしい。でも、本番が近づくにつれて準備が間に合わなくなって学校を休みがちになる。それでも、フィンの両親もフィンには一切何もいわない。自分で考えて判断しろ、とだけ伝えていると。お母さんに聞いてみると、色々考えることもあるし黙ってるのは辛いけど、自分で決めることだから、と。さすがである。

そして本番前日。
私は出張でバルセローナに。
彼らは始発電車で開催地へ。
まあ、がんばってね。きっと上手くいくよ、と適当なメッセージとともに。

この時点では、なんのコンペかも、何もしらず、まあ人生には一生懸命なにかに打ち込む瞬間が重要だという程度だった。失敗はどんどんすればいい。挑戦が重要、と。

その日、バルセローナで美味しいレストランでたらふく食べ、酔っぱらって地下鉄に乗ってると、興奮気味の父親から携帯に連絡がきて、「どうやら優勝した?みたいなんだけど・・・連絡あった?」と。「ない」。「電話つながらないんだ」。「そりゃ優勝したらつながらないから、ほっといたら?」。ほっとけない父親は情報を求め私にかけてきたという。さすが熱血親父。本当はコンペ会場に行きたかっただろうに、ぐっと堪えた。もう18歳の息子、両親がうろうろなんかしてはいけない。たった独りで世界にチャレンジすべきだから。そこは、さすがに理解したようだった。(かろうじて)

電話を切ってから、なるほど。人生の歯車というのは、ふしぎなものだと感慨にふけっていると、息子からたった一文メッセージが飛び込んできた。「Wir haben gewonnen!(勝ったよ!)」

狐につままれた感じだった。
いまでもそうだが。

コンペはドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲン社がはじめて開催する19歳以下の若者の起業ビジネスコンペ(X-starters)だったことは、ずいぶん後になってから教えてもらった。そして、それ以降、優勝の賞品である起業までのコンサルティング(200万円相当)を受けつつ、起業に向けて急ピッチで準備をしているところ。

まだ18歳。
まあ、失敗もするだろうなーと眺めてる。
でも、それも含めて、それでいいと思う。

自分で考え、自分で動き、(そして止まり)、この間にも、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしているが、彼は彼の人生の道を自分の足で歩いているという実感をもって一歩ずつ進んでいる。もはや、「国籍が」「出身が」「ドイツ語が」「日本語が」「親が」「学校が」・・・ではなく、「ぼくが」という主語で一日、一日を生きている。

部屋は相変わらず散らかったままだし、朝も遅いが、いつか自分で変わるだろう。
(いや、もうひとりの親をみてたらダメかもしれないが・・・それで死ぬわけではない、と思いたい。)
もう成人(ドイツは18歳で成人。16歳で地方選挙の参政権があり、お酒が買って飲める)。
彼は彼のやり方で彼の道をいく。
その背中を、これまで以上に眺めるだけになるんだろう。

もし、彼の活動に関心をもっていただいたのなら・・・以下、ぜひのぞいてみてください。
ほとんどドイツ語ですみません。
あ、そして「虫さん」たちは、だいじょうぶですよ〜。
まだ主役でないので。

■フォルクスワーゲンが作ったプロモーション動画
https://www.youtube.com/watch?v=eckzE3WO3qw

■彼らの会社Entorganicsのホームページ
https://entorganics.com/

■インスタグラム
コンサルに1日1レシピをアップするように言われてアップしてる写真
https://www.instagram.com/entorganics/


もちろん、彼は成功したわけでもなんでもなく、一歩を踏み出しただけ。
しかも多分、大失敗は織り込み済みで。
でも、彼はもう前髪のおくに隠れていない、自分の考えをもってそれを自分の言葉で表現し日々人々と関わりあっているという点で、もう心配していない。何より、彼の人生だから。


日本では、「おかれた場所で咲きなさい」という本がよく売れたという。

でも、私は全力でいいたい。
「咲けない場所からは逃げて、咲ける場所で咲くのも一つの選択肢だよ」と。

彼の話から、「あなたはあなたであっていい。あなたは違っていい。違っていることにこそ、あなたの可能性が潜んでいるかもしれない」、ということを、日本の若い人が少しでも頭の片隅においてくれればと願っている。


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彼に庭の写真を撮ってといったら、こんな感じの写真がたくさんきた。
なるほどーと。


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庭の隅々への愛が感じられる。写真をとおして、感じられて嬉しい。

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完全に野草だけど、私たちの冬の間の重要なサラダな。

*子育てという言葉はキライだけど、誰かのところに届くようにカテゴリに入れます。


by africa_class | 2019-06-04 20:09 | 【徒然】ドイツでの暮らし